小野田少尉の三〇年戦争
小野田寛郎(ひろお)氏が祖国日本に帰って来たのは、昭和四九年の三月十二日の午後四時過ぎでした。なんとなく記憶に残っているのは、その日のNHK7時のニュースで報じられた、記者会見に臨む小野田氏の姿です(もしかしたら実況中継だったかもしれません)。その二年ほど前に帰還した横井庄一氏の敗残兵然とした姿とくらべると、ずいぶん背筋のピンと伸びた軍人らしい人だと思ったことを覚えています。つい最近まで臨戦態勢にあったような風貌なのですね。たくさんの報道陣がしきりにフラッシュを焚いていたりするので緊張するせいか、記者たちの質問に答えながら口角に蟹のように泡がたまるのが痛ましくもありました。また、「~であります」という答え方に、軍人らしさが出ているような感じを持ちました。
それは、私が十五歳のときのことでした。私は、たしか合格した公立高校に入学するのを待つばかりの身だったのではないでしょうか。父がなかば鬱病のような状態になり、失職した後半年ほどずっと寝込んでいたので、家の中はお世辞にも明るいとはいえない雰囲気でした。きちんと病院に行こうとしないその髭ぼうぼうのだらしない態度に納得の行かないものを感じていて、私はうっすらとした不満を父に対して抱いていました。だから、父と会話らしい会話を交わす気分にはあまりなれませんでした。そんな父が、テレビで小野田氏がルバング島を歩く映像を観て「あれは大したものだ。五〇代なのに起伏のある地形をスッスッと歩いている」と褒めたのを覚えています。父は元海上自衛官なので、小野田氏の軍人としての力量をかいま見て心を動かされたのではないかと思います。
小野田氏が帰還した当時の私の記憶は、おおむねそんなところです。それから四〇年の歳月が流れました。私は、今回たまたまブック・オフで買った彼の『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読みました。そこには、私が漠然と想像していた小野田氏とはずいぶん異なる姿がありました。それをみなさんにお伝えしようと思って、筆を執ってみることにしました。私がお伝えしようと思うのは、小野田少尉がルバング島で三〇年間、どういう思いでどのように闘ったのか、ということです。そうして、日本に戻った小野田氏を待っていた日本の現実がどういうもので、それを小野田氏がどう思ったかということです。
昭和十六年十二月八日、日本は対米英開戦に突入します。満二十歳になった小野田氏は、昭和十七年五月、中国・漢口(いまの武漢)で徴兵検査を受けました。甲種合格でした。以下、フィリピン・ルバング島赴任までの略歴を簡潔に記します。ルバング島は、ルソン島のマニラ市をマニラ湾に向けて南西に200kmほど下ったところにある小さな島で、ルソン島をクジラに見立てると、ルバング島は小魚ほどの大きさです。
昭和十九年一月(二十一歳)、九州・久留米の第一予備視士官学校で訓練を受けるために日本に帰国。
同年八月(二十二歳)、陸軍中野学校二俣分校(静岡県天竜川)で第一期生として訓練開始。戦局の緊迫化により、謀報・謀略技術を三ヶ月で詰め込まれる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓とは異なり、「死ぬなら捕虜になれ」と教えられた。
同年十一月三〇日、同校退校。「卒業」の字は、経歴に残るため。
同年十二月十七日、小野田氏を乗せた輸送機がフィリピンに向けて飛び立つ。
フィリピンで、谷口義美少佐から「小野田見習士官は、ルバング島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」との口頭命令を受ける。それを発令した横山師団長から「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか、重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と言われる。
昭和二〇年一月一日、ルバング島に到着。
貧弱な装備と警備隊長への指揮権はあるが命令権はないという指揮系統の不備に悩まされながらも、小野田少尉は、命令をなんとか遂行しようとします。
二十年二月二八日夜明け、ティリク沖合にいた敵艦の艦砲射撃開始。敵軍上陸。敵に速やかに制空権・制海権を握られ、自分たちは武器の補給すらない惨憺たる闘いを強いられます。三月半ばになると、生き残りの日本兵が山中の幕舎に集まってきます。約二〇〇人の日本兵が二二人になっていました(実際は四〇数名)。将校で残っていたのは小野田少尉だけでした。さらに、分散潜伏を採用したり、敵の掃討部隊と出くわして猛射を浴びたりしているうちに、分隊はばらばらになってしまい、隊は三人だけになってしまいました。すなわち、島田庄一伍長・三十二歳、妻帯者、埼玉県出身。小塚金七一等兵・二十四歳、東京都出身。小野田寛郎少尉・二十三歳、和歌山県出身の三人です。こうして、三人だけのゲリラ活動に明け暮れる生活が始まりました。途中、フィリピン軍に乱射された日本兵のグループの生き残りの赤津勇一一等兵が加わったものの、彼は後に″脱走″しました。日本に帰ってから、小野田氏は、周りから″脱走″という言葉使いを非難されたのですが、それに対して「命が尽きるまで闘い抜き″戦死″したほかの二人のことを考えたら、それ以外にどんな言葉を使えばいいのか。そう言わなければ、ふたりは浮かばれないではないか」という趣旨の言葉で逆に激しく問いかけています。
八月中旬になると、毎日威嚇射撃をしていた米兵の姿が見えなくなります。八月十四日に日本政府がポツダム宣言を受諾したのですから、それは当然のことです。しかし、その当然のことが、彼ら三人には伝わらない。投降勧告ビラに「八月十五日、戦争は終わった」の文字を見かけますが、彼らはそれを信じません。年末に「第十四方面軍司令官 山下奉文(ともゆき)」の名での戦闘行動の停止命令のビラを目にするも、文面におかしなところを発見してその信憑性を疑います。慎重な検討を重ねた結果、「山下将軍の名をかたった米軍の謀略だ」という結論になりました。小野田氏自身はこれについて次のように語っています
最初のボタンの掛け違いとは、恐ろしいものである。私は初めに矛盾の多い山下奉文将軍名の「投降命令」や「食物、衛生助(?)ヲ与へ、日本へ送(?)ス」などわけのわからない日本語のビラを見せられたため、どんな呼びかけにも米軍の謀略、宣伝だと頭から疑ってかかる習性が身についていた。
それに関連して、次のようにも言っています。
日本の敗戦が信じられなかった私は、友軍が反撃攻勢に転じる前、必ず連絡をとりにくると思っていた。そのときのために上陸地点の地形、敵の布陣、戦力など島内のあらゆる情報を収集しておかねばならない。
それだけではありません。小野田氏は、次のようにも言っています。
大規模な遊撃戦はあきらめざるを得なかったが、友軍が再上陸してくる日まで、私たちは″占領地区″を死守せねばならない。
だから、ときにはフィリピンの国家警察軍と激しく撃ち合うこともありました。また、自分たちによる占領の事実を知らせるために、畑仕事をしている農民に対してあえて威嚇射撃をすることもありました。
ジャングルでの生活は自然との厳しい闘いはあるものの、それ以外はのんびりしたものだったような勝手なイメージをなんとなく抱いていましたが、実際にはそんな生易しいものではありません。彼らは、自然に対しては当然のことながら、「敵」の動向に対しても、四六時中実に注意深く、そうして警戒を怠ることなく日々を過ごしているのでした。
「敵」に所在地を知られないように、煙を出さないで火を燃やす工夫をしたり、農民から食料を盗む場合も盗んだ事実が発覚しないように目立たぬ分量だけ盗んだり、ジャングル奥深く人が入り込んでくる乾季には、ねぐらを日替わりで変えたりと、気の休まるときはほとんどといっていいほどになかったようです。寝るときも、蚊に食われたり、さそりに刺されたり、蟻に鼓膜を破られたりしないように、細心の注意を払いました。事実、小野田氏の左耳は寝ている時に鼓膜を蟻に食い破られたせいでまったく聞こえないそうです。つまり、彼らにとってルバング島は、文字通りの戦場だったのです。いいかえれば、毎日が極限状況ということになります(小野田氏は、孤独な「三〇年戦争」で島民を含めて30名殺したとのことです)。それを耐え抜く精神力がどれほどのものか、太平の世に生を受けた私には想像もつきません。あとがきを書いた三枝貢という方が後年帰還した小野田氏に「ルバング島へ行ってみたいと思いませんか」と尋ねたところ、彼は暗く沈んだ声で「木一本、砂一粒を見るのも嫌です。何ひとつ、楽しいことはなかったですから・・・・・」と言ったそうです。むべなるかなと思うと同時に、ここで小野田氏はほのめかしてもいませんが、ルバング島が戦友二人を失った場所であるという思いが、小野田氏をしてそういう矯激な言葉を吐かしめているようにも感じられてなりません。
では、小野田氏にいまもなお痛憤の念を抱かしめ続けているにちがいない戦友たちの「戦死」に触れましょう。これが、この文章のなかでいちばん書きたかったことです。
その前に、三人の結束の固さを示すエピソードに触れておきます。途中参加の赤津一等兵が去った後、小野田少尉は二人にはじめて特殊任務を打ち明けました。おそらく小野田少尉は、赤津一等兵を心の底から信じることができなかったのでしょう。
「隊長殿、五年でも十年でもやるぞ。友軍が上陸してくるまでに、オレたち三人でこの島を完全占領だ」島田は顔を紅潮させていった。小塚はニヤっと笑っただけだった。勘のいい彼は、うすうす私の任務に気づいていたようだ。
それからの三人は、積極的なゲリラ戦に出ました。体力のない赤津一等兵を抱え隠忍自重を強いられたために、住民たちは、三人の″占領地区″である山に入り放題だったのですが、それを威嚇して追い払い、向かってくる敵には容赦なく発泡しました。フィリピンの国家警察隊は、それに対抗して戦力を増強し、約一〇〇人を動員して包囲作戦に出る日もありました。
昭和二八年五月の夜襲で重傷を負ったろから、豪放磊落だった島田伍長がなにかと気弱になってしまいました。やがて彼は、三人の間でタブーになっている家族のことを話すようになりました。次は、そんなころの彼のエピソードです。
「男の子か女の子か、どっちが生まれたかなあ」
降りしきる雨を眺めながら、島田伍長がつぶやいた。彼が出征するとき、奥さんは二人目の子を身ごもっていたという。長女はまだ、小学校にもあがっていなかったそうだ。
「あいつもそろそろ年ごろか」
ふっとため息まじりにいった。しんみりと話すのは、いつも子供のことであった。無理もない。彼は招集兵だ。めっきり白髪が増え、島田も四十歳が近かった。
(中略)
故郷や肉親の話は、私たちにはタブーであった。そんな話をしたあとは、なぜか不吉なことが待ち構えていた。
島田が好んでしたのは盆踊りの思い出話だった。
(中略)
「あんな楽しいものはなかったなあ。なにしろ年に一度の楽しみなんだから」
島田は本当に楽しげに話した。
しばらくして、私たちは家族の写真を載せたビラや手紙を拾った。島田は二人目の子が女の子であることを知った。
夕食後、妻子の顔が載ったビラを島田はじっと見入っていた。
不吉な予感は、数ヵ月後に現実になった。
次が、島田伍長戦死の場面です。島の西のゴンチン海岸でのことです。山の斜面でほかの二人が仮眠していて自分が見張りをしているとき、ふだんは慎重な島田伍長がなぜかそのときにかぎって無防備に、赤く熟したナンカの実をむき出しの岩の上に並べてしまいました。目を覚ました小野田少尉が、敵にそれを見つけられたら自分たちの命に関わる重大事に発展しかねないと危惧の念を抱くのとほぼ同時に、住民らしい男が駆け降りていきます。恐れていたことが現実のものになります。その男は、討伐隊の道案内だったのです。ほどなく激しい銃撃戦になります。
私は斜面に身を伏せ、小塚は三メートルほど離れたところで倒木の陰に身を隠し、応戦した。
島田はまだ一発も撃たない。見ると、立ったまま銃の装填動作をしている。
中隊の射撃大会で表彰状をもらったのが自慢の島田は、早撃ちでも三人のうちで一番だった。私と小塚が二発撃つ間に、五発は撃つ。
「島田、少しは弾を大事にしてくれよ」と、銃撃戦のあとでいつも文句をいったものだ。
「伏せろ!姿勢が高いぞ」
私は怒鳴ろうとしたが、声にはならなかった。
一斉射撃が谷いっぱいにこだました。
島田の体が頭からゆっくりと前のめりに倒れた。動かない。即死だった。
昭和二九年五月七日、島田庄一伍長は九年間の戦闘の末、戦死した。
のちに捜索隊が残していった新聞記事によると、島田は眉間を打ち拔かれたいたという。
私たち三人は、敵に突然、遭遇したとき、それぞれ一発ずつ敵を銃撃して出ばなを押さえ、間げきをついて離脱する取り決めになっていた。
島田はなぜ、あのとき発泡しなかったのか。なぜ、あんな高い姿勢をとり続けたのか。私はいまだにこの疑問が解けないでいる。
島田伍長の″戦死″が確認されたことで、厚生省引揚援護局が残る二人の救出に乗り出しました。小野田少尉の長兄・敏郎氏と小塚一等兵の弟・福治氏がそれに加わって、昭和二九年五月二五日に羽田を出発しました。島田伍長が″戦死″した十八日後のことです。小野田少尉は、長兄や母タマエの手紙を目にします。しかし、いま祖国は米軍の占領下にあり、日本政府はアメリカの傀儡(かいらい)に過ぎないというのが小野田少尉の認識ですから、それらは米兵に脅されて書いたものにちがいないとされるのでした。また、タマエさんは武家の出で、気丈な明治の女です。小野田少尉が出征するとき、短刀を渡して「武人として道にもとるときは、この短刀で自決しなさい」と申し渡しました。「そんな母が、投降をすすめるはずがない」と小野田少尉は考えるのでした。
昭和二九年五月、島田庄一伍長が″戦死″しました。残るは、小野田少尉と小塚一等兵のふたりとなりました。仲裁役のいない男ふたりだけの世界は、衝突した場合、抜き差しならない事態に発展しやすいところがあるようです。そのうえふたりは普段から戦闘態勢のまま日々を過ごすという極限状況にあったので、そうなりやすいという側面があったのではないかとも思われます。小野田氏によれば、「小塚と二人きりになって、私たちはどちらからともなく自分を「アコ」、相手を「イカオ」とタガログ語で呼び始めた。『貴様』とか『お前』という言葉は時と場所によっては相手の感情を損ねることがあると、無意識のうちに気を遣ったのかもしれない」そうです。衝突しないようにお互い細心の注意を払っているのが分かりますね。
しかしそれでもぶつかるときが来るのを避けられない場合があります。そうして、そのきっかけはほんの些細なことです。あるとき、ふたりで小学校から盗んできたトタン板をめぐってのちょっとしたやり取りがありました。トタン板を雨期を過ごすための場所に運ぶことになり、昼間トタンを背負って歩きます。トタンの光の反射をそのままにしておくと敵に自分たちの所在を知らせることになりかねないので、それに草やつるを巻きつける必要があります。小野田少尉は、つるを探しましたが、適当なのが見つからなかったので、細いつるを多めに巻きつけました。小塚一等兵は、それを見とがめて「横着するなよ。もっと丈夫なつるでなきゃダメだ。なぜ徹底的に探さないんだ」と文句を言います。小野田少尉は「これで十分間に合うさ」と軽く流そうとします。それが口火になって、ふたりは言い争うことになります。ふたりとも前夜遅くまで密林を歩き、疲れと睡眠不足でイライラしていたのも悪く働いたようです。小塚一等兵は、憤然として立ち上がり、山の中に入って行きます。ほどなく戻った彼は、蛮刀で小野田少尉が巻きつけたつるをバサっと切り、持ってきたつるで縛り直します。小野田少尉はその粗暴な振る舞いにもちろんカチンときますが、何か言えば激しい口論になると思い、黙ってトタンを背負って歩き出します。しかし、それで事態は収束しなかったのです。
小塚は前を歩きながら、「横着して」とまた私をなじった。私が黙っていると、そのうち彼は吐き捨てるようにいった。
「これからは、オレのあとについて歩けばいいんだ!」
「ついて歩け?」
私は思わず立ち止った。
「待て、小塚。いまの言葉は聞き捨てならんぞ」
背中の荷物を下ろし、その場に腰を据えて私はいった。「オレは一人でも歩ける。一人で任務も遂行できる。これまで貴様や戦死した島田からいろいろ助けてもらったことは感謝している。が、オレは将校だ。この島での戦闘については全責任をとる覚悟でやってきた」
小塚はフンといった顔でいい返した。
「陸軍少尉、文句はもうたくさんだ。能書きや説教は聞き飽きた!」
険悪な雰囲気でにらみ合いが続いた。
事態は、極限的な状況へとエスカレーションしていきます。戦闘態勢が解除されないことから来る緊張や孤立感が果てしなく続いていて、仲裁役がだれもいない閉鎖空間において、男ふたりが衝突するとそういうことになってしまいがちなのは、想像するのがそれほど難しいことではないでしょう。
(前略)私は立ち上がり、再びトタン板を背負って歩き出した。十歩も行かないうちに、足元に石が飛んできた。振り向くと、小塚がさらに石を投げようとしていた。
「バカ野郎、やめないか」
これがかえって油を注いだ。「バカ野郎とは何だ!貴様は味方じゃねえ、殺してやる」
「殺す!? 殺したいなら殺してみろ。その前にひと言、いうことがある。よく聞け」
私は小塚の目をにらみ据えていった。
「オレは貴様と一緒に長い間、国のため、民族のために戦ってきた。オレは同志である貴様を、自分の感情だけで傷つけないよう心を砕いてきたつもりだ。それなのに貴様は、オレの統率が悪いから、多くの投降者を出し、赤津を脱走させ、島田を戦死させたと、何度も同じことをいった。だが、貴様がそれを言い出すときは決まっている。一つ、敵の勢力が強いとき、二つ、天候が悪いとき、三つ、計画がうまく運ばず、心身ともに疲れているとき、四つ、ハラが減っているときだ。このうち何か一つにぶつかると、必ずオレを批判し、怒りっぽくなる。きょうの場合は三番目だ。なぜ、もっと冷静になれないんだ。オレたちはたった二人だけなんだぞ」
「うるせえッ! 説教なんてたくさんだ」
「そうか、これだけいってもわからんか。よし、命はくれてやる。オレを殺して、あとは貴様一人で生き抜け。そして、オレの分まで戦え!」
裏海岸の断崖の下には南シナ海の荒海が打ち寄せていた。耳には何も聞こえなかった。いっさいの物音が途絶えてしまったような感じだった。
静寂の中で私たちは対峙した。太陽がジリジリと焼きつけていた。長い時がたった。
「隊長殿」沈黙を小塚が破った。
「先を歩いてくれ」
いかがでしょうか。最後の二行は、男泣きを誘うとは思われませんか。この場面が映画なら、このセリフを役者さんがうまく言えるかどうかが、作品全体の出来に大きく関わると思われます。私は、なにか趣味的なことを言いたがっているのではありません。この最後の二行を深く味わうことで、極限状況における赤裸々な激しい姿をお互いにさらしながらなおも許し合い尊敬し合って、ふたりの戦友としての絆が人間としてこれ以上はないほどに深いものになっていくのがよく分かります。そういうことが申し上げたいのです。小野田氏自身、上の箇所に続けて、次のように言っています。
私と小塚は、この南の島で初めて知り合った。
戦争がもたらした運命が、私たちを実の兄弟以上に結びつけた。
ろくに言葉を交わさなくてもお互いの考えが理解できた。敵と遭遇したときも、目と目でうなずき合っただけで次の行動を展開した。私は彼の勇気と、果敢な行動力を尊敬し、彼は私の判断力に一目おいてくれているようであった。私たちは何度も「任務を遂行したら、二人そろって元気に内地に帰還しよう」と誓い合った。
ラジオで競馬中継を聴きながら、ふたりは結果の予想をするのが趣味のようになっていましたが、その予想が不思議なほどによく当たるので、ふたりは内地に帰還したら競馬の予想屋になろうと約束していたそうです。
次に、私は小塚一等兵の戦死の場面を語らねばなりません。小野田氏は、「昭和四十七年十月一九日――小塚一等兵が撃ち殺された日を、私は生涯忘れることはない」と言って、その場面を語り始めます。昭和四十七年は西暦1972年ですから、日本が高度経済成長を経て豊かな社会を実現し、1971年のドルショックを境に安定成長の時代に移行しつつある時期に当たっています。日本経済は、成熟期を迎えることになったのです。ふたりは新聞や入手したラジオでそういう現実の一端を垣間見て、とにもかくにも喜ばしいことだと祝するのではありましたが、他方では、抵抗を続ける友軍が来る日に備えて、ルバング占領の既成事実を作り、それを外へ向けてアピールする遊撃戦を続行するのでした。
ふたりは、雨期明けに決行する存在誇示の″狼煙(のろし)作戦″を実行に移します。場所は、島一番の町であるテリックが見渡せる丘(ジャパニーズ・ヒル)です。威嚇射撃をし、稲むらにヤシ油を浸した布を突っ込み、マッチで火をかけます。畑の中を走りながら、小塚一等兵は、ドハの大樹のわきに米俵が積んであるのに目をつけます。
「ついでに、やるか」小塚は木に銃を立て掛け、近くにワラを取りに行こうとした。
「時間がないぞ」
「わかっている」
そのとき、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。
しまった!至近距離だ。
私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
敵は激しく撃ってきた。
応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。いままで何度もあったことだ。
だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」小塚が叫んだ。
振り向くと、右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く、先に走れ!」
「胸だ!ダメだ」
私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
敵の銃声が途絶えた。
いまだ! 私は二丁の銃を持って後ずさった。退いたものと思っていた小塚がいた。
「小塚!小塚!」
私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
反応がない。顔を見た。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
私は両手に二丁の銃を持って、一気に潅木の斜面を駆け下りた。激しい銃声が後を追った。
私は最後の戦友を失った。小塚、五十一歳であった。
小野田少尉は、とうとう一人ぼっちになってしまいました。次は自分の番だという恐怖感はなかったそうです。極限状況の連続で、命に執着するという平時の当たり前の心がはたらかなくなっていたのかもしれません。そういうことはなかったのですが、一番苦労したのは、折に触れ突き上げてくる激情を抑えることだったそうです。つまり、かけがえのない戦友・小塚一等兵を殺された復讐心がせり上がってくるのを如何ともしがたく思うのでした。
「胸だ!ダメだ」
小塚の最後の悲痛な叫びと、口から血を吐いた顔がいつも脳裏を離れなかった。
畑の住民の姿を見ても憎悪がこみあげ、女性にまで銃口を向ける自分を抑えねばならなかった。
私は感情におぼれ暴発を防ぐため、自分の年限を決めた。あと十年、六十歳で死ぬ。
体力に衰えはなかった。視力は1.2、夜間も目はきいたが、やや老眼が出始めたのは自分でも気づいていた。(このときもなぜか、蒸気機関士の定年が四十五歳だから、と妙なものを計算の基準にしていた)
六十歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃。保存している銃弾すべてを撃ち尽くして死に花を咲かそう・・・・・。
自分の人生に決定的な区切りをつけなければ、その噴出をどう処理していいのか分からなくなってしまうほどの激情とは、すさまじいものです。戦友の存在が、小野田少尉にとってどれほどにかけがえのないものであったのか、余人にはうかがい知れないところがあります。
とにもかくにも、そのようにして、小野田少尉のひとりぼっちの戦いは続行されることになります。
小野田寛郎氏と鈴木紀夫氏
小塚金七一等兵の″戦死″は、日本において衝撃的なニュースとして伝えられました。当時の東京新聞(昭和四十七年夕刊)は、一面トップニュースとして「元日本兵がゲリラに」「一人射殺一人逃走」「現地警察と撃ち合い」と7段見出しで報じられました。関係者は、「小野田少尉、生存す」の事実を決定づけられたのです。日本は大々的な捜索隊を組織し、現地に送り込みました。厚生省、マニラの日本大使館、小野田氏の家族、友人などに、武装したフィリピン空軍約二〇〇人が加わり、大型ヘリコプターや軍用犬も動員されました。
小野田少尉は、当時を振り返って「こんな大捜索隊を見たら、だれだって討伐隊、戦場の軍隊と思うに違いない」と言っています。また、「こんどの姉、兄弟まで動員した捜索隊は、昭和三十四年のそれとは違う。どうやら日本政府が派遣した可能性が強い。捜索隊というのはあくまで口実で、実体は日本の謀略機関が送り込んできた特殊任務者の集団ではないだろうか。私への救出の呼びかけは、アメリカの謀略機関を欺くためのトリックで、その裏で島の飛行機やレーダー基地を写真に撮ったり、兵要地誌を候察したり、情報収集をしているにちがいない」とも言っています。「兵要地誌の候察」とは聞きなれない言葉です。「兵要地誌」とは、軍事的な観点から地理・ 地誌・緊要地形などについて研究を行う学問のことで、現代では軍事地理学と呼ばれています。また、「候察」とは、対象物件の状態を詳細に把握することです。このような若い頃に叩きこまれた実践的な軍事学の知見と、「あくまでも死ぬな」という陸軍中野学校精神と、小野田少尉の生来の意志の強さと、孤独な環境と、二人の戦友の死への深いこだわりとが相まって、小野田少尉の戦闘態勢はどうしても解除されるには至りません。これでは、捜索隊の思いと小野田少尉のそれとはどこまで行っても平行線です。
その膠着状態を打破したのは、意外な人物でした。それは、小野田少尉を″発見″するためにルバング島にやってきた冒険家・鈴木紀夫氏(二十四歳・当時)です。彼の夢は「パンダと小野田さんと雪男に会うこと」で、彼は、その夢を果たすために小金を貯めてはふらりと世界旅行に出かける、気楽でのびやかな戦後青年でした。鈴木青年は、たったひとりで島にやってきて、小野田少尉の偵察巡回の要所だった「和歌山ポイント」にテントを張り、小野田少尉との遭遇を心待ちにしていたのです。小野田少尉は、鈴木青年の背後から「おいッ」と声をかけ、銃口を突きつけて出現しました。昭和四九年二月二十日のことです。なんと強烈な出会いでしょうか。
「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と鈴木君は繰り返し、ぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。このときの心境を彼は書く。「足がガタガタと震え出した。男が手にもっているモノが鉄砲だとわかったからだ。体中の毛がそうけだっているのがわかる。殺される。死ぬ。しかし、男の目がキョロキョロ動いているので、一瞬、これは勝てるという気もした。そうだ、ナイフだ、しまったあ、ナイフを忘れたあ。これはダメだ」
鈴木君にとっても、私にとってもこれは幸運であった。もし、あのとき、鈴木君がナイフに手をかけたら、私は間違いなく彼を射殺してしまっただろう。私が鈴木君を殺さずにすんだ理由は、彼が丸腰だったこと、毛の靴下にサンダル履きという住民にはない珍妙なスタイルだったせいである。
小野田少尉と鈴木青年とは、徹夜で語り明かしました。鈴木青年は日本が戦争に負けたことを小野田氏に対してかきくどいたそうです。小野田少尉は、鈴木青年の話を信じる気持ちがわずかながら兆したようです。鈴木青年は、小野田少尉の「オレはいま五一歳だが、まだ三十七、八歳の体力だと思っている。人間というのは体が健康であるかぎり、生きていたいもんだ」という言葉を聞いて、「小野田さんにはぜひ日本へ帰ってもらいたい」という決意が固まったそうです。小野田氏によれば、「計画は行き当たりばったり、性格は天衣無縫な鈴木君だが、核心はズバリ突いてきた」そうです。
「小野田さん、本当に上官の命令があれば、山を下りてきてくれますね。何月何日何時何分、どこへと指定すれば、きますね」
私は「上官が命令下達にくれば、敵と撃ち合ってでも出る」と答えた。(中略)
私は自分の上官として比島派遣軍参謀部情報班別班長・谷口義美少佐の名をあげた。(中略)私は鈴木君と別れぎわ「あてにしないで待ってるよ」といった。期待するものはなにもなかった。
それから二週間ほど後、小野田少尉は、連絡箱で鈴木氏の手紙を発見し、「山下奉文大将の命令書を持って、谷口義美少佐と島にきました」という文言と、「命令は口達す」という谷口少佐の文書を目にします。
昭和四九年三月九日の夕方、約束の場所に谷口少佐が現れ、小野田少尉は不動の姿勢で″投降命令″を受けます。それは表向きだけのことで、何かほかに本当の命令があるのではないかと思って少佐の目を見つめますが、少佐は、何も言わずに、ゆっくりと命令書をたたんだだけでした。そのとき小野田寛郎氏(この命令を受けた瞬間、小野田少尉は、一私人・小野田寛郎に戻ったのです)は、不意に背中の荷物が重くなり、夕闇が急に重くなったような気がしたそうです。そうして、心の中に(戦争は二十九年も前に終わっていた。それなら、なぜ島村伍長や小塚一等兵は死んだのか)という思いが湧いてきて、体の中をびょうびょうと風が吹き抜けていく思いを味わったと述懐しています。また、長兄の敏郎氏とも現地で三十年ぶりの再会を果たすのですが、なぜか懐かしいという人間的な感情が湧いてこなかったとも言っています。小野田氏が、戦争に払った代償の大きさがうかがえる言葉です。
とにもかくにも、以上のような数奇な経緯を経て、小野田氏は、祖国日本に帰還することになりました。
しかしながら、 三十年ぶりに戻った祖国日本は、小野田氏にとって決して居心地のいい場所ではなかったようです。それが証拠に、小野田氏は帰国してから一年足らずでブラジルに渡っています。そのころを、小野田氏は「頭の収拾のつかない混乱」の日々と形容しています。以下に、帰国してからのエピソードをいくつか掲げますが、そこには単純に「祖国へ生還できてよかったですね」と言い切れない悲劇的なトーンが感じられます。小野田氏は、ルバング島での戦いとは別の、もっと込み入った心理的な戦いを強いられることになったのです。
昭和四九年三月十二日、タラップを下りた小野田氏は、両親と三十年ぶりに対面しますが、(年をとったなあ)と思っただけで何の感激もなかったそうです。これはやはり、戦いの日々の後遺症ではないかと思います。彼自身、「肉親への思いを拒絶し続けた三十年が、私の習性になってしまっていたのかもしれない」と自己分析をしています。そのそばに、島田伍長の成長した長女が、父の遺影を両手で包みこむようにして持って立っていました。小野田氏は胸が詰まり「申しわけありませんでした」というほかに言葉がなかったそうです。
小野田氏は、その足で羽田東急ホテルでの記者会見に臨みます。「カメラのレンズが十字砲火のように向けられていた。私は黒い銃口を連想した」という口ぶりから、彼が漠然とした不安や身の危険さえも感じていたことが分かります。小野田氏は、そのときいわゆる不適応症状の噴出を抑えるのに苦慮していたのではないかと思われます。ある記者の、小塚伍長の死で山を降りる心境になったのか、という軍人の心を察しないぶしつけな質問に対して、小野田氏は次のように答えています。
「むしろ逆の方向です(ムッとした表情)。復しゅう心のほうが大きくなりました。二十七、八年も一緒にいたのに″露よりももろき人の身は″というものの、倒れた時の悔しさといったらありませんよ(くちびるをふるわせ、絶句)。男の性質、本性と申しますか、自然の感情としてだれだって復しゅう心の方が大きくなるんじゃないですか」
おそらく、会場に居合わせた記者のみならず、この会見をテレビで見ていた日本の多くの人々は、小野田氏のこの言葉に込められた真情が分からなかったのではないかと思います。かくいう私が分かっているのかどうかも怪しいものです。その無理解こそが、小野田氏が帰国してからの「頭の収拾のつかない混乱」の大きな原因だったのではないかと思われます。そうして、その無理解それ自体は、そのとき避けようがないものでもあったのではないかと思われます。それは、小野田氏に、口外するのをはばかるような辛い思いを強いることになりました。
羽田空港で小野田氏を乗せた車は、東京・新宿の国立東京第一病院へ向かいました。帰国第一夜を、小野田氏は病院のベッドの上で迎えることになりました。帰国時に精悍そのものだった小野田氏は、自分がなぜ入院させられているのかわけがわかりませんでした。彼は当然のことながら退院を申し出ますが、厚生省から「政府として責任を負うための必要な処置」との理由で却下されます。小野田氏は「三十年間の戦いは、私個人でしたこと。国に責任を負っていただく必要はない」と反論しますが、聞き入れてはもらえませんでした。不本意ながら入院しているうち、本当に体が衰弱してきました。検査のために食事を最低カロリーに抑えられたのと、運動不足のために体力が衰えて、病院の廊下を思い通り真っ直ぐに歩けなくなってしまったのです。
入院中の小野田氏は、当時の総理大臣・田中角栄から、お見舞い金をいただきます。記者会見で金額は「百万円」だと教えられます。記者から何に使うのかと尋ねられたので、小野田氏は、靖国神社に奉納すると答えました。記者会見でお金の使い途まで聞かれて内心穏やかでなかったうえに、「靖国神社への奉納」が報道されると、どっと抗議の手紙が来ました。その内容は、「百万円を靖国神社へ奉納することは軍国主義にくみする行為だ。あなたは間違っている」といったものでした。それに対して、小野田氏は次のような痛切な言葉を吐いています。
なぜ、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか。私は生きて帰り、仲間は戦死した。私は戦友たちにお詫びし、心の負担を少しでも軽くしなければ、これからの人生を生きていく自信がなかった。
そんな無為と絶望の日々を病院で過ごしている小野田氏に、厚生省からスケジュール表が示されます。それには、「三月三〇日午前退院。靖国神社参拝――千鳥が渕参詣――皇居参詣――田中首相表敬後、新幹線で和歌山に帰郷」とありました。小野田氏はがく然とします。なぜならそこには、島田伍長と小塚一等兵のお墓参りの予定がなかったからです。小野田氏は、抑えていた憤懣が一気に爆発しました。陸軍中野学校同期会″俣一会″の幹事長・末次一郎氏にその胸の内を打ち明けたところ、末次氏は、厚生省に掛け合ってくれて、首相表敬の後に戦友ふたりの墓参ができることになりました。次に掲げるのは、小野田氏が小塚一等兵の実家を訪ねて、彼がルバング島での二七年間片時も離さずに握りしめていた形見の三八式銃を、彼の両親に手渡す場面です。この銃は、小野田氏が自分の銃とともにマルコス大統領から特別の許しを得て持ち帰った物で、厚生省に「国の支給品」として保管されていましたが、小野田氏がお願いしてもらい受けたのでした。小野田氏は、小塚一等兵の死後一年五ヶ月間、この銃をルバング島の「ヘビ山」の岩壁の割れ目にいつでも使えるように錆びない工夫をして隠していました。だから、銃床は古色蒼然としていたけれど、銃身や機関部は、小塚一等兵が毎日手入れをしていたときと同じように黒光りしていました。
「これしかお返しするものがありません」
が三八式小銃をお渡しすると、父上は突然、立ち上がって「金七!金七!」と息子の名を呼びながら銃を手に仏壇の前に倒れ込まれた。
父上の両手に握られた銃は、激しく震えていた。
私は思わず目を閉じた。
ドハの大樹のわきで、右肩から血を流しながら銃を取ろうとして取り落とした小塚の顔が、涙ににじんで揺れていた。
四月三日、小野田氏は三十年ぶりに故郷・和歌山に帰ります。新大阪からバスで向かう沿道は人の波で埋まっていたそうです。歓迎の人々に頭を下げ、手を振って応えながらも、小野田氏は胸が苦しかったと言います。なぜなら、生きて帰った自分だけが歓迎されるのに対して、戦争で死んだ仲間は、非道な戦争の加害者のような扱いを受けている。その扱いのギャップが、小野田氏をして堪らない気分にさせるからです。
小野田氏の実家は、氏神さまのそばにありました。小野田氏は、出征のときその神社に参拝し、兵営に向かいました。だから、氏神さまに「帰還」の報告をすれば自分の公式行事はすべて終わり、やっと私人に戻れる。もうひと息で自分は自由だ。わがままもできる。そう思って、小野田氏は神社の石段を二段跳びに駆け上がります。
ところが、鳥居の前で弟の滋郎氏が、小野田氏を通せんぼします。叔父の喪中だから鳥居をくぐってはいけない、鳥居の前から参拝するようにとの父親の指示があったというのです。小野田氏は、帰国してすぐに叔父が亡くなったことを知ってはいましたが、その指示に従ったのではどうにも心の収まりがつきません。小野田氏は、思わず弟を怒鳴りつけて、自分の意志を押し通します。
「お父さん、寛郎、ただいま帰りました」
あいさつしたとたん、頭から雷が落ちた。
「大勢の人さまの前でただいまの行為はなにごとか。お前は、恥と思わぬか。郷に入らば郷に従えだ!」
父は、私と弟のいい争いをテレビで見ていたらしのだ。敷居をまたぎ、ホッと気が緩んでいた私は、父のお目玉に逆上した。
「命が惜しくて未練たらしく生きていたのではありません。死ぬに死ねずに生きていたのです。だれがこんなうるさい世の中に生きていたいと思うもんか。もうすべては終わったのだ」
私は床の間にあった軍刀をわしずかみにして引き抜こうとした。割腹するつもりだった。
次兄の格郎と力ずくでもみ合った。
「父上、寛郎は気違いです。そうでなければ、戦場で三十年も生き抜けなかったと思います。そして帰ってきて日本の姿を見た寛郎が、なんと感じているかおわかりですか。父上はそばにいなかったからわからないのです。寛郎ももう少し時間がたてば、常人に戻るでしょう。どうか許してやってください」
父は両手をついて父に詫びた。父は黙っていた。
家族にも自分の孤独な思いをまったく分かってもらえないのか。小野田氏は、そう思ったにちがいありません。こらえにこらえていた思いが一気に噴出しているのが分かります。小野田氏は、このときほど、戦後の日本と自分との間に立ちはだかる分厚い壁を感じたことはなかったでしょう。小野田氏自身、その当時の自分の気持ちを「やり場のない憤怒の渦の中で、たいへん心が高ぶっていた」と述懐しています。また、端的に「私は、平和で豊かな日本に帰ってきながら、生きる目的を失い、虚脱状態に陥っていた」とも述べています。
実は次兄の格郎は、中国からの復員兵で、「特攻隊は犬死だ」と小学校の娘に教えた教師に象徴される戦後の日本に絶望してブラジルに移住した人です。そんな彼が、弟の寛郎の気持ちを分からないはずがありません。痛いほどによく分かるのです。
だから、何度も小野田氏に「休養がてらブラジルへ遊びに来い」と声をかけたのです。昭和四九年十月、祖国に帰還して七ヶ月後に、小野田氏はブラジル・サンパウロへ旅立ちました。そうして、ブラジル移住を決心します。ジャングルを伐開して牧場をつくることにしたのです。小野田氏は、そのことに生きる意味を見出そうとしました。小野田氏によれば、「ブラジルでの牧場開拓は、私の″生きる証し″であった」とのことです。
ブラジルでの牧場開拓は、小野田氏のもう一つの「三十年戦争」となりました。しかし、それは孤独な戦いではなく、心優しい「戦友」との三〇年でもありました。ここで私が「戦友」と呼ぶのは、小野田氏の奥さんの町枝さんのことです。彼女との夫唱婦随の「三十年戦争」がどういうものであったのか。彼女は、2002年に『私は戦友になれたかしら---小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(青流出版)という本を書いています。その著書の編集者・臼井雅観氏が、次のような文章を書いていて、それが、そのことを垣間見るのにいいかもしれないと思いました。
実際、執筆依頼してから刊行に至るまでに2年半かかった。それも無理はない。初めての著書なのだから。
20年ほど前、小野田町枝さんは某大手出版社から単行本執筆を依頼されたことがある。その時は多少のメモ書きを残しただけで、 結局、書き上げることはできなかった。
それが今回のこの本につながったのである。
どうしても出版したいと、渋る著者を説得したのには、わけがある。著者・町枝さんの人生が、「事実は小説より奇なり」を正に地でいく人生だったからである。
天の時も味方した。寛郎さんが今年三月、八十歳を迎えたのだ。この機を逃したら、恐らく本を書くことは叶わない。そう町枝さんも思ったからこそ、 執筆を快諾してくれたのだった。
町枝さんの人生は、38歳の時、大きく転換を始めた。
30年間ルバング島で戦い続け、 日本に帰還した小野田寛郎さんの記者会見をテレビで見たのがきっかけだった。偶然が重なって寛郎さんと婚約・結婚、30年に及ぶブラジルでの牧場開拓の生活が始まった。
これが夫婦二人して命懸けの30年になった。
町枝さんは3ケ月で日本に逃げ帰るだろうと言われたというが、それほど過酷な開拓作業であった。便利で快適だった東京での生活からは想像もできない、ブラジルでの日々の生活。気候が違う。風習が違う。食べ物が違う。広大な荒野にポツンとある一軒家で、 近くに知った人もいない。電気も通っていないランプだけの生活。
毒虫、毒蛇、大蛇、ワニ、蜂、ピラニア、豹にアリ食い。荒野は危険な動物がいっぱいである。自分の身は自分で守らなければならない。 銃が必携の土地柄といえばおわかりいただけるだろう。
私も知らなかったのだが、牧場からの収入は8年目位から。7年間はまったく無収入なのだという。経済的に困窮して、明日の食べ物に事欠いたこともあった。
その時は、窮余の一策で、ブルドーザーで出稼ぎをし、 糊口をしのいでいる。
信頼する牧童が殺人者だったり、メイドに大金を持ち逃げされたこともある。
牧場がようやく軌道に乗り始めたのは10年を過ぎてから。そこまで頑張れたのは、やはり夫婦の絆の強さである。ご夫妻に何度かお会いしているが、確かに仲がいいのだ。元気印で饒舌な町枝さんを、横で優しく見守る寛郎さん。寛郎さんの庇護あればこそ、町枝さんもこの開拓生活を耐え忍べたのである。
(中略)
そんな中にあって、 寛郎さんから「戦友を得た」と表された町枝さん。「戦友」とは、人間的な結びつきも半端ではない。 希有なケースではなかろうか。今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻。
(後略)
「今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻」。この箇所を読んで――小野田氏がどう思っているのかは分かりませんが――何があろうと歯を食いしばって生き抜くのは、まんざら悪いことではないなと思いました。そこには、心温まるものがあるからです。今回の五〇代半ばからの「三十年戦争」には、小野田氏はどうやら勝利したようです。そのことに他人ながらほっとすると同時に、これはなかなかできることではないと感心することしきりです。
最後に無骨なお話を少々。
消費増税の決定やTPP交渉における事実上の公約破りによって、安倍政権が高く掲げた「戦後レジームからの脱却」は、俄然雲行きが怪しくなってきました。しかしながら、そのことにガックリきてばかりもいられません。安倍政権がどうなろうとも、その課題の重要性にはいささかの変わりもないからです。
私は、小野田氏の戦いの連続の人生を追いかけながら、「戦後レジームからの脱却」の根底に置くべきものがよく分かるようになりました。それは、端的に言えば、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くそうとする生き残った者のやむにやまれぬ素直な心を最大限に尊重することです。それは、戦争を美化することでも、小野田氏を崇めることでもなく、国家が国家であるための心的な土台を踏み固める厳粛な営為です。それが、「戦後レジームからの脱却」の理念に背骨を通すことにどうやら深くつながるのではないかと思えてきました。たとえ安倍政権がダメだったとしても、その理念を鍛え上げることはひとりでもできます。そのことが、結局は二番手三番手の旗手を誕生させる原動力になるのではないかと、私は考えます。
小野田寛郎(ひろお)氏が祖国日本に帰って来たのは、昭和四九年の三月十二日の午後四時過ぎでした。なんとなく記憶に残っているのは、その日のNHK7時のニュースで報じられた、記者会見に臨む小野田氏の姿です(もしかしたら実況中継だったかもしれません)。その二年ほど前に帰還した横井庄一氏の敗残兵然とした姿とくらべると、ずいぶん背筋のピンと伸びた軍人らしい人だと思ったことを覚えています。つい最近まで臨戦態勢にあったような風貌なのですね。たくさんの報道陣がしきりにフラッシュを焚いていたりするので緊張するせいか、記者たちの質問に答えながら口角に蟹のように泡がたまるのが痛ましくもありました。また、「~であります」という答え方に、軍人らしさが出ているような感じを持ちました。
それは、私が十五歳のときのことでした。私は、たしか合格した公立高校に入学するのを待つばかりの身だったのではないでしょうか。父がなかば鬱病のような状態になり、失職した後半年ほどずっと寝込んでいたので、家の中はお世辞にも明るいとはいえない雰囲気でした。きちんと病院に行こうとしないその髭ぼうぼうのだらしない態度に納得の行かないものを感じていて、私はうっすらとした不満を父に対して抱いていました。だから、父と会話らしい会話を交わす気分にはあまりなれませんでした。そんな父が、テレビで小野田氏がルバング島を歩く映像を観て「あれは大したものだ。五〇代なのに起伏のある地形をスッスッと歩いている」と褒めたのを覚えています。父は元海上自衛官なので、小野田氏の軍人としての力量をかいま見て心を動かされたのではないかと思います。
小野田氏が帰還した当時の私の記憶は、おおむねそんなところです。それから四〇年の歳月が流れました。私は、今回たまたまブック・オフで買った彼の『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読みました。そこには、私が漠然と想像していた小野田氏とはずいぶん異なる姿がありました。それをみなさんにお伝えしようと思って、筆を執ってみることにしました。私がお伝えしようと思うのは、小野田少尉がルバング島で三〇年間、どういう思いでどのように闘ったのか、ということです。そうして、日本に戻った小野田氏を待っていた日本の現実がどういうもので、それを小野田氏がどう思ったかということです。
昭和十六年十二月八日、日本は対米英開戦に突入します。満二十歳になった小野田氏は、昭和十七年五月、中国・漢口(いまの武漢)で徴兵検査を受けました。甲種合格でした。以下、フィリピン・ルバング島赴任までの略歴を簡潔に記します。ルバング島は、ルソン島のマニラ市をマニラ湾に向けて南西に200kmほど下ったところにある小さな島で、ルソン島をクジラに見立てると、ルバング島は小魚ほどの大きさです。
昭和十九年一月(二十一歳)、九州・久留米の第一予備視士官学校で訓練を受けるために日本に帰国。
同年八月(二十二歳)、陸軍中野学校二俣分校(静岡県天竜川)で第一期生として訓練開始。戦局の緊迫化により、謀報・謀略技術を三ヶ月で詰め込まれる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓とは異なり、「死ぬなら捕虜になれ」と教えられた。
同年十一月三〇日、同校退校。「卒業」の字は、経歴に残るため。
同年十二月十七日、小野田氏を乗せた輸送機がフィリピンに向けて飛び立つ。
フィリピンで、谷口義美少佐から「小野田見習士官は、ルバング島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」との口頭命令を受ける。それを発令した横山師団長から「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか、重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と言われる。
昭和二〇年一月一日、ルバング島に到着。
貧弱な装備と警備隊長への指揮権はあるが命令権はないという指揮系統の不備に悩まされながらも、小野田少尉は、命令をなんとか遂行しようとします。
二十年二月二八日夜明け、ティリク沖合にいた敵艦の艦砲射撃開始。敵軍上陸。敵に速やかに制空権・制海権を握られ、自分たちは武器の補給すらない惨憺たる闘いを強いられます。三月半ばになると、生き残りの日本兵が山中の幕舎に集まってきます。約二〇〇人の日本兵が二二人になっていました(実際は四〇数名)。将校で残っていたのは小野田少尉だけでした。さらに、分散潜伏を採用したり、敵の掃討部隊と出くわして猛射を浴びたりしているうちに、分隊はばらばらになってしまい、隊は三人だけになってしまいました。すなわち、島田庄一伍長・三十二歳、妻帯者、埼玉県出身。小塚金七一等兵・二十四歳、東京都出身。小野田寛郎少尉・二十三歳、和歌山県出身の三人です。こうして、三人だけのゲリラ活動に明け暮れる生活が始まりました。途中、フィリピン軍に乱射された日本兵のグループの生き残りの赤津勇一一等兵が加わったものの、彼は後に″脱走″しました。日本に帰ってから、小野田氏は、周りから″脱走″という言葉使いを非難されたのですが、それに対して「命が尽きるまで闘い抜き″戦死″したほかの二人のことを考えたら、それ以外にどんな言葉を使えばいいのか。そう言わなければ、ふたりは浮かばれないではないか」という趣旨の言葉で逆に激しく問いかけています。
八月中旬になると、毎日威嚇射撃をしていた米兵の姿が見えなくなります。八月十四日に日本政府がポツダム宣言を受諾したのですから、それは当然のことです。しかし、その当然のことが、彼ら三人には伝わらない。投降勧告ビラに「八月十五日、戦争は終わった」の文字を見かけますが、彼らはそれを信じません。年末に「第十四方面軍司令官 山下奉文(ともゆき)」の名での戦闘行動の停止命令のビラを目にするも、文面におかしなところを発見してその信憑性を疑います。慎重な検討を重ねた結果、「山下将軍の名をかたった米軍の謀略だ」という結論になりました。小野田氏自身はこれについて次のように語っています
最初のボタンの掛け違いとは、恐ろしいものである。私は初めに矛盾の多い山下奉文将軍名の「投降命令」や「食物、衛生助(?)ヲ与へ、日本へ送(?)ス」などわけのわからない日本語のビラを見せられたため、どんな呼びかけにも米軍の謀略、宣伝だと頭から疑ってかかる習性が身についていた。
それに関連して、次のようにも言っています。
日本の敗戦が信じられなかった私は、友軍が反撃攻勢に転じる前、必ず連絡をとりにくると思っていた。そのときのために上陸地点の地形、敵の布陣、戦力など島内のあらゆる情報を収集しておかねばならない。
それだけではありません。小野田氏は、次のようにも言っています。
大規模な遊撃戦はあきらめざるを得なかったが、友軍が再上陸してくる日まで、私たちは″占領地区″を死守せねばならない。
だから、ときにはフィリピンの国家警察軍と激しく撃ち合うこともありました。また、自分たちによる占領の事実を知らせるために、畑仕事をしている農民に対してあえて威嚇射撃をすることもありました。
ジャングルでの生活は自然との厳しい闘いはあるものの、それ以外はのんびりしたものだったような勝手なイメージをなんとなく抱いていましたが、実際にはそんな生易しいものではありません。彼らは、自然に対しては当然のことながら、「敵」の動向に対しても、四六時中実に注意深く、そうして警戒を怠ることなく日々を過ごしているのでした。
「敵」に所在地を知られないように、煙を出さないで火を燃やす工夫をしたり、農民から食料を盗む場合も盗んだ事実が発覚しないように目立たぬ分量だけ盗んだり、ジャングル奥深く人が入り込んでくる乾季には、ねぐらを日替わりで変えたりと、気の休まるときはほとんどといっていいほどになかったようです。寝るときも、蚊に食われたり、さそりに刺されたり、蟻に鼓膜を破られたりしないように、細心の注意を払いました。事実、小野田氏の左耳は寝ている時に鼓膜を蟻に食い破られたせいでまったく聞こえないそうです。つまり、彼らにとってルバング島は、文字通りの戦場だったのです。いいかえれば、毎日が極限状況ということになります(小野田氏は、孤独な「三〇年戦争」で島民を含めて30名殺したとのことです)。それを耐え抜く精神力がどれほどのものか、太平の世に生を受けた私には想像もつきません。あとがきを書いた三枝貢という方が後年帰還した小野田氏に「ルバング島へ行ってみたいと思いませんか」と尋ねたところ、彼は暗く沈んだ声で「木一本、砂一粒を見るのも嫌です。何ひとつ、楽しいことはなかったですから・・・・・」と言ったそうです。むべなるかなと思うと同時に、ここで小野田氏はほのめかしてもいませんが、ルバング島が戦友二人を失った場所であるという思いが、小野田氏をしてそういう矯激な言葉を吐かしめているようにも感じられてなりません。
では、小野田氏にいまもなお痛憤の念を抱かしめ続けているにちがいない戦友たちの「戦死」に触れましょう。これが、この文章のなかでいちばん書きたかったことです。
その前に、三人の結束の固さを示すエピソードに触れておきます。途中参加の赤津一等兵が去った後、小野田少尉は二人にはじめて特殊任務を打ち明けました。おそらく小野田少尉は、赤津一等兵を心の底から信じることができなかったのでしょう。
「隊長殿、五年でも十年でもやるぞ。友軍が上陸してくるまでに、オレたち三人でこの島を完全占領だ」島田は顔を紅潮させていった。小塚はニヤっと笑っただけだった。勘のいい彼は、うすうす私の任務に気づいていたようだ。
それからの三人は、積極的なゲリラ戦に出ました。体力のない赤津一等兵を抱え隠忍自重を強いられたために、住民たちは、三人の″占領地区″である山に入り放題だったのですが、それを威嚇して追い払い、向かってくる敵には容赦なく発泡しました。フィリピンの国家警察隊は、それに対抗して戦力を増強し、約一〇〇人を動員して包囲作戦に出る日もありました。
昭和二八年五月の夜襲で重傷を負ったろから、豪放磊落だった島田伍長がなにかと気弱になってしまいました。やがて彼は、三人の間でタブーになっている家族のことを話すようになりました。次は、そんなころの彼のエピソードです。
「男の子か女の子か、どっちが生まれたかなあ」
降りしきる雨を眺めながら、島田伍長がつぶやいた。彼が出征するとき、奥さんは二人目の子を身ごもっていたという。長女はまだ、小学校にもあがっていなかったそうだ。
「あいつもそろそろ年ごろか」
ふっとため息まじりにいった。しんみりと話すのは、いつも子供のことであった。無理もない。彼は招集兵だ。めっきり白髪が増え、島田も四十歳が近かった。
(中略)
故郷や肉親の話は、私たちにはタブーであった。そんな話をしたあとは、なぜか不吉なことが待ち構えていた。
島田が好んでしたのは盆踊りの思い出話だった。
(中略)
「あんな楽しいものはなかったなあ。なにしろ年に一度の楽しみなんだから」
島田は本当に楽しげに話した。
しばらくして、私たちは家族の写真を載せたビラや手紙を拾った。島田は二人目の子が女の子であることを知った。
夕食後、妻子の顔が載ったビラを島田はじっと見入っていた。
不吉な予感は、数ヵ月後に現実になった。
次が、島田伍長戦死の場面です。島の西のゴンチン海岸でのことです。山の斜面でほかの二人が仮眠していて自分が見張りをしているとき、ふだんは慎重な島田伍長がなぜかそのときにかぎって無防備に、赤く熟したナンカの実をむき出しの岩の上に並べてしまいました。目を覚ました小野田少尉が、敵にそれを見つけられたら自分たちの命に関わる重大事に発展しかねないと危惧の念を抱くのとほぼ同時に、住民らしい男が駆け降りていきます。恐れていたことが現実のものになります。その男は、討伐隊の道案内だったのです。ほどなく激しい銃撃戦になります。
私は斜面に身を伏せ、小塚は三メートルほど離れたところで倒木の陰に身を隠し、応戦した。
島田はまだ一発も撃たない。見ると、立ったまま銃の装填動作をしている。
中隊の射撃大会で表彰状をもらったのが自慢の島田は、早撃ちでも三人のうちで一番だった。私と小塚が二発撃つ間に、五発は撃つ。
「島田、少しは弾を大事にしてくれよ」と、銃撃戦のあとでいつも文句をいったものだ。
「伏せろ!姿勢が高いぞ」
私は怒鳴ろうとしたが、声にはならなかった。
一斉射撃が谷いっぱいにこだました。
島田の体が頭からゆっくりと前のめりに倒れた。動かない。即死だった。
昭和二九年五月七日、島田庄一伍長は九年間の戦闘の末、戦死した。
のちに捜索隊が残していった新聞記事によると、島田は眉間を打ち拔かれたいたという。
私たち三人は、敵に突然、遭遇したとき、それぞれ一発ずつ敵を銃撃して出ばなを押さえ、間げきをついて離脱する取り決めになっていた。
島田はなぜ、あのとき発泡しなかったのか。なぜ、あんな高い姿勢をとり続けたのか。私はいまだにこの疑問が解けないでいる。
島田伍長の″戦死″が確認されたことで、厚生省引揚援護局が残る二人の救出に乗り出しました。小野田少尉の長兄・敏郎氏と小塚一等兵の弟・福治氏がそれに加わって、昭和二九年五月二五日に羽田を出発しました。島田伍長が″戦死″した十八日後のことです。小野田少尉は、長兄や母タマエの手紙を目にします。しかし、いま祖国は米軍の占領下にあり、日本政府はアメリカの傀儡(かいらい)に過ぎないというのが小野田少尉の認識ですから、それらは米兵に脅されて書いたものにちがいないとされるのでした。また、タマエさんは武家の出で、気丈な明治の女です。小野田少尉が出征するとき、短刀を渡して「武人として道にもとるときは、この短刀で自決しなさい」と申し渡しました。「そんな母が、投降をすすめるはずがない」と小野田少尉は考えるのでした。
昭和二九年五月、島田庄一伍長が″戦死″しました。残るは、小野田少尉と小塚一等兵のふたりとなりました。仲裁役のいない男ふたりだけの世界は、衝突した場合、抜き差しならない事態に発展しやすいところがあるようです。そのうえふたりは普段から戦闘態勢のまま日々を過ごすという極限状況にあったので、そうなりやすいという側面があったのではないかとも思われます。小野田氏によれば、「小塚と二人きりになって、私たちはどちらからともなく自分を「アコ」、相手を「イカオ」とタガログ語で呼び始めた。『貴様』とか『お前』という言葉は時と場所によっては相手の感情を損ねることがあると、無意識のうちに気を遣ったのかもしれない」そうです。衝突しないようにお互い細心の注意を払っているのが分かりますね。
しかしそれでもぶつかるときが来るのを避けられない場合があります。そうして、そのきっかけはほんの些細なことです。あるとき、ふたりで小学校から盗んできたトタン板をめぐってのちょっとしたやり取りがありました。トタン板を雨期を過ごすための場所に運ぶことになり、昼間トタンを背負って歩きます。トタンの光の反射をそのままにしておくと敵に自分たちの所在を知らせることになりかねないので、それに草やつるを巻きつける必要があります。小野田少尉は、つるを探しましたが、適当なのが見つからなかったので、細いつるを多めに巻きつけました。小塚一等兵は、それを見とがめて「横着するなよ。もっと丈夫なつるでなきゃダメだ。なぜ徹底的に探さないんだ」と文句を言います。小野田少尉は「これで十分間に合うさ」と軽く流そうとします。それが口火になって、ふたりは言い争うことになります。ふたりとも前夜遅くまで密林を歩き、疲れと睡眠不足でイライラしていたのも悪く働いたようです。小塚一等兵は、憤然として立ち上がり、山の中に入って行きます。ほどなく戻った彼は、蛮刀で小野田少尉が巻きつけたつるをバサっと切り、持ってきたつるで縛り直します。小野田少尉はその粗暴な振る舞いにもちろんカチンときますが、何か言えば激しい口論になると思い、黙ってトタンを背負って歩き出します。しかし、それで事態は収束しなかったのです。
小塚は前を歩きながら、「横着して」とまた私をなじった。私が黙っていると、そのうち彼は吐き捨てるようにいった。
「これからは、オレのあとについて歩けばいいんだ!」
「ついて歩け?」
私は思わず立ち止った。
「待て、小塚。いまの言葉は聞き捨てならんぞ」
背中の荷物を下ろし、その場に腰を据えて私はいった。「オレは一人でも歩ける。一人で任務も遂行できる。これまで貴様や戦死した島田からいろいろ助けてもらったことは感謝している。が、オレは将校だ。この島での戦闘については全責任をとる覚悟でやってきた」
小塚はフンといった顔でいい返した。
「陸軍少尉、文句はもうたくさんだ。能書きや説教は聞き飽きた!」
険悪な雰囲気でにらみ合いが続いた。
事態は、極限的な状況へとエスカレーションしていきます。戦闘態勢が解除されないことから来る緊張や孤立感が果てしなく続いていて、仲裁役がだれもいない閉鎖空間において、男ふたりが衝突するとそういうことになってしまいがちなのは、想像するのがそれほど難しいことではないでしょう。
(前略)私は立ち上がり、再びトタン板を背負って歩き出した。十歩も行かないうちに、足元に石が飛んできた。振り向くと、小塚がさらに石を投げようとしていた。
「バカ野郎、やめないか」
これがかえって油を注いだ。「バカ野郎とは何だ!貴様は味方じゃねえ、殺してやる」
「殺す!? 殺したいなら殺してみろ。その前にひと言、いうことがある。よく聞け」
私は小塚の目をにらみ据えていった。
「オレは貴様と一緒に長い間、国のため、民族のために戦ってきた。オレは同志である貴様を、自分の感情だけで傷つけないよう心を砕いてきたつもりだ。それなのに貴様は、オレの統率が悪いから、多くの投降者を出し、赤津を脱走させ、島田を戦死させたと、何度も同じことをいった。だが、貴様がそれを言い出すときは決まっている。一つ、敵の勢力が強いとき、二つ、天候が悪いとき、三つ、計画がうまく運ばず、心身ともに疲れているとき、四つ、ハラが減っているときだ。このうち何か一つにぶつかると、必ずオレを批判し、怒りっぽくなる。きょうの場合は三番目だ。なぜ、もっと冷静になれないんだ。オレたちはたった二人だけなんだぞ」
「うるせえッ! 説教なんてたくさんだ」
「そうか、これだけいってもわからんか。よし、命はくれてやる。オレを殺して、あとは貴様一人で生き抜け。そして、オレの分まで戦え!」
裏海岸の断崖の下には南シナ海の荒海が打ち寄せていた。耳には何も聞こえなかった。いっさいの物音が途絶えてしまったような感じだった。
静寂の中で私たちは対峙した。太陽がジリジリと焼きつけていた。長い時がたった。
「隊長殿」沈黙を小塚が破った。
「先を歩いてくれ」
いかがでしょうか。最後の二行は、男泣きを誘うとは思われませんか。この場面が映画なら、このセリフを役者さんがうまく言えるかどうかが、作品全体の出来に大きく関わると思われます。私は、なにか趣味的なことを言いたがっているのではありません。この最後の二行を深く味わうことで、極限状況における赤裸々な激しい姿をお互いにさらしながらなおも許し合い尊敬し合って、ふたりの戦友としての絆が人間としてこれ以上はないほどに深いものになっていくのがよく分かります。そういうことが申し上げたいのです。小野田氏自身、上の箇所に続けて、次のように言っています。
私と小塚は、この南の島で初めて知り合った。
戦争がもたらした運命が、私たちを実の兄弟以上に結びつけた。
ろくに言葉を交わさなくてもお互いの考えが理解できた。敵と遭遇したときも、目と目でうなずき合っただけで次の行動を展開した。私は彼の勇気と、果敢な行動力を尊敬し、彼は私の判断力に一目おいてくれているようであった。私たちは何度も「任務を遂行したら、二人そろって元気に内地に帰還しよう」と誓い合った。
ラジオで競馬中継を聴きながら、ふたりは結果の予想をするのが趣味のようになっていましたが、その予想が不思議なほどによく当たるので、ふたりは内地に帰還したら競馬の予想屋になろうと約束していたそうです。
次に、私は小塚一等兵の戦死の場面を語らねばなりません。小野田氏は、「昭和四十七年十月一九日――小塚一等兵が撃ち殺された日を、私は生涯忘れることはない」と言って、その場面を語り始めます。昭和四十七年は西暦1972年ですから、日本が高度経済成長を経て豊かな社会を実現し、1971年のドルショックを境に安定成長の時代に移行しつつある時期に当たっています。日本経済は、成熟期を迎えることになったのです。ふたりは新聞や入手したラジオでそういう現実の一端を垣間見て、とにもかくにも喜ばしいことだと祝するのではありましたが、他方では、抵抗を続ける友軍が来る日に備えて、ルバング占領の既成事実を作り、それを外へ向けてアピールする遊撃戦を続行するのでした。
ふたりは、雨期明けに決行する存在誇示の″狼煙(のろし)作戦″を実行に移します。場所は、島一番の町であるテリックが見渡せる丘(ジャパニーズ・ヒル)です。威嚇射撃をし、稲むらにヤシ油を浸した布を突っ込み、マッチで火をかけます。畑の中を走りながら、小塚一等兵は、ドハの大樹のわきに米俵が積んであるのに目をつけます。
「ついでに、やるか」小塚は木に銃を立て掛け、近くにワラを取りに行こうとした。
「時間がないぞ」
「わかっている」
そのとき、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。
しまった!至近距離だ。
私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
敵は激しく撃ってきた。
応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。いままで何度もあったことだ。
だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」小塚が叫んだ。
振り向くと、右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く、先に走れ!」
「胸だ!ダメだ」
私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
敵の銃声が途絶えた。
いまだ! 私は二丁の銃を持って後ずさった。退いたものと思っていた小塚がいた。
「小塚!小塚!」
私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
反応がない。顔を見た。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
私は両手に二丁の銃を持って、一気に潅木の斜面を駆け下りた。激しい銃声が後を追った。
私は最後の戦友を失った。小塚、五十一歳であった。
小野田少尉は、とうとう一人ぼっちになってしまいました。次は自分の番だという恐怖感はなかったそうです。極限状況の連続で、命に執着するという平時の当たり前の心がはたらかなくなっていたのかもしれません。そういうことはなかったのですが、一番苦労したのは、折に触れ突き上げてくる激情を抑えることだったそうです。つまり、かけがえのない戦友・小塚一等兵を殺された復讐心がせり上がってくるのを如何ともしがたく思うのでした。
「胸だ!ダメだ」
小塚の最後の悲痛な叫びと、口から血を吐いた顔がいつも脳裏を離れなかった。
畑の住民の姿を見ても憎悪がこみあげ、女性にまで銃口を向ける自分を抑えねばならなかった。
私は感情におぼれ暴発を防ぐため、自分の年限を決めた。あと十年、六十歳で死ぬ。
体力に衰えはなかった。視力は1.2、夜間も目はきいたが、やや老眼が出始めたのは自分でも気づいていた。(このときもなぜか、蒸気機関士の定年が四十五歳だから、と妙なものを計算の基準にしていた)
六十歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃。保存している銃弾すべてを撃ち尽くして死に花を咲かそう・・・・・。
自分の人生に決定的な区切りをつけなければ、その噴出をどう処理していいのか分からなくなってしまうほどの激情とは、すさまじいものです。戦友の存在が、小野田少尉にとってどれほどにかけがえのないものであったのか、余人にはうかがい知れないところがあります。
とにもかくにも、そのようにして、小野田少尉のひとりぼっちの戦いは続行されることになります。
小野田寛郎氏と鈴木紀夫氏
小塚金七一等兵の″戦死″は、日本において衝撃的なニュースとして伝えられました。当時の東京新聞(昭和四十七年夕刊)は、一面トップニュースとして「元日本兵がゲリラに」「一人射殺一人逃走」「現地警察と撃ち合い」と7段見出しで報じられました。関係者は、「小野田少尉、生存す」の事実を決定づけられたのです。日本は大々的な捜索隊を組織し、現地に送り込みました。厚生省、マニラの日本大使館、小野田氏の家族、友人などに、武装したフィリピン空軍約二〇〇人が加わり、大型ヘリコプターや軍用犬も動員されました。
小野田少尉は、当時を振り返って「こんな大捜索隊を見たら、だれだって討伐隊、戦場の軍隊と思うに違いない」と言っています。また、「こんどの姉、兄弟まで動員した捜索隊は、昭和三十四年のそれとは違う。どうやら日本政府が派遣した可能性が強い。捜索隊というのはあくまで口実で、実体は日本の謀略機関が送り込んできた特殊任務者の集団ではないだろうか。私への救出の呼びかけは、アメリカの謀略機関を欺くためのトリックで、その裏で島の飛行機やレーダー基地を写真に撮ったり、兵要地誌を候察したり、情報収集をしているにちがいない」とも言っています。「兵要地誌の候察」とは聞きなれない言葉です。「兵要地誌」とは、軍事的な観点から地理・ 地誌・緊要地形などについて研究を行う学問のことで、現代では軍事地理学と呼ばれています。また、「候察」とは、対象物件の状態を詳細に把握することです。このような若い頃に叩きこまれた実践的な軍事学の知見と、「あくまでも死ぬな」という陸軍中野学校精神と、小野田少尉の生来の意志の強さと、孤独な環境と、二人の戦友の死への深いこだわりとが相まって、小野田少尉の戦闘態勢はどうしても解除されるには至りません。これでは、捜索隊の思いと小野田少尉のそれとはどこまで行っても平行線です。
その膠着状態を打破したのは、意外な人物でした。それは、小野田少尉を″発見″するためにルバング島にやってきた冒険家・鈴木紀夫氏(二十四歳・当時)です。彼の夢は「パンダと小野田さんと雪男に会うこと」で、彼は、その夢を果たすために小金を貯めてはふらりと世界旅行に出かける、気楽でのびやかな戦後青年でした。鈴木青年は、たったひとりで島にやってきて、小野田少尉の偵察巡回の要所だった「和歌山ポイント」にテントを張り、小野田少尉との遭遇を心待ちにしていたのです。小野田少尉は、鈴木青年の背後から「おいッ」と声をかけ、銃口を突きつけて出現しました。昭和四九年二月二十日のことです。なんと強烈な出会いでしょうか。
「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と鈴木君は繰り返し、ぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。このときの心境を彼は書く。「足がガタガタと震え出した。男が手にもっているモノが鉄砲だとわかったからだ。体中の毛がそうけだっているのがわかる。殺される。死ぬ。しかし、男の目がキョロキョロ動いているので、一瞬、これは勝てるという気もした。そうだ、ナイフだ、しまったあ、ナイフを忘れたあ。これはダメだ」
鈴木君にとっても、私にとってもこれは幸運であった。もし、あのとき、鈴木君がナイフに手をかけたら、私は間違いなく彼を射殺してしまっただろう。私が鈴木君を殺さずにすんだ理由は、彼が丸腰だったこと、毛の靴下にサンダル履きという住民にはない珍妙なスタイルだったせいである。
小野田少尉と鈴木青年とは、徹夜で語り明かしました。鈴木青年は日本が戦争に負けたことを小野田氏に対してかきくどいたそうです。小野田少尉は、鈴木青年の話を信じる気持ちがわずかながら兆したようです。鈴木青年は、小野田少尉の「オレはいま五一歳だが、まだ三十七、八歳の体力だと思っている。人間というのは体が健康であるかぎり、生きていたいもんだ」という言葉を聞いて、「小野田さんにはぜひ日本へ帰ってもらいたい」という決意が固まったそうです。小野田氏によれば、「計画は行き当たりばったり、性格は天衣無縫な鈴木君だが、核心はズバリ突いてきた」そうです。
「小野田さん、本当に上官の命令があれば、山を下りてきてくれますね。何月何日何時何分、どこへと指定すれば、きますね」
私は「上官が命令下達にくれば、敵と撃ち合ってでも出る」と答えた。(中略)
私は自分の上官として比島派遣軍参謀部情報班別班長・谷口義美少佐の名をあげた。(中略)私は鈴木君と別れぎわ「あてにしないで待ってるよ」といった。期待するものはなにもなかった。
それから二週間ほど後、小野田少尉は、連絡箱で鈴木氏の手紙を発見し、「山下奉文大将の命令書を持って、谷口義美少佐と島にきました」という文言と、「命令は口達す」という谷口少佐の文書を目にします。
昭和四九年三月九日の夕方、約束の場所に谷口少佐が現れ、小野田少尉は不動の姿勢で″投降命令″を受けます。それは表向きだけのことで、何かほかに本当の命令があるのではないかと思って少佐の目を見つめますが、少佐は、何も言わずに、ゆっくりと命令書をたたんだだけでした。そのとき小野田寛郎氏(この命令を受けた瞬間、小野田少尉は、一私人・小野田寛郎に戻ったのです)は、不意に背中の荷物が重くなり、夕闇が急に重くなったような気がしたそうです。そうして、心の中に(戦争は二十九年も前に終わっていた。それなら、なぜ島村伍長や小塚一等兵は死んだのか)という思いが湧いてきて、体の中をびょうびょうと風が吹き抜けていく思いを味わったと述懐しています。また、長兄の敏郎氏とも現地で三十年ぶりの再会を果たすのですが、なぜか懐かしいという人間的な感情が湧いてこなかったとも言っています。小野田氏が、戦争に払った代償の大きさがうかがえる言葉です。
とにもかくにも、以上のような数奇な経緯を経て、小野田氏は、祖国日本に帰還することになりました。
しかしながら、 三十年ぶりに戻った祖国日本は、小野田氏にとって決して居心地のいい場所ではなかったようです。それが証拠に、小野田氏は帰国してから一年足らずでブラジルに渡っています。そのころを、小野田氏は「頭の収拾のつかない混乱」の日々と形容しています。以下に、帰国してからのエピソードをいくつか掲げますが、そこには単純に「祖国へ生還できてよかったですね」と言い切れない悲劇的なトーンが感じられます。小野田氏は、ルバング島での戦いとは別の、もっと込み入った心理的な戦いを強いられることになったのです。
昭和四九年三月十二日、タラップを下りた小野田氏は、両親と三十年ぶりに対面しますが、(年をとったなあ)と思っただけで何の感激もなかったそうです。これはやはり、戦いの日々の後遺症ではないかと思います。彼自身、「肉親への思いを拒絶し続けた三十年が、私の習性になってしまっていたのかもしれない」と自己分析をしています。そのそばに、島田伍長の成長した長女が、父の遺影を両手で包みこむようにして持って立っていました。小野田氏は胸が詰まり「申しわけありませんでした」というほかに言葉がなかったそうです。
小野田氏は、その足で羽田東急ホテルでの記者会見に臨みます。「カメラのレンズが十字砲火のように向けられていた。私は黒い銃口を連想した」という口ぶりから、彼が漠然とした不安や身の危険さえも感じていたことが分かります。小野田氏は、そのときいわゆる不適応症状の噴出を抑えるのに苦慮していたのではないかと思われます。ある記者の、小塚伍長の死で山を降りる心境になったのか、という軍人の心を察しないぶしつけな質問に対して、小野田氏は次のように答えています。
「むしろ逆の方向です(ムッとした表情)。復しゅう心のほうが大きくなりました。二十七、八年も一緒にいたのに″露よりももろき人の身は″というものの、倒れた時の悔しさといったらありませんよ(くちびるをふるわせ、絶句)。男の性質、本性と申しますか、自然の感情としてだれだって復しゅう心の方が大きくなるんじゃないですか」
おそらく、会場に居合わせた記者のみならず、この会見をテレビで見ていた日本の多くの人々は、小野田氏のこの言葉に込められた真情が分からなかったのではないかと思います。かくいう私が分かっているのかどうかも怪しいものです。その無理解こそが、小野田氏が帰国してからの「頭の収拾のつかない混乱」の大きな原因だったのではないかと思われます。そうして、その無理解それ自体は、そのとき避けようがないものでもあったのではないかと思われます。それは、小野田氏に、口外するのをはばかるような辛い思いを強いることになりました。
羽田空港で小野田氏を乗せた車は、東京・新宿の国立東京第一病院へ向かいました。帰国第一夜を、小野田氏は病院のベッドの上で迎えることになりました。帰国時に精悍そのものだった小野田氏は、自分がなぜ入院させられているのかわけがわかりませんでした。彼は当然のことながら退院を申し出ますが、厚生省から「政府として責任を負うための必要な処置」との理由で却下されます。小野田氏は「三十年間の戦いは、私個人でしたこと。国に責任を負っていただく必要はない」と反論しますが、聞き入れてはもらえませんでした。不本意ながら入院しているうち、本当に体が衰弱してきました。検査のために食事を最低カロリーに抑えられたのと、運動不足のために体力が衰えて、病院の廊下を思い通り真っ直ぐに歩けなくなってしまったのです。
入院中の小野田氏は、当時の総理大臣・田中角栄から、お見舞い金をいただきます。記者会見で金額は「百万円」だと教えられます。記者から何に使うのかと尋ねられたので、小野田氏は、靖国神社に奉納すると答えました。記者会見でお金の使い途まで聞かれて内心穏やかでなかったうえに、「靖国神社への奉納」が報道されると、どっと抗議の手紙が来ました。その内容は、「百万円を靖国神社へ奉納することは軍国主義にくみする行為だ。あなたは間違っている」といったものでした。それに対して、小野田氏は次のような痛切な言葉を吐いています。
なぜ、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか。私は生きて帰り、仲間は戦死した。私は戦友たちにお詫びし、心の負担を少しでも軽くしなければ、これからの人生を生きていく自信がなかった。
そんな無為と絶望の日々を病院で過ごしている小野田氏に、厚生省からスケジュール表が示されます。それには、「三月三〇日午前退院。靖国神社参拝――千鳥が渕参詣――皇居参詣――田中首相表敬後、新幹線で和歌山に帰郷」とありました。小野田氏はがく然とします。なぜならそこには、島田伍長と小塚一等兵のお墓参りの予定がなかったからです。小野田氏は、抑えていた憤懣が一気に爆発しました。陸軍中野学校同期会″俣一会″の幹事長・末次一郎氏にその胸の内を打ち明けたところ、末次氏は、厚生省に掛け合ってくれて、首相表敬の後に戦友ふたりの墓参ができることになりました。次に掲げるのは、小野田氏が小塚一等兵の実家を訪ねて、彼がルバング島での二七年間片時も離さずに握りしめていた形見の三八式銃を、彼の両親に手渡す場面です。この銃は、小野田氏が自分の銃とともにマルコス大統領から特別の許しを得て持ち帰った物で、厚生省に「国の支給品」として保管されていましたが、小野田氏がお願いしてもらい受けたのでした。小野田氏は、小塚一等兵の死後一年五ヶ月間、この銃をルバング島の「ヘビ山」の岩壁の割れ目にいつでも使えるように錆びない工夫をして隠していました。だから、銃床は古色蒼然としていたけれど、銃身や機関部は、小塚一等兵が毎日手入れをしていたときと同じように黒光りしていました。
「これしかお返しするものがありません」
が三八式小銃をお渡しすると、父上は突然、立ち上がって「金七!金七!」と息子の名を呼びながら銃を手に仏壇の前に倒れ込まれた。
父上の両手に握られた銃は、激しく震えていた。
私は思わず目を閉じた。
ドハの大樹のわきで、右肩から血を流しながら銃を取ろうとして取り落とした小塚の顔が、涙ににじんで揺れていた。
四月三日、小野田氏は三十年ぶりに故郷・和歌山に帰ります。新大阪からバスで向かう沿道は人の波で埋まっていたそうです。歓迎の人々に頭を下げ、手を振って応えながらも、小野田氏は胸が苦しかったと言います。なぜなら、生きて帰った自分だけが歓迎されるのに対して、戦争で死んだ仲間は、非道な戦争の加害者のような扱いを受けている。その扱いのギャップが、小野田氏をして堪らない気分にさせるからです。
小野田氏の実家は、氏神さまのそばにありました。小野田氏は、出征のときその神社に参拝し、兵営に向かいました。だから、氏神さまに「帰還」の報告をすれば自分の公式行事はすべて終わり、やっと私人に戻れる。もうひと息で自分は自由だ。わがままもできる。そう思って、小野田氏は神社の石段を二段跳びに駆け上がります。
ところが、鳥居の前で弟の滋郎氏が、小野田氏を通せんぼします。叔父の喪中だから鳥居をくぐってはいけない、鳥居の前から参拝するようにとの父親の指示があったというのです。小野田氏は、帰国してすぐに叔父が亡くなったことを知ってはいましたが、その指示に従ったのではどうにも心の収まりがつきません。小野田氏は、思わず弟を怒鳴りつけて、自分の意志を押し通します。
「お父さん、寛郎、ただいま帰りました」
あいさつしたとたん、頭から雷が落ちた。
「大勢の人さまの前でただいまの行為はなにごとか。お前は、恥と思わぬか。郷に入らば郷に従えだ!」
父は、私と弟のいい争いをテレビで見ていたらしのだ。敷居をまたぎ、ホッと気が緩んでいた私は、父のお目玉に逆上した。
「命が惜しくて未練たらしく生きていたのではありません。死ぬに死ねずに生きていたのです。だれがこんなうるさい世の中に生きていたいと思うもんか。もうすべては終わったのだ」
私は床の間にあった軍刀をわしずかみにして引き抜こうとした。割腹するつもりだった。
次兄の格郎と力ずくでもみ合った。
「父上、寛郎は気違いです。そうでなければ、戦場で三十年も生き抜けなかったと思います。そして帰ってきて日本の姿を見た寛郎が、なんと感じているかおわかりですか。父上はそばにいなかったからわからないのです。寛郎ももう少し時間がたてば、常人に戻るでしょう。どうか許してやってください」
父は両手をついて父に詫びた。父は黙っていた。
家族にも自分の孤独な思いをまったく分かってもらえないのか。小野田氏は、そう思ったにちがいありません。こらえにこらえていた思いが一気に噴出しているのが分かります。小野田氏は、このときほど、戦後の日本と自分との間に立ちはだかる分厚い壁を感じたことはなかったでしょう。小野田氏自身、その当時の自分の気持ちを「やり場のない憤怒の渦の中で、たいへん心が高ぶっていた」と述懐しています。また、端的に「私は、平和で豊かな日本に帰ってきながら、生きる目的を失い、虚脱状態に陥っていた」とも述べています。
実は次兄の格郎は、中国からの復員兵で、「特攻隊は犬死だ」と小学校の娘に教えた教師に象徴される戦後の日本に絶望してブラジルに移住した人です。そんな彼が、弟の寛郎の気持ちを分からないはずがありません。痛いほどによく分かるのです。
だから、何度も小野田氏に「休養がてらブラジルへ遊びに来い」と声をかけたのです。昭和四九年十月、祖国に帰還して七ヶ月後に、小野田氏はブラジル・サンパウロへ旅立ちました。そうして、ブラジル移住を決心します。ジャングルを伐開して牧場をつくることにしたのです。小野田氏は、そのことに生きる意味を見出そうとしました。小野田氏によれば、「ブラジルでの牧場開拓は、私の″生きる証し″であった」とのことです。
ブラジルでの牧場開拓は、小野田氏のもう一つの「三十年戦争」となりました。しかし、それは孤独な戦いではなく、心優しい「戦友」との三〇年でもありました。ここで私が「戦友」と呼ぶのは、小野田氏の奥さんの町枝さんのことです。彼女との夫唱婦随の「三十年戦争」がどういうものであったのか。彼女は、2002年に『私は戦友になれたかしら---小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(青流出版)という本を書いています。その著書の編集者・臼井雅観氏が、次のような文章を書いていて、それが、そのことを垣間見るのにいいかもしれないと思いました。
実際、執筆依頼してから刊行に至るまでに2年半かかった。それも無理はない。初めての著書なのだから。
20年ほど前、小野田町枝さんは某大手出版社から単行本執筆を依頼されたことがある。その時は多少のメモ書きを残しただけで、 結局、書き上げることはできなかった。
それが今回のこの本につながったのである。
どうしても出版したいと、渋る著者を説得したのには、わけがある。著者・町枝さんの人生が、「事実は小説より奇なり」を正に地でいく人生だったからである。
天の時も味方した。寛郎さんが今年三月、八十歳を迎えたのだ。この機を逃したら、恐らく本を書くことは叶わない。そう町枝さんも思ったからこそ、 執筆を快諾してくれたのだった。
町枝さんの人生は、38歳の時、大きく転換を始めた。
30年間ルバング島で戦い続け、 日本に帰還した小野田寛郎さんの記者会見をテレビで見たのがきっかけだった。偶然が重なって寛郎さんと婚約・結婚、30年に及ぶブラジルでの牧場開拓の生活が始まった。
これが夫婦二人して命懸けの30年になった。
町枝さんは3ケ月で日本に逃げ帰るだろうと言われたというが、それほど過酷な開拓作業であった。便利で快適だった東京での生活からは想像もできない、ブラジルでの日々の生活。気候が違う。風習が違う。食べ物が違う。広大な荒野にポツンとある一軒家で、 近くに知った人もいない。電気も通っていないランプだけの生活。
毒虫、毒蛇、大蛇、ワニ、蜂、ピラニア、豹にアリ食い。荒野は危険な動物がいっぱいである。自分の身は自分で守らなければならない。 銃が必携の土地柄といえばおわかりいただけるだろう。
私も知らなかったのだが、牧場からの収入は8年目位から。7年間はまったく無収入なのだという。経済的に困窮して、明日の食べ物に事欠いたこともあった。
その時は、窮余の一策で、ブルドーザーで出稼ぎをし、 糊口をしのいでいる。
信頼する牧童が殺人者だったり、メイドに大金を持ち逃げされたこともある。
牧場がようやく軌道に乗り始めたのは10年を過ぎてから。そこまで頑張れたのは、やはり夫婦の絆の強さである。ご夫妻に何度かお会いしているが、確かに仲がいいのだ。元気印で饒舌な町枝さんを、横で優しく見守る寛郎さん。寛郎さんの庇護あればこそ、町枝さんもこの開拓生活を耐え忍べたのである。
(中略)
そんな中にあって、 寛郎さんから「戦友を得た」と表された町枝さん。「戦友」とは、人間的な結びつきも半端ではない。 希有なケースではなかろうか。今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻。
(後略)
「今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻」。この箇所を読んで――小野田氏がどう思っているのかは分かりませんが――何があろうと歯を食いしばって生き抜くのは、まんざら悪いことではないなと思いました。そこには、心温まるものがあるからです。今回の五〇代半ばからの「三十年戦争」には、小野田氏はどうやら勝利したようです。そのことに他人ながらほっとすると同時に、これはなかなかできることではないと感心することしきりです。
最後に無骨なお話を少々。
消費増税の決定やTPP交渉における事実上の公約破りによって、安倍政権が高く掲げた「戦後レジームからの脱却」は、俄然雲行きが怪しくなってきました。しかしながら、そのことにガックリきてばかりもいられません。安倍政権がどうなろうとも、その課題の重要性にはいささかの変わりもないからです。
私は、小野田氏の戦いの連続の人生を追いかけながら、「戦後レジームからの脱却」の根底に置くべきものがよく分かるようになりました。それは、端的に言えば、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くそうとする生き残った者のやむにやまれぬ素直な心を最大限に尊重することです。それは、戦争を美化することでも、小野田氏を崇めることでもなく、国家が国家であるための心的な土台を踏み固める厳粛な営為です。それが、「戦後レジームからの脱却」の理念に背骨を通すことにどうやら深くつながるのではないかと思えてきました。たとえ安倍政権がダメだったとしても、その理念を鍛え上げることはひとりでもできます。そのことが、結局は二番手三番手の旗手を誕生させる原動力になるのではないかと、私は考えます。