究極の文章 ーーー特攻隊員の遺書について

私は数年前の夏に、四泊五日の鹿児島旅行をしました。日米開戦終戦時の外相・東郷茂徳(しげのり)のふるさと美山をこの目で確かめてくるのが主な目的でした。ところが、ひょんなことから、二日目に知覧に行くことになりました。初日に美山の「茂徳スポット」を案内してくれた東郷茂徳記念館の女館長さんが、「鹿児島まで来たら、知覧に行きなさい」とおっしゃって、自家用車で美山から知覧まで私を運んでくれたのでした。旅先でよくしてくれた方の申し出を断ることができるほどに、私は神経が太くないのです。
美山を出発してから数時間後、私は何の予備知識もないまま、知覧にひとり取り残されました。「まっすぐに『知覧特攻平和会館』に行きなさい」という館長さんの言葉に従うよりほかはありませんでした。そうしてそこに、けっこう長い時間いたような記憶があります。私は、その間ずっと特攻隊員たちの生々しい遺書を読んでいました。目に触れたすべてが言葉にできぬほどに貴重なものに思われたのではありますが、それらすべてを脳裏に刻み込むのは到底無理でした。せめてもと思い、千円を払って当施設の売店で『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿 』(高岡修 編)を手に入れました。会館を出て、両側に石灯ろうがどこまでも続くなだからな下り坂を、とても長い時間をかけてとぼとぼ歩き続けたことを覚えています。地元のオカッパ頭の女子学生がすれ違いざまにぺこりと頭を下げたのを覚えています。空が澄み切っていて光の美しい町・知覧は、町全体で特攻隊員への慰霊の念を静かにいつまでも捧げ続けているのでしょう。図らずも、私は知覧にいわば「ハマって」しまったのでした。

入手した冊子に収録されている遺書のなかから、三人のものをご紹介します。
相花信夫 少尉 第七七振武隊 宮城県 昭和二〇年五月四日出撃戦死 18歳

遺書
母を慕いて
母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
(注:ノート二頁に楷書でペン書き)
ここに吐露された一八歳の青年の裸の心は、六八年後の私たちの胸に生々しく迫ってきます。死に臨んで、青年はやっと自分の気持ちに心から素直になれたのです。その含羞のたたずまいがなんともいじらしいではありませんか。これを目にした母親がどう感じたのか、そこには余人のうかがいしれないものがあります。
枝幹二 大尉 第一六五振武隊 富山県 昭和二〇年六月六日出撃戦死 22歳

遺書
(前略)
あんまり緑が美しい
今日これから
死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に
小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば
使いなれた
万年筆を″かたみ″に
送ります
(注:四百字詰原稿用紙三枚半にペン書き)
情景や状況をありありと思い浮かべると、この心象スケッチの異様なほどの美しさが浮びあがってきます。特に、
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
の箇所の美しさはまるで魔法のようです。迫り来る死との対比において、青春の最後の一瞬の輝きが私たちの目に鮮烈に焼き付きます。枝幹二大尉は、早稲田大学から学徒出陣し、第165振武隊長として指揮をとりました。第165振武隊は団結力の強い隊でした。枝大尉は隊長として見事に隊をまとめていたとのことです。それにしても、若い命を失ってしまうには、この世はあまりにも美しすぎたのではないでしょうか。そういう思いが、行間におのずから込められているように感じます。枝大尉と詩中の「杉本」との一瞬のそうしてどこまでも深い心の交流は、永遠の友情として、この詩を読む者の心に刻み込まれます。彼の″かたみ″としての「万年筆」の受け手は明示されていませんが、私は、彼が愛惜してやまなかった「祖国」、すなわち、この詩に心を動かされる後世の私たち日本人なのではないかと感じます。
久野(くの)正信中佐 第三独立飛行隊 愛知県 昭和二〇年五月二四日出撃戦死 29歳

遺書
正憲、紀代子ヘ
父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノ
イイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシ
テオオキクナッタナレバ、ヂブンノスキナミチニススミ、リッパナニッポンジ
ンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
「マサノリ」「キヨコ」ノオトウサンハカミサマニナッテ、フタリヲジット見テ
イマス。フタリナカヨクベンキョウシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサ
イ。
オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモ、フタ
リナカヨクシナサイヨ。オトウサンハオオキナジュウバクニノッテ、テキヲゼ
ンブヤッツケタゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オト
ウサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ
キヨコ フタリヘ
(注:五歳と三歳の幼児への遺書)
「オトウサンハ『マサノリ』『キヨコ』ノオウマニハナレマセンケレドモ」のところで、父の子を思う深い心がどっと噴き出しているのが分かります。その愛情の深さ、温かさが直に読み手に伝わってきます。久野正信中佐は、わが子へ宛てて遺書をしたためていますが、どこか日本人全体に宛てたような響きを、私は感じてしまいます。それは、父性なるもののしからしむるところなのかもしれません。ところで、久野中佐はなにゆえ妻に宛てた遺書を書かなかったのでしょうか。これは私の勘に過ぎませんが、彼は書かなかったのではなくて書けなかったのではないでしょうか。では、彼はなぜ書けなかったのか。その疑問にさしかかると、私は彼の底知れない悲しみに突き当たる思いがします。それを胸の奥底にしまいこんで、彼は、敵艦をめがけ突き進んで行ったのです。
これらの遺書には共通して、逃れようのない死に臨むという極限状況において、無意識のうちにあくまでも人間らしさを守ろうとする精神のみが帯びる、不可思議としか言いようのない美しさが感じられます。いずれも、生身の人間が書きうるもののなかでの究極の文章と形容するよりほかはありません。ほかに、どういう言葉で表せばいいのでしょうか。
〔付記〕
三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、文化について次のように述べています。「文化とは、能の一つの型から、月明かりの夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する」。私は、この文化観に深い感銘を受ける者です。なぜなら三島の文化観には、一般兵士の、死と隣り合わせの極限状況における喜びや胸の奥に秘めた哀しみが愛惜の念をこめて織りこまれているからです。
ちなみに、引用文中の「一海軍士官」とは、靖国神社の宮司であった大野俊康氏によれば、「殉忠菊池一族の流れをくむ熊本県山鹿市出身の軍神・松尾敬宇中佐」であることが判明しています。

私は数年前の夏に、四泊五日の鹿児島旅行をしました。日米開戦終戦時の外相・東郷茂徳(しげのり)のふるさと美山をこの目で確かめてくるのが主な目的でした。ところが、ひょんなことから、二日目に知覧に行くことになりました。初日に美山の「茂徳スポット」を案内してくれた東郷茂徳記念館の女館長さんが、「鹿児島まで来たら、知覧に行きなさい」とおっしゃって、自家用車で美山から知覧まで私を運んでくれたのでした。旅先でよくしてくれた方の申し出を断ることができるほどに、私は神経が太くないのです。
美山を出発してから数時間後、私は何の予備知識もないまま、知覧にひとり取り残されました。「まっすぐに『知覧特攻平和会館』に行きなさい」という館長さんの言葉に従うよりほかはありませんでした。そうしてそこに、けっこう長い時間いたような記憶があります。私は、その間ずっと特攻隊員たちの生々しい遺書を読んでいました。目に触れたすべてが言葉にできぬほどに貴重なものに思われたのではありますが、それらすべてを脳裏に刻み込むのは到底無理でした。せめてもと思い、千円を払って当施設の売店で『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿 』(高岡修 編)を手に入れました。会館を出て、両側に石灯ろうがどこまでも続くなだからな下り坂を、とても長い時間をかけてとぼとぼ歩き続けたことを覚えています。地元のオカッパ頭の女子学生がすれ違いざまにぺこりと頭を下げたのを覚えています。空が澄み切っていて光の美しい町・知覧は、町全体で特攻隊員への慰霊の念を静かにいつまでも捧げ続けているのでしょう。図らずも、私は知覧にいわば「ハマって」しまったのでした。

入手した冊子に収録されている遺書のなかから、三人のものをご紹介します。
相花信夫 少尉 第七七振武隊 宮城県 昭和二〇年五月四日出撃戦死 18歳

遺書
母を慕いて
母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
(注:ノート二頁に楷書でペン書き)
ここに吐露された一八歳の青年の裸の心は、六八年後の私たちの胸に生々しく迫ってきます。死に臨んで、青年はやっと自分の気持ちに心から素直になれたのです。その含羞のたたずまいがなんともいじらしいではありませんか。これを目にした母親がどう感じたのか、そこには余人のうかがいしれないものがあります。
枝幹二 大尉 第一六五振武隊 富山県 昭和二〇年六月六日出撃戦死 22歳

遺書
(前略)
あんまり緑が美しい
今日これから
死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に
小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば
使いなれた
万年筆を″かたみ″に
送ります
(注:四百字詰原稿用紙三枚半にペン書き)
情景や状況をありありと思い浮かべると、この心象スケッチの異様なほどの美しさが浮びあがってきます。特に、
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
の箇所の美しさはまるで魔法のようです。迫り来る死との対比において、青春の最後の一瞬の輝きが私たちの目に鮮烈に焼き付きます。枝幹二大尉は、早稲田大学から学徒出陣し、第165振武隊長として指揮をとりました。第165振武隊は団結力の強い隊でした。枝大尉は隊長として見事に隊をまとめていたとのことです。それにしても、若い命を失ってしまうには、この世はあまりにも美しすぎたのではないでしょうか。そういう思いが、行間におのずから込められているように感じます。枝大尉と詩中の「杉本」との一瞬のそうしてどこまでも深い心の交流は、永遠の友情として、この詩を読む者の心に刻み込まれます。彼の″かたみ″としての「万年筆」の受け手は明示されていませんが、私は、彼が愛惜してやまなかった「祖国」、すなわち、この詩に心を動かされる後世の私たち日本人なのではないかと感じます。
久野(くの)正信中佐 第三独立飛行隊 愛知県 昭和二〇年五月二四日出撃戦死 29歳

遺書
正憲、紀代子ヘ
父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノ
イイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシ
テオオキクナッタナレバ、ヂブンノスキナミチニススミ、リッパナニッポンジ
ンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
「マサノリ」「キヨコ」ノオトウサンハカミサマニナッテ、フタリヲジット見テ
イマス。フタリナカヨクベンキョウシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサ
イ。
オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモ、フタ
リナカヨクシナサイヨ。オトウサンハオオキナジュウバクニノッテ、テキヲゼ
ンブヤッツケタゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オト
ウサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ
キヨコ フタリヘ
(注:五歳と三歳の幼児への遺書)
「オトウサンハ『マサノリ』『キヨコ』ノオウマニハナレマセンケレドモ」のところで、父の子を思う深い心がどっと噴き出しているのが分かります。その愛情の深さ、温かさが直に読み手に伝わってきます。久野正信中佐は、わが子へ宛てて遺書をしたためていますが、どこか日本人全体に宛てたような響きを、私は感じてしまいます。それは、父性なるもののしからしむるところなのかもしれません。ところで、久野中佐はなにゆえ妻に宛てた遺書を書かなかったのでしょうか。これは私の勘に過ぎませんが、彼は書かなかったのではなくて書けなかったのではないでしょうか。では、彼はなぜ書けなかったのか。その疑問にさしかかると、私は彼の底知れない悲しみに突き当たる思いがします。それを胸の奥底にしまいこんで、彼は、敵艦をめがけ突き進んで行ったのです。
これらの遺書には共通して、逃れようのない死に臨むという極限状況において、無意識のうちにあくまでも人間らしさを守ろうとする精神のみが帯びる、不可思議としか言いようのない美しさが感じられます。いずれも、生身の人間が書きうるもののなかでの究極の文章と形容するよりほかはありません。ほかに、どういう言葉で表せばいいのでしょうか。
〔付記〕
三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、文化について次のように述べています。「文化とは、能の一つの型から、月明かりの夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する」。私は、この文化観に深い感銘を受ける者です。なぜなら三島の文化観には、一般兵士の、死と隣り合わせの極限状況における喜びや胸の奥に秘めた哀しみが愛惜の念をこめて織りこまれているからです。
ちなみに、引用文中の「一海軍士官」とは、靖国神社の宮司であった大野俊康氏によれば、「殉忠菊池一族の流れをくむ熊本県山鹿市出身の軍神・松尾敬宇中佐」であることが判明しています。