【はじめに】
5月28日に重信房子氏が出所したので、予定を変更して新左翼の昔の活動と私の見立てを書きます。私は重信氏より1学年下です。『日本の活性化❸ー2 :直面している政治/経済問題』は次週投稿します。
【重信房子氏の時代】
重信房子氏の”生きざま”を理解する為には、戦後の新左翼が関連した歴史を知って頂く必要が有ると考え、以下に関連する事件を時系列に記載しておきます。
1951年に日米安保条約は締結されました、その時は反対デモは無かった様ですが、条約の改正/延長が行われた60年と70年に労働組合、野党、学生が参加した安保闘争が発生しました。 60年安保闘争から過激派による学生運動が活発になった様に思います。
1961年にケネディ氏が大統領に就任すると、ベトナムの内戦に積極的に軍事介入を始めました。 日本では1965年にベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が結成され、反戦運動が盛んになりました。 ベ平連の運動に参加していたのは平和主義者が多かったと思いますが、新左翼の活動家達も参加していました。
重信氏は明治大学で活躍していた、赤いヘルメットを着用していたグループ(共産主義者同盟赤軍派)に所属していました。重信氏は女性で若いと言うハンディが有りましたが、アジ演説を任される中心的存在になった様です。
ベ平連の運動は・その後も続き、70年に安保闘争が有りましたが、1971年に重信氏は国外に出て、日本赤軍による外国でのテロ活動を指揮しました。97年頃に密入国で日本に潜入しましたが、国内ではテロ活動は出来なかったのです。そして、2000年に逮捕されました。
★ 1922年 :共産党設立
★ 1945年8月 :終戦
★ 1945年9月28日 :重信房子氏が産まれた。
★ 1945年12月 :共産党合法化
★ 1947年 :農地解放
★ 1950年6月 :レッドパージ(共産党議員などの公職追放)
★ 1955年7月 :日本共産党・武装闘争路線の放棄→→新左翼が誕生した。
★ 1959年 :岸内閣が日米安保条約の永続化を進めた。
★ 1960年 :60年安保闘争・・・全日本学生自治会総連合
★ 1960年6月 :東大生の樺(かんば)美智子さんが死亡
★ 1963年 :中核派と革マル派が成立
★ 1965年 :ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)結成
★ 1967年 :私が大学に入学した。
★ 1969年 :大菩薩峠事件・・・赤軍派の53名が逮捕された。
★ 1970年 :70年安保闘争・・・日米安保条約の自動延長・・・ベトナム反戦運動、成田空港問題
★ 1971年2月 :重信房子氏(25歳)が出国
★ 1971年 :私が大学を卒業した。
★ 1971年5月 :日本赤軍結成・・・重信房子氏(25歳)と夫(?)・奥平剛士が結成した。
★ 1972年2月 :浅間山荘事件・・・連合赤軍
★ 1972年5月 :テルアビブ(ロッド)国際空港の乱射事件・・・日本赤軍・3名
★ 1974年 :ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)解散
★ 1974年9月 :ハーグ事件(オランダ)・・・重信房子氏(29歳)がシリアに逃亡
★ 1975年8月 :クアラルンプール事件・・・日本赤軍・5名
★ 1977年9月 :ダッカ事件・・・日本赤軍・5名
★ 1997年頃 :重信房子氏(52歳)が密入国→→「希望の21世紀」を設立→→旧社会党と接触
★ 2000年 :重信房子氏(55歳)が逮捕された。
★ 2001年 :日本赤軍解散
★ 2022年5月28日 :重信房子氏(76歳)出所
【日本の新左翼】
(既成)左翼は日本共産党と旧日本社会党のことでした。 1955年に日本共産党が武装闘争路線を放棄したので、一部の過激思想を持っていた人達(武装革命を目論んでいた人達)が『新左翼』と呼ばれた沢山の組織を作りました。
過激思想の持主達は『話し合い』が出来ません。派閥間だけでなく派閥内でも武力抗争(内ゲバ、内内ゲバ)が絶えませんでした。共産党が武装闘争路線を放棄した1955年より前から内ゲバが起こっていました。そして、2004年まで続き、沢山の活動家が亡くなりました。
【私と資本論】
高校時代に、私の友人の友人(F氏)が『資本論』をドカット持って来て、「読め」と言うのです。F氏は変人で、殆ど友達がいませんでした。私と同じクラスでは無かったし、親しくも無かったです。私を見つけると「読んだか?」と煩く聞くので、仕方なく読んでみましたが、私の考え方とは正反対の思想だったので、理解するのが難しかったので、2回読みました。読み終えると、F氏が『共産党宣言』を持って来ました。薄い本ですから、一日程で読め、内容も理解出来ました。
私は『ど田舎』の育ちです。ど田舎のメリットは『人間の観察が出来る』事だと思います。都会のマンション住まいだと、隣の一家の事が全く分かりませんが、田舎に住んだら近所の住人がドンナ人生を送って来た人か、ドンナ考えの持ち主か・・・事細かに知る事が出来ます。
❶人間は欲深い動物ですが、その欲深さが文明や技術を発展させたのだ! ❷農地を国有化して、集団で耕作すれば効率的の様に見えます。然し、気の利いた農民は工夫して人より収穫量を多くしたり、甘い果樹を作ります。❸工業でも同じで、気の利いた町工場の社長は、種々機械を改良したり、作り方を工夫して売り上げを増やそうと努力します。国有企業では技術の発展が遅れてしまいます。・・・これらが『資本論』を読んだ時の感想/反論です。
【私の大学時代】
私が教養部にいた頃、ゲバ棒(鉄パイプ)を持った活動家に時々教室が占拠されてしまいました。 その状況は2020年7月11日に投稿した『私の貧乏学生時代』に書いています。愚にも付かないアジ演説を聞いてる振りをして、色々考えました。私が考えていたことを次に書きます。
《1》 新左翼の連中は、「プロレタリアートが一致団結して革命を起こし、土地と企業を国有化して、労働者が搾取されない国家を建設する」と主張していました。プロレタリアートとは、金も資産も持たない労働者の事です。 マルクスが資本論を書いた時代には、日本を含め欧米諸国の農民と労働者の大半はプロレタリアートだったと思います。
然し、日本はでは1947年に農地解放が断行され→→小作地が農民に無償で与えられました。 家を持って、貯蓄も有る公務員や企業の労働者が増加してきていました。 年々、日本は豊かになって、自分が地主や資本家に搾取されていると悩んでいる人は殆どいなくなっていたのです。
農地解放には山林は含まれ無かったので、大山林地主は戦後も存在しました。山林労務者の中には小作地を持たない人達が結構いたので、彼らはプロレタリアートだったと思われます。然し、戦後・木材の需要が高く、価格が高騰していたので、山林労務者の賃金も改善されていました。・・・私は山村に生まれ育ったので「この間の状況」が分かっていました。 (その後、木材価格が暴落して、多くの大山林地主は没落しました。)
《2》 新左翼の活動家達は、戦後の社会/経済の変化・進歩を勉強せずに、「国民の多くが搾取されている」と思い込んでいたのだと思います。彼らが「搾取からの解放が必要だ!」と考えていたプロレタリアートは、殆ど存在していなかったのです。従って、彼らの考え方を支持する国民は殆どいなかったのです。
《3》 共産国家では民主的な選挙が成り立たないと私は考えていました。 ロシア革命後の1917年11月に、憲法制定議会の選挙を実施しましたが、社会革命党が第1党になり、レーニンが率いていたボリシェヴィキは大敗しました。 政権運営が出来なくなったと考えたレーニンは「憲法制定議会は国家に反逆している」として解散させました。
1924年1月にレーニンが死んだあと、スターリンは独裁権力を獲得する為に、凄まじい粛正を始めました。 ソビエトは各国の共産化革命を支援する『世界革命』路線をとっていましたが、スターリンは隣国で共産運動を起こさせてソビエトに併合する『一国社会主義』路線に変更しました。 (この考え方の延長線で、プーチン氏はウクライナに侵攻したと思います。)
新左翼が政権を握ったら→→暴力で国民を支配して→→少しでも考え方の違う人間は粛正されるのは明白でした。「どういう国を作りたいのか?」活動家達は考えてもいなかった様に思えました。
(余談 :暴力と快感) ゲバ棒を振りかざして100分間も授業を妨害する輩を見て、「こいつ等は、恐怖を与えて人間を支配する事に快感を覚えているのだ!」と思いました。ゲバ棒係の下っ端は、セクトの中では、自分の意見を言う事が出来ず、積もり積もった鬱憤(うっぷん)をゲバ棒を振り回すことで晴らしていたのでしょう!
(余談 :社会主義国) 戦後・日本は資本主義の悪い点を修正して、国民皆保険制度、生活保護制度、年金制度を充実させ、自由な普通選挙と言論の自由を国民に保障した準社会主義国になりました。 マルクスは、「搾取の無い国家を実現する為には、土地と企業を国有化する事が絶対に必要だ!」と考えたのだと思いますが、「日本は血を流さないでマルクスが理想とした国家を実現したのだ!」と私は考えています。
(余談 :私の故郷) 朝鮮戦争が勃発した1950年頃から、紀州の山村の故郷でも出稼ぎが始まり、中学を卒業した男女は都会に出て親に仕送りする様になっていました。55年頃には、昔は小作人だった家でも高価なテレビを買った家が増えて来ました。60年頃には殆どの家にテレビが普及していました。(高い山が連なっていたので、アンテナを山の頂上に設置する必要があり、長いケーブルが必要でした。テレビ本体よりもケーブルの設置費の方が・何倍も高かったのです。)
今では信じて頂けない話を書きます。私が子供の頃、テレビを買うと決めたら→→電気店に相談する→→電気店が町のアンテナ業者に依頼して→→技師二人が電波測定計器を持参して、アンテナ設置場所を探す→→ケーブルを引っ張って、途中にブースター(増幅器)を設ける→→テレビに接続する。
初期の頃は、アンテナを周辺で一番高い山の頂上付近に設置していました。学校が休みの日に、私は早朝から技師達に付いて回りました。橋の袂まで降りて来て昼飯を食べながら、計器を調整していました。「おかしい!おかしい!」と言うのです。その場所に電波が沢山来ていたのです。 山の重なり具合で、低い所でも十分な電波が来ている事が分かりました。それ以来、山の中腹にアンテナを設置する様になったので、1965年頃に私の実家でもテレビが楽しめる様になりました。
【友人の自殺】
小学5年生の時に村の駐在さん(警察官)が代わりました。新しい駐在さんには、私と同い年の一人息子(MO君)がいました。直ぐに親友になりましたが、中学1年生になって直ぐに転校してしまいました。MO君と私は、同じ高校に入学しました。私の中学校から、その高校に進学したのは私だけだったので、MO君とまた親しくなりました。 MO君が住んでいた官舎は自転車で20分程の所だったので、何回か遊びに行きました。
MO君は学校の先生になるのが夢だったので、国立大学の教育学部に進学しました。当時は全国的にまだ学生運動が盛んだったので、MO君は新左翼に入ってしまったのです。警察官の父親にばれて、厳しく叱られた様でした。確か2年生の時に自殺してしまいました! 彼の訃報を聞いて、私は大ショックを受けました!
(余談 :Y君) 高校3年のクラスメートに無口で少し変人のY君がいました。 私の家は貧乏だったので、村長さんが「医学部に入ったら学費は全て村が出す」と言ってくれたので、医学部を志望していました。 裕福な家庭のY君も医学部志望だったので、時々雑談しました。Y君は見事に国立大学の医学部に合格しました。Y君も学生運動家になりましたが、勉強はした様で、留年する事無く卒業して、医者の国家試験にも合格しました。
学生運動をした為に、教授に睨まれてて大学には残れ無かった様です。当時・日本には殆ど研究者のいない分野の研究を、公立の研究所を渡り歩いて続けていました。40歳過ぎに私の母校の大学で教授になりました。医学部では無く、理学部の教授で、結局医者の仕事はやらなかった様です。
半月ほど前に大阪で高校のミニ同窓会を(Y君を含め)四人でやりました。Y君は10年ほど前に大学を退官して関西に帰り、現在、私立大学で講師をしています。Y君は私には(昔から何故か?)学生運動については一言も喋らないのですが、先日「資本論は読んだか?」聞いてみましたが、お茶を濁されました。
【左翼の友人】
大学の教養部では、工学部で入学した学生・約40人を1グループにして数学や物理等の必須科目の授業を受ける様になっていました。私の所属したグループに新左翼(M君)、共産党の『民青』(S君)、家族全員が天皇崇拝者(K君)がいました。
M君は偶(たま)にしか授業に出て来ませんでした。 出席した時・皆で、彼の考え方を聞こうと話し掛けましたが、殆ど無言でした。思想なんか持っていなかった様に見えました。 M君は留年して、結局卒業出来なかった様でした。
当時・民青は会員数が多く、活発に活動していましたが、S君は授業には出ていた様に記憶しています。私はS君に資本論についての意見を聞こうと近づきました。S君は資本論を読んでいませんでした。それ以来、S君とは雑談する様になりました。S君は1年生を留年してしまい、2年目が始まったころ、クラブのバーテンダーのアルバイトを始め、直ぐに店の女性と同棲する様になりました。
卒業式まで10日程に迫った時、S君が研究室に私を訪ねて来ました。「教養部を4年間で脱出出来なかったので、退学になった。クラブのオーナーから店長になれと言われている」・・・と言う様な話を寂しそうな顔をして言いました。S君は真面目人間だったので、幸せな人生を送ったのでは?と想像しています。
(余談 :K君の思い出) 大学の工学部は山の上に有り、K君の下宿は尾根づたいに徒歩20分弱だったので、何回か遊びに行きました。K君の実家は競馬の『桜花賞』で有名な競馬場まで徒歩10分位の住宅街に有りました。この競馬場の芝生部は公園になっていて、誰でも自由に入れました。 好天だったので二人で暫く寝ころんだ記憶が有ります。 一家で毎年・『参賀』に行くと言っていたのですが、客間に両陛下の写真を飾っていました。
【デモに参加した経験】
私の家は貧乏だったので、大学の寮に入ろうか?と考え、寮を見に行きました。寮費は格安でしたが、ボロボロの酷い建物で、「五、六人の大部屋だ」と聞いて止めました。
前述の教養部のグループに、学生寮に入ったのが一人(A君)いました。寮は学生運動家の溜まり場になっていました。A君が、「六人部屋だのに、寮内で3人以上集まって会話することが禁止になる」と愚痴りました。
グループに、貧しい御婆さんに育てられた頭の良いT氏がいました。 高校卒業後10年間ほど土木工事現場で働いて、大学4年間に必要な学費を貯めたそうです。苦労した証か?、白髪がかなりありました。 考え方がしっかりしていて、グループの皆から一目置かれた存在でした。
T氏が、「寮内の会話規制に反対するデモをしよう!」と言い出し、他のグループにも働き掛けて、警察からデモノの許可を貰って来ました。仙台市の繁華街のデモに私も参加しました。私達は手ぶらで、シュプレヒコールを繰り返しただけのデモでしたが、道の両側に機動隊が整列し、通行人から見えない様にして、棍棒とブーツで殴ったり,、蹴とばしたしました。参加者全員、腰から下が”青あざ”だらけになっていました。私は二度とデモには参加しませんでした。
5月28日に重信房子氏が出所したので、予定を変更して新左翼の昔の活動と私の見立てを書きます。私は重信氏より1学年下です。『日本の活性化❸ー2 :直面している政治/経済問題』は次週投稿します。
【重信房子氏の時代】
重信房子氏の”生きざま”を理解する為には、戦後の新左翼が関連した歴史を知って頂く必要が有ると考え、以下に関連する事件を時系列に記載しておきます。
1951年に日米安保条約は締結されました、その時は反対デモは無かった様ですが、条約の改正/延長が行われた60年と70年に労働組合、野党、学生が参加した安保闘争が発生しました。 60年安保闘争から過激派による学生運動が活発になった様に思います。
1961年にケネディ氏が大統領に就任すると、ベトナムの内戦に積極的に軍事介入を始めました。 日本では1965年にベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が結成され、反戦運動が盛んになりました。 ベ平連の運動に参加していたのは平和主義者が多かったと思いますが、新左翼の活動家達も参加していました。
重信氏は明治大学で活躍していた、赤いヘルメットを着用していたグループ(共産主義者同盟赤軍派)に所属していました。重信氏は女性で若いと言うハンディが有りましたが、アジ演説を任される中心的存在になった様です。
ベ平連の運動は・その後も続き、70年に安保闘争が有りましたが、1971年に重信氏は国外に出て、日本赤軍による外国でのテロ活動を指揮しました。97年頃に密入国で日本に潜入しましたが、国内ではテロ活動は出来なかったのです。そして、2000年に逮捕されました。
★ 1922年 :共産党設立
★ 1945年8月 :終戦
★ 1945年9月28日 :重信房子氏が産まれた。
★ 1945年12月 :共産党合法化
★ 1947年 :農地解放
★ 1950年6月 :レッドパージ(共産党議員などの公職追放)
★ 1955年7月 :日本共産党・武装闘争路線の放棄→→新左翼が誕生した。
★ 1959年 :岸内閣が日米安保条約の永続化を進めた。
★ 1960年 :60年安保闘争・・・全日本学生自治会総連合
★ 1960年6月 :東大生の樺(かんば)美智子さんが死亡
★ 1963年 :中核派と革マル派が成立
★ 1965年 :ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)結成
★ 1967年 :私が大学に入学した。
★ 1969年 :大菩薩峠事件・・・赤軍派の53名が逮捕された。
★ 1970年 :70年安保闘争・・・日米安保条約の自動延長・・・ベトナム反戦運動、成田空港問題
★ 1971年2月 :重信房子氏(25歳)が出国
★ 1971年 :私が大学を卒業した。
★ 1971年5月 :日本赤軍結成・・・重信房子氏(25歳)と夫(?)・奥平剛士が結成した。
★ 1972年2月 :浅間山荘事件・・・連合赤軍
★ 1972年5月 :テルアビブ(ロッド)国際空港の乱射事件・・・日本赤軍・3名
★ 1974年 :ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)解散
★ 1974年9月 :ハーグ事件(オランダ)・・・重信房子氏(29歳)がシリアに逃亡
★ 1975年8月 :クアラルンプール事件・・・日本赤軍・5名
★ 1977年9月 :ダッカ事件・・・日本赤軍・5名
★ 1997年頃 :重信房子氏(52歳)が密入国→→「希望の21世紀」を設立→→旧社会党と接触
★ 2000年 :重信房子氏(55歳)が逮捕された。
★ 2001年 :日本赤軍解散
★ 2022年5月28日 :重信房子氏(76歳)出所
【日本の新左翼】
(既成)左翼は日本共産党と旧日本社会党のことでした。 1955年に日本共産党が武装闘争路線を放棄したので、一部の過激思想を持っていた人達(武装革命を目論んでいた人達)が『新左翼』と呼ばれた沢山の組織を作りました。
過激思想の持主達は『話し合い』が出来ません。派閥間だけでなく派閥内でも武力抗争(内ゲバ、内内ゲバ)が絶えませんでした。共産党が武装闘争路線を放棄した1955年より前から内ゲバが起こっていました。そして、2004年まで続き、沢山の活動家が亡くなりました。
【私と資本論】
高校時代に、私の友人の友人(F氏)が『資本論』をドカット持って来て、「読め」と言うのです。F氏は変人で、殆ど友達がいませんでした。私と同じクラスでは無かったし、親しくも無かったです。私を見つけると「読んだか?」と煩く聞くので、仕方なく読んでみましたが、私の考え方とは正反対の思想だったので、理解するのが難しかったので、2回読みました。読み終えると、F氏が『共産党宣言』を持って来ました。薄い本ですから、一日程で読め、内容も理解出来ました。
私は『ど田舎』の育ちです。ど田舎のメリットは『人間の観察が出来る』事だと思います。都会のマンション住まいだと、隣の一家の事が全く分かりませんが、田舎に住んだら近所の住人がドンナ人生を送って来た人か、ドンナ考えの持ち主か・・・事細かに知る事が出来ます。
❶人間は欲深い動物ですが、その欲深さが文明や技術を発展させたのだ! ❷農地を国有化して、集団で耕作すれば効率的の様に見えます。然し、気の利いた農民は工夫して人より収穫量を多くしたり、甘い果樹を作ります。❸工業でも同じで、気の利いた町工場の社長は、種々機械を改良したり、作り方を工夫して売り上げを増やそうと努力します。国有企業では技術の発展が遅れてしまいます。・・・これらが『資本論』を読んだ時の感想/反論です。
【私の大学時代】
私が教養部にいた頃、ゲバ棒(鉄パイプ)を持った活動家に時々教室が占拠されてしまいました。 その状況は2020年7月11日に投稿した『私の貧乏学生時代』に書いています。愚にも付かないアジ演説を聞いてる振りをして、色々考えました。私が考えていたことを次に書きます。
《1》 新左翼の連中は、「プロレタリアートが一致団結して革命を起こし、土地と企業を国有化して、労働者が搾取されない国家を建設する」と主張していました。プロレタリアートとは、金も資産も持たない労働者の事です。 マルクスが資本論を書いた時代には、日本を含め欧米諸国の農民と労働者の大半はプロレタリアートだったと思います。
然し、日本はでは1947年に農地解放が断行され→→小作地が農民に無償で与えられました。 家を持って、貯蓄も有る公務員や企業の労働者が増加してきていました。 年々、日本は豊かになって、自分が地主や資本家に搾取されていると悩んでいる人は殆どいなくなっていたのです。
農地解放には山林は含まれ無かったので、大山林地主は戦後も存在しました。山林労務者の中には小作地を持たない人達が結構いたので、彼らはプロレタリアートだったと思われます。然し、戦後・木材の需要が高く、価格が高騰していたので、山林労務者の賃金も改善されていました。・・・私は山村に生まれ育ったので「この間の状況」が分かっていました。 (その後、木材価格が暴落して、多くの大山林地主は没落しました。)
《2》 新左翼の活動家達は、戦後の社会/経済の変化・進歩を勉強せずに、「国民の多くが搾取されている」と思い込んでいたのだと思います。彼らが「搾取からの解放が必要だ!」と考えていたプロレタリアートは、殆ど存在していなかったのです。従って、彼らの考え方を支持する国民は殆どいなかったのです。
《3》 共産国家では民主的な選挙が成り立たないと私は考えていました。 ロシア革命後の1917年11月に、憲法制定議会の選挙を実施しましたが、社会革命党が第1党になり、レーニンが率いていたボリシェヴィキは大敗しました。 政権運営が出来なくなったと考えたレーニンは「憲法制定議会は国家に反逆している」として解散させました。
1924年1月にレーニンが死んだあと、スターリンは独裁権力を獲得する為に、凄まじい粛正を始めました。 ソビエトは各国の共産化革命を支援する『世界革命』路線をとっていましたが、スターリンは隣国で共産運動を起こさせてソビエトに併合する『一国社会主義』路線に変更しました。 (この考え方の延長線で、プーチン氏はウクライナに侵攻したと思います。)
新左翼が政権を握ったら→→暴力で国民を支配して→→少しでも考え方の違う人間は粛正されるのは明白でした。「どういう国を作りたいのか?」活動家達は考えてもいなかった様に思えました。
(余談 :暴力と快感) ゲバ棒を振りかざして100分間も授業を妨害する輩を見て、「こいつ等は、恐怖を与えて人間を支配する事に快感を覚えているのだ!」と思いました。ゲバ棒係の下っ端は、セクトの中では、自分の意見を言う事が出来ず、積もり積もった鬱憤(うっぷん)をゲバ棒を振り回すことで晴らしていたのでしょう!
(余談 :社会主義国) 戦後・日本は資本主義の悪い点を修正して、国民皆保険制度、生活保護制度、年金制度を充実させ、自由な普通選挙と言論の自由を国民に保障した準社会主義国になりました。 マルクスは、「搾取の無い国家を実現する為には、土地と企業を国有化する事が絶対に必要だ!」と考えたのだと思いますが、「日本は血を流さないでマルクスが理想とした国家を実現したのだ!」と私は考えています。
(余談 :私の故郷) 朝鮮戦争が勃発した1950年頃から、紀州の山村の故郷でも出稼ぎが始まり、中学を卒業した男女は都会に出て親に仕送りする様になっていました。55年頃には、昔は小作人だった家でも高価なテレビを買った家が増えて来ました。60年頃には殆どの家にテレビが普及していました。(高い山が連なっていたので、アンテナを山の頂上に設置する必要があり、長いケーブルが必要でした。テレビ本体よりもケーブルの設置費の方が・何倍も高かったのです。)
今では信じて頂けない話を書きます。私が子供の頃、テレビを買うと決めたら→→電気店に相談する→→電気店が町のアンテナ業者に依頼して→→技師二人が電波測定計器を持参して、アンテナ設置場所を探す→→ケーブルを引っ張って、途中にブースター(増幅器)を設ける→→テレビに接続する。
初期の頃は、アンテナを周辺で一番高い山の頂上付近に設置していました。学校が休みの日に、私は早朝から技師達に付いて回りました。橋の袂まで降りて来て昼飯を食べながら、計器を調整していました。「おかしい!おかしい!」と言うのです。その場所に電波が沢山来ていたのです。 山の重なり具合で、低い所でも十分な電波が来ている事が分かりました。それ以来、山の中腹にアンテナを設置する様になったので、1965年頃に私の実家でもテレビが楽しめる様になりました。
【友人の自殺】
小学5年生の時に村の駐在さん(警察官)が代わりました。新しい駐在さんには、私と同い年の一人息子(MO君)がいました。直ぐに親友になりましたが、中学1年生になって直ぐに転校してしまいました。MO君と私は、同じ高校に入学しました。私の中学校から、その高校に進学したのは私だけだったので、MO君とまた親しくなりました。 MO君が住んでいた官舎は自転車で20分程の所だったので、何回か遊びに行きました。
MO君は学校の先生になるのが夢だったので、国立大学の教育学部に進学しました。当時は全国的にまだ学生運動が盛んだったので、MO君は新左翼に入ってしまったのです。警察官の父親にばれて、厳しく叱られた様でした。確か2年生の時に自殺してしまいました! 彼の訃報を聞いて、私は大ショックを受けました!
(余談 :Y君) 高校3年のクラスメートに無口で少し変人のY君がいました。 私の家は貧乏だったので、村長さんが「医学部に入ったら学費は全て村が出す」と言ってくれたので、医学部を志望していました。 裕福な家庭のY君も医学部志望だったので、時々雑談しました。Y君は見事に国立大学の医学部に合格しました。Y君も学生運動家になりましたが、勉強はした様で、留年する事無く卒業して、医者の国家試験にも合格しました。
学生運動をした為に、教授に睨まれてて大学には残れ無かった様です。当時・日本には殆ど研究者のいない分野の研究を、公立の研究所を渡り歩いて続けていました。40歳過ぎに私の母校の大学で教授になりました。医学部では無く、理学部の教授で、結局医者の仕事はやらなかった様です。
半月ほど前に大阪で高校のミニ同窓会を(Y君を含め)四人でやりました。Y君は10年ほど前に大学を退官して関西に帰り、現在、私立大学で講師をしています。Y君は私には(昔から何故か?)学生運動については一言も喋らないのですが、先日「資本論は読んだか?」聞いてみましたが、お茶を濁されました。
【左翼の友人】
大学の教養部では、工学部で入学した学生・約40人を1グループにして数学や物理等の必須科目の授業を受ける様になっていました。私の所属したグループに新左翼(M君)、共産党の『民青』(S君)、家族全員が天皇崇拝者(K君)がいました。
M君は偶(たま)にしか授業に出て来ませんでした。 出席した時・皆で、彼の考え方を聞こうと話し掛けましたが、殆ど無言でした。思想なんか持っていなかった様に見えました。 M君は留年して、結局卒業出来なかった様でした。
当時・民青は会員数が多く、活発に活動していましたが、S君は授業には出ていた様に記憶しています。私はS君に資本論についての意見を聞こうと近づきました。S君は資本論を読んでいませんでした。それ以来、S君とは雑談する様になりました。S君は1年生を留年してしまい、2年目が始まったころ、クラブのバーテンダーのアルバイトを始め、直ぐに店の女性と同棲する様になりました。
卒業式まで10日程に迫った時、S君が研究室に私を訪ねて来ました。「教養部を4年間で脱出出来なかったので、退学になった。クラブのオーナーから店長になれと言われている」・・・と言う様な話を寂しそうな顔をして言いました。S君は真面目人間だったので、幸せな人生を送ったのでは?と想像しています。
(余談 :K君の思い出) 大学の工学部は山の上に有り、K君の下宿は尾根づたいに徒歩20分弱だったので、何回か遊びに行きました。K君の実家は競馬の『桜花賞』で有名な競馬場まで徒歩10分位の住宅街に有りました。この競馬場の芝生部は公園になっていて、誰でも自由に入れました。 好天だったので二人で暫く寝ころんだ記憶が有ります。 一家で毎年・『参賀』に行くと言っていたのですが、客間に両陛下の写真を飾っていました。
【デモに参加した経験】
私の家は貧乏だったので、大学の寮に入ろうか?と考え、寮を見に行きました。寮費は格安でしたが、ボロボロの酷い建物で、「五、六人の大部屋だ」と聞いて止めました。
前述の教養部のグループに、学生寮に入ったのが一人(A君)いました。寮は学生運動家の溜まり場になっていました。A君が、「六人部屋だのに、寮内で3人以上集まって会話することが禁止になる」と愚痴りました。
グループに、貧しい御婆さんに育てられた頭の良いT氏がいました。 高校卒業後10年間ほど土木工事現場で働いて、大学4年間に必要な学費を貯めたそうです。苦労した証か?、白髪がかなりありました。 考え方がしっかりしていて、グループの皆から一目置かれた存在でした。
T氏が、「寮内の会話規制に反対するデモをしよう!」と言い出し、他のグループにも働き掛けて、警察からデモノの許可を貰って来ました。仙台市の繁華街のデモに私も参加しました。私達は手ぶらで、シュプレヒコールを繰り返しただけのデモでしたが、道の両側に機動隊が整列し、通行人から見えない様にして、棍棒とブーツで殴ったり,、蹴とばしたしました。参加者全員、腰から下が”青あざ”だらけになっていました。私は二度とデモには参加しませんでした。