長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その3)
――「トカトントン」とは何の音なのか――
もう十年くらい前のことになるでしょうか。私は、青森県津軽半島のほぼ真ん中にある金木町(現五所川原市)に行ったことがあります。もちろん、太宰治の生家である斜陽館を見るためにです。五所川原駅で単線の津軽鉄道に乗り、左右に広がる田んぼの優しい緑に目を喜ばせるうちに、電車はほどなく金木町駅に着きます。駅前から線路とほぼ垂直に延びる細い道を一度だけ左折すると、徒歩で数分、車道沿いに二階建ての大きな木造建築が目に飛び込んできます。それが斜陽館です。太宰が、「苦悩の年鑑」の中で「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もない。ただ大きいのである」と言ったとおりの、本当に大きな建物です。
大地主だった津島家は、戦後のGHQの農地改革によって没落し、この建物は手離されることになりました。それで昭和二五年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くの太宰ファンが訪れることになりました。しかし長く続いた当旅館もやがて閉鎖されることになり、平成八年三月に旧金木町に買い取られ現在に至っています。
入口で入場料を支払って建物の中に入るとすぐに、奥行きのある広々とした土間になります。その左手に、開放的でとても大きな囲炉裏が見えます。太宰は、十一人兄弟姉妹の十番目に生まれた六男坊ですから、津島家は相当な大家族です。むろん、ほかにたくさんの使用人がいたことでしょう。また、権勢家ですから、毎日のように近所の人びとも集まってきたことでしょう。地元の津軽三味線の名手たちがそこで演奏することもたびたびだったのではないかと思われます。金木町では、毎日のようにライヴ会場で津軽三味線が演奏されているのですから、それくらいのことは当たり前のように行われていたと思われます。
その大きな囲炉裏を見ていると、そこを囲む大勢の人々が、どことなくひょうきんな響きのある津軽弁で話に花を咲かせたり、津軽三味線に聞き入りながら杯を重ねたりする様子がおのずと脳裏に浮かんできました。太宰は、ちょっと変わったところのある子どもではあったのでしょうが、人びとのそういう様子をつぶさに見ながら成長したことは間違いありません。私が申し上げたいのは、太宰は、神経の先細りを招来するような近代的個人主義とは無縁の、良くも悪くも、人と人とのつながりが蔦のように絡まり合っている土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだということです。
むろん太宰は、そのことを素直に受け入れたわけではありません。故郷をめぐって、彼には彼の屈託がありました。その屈託が、彼の文学的な営みの核を成していると言っても過言ではないでしょう。その営みの過程で、彼は彼なりに、近代の毒を身体の奥深くに入れてしまったことも、確かなことです。そのことが、彼をそそのかして故郷からおびき出し、異境で野垂れ死ぬことを余儀なくさせたと言ってしまっていいとも思います。その意味で、太宰もまた楽園から追放された悲しき近代のアダムたちのひとりなのです。
それをすべて認めたうえで、太宰が、近代とは無縁の土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだことの重要性を、私は強調したいと思います。なぜならその成育史は、彼を無類の″語り部″にすることに大いに資するところがあったからです。ただし太宰の近代性は、彼をただの語り部ではなく、語り部である自分を見つめるもうひとりの自分をいつも伴った語り部にしました。
稗田阿礼が発した言葉を太安万侶が書き留めたのが『古事記』であるということは、高校で普通に教わることですね。古代において、語り部は、共同体の神に憑依して、神の言葉を自ずと語り出すだけでよかったのです。それを書き留める役割を担う人は別にいて、それは、太安万侶のような大陸の知識を吸収した当時の「知識人」だったのです。
ところが今様の物書きというのは因果な商売で、その作家が語り部の資質を持っていたとしても、稗田阿礼であるだけではダメで、太安万侶であることも必要とされます。そうでなければ、誰も自分が語ったことを聞いてくれないからです。そのことが、近代以降の語り部を先ほど述べたような複雑なものにします。そのことに対する鋭敏な意識が太宰にはありました。その意味で、太宰は自意識の強い作家でした。
心のなかにひとりの生々しい語り部を宿す太宰が、「徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつた」八月十五日に対して鈍感なはずがありません。これまでの話の流れから、″八月十五日″が、絶対性としての大東亜戦争を戦った日本人の共同性を凝縮した瞬間であることは間違いありません。そのことに、太宰の心のなかの語り部は激しく反応したに相違ないのです。その明らかな証拠が、小説「トカトントン」であるということになるのでしょう。
長谷川氏は、桶谷の「太宰治は八月十五日正午に『天籟』を聞き、その記憶を持続しつづけ、それを表現した数すくない文学者のひとりだつた」という言葉を引きながら、彼とともに「トカトントン」(一九四七年一月発表)の次の箇所を引きます。
厳粛とは、あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立つたまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました。
死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。前方の森がいやにひつそりとして、漆黒に見えて、そのてつぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたやうに、音もなく飛び立ちました。
ああ、その時です。背後の兵舎のはうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言ふのでせうか。悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ちで、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。 (本書71・72頁)
この文章の前半について、長谷川氏は次のように述べています。
たしかにこの前半は、まさしく天籟を聞くといふ体験のなまなましい描写となつている。しかも、荘子の「斉物論」においては、その描写はもつぱら弟子が外側から見た姿として語られてゐるのであるが、これはいはば「形は槁木の如く、心は死灰の如く」の状態を内側から描き出した描写となつてゐる。その意味で、太宰治のこの文章は、「斉物論」以上に真にせまつた「天籟」体験の描写であるとすら言へるのである。 (本書72頁)
「トカトントン」において八月十五日の「天籟」を聴いた「私」は、戦時中に兵隊になり、「千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日毎日、穴掘りばかりやらされていました」。彼は「日本が無条件降伏という事になり」、故郷に戻り「Aという青森市から二里ほど離れた海岸のの三等郵便局に勤めている」人です。また、「私」の天籟体験を記した手紙を受け取ったのは、「罹災して生まれた土地の金木町に」帰ってきた「むざんにも無学無思想の」小説家という設定になっています。太宰のことを多少でも知る読者なら、手紙を受け取った小説家に作者がより多く投影されていると受け取る仕掛けになっています。言いかえれば、太宰は、自分が天籟体験をした事実になるべく気づかれないように人物設定をしたと考えることができるでしょう。自分自身の天籟体験と距離を取ることで、それが、当時の日本人全体のものであることをそれとなく読み手に受け入れさせようとしたのかもしれません。
太宰が天籟体験をしたことそれ自体への懐疑は、私にはありません。なぜなら、それを体験したことがない者が、その体験を「内側から描き出した描写」をものにすることなど到底できないからです。つけ加えれば、太宰は、本当に体験したことに嘘を巧みに織り込むことに長けた書き手ではありましたが、体験にまったく根ざさないまるまるの嘘を本当であると読み手に思いこませることに長けた書き手ではありません。
作中の「私」は、八月十五日正午に千葉県の兵舎の広場にいました。では、同日同刻、作者の太宰はどこにいたのでしょうか。年譜によれば、一九四五(昭和二十)年七月に、太宰は妻子を連れて津軽・金木町の生家に身を寄せています。また、家族とともに三鷹の自宅に帰ったのは、翌年の十一月です。だから太宰は、八月十五日を津軽・金木町の生家で迎えたことになります。青森県でも、一九四五年七月二八~二九日に、青森市が市街地の9割弱を焼失するほどの大規模な空襲を受けています。その被害のはなはだしさは、おそらく太宰の耳にも届いていたはずです。だから、太宰が終戦に至る日々に故郷でのほほんと暮らしていたとは考えられません。それなりの覚悟を胸に日々を過ごしていたはずです。
とはいうものの、金木町は田んぼのど真ん中にあります。いくら米軍が毎日雨あられのように爆弾を日本列島に投下しているとはいっても、空襲はそこにまでは及びません。つまり太宰は、一応牧歌的な田園風景のなかで八月十五日を迎えているのです。そのことの意味は、小さくないと思われます。
太宰はその地にとどまって、作家活動を続けることも可能だったのにそうしなかった。私は、そのことの意味を考えてみたいのです。仮に、太宰が金木町に留まって執筆活動を続けたならば、彼が三十九歳で命を落とすようなことはなかったのではないかと思われるのです。生家にいるときの太宰の執筆活動は、その前後と比べても一向に衰えを見せていないので、実家にたよらなくても、執筆活動で充分に糊口をしのぐくらいのことはできたはずです。だから、お金の問題で金木町を後にしたとは考えにくい。太宰の血族や周りの人びとは、「いま何も好き好んで焼け野原の東京に戻ることもあるまいに。苦労をしに戻るようなものだ」と言って引き止めるくらいのことはしたに相違ありません。
これはいまのところ想像の限りですが、焼け野原の東京に戻ることを決意した段階で、太宰の思想的身体は、死ぬことへ向けて半ば以上開かれていたのではないでしょうか。自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何かが太宰の心のなかにあったと思えてならないのです。
むろん私は、太宰に、「どうやらオレの時代が来たようだ。この際、東京に戻って大いに暴れてやろう」という文士としての山っ気や、「太田静子に久しぶりに会いたい」という男としてのあだ心がなかったとは申しません。むしろ、おおいにあったことでしょう。そういうひとりの愚かな煩悩まみれの存在としての太宰に、死へ不可避的に向けられた「思想的身体」が二重写しになっているというべきなのでしょう。
これもまた想像の限りなのですが、太宰が八月十五日の意味をより深く考えるようになったのは、故郷の牧歌的な田園風景とは対照的な、東京の荒涼とした一面の焼け野原を目の当たりにしてからなのではないでしょうか。「身と霊魂とをゲヘナにで滅ぼ」す腹を密かに固めたのも、その光景が自分の身体にきっちりと織りこまれてからのことなのではないでしょうか。その覚悟をあえて言葉にすれば、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という言い方になるのでしょう。その意味では、『敗戦後論』の加藤典洋が言うほどには、「私」の訴えと「あなた」の返答ぶりとはそれほどに喰い違ってはいないのであって、内的な連関からすれば、「あなた」が「無愛想でブッキラボーな返答」をしたことには、必然性があったと私は考えます。端的に言えば、「私」に対して、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声ともっと真摯に向き合えと難じているのです。そうして、もっと「明るくて、単純な言い方」を心がけよ、と。
太宰は、思想的身体の次元で言えば、野垂れ死ぬ腹を固めて荒涼とした東京という異境に彷徨い出てきたのです。では、なにゆえ太宰は死のうと思ったのか。そのことには、彼の一種の戦友感覚が深く関わっています。端的に言えば、それが、先ほど述べた〈自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何か〉なのではないかと、私は考えます。そのことについては、後ほど触れましょう。
太宰の思想的身体が、不可避的に死に向けられていたからこそ、彼の耳は、天籟をぶち壊す「トカトントン」の予言的な響きを生々しく聴きとることになりました。長谷川氏は、そのことを的確に次のように言います。
河上徹太郎は昭和二十一年春の段階で、「あのシーンとした国民の心の一瞬」を振り返つて、「今日既に我々はあの時の気持と何と隔りが出来たことだらう!」と嘆じてゐたのであるが、ここには、その「隔り」の最初の動きがどのやうなものであつたかが、刻明に描かれてゐるのである。
「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂は、ここでは、まず物理的なもの音によつて破られる。と同時に、その「誰やら金槌で釘を打つ」トカトントンといふ音は、そのしいんとした瞬間の「悲壮も厳粛も」ぶちこはしてしまふ。
それによつて、「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で」その場に立ちつくす青年の姿は、一見すると、あの「天籟」を聞いたときの隠者の″呆然自失″のさまと似通つてゐるやうにも見える。しかし、このトカトントンなる音は、もちろん「天籟」ではない。これは明らかに「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂を壊すものとして現はれてをり、その意味ではむしろ「天籟」と敵対するものと言つてよい。そしてこの小説「トカトントン」の主役は間違ひなくトカトントンの方なので、正確に言へば、太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべきであらう。 (本書72・73頁)
上に引いた文章のなかで、私がとりわけ注目したいのは、最後の″太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべき″という箇所です。″天籟が壊されゆくさま″とは、端的に言えば、精神史としてとらえられたときの戦後史そのものです。
つまり、戦後史における人びとの心のなかのどこかしらにつねに潜在していて、時折ひょいと顔を出しては、私たちを「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ち」に陥らせ続けてきた当のものを擬音化すると「トカトントン」になるのです。その意味で、長谷川氏が、″精神史の病理として、この「トカトントン症状」は描かれてゐるのである″と言っているのは、正鵠を射た言葉です。例えば、〈日本国民は、戦争の惨禍を経験することによって、主体的に戦争を放棄し平和国家として生きることを決意したのだ〉という戦後神話につながるような言説が胸を張って展開される場面に触れるたびに、そこに敗戦による精神的麻痺状態の所在が感じられて、私は「トカトントン」の虚しい響きが聴こえてくるような気がします。
平たく言えば、強国アメリカにコテンパンにやっつけられて尻尾を巻いているだけのことを、変に力んで美化しようとするなよ、と言いたくなってくるのです。もっと卑近なことを言えば、あまり偉そうに言えた義理じゃないのですが、〈市民として〉と言いたがる人に限って、どこか個人的な勇気に欠けるところがあって、そのことをカモフラージュするために、そう言っているような気がしてならないのです。そういう空言・虚言がまともな言説としてまかり通っている場面に触れると、私は、つい「トカトントン」の響きが聴こえてくるような気がしてしまうのです。
これは、長谷川氏自身きちんと別の言い方で指摘していることですが、「トカトントン」は、実は、数ヵ月後に自死をひかえた三島由紀夫の次の言葉によってイメージされた将来の日本なるものとも内的な関連があります。
私はこれからの日本の大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つている人たちと、私は口をきく気にもなれなつているのである。 (本書83頁)
これは、「トカトントン」という音を視覚化して表現したものとしてとらえることができます。ユーモアがあるかないかの大きな違いはありますが、日本の行く末について抱いたイメージに関して、太宰と三島とは、とても近いところにいたのです。つまりふたりは、ほとんど同じものを見ていた。また、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という思いの切実さにおいても、ふたりはよく似ていました。さらには、その思いの切実さが、一種独特の戦友感覚に根ざしていた点も、情死の姿をとった戦死という、死に方における二重性もそっくりです(この点、おそらく異論があることでしょう)。ちなみに、もっとも大きな違いは、太宰には土着的なものに根ざした語り部が息づいていたのに対して、三島にはそういうものはなくて、ひたすらなる人工的な観念の構築物への意志があるだけ、という点です。
ここでひとつ、ずっと気にかかっていたことに触れたいと思います。当ブログの寄稿者でもある小浜逸郎氏が、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書・二〇一二年)において、戦前の思想家四名、戦後の思想家三名を取り上げています。そのなかで、福澤諭吉は別格として、戦中に書かれた和辻哲郎『倫理学』、時枝誠記『国語学原論』、小林秀雄『無常といふこと』と比べると、戦後の吉本隆明、丸山真男、大森荘蔵の諸著作はどうしても見劣りがしてしまう、という率直な感想を述べています。それは、なぜなのでしょうか。その理由がひとつでないのはそのとおりなのでしょうが、私には、そのことと、戦後思想が″「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という大東亜戦争の絶対性を集約した声と正面から向き合うことなく「生の方へ歩きだした」日本人だけにその視線を向けたこととの間には、深いつながりがあるような気がしてならないのです。言いかえれば、和辻や時枝や小林がそれらの著書に取り組んでいたとき、彼らはみな、″死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という声と向き合わざるをえない情況にあった。つまり彼らは、大東亜戦争の絶対性と自分の思想的営みとがどう切り結ぶのかという課題に対して、言い逃れがきかない状態に身を置き続けたのです。そのことが、戦後思想に対する彼らの卓越性をもたらすことにおおいに関連があるのならば、戦後思想がいやしくも思想的劣位にあることに甘んじるのを潔しとしないのなら、とにもかくにもその声と素手で向き合う勇気をふるうよりほかにないことだけは確かであるような気がします。その課題の前では、知識人を気取っている場合ではないのです。
(ここで、大急ぎでつけ加えておきたいことがあります。それは、先の三島由紀夫の日本人に対する遺言のような言葉に対して、それを全面的に肯定することに、いささかためらうところがあるということです。端的にいえば、「豊かになって何が悪い。豊かになることは、それ自体、とても重要なことで、それをどこか軽く見る思想的な構えは、それが三島のものであろうと誰のものであろうと、到底受け入れることはできない」という言葉になります。そこを言わなければ、私たちは、もうひとつの虚偽に陥ることになります。これはこれで、とても込み入った問題に発展しますので、ここでは、これだけにとどめておきます)
話を戻しましょう。戦後まもなくの時期において、太宰が、「トカトントン」の響きに耳を傾けることで、その後の戦後精神史に対して予言的なスタンスをとることができたのは、その思想的身体において「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声と真正面から向き合おうとする姿勢を崩さなかったからです。そうして、その姿勢の核には、太宰独特の戦友感覚が存在した、という意味のことを先に述べました。そのことに触れておきましょう。
彼独特の戦友感覚は、「散華」(一九四四年・「新若人」三月号)を読めば、よく分かります。『散華』については、私が触れるまでもなく、本書で長谷川氏が詳しく取り上げています。長くなりますが、とても印象的で胸を打つ文章なのでそのまま引きましょう。
この「散華」といふ短篇には三人の若者が登場するのであるが、そのうちで話の中心となるのは三田君といふ青年である。鉄縁の眼鏡をかけ、「俗にいふ『哲学者のやうな』風貌」の三田君は、しずかに黙って作者の話を聞きながら、その話の「たいへん大事な箇所だけを敏感にとらへて」うなずく、といつた若者であつたといふ。
やがて三田君は、作者の友人の山岸氏のもとで詩を学ぶやうになり、山岸氏に彼のことをたづねてみると、「いいはうだ。いちばんいいかも知れない」と言ふ。しかし作者自身は、三田君の書く詩が、どれもそれほどよいとは思へず、首をかしげてゐた――そんな風に太宰治は書いてゐる。
その後一時体をこはしてゐた三田君は、元気になるとすぐ兵役につき、何度か葉書をよこすのだけれど、やはり作者はどうも感心しない。「山岸さんから『いちばんいい』といふ折紙をつけられてゐる人ではないか」と不満を感じてゐる。と、そこに最後の一通が届く。
御元気ですか。
遠い空から御伺ひします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。
この葉書に、作者は「最高の詩」を見る。
「うれしかった。よく言つてくれたと思つた。大出来の言葉だと思つた」と作者は言ひ、三田君が本当に「『いちばんいい詩人』のひとりである」ことを、からりと何の疑ひもなく信じるに至つたと語る。
やがてその年の五月の末、アッツ島の守備隊が玉砕し、八月末の新聞で、その名簿のなかに作者は三田君の名前を発見する。「任地」とはアッツ島のことだつたのである。「任地に第一歩を印した時から、すでに死ぬる覚悟をしてをられたらしい」と作者は言ふ。そして、「そのやうな厳粛な決意を持つてゐる人は、ややこしい理屈などは言はぬものだ。激した言ひ方などはしないものだ。つねに、このやうに明るく、単純な言ひ方をするものだ。さうして底に、ただならぬ厳正の決意を感じさせる文章を書くものだ」と述べたあと、最後にもう一度、あの三田君の便りを引いて、「散華」は終わつている。 (本書87~89)
これにつけ加えることがあるとすれば、三田君の最後の便りは全部で三回引かれていることと、太宰が作中で自分を詩が分からぬ田舎者として自虐的に描いている点を除いては、ユーモアはなるべく抑えられていて、三田君の最後の便りが全編に響きわたるように書かれている点くらいです。
このくだりから、大東亜戦争の絶対性を受け入れることで、戦場において戦う友と文学という場で戦う太宰とが固く結ばれているのが分かります。太宰の戦友感覚とは、そういうものなのです。太宰自身作中でそのことを「純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力している事に於いては、兵士も、また詩人も、あるいは私のような巷の作家も、違ったところはないのである」と率直に語っています。それは、「生の方へ歩きだした」戦後に取り残された太宰にとって、無視し得ぬ大きな負債のようなものになったはずです。そうして、結局戦後の太宰は、それに殉じることになったのではないかと、私は考えます。彼は、戦後を生き抜きえない文学者であることを宿命づけられていたという印象がどうしても強く残るのです。その点、戦後思想的な弛緩とは無縁の人でした。
太宰が「天籟」を聴いたのは確かなことでしょう。しかし彼が、その神学的な中身に深く言及することはあまりなくて、もっぱら、それが壊され続ける事態にその鋭敏な感性を働かせることになりました。八月十五日の神学的中身は、依然謎のまま、吉本隆明にバトンが渡されます。
長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その4)
――吉本隆明における「神への憤怒」――
吉本隆明は、私の読書歴において、もっとも影響を受けた思想家のひとりです。と同時に、自分のこれまでの人生の無意識の舵取りにおいても、少なからぬ影響を受けたような気がしています。人生には、書を読んだり、ものを考えたりすることのほかにたくさんの楽しいことや豊かなことがあります。ところが、それらの多くをあたら犠牲にして、書を読んだり、ものを考えたり、さらには、それを文字に写し取ったりすることに、私は、自分の持てるエネルギーの大半を費やす生き方を選ぶことにいつのまにかなってしまいました。私は大学の先生でもないのですから、そんなことをしてもあまりお金にはつながりません。そんな無謀な生き方を選ぶうえで、吉本隆明の存在が濃い影を落としているような気がするのです。そういうこととあまり縁のない方からすれば、私の言っていることは、おそらく大げさに聞こえるものと思われますが、若いころに吉本隆明に入れこんだ経験がお有りの方ならば、すんなりと分かっていただけるのではないでしょうか。ちなみに、私が2009年に書いた『にゃおんのきょうふ』には、吉本隆明との訣別を果たす、という意味合いが込められていました。
だから、吉本隆明については、私なりに、考えられるだけのことは考えてきたと思っています。それは、吉本にこだわりつづけることで半生を棒に振った者としてのなけなしの自負のようなものです。
しかるに『神やぶれたまはず』において、長谷川氏は、私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像を提示しています。しかし、それは、奇を衒ったものではなくて、本書におけるそれまでの論の運びからおのずと浮びあがってきたという趣なのです。そのことにも、私は少なからず衝撃を受けました。つまり、その吉本像は、言われてみれば「コロンブスの卵」のようなものだった、ということです。そこに焦点をしぼってお話しましょう。
まず、気になるのは、吉本が戦争体験なるものをどう捉えていたのか、です。長谷川氏は、それをうかがわせる文章を『高村光太郎』から引きます。
戦争のような情況では、だれもその内的な体験に、かならず生命の危険をかけている。だから、この体験を論理づけ、それにイデオロギー的よりどころをあたえれば、もはや他の世代にたいして和解するわけにはいかない重大な問題を提出することを意味する。わたし自身にしても、戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にした熱い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感のなかへも、この問題を解決させようとはおもわなくなってくる。
長谷川氏が指摘するように、ここに示された吉本の構え方は、「その2」で取り上げた桶谷の「原体験」にそっくりです。また、氏によれば、それを「支える思想も、驚くほど似通つてゐる」として、同じく『高村光太郎』から、次の文章が引かれます。
わたしは徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた。死は、すでに勘定に入れてある。年少のまま、自分の生涯が戦火のなかに消えてしまうという考えは、当時、未熟ななりに思考、判断、感情のすべてをあげて内省し分析しつくしたと信じていた。
長谷川氏がいうごとく、「まさしくこれは、桶谷氏の語つてゐた、あの「本土決戦」の思想そのもの」です。
では、ふたりの間で何が決定的に異なるのでしょうか。長谷川氏によれば、それは、敗戦という事実に直面した場面における、あるいは、その後における天皇その人に対する態度です。しばらく、氏の言葉に耳を傾けましょう。
吉本氏は、神に向けられるはずの怨みや憤りを、なにかしら別の方向へと向けてしまふ。あの、自らの戦争体験のもつ神学的な側面についてはつきりと語つたインタヴューにおいてすら、「生き神さん」や天皇についての恨みがましい言葉は一つも語られてゐない。ただ、「戦後は、自分が天皇を生き神さまと考えたことには問題があったなと思いましたが」といふのみで、天皇自身、「生き神さま」自身に問題があった、とはひと言も語らないのである。
このやうな吉本氏の姿勢は、「天皇はわたしにとって死んだ」と断言する桶谷氏と、際立つた対照をなしてゐる。桶谷氏は、敗戦後、村に天皇自決の噂が流れたといふことを回想し「一度死んだものがもう一度死ぬなどとはゆるしがたい愚劣であった」といふ激しい言葉でその憤りをあらはしてゐる。さうした憤怒の表明は、吉本氏の場合、まつたく見られないのである。 (本書152頁~153頁)
同じような戦争体験観を持ち、同じように本土決戦での決死を覚悟したふたりが、天皇その人に対する態度において、かくも異なってしまうのはなぜなのでしょうか。それについて、長谷川氏は次のように述べます。
おそらくそれは、桶谷氏がいはば紙ひとへのところで、天皇を神とは考へてゐなかった、といふことによるのであらう。たしかに、桶谷氏は三島由紀夫の語つた「神の死の怖ろしい残酷な実感」といふ言葉に共感し、その実感は自分にも「おぼえがある」と言つてゐる。しかし、桶谷氏の場合には、それは微妙なところで比喩的な表現にとどまつてゐたのだと思われる。(中略)ただ一つ、両氏が異なつてゐたのは、「神と己との直接性の意識」をもとめるか否か、といふ点であつたと思はれる。桶谷氏には、そのやうなものを求める必要はなかつた。
氏はなによりも「民族の歴史と神話を信じていた」のであり、天皇はただ、その信仰に「密着した何か」であつたにすぎない。
これに対して、吉本氏にとつての「生き神さん」は間違ひなく「神」であつた。そこに「神と己れとの直結性」をもとめうるほど、確固とした神であつた。また、その直結性を拒まれたとき、その憤怒が、ほとんどユダヤ教における〈神への憤怒〉の逆説に近づくほど、それはリアルな実感に裏打ちされた「神」なのであつた。
だからこそ吉本氏は、ちやうどユダヤ教徒やキリスト教徒が神への憤怒を口にしないやうに、天皇や「生き神さん」への憤怒を口にすることがないのである。 (本書153頁~154頁)
私がさきほど「私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像」とは、上に引いた文章の終わりの二段落の太字で示された部分です。
また、ここまではっきりと特異な吉本像を描き出した文章を、私はほかに知りません。この吉本像を補助線にすると、吉本隆明の次の有名な文章の味わいがとても深いものになります。
敗戦は、突然であった。都市は爆撃で灰燼にちかくなり、戦況は敗北につぐ敗北で、勝利におわるという幻影はとうに 消えていたが、わたしは、一度も敗北感をもたなかったから、降伏宣言は、何の精神的準備もなしに突然やってきたのである。わたしは、ひどく悲しかった。その名状できない悲しみを、忘れることができない。それは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみともちがっていた。責任感なのか、無償の感傷 なのかわからなかった。その全部かもしれないし、また、まったく別物かとおもわれた。生涯のたいせつな瞬間だぞ、自分のこころをごまかさずにみつめろ、と しきりにじぶんに云いきかせたが、均衡をなくしている感情のため思考は像を結ばなかった。 (『高村光太郎』より)
吉本は、ここで自分自身いまだにはっきりとこういうものだとは言い得ぬ「名状できない悲しみ」を味わった体験を生々しく語っています。いつまでたってもその意味が自分にとってはっきりしないけれど、その記憶が鮮やかな体験とは、少なくとも通常のものではなくて、いわば異常な体験です。個人の実感を超え出たところを有する体験である、とも言えるでしょう。
この言葉に、平成十六年に行われたインタヴューにおける「僕は家族のためにも祖国のためにも死ねないと徹底して考えて、出した結論が天皇のため、生き神さんのためなんです。(中略)生き神さまは政治に直接には関与しないけれど、国家を一人で背負う巫女的な存在で、その眷属が政治をおさめる天皇になる。立憲君主なんてやつでなく、昔からそういう信仰で日本は統治されてきたわけで、こいつのためなら死んでもいいと当時はリアルに感じられたんです」という発言を重ね合わせると、次のことが浮びあがってくるように思われます。
当時の皇国青年・吉本隆明は、彼なりのやり方で、大東亜戦争という絶対的なものを闘っていました。そうして、天皇という「生き神さん」のためなら死ねるという思いを固めるに至りました。つまり吉本は、「神の前に自らの死をさしだ」す腹を決めたのでした。ところが、突然にもたらされた敗戦において、吉本は、「生き神さん」から、そのささげものを拒否され「生きよ」と命じられることになりました。そのときに彼が感じた「名状できない悲しみ」にじっと目を凝らしてみると、それは、神を深く信じていたからこそ感じる激しい〈神への憤怒〉を、神をなおも信じ続けようとするからこそ、表出できないという、だれに対しても説明し難い深い不条理感から湧き出た感情であることが分かってきます。
このときの吉本は、絶対性を帯びた大東亜戦争を観念的な意味で極限まで闘い切ったがゆえに、敗戦という晴天の霹靂によって、しばらくは立ち上がれないほどの精神的な打撃を受けることになりました。しかしそのことによって、吉本は、図らずも、文化の違いという通常は超え難い壁を超えて、実は神学の領域という普遍的な場に足を踏み入れていたのです。苦しくとも、そこに留まり、そこを深堀りしたならば、吉本は、「戦後」の限界を突破するとても大きな普遍思想を掴み取ることができたのかもしれません。あるいは、その営為は吉本を狂気あるいは死に追い込むことになったのかもしれません。
いずれにしても、戦後の吉本は思想家としてその道を選びませんでした。そのことで吉本は、彼の崇拝者たちから「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどの存在になったのですから、思想家として悪い選択をしたとは言い切れません。その歩みをたいしたものだとも思います。しかしながら、彼が選んだ道が、彼自身を含めた日本の「大衆の原像」が被った敗戦のトラウマを根のところから乗りこえる契機を有するものではなかったことだけは確かです。長谷川氏は、どうやらそのことをとても残念がっているようで、本書に次の言葉を記しています。
吉本隆明氏の敗戦時に体験した「やるかたない痛憤」は、その核心部をみづから「ごまかさずにみつめ」ることのないまま、素通りされ、ずらされ、捨て去られてしまつた。ひょつとすると、われわれの敗戦体験を明らかにするための大きな手がかりを含んでゐたのかもしれない〈神への憤怒〉は、つひに白日のもとにさらけ出されることのないまま埋もれたのである。 (本書157頁)
ここで私は、桶谷秀明における戦後の日本人のあり方の「二分法」を評した長谷川氏の次の言葉を思い出します。
多くの人々が戦後の日本人のあり方をさまざまに分類し、評論してきたのであるが、言ふならば、それはすべて「生の方へ歩きだした」日本人のなかでの分類にすぎない。「生の方へ歩きだした」日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人と並べ置くといふ対比の仕方は、他に例を見ないものと言つてよい。
この言い方を借りれば、吉本隆明は、思想家として「『生の方へ歩きだした』日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人」や大東亜戦争の最中においてその絶対性に殉じた人びとと「並べ置くといふ対比の仕方」をしうるだけの貴重な敗戦体験をしながらも、その方法を捨てて、「生の方へ歩きだした」日本人にだけ視線を注ぐことで自分の戦後の道を切り開いていったと言いうるのではないかと思われます。それはそれで、いろいろと思想の果実をもたらしたことは確かなことだとは思います。しかしそれが、「われわれの敗戦体験を明らかに」し、それを大きく乗りこえることに資する道でなかったことだけは確かなのではないかと、私は考えます。
吉本思想の評価をめぐっては、長谷川氏の吉本評をひとつの大きなきっかけに、そう遠くない未来に地殻変動的な変化が起こるような気がしています。そのとき、護教的な吉本主義者は、おそらくその変化を乗り切ることができないのではないか。私たちが戦後思想の限界を乗り越えていくうえで、それは好ましいことなのではないでしょうか。
話を戻しましょう。吉本が抱き、あえて表出することのなかった〈神への憤怒〉を導きの糸にして、次は三島由紀夫の『英霊の聲』に目を凝らしてみましょう。 (続く)
――「トカトントン」とは何の音なのか――
もう十年くらい前のことになるでしょうか。私は、青森県津軽半島のほぼ真ん中にある金木町(現五所川原市)に行ったことがあります。もちろん、太宰治の生家である斜陽館を見るためにです。五所川原駅で単線の津軽鉄道に乗り、左右に広がる田んぼの優しい緑に目を喜ばせるうちに、電車はほどなく金木町駅に着きます。駅前から線路とほぼ垂直に延びる細い道を一度だけ左折すると、徒歩で数分、車道沿いに二階建ての大きな木造建築が目に飛び込んできます。それが斜陽館です。太宰が、「苦悩の年鑑」の中で「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もない。ただ大きいのである」と言ったとおりの、本当に大きな建物です。
大地主だった津島家は、戦後のGHQの農地改革によって没落し、この建物は手離されることになりました。それで昭和二五年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くの太宰ファンが訪れることになりました。しかし長く続いた当旅館もやがて閉鎖されることになり、平成八年三月に旧金木町に買い取られ現在に至っています。
入口で入場料を支払って建物の中に入るとすぐに、奥行きのある広々とした土間になります。その左手に、開放的でとても大きな囲炉裏が見えます。太宰は、十一人兄弟姉妹の十番目に生まれた六男坊ですから、津島家は相当な大家族です。むろん、ほかにたくさんの使用人がいたことでしょう。また、権勢家ですから、毎日のように近所の人びとも集まってきたことでしょう。地元の津軽三味線の名手たちがそこで演奏することもたびたびだったのではないかと思われます。金木町では、毎日のようにライヴ会場で津軽三味線が演奏されているのですから、それくらいのことは当たり前のように行われていたと思われます。
その大きな囲炉裏を見ていると、そこを囲む大勢の人々が、どことなくひょうきんな響きのある津軽弁で話に花を咲かせたり、津軽三味線に聞き入りながら杯を重ねたりする様子がおのずと脳裏に浮かんできました。太宰は、ちょっと変わったところのある子どもではあったのでしょうが、人びとのそういう様子をつぶさに見ながら成長したことは間違いありません。私が申し上げたいのは、太宰は、神経の先細りを招来するような近代的個人主義とは無縁の、良くも悪くも、人と人とのつながりが蔦のように絡まり合っている土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだということです。
むろん太宰は、そのことを素直に受け入れたわけではありません。故郷をめぐって、彼には彼の屈託がありました。その屈託が、彼の文学的な営みの核を成していると言っても過言ではないでしょう。その営みの過程で、彼は彼なりに、近代の毒を身体の奥深くに入れてしまったことも、確かなことです。そのことが、彼をそそのかして故郷からおびき出し、異境で野垂れ死ぬことを余儀なくさせたと言ってしまっていいとも思います。その意味で、太宰もまた楽園から追放された悲しき近代のアダムたちのひとりなのです。
それをすべて認めたうえで、太宰が、近代とは無縁の土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだことの重要性を、私は強調したいと思います。なぜならその成育史は、彼を無類の″語り部″にすることに大いに資するところがあったからです。ただし太宰の近代性は、彼をただの語り部ではなく、語り部である自分を見つめるもうひとりの自分をいつも伴った語り部にしました。
稗田阿礼が発した言葉を太安万侶が書き留めたのが『古事記』であるということは、高校で普通に教わることですね。古代において、語り部は、共同体の神に憑依して、神の言葉を自ずと語り出すだけでよかったのです。それを書き留める役割を担う人は別にいて、それは、太安万侶のような大陸の知識を吸収した当時の「知識人」だったのです。
ところが今様の物書きというのは因果な商売で、その作家が語り部の資質を持っていたとしても、稗田阿礼であるだけではダメで、太安万侶であることも必要とされます。そうでなければ、誰も自分が語ったことを聞いてくれないからです。そのことが、近代以降の語り部を先ほど述べたような複雑なものにします。そのことに対する鋭敏な意識が太宰にはありました。その意味で、太宰は自意識の強い作家でした。
心のなかにひとりの生々しい語り部を宿す太宰が、「徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつた」八月十五日に対して鈍感なはずがありません。これまでの話の流れから、″八月十五日″が、絶対性としての大東亜戦争を戦った日本人の共同性を凝縮した瞬間であることは間違いありません。そのことに、太宰の心のなかの語り部は激しく反応したに相違ないのです。その明らかな証拠が、小説「トカトントン」であるということになるのでしょう。
長谷川氏は、桶谷の「太宰治は八月十五日正午に『天籟』を聞き、その記憶を持続しつづけ、それを表現した数すくない文学者のひとりだつた」という言葉を引きながら、彼とともに「トカトントン」(一九四七年一月発表)の次の箇所を引きます。
厳粛とは、あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立つたまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました。
死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。前方の森がいやにひつそりとして、漆黒に見えて、そのてつぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたやうに、音もなく飛び立ちました。
ああ、その時です。背後の兵舎のはうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言ふのでせうか。悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ちで、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。 (本書71・72頁)
この文章の前半について、長谷川氏は次のように述べています。
たしかにこの前半は、まさしく天籟を聞くといふ体験のなまなましい描写となつている。しかも、荘子の「斉物論」においては、その描写はもつぱら弟子が外側から見た姿として語られてゐるのであるが、これはいはば「形は槁木の如く、心は死灰の如く」の状態を内側から描き出した描写となつてゐる。その意味で、太宰治のこの文章は、「斉物論」以上に真にせまつた「天籟」体験の描写であるとすら言へるのである。 (本書72頁)
「トカトントン」において八月十五日の「天籟」を聴いた「私」は、戦時中に兵隊になり、「千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日毎日、穴掘りばかりやらされていました」。彼は「日本が無条件降伏という事になり」、故郷に戻り「Aという青森市から二里ほど離れた海岸のの三等郵便局に勤めている」人です。また、「私」の天籟体験を記した手紙を受け取ったのは、「罹災して生まれた土地の金木町に」帰ってきた「むざんにも無学無思想の」小説家という設定になっています。太宰のことを多少でも知る読者なら、手紙を受け取った小説家に作者がより多く投影されていると受け取る仕掛けになっています。言いかえれば、太宰は、自分が天籟体験をした事実になるべく気づかれないように人物設定をしたと考えることができるでしょう。自分自身の天籟体験と距離を取ることで、それが、当時の日本人全体のものであることをそれとなく読み手に受け入れさせようとしたのかもしれません。
太宰が天籟体験をしたことそれ自体への懐疑は、私にはありません。なぜなら、それを体験したことがない者が、その体験を「内側から描き出した描写」をものにすることなど到底できないからです。つけ加えれば、太宰は、本当に体験したことに嘘を巧みに織り込むことに長けた書き手ではありましたが、体験にまったく根ざさないまるまるの嘘を本当であると読み手に思いこませることに長けた書き手ではありません。
作中の「私」は、八月十五日正午に千葉県の兵舎の広場にいました。では、同日同刻、作者の太宰はどこにいたのでしょうか。年譜によれば、一九四五(昭和二十)年七月に、太宰は妻子を連れて津軽・金木町の生家に身を寄せています。また、家族とともに三鷹の自宅に帰ったのは、翌年の十一月です。だから太宰は、八月十五日を津軽・金木町の生家で迎えたことになります。青森県でも、一九四五年七月二八~二九日に、青森市が市街地の9割弱を焼失するほどの大規模な空襲を受けています。その被害のはなはだしさは、おそらく太宰の耳にも届いていたはずです。だから、太宰が終戦に至る日々に故郷でのほほんと暮らしていたとは考えられません。それなりの覚悟を胸に日々を過ごしていたはずです。
とはいうものの、金木町は田んぼのど真ん中にあります。いくら米軍が毎日雨あられのように爆弾を日本列島に投下しているとはいっても、空襲はそこにまでは及びません。つまり太宰は、一応牧歌的な田園風景のなかで八月十五日を迎えているのです。そのことの意味は、小さくないと思われます。
太宰はその地にとどまって、作家活動を続けることも可能だったのにそうしなかった。私は、そのことの意味を考えてみたいのです。仮に、太宰が金木町に留まって執筆活動を続けたならば、彼が三十九歳で命を落とすようなことはなかったのではないかと思われるのです。生家にいるときの太宰の執筆活動は、その前後と比べても一向に衰えを見せていないので、実家にたよらなくても、執筆活動で充分に糊口をしのぐくらいのことはできたはずです。だから、お金の問題で金木町を後にしたとは考えにくい。太宰の血族や周りの人びとは、「いま何も好き好んで焼け野原の東京に戻ることもあるまいに。苦労をしに戻るようなものだ」と言って引き止めるくらいのことはしたに相違ありません。
これはいまのところ想像の限りですが、焼け野原の東京に戻ることを決意した段階で、太宰の思想的身体は、死ぬことへ向けて半ば以上開かれていたのではないでしょうか。自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何かが太宰の心のなかにあったと思えてならないのです。
むろん私は、太宰に、「どうやらオレの時代が来たようだ。この際、東京に戻って大いに暴れてやろう」という文士としての山っ気や、「太田静子に久しぶりに会いたい」という男としてのあだ心がなかったとは申しません。むしろ、おおいにあったことでしょう。そういうひとりの愚かな煩悩まみれの存在としての太宰に、死へ不可避的に向けられた「思想的身体」が二重写しになっているというべきなのでしょう。
これもまた想像の限りなのですが、太宰が八月十五日の意味をより深く考えるようになったのは、故郷の牧歌的な田園風景とは対照的な、東京の荒涼とした一面の焼け野原を目の当たりにしてからなのではないでしょうか。「身と霊魂とをゲヘナにで滅ぼ」す腹を密かに固めたのも、その光景が自分の身体にきっちりと織りこまれてからのことなのではないでしょうか。その覚悟をあえて言葉にすれば、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という言い方になるのでしょう。その意味では、『敗戦後論』の加藤典洋が言うほどには、「私」の訴えと「あなた」の返答ぶりとはそれほどに喰い違ってはいないのであって、内的な連関からすれば、「あなた」が「無愛想でブッキラボーな返答」をしたことには、必然性があったと私は考えます。端的に言えば、「私」に対して、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声ともっと真摯に向き合えと難じているのです。そうして、もっと「明るくて、単純な言い方」を心がけよ、と。
太宰は、思想的身体の次元で言えば、野垂れ死ぬ腹を固めて荒涼とした東京という異境に彷徨い出てきたのです。では、なにゆえ太宰は死のうと思ったのか。そのことには、彼の一種の戦友感覚が深く関わっています。端的に言えば、それが、先ほど述べた〈自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何か〉なのではないかと、私は考えます。そのことについては、後ほど触れましょう。
太宰の思想的身体が、不可避的に死に向けられていたからこそ、彼の耳は、天籟をぶち壊す「トカトントン」の予言的な響きを生々しく聴きとることになりました。長谷川氏は、そのことを的確に次のように言います。
河上徹太郎は昭和二十一年春の段階で、「あのシーンとした国民の心の一瞬」を振り返つて、「今日既に我々はあの時の気持と何と隔りが出来たことだらう!」と嘆じてゐたのであるが、ここには、その「隔り」の最初の動きがどのやうなものであつたかが、刻明に描かれてゐるのである。
「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂は、ここでは、まず物理的なもの音によつて破られる。と同時に、その「誰やら金槌で釘を打つ」トカトントンといふ音は、そのしいんとした瞬間の「悲壮も厳粛も」ぶちこはしてしまふ。
それによつて、「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で」その場に立ちつくす青年の姿は、一見すると、あの「天籟」を聞いたときの隠者の″呆然自失″のさまと似通つてゐるやうにも見える。しかし、このトカトントンなる音は、もちろん「天籟」ではない。これは明らかに「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂を壊すものとして現はれてをり、その意味ではむしろ「天籟」と敵対するものと言つてよい。そしてこの小説「トカトントン」の主役は間違ひなくトカトントンの方なので、正確に言へば、太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべきであらう。 (本書72・73頁)
上に引いた文章のなかで、私がとりわけ注目したいのは、最後の″太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべき″という箇所です。″天籟が壊されゆくさま″とは、端的に言えば、精神史としてとらえられたときの戦後史そのものです。
つまり、戦後史における人びとの心のなかのどこかしらにつねに潜在していて、時折ひょいと顔を出しては、私たちを「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ち」に陥らせ続けてきた当のものを擬音化すると「トカトントン」になるのです。その意味で、長谷川氏が、″精神史の病理として、この「トカトントン症状」は描かれてゐるのである″と言っているのは、正鵠を射た言葉です。例えば、〈日本国民は、戦争の惨禍を経験することによって、主体的に戦争を放棄し平和国家として生きることを決意したのだ〉という戦後神話につながるような言説が胸を張って展開される場面に触れるたびに、そこに敗戦による精神的麻痺状態の所在が感じられて、私は「トカトントン」の虚しい響きが聴こえてくるような気がします。
平たく言えば、強国アメリカにコテンパンにやっつけられて尻尾を巻いているだけのことを、変に力んで美化しようとするなよ、と言いたくなってくるのです。もっと卑近なことを言えば、あまり偉そうに言えた義理じゃないのですが、〈市民として〉と言いたがる人に限って、どこか個人的な勇気に欠けるところがあって、そのことをカモフラージュするために、そう言っているような気がしてならないのです。そういう空言・虚言がまともな言説としてまかり通っている場面に触れると、私は、つい「トカトントン」の響きが聴こえてくるような気がしてしまうのです。
これは、長谷川氏自身きちんと別の言い方で指摘していることですが、「トカトントン」は、実は、数ヵ月後に自死をひかえた三島由紀夫の次の言葉によってイメージされた将来の日本なるものとも内的な関連があります。
私はこれからの日本の大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つている人たちと、私は口をきく気にもなれなつているのである。 (本書83頁)
これは、「トカトントン」という音を視覚化して表現したものとしてとらえることができます。ユーモアがあるかないかの大きな違いはありますが、日本の行く末について抱いたイメージに関して、太宰と三島とは、とても近いところにいたのです。つまりふたりは、ほとんど同じものを見ていた。また、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という思いの切実さにおいても、ふたりはよく似ていました。さらには、その思いの切実さが、一種独特の戦友感覚に根ざしていた点も、情死の姿をとった戦死という、死に方における二重性もそっくりです(この点、おそらく異論があることでしょう)。ちなみに、もっとも大きな違いは、太宰には土着的なものに根ざした語り部が息づいていたのに対して、三島にはそういうものはなくて、ひたすらなる人工的な観念の構築物への意志があるだけ、という点です。
ここでひとつ、ずっと気にかかっていたことに触れたいと思います。当ブログの寄稿者でもある小浜逸郎氏が、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書・二〇一二年)において、戦前の思想家四名、戦後の思想家三名を取り上げています。そのなかで、福澤諭吉は別格として、戦中に書かれた和辻哲郎『倫理学』、時枝誠記『国語学原論』、小林秀雄『無常といふこと』と比べると、戦後の吉本隆明、丸山真男、大森荘蔵の諸著作はどうしても見劣りがしてしまう、という率直な感想を述べています。それは、なぜなのでしょうか。その理由がひとつでないのはそのとおりなのでしょうが、私には、そのことと、戦後思想が″「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という大東亜戦争の絶対性を集約した声と正面から向き合うことなく「生の方へ歩きだした」日本人だけにその視線を向けたこととの間には、深いつながりがあるような気がしてならないのです。言いかえれば、和辻や時枝や小林がそれらの著書に取り組んでいたとき、彼らはみな、″死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という声と向き合わざるをえない情況にあった。つまり彼らは、大東亜戦争の絶対性と自分の思想的営みとがどう切り結ぶのかという課題に対して、言い逃れがきかない状態に身を置き続けたのです。そのことが、戦後思想に対する彼らの卓越性をもたらすことにおおいに関連があるのならば、戦後思想がいやしくも思想的劣位にあることに甘んじるのを潔しとしないのなら、とにもかくにもその声と素手で向き合う勇気をふるうよりほかにないことだけは確かであるような気がします。その課題の前では、知識人を気取っている場合ではないのです。
(ここで、大急ぎでつけ加えておきたいことがあります。それは、先の三島由紀夫の日本人に対する遺言のような言葉に対して、それを全面的に肯定することに、いささかためらうところがあるということです。端的にいえば、「豊かになって何が悪い。豊かになることは、それ自体、とても重要なことで、それをどこか軽く見る思想的な構えは、それが三島のものであろうと誰のものであろうと、到底受け入れることはできない」という言葉になります。そこを言わなければ、私たちは、もうひとつの虚偽に陥ることになります。これはこれで、とても込み入った問題に発展しますので、ここでは、これだけにとどめておきます)
話を戻しましょう。戦後まもなくの時期において、太宰が、「トカトントン」の響きに耳を傾けることで、その後の戦後精神史に対して予言的なスタンスをとることができたのは、その思想的身体において「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声と真正面から向き合おうとする姿勢を崩さなかったからです。そうして、その姿勢の核には、太宰独特の戦友感覚が存在した、という意味のことを先に述べました。そのことに触れておきましょう。
彼独特の戦友感覚は、「散華」(一九四四年・「新若人」三月号)を読めば、よく分かります。『散華』については、私が触れるまでもなく、本書で長谷川氏が詳しく取り上げています。長くなりますが、とても印象的で胸を打つ文章なのでそのまま引きましょう。
この「散華」といふ短篇には三人の若者が登場するのであるが、そのうちで話の中心となるのは三田君といふ青年である。鉄縁の眼鏡をかけ、「俗にいふ『哲学者のやうな』風貌」の三田君は、しずかに黙って作者の話を聞きながら、その話の「たいへん大事な箇所だけを敏感にとらへて」うなずく、といつた若者であつたといふ。
やがて三田君は、作者の友人の山岸氏のもとで詩を学ぶやうになり、山岸氏に彼のことをたづねてみると、「いいはうだ。いちばんいいかも知れない」と言ふ。しかし作者自身は、三田君の書く詩が、どれもそれほどよいとは思へず、首をかしげてゐた――そんな風に太宰治は書いてゐる。
その後一時体をこはしてゐた三田君は、元気になるとすぐ兵役につき、何度か葉書をよこすのだけれど、やはり作者はどうも感心しない。「山岸さんから『いちばんいい』といふ折紙をつけられてゐる人ではないか」と不満を感じてゐる。と、そこに最後の一通が届く。
御元気ですか。
遠い空から御伺ひします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。
この葉書に、作者は「最高の詩」を見る。
「うれしかった。よく言つてくれたと思つた。大出来の言葉だと思つた」と作者は言ひ、三田君が本当に「『いちばんいい詩人』のひとりである」ことを、からりと何の疑ひもなく信じるに至つたと語る。
やがてその年の五月の末、アッツ島の守備隊が玉砕し、八月末の新聞で、その名簿のなかに作者は三田君の名前を発見する。「任地」とはアッツ島のことだつたのである。「任地に第一歩を印した時から、すでに死ぬる覚悟をしてをられたらしい」と作者は言ふ。そして、「そのやうな厳粛な決意を持つてゐる人は、ややこしい理屈などは言はぬものだ。激した言ひ方などはしないものだ。つねに、このやうに明るく、単純な言ひ方をするものだ。さうして底に、ただならぬ厳正の決意を感じさせる文章を書くものだ」と述べたあと、最後にもう一度、あの三田君の便りを引いて、「散華」は終わつている。 (本書87~89)
これにつけ加えることがあるとすれば、三田君の最後の便りは全部で三回引かれていることと、太宰が作中で自分を詩が分からぬ田舎者として自虐的に描いている点を除いては、ユーモアはなるべく抑えられていて、三田君の最後の便りが全編に響きわたるように書かれている点くらいです。
このくだりから、大東亜戦争の絶対性を受け入れることで、戦場において戦う友と文学という場で戦う太宰とが固く結ばれているのが分かります。太宰の戦友感覚とは、そういうものなのです。太宰自身作中でそのことを「純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力している事に於いては、兵士も、また詩人も、あるいは私のような巷の作家も、違ったところはないのである」と率直に語っています。それは、「生の方へ歩きだした」戦後に取り残された太宰にとって、無視し得ぬ大きな負債のようなものになったはずです。そうして、結局戦後の太宰は、それに殉じることになったのではないかと、私は考えます。彼は、戦後を生き抜きえない文学者であることを宿命づけられていたという印象がどうしても強く残るのです。その点、戦後思想的な弛緩とは無縁の人でした。
太宰が「天籟」を聴いたのは確かなことでしょう。しかし彼が、その神学的な中身に深く言及することはあまりなくて、もっぱら、それが壊され続ける事態にその鋭敏な感性を働かせることになりました。八月十五日の神学的中身は、依然謎のまま、吉本隆明にバトンが渡されます。
長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その4)
――吉本隆明における「神への憤怒」――
吉本隆明は、私の読書歴において、もっとも影響を受けた思想家のひとりです。と同時に、自分のこれまでの人生の無意識の舵取りにおいても、少なからぬ影響を受けたような気がしています。人生には、書を読んだり、ものを考えたりすることのほかにたくさんの楽しいことや豊かなことがあります。ところが、それらの多くをあたら犠牲にして、書を読んだり、ものを考えたり、さらには、それを文字に写し取ったりすることに、私は、自分の持てるエネルギーの大半を費やす生き方を選ぶことにいつのまにかなってしまいました。私は大学の先生でもないのですから、そんなことをしてもあまりお金にはつながりません。そんな無謀な生き方を選ぶうえで、吉本隆明の存在が濃い影を落としているような気がするのです。そういうこととあまり縁のない方からすれば、私の言っていることは、おそらく大げさに聞こえるものと思われますが、若いころに吉本隆明に入れこんだ経験がお有りの方ならば、すんなりと分かっていただけるのではないでしょうか。ちなみに、私が2009年に書いた『にゃおんのきょうふ』には、吉本隆明との訣別を果たす、という意味合いが込められていました。
だから、吉本隆明については、私なりに、考えられるだけのことは考えてきたと思っています。それは、吉本にこだわりつづけることで半生を棒に振った者としてのなけなしの自負のようなものです。
しかるに『神やぶれたまはず』において、長谷川氏は、私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像を提示しています。しかし、それは、奇を衒ったものではなくて、本書におけるそれまでの論の運びからおのずと浮びあがってきたという趣なのです。そのことにも、私は少なからず衝撃を受けました。つまり、その吉本像は、言われてみれば「コロンブスの卵」のようなものだった、ということです。そこに焦点をしぼってお話しましょう。
まず、気になるのは、吉本が戦争体験なるものをどう捉えていたのか、です。長谷川氏は、それをうかがわせる文章を『高村光太郎』から引きます。
戦争のような情況では、だれもその内的な体験に、かならず生命の危険をかけている。だから、この体験を論理づけ、それにイデオロギー的よりどころをあたえれば、もはや他の世代にたいして和解するわけにはいかない重大な問題を提出することを意味する。わたし自身にしても、戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にした熱い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感のなかへも、この問題を解決させようとはおもわなくなってくる。
長谷川氏が指摘するように、ここに示された吉本の構え方は、「その2」で取り上げた桶谷の「原体験」にそっくりです。また、氏によれば、それを「支える思想も、驚くほど似通つてゐる」として、同じく『高村光太郎』から、次の文章が引かれます。
わたしは徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた。死は、すでに勘定に入れてある。年少のまま、自分の生涯が戦火のなかに消えてしまうという考えは、当時、未熟ななりに思考、判断、感情のすべてをあげて内省し分析しつくしたと信じていた。
長谷川氏がいうごとく、「まさしくこれは、桶谷氏の語つてゐた、あの「本土決戦」の思想そのもの」です。
では、ふたりの間で何が決定的に異なるのでしょうか。長谷川氏によれば、それは、敗戦という事実に直面した場面における、あるいは、その後における天皇その人に対する態度です。しばらく、氏の言葉に耳を傾けましょう。
吉本氏は、神に向けられるはずの怨みや憤りを、なにかしら別の方向へと向けてしまふ。あの、自らの戦争体験のもつ神学的な側面についてはつきりと語つたインタヴューにおいてすら、「生き神さん」や天皇についての恨みがましい言葉は一つも語られてゐない。ただ、「戦後は、自分が天皇を生き神さまと考えたことには問題があったなと思いましたが」といふのみで、天皇自身、「生き神さま」自身に問題があった、とはひと言も語らないのである。
このやうな吉本氏の姿勢は、「天皇はわたしにとって死んだ」と断言する桶谷氏と、際立つた対照をなしてゐる。桶谷氏は、敗戦後、村に天皇自決の噂が流れたといふことを回想し「一度死んだものがもう一度死ぬなどとはゆるしがたい愚劣であった」といふ激しい言葉でその憤りをあらはしてゐる。さうした憤怒の表明は、吉本氏の場合、まつたく見られないのである。 (本書152頁~153頁)
同じような戦争体験観を持ち、同じように本土決戦での決死を覚悟したふたりが、天皇その人に対する態度において、かくも異なってしまうのはなぜなのでしょうか。それについて、長谷川氏は次のように述べます。
おそらくそれは、桶谷氏がいはば紙ひとへのところで、天皇を神とは考へてゐなかった、といふことによるのであらう。たしかに、桶谷氏は三島由紀夫の語つた「神の死の怖ろしい残酷な実感」といふ言葉に共感し、その実感は自分にも「おぼえがある」と言つてゐる。しかし、桶谷氏の場合には、それは微妙なところで比喩的な表現にとどまつてゐたのだと思われる。(中略)ただ一つ、両氏が異なつてゐたのは、「神と己との直接性の意識」をもとめるか否か、といふ点であつたと思はれる。桶谷氏には、そのやうなものを求める必要はなかつた。
氏はなによりも「民族の歴史と神話を信じていた」のであり、天皇はただ、その信仰に「密着した何か」であつたにすぎない。
これに対して、吉本氏にとつての「生き神さん」は間違ひなく「神」であつた。そこに「神と己れとの直結性」をもとめうるほど、確固とした神であつた。また、その直結性を拒まれたとき、その憤怒が、ほとんどユダヤ教における〈神への憤怒〉の逆説に近づくほど、それはリアルな実感に裏打ちされた「神」なのであつた。
だからこそ吉本氏は、ちやうどユダヤ教徒やキリスト教徒が神への憤怒を口にしないやうに、天皇や「生き神さん」への憤怒を口にすることがないのである。 (本書153頁~154頁)
私がさきほど「私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像」とは、上に引いた文章の終わりの二段落の太字で示された部分です。
また、ここまではっきりと特異な吉本像を描き出した文章を、私はほかに知りません。この吉本像を補助線にすると、吉本隆明の次の有名な文章の味わいがとても深いものになります。
敗戦は、突然であった。都市は爆撃で灰燼にちかくなり、戦況は敗北につぐ敗北で、勝利におわるという幻影はとうに 消えていたが、わたしは、一度も敗北感をもたなかったから、降伏宣言は、何の精神的準備もなしに突然やってきたのである。わたしは、ひどく悲しかった。その名状できない悲しみを、忘れることができない。それは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみともちがっていた。責任感なのか、無償の感傷 なのかわからなかった。その全部かもしれないし、また、まったく別物かとおもわれた。生涯のたいせつな瞬間だぞ、自分のこころをごまかさずにみつめろ、と しきりにじぶんに云いきかせたが、均衡をなくしている感情のため思考は像を結ばなかった。 (『高村光太郎』より)
吉本は、ここで自分自身いまだにはっきりとこういうものだとは言い得ぬ「名状できない悲しみ」を味わった体験を生々しく語っています。いつまでたってもその意味が自分にとってはっきりしないけれど、その記憶が鮮やかな体験とは、少なくとも通常のものではなくて、いわば異常な体験です。個人の実感を超え出たところを有する体験である、とも言えるでしょう。
この言葉に、平成十六年に行われたインタヴューにおける「僕は家族のためにも祖国のためにも死ねないと徹底して考えて、出した結論が天皇のため、生き神さんのためなんです。(中略)生き神さまは政治に直接には関与しないけれど、国家を一人で背負う巫女的な存在で、その眷属が政治をおさめる天皇になる。立憲君主なんてやつでなく、昔からそういう信仰で日本は統治されてきたわけで、こいつのためなら死んでもいいと当時はリアルに感じられたんです」という発言を重ね合わせると、次のことが浮びあがってくるように思われます。
当時の皇国青年・吉本隆明は、彼なりのやり方で、大東亜戦争という絶対的なものを闘っていました。そうして、天皇という「生き神さん」のためなら死ねるという思いを固めるに至りました。つまり吉本は、「神の前に自らの死をさしだ」す腹を決めたのでした。ところが、突然にもたらされた敗戦において、吉本は、「生き神さん」から、そのささげものを拒否され「生きよ」と命じられることになりました。そのときに彼が感じた「名状できない悲しみ」にじっと目を凝らしてみると、それは、神を深く信じていたからこそ感じる激しい〈神への憤怒〉を、神をなおも信じ続けようとするからこそ、表出できないという、だれに対しても説明し難い深い不条理感から湧き出た感情であることが分かってきます。
このときの吉本は、絶対性を帯びた大東亜戦争を観念的な意味で極限まで闘い切ったがゆえに、敗戦という晴天の霹靂によって、しばらくは立ち上がれないほどの精神的な打撃を受けることになりました。しかしそのことによって、吉本は、図らずも、文化の違いという通常は超え難い壁を超えて、実は神学の領域という普遍的な場に足を踏み入れていたのです。苦しくとも、そこに留まり、そこを深堀りしたならば、吉本は、「戦後」の限界を突破するとても大きな普遍思想を掴み取ることができたのかもしれません。あるいは、その営為は吉本を狂気あるいは死に追い込むことになったのかもしれません。
いずれにしても、戦後の吉本は思想家としてその道を選びませんでした。そのことで吉本は、彼の崇拝者たちから「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどの存在になったのですから、思想家として悪い選択をしたとは言い切れません。その歩みをたいしたものだとも思います。しかしながら、彼が選んだ道が、彼自身を含めた日本の「大衆の原像」が被った敗戦のトラウマを根のところから乗りこえる契機を有するものではなかったことだけは確かです。長谷川氏は、どうやらそのことをとても残念がっているようで、本書に次の言葉を記しています。
吉本隆明氏の敗戦時に体験した「やるかたない痛憤」は、その核心部をみづから「ごまかさずにみつめ」ることのないまま、素通りされ、ずらされ、捨て去られてしまつた。ひょつとすると、われわれの敗戦体験を明らかにするための大きな手がかりを含んでゐたのかもしれない〈神への憤怒〉は、つひに白日のもとにさらけ出されることのないまま埋もれたのである。 (本書157頁)
ここで私は、桶谷秀明における戦後の日本人のあり方の「二分法」を評した長谷川氏の次の言葉を思い出します。
多くの人々が戦後の日本人のあり方をさまざまに分類し、評論してきたのであるが、言ふならば、それはすべて「生の方へ歩きだした」日本人のなかでの分類にすぎない。「生の方へ歩きだした」日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人と並べ置くといふ対比の仕方は、他に例を見ないものと言つてよい。
この言い方を借りれば、吉本隆明は、思想家として「『生の方へ歩きだした』日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人」や大東亜戦争の最中においてその絶対性に殉じた人びとと「並べ置くといふ対比の仕方」をしうるだけの貴重な敗戦体験をしながらも、その方法を捨てて、「生の方へ歩きだした」日本人にだけ視線を注ぐことで自分の戦後の道を切り開いていったと言いうるのではないかと思われます。それはそれで、いろいろと思想の果実をもたらしたことは確かなことだとは思います。しかしそれが、「われわれの敗戦体験を明らかに」し、それを大きく乗りこえることに資する道でなかったことだけは確かなのではないかと、私は考えます。
吉本思想の評価をめぐっては、長谷川氏の吉本評をひとつの大きなきっかけに、そう遠くない未来に地殻変動的な変化が起こるような気がしています。そのとき、護教的な吉本主義者は、おそらくその変化を乗り切ることができないのではないか。私たちが戦後思想の限界を乗り越えていくうえで、それは好ましいことなのではないでしょうか。
話を戻しましょう。吉本が抱き、あえて表出することのなかった〈神への憤怒〉を導きの糸にして、次は三島由紀夫の『英霊の聲』に目を凝らしてみましょう。 (続く)