美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎⇔美津島明 対話篇・第二弾 Ⅰ  (イザ!ブログ 11・11~14 掲載)

2013年12月03日 08時29分17秒 | 対話
美津島明様 ( 平成24年6月14日発信)

対話篇を再開しましょう。お忙しいでしょうから、お返事はゆっくりでけっこうですよ。

ブログ「『ふしぎなキリスト教』を読む・その1」(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/1e79ada1ec92796423144a1278f7a342)を読みました。的確な要約に感心するとともに、小生の発言を過分に取り上げていただき、感謝します。ここで簡略化して言われていることに私も同感です。

著者の橋爪さんは、学者としての良心・役割を一歩も踏み外さない職業倫理の厳しい人であるため、「違い」を大切にするのだと思います。これに対して長谷川三千子さん(彼女を巻き込むことが適切かどうか、少し迷いますが)や私は、人間存在とは何かという問題に関心が向くため、どうしても共通点のほうを強調したくなる傾きがあるのでしょう。学者と思想者の観点の違いといってもいいかもしれません。両者、相補って知的探求の姿がより豊かなものとなると思うので、本音としては橋爪さんと議論したい気持ちが多々あるのですが、まあ、それぞれの道を行けばいいのではないか、と思っています。

長谷川さんが、哲学は一貫して「存在」を問題にしてきたが、宗教(特にキリスト教)は超越的な創造者を立てるので、ついに折り合わないと指摘されていたのは、面白いですね。これは、長谷川さんご自身の思索上のアイデンティティが、やはり哲学にあるのだな、ということを感じさせて印象的でした。

ただ、「哲学」というとき、この出自はどうしても古代ギリシャ以来の西洋の思考様式を指していて、インド哲学とか、東洋哲学とかいう言葉は、あとから無理に作った言葉ですから、こちらは厳密にいえば「哲学」ではないのですね。しかと規定することはできませんが、こちらの思考様式は、いわゆる西洋哲学とはまったく違うということは、私でも何となくわかります。矛盾するようですが、ここではむしろ、まず違いを確認していくほうが大切のように思います。宗教という括りの内部では共通点を見出し、哲学という言葉(思考様式)はヨーロッパ・ローカルであることを強調する、こういう構えが当面必要であるような気がします。

これまでの対話では、日本語の問題について話してきましたね。これもそういう確認の試みのひとつとみなすことができそうです。

ここから一気に話題を、ここ数日間の私的な心境というところに飛躍させます。

紫陽花が美しい季節ですね。今年は桜も素晴らしかったですが、紫陽花の美しさに目を奪われる思いです。私は淡紅色の紫陽花はあまり好きではなく、なんといっても青いほうが好きです。

それで、へたくそな歌が口をついて出てきましたので、恥ずかしいですがご披露します。ご笑覧ください。年甲斐もなくちょっと「スケベ」な歌です(笑)。

紫陽花三首

・紫陽花のうつくしきとし われもまた 何かあらむと待ち望みけり

・紫陽花の雨にしたしむあをき影 そのたたずまひ身にまとひたし

・紫陽花のさかりのころに逢ひしひと いまいづこにてときを過ごさむ

こう詠んでみると、つくづく自分のなかのナルシシズムを感じます。また、私はけっこう女性的なのだなとも。

ちなみに紫陽花の花言葉は、「執念深い、しつこい」だったと記憶します。開花期間がとても長いからだそうです。

ところで、親鸞・唯円をやっていて(『新訳 歎異抄』PHP新書 古典の名著シリーズhttp://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/be020a30f29ae588a1f538104d853d83)、また同時に日本語の問題を考えていて、最近、「えにし」「縁」「ご縁」という言葉の独特なニュアンスがしきりと気になります。ご承知のように、親鸞の場合、「わが心のよくて殺さぬにはあらず」、つまり、自由意志でなせることなどたかが知れていて、すべては業縁であり、機縁であるという人間認識が徹底していますね。

この「縁」という言葉、ふしぎな含みと拡がりがあって、印欧語では適訳が見つかりません。connection、bond、relation――どれもだめです。なぜなら、これらの語群は、すべて人間同士の具体的な「つながり」を意味しているにすぎませんから(時には「契約関係」を意味します!)。

ではchanceならどうかというと、今度は逆に、単なる偶然の機会という感じがして物足りません。いずれにしても、ひとがあるつながりを持つに至った、人知を超えた力のようなものを表現することができていないのですね。

先日も、飲み屋ではじめて知り合った人から、ある病をいかに克服したかという体験談を聞き、この話が、私の身内に関係があるので、とても助かりました。私はちょっと急いでいたので、深謝してそそくさと別れたのですが、そのとき先方から「またご縁がありましたら」と言われて、そのご挨拶の絶妙さに感じ入ってしまったのです。いいですね、こういう別れの挨拶って。

こういう使い方は、英語ではできないのではないでしょうか。If we could have a chance to meet again.とでも言うのかな。なんだか味気ないですね。

「ご縁がありましたら」という挨拶には、ひととひととの出会いの中にあらかじめ込められている哀しみのようなものがしっかりと表現されていますね。「縁あってこういうことになり」「これも何かのご縁というものでしょう」「えにしあらば再びあいまみえん」「袖ふれあうも他生の縁」……

先に貴兄が印欧語の限界、日本語との断絶感を指摘されて、私はむしろそれをたしなめるような偉そうなことを言ったのですが、今度は反対に、こちらが異言語間にある断絶に対するいらだたしさを表明する立場になってしまいました。

もう少し「縁」について考えるところを述べます。

この言葉は、偶然性とも必然性とも違います。両方の対概念を同時に含みこんでいるような気がするのです。

たとえば、凶悪犯罪の現場を目撃すれば、私たちは、「偶然そこに居合わせた」と言いますが、果たしてそう割り切って済ませられるでしょうか。何となく感情が逆らいますよね。では、逆に、「それは私たちの視野にかぎりがあるから偶然と見えるだけで、じつは神が引き合わせたのであり、すべてがお見通しの神にとっては何もかも必然なのだ」と、スピノザのように言えば納得するかというと、これもちがうような気がする。「縁」としかいいようがないのではないでしょうか。

なぜ私はここに存在しているのか。それは私の両親が見合い結婚したからだ。では両親はなぜ見合い結婚することになったのか。それは両方を知っている仲人がいたからだ。ではなぜ仲人はそれぞれを知ったのか。それは新婦の父が彼の友人で、新郎が彼の部下だったからだ。では、新婦の父はなぜ彼と友人になったのか。それは中学校時代に同級生だったからだ。ではなぜ二人は同じ中学校に通うことになったのか。それはたまたま近隣地区に住んでいたからだ。ではなぜ二人は近隣地区に住むようになったのか。それはそれぞれの生活事情と家族の歴史があって偶然そういうことになったのだ……

このように、過去のいきさつを合理的な理路によってたどる方法だと、最終的には「偶然」の概念に逢着して、砂に水がしみこむような茫洋たる感覚に襲われて終わりです。

しかし「それは縁というものだ」と言いきりますと、七面倒くさい理路をたどる必要などなく、むしろ深く納得するところがあるのではないでしょうか。この納得感は、どこからやってくるのか。「縁」という言葉の概念をうまく言いあらわすことはできないものか。

ひとつ考えられるのは、この言葉には、過去のいきさつだけではなく、未来に必ずやって来る別離の予感が繰り込まれているのではないかということです。人はすべて死ぬのだという自覚(さとり)が、生活実感のなかにすでにつねに深く沁み込んでいるのですね。だからこそ「他生の縁」というように、前世や後世をはるかに臨みみる視線も生れてくるのだと思うのです。

自分の勝手な関心を長々と述べました。私の言葉に「縁」を感じられたら、何ほどかのお言葉をお返しください。

*****

小浜逸郎様    (発信日 6月23日)


返事、遅れてしまってすみません。

先日お話した(送信するメールの原稿が消えてしまったという)アクシデントも原因と言えば原因なのですが、基本的には、ブログにかかりっきりで、ほかのことに注意を振り向ける精神的な余裕があまりないという状態が続いているということなのでしょう。

特に、最近は消費増税をめぐる政局が風雲急を告げているので、注目している人物や政党の動向をブログやツイッターやネット・ニュースなどで探っているとあっという間に時間が過ぎていってしまいます。このままでは消費税オタクになってしまいそうです(*´∀`*)。

思えば、たまたま由紀草一さんから「美津島さん、ブログをやってみたら」とアドバイスを受けたのがこの道に入り込んだきっかけでした。それと小浜さんのさりげない励ましが大きいですね。まあ、やれるところまでやってみます。

話題を移しましょう。

小浜さんの短歌三首、拝見いたしました。とてもいい感じです。僭越な言い方になりますが、前回からの進歩が見受けられます。

・紫陽花のうつくしきとし われもまた 何かあらむと待ち望みけり

・紫陽花の雨にしたしむあをき影 そのたたずまひ身にまとひたし

・紫陽花のさかりのころに逢ひしひと いまいづこにてときを過ごさむ

こころは流れるものであり、つねに動いているものであり、刻々と変わりゆくものである。それは、さかしらを排したなおきこころに自ずと開示される。そういう意味のことを、本居宣長は、いろいろなところでくりかえし言っています。

これは、歌の本義でもあると思われます。それにかなった、芳しい情趣が上の三首から感じられます。私は、短歌の専門家ではありませんが、それほどトンチンカンなことを言っていない気がします。

歌人は、近所の公園でも歩いているのでしょうか。物静かなたたずまいが感じられるのでおそらくひとりなのでしょう。ふと紫陽花が目にとまります。時期的なことを考えれば六分咲きくらいでしょうか。その青くて小さな花びらが楚々と群れ咲く様に、歌人の心は引き寄せられます。ここからおもむろに歌人のこころは、いまここにある紫陽花を遠く離れて、時空の限界の向こう側に軽々と飛翔します。そうしてまた、いまここにある紫陽花にもどって来ます。その時空の往還のさ中で、紫陽花をめぐるいくつかのイメージが湧きおこり、歌人はそれらを次々に言の葉で紡ごうとします。

これらの一連の流れを、われわれはどう理解したら、うまく言い当てたことになるのでしょうか。

歌人は、自分の「主観」を紫陽花という「客観」によって表現したのだ、という言い方は、事態を不器用に強引に表現しているだけです。

では、大森荘蔵のように、歌人に紫陽花が立ち現れていることがすべてで、それよりほかに、歌人の心などというものはないと納得してしまえるでしょうか。歌人は、そう言われてもおそらく納得しないでしょう。

では、小林秀雄のように「紫陽花の美しさなんてものはない。美しい紫陽花があるだけだ」と言ってしまえばよいのでしょうか。これはかなりいい線を行っているように感じられます。が、その半歩手前に踏みとどまって、もう少し細やかに言い表すことができないものでしょうか。

歌人にとって目の前の紫陽花は、前言語的な情趣をたたえて存在しています。その情趣に歌人はわれ知らず参画するうちに、そこに含まれる言語化の契機に触れることになります。

人によっては、紫陽花を見かけても素通りしてしまうでしょう。ちょっと立ち止まって、「ほお」と嘆声を上げる人もいるでしょう。一緒に散歩している相手に「ほら、きれいだね」と語りかける人もいるでしょう。歌人は、それらの全ての言語化の可能性のなかで、三十一文字に結晶化するというかなり高度な言語化に向けてその存在を投げ入れることにしました。

さらに、それを知り合いに見せます。見せられた知り合いは知り合いで、歌人の意を目がけながら、彼なりのパロールを展開することに自己投企します。

私は、なにが言いたいのか。

この世のあらゆる存在物は(とりわけ女性は)、なにかしらの前言語的な情趣をたたえて存在している。その情趣にわれ知らず触れることで、人は不可避的にそこに含まれる言語化のあらゆる可能性のどこかに自己を投企せざるを得ない。そのことを紫陽花の歌人は喚起させるのです。(素通りは、言語化の欠如態と位置づけることができるでしょう。)

つまり、ここには言語現象という目には見えない心的諸運動が、広義の表現主体において鳴門海峡の大小の渦のようにあちらこちらで無数に生まれ、拡大し、共鳴している様が広がっているように私には感じられます。

この世界イメージを片時も忘れなければ、そこから「主観」「客観」というツールを取り出すことには一定の限られた有効性を認めるにしても、まさか、それらの言葉でこの世界に起こっている事態の総体をうまく言い当てることができるなどとは夢にも思わないでしょう。

また、大森荘蔵が、「主観」「客観」の二分法から超出する試みに無残にも失敗したのは、世界を言語現象として捉え切るという透徹した視点が欠如していたからなのではないかと思われるのですが、いかがでしょう。私が読んだ大森本はせいぜい三、四冊なので、断言はできないのですけれど。小林秀雄から、「全集を読みなさい」と説教されてしまいそうで
すね。

ここからは、橋爪的主題にご登場願います。

橋爪さんによれば、日本人は近代化を成し遂げた今日においても、森羅万象にその数だけの神様を感じる神道的な感性を保存している珍しい民族です。それを、良いとか悪いとか言ってみても始まりません。私は、橋爪さんの言っていることが、どうも当たっているような気がするのですね。
それに関連して、私は「『ふしぎなキリスト教』を読む」という投稿で、次のように申し上げました。

橋爪氏が指摘しているように、近代化を経てもなお、この世界のあらゆるものにその数だけの神を感じる神道的な感性を保存している日本人は、西欧的な基準からすれば、決して無神論者になりえません。それは、橋爪氏が言う通り弱点にもなりえますが、西欧近代の無神論がもたらすニヒリズムを緩和する可能性もあるのではないでしょうか。

これを哲学の分野に移し替えると、どうなるか。キリスト教的な感性からすれば、神が不在となった世界という「空家」=客観のなかで、主権者となった人間は主観に押し込められることになります。近代西欧哲学を根のところで規定してきた主観・客観の二分法が、キリスト教的な感性に基づく思考の枠組みであることが分かりますね。

それに対して、この世界のあらゆるものにその数だけの神を感じる神道的な感性にとって、主観からくっきりと区別された客観は存在しないし、逆に、客観からくっきりと区別された主観も存在しません。そこに、主観と客観とが交流する形容詞的世界が像を結ぶことになりますね。


やや日本人として「内輪ぼめ」の疑いのある記述ですけれど、事の当否はとりあえず措きます(よろしければ大いにツッコミを入れてください)。ここで言いたかったことを、言葉を変えてもう一度言い直してみましょう。

確か、竹田青嗣さんが、われわれは世界を解釈する以前にすでに感じ取ってしまっているのだ、という言い方を『エロスの世界像』あたりでしていたと記憶しています。

世界をどう感じ取るかという直観に、橋爪流の「宗教」が大きな影を落としているのではないかと私は考えるのです。つまり、ここで「宗教」とは、共同幻想としての感性の様式のことです。唯物論めかして言えば、文化の創出装置それ自体です。神を信じるかどうかという意識の次元ではなく、森羅万象をどう感じ取るかという感性の様式の共同性の次元は、

今日においても大きな影響をそれぞれの文化に根のところで与え続けているのではないかと思われます。そこに、表立った信仰が薄れたと言われている現代社会においても、宗教について考え、論じる意義の核心があるのではないでしょうか。宗教論は、展開のしようによっては、自己認識を拡張する大きな武器になりうるようです。

話が大きくなりすぎたので、日本語の問題に絞ります。

「言霊」という言い方がありますね。これは、橋爪流の、『森羅万象にその数だけの小さな神を見出す「神道」的感性』で言葉をとらえることによって、日本文化において自ずと生み出された世界説明の一種です。近代言語学の成果によって、これを非科学的な迷信と一笑に付すのは簡単です。しかし、それで問題が終わるわけではありません。

先ほど申し上げた、感性の様式の共同性の次元において、われわれ日本人は、一人残らずいまだに言霊信仰者です。

言霊信仰者にとっては、言=事です。だから、彼らは「良き言の葉は良きものを招き、悪き言の葉は災いを招く」という観念のとらわれ人となります。私を含めて日本人はTPOをわきまえないKY発言をとても嫌がります。小浜さんはどうですか。まったく平気ですか。平気でなければ、小浜さんもやはりかなりの言霊信仰者である、ということになります(笑)。これはほんの一例です。まあ、それを慣習の力と呼んでも一向に差し支えないのですが。それに逆らうことは、普通の人にとってはけっこうなストレスになりますよね。

さらに言い募れば、理屈抜きの慣習の力とは、人倫を支えているものです(これは小浜さんや和辻から学んだことです)。先ほど申し上げたように、日本人にとって、言霊信仰は慣習の核心の少なくともひとつを成しています。とすると、日本人にとって、言霊信仰は人倫を支えている重要なファクターとして無視しえないものである、ということになりませんか?

私は、(駆け足ですが)やっと「縁」という言葉に触れるところまでたどり着くことができました。

「縁」の「エン」という読みは音読みです。訓読みはありません。「えにし」という読み方は、音読みの「エン」の日本語化した字音の「えに」に強意の助詞「し」がつくことで成立しました(by 辞書)。

素人考えですが、そこから察するに、もともと日本には「縁」なる言葉はなかったようです。「きずな」とか「つながり」などという言葉は和語ですから、もともと日本にあったことばなのでしょうが。

とすれば、縁は仏語として中国から入ってきた。つまりもともとは純粋の外来語・外来思想なのです。

一時期原始仏教を集中的にかじった経験があるので、それのうろ覚えで、ちょっと偉そうに薀蓄をたれます。

縁とは、原始仏教では、縁起の法として語られるものです。いわゆる因果律を前世・現世・来世を貫くものとしてとらえます。前世での悪行が縁となって、生まれ変わった現世での苦境をもたらします(娑婆苦)。そうして、煩悩具足であり続ける限り、輪廻転生を繰り返すだけで娑婆苦から永遠に脱することがかないません。その繰り返しから脱却するには、出家し修行して縁起の法の核心を直観的に掴み、悟りを開いて輪廻転生の外に超出するよりほかにありません。それが解脱です。つまり、在家には解脱の道がないのです。これが仏教のもともとの姿です。(橋爪さんにちょっと口調が似てきましたか(笑))

それが中国に移入されると、おおざっぱに言えば、在家仏教に変質します。仏教のいわゆる儒教化ですね。それと同時に、インドにおける爛熟期の仏教である密教も中国に入ってきます。

これら三つの、時期的にも地理的にも異なる仏教の流れが日本に一度にどっと押し寄せたわけです。

そのなかで原始仏典は、日本においては大蔵経として珍重され、そこに述べられている縁起の法の意味合いは、当時の高級知識人である学僧たちにきちんと理解されていました。おそらくそこいらが縁という言葉の発信源なのでしょう。

で、縁起という言葉が世間に流布するにつれて、もともとのペシミスティックな意味合いを基底にニュアンスとして残しつつ、「縁起がいい」とか「縁起が悪い」といった俗語に変化していきます。その、意味の変化のプロセスに、私は日本人の神道的な感性とか言霊信仰とかが大きく作用していると思っています。

「縁起がいい」「縁起が悪い」というのは、何かをなす初っ端に起こったちょっとした出来事で、その何かがうまくいくかどうかを判断するときに使うことばですね。場の空気の穢れにとても敏感な日本人ならではの「誤用」ですね。場の空気の穢れに敏感な姿勢は、晴れの舞台での忌み言葉を嫌うそれと全く同じであることはいうまでもないでしょう。さらに、忌み言葉を嫌う感性は、言=事の言霊信仰的なそれであることも言を俟たないでしょう。

「縁起」が「縁」に端折られてからも、そういう「誤用」「誤解」のプロセスは、同様の文化的な無意識の手続きを踏んだものと思われます。

教養の足りない学者もどきのような発言が多いメールですが、何かの話の糸口になればと思って送ります。バトンタッチです。

*****

美津島明さま           (発信日 6月26日)


ご多忙中を、時間の流れがちがうようなメッセージをお送りして、申し訳ない。それにもかかわらず、私の目下の関心に対してこれほど刺戟とヒントを与えてくれてありがとうございます。

私のへたくそな歌について、過分な評価をいただき恐縮です。

しかしそのことよりも、こんな片々たる素材をもとにして、私たちの住むこの世界と言葉との関係について、より普遍的な問題提起をされている貴兄の思想的な膂力を感じることができてとても嬉しく思いました。

こちらは、昨24日、『新訳 歎異抄』をようやく脱稿し、一息ついているところです。この原稿で扱った中身と、貴兄の今回のご指摘とは、重なるところが多いように思います。

貴兄が今回言われていることのポイントを私なりにまとめると以下のようになります。

①前言語的な情趣(世界の感じ取り方)から言語表出までの過程、またそれを受け取って情趣を共有しようとする側の過程は「言語現象」という心的諸運動としてとらえられる。

②共同幻想としての感性の様式の存在が、宗教を、今もって論ずるに値する重要な主題たらしめている。

③森羅万象に神の宿りを感じる神道的感性こそは、日本人独特の「共同幻想としての感性の様式」である。

④私たちの世界の感じ取り方を「主観、客観」に二分することはできない。しかし一方を無視して他方の概念だけに引き寄せて世界をわかったとすることもできない。

⑤日本人にとって言霊信仰は、人倫を支えている重要なファクターである。

⑥仏教由来の「縁起」の意味の変化には、場の空気の清濁に敏感な日本人の神道的な感性や言霊信仰が大きく作用している。

どれにもまったく異論がありません。加えて、これらの指摘には、日本人の世界感受のあり方について考えを発展させるための重要なヒントがいくつもあるように思います。

はじめに、私は自分を当然、言霊信仰者だと思っています。小さいころから腕力が苦手で、小学校入学の折、意味もなく私を殴ってくるやつがいたので、なんで世の中にはこんな理不尽なやつがいるんだろうと、その不可解さにとても悩んだおぼえがあります。何しろ弱虫で仕返しすることもできず、人一倍傷つきやすかったのですね。

少し長じて生意気盛りのころは、逆に言葉で相手をとても傷つけてしまったこともあり、それはそれで忘れ得ない思い出なのですが。

いまにして思えば、言葉をたよりに生きるという私の運命は、そのころから決まっていたのかもしれません。言葉を磨くことで商売ができる、時には防御攻撃の武器にすらなりうる、こういうことが可能であるこの社会にとても感謝しています。戦国時代でなくてよかった(笑)。

上記③にかかわる最近の経験をお話しましょう。

私の娘はアメリカ人と結婚していて、四歳になる女の子がひとりいるのですが、先日、その彼と孫娘と三人で公園を散歩しました。池のほとりに来たとき、亀やアヒルが見えるので、「あ、かめさんがいるね」「アヒルさんもいるよ」といったやり取りのあと、ふと思いついて、彼に、アメリカでは動物やものに「さん」をつけるような習慣があるかと聞いてみました。答えは「まれにMr.何々などということはあるが、ふつうはしない」というものでした。

日本ではこれは当たり前の習慣ですね。「アリさん」「カラスさん」「お日さま」「風さん」等々。昔母から聞いた話ですが、「豆さんを煮ましょうね」などというのもあったそうです。

こういう慣習は、宗教学的には「アニミズム」と呼ばれて、森羅万象に生きた霊を感じる自然宗教のパターンとして分類されます。しかし、そう言い切って済ませられるでしょうか。もう少し繊細な視線がほしいところです。

接頭語の「お」「ご」も日本独特ですね。「お昼になったからごはんにしましょう」「今日はご馳走だね、お茶入れてこよう」等々。「おみおつけ」に至っては、最初から三文字までが接頭語です。抽象概念にも使われるし、なんと卑猥な言葉にさえ使われます。「ご成功、おめでとうございます」「お×××」。

まあ、便宜のために仮にこれらの言語慣習をアニミズムと呼んでおきましょう。

このアニミズム的慣習は、貴兄の直観どおり、言霊信仰に通じていると私は思います。その心は、単にまわりのものごとを宗教的に畏れるというのではなく、ひと言で言えば、まず私たちは、環境のすべてを自分たちにとっての「事」として深く受容する感性を持っており、しかるのち、それを「言」にするに当たっては、指示対象を突き放さずていねいに扱うことで逆に自分たちに親しいものとする、という志向をはたらかせるのではないでしょうか。

このことが成し遂げられるとき、「言」は、それ自体として「霊」をもつことになる。なぜなら、それは表出において内に感じられる「力」をそのまま表出された「言」に託すことに成功しているからです。

上記④について。

思想家の長谷川三千子さんが、谷崎の『細雪』について卓抜な論考を書いているのを思い出しました。九月刊行予定の拙著(11月に刊行が延期された『日本の七大思想家』幻冬舎新書)で、大森荘蔵に絡めてその部分を引いたのですが、冗長を恐れて削除しました。長くなって申し訳ないですが、以下にそれを再現します。

長谷川氏はこの批評文で、寺田透の『細雪』評を引用した後、この評が「現実とは物体のことである」という、まさにデカルトに始まる近代ヨーロッパの「現実」観を前提としていると述べ、さらに次のように論を展開している。

《(引用者注――デカルトの『省察』からの引用の後)この「物体」に生命はない。あるのはただ三次元の拡がりだけである。近代ヨーロッパは、物体をかういふものと考へることで「近代科学」を持つに至つた。そしてかうした物体を「自己」といふ名の精神が眺めるとき、それが「現実」と呼ばれるのである。/したがつて近代ヨーロッパのものの考へ方は、それをどこからどう切つても、必ずこの「物体」といふ断面を見せることになる。自ら動くことなく、自らの輪郭の内にとじ込められた「物体」が、いつも「精神」の向う側にある。(中略)実際に『細雪』の文章を眺めてみると、先の批評(引用者注――寺田透の評)にあがつてゐた平安神宮の紅枝垂れ桜の眺めはこんな風に書きあらはされてゐる。

 あの、神門を入つて大極殿を正面に見、西の回廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、――海外にまでその美を謳はれて  ゐると云ふ名木の桜が、今年はどんな風であらうか、もうおそくはないであらうかと気を揉みながら、毎年回廊の門をくゞる迄はあやしく  胸をときめかすのであるが、今年も同じやうな思ひで門をくゞつた彼女達は、忽ち夕空にひろがってゐる紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様   に、「あー」と、感嘆の声を放つた。

たしかに、この長いひとつづきの文章のなかで、直接にものの姿をうつした言葉といつては、「夕空にひろがってゐる紅の雲」のひと言だけであつて、それさへもが、花であるのか雲であるのか、もののあはひの定かならざる眺めである。もしも現実が先ほどのやうな物体のことであるならば、ここには現実に似たものは何一つないと言はなければなるまい。》(『からごころ』中公叢書)《(引用者注――前の引用とは異なる花見の場面の引用の後)ここでは現実とはわれわれに向かひ合つてそこにむつつりと場所を占めてゐる何物かではなくて、われわれの頭上に拡がりわれわれを包む空間そのもののことである。》(同前)


いかがでしょうか。私はなかなかのものだと感心するのですが。

上記⑤と⑥について。

なるほど、言霊信仰は「人倫」にもかかわってくるのですね。これも深く納得できます。「人倫」というなら、絶対、和辻です(笑)。

先のメールで、「縁」という言葉には、前世、現世、後世を貫く時間概念がすでにつねに繰り込まれていて、そこにはあらかじめ感受された「別離」の哀しみのようなものが含まれているという意味のことを書いたのですが、この時間性に関しては、和辻倫理学が、「時間性と空間性の相即」という節で、透徹した人間理解を示しています。

彼は、人間を、全体から個が析出し、その個が再び全体に帰っていく無限の運動過程と捉えるのですが、この「本来性に帰還する運動としての人間」という捉え方は、「縁」「えにし」という言葉がはらんでいる時間概念に深くかかわると思うのです。彼は、進歩的な歴史観のように、時間を過去から未来へひたすら直線的に進行するというようには考えず、未来への志向もまた、たえず「帰来」するものと考えます。「本末究竟等」とも言っています。教養としては仏教の影響が強いと思いますが、よく考えると、これは日本古来の時間概念に適合するとも言えそうですね。

つまり、そもそも「時間」というように、空間からこれを分けて捉えること自体、私たちに親しい世界感受の仕方からずれてくるところがあるわけで、強いて言えば、私たちの時間概念は、たえず循環するものである、同じところをぐるぐる回っているのだ、というほうが実感に近いかもしれません。丸山眞男が捕まえようとした、「日本人の歴史観のオプティミズム」(「歴史意識の『古層』」)というのも、これに引っかかってくるような気がします。このことが、「縁」「えにし」という言葉が持つ豊かな含蓄と関係があるように思います。

「ご縁がありましたら」という別れの挨拶には、「個」としてはそのつど切れてしまって哀しいけれど、ぐるぐる回っているうちには、また会えるかもしれないという期待感も込められていますね。

それにつけて思い出すのが、「あと、さき」「まえ」という言葉の不思議さです。

私はこれらの言葉の使われ方が、論理的にはとても矛盾しているということに早い時期から疑問を抱いてきました。

これらは、空間概念にも時間概念にも使われますね。ところが、おかしなことに、「あと」という概念が時間的には、過去にも未来にも使われるし、「さき」もそうなのですね。両者は必ずしも対義語ではないのです。「まえ」は、空間的には自分の身体が直面しているあたりを指していますが、これも時間的には、過去にも未来にも使われます。

以下、例示しましょう。

・この仕事はあとにまわそう(未来)

・自分のたどってきたあとを省みると(過去)

・さきのことはわからない(未来)

・さきの大戦における(過去)

・まえを見つめて進もう(未来)

・まえにこんなことがあった(過去)

いかがですか。時間を直線的に進むものと考えると、こういう使用法は理解できないですね。でも私たち日本人は、矛盾を矛盾と感じず、平然と使いこなしています。このことは、いったいどう読み解けばよいのか。いろいろと考えてはいるのですが、まだ、明快な答えは出せません。少し「あと」にまわそうと思っています。

*****

小浜逸郎様            (発信日 7月23日)


小浜さんから返信をいただいてから、かなり時間が経っていますので、議論のポイントを再確認するため、私が申し上げたことを小浜さんから要領よくまとめていただいたものを改めて掲げます。

①前言語的な情趣(世界の感じ取り方)から言語表出までの過程、またそれを受け取って情趣を共有しようとする側の過程は「言語現象」という心的諸運動としてとらえられる。

②共同幻想としての感性の様式の存在が、宗教を、今もって論ずるに値する重要な主題たらしめている。

③森羅万象に神の宿りを感じる神道的感性こそは、日本人独特の「共同幻想としての感性の様式」である。

④私たちの世界の感じ取り方を「主観、客観」に二分することはできない。しかし一方を無視して他方の概念だけに引き寄せて世界をわかったとすることもできない。

⑤日本人にとって言霊信仰は、人倫を支えている重要なファクターである。

⑥仏教由来の「縁起」の意味の変化には、場の空気の清濁に敏感な日本人の神道的な感性や言霊信仰が大きく作用している。

小浜さんも言霊信仰者である、とうかがってなにやらほっとしました(笑)。また、上記①~⑥に対しても、基本的にはご同意いただだけたとのこと。素直に嬉しいと思います。

しかし、以上は、言ってみればメニューを並べただけのこと。本当の問題は、ここからどれだけ踏み込んだ展開ができるかということです。それぞれについて一ミリでも一センチでも先に行くことができれば、と思います。

上記③に関連して、小浜さんは次のような発言をなさっています。

まず私たちは、環境のすべてを自分たちにとっての「事」として深く受容する感性を持っており、しかるのち、それを「言」にするに当たっては、指示対象を突き放さずていねいに扱うことで逆に自分たちに親しいものとする、という志向をはたらかせるのではないでしょうか。このことが成し遂げられるとき、「言」は、それ自体として「霊」をもつことになる。なぜなら、 それは表出において内に感じられる「力」をそのまま表出された「言」に託すことに成功しているからです。

小浜さんのこの言葉を受けとめた読み手に、深い納得感が生じるのはなぜなのでしょう。それは、小浜さんが言葉を論じるにあたって、身体性の問題を片時も手放していないからではないでしょうか。

「環境のすべてを自分たちにとっての「事」として深く受容する感性」によって、「それを「言」にするに当たっては、指示対象を突き放さずていねいに扱うことで逆に自分たちに親しいものとする」という一連の流れは、身体性の深い介在なしにありえないことであるし、明示的ではありませんが、小浜さんの言葉はそういう事態をおのずと織り込んでいるように感じられるのです。

とするならば、私たち日本人は、森羅万象としての「事」を肌の温もりのある「言」として掴まえなおすことを日々繰り返していることになります。言いかえれば、「事」に血を通わすうえで、身体性を伴った「言」が大きな役割を果たしている。

だから、西洋の大文字のGODが有する抽象性を、日本のカミは鼻から持ちようがないし、人間とまったく同じように肌の温もりがあり、喜怒哀楽に左右される、いわば具象的存在である、ということになるのでは。抽象性がその精神運動上の本質において「一」に凝縮する強い傾向があるのに対して、具象性はその本質から多様性の展開を予定します。だから、日本人の宗教的感性からすれば、カミがたくさん存在するのは当たり前、ということになります。

そう考えると、法然と親鸞の思想が日本においていかにユニークであるか、驚きをもって、再認識する思いです。そのユニークさを、ちょっと刺激的な言葉を使えば、扼殺することで、真宗は後に世に流布したのではないかと思うのですが、ここは小浜さんのご意見を伺いたいところです。

また、冷徹な合理主義の経済的表現であるグローバリズムに対して、日本人がいわば本能的に身構えてしまうのは、いままで述べてきたことから、不可避であると言えるのではないでしょうか。変に無理をして、それをためらいもなく受け入れられない日本人はダメだのだといわんばかりに推進された1997年から2007年ころまでのラディカルな行政改革・構造改革は、日本人の自然体の感性を押しつぶそうとする野蛮な運動だったのではないかとあらためて思われます。変に真面目になったりせずに、適当におつきあいすればいいのです、あんなものとは。

身体性に深く根ざした「言」によって「事」に血を通わせるところに、日本人が霊力(生命力)を感じるポイントがあるのだとすれば、それとは逆に、「事」はあくまでも「事」であって、「言」はあくまでも「事」を伝えるための道具であるのに過ぎないという当世流行りの言語観は、生命力の減退・衰退をもたらす危険な思想である、とも言えそうです。私が申し上げているのは、当世ではほぼ無自覚な形で展開されている言語観のことで、情報社会が高度化すればするほど、不可避的に跋扈せざるをえないものです。つまり、情報をやり取りするためだけの便利なツールとして言葉をとらえる風潮のことを、私は、言っているのです。

むろん、私はこの現象を全否定するわけではありません。私自身、忙しい日常生活のなかで、言葉をそういうふうに使い、また受けとめる局面は多々あるのでしょう。それで、済んでしまうし、そのほうがいろいろとうまくいくことが多いからです。

しかし、それが言葉との付き合い方の全てになってしまったら、おそらく、文化の底力が減退することになるのではないか、という危惧の念が脳裏をかすめるのをいかんともしがたい、と申し上げたいのです。

その点、小浜さんが引用なさった長谷川三千子さんの文章も、その中で孫引きされている谷崎潤一郎の『細雪』の文章も、文化の圧倒的な底力を感じさせる素晴らしいものです。『「あー」と、感嘆の声を放つた』姉妹のそれこそ「はんなり」とした声が懐旧の情とともに耳底に響くようです。

それを受けての、長谷川さんの言葉は、頭というより身体に深く柔らかく入ってくる感じで、これまた素晴らしいものです。もう一度、引用してしまいます。

《たしかに、この長いひとつづきの文章のなかで、直接にものの姿をうつした言葉といつては、「夕空にひろがってゐる紅の雲」のひと言だけであつて、それさへもが、花であるのか雲であるのか、もののあはひの定かならざる眺めである。もしも現実が先ほどのやうな物体のことであるならば、ここには現実に似たものは何一つないと言はなければなるまい。》(『からごころ』中公叢書)

《(引用者注――前の引用とは異なる花見の場面の引用の後)ここでは現実とはわれわれに向かひ合つてそこにむつつりと場所を占めてゐる何物かではなくて、われわれの頭上に拡がりわれわれを包む空間そのもののことである。》


この空間は、女性の肌のほんのりとした温かみを感じさせるやわらかさで満たされています。つまり、ここには間違いなく《言霊空間》と呼ぶ他にないものが広がっています。そうして、小浜さんがおっしゃるように、これは、主客二分法では捕まえようのない世界であり、少なくともわれわれ日本人には、身近な世界です。私は残念ながら現場を見たことがないのですが、精霊流しなんてのも、言霊の世界として、とても分かりやすいものなのではないでしょうか。

もしかしたら、言霊信仰を、信仰を失った(かのような)現代人にも納得のできる言葉できちんとなぞることができたのならば、主客二分法はおのずと超えられるのかもしれません。

次に、小浜さんは、日本人の時間概念を読み解くために四つの例をお出しになっています。それを再録しましょう。



・この仕事はあとにまわそう(未来)

・自分のたどってきたあとを省みると(過去)

・さきのことはわからない(未来)

・さきの大戦における(過去)

・まえを見つめて進もう(未来)

・まえにこんなことがあった(過去)

たしかに、時間の流れを直線的にとらえる近代的な時間概念からすれば不思議であるし、それで読み解き得ない以上、われわれ日本人は、それとは異なる時間概念を生きているのでしょう。

それと、もう一つ。ここでも、身体性が大きな位置を占めています。つまり、日本人が生きている時間概念は、身体性と深く関わっているとは、少なくとも言えそうです。

ここで、ただひとつ「うしろ」には、そのような時間をめぐる両義性がないことが気にかかります。なぜでしょうか。というか、「うしろ」という言葉に関して、時間性の含意のある用例は、「うしろ向き」ぐらいしか思いつきません。これは、過去にこだわることを否定的に言い表す場合に使われます。ほかは、

・うしろ髪を引かれる思い

・うしろ暗い

・うしろ傷

・うしろめたい

・うしろ指

などのように、身体性における死角がもたらす不安の念を織り込んだ、どちらかといえばマイナスの情緒を表す用法が多いような気がします。(もちろん、「うしろ明き」などという中立的な用法もありますが)

つまり、「うしろ」というのは、身体における、その空間性に対する着目の度合いがはなはだ強いので、表出上の関心がそちらのほうにひっぱられて、その時間性に着目した表現の多様性がほとんど展開されなかった。だから、時間性の含意のある用例がほとんどないし、ましてや時間の両義性を獲得するところにまで至らなかったのではないかと、思われます。

考えてみれば、「うしろ」は、身体性をとりまく空間領域で、視覚の特権性がどうにも及ばないただひとつのそれです。仮に、ある人が「そんなことはない」と言って「うしろ」を振り返ったとしても、視線のベクトルの反対方向と「うしろ」を定義すれば、やはり「うしろ」が生じてしまいます。

で、視覚の特権性が及ばない空間領域は、主体にとって基本的には、秩序立てのむずかしいカオスとして表象されることになる。

たとえば「無意識」などという小難しい言葉をわりとすんなり納得することができるのは、上に述べた「うしろ」の身体感覚が万人に共有されているからではないかと考えます。

「うしろ」については、とりあえずそんなところです。「あと」「さき」「まえ」については、まるまる残ってしまいました。バトン・タッチです。
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ジャーナリスト磯山友幸氏を駁す 安倍晋三総裁の経済政策をめぐって (イザ!ブログ 2012・11・9掲載)

2013年12月03日 08時12分08秒 | 経済
私が当論で言いたいことは、二文で言い尽くせます。「旧安倍内閣は、小泉流の構造改革路線を引き継がなかった。また、今の安倍総裁も、小泉構造改革路線を復活させようなどとはまったく思っていない。」

まずは、次の記事をご覧ください。

安倍氏に「小泉改革否定」の呪縛 ポスト民主政権の経済政策
2012.11.6 08:51 産経新聞msnニュース

自民党の「日本経済再生本部」が本格始動した。安倍晋三総裁自らが本部長に就任、甘利明政調会長が本部長代理となるなど、党を挙げて「経済再起」を重視する姿勢を示した。安倍氏は総裁選の公約で冒頭に経済再起を掲げ、「一日も早いデフレ脱却と成長力の底上げで所得向上、雇用の創出に全力」を尽くすと宣言した。(フジサンケイビジネスアイ)

再生本部では、今後、経済人や学者、科学者などを招いて意見を聞き、今月末をメドに「経済再生策」の大枠を決める。解散・総選挙が迫る中で、安倍政権が誕生した場合にどんな経済運営を行うのかを示すことになるだけに、大いに注目される。

総裁に安倍氏が就任したことで改革派の経済人の自民党への期待が戻っている。「農家戸別所得補償」「子ども手当」「高校無償化」など、給付や分配に重点を置く民主党の経済政策が、経済沈滞を一段と深刻化するなど失敗に終わったとの評価が定着しているためだ。

自民党も谷垣禎一総裁時代は「国土強靱化」など、公共事業中心の古い自民党を彷彿とさせる経済政策を打ち出した。このため、民主でも自民でもない第三極党派に期待する若手経済人が多かった。これが安倍氏の総裁就任で変わりつつあるのだ。

2006年から07年の安倍内閣時代は、小泉純一郎首相時代の構造改革路線を引き継ぎ、成長を目指す「上げ潮」政策を重視した。結果、株価は上昇し税収も増えた。経済人が安倍氏に期待するのは、当時の「構造改革路線」にかじを戻す、という見方からだ。

一方で安倍首相は当時、「格差拡大」批判をモロに浴びた。民主党は格差批判を繰り返すことで政権を奪取した。もともと民主党の経済政策は古い自民党を否定する構造改革路線だったが、格差批判を展開軸としたことで「小泉改革の否定」をせざるを得ない呪縛に捉われた。

安倍内閣の経済政策は自民党内でも評判が悪かった。郵政選挙に際して小泉氏が除名した議員を安倍総裁の決断で復党させたが、かえってこれが「小泉改革の否定」を党内で加速させ、政権の短命にもつながった。

今も自民党議員の過半は小泉改革の否定論者だ。そんな中で安倍氏が総裁として再び「構造改革」へかじを切れるのか。

日本経済が成長しない理由はもはや明らかだ。最近、財務省が省内のチームで分析した結論は「世界経済のグローバル化への不適応」と「少子高齢化」。つまり、日本企業の経営や国の仕組みがグローバル化に乗り遅れた構造問題だというのだ。これは国際舞台で日々競争している改革派の経営者たちが痛感していることでもある。

今も自民党内で経済政策を議論するとき、「構造改革、規制緩和、市場原理は禁句だ」と言われる。そんな小泉改革否定の呪縛から自民党を解き放すことが安倍総裁にできるのかどうか。月末にとりあえずの答えが見えそうだ。(ジャーナリスト 磯山友幸)

これは、典型的なデマ・ゴークの文章です。私がそう判断する理由を以下に列挙しましょう。

〔1〕安倍総裁が、自民党の国土強靭化路線を否定しているかのような書き方をしているが、それはウソである。

そもそものお話から始めましょう。長くなります。

今の日本がさまざまな意味で国難に直面していることは、論を俟たないでしょう。国難とは、端的に言えば、国力が衰退していることです。そうして、真の国力は数字では測れない、などという観念的な「正論」にとどまらずに、国力を測る数値をGDPに求めることは常識的なアプローチです。GDPにいろいろと問題はあるにしろ、少なくとも為政者は、GDPを高めるために全身全霊を注ぎ込まなければなりません。それは、そのことが一般国民による幸福追求のための現実的な基盤を強固なものにする営みであると同時に、端的に国防上においても大きな意味があるからです。

たとえば中共は、日米同盟関係が不安定化し、日本のGDPが停滞・衰微していることから、日本の国力の衰退を判断し、尖閣諸島領有に向けて日本に対し攻勢を強めています。また、竹島の上陸した李明博大統領が「日本の国力は昔ほどではない」という趣旨のコメントをしたのは記憶に新しいところです。だから、領土の危機という意味での国難からの脱却を果たすためにも、GDPの停滞・衰微から脱し、力強い経済成長を実現することが他のなにを措いても必要になります。まずは、そこからなのです。アメリカと対等な同盟関係を再構築するためにも、そうなのです。軍隊に銃を構えさせることが真っ先に来るのではありません。

では、日本のGDPは何故停滞・衰微しているのでしょうか。それは、日本が長らくのデフレ状況と円高から脱却できていないからです。デフレとは、全体としての物価が下がることです。企業にとってみれば売上が下がることであり、家計にとっては可処分所得が減ることであり、政府にとっては税収が減少することです。つまり、みんなが少しずつ貧乏になっていくことなのです。

また、円高は輸出企業の業績の悪化を招きます。それは、パナソニックやシャープやソニーやエルピーダメモリなどの惨状を見れば明らかです。ウォン安を武器にした韓国の大企業などにボロ負けしてしまうわけです。トヨタは頑張っているではないかと言いたくなる方もいらっしゃるとは思いますが、トヨタは円高のリスクを吸収するために工場の海外移転を断行し続けてきました。工場の海外移転とは、日本人の雇用が外国人に奪われることを意味します。雇用が奪われることは、家計の可処分所得減を意味するので、トヨタの業績が良くなっても、一般国民にとって、喜んでばかりはいられません。円高で、輸入産業と旅行業者などは懐が多少は潤うのでしょうが、トータルとして見れば、原油価格などの一次産品価格の大幅な上昇によって交易条件(輸出物価指数÷輸入物価指数)が悪化しているので、円高はGDPにとってマイナス要因となっています。

さらには、デフレと円高とは相乗作用の関係にあります。先ほど、デフレとは全体としての物価が下がることであると申し上げました。それは、モノの価値よりもお金の価値が上がることである、と言い換えることができます。だから、企業は投資を控えて内部留保を増やそうとしますし、家計は消費を手控えてお金を手元に置こうとします。たとえゼロ金利であったとしても、持っているだけで貨幣の価値が上がっていくのですから、企業も家計も銀行にお金をどんどん預けようとします。貯蓄が余ってしまってしょうがない銀行は、ほかに魅力的な投資先がないので仕方なく安定的に確実に利子が得られる内国債をだらだらと買い続けます。そうすると、日本国債の価格が上がり、投資対象としての魅力がアップするので、海外投機筋の日本国債に対する需要が高まります。それが円に対する需要を高めることになり、円高を招きます。逆に、円高は輸入品の価格を下げるので、その規模にもよりますが、国内商品との価格競争を招き、物価を押し下げる要因になります。つまり、円高はデフレ要因なのです。また、いままで申し上げてきたとおり、デフレは円高要因でもあります。

このような、デフレと円高の無限ループが存在する限り、GDPの上昇など望めないことは明らかですね。

では、デフレと円高の無限ループを断ち切るにはどうすればいいのか。私見によれば、政府・日銀が政策協定を結んで、デフレ・円高脱却のために大胆な金融緩和を断行することがまずは絶対条件です。具体的には、日銀のようにしぶしぶの1%ではなく3%のインフレ・ターゲット政策を断固として推進するべきです。つまり、世の中に出回るお金の量をどんどん増やし続けて、世に頑強にはびこる長年のデフレ予想を打破してインフレ予想が生じるようにするのです。それがデフレ脱却のための揺るぎない出発点となります。だから、安倍総裁は、日銀の大胆な金融緩和を強調してやまないのです。

しかし、それだけでは余剰資金の海外流出を招くだけのことでしょう。国内に魅力的な投資先がないのですから、それは当然のことです。日本国内でお金がぐるぐる回ることが必要なのです。そうしなければ、デフレからの脱却はおぼつかないことになってしまいます。また、景気が回復して一般国民が潤わないことになってしまいます。

そこで私たちは、国難の具体相に思いを馳せる必要があります。東北大震災の被災地の復旧・復興は、民主党の愚策のせいで未着手に近い状況のままなのです。先ほど、国難の核心は、国力の衰退であると申し上げました。また、それを数値化すればGDPになるとも申し上げました。しかしながら、国力の本質はそこにはありません。その核を成すのは、国民の、国政に対する信頼感という精神的なものです。それをできるだけ噛み砕いて言えば、「なんだかんだ言っても、政府はわれわれ国民が本当に困ったときは本気になって助けてくれる」という言葉になるでしょう。残念なことに、民主党の、被災地に対する無策によって、その信頼感が著しく損なわれてしまったのです。そのことが、心ある一般国民の間に国難の意識を植え付ける大きなきっかけになっています。だから、被災地の人々の窮状は、ほかの何を措いても救わなければならないのです。

また、東北大震災は、世界有数の地震多発地帯に位置するという日本の地理的な宿命を国民に思い起こさせることになりました。地震学的には、東北大震災によって、東海・南海・東南海地震と首都直下型の地震発生の可能性が大きく高まったことも周知されています。

さらには、高度経済成長期に構築された橋や道路などのインフラの耐用年数がもうすぐ切れようとしてもいます。

以上の時代的な背景から列島強靭化論が浮上してきたのです。それを、土建国家復活という言葉で矮小化するのは、政府は国民の生命・財産など守らなくてもいい、という暴論にほかなりません。列島強靭化論は、国家に対して国民の生命・財産を守り、子孫に明るい未来の実現のための具体的経済的基盤を残すという責務をまっとうすることを求める天下の正論であり、どの政党が政権を取ろうとも実施しなければならない国是なのです。

大胆な金融緩和とともに、列島強靭化を断固として実施したならば、それは総額で数百兆円から千兆円ほどのお金がかかる話なので、おのずと世の中にお金が出回り、デフレは力強く乗り越えられ、雇用状況は改善され、国民の、政府に対する信頼感が回復することになるものと思われます。

だから、安倍総裁は総裁選のときから、大胆な金融緩和と列島強靭化の実現を何度も何度も強く主張してきました。私が、長々と述べてきた思考回路の一から十までを安倍総裁はきちんと丁寧にたどっているのです。だから、私は安倍総裁を支持しているのです。

以上で、磯山友幸氏の

自民党も谷垣禎一総裁時代は「国土強靱化」など、公共事業中心の古い自民党を彷彿とさせる経済政策を打ち出した。このため、民主でも自民でもない第三極党派に期待する若手経済人が多かった。これが安倍氏の総裁就任で変わりつつあるのだ。

という言葉が事実無根のウソである、という私の主張がご理解いただけるのではないでしょうか。

〔2〕安倍内閣が、小泉純一郎首相時代の構造改革路線を引き継いだ、という歴史的事実はない。

2006年から07年の安倍内閣時代は、小泉純一郎首相時代の構造改革路線を引き継ぎ、成長を目指す「上げ潮」政策を重視した。

安倍信三議員が、第3次小泉内閣で内閣官房長官に大抜擢されたことは事実です。また、小泉総理の肩入れなくして、安倍内閣が誕生しなかったことも事実です。しかし、そうであるからといって、安倍内閣が小泉内閣の構造改革路線を継承したとはいえません。事実、安倍内閣は構造改革路線を継承していません。次に掲げるのは、安倍内閣発足時の施政方針演説のなかの経済政策に触れている箇所です。

「美しい国」を実現するには、その基盤として、活力に満ちた経済が不可欠です。日本が人口減少社会を迎える中で、国民が未来に夢や希望を持ち、より安心して生活できる基盤となる社会保障制度を維持するためにも、生産性を向上させ、成長力を強化することが必要です。今こそ、日本経済を中長期的に新たな成長の舞台に引き上げていくことが重要であり、今後五年間に取り組むべき改革の方向性を示した「日本経済の進路と戦略」を策定しました。これに基づき、私のリーダーシップの下、革新的な技術、製品、サービスなどを生み出すイノベーションと、アジアなど世界の活力を我が国に取り入れるオープンな姿勢により、成長の実感を国民が肌で感じることができるよう、新成長戦略を力強く推し進めます。

ここには、公共事業をやみくもに削減し、行政機構を細らせ、社会保障費をカットし続け、「小さな政府」を目指した小泉構造改革との訣別の意が明らかに読み取れます。とりわけ、「成長の実感を国民が肌で感じることができるよう、新成長戦略を力強く推し進めます」という決意表明には、小泉政権下で2002年2月から07年10月までの69月間続いた「実感なき経済成長」に対する明らかな批判意識さえ読みとることができます。それは一般国民を経済的に潤すものではなかった、と。安倍元総理はこうも言っています。

お年寄りの世話をしている方や中小企業で働く方、看護師、消防士、主婦や、様々な職場、そして各地域で努力しておられる、数えきれない多くの方々が、毎日寡黙にそれぞれの役割を果たすため頑張っています。本来、私たち日本人には限りない可能性、活力があります。それを引き出すことこそ、私の美しい国創りの核心であります。今このときそれぞれの現場で頑張っておられる人々の声に真摯(しんし)に耳を傾け、その期待に応える政治を行ってまいります。

安倍元総理は、小泉内閣の推進した新自由主義路線において無視され続けた一般国民に光を当て、その存在こそ国力の源泉であることを表明しています。安倍元総理は、国民経済に立脚して経済政策を構想・立案・実行することをここで宣言しているのです。これは、小泉・新自由主義路線に対する明確な否定以外のなにものでもないではありませんか。

自分を引き立ててくれた人に対して、あからさまな否定的言辞を弄さないのは、まっとうな政治家として当たり前のことです。そこをとらえて「安倍は小泉路線を継承した」と即断するのは間違っています。

〔3〕「安倍氏が総裁として再び「構造改革」へかじを切れるのか」などと言っているが、安倍総裁はそんな気はまったくない。

記事を読むと、まるで安倍総裁が首相になったら「構造改革」路線に舵を切ることを目論んでいるかのように読めます。そうして、それを阻もうとする「抵抗勢力」=土建国家勢力との対立・鍔迫(つばぜ)り合いが自民党内に存在するかのような印象を受けます。しかし、それはまったくの事実無根です。

安倍総裁が、総裁選挙活動以来言い続けてきた経済政策は、

「デフレ脱却なくして消費税増税なし」

「インフレ目標2~3%と日銀とのアコード(政策協定)」

「子供たちの安全や生命を守り、地域経済の成長のための公共投資拡大」

「スーパーコンピューター京や資源エネルギーなどへの投資拡大・イノベーションの実現」

といったもので、「構造改革」の「こ」の字も言っていません。特に、「子供たちの安全や生命を守り、地域経済の成長のための公共投資拡大」は現在の自民党の党是でさえあります。一部の議員は相も変わらず「構造改革」を信奉しているのかもしれませんが(河野太郎あたりは怪しい)、党全体に「構造改革」派VS「土建国家」派の対立関係が見受けられる、などということはありません。

以上で、この記事がまったくのデマであることは明らかになったものと思われます。

次に問題になるのは、磯山友幸氏がなぜこのような虚報を記事にしたのか、ということです。また、列挙しましょう。

〔1〕新自由主義路線への国政の舵取りを実現したいから

記事のなかで、磯山氏はこう断言します。

日本経済が成長しない理由はもはや明らかだ。最近、財務省が省内のチームで分析した結論は「世界経済のグローバル化への不適応」と「少子高齢化」。つまり、日本企業の経営や国の仕組みがグローバル化に乗り遅れた構造問題だというのだ。これは国際舞台で日々競争している改革派の経営者たちが痛感していることでもある。

経済関係のジャーナリストともあろうものが、財務省の見解を鵜呑みにするとは、私としては言葉を失いかけるのではありますが、そこは気を取り直して話を進めます。

まず、「少子高齢化」と経済成長の間に統計的に有意な関係があるというアカデミックな研究成果が出たことを私は寡聞にして知りません。しかしながら、財務省と日銀が自分たちの失策の責任を回避するためにそう言いたがっていることはよく承知しています。少子高齢化デフレ説は、叩かれても叩かれてもキョンシーのようによみがえる不思議な学説なのですが、その根拠は乏しいと言わざるをえません。マスコミが財務省と日銀をヨイショしているだけのことではないかと思われます。

「世界経済のグローバル化」とは恐れ入りました。リーマン・ショックによって世界経済が崖っぷちに立たされていることは皆さんよくご存知ですね。そのリーマン・ショックの根本原因は、ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に行き来する世界を理想とするグローバリズムが猖獗を極めたことです。だから、リーマン・ショック後の世界において、相も変わらず「日本はグローバル化が足りない」とほざくのはよほどの馬鹿か、現実を見ようとしないゴリゴリの新自由主義者くらいです。いまは、グローバリズムの脅威から国民経済をいかにして守るかが最大の課題なのです。「国際舞台で日々競争している改革派の経営者たち」などとグローバル企業を変に持ち上げるのはやめた方がよいと思います。

先ほど申し上げたことの繰り返しになりますが、日本経済が成長しない原因は、グローバル化が足りないからでもなく、少子高齢化が進んでいるからでもなく、日本経済がデフレ状況にあるからであり、円高がとどまることを知らないからです。それをきちんと指摘しないことは、政府・日銀の失政を覆い隠す反国民的な振る舞いです。

磯山氏は、その言動から察するに、ゴリゴリの懲りない新自由主義者です。安倍自民党が政権を奪還しそうな形勢をにらんで、自身の信奉する新自由主義路線をなんとか安倍経済政策に潜り込ませようとしているのでしょう。それが産経新聞の社是であるとすれば、それは看過しがたいことです。

〔2〕新自由主義の復権・巻き返しの雰囲気を作ることで、安倍自民党と日本維新の会の連携につなげたいから

石原新太郎が都知事の職を辞し、新党立ち上げを宣言し、日本維新の会との連携を示唆したことによって、下降気味だった維新の会の支持率がここにきて急浮上してきました。石原新党と合わせれば10%以上の支持率で、民主党に迫る勢いです。竹中平蔵をブレーンとしていただいた日本維新の会が、ゴリゴリの新自由主義路線をとっていることは周知のとおりです。新自由主義者磯山氏は、ここぞとばかりに攻勢をかけて、あたかも新自由主義路線の復権が安倍自民党を巻き込んだ大問題であるかのような社会的な雰囲気の醸成に健筆を奮って、安倍自民党を日本維新の会との連携に差し向けようと目論んでいるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、これが産経新聞の社是ならば、産経新聞は、安倍自民党を支持する一般国民に対する裏切りを実行しつつあることになります。私の単なる杞憂であればいいのですけれど。

以上で、磯山氏の記事に対する批判を終わります。


*これも、削除したくなった投稿のひとつです。ここには明らかに、安倍政権に対する私の希望的観測の反映があります。その分、安倍政権に対する見方に甘さが生じています。磯山氏は、今国会での安倍政権の「第三の矢」への舵切りをさぞかし喜んでいることでしょう。(2012・11・3 記す)
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野田内閣 人権委法案を閣議決定!  (イザ!ブログ 2012・11・9 掲載)

2013年12月03日 07時41分40秒 | 政治
いよいよ、反日左翼民主党の本丸登場です。油断せずに、断固阻止しましょう。詳細は後ほど追加します。

人権委法案を閣議決定2012年 11月 9日 11:12 JST

政府は9日午前の閣議で、法務省の外局に人権救済機関「人権委員会」を設置する法案を今国会に提出することを決定した。同日午後に提出する。同法案は、人権侵害に対する救済や予防を目的に国家行政組織法に基づく「三条委員会」を設置する内容。

滝実法相は閣議後の記者会見で、2002年に小泉内閣が提出した「人権擁護法案」に触れ、「10年ぶりに政府として国会に提出する運びになったことの重みを感じながら、審議入りを目指して努力したい」と述べた。ただ、月末までの今国会中の法案成立は厳しい情勢だ。  [時事通信社]


以下はすべて、みなさんが公的な形で「人権擁護法案」に対する反対の意思表示をするための情報です。行動するかどうかはもちろんみなさんの自由ですが、「自分は民主主義を尊重するが、人権擁護法案を別に問題とは思っていない」というご意見をお持ちの方から「民主主義」という言葉を聴くのは、私の我慢の限度を超えることである、とは申し上げたく存じます。明らかな言論弾圧法案を容認する民主主義者、とはあまりにも馬鹿げた形容矛盾であるからです。これは、日教組・自治労などに棲息する腐れ左翼に多いタイプです。


〔追加その1〕 ブログより

日本を破壊する法案 テレビ・新聞で報道されない「人権救済法案」
政府は11月9日午前の閣議で、法務省の外局に人権救済機関「人権委員会」を設置する法案を今国会に提出することを決定しました(時事通信11/9 10:46)。

そして午後、法案は国会に提出されました(読売新聞12/11/9 19:37)。

人権擁護法案→人権救済機関設置法案→人権委員会設置法案と、名前は変化していますが、中身は大差ありません。

9日の朝刊で「きょう法案提出が閣議決定される」と報じたメディアは、私の知る限り、産経新聞のみです。

その後、新聞では少し報道されているようですが、テレビはスルー状態ですね。

今回の法案では「マスコミ条項」は確かに設けられていませんが、法務省の人権委員会設置法案等についてのQ&A(Q40)によれば…

【特別の規定を置かないことにより,一般の国民や企業と同じ取扱いになるだけで,マスコミを優遇しようとするものではありません。すなわち,マスコミも,一般の国民や他の企業と同じように,本法案の定める調査や措置の対象となります】
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1285.html ぼやきくっくり

〔追加 その2〕 民主党衆議院議員 長尾たかし氏より  みなさんにお願いしたいこと
http://blog.goo.ne.jp/japan-n/e/490564789331b28057d73f1ca13be885

〔追加 その3〕 デモの告知

【東京都千代田区】 11/14(水)・15(木) 人権委員会設置法案絶対阻止!緊急連続国民行動

日時・内容:平成24年11月14日(水)・15日(木)15時00分(~17時00分)

※お手伝いいただける方は、14時にご参集ください。

【集合場所】第二議員会館前
※プラカード持参可(ただし、民族差別的なものは禁止)
※国旗以外の旗類・拡声器の持込はご遠慮下さい。

主催:頑張れ日本!全国行動委員会
http://www.ganbare-nippon.net/news/diary.cgi?no=57

〔追加 その4〕 FAX番号情報

●緊急協力要請[意見提出のお願い]

「人権委員会設置法案」が国会に提出されました。
皆様、「人権委員会設置法案反対」、「閣議決定に異議あり」の声を、首相官邸・法務省へお寄せください。
あわせて与野党の議員に「人権委員会設置法反対」の声を届けてください。

1、官邸要望先
   www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html 
●野田佳彦首相
   議員会館 FAX  03-3508-3441
   船橋事務所 FAX  047-496-1222

 ●前原誠司国家戦略相
   議員会館 FAX  03-3592-6696
   京都事務所 FAX  075-702-9726

2、法務省に対する要望先
   意見記入フォームの宛先で、「法務省」にチェックを入れてください。
   www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose  
●滝実法務大臣
   議員会館 FAX  03-3508-3861
   奈良事務所 FAX  0743-55-7081

 ●法務省 人権擁護局 FAX 03-3592-7675

3、「断固阻止」の激励・要望FAXの送り先

 【自民党本部】 03-5511-8888
   安倍 晋三 総 裁 
   高村 正彦 副総裁
   細田 博之 総務会長

 【自民党幹事長室】 03-3502-7286
   石破 茂 幹事長

 【自民党政調会長室】 03-3581-6700
   甘利 明 政調会長
http://kirakunine8.blog.so-net.ne.jp/2012-11-10 きらくにね

〔追加 その5〕 ツイッターより

dfsg8000‏@dfsg8000
[拡散] 人権委員会設置法案反対意見を送るときにも、匿名FAXは無視されると聞いています。やはり自分の住所氏名は記載して意見を送るべきだと思います。周知が必要ですね。 

〔追加 その6〕 ツイッターより
青葉桜子‏@cherry_society
【人権委員会設置法案賛成議員】小宮山洋子(衆)東京6区(世田谷) 03-3508-7319「党として出されたものに反対するつもりはない。人権法案は必要だと思っている。ねじれ国会なので簡単には決まらないと思う」小宮山洋子に次は無いよ・・・。 

〔追加 その7〕電話・FAX・メール情報
皆様抗議、廃案要請の電話・FAX・メールをお願いいたします。

<「人権委員会設置法案」「人権擁護委員法」抗議、及び廃案要請先>
重要抗議FAX宛先:内閣法制局(03-3581-4049)

宛名は内閣法制局, 内閣法制局長官 山本庸幸,内閣法制次長 横畠裕介の連名で出そう!!。 長官名等を記載すると必ず手渡さなければならなくなるそうです。

FAXは抗議した証拠が残るのでメールより黙殺されにくい。

法務省 FAX 03-3592-7940
民主党 FAX 03-3595-9961
自民党 FAX 03-5511-8855

メール

◆首相官邸 https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
◆全官公庁  www.e-gov.go.jp/ (右下のe-Govご意見箱)
◆民主党 http://www.dpj.or.jp/contact/contact
◆自民党 https://ssl.jimin.jp/m/contact
◆みんなの党  www.your-party.jp/contact/mail.cgi
◆全国知事会 www.nga.gr.jp/inquiry/

http://ameblo.jp/blogdetox/entry-11400559698.html 我が国のかたち

〔追加 その8〕 送信するFAX(メール)の文面(例)

おこがましいようですが、文面が思いつかないとか、文面の内容に自信がないから送信しづらいというご意見をいただきましたので、ご参考までに、私の文案を掲げておきます。

****


           様


  【いわゆる「人権擁護委員会法案」に対する反対の意思表示】



                            平成24年  月  日

                      住所

                      氏名


突然の送信、失礼致します。私は国を思う一国民です(あるいは、この選挙区の住民です)。

私は時事通信社の報道により、政府が11月9日午前の閣議で、法務省の外局に人権救済機関「人権委員会」を設置する法案を今国会に提出すること、および、今国会での同法案提出を決定した旨を知り、大変驚くとともに同法案に対する反対の意思表示をさせて頂きたくこのFAX(あるいはメール)を送信しました。

【反対する法案】

いわゆる人権擁護委員会法案(あるいは同様の立法趣旨の法案)


【同法案に反対する理由】

総論:私は、いわゆる「人権擁護委員会法案」成立により、国民の生活の隅々にまで介入・干渉される言論統制がなされる可能性・危険性があるので、この法案に反対の意を表します。

人権擁護委員会法案は、

・政権政党の意向が反映されやすく、救済機関を中央だけでなく各都道府県に置き、立ち入り調査などを行う人権委員に国籍要件を設けないた め、外国人の就任も可能とされることが問題視されています。

・救済機関は、人権侵害の申し立てがあれば、立ち入り調査のほか、調停や仲裁、勧告、公表、訴訟参加など国民生活の隅々にまで介入・干渉 する司法権を持つということです。

・しかも、そもそも「人権」の定義が曖昧であり、特定の偏向思想を持った人権委員が恣意的に解釈・運用する危険性が高いことが容易に想定 できます。「平成の治安維持法」と呼ばれるゆえんです。

・また、報道機関には努力義務を課すなどメディア規制色も強いとされています。

・従って同法案は、日本国憲法第21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 に反する違憲法案であ ると私は考えます。

・また、このように国民の自由な言論があいまいな内容の同法案によって統制されると、日本が全体主義国家のようになる虞があります。

〔追加 その9〕ツイッターより。プシケさんから鋭いご指摘がありました。

プシケ♂‏@psyche_s_
行動に移します!!やっかいですね、これは。民主主義の根幹の破壊とは考えない国民が多そうです。むしろ、昨今のいじめ、虐待、得体の知れない監禁事件などと意識せずに結びつけて、なんとなく賛意を感じる危険性が高いと想像しています。

なにとぞ、「人権擁護」という美名に騙されないようにしてください!「キレイな花にはトゲがある」「キレイな話には毒がある」

〔追加 その10〕ツイッターより。

人権委員会設置法案、こんな法律が一度通ったら大変なんです。無くそうとする批判そのものが許されないわけですから。表現の自由を踏みにじる大変危険な法律です。(日本大学教授 百地章氏)

なるほど、と思いました。そうして、ゾッとしました。


*ふだんはものぐな自分が、珍しく、必死になって行動を呼びかけています。民主党政権のヒドさがフラッシュ・バックするようです。(2012・12・3 記す)
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うれしい反応  (イザ!ブログ 2012・11・8 掲載)

2013年12月03日 07時32分54秒 | ブログ主人より
ツイッター上での対話を取り上げます。

私は、ツイッターを使って新投稿を告知します。だから、人によってはツイッターから当ブログに入っていらっしゃいます。今回の対話の相手であるプシケさんもそういう方の一人です。私の記憶違いでなければ、北九州市在住の二〇代半ばの方です。下の対話を読んでいただければ分かるとおり、当ブログのメッセージを真摯に受けとめていただいている方です。私が当ブログの読み手の皆さまに深く感謝しているのはもちろんなのですが、とりわけ、若い真摯な読み手に接すると、ブログ投稿のモチベーションがグンと高まります。「ブログをやっててよかった」と心底思えるのですね。こういう実のあるつながりをささやかながらも広げていくことができればよいと思っています。それにしても、インターネットって、すごいツールですね。

美津島 明‏
「電力の発送電分離は、電力安定供給体制を崩壊させる愚策である」をアップしました。 三橋貴明氏の最新の配信メールを掲載してあります。http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2919276/ …

プシケ♂‏
拝読♪持ててなかった視点です。「イメージで電力会社けしからん」程度にしか考えてなかったです。電力も安全保障の観点から大局的な判断が必要ですね!!歴史からエネルギー政策誤ると日本は危機だと認識していながら思考を繋げることはできてませんでした。

美津島 明‏
きちんと読んでいただいて、嬉しい限りです。またもや厚かましい御願いなのですが、プシケさんのツイートをコメントとして掲載させていただいてもよろしいでしょうか。

プシケ♂‏
私の羅針盤なんですよ(^^ゞ美津島さんは!私のコメ、ツイートは何でも転載くださいませ(^^)今後のも、全てのコメ、ツイートについて転載可能なものは転載了承です!

美津島 明‏
転載を快諾していただいてありがとうございます。知らない人のツイートは平気で転載できるのですが、よくお話する方のは、おことわりしないと、どうも。プシケさんとお話していると、ブログをやる気がふつふつと湧いてきます。

プシケ♂‏
今後はホントに自由に転載ください←喜びます!お世辞なく羅針盤です(ご主張に違和感あるときは、その旨質問しますので)今後も楽しみに待ってますよ!!(民間慰安婦のも拝見しましたよ!!広告概要をTwitterで英語で英語圏、世界に拡散したいとこです!!)


ちなみに、従軍慰安婦の英語版の意見広告が掲載されたURLが見つかりましたので、下に掲げておきます。表示された紙面の上にポインターを置くと、拡大できる表示(View full size)が現れます。なにかと評判の悪い民主党ですが、広告のなかに11名の民主党員の名があります。その、経済に対する造詣の深さに普段から畏敬の念を抱いている金子洋一議員の名を目にしたとき、私はジーンとくるものがありました。松原仁さんの名ももちろんありました。総選挙のときに「民主党員は全員ダメ」などと粗雑に即断しないで、こういう有能な憂国の士はきちんと当選させましょうね。逆に、自民党にだって、人権擁護法案に肩入れするようなとんでもない亡国議員がいるので要注意。古賀誠なんて、ゴリゴリの推進派です。
twitpic.com/bav480
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電力の発送電分離は、電力安定供給体制を崩壊させる愚策である  (イザ!ブログ 2012・11・3 掲載)

2013年12月03日 07時18分54秒 | 経済
つい先ほど配信された三橋貴明メールをご紹介します。

今回の担当は東田剛氏です。「電力会社の発送電分離は電力供給の不安定化・弱体化を招く」というお話です。電力会社の発送電分離について、正直なところ、私はその是非を決めかねていました。世論の主流は、おおむね「電力会社の既得権益を守る役割を果たしている発送電一体化を打破して、発送電は分離されるべきである」でしょう。その点、東田氏の論は、私の蒙を啓いてくれる秀逸なものでした。発送電分離は、実は新自由主義的な政策であり、それを採用した欧米は、電力の安定供給をめぐって失敗の経験をしていることが今回のお話でよく分かりました。

東田氏は、どうやら一級のエコノミストのようです。一級のエコノミストは、全社会的な広がりのなかで経済政策の是非を考えることのできる視野の広さを持っています。福沢諭吉のいわゆる「公智」の持ち主、ということですね。

民主党はどうしようもないので論外ですが、政権が変わったなら、発送電分離政策は根本から見直されなければなりません。どうやら今の日本は、電力政策において間違った舵取りをしているようです。このまま推移すれば、国民経済の土台を支える電力の供給の不安定化・弱体化を通じて国力そのものの弱体化がもたらされかねません。また、脱原発依存についても、政権が変わったならば一から慎重に再考しなければならないのでしょう。71年前の日米交渉が失敗した主たる要因の一つは、日本のエネルギー政策の行き詰まりだったのですから。つまり、間違った、国力の弱体化を招くようなエネルギー政策は、最悪の場合、戦争を招くのです。それが、歴史の教訓です。気分で国の根幹にかかわる問題の方向性を決めてはならないのです。

FROM 東田剛 

10月29日夜にアメリカ北東部に上陸したハリケーン・サンディは、洪水やら停電やらガソリン不足やらと、甚大な被害を与えました。

発災から一週間経った11月4日、電力の復旧率は8割に達しておらず、約185万世帯がなお停電とのことです。この復旧の遅れから、当初1.6兆円程度とされていた経済損失の推計は、最大4兆円へとふくれあがりました。(中略)

かつて、阪神淡路大震災発災が起きた際、関西電力は、7日ですべての供給地点に送電を完了しました。東北電力は、東日本大震災の発災から3日で、約8割の停電を解消しました。

日本の年間停電時間(2007年)は、約16分程度と世界最短水準です。

これに対して、ドイツは約19分、フランスは約62分、イギリスは約76分、アメリカに至っては約292分です。

日本の電力会社の電力供給に懸ける血のにじむような努力は、日本人が誇るべき財産のひとつなのです。

欧米では、90年代以降、新自由主義の教義に則って、「発送電分離」という改革が進められました。

「発送電分離」とは、送配電のネットワークを発電部門と小売部門から分離して第三者が公平な条件の下で利用できるように開放することです。これによって電力市場が自由化され、新規の発電事業者の参入が増えれば、競争が促進され、電気料金が下がるだろうというのです。

しかし、そのおかげで、電力会社が利益至上主義に走り、電力の安定供給がおろそかになってしまいました。

日本でも、90年代から2000年代にかけて、発送電分離が議論されましたが、実行されませんでした。電力の安定供給を確保するためには、発電と送電の責任主体が一元化されていた方がよいからです。

しかし、日本の電気料金は、諸外国と比べて突出して高いわけではありません。

イタリアよりずっと安く、イギリスより少し高いくらい、ドイツと比べると、産業用は若干高いですが、家庭用はむしろ安い。それどころか、欧米では、発送電分離の後、2000年代を通じて電気料金は下がるのではなく、むしろ上がってしまいました。

同じ頃、日本の電気料金は、むしろ、ゆるやかに下がっています。

光熱費は、低所得者の方が所得に占める割合が高いですから、電気料金の上昇は社会的弱者を苦しめます。

特に、発送電分離を率先したイギリスでは、電気料金が跳ね上がり、燃料貧困層(冬季に適切な室温を維持するために、その収入の10%以上を燃料代に支出する必要のある世帯)が激増し、03年には100万世帯であったのが、09年には400万世帯になってしまいました。

こうしたことから、経済産業省は、本年7月、新自由主義者の伊藤元重東大教授を長とした「電力システム改革専門委員会」において、発送電分離の方針を打ち出しました。

現在、日本の電力システムを欧米並みに「貧弱、貧弱ゥ」にすべく、全力で突き進んでおります。これで電力会社のこれまでの努力も、「無駄無駄無駄無駄ァ」。


「伊藤元重」という名を目にして、私は「これはヤバい」と思いました。彼は、ゴリゴリの新自由主義者で、彼に経済政策を任せたら、国民経済はめちゃくちゃにされてしまうのが明らかだからです。彼は、小難しい経済数学の展開は得意なのかもしれませんが、いかんせん政治音痴なのです。つまり、世間知らずの頭でっかちなのです。ただし、いつも権力の側にいたいという思いだけは人並み外れて強そうで、その観点から彼の言動を観察すれば、すべては氷解します。そういう人が経済政策に関わると、他人の迷惑を顧みることなく、自分の間違った観念に現実を合わせようとします。自分の観念と現実とのつじつまが合わない場合、現実のほうが間違っていると判断してしまう幼稚な人です。はっきり言って、一般国民からすれば危険人物であると、私は判断しています。


*ここで、私が引いた論考は、今日に至るまで国民的なレベルでの常識にはなっていません。逆に、今国会で、電力自由化に向けた法案が提出・可決されそうな形勢です。電気料金が上がり、停電が増えて、外資の介入が生じるだけのことです。愚かしいとしか言いようがありません。(2013・11・3 記す

*本稿をきっかけに、次のような、発送電分離の是非をめぐる対論が展開されました。
 →http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3227515/
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