goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

『そして日本経済が世界の希望になる』(P・クルーグマン著 PHP新書) (イザ!ブログ 2013・11・28 掲載)

2013年12月27日 07時32分40秒 | 経済
『そして日本経済が世界の希望になる』(P・クルーグマン著、山形浩生訳 PHP新書)



安倍首相が消費増税を延期していたならば、私は、この威勢の良いタイトルを真に受けたことでしょう。「クルーグマンさん、そのとおりですね」と。

しかし、消費増税は残念ながら決定されました。それが現実です。クルーグマン自身、ニューヨーク・タイムス九月一九日掲載の「いいところを邪魔すんな」において、「いいかな、もしかすると、日本はこの増税を受けてもなお、経済成長を維持できるかもしれない。でも、できないかもしれない。経済成長が確実に定着するまで待てばいいじゃないの。とりわけ、デフレ予想ががっちりと〔プラスの〕インフレ予想に転換するまで待てばいいじゃないの」と言って、消費増税決定に強く反対していました。

消費増税決定によって、デフレからの脱却の可能性は実際どうなったのでしょうか。少なからず、マイナスの影響をこうむるというのが衆目の一致するところでしょう。政府もそう考えたからこそ、経済対策6兆円を出動することにしたのですね。「だったら、最初からやらなきゃいいじゃない」とは思いますが、もはや後の祭りです。こういうのを愚挙といいます。

消費増税がデフレからの脱却に与える影響を具体的な数値で考えてみましょう。

本書に、「アーヴィング・フィッシャーによれば、実質利子率と期待インフレの和が名目利子率になる(フィッシャー方程式)」とあります。式にすれば、〈実質利子率+期待インフレ率=名目利子率〉ですね。それをちょっと変形すれば、〈実質利子率=名目利子率-期待インフレ率〉となります。ここで「期待インフレ率」は「予想インフレ率」ともいい、消費者や企業、市場関係者(投資家等)などが予想する将来の物価上昇率のことです。物価が将来どれくらい変動すると世の中や市場が見ているかを示すものともいえるでしょう。その代表的な指標が、ブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)であると言われています。

BEIは、実務上「利付国債の利回り-物価連動国債の利回り」で算出されるものです。要するにフィッシャー方程式は、実務を勘案して単純化すれば、実質利子率=物価連動債の利回り=長期国債の利回り-BEIとなります。つまり日銀は、異次元緩和によって、BEIを2%にし、長期国債の利回りをそれ以下に抑えて、実質金利をマイナスにしようとしているのです。そうすることで、円安株高を促進し、消費・投資を刺激しようとしている。むろん、細かい話はいろいろとありますが、大筋ではそう考えて大過はないものと思われます。

そこで、次のグラフを見てください(以下は、いずれも「浜町SCIコラム」というサイトから引いたものですhttp://www.hamacho.net/column/archives/11639)。




よく「アベノミクスは、安倍晋三が自民党総裁選に勝利したときから始まった」と言われます。そのことは、2012年10月から翌4月までのBEIの動きからもよく分かります。インフレ予想がどんどん上がっているのがよく分かりますね。

ところが、そこから今に至るまでBEIが足踏みしていますね。むしろ若干低下気味であると読めます。その最中の10月1日に、安倍首相は消費増税を決定・発表しました。これは、「デフレからの脱却が実現しないかぎり、消費増税はしない」という公約に対する明らかなる違反であります。この足踏みそのものが、おそらく消費増税決定をあらかじめ織り込んだうえでの動きだったのでしょう。このグラフからだけでも、消費増税決定によってデフレからの脱却に暗雲が立ち込める気配が感じられます。

次に、名目・実質のイールド・カーブとBEIを見てみましょう。イールド・カーブ(利回り曲線)とは、償還までの期限の異なる金利を線で結んでグラフにしたもののことです。償還期間の長短が生み出す期間と金利との関係を分析するのに利用されます。


私は、これを見て少なからずショックを受けました。なぜなら、これによれば二年後から予想インフレ率は、着実に下がり続けるからです。日銀が掲げる2%インフレ目標はついに達成されないどころか、日本経済は、超長期にわたるデフレ圧力にさらされ続けるという残酷な事実が、数字によって冷厳と指し示されているのです。二年後の2%予想が、消費増税によるかりそめのインフレ達成であり、また、その後の低下傾向もまた、消費増税によってもたらされるものであることが予想されます。ちなみに日銀は、消費増税によるかりそめのインフレ上昇分は、2%達成から除外することを明言していますから、グラフ上の二年後2%弱の数値は、インタゲ2%達成とは何の関係もありません。

次に、インプライド・フォワードBEIという数値のグラフを引きましょう。これは、BEIのカーブから、将来のある時点から1年間の期待インフレ率を計算したものです。


インプライド・フォワードBEIの推計(2013年10月末)

6-9年の実質金利は推計しているため、5-10年の曲線の形状には大きな意味はないそうですが、ここで読み取るべきは、5年以降にインプライド・フォワードBEIが著しく低下していることです。

このグラフの作成主は、将来起点のBEIの著しい低下の原因・理由を、冷静にふたつ提示しています。

①将来、再びデフレがやってくる
②普通国債の利回りは、名目の市場金利を正しく表していない

怖しいことに、①と②とは矛盾しません。そう私は考えます。というのは、こういうことです。②は、異次元緩和によって、普通金利の上昇を人為的に押さえ込んでいることを別の言い方で表現しているだけのことと考えることができます。つまり、日銀は異次元緩和によって、普通金利を市場金利から無理やり乖離させ、低い統制価格に近づけることでデフレからの脱却を図っているという言い方ができるのです。ところが、消費増税によって、超長期のデフレ圧力が強まり、デフレ脱却のための人為的な措置の効果が相殺されてしまう。そうすると、じりじりと押し寄せるデフレに日本経済はまたぞろ屈することになる。それは、GDPの停滞・低下、国家財政の悪化を招くことになり、日銀はやむを得ず異次元緩和を縮小するよりほかはなくなる。そうすると、人為的に低く抑えられていた金利は、「自然状態」を取り戻すかのように、一気に上昇しはじめ、国債は暴落する。緊縮財政論者が言うように、消費増税をしないと国債が暴落するのではなくて、消費増税したからこそ国債暴落の危険が高まるのですね。

とても暗いシナリオではありますが、①と②とは矛盾するものではないことがお分かりいただけたのではないかと思われます。つまり、消費増税決定によって、日本は再びデフレの泥沼に顔を埋めることになる可能性が、極めて高い確率で生じる、という結論にどうやら落ち着きそうです。少なくとも、精緻なBEI分析によれば、そういう結論が得られることになりました。

ああ、なんと愚かな意思決定を、安倍首相はしてくれたのでしょうか。たったひとつの彼の愚挙のせいで、『そして日本経済が世界の希望になる』という光り輝く言葉が、ゆめまぼろしのように消えてしまったかもしれないのですから。その可能性がきわめて高いのですから。

次に、中央銀行の独立性について。クルーグマンは、本書で、「私は中央銀行の独立性はよいことである、とは考えていない。独立性の維持があまりよいアイデアではなくなってきたからだ。独立性にはプラス面とマイナス面があり、マイナス面が際立ってきたのである。いまの経済は少し高めのインフレを必要としているのに、たとえそうすることが正しいと頭でわかっていても、思想的に反対する独立した中公銀行が存在する状態になっている」と言ってます。つまり、中央銀行の独立性に対して否定的なのです。

アベノミクスが登場するまで、日本経済が日銀の金融の引き締め志向に悩まされ続けた経緯は、みなさんご存知でしょう。また、EUの中央銀行であるECBが、いま金融引き締めに転じていることも、知っている方がおありでしょう。それらは、デフレ圧力にさらされている局面における禁じ手にほかなりません。そういう事態に鑑みて、彼は、そういうことを言っているのではないかと思われます。朝日新聞や日経新聞などの大手マスコミが、反アベノミクスに加担して、日銀の独立性の堅持をヒステリックに主張し続けたのを、つい昨日のことのように思い出します。愚かなことですね。

そのこととの関連で、クルーグマンは、雇用の確保を金融政策の目標として掲げていない現行の日銀法の改正を強く唱導しています。忘れがちな論点ですが、とても重要なことですね。私は、そうすることによってインフレ期待が高まるものと思われるので、クルーグマンに賛成です。また、現在の日銀が、欧米先進国のグローバル・スタンダードとしてのインフレ・ターゲット政策を採っていて、それが、マイルドなインフレの持続を通して、投資や消費にお金が回ることを目論んでいる以上、そうした金融政策の目標の変更は必須である、という言い方もできるでしょう。

話は変わりますが、クルーグマンは本書において、世界の中央銀行のトップのひとりひとりを血も肉もある具体的人物像としてとらえています。彼は、そういうことをどうやらとても重視しているようです。これは、ふつうの経済本ではけっこうめずらしいことなのではないでしょうか。しかしよくよく考えてみれば、それは当たり前のことであって、血も肉もあり、考え方にそれぞれの特徴のある、ごく普通の人間が、その都度その都度誤ることもありうる意思決定をしているのです。彼は、イスラエル銀行総裁のスタンレー・フィッシャーを高く評価しています。また、別の論文で、FRBの次期議長ジャネット・イェレンを「経済学者の経済学者」と形容し、その人選をほぼ手放しで喜んでいます。これは、世界経済にとってとても大きなことだと思われます。

本書の内容への言及は、これくらいにしておきましょう。少なくとも、オリンピックで空景気に沸くのはほどほどにして、最低、8%から10%への消費増税は絶対に阻止しなければ、日本経済はとんでもないことになってしまう、とだけは申し添えておきたいものです。ロンドン・オリンピックは、イギリス全体の算盤勘定からすれば、どうやら赤字だったようですね。ご存じでした?

そうそう。本書で、クルーグマンは、オバマ・ケアの達成を高く評価しています。その際、日本の皆保険制度は、アメリカが目指すべき理想であると絶賛しています。今国会において安倍内閣は、世界に誇る皆保険制度を破壊して、混合診療制度を容認する法案を提出・可決する構えです。混合診療制度がどれほどに破壊的な制度なのか、私は以前論じたことがあります。(http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3205133/)その点、なかなか伝わりにくいところがあるのですが、「どっちか選べるからいいんじゃん」というノリが通じるほどに甘いもんではない、とだけは言っておきたい。デフレ下における(下手をすれば二度にわたる)消費増税決定・国民皆保険制度の破壊と続けば、安倍首相は、戦後最悪の総理大臣のひとりになるのではないかと思われます。どこかで踏みとどまってほしいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜逸郎・平成総理大臣三バカ大賞 第一回受賞者決定! (イザ!ブログ 2013・11・27 掲載)

2013年12月27日 06時09分17秒 | 政治
*以下は、イザ!ブログおよびgooブログから転載した、小浜逸郎氏の政治エッセーです。むろん、ご本人の承諾を得ています。


平成総理大臣三バカ大賞 第一回受賞者決定!

                              主催:日本政治家評価協会

●この賞は、平成年間の日本の総理大臣の中で、過去・現在および将来にわたって国民の福利を著しく毀損した人の栄誉を称えて与えられるものです。
●受賞者は、故人、生存者を問いません。
●授賞式典次第
 ・日時:11月23日(土)勤労感謝の日 正午
 ・会場:閻魔大ホール(東京都千代田区地獄町1丁目1番地)
 ・当日は、表彰状授与とともに、副賞として「デジタル式舌抜き機 タングポン」を受賞者に進呈します。この最新鋭機は、痛みもなく自己責任において舌を抜くことができ、余計なことをしゃべらなくても済む絶大な効果があります。
●式典に参加ご希望の方は、ご自由においでください。

◎以下に、受賞者名と、その授賞理由を記します(就任順)。


第1バカ大賞 橋本龍太郎(故人)



【授賞理由】あなたは、平成9年、当時の国民がバブル崩壊後の不況にあえいでいたにもかかわらず、消費税を3%から5%にまで値上げする政策を断行し、もって国民を更なる苦境に陥れるとともに、当初期待されていたはずの税収増を果たせず、かえって税収減をもたらしました。この政策は、財政再建の目的を達成できなかっただけではなく、その後の国内需要をいっそう縮小させ、長く続く円高デフレ不況の大きなきっかけを作りました。その功績はまことに大であり、よってその栄誉を称えここに総理大臣三バカ大賞を授与します。

第2バカ大賞 小泉純一郎



【授賞理由】あなたは、新自由主義者・竹中平蔵氏の絶大な影響のもとに、構造改革・規制緩和路線の礎を築きました。郵政民営化、医療保険のサラリーマン負担割合増など、財政再建のために一連の政策を断行しましたが、その結果、財政再建の目的を達成できなかっただけでなく、かえってアメリカ発グローバリズムの進展による国富の流出、国内産業の疲弊、中小企業の相次ぐ倒産、雇用の不安定、地方の衰退などを招きました。しかしながら、長期的な見通しもないまま、直感にもとづくワンフレーズによって大衆を煽る才能には、驚嘆すべきものがあり、その人気はいまだに衰えを見せていません。「痛みを分かち合おう」という殺し文句に参ってしまった人がそのトラウマから抜け出せないようです。

最近の「脱原発」発言においては、局部的なフィンランド視察に触発されただけで、「核廃棄物処理場がないから原発はゼロ」と、その面目を躍如とさせております。

ちなみにフィンランドでは、現在200万kW級の原発を一基建設中、二基計画中ですし、アジアでは原発建設計画が目白押しです。福島事故の教訓による高度な安全技術の達成も含めた今後の日本の原発技術に、大きな期待が寄せられることは疑いありません。また核廃棄物処理に関しては、処分技術実用化へのあくなき研究、既設の原発でのMOX燃料による再処理トライアル、大きな受容能力を誇る六ヶ所村再処理工場のスタンバイ状態、高速増殖炉再建追求など、処分の具体的な可能性が現存しています。にもかかわらずあなたは、代替エネルギーの見通しを何一つ示さないまま、これらの地道な努力を「脱原発」のただ一言で踏みつぶそうとしています。あなたはこのように、かつての偉大なる人気を利用しただけの不勉強なバカ政治家の見本ぶりをいかんなく発揮しており、その功績はまことに大であります。よってその栄誉を称え、ここに総理大臣三バカ大賞を授与します。

*日本政治家評価協会・会長から一言:当協会では、小泉氏の総理辞任直後の平成18年、彼の行った政治に対する採点を求められ、その際、75点という高得点を与えてしまいました。無知と不明を恥じ入る次第です。ここに深くお詫び申し上げます。


第3バカ大賞 菅直人



【授賞理由】あなたは、市民運動家として反国家思想を存分に培いつつ、その一方で持ち前の「イラカン」キャラによって関係者を威圧しまくり、最高権力を通して反国家思想を実践するという、まことに見事な離れ業を実践いたしました。

平成22年の中国漁船衝突事件においては、那覇地検に責任を押しかぶせて漁船船長を釈放させ、都合の悪い映像情報を公開せず、我が国の安全保障を脅かすこの事件に対して一国の総理として何の説明責任も果たしませんでした。この快挙が、中国に日本を舐めさせる大きなきっかけを与え、その後の尖閣問題につながったことは明白であります。

また福島原発事故におけるあなたの「原子力のことは俺に任せろ」式の自分勝手な行動が、格納容器の圧力低下のために必要な措置を遅らせたことは有名ですが、こうした高圧的な権力政治屋的振る舞いの割には、「臨界」の意味も、「乗数効果」という経済用語も、「総理大臣が自衛隊の最高指揮官である」という基礎事実も知らなかったというのは、まことに驚くべき椿事であります。あなたのような無知な人を総理大臣に選んだ私たち日本国民は、末代までその栄光を称えられることでしょう。

またあなたは、以前から北朝鮮と縁が深く、その系統の政治団体に多額の献金までしております。日本の原発をゼロにしようというあなたの悲願は、エネルギー安全保障の観点の片鱗すらなく、ひとえにこの国をいかにして滅ぼすかという崇高な理想の一環として理解できるでしょう。

私たちは、あなたが総理大臣になってくれたおかげで、頑固な反国家思想の持ち主が国家権力を握るとどうなるかということを深く学ぶことができました。ちょうど党員資格停止処分も解けますので、その旺盛な権力欲を発揮して、再び黄昏の民主党の最高顧問に返り咲き、今後とも民主党の秩序を大いに攪乱していただくことを願っております。

これらの多大な業績を称え、ここに総理大臣三バカ大賞を授与します。


特別賞 鳩山由紀夫



【授賞理由】あなたは、東アジアを「友愛の海」に変えようという、かつてない大きな夢を抱き、その夢を「東アジア共同体」という壮大な構想によって実現しようとしました。その手始めに、実施寸前まで決まっていた米軍普天間基地の辺野古への移設を「最低でも県外」という素晴らしい言葉によってぶち壊してくれました。この一言で、東アジアの秩序の安定にとって不可欠である日米同盟がどれほど毀損されたか計り知れません。

またあなたは在任中に、解放同盟という一圧力団体の権力伸長を本質とする人権擁護法案(正確には人権救済機関設置法案・人権委員会設置法案)や、北朝鮮・韓国が泣いて喜びそうな外国人参政権法案が国会を通過するように強く働きかけています。あなたはまれにみる善人で、現実の政治がどんな力学によって動いているかについての感覚がまったく欠落しているにもかかわらず、果敢にもこれらの国家破壊的な政策の実現に挑みました。「国境を超えて仲良く」は、政治には通用しません。

あなたにとっては不幸なことに、昨年以来の自民党の圧勝により、この「みんな仲良くお手手つないで」の夢は叶いませんでしたが、総理辞任後も、民主党最高顧問という威厳あるポジションを保ち、中国政府からのお招きがあれば、ホイホイと出かけて、美味しい老酒の振る舞いに顔を火照らせ、安倍政権批判に熱中して中国政府を喜ばせております。

あなたは、尖閣諸島に対する中国の執拗で明白な侵略行為、韓国の露骨な反日攻勢の後でも、「友愛の海」の夢から少しも覚めていないようです。「宇宙人」と称されるこの天然ボケキャラの持ち主が、総理大臣として通用するという事実は、「奇跡」としか言いようがありません。この奇跡を垣間見せてくれた功績はまことに絶大なものがあります。よって、ここに三バカ大賞・特別賞を授与します。

*日本政治家評価協会・会長から一言:平成の御世も四半世紀を過ぎようとしておりますが、この間に四人もの素晴らしい総理大臣バカ大賞受賞者が出たとは、慶賀の至りであります。ああ、日本はなんて素晴らしい国なんでしょう! この秘密はいったいどこにあるのか、これから皆さんとともに考えていくことにしたいと思います。



〈コメント〉

☆Commented by tiger777 さん

日本政治家評価協会主催の「平成総理大臣三バカ大賞 第一回受賞者決定!」を一瞬本気にしてしまいました。ほんとにありそうな、いやあってよい賞だと思います。

会長の最後のことば「平成の御世も四半世紀を過ぎようとしておりますが、この間に四人もの素晴らしい総理大臣バカ大賞受賞者が出たとは、慶賀の至りであります。ああ、日本はなんて素晴らしい国なんでしょう!この秘密はいったいどこにあるのか、これから皆さんとともに考えていくことにしたいと思います。」の秘密の説き明かしを期待しています。

ただちょっと意外だったのは、橋本龍太郎氏が第1バカ大賞を受賞したことです。受賞理由にあるように確かに日本の長期デフレ不況のきっかけを作った罪は大きいと思いますが、当時としてはなかなか見通せなかったのではなかったかと。

無意味な消費税増税の橋本氏と新自由主義者小泉氏が1位2位のバカ大賞を受賞させたということは、さしづめ来年は一人で消費税増税と新自由主義政策を推進した安倍晋三氏がダントツのバカ大賞に選ばれそうですね。

小浜先生にならって、私の選ぶ三バカ大賞です。(受賞理由は略)

第1バカ大賞 小泉純一郎
第2バカ大賞 鳩山由紀夫
第3バカ大賞 菅直人
特別賞  野田義彦

としますがどうでしょうか。民主党から生まれた総理全員入賞です。
小泉純一郎はやはり政治的には群を抜いてバカだと思います。鳩山は、単なるバカでしょう。菅は鳩山とは違うバカですが、バカには変わりがない。野田は、間違えて首相になってしまった勘違いバカなので、特別賞にふさわしいと思います。

☆Commented by 美津島明 さん
 To tiger777さん

横槍を入れる形になって申し訳ありません。
あなたの「無意味な消費税増税の橋本氏と新自由主義者小泉氏が1位2位のバカ大賞を受賞させたということは、さしづめ来年は一人で消費税増税と新自由主義政策を推進した安倍晋三氏がダントツのバカ大賞に選ばれそうですね」という言葉に、少なからずショックを受けたので、とにもかくにも、投稿することにしました。

私は、マスコミや政治家に騙され続ける自分がほとほと嫌になり、なんとかならないものかと思って、自分のブログを去年の三月に立ち上げました。

私は、いろいろと自分なりに考えた末、先の衆議院選や参議院選で、安倍自民党に一票を投じたのでした。ところが、安倍政権の一連の動きによって、どうやら今回もこれまでと同じようなはぐらかされ方をしているという感触が強くなってきていました。そのモニャモニャ感を、あなたの先の鋭い言葉が鮮やかに照射してくれたのです。

どうしていつもこんなことになってしまうのか。同じようなことを繰り返してしまうのか。私が選挙民として愚かであることは認めるにやぶさかではありません。が、それを超えて、アメリカという大きな影の存在がそこに感じられるのです。つまり、1985年のプラザ合意位以降の対米ボロ負け状態のひどさの程度がどんどんはなはだしくなっている、という問題です。敗戦国トラウマが、ここに来て、どうにもならないほどにひどいものになっているのではないかということが言いたいのです。

戦後レジームからの脱却を揚言した政治家が、率先して従米路線を爆走するという喜悲劇に、今日の政治状況の救いがたさが露呈しているのではないでしょうか。「安倍首相は、私だ」ということです。

☆Commented by kohamaitsuo さん

当ブログ読者の有力なお二人から、たいへん参考になるコメントをいただき、深く感謝いたします。

自立的にものを考えられずにひたすら対米従属でことをやり過ごすという日本政治のバカプロセスは、じつは昭和末期から延々と続いて今日に至っているのですね。安倍首相も「戦後レジームからの脱却」を掲げながら、旧来からの罠にすっかりはまってしまっていると言わざるを得ないでしょう。

ともあれ、来年のバカ大賞は、4月からの状況を確認してから決めたいと思います。

どうも日本国民の平均的な感覚には政治に対する切実感や理性的な判断力というものが伝統的に不足しているようです。一次大戦の悲惨さを経験しなかった日本は、そのせいか、あの無謀な対米戦争にずるずると引きこまれていきました。アメリカに対する態度は現在と一見正反対に見えながら、自前でものを考えようとせず、ムードに流されるその精神構造において同じであるように思います。危機待望論が心中にかすかに芽生えつつある昨今です。こんな戯れ言を試みる気になったのも、そのせいかもしれません。

なお、橋本龍太郎を一番目に挙げたのは、就任順に並べることで中央政治のバカプロセスをわかりやすく示したかったためで、けっして彼を1位としているわけではありません。tiger777さんのおっしゃるとおり、あの時点ではまだ見通せなかったと思います。私など、小泉氏の時も見抜けなかったのですから。
また、野田佳彦氏をノミネートしなかったのは、尖閣国有化とやけくそ解散によって、多少は割り引かれるかな、と(笑)。

☆Commented by tiger777 さん

「安倍晋三氏がダントツのバカ大賞に選ばれそうですね」
調子に乗って書きすぎたかもしれません。申し訳ありません。

>私は、いろいろと自分なりに考えた末、先の衆議院選や参議院選で、安倍自民党に一票を投じたのでした。ところが、安倍政権の一連の動きによって、どうやら今回もこれまでと同じようなはぐらかされ方をしているという感触が強くなってきていました。

と美津島様が書かれていることは、私も全く同じ思いをしています。

衆院選投票前日の秋葉原での安倍氏の演説をYoutubeで見ましたが、あの聴衆の熱気が今の安倍首相を作り出したものと思いますし、きっと安倍首相自身ともあの時は一心同体で嘘はなかったと思います。

しかし、その後の動き、TPPや消費税増税、法人税減税、発送電分離、規制緩和等何ひとつ期待に応えてくれるものはありません。

特に消費税増税有識者ヒヤリングの際、増税反対派の専門家を誰も選ばなかった。法制局長官ですら意中の人を選ぶことができるのに、高々ヒヤリングですら、増税反対の意思を示す人選を全くしようとしなかった。結局安倍首相の消費税増税は既定路線だったのです。

もうこの辺で私たちは「安倍幻想」を捨てないといけないのだと思います。

>どうしていつもこんなことになってしまうのか。同じようなことを繰り返してしまうのか。

 未美津島様のいう「アメリカという大きな影の存在」については、よくわかりませんが、結局は自民党というか安倍晋三という政治家は、前より一段と進化して大きな政治家(皮肉ですが)として、私たちより一枚も二枚も上手であったということではないでしょうか。

☆Commented by 美津島明 さん
To tiger777さん

> 未美津島様のいう「アメリカという大きな影の存在」については、よくわかりませんが、結局は自民党というか安倍晋三という政治家は、前より一段と進化して大きな政治家(皮肉ですが)として、私たちより一枚も二枚も上手であったということではないでしょうか

まったく、その通りだと思います。そういう「不都合な事実」のくもりなき認識が、いま、なによりも大切なのではないかと思っています。この期に及んでもまだ安倍信者であり続けることは、愚の骨頂です。

「アメリカという大きな影の存在」とは、TPP交渉参加決定・年内妥結推進、規制緩和断行、消費増税決定、靖国神社不参拝の決定という安倍政権の節目節目における意思決定において、アメリカの意向が透けて見えることを指し示している言葉です。それを反米の情念にすりかえるのは、馬鹿げたことであって、アメリカは正直に自分たちの国益を主張しているだけのことである、という認識をくもらせてはいけないと思います。それは、当然のことなのではないでしょうか。おかしいのは、日本側の、病的に腰の引けた対応なのではないかと、私は思っているのです。そこを、すり替えると、馬鹿げた議論が延々と生じてきます。それには、うんざりしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はなわちえさんが、一日警察署長に!  (イザ!ブログ 2013・11・26,12・3 掲載)

2013年12月27日 05時35分34秒 | 音楽
はなわちえさんが、一日警察署長に!

津軽三味線奏者・はなわちえさんが、故郷に錦を飾ることになりました。来る十二月一日(日)、イーアスつくばで、彼女が、つくば北警察署の1日警察署長を務めることになったのです。現地で、演奏もするようです。いろいろと活躍していることが評価されている証拠ですね。ファンとしては、喜ばしいことです。以下に、それにちなんだ動画とポスターなどを掲げておきます。特に、動画の演奏は、ごく短いものですが、そのフレーズには、聴き手をはっとさせる新鮮さがあります。

茨城県 飲酒運転根絶メッセージ/津軽三味線奏者 はなわちえ






茨城県警察本部(公式) ‏@ibarakipolice
【年末の交通事故防止県民運動が始まります】12月1日~12月31日は年末の交通事故防止県民運動が実施されます。12月1日はイーアスつくばにおいて11時からイベント開催。三味線奏者はなわちえさんの出演や、常総学院野球部・チアリーディングショー等盛りだくさん!ぜひお越しください



はなわちえさん 一日警察署長の写真二枚

今日は、まったくのミーハーとして振舞うことをお許しください。

津軽三味線奏者・はなわちえさんが、十二月一日につくば北警察署の1日警察署長を務めたことは、すでにお伝えしました。で、彼女のブログに、当日の彼女の姿を写した写真がアップされているのを目にして、私は、「ちえちゃんは、婦人警官の服装がよく似合うなぁ」と心を動かされてしまい、みなさまにも、それを見ていただきたいという思いをこらえることができなくなってしまったのです。紺色の制服を身にまとってキュッと引き締まって見えるちえさんの全身写真に、私もちょっとばかりキュッとなってしまったのでした。彼女が、このコスチューム(といっても本物の制服です)で演奏したことを思うと、私は無理してでも会場に駆けつけなかったことをとても後悔しました。






これらの写真が私の心を惹きつける理由は、単に私がはなわちえさんのファンであるからというだけではないことに気づきました。婦人警官のユニフォームと津軽三味線との組み合わせという誰も想定したことのないイメージが、私たちの意表をつくのでしょう(2013・12・27 記す)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一・道徳的な死のために その3(テロについて)  (イザ!ブログ 2013・12・12 掲載)

2013年12月27日 05時19分49秒 | 由紀草一
道徳的な死のために その3(テロについて)


ボリス・サヴィンコフ

メインテキスト:アルベール・カミュ 佐藤朔・白井浩司訳『反抗的人間』(原著は1951年刊、『新潮世界文学49 カミュⅡ』昭和44年刊より。なお、この叢書には白井健三郎訳「正義の人々 五幕」も収録されている)
サブテキスト:サヴィンコフ 川崎浹訳『テロリスト群像』上・下巻(原著は1926年刊。岩波現代文庫平成19年)

「死とモラル」に因んで、アルベール・カミュが1950年前後に提起した問題に、若い頃興味と疑問を持ったことを思い出しましたので、今回改めて考えました。

主著『反抗的人間』に集成されているものを一番大きく言うと、「目的は手段をどの程度まで正当化するか」であり、小さく言うと、「革命が正しいとして、そのためなら人を殺してもいいのか」になり、具体的にはいわゆるスターリニズム(この言葉が出てくるわけではない)の超克が目指されている、と思う。ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判は1956年だから、カミュの先見性は讃えられるべきだろう。

加えてこの時代は、日本でもそうだが、下手に人類初の共産主義国家ソビエトを批判すると、「お前は右翼だ、ホシュハンドーだ」とのレッテルを貼られ、知識人稼業が危うくなる状況があり、現にカミュもJ・P・サルトルとの有名な論争の果てに、このフランス知識界の大物と絶縁し、結果孤立することになった。それでもやった勇気という点でも、大したもんです。

ただ、こういうのはやはり昔の話。現在でもなお意義が見出せるのは、カミュが戯曲「正義の人々」(49年作。同年上演)の題材とした、20世紀初頭の、ロシアのテロリストをめぐる議論だろう。

『反抗的人間』中「第三章 歴史的反抗 心優しき殺害者たち」で改めて取り上げられているのを見ると、これはスターリニズムの解毒剤の有力候補として挙げられているようだ。つまり、非人道的な圧政に抗して巻き起こった革命が、成功してみると、前と同じか、さらにもっとひどい圧政が敷かれる。ロシアに限らず、フランス革命でも中国共産主義革命でも見られたこの悪夢の連鎖を断ち切る思想的な力が、他ならぬロシア革命(そのうちでも、いわゆる第一革命)の最初期を担い、すぐに消えていった革命家たちのうちに見出せるのではないか。こうまとめてもいい熱い思いが、カミュにはあった。

このテロリストである革命家とは、社会革命党(頭文字から取ったエス・エルの略称で知られる)、その中の戦闘団に属した闘士たちのことを指す。レーニンがいた社会民主労働党(1903年にボルシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した)はこの頃は機関誌を通じた言論・啓蒙活動を主としていたのに対して、彼らはロシア皇帝(ツアー)政府要人の暗殺という実力行使に出た。

9.11以前はこういうのがテロの典型だと考えられていた。平成12(2000)年に出た『政治学事典』(弘文堂)では、次のように定義されている。

テロリズムとは殺人を通して、政敵を抑制・無力化・抹殺しようとする行動である。抑圧的な政府に対して集団的行動がなかなか思うように取れない時に、政府指導者個人を暗殺することで、レジーム自体を震動させ、崩壊させるきっかけをつくろうと企図することをテロリズムという。19世紀のロシアの無政府主義者のなかにはこのようなテロ戦術が有効であると考えて行動するものがいた。

実際は19世紀後半は、ロシアに限らずヨーロッパ各地でアナーキストによるテロが激発した時代ではあるが、『反抗的人間』を読むと、ロシアの一人の人間と一つの組織がとりわけ印象に残るのは事実である。

セルゲイ・ネチャーエフは、ゲルツェンやバクーニンほど有名ではないが、「革命のためにはすべてが許される」と初めて明確に言った人物だった。ただ実際にやったのは一連の詐欺と言ってよい。与太話によって作り上げた組織を防衛するためとして、仲間の一人を殺したことが最大の事績で、これはドストエフスキー「悪霊」の題材となった。

一方、1881年に皇帝アレクサンドル2世を暗殺したことで有名な「人民の意思」派は、その後の強力な弾圧によって84年には壊滅している。その路線を継ぐことを期して1903年に戦闘団を組織したのがエス・エルである。最も過激な行動にも関わらず、彼らはネチャーエフ風のマキャベリズムとは無縁だった。あるいは、できるだけ無縁であろうとした。そこにカミュは多大な共感を寄せている。

「殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼らには見えたのである」。なぜ必然かと言えば、それ以外にロシア帝政をくつがえす有効な手段はないからであり、しかしそれでもなお殺人は悪だとする。この二つを両立させる方法、というよりはむしろ、矛盾を抱えたままでなすべきことをするための方法を、彼らは示したのだ、と。

具体的に言えば、人を殺した以上、自分も死ぬべきだ、と考えて、その通りに実行した、そこにポイントがある。

彼らが必然的だと思ったものを正当化することが不可能だと知ってから、彼らは、自己の身体を正当化に賭けられはしまいか、自分たちを犠牲に供することによって自己に課された質問に答えられはしまいか、と想像したのである。彼らにとって、彼らまでの他のすべての反抗者と同じく、殺人と自殺は同一のものであった。それゆえに一つのいのちは、もう一つの命によって支払われるわけであり、これら二つの犠牲から、ある価値が約束されるのである。カリャーエフも、ヴノロフスキーも、他の人たちも、いのちが等価値であることを信じている。それゆえ彼らは、思想のために殺人を犯すとはいえ、いかなる思想も人命以上とは考えなかった。正確に言えば彼らは、思想の高さに生きているのだ。彼らは、思想のために死ぬほど思想を肉体化しているので、最期には思想を正当化してしまう。

すんなり納得できますか? 私は大学生時分から、ひっかかるものを感じている。

命は等価である、というのは、法律の次元ではいかにもそうだろうし、そうでなければならない。しかし、実存(実際の生活上の意識、ぐらいの意味です)に即した場合、命はかけがえがない、これは「欠けた場合には替えはない」を意味する。つまり、交換はきかない。ならば、他人の死を自分の死で「支払」う、なんぞという取引が、根本的に成り立つはずはないのである。

実はカミュもそれは理解していた。死後に公刊されたカイエ(ノート)の、1947年頃のに、次のような文が見つかる。「一つの生命は、一つの生命によって支払われる。その理屈は誤ってはいるが、尊重すべきだ。(奪われた一つの生命は、与えられた一つの生命に値しない)」(高畠正明訳『反抗の論理 カミュの手帖―2』新潮文庫)。原文は見ていないのだが、この訳の( )内は、どうもまちがいであるように思う。今回ネット上で見つけた西川宏人の講演録「アルベール・カミュ『正義の人びと』―愛と正義と死と―」www.paris-catholique-japonais.com/conferences/conference-pr-nishikawa-2007-06-27-les-justes.pdfではこの部分は、(奪われる生命は差し出される生命と相殺できるものではない)とあって、これならピンとくるし、私も全く同感である。

しかしそうであればなおのこと、上の『反抗的人間』の、熱烈な讃美はどういうことなのであろう。ぎりぎり言えるのは、彼らが殺人は罪であることは、どこまでも自覚して、ごまかそうとはしなかった、という点で、その後のレーニン、スターリン、毛沢東、などの成功した革命家、成功のために何人も殺した指導者たちよりはずっとましであった、ということだろう。何しろ本当に命がかかっていて、自己犠牲の精神もそこにはあるのだから、偉大、と言ってもいいかも知れない。

もっとも、途中で死んでしまうのなら、彼らの手では革命は決して成就できない。それと引き換えに革命の純粋な夢を保ち続ける、子供っぽい類の偉大さであることはもう一面の真実ではある。だから、彼らが「思想の高さに生きて」、「思想を正当化」し得たのかどうか、今の私にはよくわからない。

ただし、カミュも直接参考にしたサヴィンコフの回想録『テロリスト群像』によると、エス・エル戦闘団のメンバーも、多くは十死零生を期して事に臨んだわけではない。暗殺方法は爆弾を投げることで、当時の爆弾は扱いが難しくて危険だったから、犠牲は覚悟されていたが、死ななくてはならない、というほどではなかった。

1904年、反政府勢力に対する苛烈な弾圧を指揮したことで知られる内務大臣プレーヴェを爆殺したのが最初の成果だが、この実行犯サゾーノフは自分が投げた爆弾で負傷して、心ならずも(爆死したほうがましだったとその後も言い続けた)捕まり、たぶんプレーヴェの悪名のおかげもあったろう、絞首刑ではなく終身刑となり、その後減刑もされている。一方、06年、モスクワ総督ドゥパーソフを狙ったヴノロフスキーは、暗殺には失敗して自分が爆死した。それは充分覚悟のうえのことだったし、他に現代のいわゆる自爆テロに近いやり方をした者もいたが、この時代にはまだそれは例外と言ってよい。

上の二件に挟まる形で、05年にイヴァン・カリャーエフが前のモスクワ総督で皇帝ニコライ2世の叔父セルゲイ大公暗殺に成功した。彼は、プレーヴェ暗殺計画に加わったときは、自分が爆弾を抱えて馬車の下に飛び込むことをエス・エル戦闘団の最高指導者エヴゲーニー・アゼーフ(後に秘密警察のスパイであったことが発覚した)に申し出ている。また、官憲に捕まるぐらいなら日本人に倣って「ハラキリ」をしたい、と現場指揮官のサヴィンコフには言っていたそうだ。が、実際には逮捕されて、絞首刑になっている。

それよりも、彼を有名にしたのは、セルゲイ大公暗殺計画第一回目の失敗に依る。

2月2日、大公は夫人が庇護している赤十字のための観劇会に出かけることがわかった。エス・エル戦闘団はこの日を決行日に定め、カリャーエフと、彼が失敗した場合に第二弾を投げるはずのもう一人のメンバーが、ボリショイ劇場付近の路上で配置についた。大公を乗せた馬車はカリャーエフの前を通った。しかし、爆弾は投げられなかった。予備の者も、何か不測の事態が起こったものと考えて、見送った(彼はこの後、自分には暗殺を実行するほどの力はないと感じて、戦闘団を離脱している)。

起きたことはこうだった。カリャーエフは、爆弾を投げようとした寸前に、大公夫人と大公の幼い甥と姪が同乗しているのを見たのだ。「ぼくの行動は正しかったと思う。子供を殺すことができるだろうか?……」

『テロリスト群像』には、サヴィンコフも、他のメンバーも、カリャーエフを一切非難しなかったと書かれている。つまり、「子どもを殺すことはできない」は、エス・エル全体の意思だと認められた。

彼らに代わってカミュが、実名のカリャーエフを主人公とする「正義の人々」第二幕で、「革命のためならいかなる犠牲もやむを得ない」とする党員を登場させて、議論させている。サヴィンコフに当たる登場人物は、これは「名誉の問題だ」と言ってこの党員を退ける。子どもを殺せば、たぶん彼等は民衆の支持を失う。それはエス・エルにとって致命的なダメージになり得る、と。

その通りかも知れないが、これでは話は政策上の問題にとどまりそうである。もっと道徳的かつ原理的に、「子どもを殺してはいけない」と言えないだろうか。「正義の人々」第四幕は、非常に厳しい、妥協のない形でこの問題を追及している。まるでこの後エス・エル党員を手放しで讃美しているのが嘘に思えるほどに。

カリャーエフは2月4日に、官邸から出たセルゲイ大公の馬車に投弾し、暗殺を成し遂げた後、その場で逮捕された。この幕は獄中の彼を描いている。まず警視総監がやって来て、次のように問いかける。「その思想で子供は殺せないということになると、同じ思想で大公なら殺せるというわけになるんですかな?」。答えは大公妃にすればいい、とも言われる。因みに、セルゲイ大公夫人が、夫の殺害者を訪ねたのは歴史的な事実である。ただ、彼女は自分たち皇族の慈悲深さを国民にアピールするのが目的だったようだから、以下の対話はカミュの創作である。

自分は「正義の行為をした」と言うカリャーエフに、彼女は次のように告げる。「まあ、同じ声! お前のいまの声はあのひとの声とそっくり。男の人は、正義について話すときは、誰もみな同じ調子になるんですね。(中略)あのひとは間違ってたのかも知れません。お前も間違って……」

人間は誰も完全になれない以上、正義はついに相対的なものでしかない。エス・エル派から見れば大公の不正は明らかだが、大公からすれば彼らこそ不正なのだと言うだろう。どちらがより正しいか、完璧に決定するための超歴史的かつ超社会的な基準はないし、あっても人間にはわからない。カリャーエフは、もし自分が間違っているとしたら、今の牢獄と翌日の刑死がその報いになる、と言う。罰を甘受する覚悟があるから罪も恐れない、ということは、前述した議論の範囲に入るだろう。

では、それでも子どもは殺さないことについては? 「子どもに罪はない」。世界中どこでも通用しそうな考えではあるが、本当に、いつもそう言えるのか? 大公妃は言う。姪は意地の悪い子だ。貧しい人に触れるのを嫌がった。大公は、少なくとも百姓たちを愛していた。いっしょにお酒も飲んだ。それなのに?

いや、大公の人柄などは問題ではないのだ。「僕が殺すのは、彼じゃない。僕は専制政治を殺すんだ」と、カリャーエフは第一幕で言っている。しかし、そうだとすれば、生身のセルゲイ大公を殺す意味は、曖昧になるのではないか? ツアーを頂点とする専制政治さえ打倒できるなら、もう政府要人のだれそれという個人は問題にならなくなるはずだ。逆に、体制がそのままなら、個人は死んでも、その役を継ぐ者が必ず現れる。それを殺せば、また次が……、と、きりのない話になる。現に、セルゲイの次のモスクワ総督もまた、エス・エルは標的にせねばならなかったことは前述した。

明らかに、革命は、個人よりレジーム(体制)の打倒を目指すべきものだ。ただし、それが成し遂げられたら殺人のほうはなくなる、というわけにはまずいかない。1918年の十月革命直後のロシアでは、レーニンの命令によって、皇帝ニコライ2世の一家が、十七歳の皇女アナスタシアを含めて全員惨殺されたのは、周知の通り。どの道をたどっても、血に飢えた正義の神を宥めるのは容易ではないのである。

もう一つつけ加える。エス・エルが、暗殺はしてもできるだけ「道徳的」であろうとし、「名誉の問題」に気を配っていたことは事実である。裏切り者を処分したとき、彼の自宅で決行したので、止めに入った年老いた母親を傷つけてしまった、それまで問題視されたぐらいだ。またサヴィンコフは、他の乗客を巻き添えにする可能性の高い列車内の爆破には反対している。後には「ロシア皇帝の牢獄から脱走するとき彼は、彼の逃走をさまたげるかもしれぬ士官たちに発砲はしても、兵士たちに彼の武器をむけるよりはむしろ自殺しようと決心する」(『反抗的人間』)。当時のロシア軍の士官はだいたいは貴族だが、兵士は民衆だから、というわけだろう。しかし……。

しかし馬車を狙った場合、列車よりは周囲の人に被害を及ぼす可能性はいかにも低いだろうが、標的が一人で乗っている場合でも、必ず馭者はいる。彼も爆破の被害を受けないわけにはいかないが、こちらは民衆に属するのではないか?

セルゲイ大公の馭者はアンドレイ・ルーヂンキンという名だった。カリャーエフは大公の馬車を特定するのに、まず御者台の彼を目印にした。爆破後ルーヂンキンはどうなったろうか。『テロリスト群像』には、官公側の発表が写されており、そこに「無数の傷を負うた」とだけある。彼が死んだのか、一命はとりとめたのかは皆目わからない。

カリャーエフも、サヴィンコフも、そしてカミュも、彼のことなど全く気にかけてはいないのである。もしそこまで気にかけたとしたら、爆弾テロそのものをやめるしかなく、彼らの活動は著しく制限されなければならなかったろう。ここで結局、革命の大義が、庶民を直接犠牲にする手段を正当化してしまっていることが認められる。

以上は批判のために書いたのではない。不完全な我々には、完全な正義を行うことはできないことを改めて確認したかった。それにまた、「人を殺してはいけない」にも、「子どもを殺すことは大人を殺すより悪だ」にしても、論理的な根拠などない。感覚の問題である。ただ、このような感覚に基づいて、人の世は現に営まれているのだし、人はそういうところでしか生きていけないのは確かである。

ここからして「何をなすべきか」について多少は論理的に言おうとしても、せいぜい、できるだけ謙虚に、寛容になりましょう、ということぐらいしかない。理想に則って世の中を一気に変えてしまおうとする革命は、犠牲が多くなり過ぎる。カミュの言う、この世の不条理(人間は完全になれないこともその中に入る)にノンと言い続ける反抗というのも、カッコよすぎてとうてい凡庸な身の丈には合わない。生まれてから身についた感覚を一応の頼りとして、迷いながら、多少とも正しいと思える方向に進む以外に、普通人にとっての「正しい道」はないようだ。ただ、迷うことそれ自体は倫理的な行為である、とは言い得ると思う。いつも同じようなことしか言えないのは、たいへん恐縮ですが。

それにつけても、2001年9月11日以後我々の目にも明らかになった自爆テロの有様には慄然とさせられる。軍人でも政府の要人でもない一般の人々が集まるところへ、爆弾を抱いて行って、もろともに爆死する。一番成功率が高い、ということなのだろうが、それだけで、ここにはいかなる倫理も道徳も、それを気にかけようとする気配も、ない。

国末憲人『自爆テロリストの正体』(新潮新書)によると、その実行犯たちは、アメリカやイスラエルに追い詰められてぎりぎりの生活を強いられた者、というわけでもない。多くは、けっこう裕福な家庭出身でそれなりに教育もある者たちが、例えばアラブ人であることで差別される、というような体験から、不全感を抱き、そこをアルカイダなどのテロ組織にオルグされて、やるのだと言う。

パレスチナ出身のハニ・アブ・アサド監督の映画「パラダイス・ナウ」(2005年)を見ても、対イスラエルの自爆テロに向かう二人の青年(一人は途中で脱落)は、特に狂信的ではなく、恋愛もすれば、友人や家族を思いやる心も持っている。根深いコンプレックスはある(主人公の父は密告者だった)が、それをも含めて、日本でもざらに見つけられるような若者だ。違いは、明確な敵、つまりイスラエルとその背後のアメリカがあること。それで、自分自身を含めて多くの人を犠牲にするテロ行為に走るとは……。

私の人間理解は、ここには到底及ばない。知識もない。年を取って自分から宿題ばかり増やしているのは我ながら苦笑ものですが、この問題に取り組むのもやっぱり他日を期します。

*由紀草一氏ブログ「一読三陳」から、ご本人の許諾を得て転載しました。


〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん
由紀草一さんへ。

ご文章での真摯な問いかけ、とてもよくわかります。でもたいていはこういう問いをどう克服するかについて、みんな逃げてしまうのですね。

じつは私も若いころ、カミュやサヴィンコフや高橋和巳を読んで、この種の問題で悩んだことがあります。

カミュについて言えば、「自分が死ぬなら悪政を終わらせるための殺人は許される」という一種の自己納得を「正義」としてぎりぎり容認するというところに落ち着くようですが、これだと、では、ある思想的信念があって、そのために殉教するなら、いくらでも人を殺してもよいのか、信念の正しさはだれが決めるのかという反問がすぐ帰ってきて、問答は循環してしまいます。当時のテロリストなら、「ひとり対ひとり」という言い分で説得力を持ったかもしれませんが、人類史のひどさを見れば、そういう問いの応酬の形式そのものがむなしいという感じがどうしても立ち上ります。

カミュのダメなところは(といっても、必死で問題提起したその功績は認めるべきですが)、この種の問題を倫理的、道徳的、文学的な主題に限局していることそのものにある、と、いまの私は考えます。というのは、この種の問いは、いわゆる「限界状況」をシミュレートすることが前提となっていて、そこで初めて、あたかもそれが普遍的な倫理問題であるかのような意匠をまとうわけです(エス・エルの意志と行動にまつわる問いも、限界状況の中で出てきたものですね)。しかし、逆にそのことは、政治問題を社会知として考えるという志向性を隠蔽するのではないか。倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の「心理」としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある、と思います。これは、マルクスやケインズの発想につながるものだと勝手に考えているのですが。

☆Commented by soichi2011 さん

わざわざコメントをいただき、ありがとうございます。

 おっしゃることはよくわかります。前にサンデルの本を取り上げたときに見た有名な(なんで有名なんですかね?)「暴走する路面電車」の思考実験もそうですが、限界状況を考えたほうがスリリングなわけでして。そのワクワクする面白さで人を惹きつける一種の手管を使っているのは見易いことです。私もその類いの「面白さ」には大いに惹かれるほうでして。

さてしかし、これらを政治問題として考えた場合、いかなる展望が開けてくるものか。例えばカミュは、この点ではサルトルたちと同じく、「革命は必然だ」という前提の上で語っているわけです。ロシア革命が回避できるものだったら、エス・エルがどうたらの状況も最初からなかったわけです。

しかし、そういうわけにいきましたでしょうか。いや革命なら、結局地域的にしか起きなかった、例外的な状況だ、でいいとは思いますけれど、国家というのはいつなんどき、個々人に限界状況を押しつけてくるかわからない。パレスチナ問題なんて、政治問題に違いないないですが、ではどのような政治的な解決が可能なのか、見当もつかない。我が国だって、中国の出方ひとつで、久々に戦争をする羽目になるかもわからない。その場合、戦うのはやっぱり個々人です。

 たぶん私は、小浜さんより志が低いんだと思いますが、完璧な人間も完璧な政治もない、その意味で世界はいかにも不条理、しかしAという行為よりBという行為の方が「よい」ことがあり得る(カミュのカリギュラは、そいつは非論理的だと言った)、それは信じていこう、とだけ思っております。世界全体のことは、お話程度にしかわかりませんので。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一・道徳的な死のために (その1)(その2) (イザ!ブログ 2013・11・25)

2013年12月27日 04時28分09秒 | 由紀草一
*以下は、由紀草一氏が、ご自身のGOOブログに投稿なさった論考です。当ブログ主の要請によって、ここに転載いたしました。最近のブログ主の論考と響きあうところが多いと感じたからです。むろん、その知的でクールな切れ味鋭い筆致は、自ずから別物ではあります。

道徳的な死のために
その1 切腹について

                                           由紀草一
2013年11月08日 | 倫理
メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)

長谷川三千子氏の近著『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日』を題材にして、著者にもお越し願って、先日読書会を開いた。そのとき、長年考えていたことを口にすることができた。もっとも、口頭で思いをきちんと伝えるのはいつも難しい。だから多少とも読んでくれる人がいることを期待して、例えば今ここで文を綴っている。以下に、その時言ったことを改めて、枝葉をつけて、述べる。

それは、日本人はなぜすぐに死にたがるのか、死を美化する傾向があるのか、ということである。

もっとも、性急に「日本独特」だなどと言えば、まちがいになってしまう。「美しい死」の観念なら、世界中にある。モーリス・パンゲの著書は、「プルターク英雄伝」に描かれている、宿敵ジュリアス・シーザーとの戦いに敗れて、腹をかっさばいて、即ちその後「ハラキリ」と呼ばれるようになった方法で死んだカトー(小カトー)の話から始まっている(B.C.46)。降伏すれば、シーザーはカトーを殺すまでのことはなかったろう。しかし、この敗北によって、ローマに帝政が敷かれることは確定的となった。共和制のために生涯戦い続けてきた者が、どうしてそのような国で生き続けることができよう。信念に殉じた、最も誇り高い生き方としての自死。後にセネカは、この死を、この世で最も美しいものと呼んだそうだ。

日本と違うのは、このような死が、賞賛されることはあっても、様式化され儀式化されるまでのことはなかった点だ。その要因の第一は、やはりキリスト教であろう。人に生命を与えたのは神である、とすれば、その命を自分の手で捨てることは神に対する反逆であり、罪である。こう明確に定めたのは聖アウグスティヌスであるらしい。そうすると、「美しい死」は、殉教、つまり節を曲げずに敵に殺されることしかなくなる。

一方日本では、個々人はもとより「人と人との間」をも完全に超越した上位の審判者は、少なくとも一般的には考えられなかった。そこでは、「人からどう見られるか」が究極の価値とみなされがちになる。すると、「美しい(そう見える)死」の価値の底上げが起こる。あまりにも広大かつ複雑微妙な問題を単純化する弊を気にしなければ、そう言えるであろう。

少しは具体的にわが国の切腹の様相を、『自死の日本史』から見ておこう。

自刃という死に方そのものは平安時代からあったようだが、本格的な様式化を遂げたのは江戸時代からと考えてよいようだ。

源義経は日本史上最も早い時期に、ちゃんとした割腹自殺を遂げた武将の一人ということになっている(1189年)。「義経記」によるとその最期はこうだ。兄頼朝からの圧力に屈して敵方にまわった藤原泰衡の軍勢に囲まれた義経は、奥州平泉の衣川館で最期を迎える。「さて、そろそろ自害の刻限のようだ。で、自害はどうしたらよいと言うのだろう」と義経が問うのに郎党が答えて、「佐藤兵衛(忠信)のやり方こそ、後々まで人のほめるものでありましょう」。忠信は三年前、義経の身代わりとなって京の堀川で奮戦、最期は切腹して果てていた。義経は、「けっこうだ。傷口は広いほうがよいな」と、鞍馬山時代から愛蔵していた刀を採り、左乳の下から突き通すと、傷口を三方に掻き破って腸を繰り出し…。

「義経記」は、義経の時代から二百年ほど後、南北朝時代か室町時代の初期に書かれているので、実際の彼の死がこのようなものであったかどうかは分からない。むしろ、理想的な英雄とされた義経の死に方として、「義経記」の作者か、それ以外の誰かが与えたものとしたほうがいいだろう。逆に言うと、鎌倉時代末ぐらいまでには、切腹こそ武士に相応しい自死のやり方だという観念が定着してきていたのであろう。

その南北朝時代を描いた「太平記」には、かなり一般的にはなったものの、まだ様式化にまでは至っていない、荒々しい切腹の描写が随所にある。中でも、鎌倉幕府の最後、東勝寺に落ち延びた北条氏得宗高時と一門が集団自殺を遂げる、その有様の凄絶さは無類である(1333年)。それは一種の宴であった。

(試訳)さて長崎高重が走り回り、「早々に御自害なされ。お手本を見せましょう」と、弟新右衛門に酌をさせると、三度飲み、その杯を摂津入道道準の前に置き、「一献さしあげる。これを肴にしたまえ」と、刀で左脇腹から右まで長く切り、腸を手繰り出して、道準の前に倒れ伏した。道準は盃を取り、「けっこうな肴じゃ。どんな下戸でもこれで飲まぬ者はなかろう」と戯れ、盃から半分ばかり飲んで、諏訪入道直性(じきしょう)の前に置くと、同じく腹を切って死んだ。直性は盃を静かに三度傾けると、相模入道(北条高時)の前に置いて、「若者どもがずいぶん芸をつくして見せたのに、年寄りがなんとしましょうぞ。今後は皆様これを私からの肴としていただきたい」と、腹を十文字に掻き切って、刀を相模入道の前に置いた。

死を前にして血まみれになり、苦痛をこらえながらの、ブラックジョークの応酬。これこそ武士が備えるべき勇気と克己心をこの上なくよく示す実例と思われたのに不思議はない。だがそれだけではない。ここには多分にマゾヒスティックな、自虐の喜びがありそうだ。それはパンゲも指摘している。

しかし、そのような隠微な喜びは、日本人には明治期まで一般には明らかにされなかった。おかげで切腹は、見た目の、禍々しさを裏地とした華々しさのため、武士に相応しい死に方、さらには、武士の特権とさえ考えられるようになった。死ぬ理由も、敗北死の他に数種数えられるようになる(以下の例は『自死の日本史』からではない)。

まず、命と引き替えに主君に意見する「諫死」がある。戦国時代織田家に仕えた平手政秀は、傅役(もりやく)を勤めた信長の行状が父信秀の死後家督を継いでからもいっこうに改まらないので、諫めるために切腹して果てた(1553年)。

それから、主君が死んだ後の後追い自殺としての「追い腹」、またの名を殉死。森鷗外「阿部一族」(大正二年)に、江戸時代初期、寛永年間(1640年代)の、肥後熊本藩におけるその様相が描かれている。普通に言ってなんら死ぬべき理由のない者が自死する不合理には、さしもの日本的美意識でも耐え難かったのだろう、寛文三年(1665)には幕府は禁令を出している。しかし明治時代、乃木希典が明治天皇に殉じて切腹しているのは有名で、「阿部一族」はその事件の影響下に書かれた可能性がある。

恥をかいた/かかされた、と感じた場合でも武士は死ぬべきだとされた。山本常朝「葉隠」(1717年頃)が言葉にしたのはこれである。ただここでは、恥ずべき状態に陥ってから死ぬのは遅いので、それを避けるためには、少々先走りに見えても死ぬのがよい、と言われている。「阿部一族」の阿部弥一右衛門は、殉死しなかったのを「臆病なせいだ」と陰口されているようなのを憤って切腹する。しかしこれは彼に殉死を禁じた亡主細川忠利の遺命に背いたことになり、ここから阿部一族の悲劇が始まる。以上は史実ではないが、江戸期に出版された「阿部茶事談」に記されており、「君命に従う」と「恥をかかない」という武士の二大徳目が、いつも両立するわけではないことは、当時からある人々の目には映じていたことがわかる。それが思想的な課題とまでされたのは明治以降だというだけである。もちろん山本常朝には、こんな問題意識はない。

それから、必ずしも自分が望んだわけではなく、周囲からの圧力によって切腹にまで追い込まれる場合は、「詰め腹を切る/切らせる」という成句を現在まで残している。幕末の長州藩で、長州征伐に至るまでの国難(この場合の「国」は「藩」)を回避できなかった責めを負って自決した周布(すふ)政之助あたりが代表例だろう(1864年)。それより先、藩論が攘夷一色になっていく時期に開国論を唱え、周囲から恨みを買った長井雅楽(うた)も腹を切っているが、こちらは藩主からの上意を受けてのことである(1863年)。おそらく数としては、後者のような、賜死としての切腹が一番多いだろう。この場合、咎がありながら、武士らしい死を与えられた、というので、光栄だとされた。切腹をめぐる話の中で、ここが一番ヘンだと、私には思える。

ヘンなところは他にもあるので、そこからいこう。あらためて、武士の特権としての切腹の性格とはなんだったか。江戸時代という平和な時代に、戦争の専門家である武士が特権を保つために、彼らには日常から戦場にあるような(常在戦場)緊張感が求められた。卑怯な振る舞いがあったときにはただちに自らを裁く、それも非常にむごたらしい、苦痛を伴うやり方で。それこそが、士農工商の最上位として、人の上に立つに足るモラリティの徴であった。それが今日でも、もちろんお話としてはだが、あまり疑われないようなので、日本人というのは人がいいのだな、と感心する。

むごいたらしいという意味で見た目が派手で、苦痛もべらぼうに大きいという、いわば形式面を考えてみよう。江戸時代には磔刑(たっけい)、あるいは磔(はりつけ)と呼ばれる残忍な刑罰があったのは周知だろう。柱にくくりつけられた罪人の腹を、両側から槍で何度も刺していくというもので、グロテスクな点でも痛いという点でも、切腹にひけをとるとはとうてい思えない。この刑を受けたのは庶民である。「自らの手で自らを裁く」ところが切腹のポイントだとも考えられるのだろうが、江戸時代、それは様式化された。様式化とは形式化ということで、形式化されたものはほぼ必然的に形骸化する。平和に慣れた武士では、自分の腹に刀を突き刺すことなどできない場合もあり、「扇腹(おうぎばら)」と言って、刀の代わりに扇子や木刀を三方に乗せたものが用意され、それを持った動作を合図にして介錯人が首を切る、実質的に斬首となんら変わらない切腹もよくあったようだ。

内容面で、自決によってすべての罪も恥も解消される、という考え方はどうだろうか。死者を鞭打たない、というのは、日本人の美質の一つであると私も思うけれど、そこから「死ねばすべてが許される」→「何をしても死にさえすればいい」にまで至れば、明らかな短絡、あるいはすり替えがあるように感じられる。

明治七年に出た「学問のスゝメ 第十篇」で、福沢諭吉はいわゆる忠臣義士を批判する論を述べて、物議を醸している。この部分が「楠公権助論」として知られているのは、福沢は名を挙げているわけではないが、この時代楠木正成が忠臣の代表とされていたからである。一方権助のほうは、愚昧な下僕の仮名として文中で使われている。

その論に曰く、政府が暴政を行うとき、その下にある身の処し方のうち、最も優れているのは、一身の危険を顧みず正道を唱え続けることである。結果命を落としても、「失ふところのものはただ一人の身なれども、その功能は千万人を殺し千万両を費したる内乱の師(いくさ)よりもはるかに優れり」。一方、日本で名高い忠臣義士と言えば、「己(おの)が主人のためと言ひ己が主人に申し訳なしとて、ただ一命をさへ棄つればよきものと思ふは不文不明の世の常なれども、いま文明の大義をもつてこれを論ずれば、これらの人はいまだ命の棄てどころを知らざる者と言ふべし」。ただ主人への申し訳のために自死した者を義士と言うとしたら、主人の使いで預かった一両の金を紛失したので首を縊る下僕は珍しくない(そうですか?)が、これもそう呼ばれるべきだろう。いずれも同情の涙は誘うとしても、文明の進歩に寄与するところはない。

こう言ったからといって福沢は、日本人の、「潔さ」に感動する傾向と無縁だったわけではない。明治三十四年、彼の死後に、本来出版を予定していなかった「丁丑(ていちゅう)公論」と「瘠我慢の説」が合本として出た。前者では、西南戦争で斃れた西郷隆盛を、武力を使ったやりかたは悪かったにせよ、政府に抵抗する精神を示したものとして称揚している。それはまだしも上の説と整合しているが、後者では、幕閣でありながら節を曲げて、維新後新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚を、一国を支えるべき痩せ我慢の精神を欠いたものとして批判している。しかしこの精神が、「文明の進歩」にはどう役立つのか、理解するのは容易ではない。

 このような矛盾は、福沢一個に即してみれば、彼の魅力を増すものだと私は思うが、この世で倫理的であろうとするときの難しさの一端を示してもいると思う。ただ「正しい」だけで、「美しい」とは感じられないものには、人を動かす力は乏しい。一方「美しさ」に酔った人々が世に厄災を惹き起こすことも数多い。そうであれば、「美しい行為」の理非曲直を見極めようとする努力は必要であろう。それ自体は少しも美しくないにしても。

関連して私が一番不思議だと思うのは、二・二六事件の青年将校たちが抱いた、「天皇から賜る、栄光としての死」という観念である。美津島明さんのブログに発表させていただいた「書評もどき 長谷川三千子『神やぶれたまはず』 その3 三島由紀夫の「忠義」」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/c4c04669646a9a3f9d97bd5d52089b87に略記したことを、ここで蒸し返す。

昭和十一年二月二十八日、蹶起部隊は直ちに原隊へ戻るべし、という内容の奉勅命令(天皇からの直接の命令)は出されていたが、それはなぜか当該部隊にはきちんと届けられていなかった。この時蹶起将校の一人栗原安秀中尉が「(天皇に)お伺い申上げたうえでわれわれの進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときには勅旨の御差遣くらいを仰ぐようにでもなればしあわせではないか」(高橋正衛『二・二六事件』より孫引)と言い出し、皆が賛成した。この願いは山下奉文(ともゆき)少将から本庄繁侍従武官長を通じて昭和天皇に伝奏された。それに対するご返答は、「自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なり」であった。

これは『昭和天皇独白録』では、「勅使」ではなく「検視」と言われている。よくわからないが、勅使案が天皇に一蹴されてから、本庄が、ではせめて検視の者を、とでも言ったのかも知れない。それに対して昭和天皇は、「然し検視の使者を遣はすといふ事は、その行為に筋の通つた所があり、之を礼遇する意味も含まれてゐるものと思ふ。/赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるといふ事は判つたやり方だが、叛いた者に検視を出す事は出来ないから、この案は採り上げないで、討伐命令を出したのである」。

天皇が、討伐命令ではなく、誰かに直接「死ね」という内容の勅使を送ったことは、日本史上例がないのではないかと思う(もし、ある、という場合にはご教示ください)。検視でも同じことで、検視役正使は、君主からの切腹命令を伝えた後、ちゃんと切腹が成し遂げられたことを見届けるのが役目である。それを天皇が送れば、即ち死の命令が天皇から出たということになる。

赤穂浪士に徳川幕府から切腹の命が出され、検視役も派遣されたのは、温情と言えるだろう。家禄を離れた浪人はもはや武士ではなく、罪を犯せば農工商の一般庶民と同じように罰せられるのが通例だから。吉良邸に討ち入ったのが押し込み強盗と殺人の類とされたら、四十七士は磔か獄門になったであろう。それを武士の「特権」である切腹に処したのは、仇討は美徳と認められていたし、また事件当時から彼らの人気が非常に高かったので、「礼遇」の必要が感じられたからだろう。

ただし基本的に、命じられて切腹するのは、刑死の一種であることにはなんの変わりもない。「御馬前の死」=「戦場での討死」と同列に見られるようなものではないのだ。武士として最低限の面目が保たれていることは事実であるとしても、それ自体が栄光ある死だ、などとどうして考えられるのか。ここにはどうしてもある種の短絡ないし転倒があるとしか思えない。

二・二六の蹶起将校の場合、「その行為に筋の通つた所」があると陛下に認められたとしたら、それは光栄でもあろう。が、それでもなお、三島由紀夫が「英霊の聲」(昭和四十一)年)で言ったように、死そのものが嘉されるわけではない。一番大きく見て、彼らの死は端的に、クーデターの失敗を意味する。そんなことはどうでもいい、と思っているらしいところが、三島などの独特なところで、また私には理解しがたいところである。





道徳的な死のために 
その2 特攻について
                                                  

2013年11月23日 | 倫理




メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)
サブテキスト:百田尚樹『永遠の0』(太田出版平成18年刊。講談社文庫版平成21年、平成25年第40刷)

この本は現在文庫の中で一番売れているそうだ。確かによくできた娯楽小説ではある。宮部久蔵という、現実にはまずいないスーパー・ヒーローを物語の中心に据えて、真珠湾奇襲攻撃から沖縄戦まで、日米戦争の一面がうまくまとめられ、描かれている。

宮部は名人の域にまで達した零式戦闘機、通称零戦の操縦士だが、「戦争で死にたくない。生きて妻子のもとへもどりたい」と公言するところが、旧日本軍中では際だって特異なキャラクターになっている。もっとも、よく考えてみると、私も小説や映画からくるイメージ以上のことは知らないのだが、それによると、大東亜戦争中の日本軍では、「命が惜しい」などという言葉はタブーだったようだ(違う、という情報をお持ちの方はご教示ください)。

兵隊がそんな臆病なのでは戦争に勝てないだろう、と言われかも知れないが、それとは異なる観点が示されている。小隊長としての宮部が部下を諭す言葉。

「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃破する機会はある。しかし―」「一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」

戦争に勝つためには、こちらは生きて、多くの敵を殺したほうがいい、だからなるべく生き延びるように心がけるべきだ。これは正論ではないだろうか。美しくないだけに、なおさらそう感じる。山本定朝の言う「武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也」などは、むしろ平時の武士の心がけを説いたものだ。思うに、戦争とはもっと汚いものなのだ。

汚い話の実例も『永遠の0』中に書かれている。宮部は空中戦で敵機を撃ち落としたとき、向こうの操縦士がパラシュートで脱出するのを見つけたら、それをも機銃で撃った。これが彼の評判を悪くしたもう一つの要因となった。空中戦では、相手の飛行機を破壊すれば終わり、そこから脱出した兵士は、見逃すのが「武士の情け」だと思われていたから。宮部は、そんなものこそ無用な綺麗事だと言う。

「自分たちがしていることは戦争だ。戦争は敵を殺すことだ」「米国の工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのは搭乗員だ」

実際、戦争の中盤以降、日本軍は武器弾薬から食料医薬品に至るまでの物資面と同じく、あるいはそれ以上に、経験豊かで優秀な戦闘員の不足に悩まされた。特に、まともに戦えるようになるまでには極めて高い練度を要する戦闘機乗りが、ミッドウェイ海戦からガダルカナル島争奪戦を経てマリアナ沖海戦までに至る過程(昭和17年4月~19年6月)で、数多く戦死したことは、太平洋で戦う帝国海軍の首をじわじわと締め付けていった。これを要件の一つとして、特別攻撃作戦、略して特攻、連合軍からはKamikaze Attackと呼ばれて恐れられた、世界の戦史上類のない戦法が実施されたのである。

最初の特攻は昭和19年10月、レイテ沖海戦での神風(当初は「しんぷう」と呼ばれた)特別攻撃隊によるものだった。この隊は20日に結成され、21日から出撃したが、悪天候のためになかなか米艦隊まで到達できず、25日になってから、空母セント・ローに激突、沈没させる、などの成果を挙げている。

当初はこれはこの時限りの、それこそ特別な攻撃だと多くの人が思ったようだが、すぐに常態化した。その経緯は、この25日、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、マニラ方面にいた飛行隊長以上の指揮者にした説明に、一番簡潔に示されている。森史朗『特攻とは何か』(文春新書)から引用する。

一、(前略)現在の大編隊の攻撃では、攻撃隊は目標を見る前に、敵戦闘機に迎撃され撃墜されてしまう。
二、しかし、索敵機のような単機ないし少数機ならば目標まで接近できる。現に今回敵空母を撃沈した彗星艦爆は単機毎の攻撃であった。
三、だが、現在の技倆では少数機により命中弾を得ることは極めて困難である。しかも、攻撃後の生還はほとんど望みがない。
四、どうせ死ぬならば、体当たりによって大きな損害を与えることこそ本望であろうし、そのような任務を与えることこそ慈悲であると思う。


論理的、ではありますな。この時点で帝国海軍最大の目標は、日本列島に迫り来る米艦隊をなんとか止めることになっていた。しかしそのために多数の攻撃機を行かせたのでは、敵艦隊にたどり着く前に発見されて撃ち落とされてしまう。少数ならたどり着けるが、それでも敵の援護機や艦隊からの砲撃でこれまた撃ち落とされてしまう。さらに、促成した現在の多くの搭乗員(多くは昭和18年から徴兵された学徒兵が充てられた)には、敵艦に爆弾を当てるほどの技術がない。つまり、海戦のために打つ手はもはや、ない。まだしも有効なのは、飛行機ごと艦船にぶつかり、損害を与えることだ。「どうせ死ぬならば」…。日本の兵(つわもの)が、本当に「大君の辺にこそ死なめ」を念願するなら、ここがロドスだ、さあ跳べ! と文字通り命懸けの跳躍が行われた。

言い換えると、なすすべもなくアメリカ軍に撃ち落とされるばかりなら、命と引き替えに一矢報いる道を与える、それが「慈悲」だ、と言ったとき、大西は、いや日本軍全体が、ある一線を越えた。狂瀾を既倒に廻らす方途を論理的に詰めていって、いわばそれを助走にして、倫理の壁を跳び越えたのだ。そのことを大西は自覚していたのだろうと思う。何しろ後に、これは「統率の外道」=「外道の戦法」だと漏らしたと言われているくらいだから。上の説明の最後には、「この案に反対する者は叩き斬る」と言い放ったらしいが、それもつまりは後ろめたさを感じていたからではないだろうか。自分の正しさに充分な自信があるなら、反対者を一人一人粘り強く説得しようとしただろう。

別人の例。昭和20年4月、沖縄に来襲した米軍に対する菊水作戦が始まると、第五航空艦隊長官宇垣纏(うがき まとめ)中将は旗下の全機に特攻を指示した。出撃時には可能な限りはなむけの言葉を贈ったのだが、その折一人の准士官が、「本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」と尋ねた。宇垣は「まかりならぬ」と、即座に大声で答えた(岩井勉『空母零戦隊』より)。

この准士官が言葉通りの技倆の持ち主だったとしたら、複数の敵艦を撃破できたかも知れない。特攻では最良で一機につき一艦撃沈のみに決まっている。戦術としてこれを見れば、この場合は明らかに損なのだ。しかし、大西や宇垣にとって、もうそういう問題ではなくなっていた。兵を、あくまで兵として、美しく死なしめること。それが戦争に勝つことより大事だった。それで初めて、全体として果たしてどれくらいの戦果があるのかを度外視して、特攻作戦を継続できる。

逆に、たいして有効ではないから、という理由でこの作戦を見直すとしたら、今までに死んだ隊員は無駄死にだ、と見えてしまうだろう。つまり、跳び越えてしまった以上、もう元にはもどれなかったのである。もっとも、特攻を推進した軍幹部の中でも、そう理解していたのはごく少数だったらしい。

大西瀧治郎は、8月16日に、腹心だった児玉誉士夫からもらった刀で割腹自殺し、宇垣纏はそれより早く15日正午の玉音放送を聞いた後で、艦上爆撃機(略して艦爆)彗星に乗って、僚機十機を従えて最後の特攻として沖縄沖へ飛び立っていった。これを責任のとりかただとすれば、「多くの若者の命を奪っておいて、老人が腹を切ったぐらいでなんだ」という意見も出るだろう。それは『永遠の0』にも書かれているが、私はむしろ、彼らは自分たちの作った美しい物語の内部に入り込んでしまっていたので、死をもってそれを完結する以外にない、そういう心境だったのだと考えている。

ただ、生身の人間が、過酷な物語の中に敢えて止まって最期を迎えるのは、いつの時代でも難しい。だからこそ、英雄は希少な存在なのだ。この二人以外の特攻指導者の多くは、けっこう戦後まで生き延びてしまっている。因みに陸軍では、この理由で自決した将官は一人もいない。
 
それなら、「慈悲」をかけられて、若い命を散らしていった特攻隊員達は英雄なのだろうか。そうとしか言いようがない。英霊、確かに彼らはそう呼ばれるに相応しい存在ではあった。どういう意味で? 自己犠牲の化身として。

多数とは言えなくても、価値ある何かのために自分の身を捧げる高名な、あるいは無名の英雄は、どこにでも、いつの時代でも、いる。今年我々は、猛吹雪の中、幼い娘を庇って、自分は凍死した父親のニュースを知らされた。その荘厳さに心をうたれない人は稀だろう。それでこのような物語はアメリカ映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)や「アルマゲドン」(マイケル・ベイ監督)など、エンターテインメントにも多数取り上げられ、見る人の涙を誘ってきた。ネタバレになるが、『永遠の0』もまた、日本軍や特攻作戦そのものは批判しながらも、主人公に自己犠牲の死を遂げさせて、ヒーロー像の画竜点睛としている。

これでもわかるように、戦争という、人命を軽んじなければならない際でも、積極的ないわゆる捨て身の働きはしばしば感動的に語られる。それも日本のお家芸ではない。ミッドウェイ海戦時、対空砲火に被弾したSB2Uヴィンディケ-ター機のリチャード・E・フレミング大尉は重巡洋艦三隅に激突した。そうしなくても死んだ可能性が高いのだろうが、そうだとしても体当たり攻撃など、なかなかできることではない。アメリカ人にとってもそうである証拠には、彼には死後に名誉勲章が贈られているそうだ。

この延長上に特攻隊員も当然位置づけられる。モーリス・パンゲはこう言っている。

敵だけでなく、平和の到来を今か今かと待っているすべての人々が、彼らのその行為が戦争を長引かせていると思って、それを狂信だと言い、狂乱だと言って非難した。だが人の心を打つのは、むしろ彼らの英知、彼らの冷静、彼らの明晰なのだ。震えるばかりに繊細な心を持ち、時代の不幸を敏感に感じとるあまり、おのれの命さえ捨ててかえり見ないこの青年たちのことを、気の触れた人間と言うのでなければ、せいぜいよくて人の言いなりになるロボットだと、われわれは考えてきた。(中略)しかし実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の目には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。(P.346)

特攻隊員の遺書に折々見出すことができる不思議な清澄さを評するのに、私はこれ以上の言葉を知らない。それにまた、私のような凡庸な俗人は、この「水晶のごとき自己放棄の精神」など生涯無縁であろうと、すぐに得心できる。

そういうわけで、私などとは精神の次元を異にする英雄がいることには同意するのだが、その前提として、パンゲが、特攻隊員の死は自由意志によるものだった、と言うのには異論がある。と、言うより、それが強制されたのか自発的だったのか、などという議論には意味がないと思う。それはパンゲにもわかっていたのではないだろうか。彼はこうも言っているのだ。「太平洋戦争が何か新しい物をもたらしたとするならば、それは〈意志的な死〉の計画化というものであった―あらゆる自由を組織化することに血道をあげている現代という時代に、それはいかにも似合いの発明品であった」(P.341)

最初の時には大西が確かに彼らが志願するかどうか尋ねている。後にもそういうことはあった。志願する者は皆の前で態度を明らかにするのではなく、紙に名前を書いて提出したり、一週間以内に指揮者に個人的に申し出させたりしたケースもある。しかしいずれにせよ、特攻も何度も繰り返され、人間魚雷回天によるものなどを加えて戦死者が五千人以上にも及んだということは、この作戦がシステム化され、ルーティン化された、ということである。

特攻隊員は、システムに乗って、いわば自動的に死んだのである。作戦上の効果もそうだが、彼らの死の意味、つまりは生の意味が考慮されることなどあるべくもなかった。そこで彼一人ひとりがそれこそ必死で考えたことのいくつかが、遺言として残され、後の我々を粛然とさせる。

それにつけても、これはやっぱり外道の戦術であり、最悪のシステムだったと思う。『永遠の0』では、軍上層部は一般兵士など将棋のコマぐらいにしか考えていなかった、と批判されている。それは、戦争である以上、いつの時代でも、どの国でも、幾分かはそうなるだろう。アメリカも、例えば日本に上陸したら兵士の損耗(この言葉だけでも、わかりますわな)はどれくらいに及ぶか見積もった上で、原爆を投下したのだし、日露戦争時の旅順攻撃など、特攻とほとんど変わらない有様だったことは当ブログでも以前に書いた。それでも、紙一重でも、五十歩百歩でも、越えてはならない一線はあるのだと思う。

例えばこう言えばいいだろうか。九死一生の激しい戦いを生き延びた者は、英雄になることがあり、そうでなくても自軍に帰れば温かく迎えられることは期待される。十死零生では、というかそもそも作戦成功の必要条件に自分の死があるのだから、生きていることは失敗でしかない。事実、悪天候や飛行機の不調で基地に戻ってきた隊員たちは、たいへんな焦燥を感じなければならなかったようだ。生を根底から否定するようなこんな試みは許されない。それを我が国はかつてやったのだ。大東亜戦争の反省として、第一に銘記すべきことであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする