美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小野田少尉の三〇年戦争 (イザ!ブログ 2013・10・4,6,10 掲載)

2013年12月22日 06時51分04秒 | 歴史
小野田少尉の三〇年戦争



小野田寛郎(ひろお)氏が祖国日本に帰って来たのは、昭和四九年の三月十二日の午後四時過ぎでした。なんとなく記憶に残っているのは、その日のNHK7時のニュースで報じられた、記者会見に臨む小野田氏の姿です(もしかしたら実況中継だったかもしれません)。その二年ほど前に帰還した横井庄一氏の敗残兵然とした姿とくらべると、ずいぶん背筋のピンと伸びた軍人らしい人だと思ったことを覚えています。つい最近まで臨戦態勢にあったような風貌なのですね。たくさんの報道陣がしきりにフラッシュを焚いていたりするので緊張するせいか、記者たちの質問に答えながら口角に蟹のように泡がたまるのが痛ましくもありました。また、「~であります」という答え方に、軍人らしさが出ているような感じを持ちました。

それは、私が十五歳のときのことでした。私は、たしか合格した公立高校に入学するのを待つばかりの身だったのではないでしょうか。父がなかば鬱病のような状態になり、失職した後半年ほどずっと寝込んでいたので、家の中はお世辞にも明るいとはいえない雰囲気でした。きちんと病院に行こうとしないその髭ぼうぼうのだらしない態度に納得の行かないものを感じていて、私はうっすらとした不満を父に対して抱いていました。だから、父と会話らしい会話を交わす気分にはあまりなれませんでした。そんな父が、テレビで小野田氏がルバング島を歩く映像を観て「あれは大したものだ。五〇代なのに起伏のある地形をスッスッと歩いている」と褒めたのを覚えています。父は元海上自衛官なので、小野田氏の軍人としての力量をかいま見て心を動かされたのではないかと思います。

小野田氏が帰還した当時の私の記憶は、おおむねそんなところです。それから四〇年の歳月が流れました。私は、今回たまたまブック・オフで買った彼の『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読みました。そこには、私が漠然と想像していた小野田氏とはずいぶん異なる姿がありました。それをみなさんにお伝えしようと思って、筆を執ってみることにしました。私がお伝えしようと思うのは、小野田少尉がルバング島で三〇年間、どういう思いでどのように闘ったのか、ということです。そうして、日本に戻った小野田氏を待っていた日本の現実がどういうもので、それを小野田氏がどう思ったかということです。

昭和十六年十二月八日、日本は対米英開戦に突入します。満二十歳になった小野田氏は、昭和十七年五月、中国・漢口(いまの武漢)で徴兵検査を受けました。甲種合格でした。以下、フィリピン・ルバング島赴任までの略歴を簡潔に記します。ルバング島は、ルソン島のマニラ市をマニラ湾に向けて南西に200kmほど下ったところにある小さな島で、ルソン島をクジラに見立てると、ルバング島は小魚ほどの大きさです。

昭和十九年一月(二十一歳)、九州・久留米の第一予備視士官学校で訓練を受けるために日本に帰国。

同年八月(二十二歳)、陸軍中野学校二俣分校(静岡県天竜川)で第一期生として訓練開始。戦局の緊迫化により、謀報・謀略技術を三ヶ月で詰め込まれる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓とは異なり、「死ぬなら捕虜になれ」と教えられた。

同年十一月三〇日、同校退校。「卒業」の字は、経歴に残るため。

同年十二月十七日、小野田氏を乗せた輸送機がフィリピンに向けて飛び立つ。

フィリピンで、谷口義美少佐から「小野田見習士官は、ルバング島へ赴き同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」との口頭命令を受ける。それを発令した横山師団長から「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか、重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と言われる。

昭和二〇年一月一日、ルバング島に到着。



貧弱な装備と警備隊長への指揮権はあるが命令権はないという指揮系統の不備に悩まされながらも、小野田少尉は、命令をなんとか遂行しようとします。

二十年二月二八日夜明け、ティリク沖合にいた敵艦の艦砲射撃開始。敵軍上陸。敵に速やかに制空権・制海権を握られ、自分たちは武器の補給すらない惨憺たる闘いを強いられます。三月半ばになると、生き残りの日本兵が山中の幕舎に集まってきます。約二〇〇人の日本兵が二二人になっていました(実際は四〇数名)。将校で残っていたのは小野田少尉だけでした。さらに、分散潜伏を採用したり、敵の掃討部隊と出くわして猛射を浴びたりしているうちに、分隊はばらばらになってしまい、隊は三人だけになってしまいました。すなわち、島田庄一伍長・三十二歳、妻帯者、埼玉県出身。小塚金七一等兵・二十四歳、東京都出身。小野田寛郎少尉・二十三歳、和歌山県出身の三人です。こうして、三人だけのゲリラ活動に明け暮れる生活が始まりました。途中、フィリピン軍に乱射された日本兵のグループの生き残りの赤津勇一一等兵が加わったものの、彼は後に″脱走″しました。日本に帰ってから、小野田氏は、周りから″脱走″という言葉使いを非難されたのですが、それに対して「命が尽きるまで闘い抜き″戦死″したほかの二人のことを考えたら、それ以外にどんな言葉を使えばいいのか。そう言わなければ、ふたりは浮かばれないではないか」という趣旨の言葉で逆に激しく問いかけています。

八月中旬になると、毎日威嚇射撃をしていた米兵の姿が見えなくなります。八月十四日に日本政府がポツダム宣言を受諾したのですから、それは当然のことです。しかし、その当然のことが、彼ら三人には伝わらない。投降勧告ビラに「八月十五日、戦争は終わった」の文字を見かけますが、彼らはそれを信じません。年末に「第十四方面軍司令官 山下奉文(ともゆき)」の名での戦闘行動の停止命令のビラを目にするも、文面におかしなところを発見してその信憑性を疑います。慎重な検討を重ねた結果、「山下将軍の名をかたった米軍の謀略だ」という結論になりました。小野田氏自身はこれについて次のように語っています

最初のボタンの掛け違いとは、恐ろしいものである。私は初めに矛盾の多い山下奉文将軍名の「投降命令」や「食物、衛生助(?)ヲ与へ、日本へ送(?)ス」などわけのわからない日本語のビラを見せられたため、どんな呼びかけにも米軍の謀略、宣伝だと頭から疑ってかかる習性が身についていた。

それに関連して、次のようにも言っています。

日本の敗戦が信じられなかった私は、友軍が反撃攻勢に転じる前、必ず連絡をとりにくると思っていた。そのときのために上陸地点の地形、敵の布陣、戦力など島内のあらゆる情報を収集しておかねばならない。

それだけではありません。小野田氏は、次のようにも言っています。

大規模な遊撃戦はあきらめざるを得なかったが、友軍が再上陸してくる日まで、私たちは″占領地区″を死守せねばならない。

だから、ときにはフィリピンの国家警察軍と激しく撃ち合うこともありました。また、自分たちによる占領の事実を知らせるために、畑仕事をしている農民に対してあえて威嚇射撃をすることもありました。

ジャングルでの生活は自然との厳しい闘いはあるものの、それ以外はのんびりしたものだったような勝手なイメージをなんとなく抱いていましたが、実際にはそんな生易しいものではありません。彼らは、自然に対しては当然のことながら、「敵」の動向に対しても、四六時中実に注意深く、そうして警戒を怠ることなく日々を過ごしているのでした。

「敵」に所在地を知られないように、煙を出さないで火を燃やす工夫をしたり、農民から食料を盗む場合も盗んだ事実が発覚しないように目立たぬ分量だけ盗んだり、ジャングル奥深く人が入り込んでくる乾季には、ねぐらを日替わりで変えたりと、気の休まるときはほとんどといっていいほどになかったようです。寝るときも、蚊に食われたり、さそりに刺されたり、蟻に鼓膜を破られたりしないように、細心の注意を払いました。事実、小野田氏の左耳は寝ている時に鼓膜を蟻に食い破られたせいでまったく聞こえないそうです。つまり、彼らにとってルバング島は、文字通りの戦場だったのです。いいかえれば、毎日が極限状況ということになります(小野田氏は、孤独な「三〇年戦争」で島民を含めて30名殺したとのことです)。それを耐え抜く精神力がどれほどのものか、太平の世に生を受けた私には想像もつきません。あとがきを書いた三枝貢という方が後年帰還した小野田氏に「ルバング島へ行ってみたいと思いませんか」と尋ねたところ、彼は暗く沈んだ声で「木一本、砂一粒を見るのも嫌です。何ひとつ、楽しいことはなかったですから・・・・・」と言ったそうです。むべなるかなと思うと同時に、ここで小野田氏はほのめかしてもいませんが、ルバング島が戦友二人を失った場所であるという思いが、小野田氏をしてそういう矯激な言葉を吐かしめているようにも感じられてなりません。

では、小野田氏にいまもなお痛憤の念を抱かしめ続けているにちがいない戦友たちの「戦死」に触れましょう。これが、この文章のなかでいちばん書きたかったことです。

その前に、三人の結束の固さを示すエピソードに触れておきます。途中参加の赤津一等兵が去った後、小野田少尉は二人にはじめて特殊任務を打ち明けました。おそらく小野田少尉は、赤津一等兵を心の底から信じることができなかったのでしょう。

「隊長殿、五年でも十年でもやるぞ。友軍が上陸してくるまでに、オレたち三人でこの島を完全占領だ」島田は顔を紅潮させていった。小塚はニヤっと笑っただけだった。勘のいい彼は、うすうす私の任務に気づいていたようだ。

それからの三人は、積極的なゲリラ戦に出ました。体力のない赤津一等兵を抱え隠忍自重を強いられたために、住民たちは、三人の″占領地区″である山に入り放題だったのですが、それを威嚇して追い払い、向かってくる敵には容赦なく発泡しました。フィリピンの国家警察隊は、それに対抗して戦力を増強し、約一〇〇人を動員して包囲作戦に出る日もありました。

昭和二八年五月の夜襲で重傷を負ったろから、豪放磊落だった島田伍長がなにかと気弱になってしまいました。やがて彼は、三人の間でタブーになっている家族のことを話すようになりました。次は、そんなころの彼のエピソードです。

「男の子か女の子か、どっちが生まれたかなあ」
降りしきる雨を眺めながら、島田伍長がつぶやいた。彼が出征するとき、奥さんは二人目の子を身ごもっていたという。長女はまだ、小学校にもあがっていなかったそうだ。
「あいつもそろそろ年ごろか」
ふっとため息まじりにいった。しんみりと話すのは、いつも子供のことであった。無理もない。彼は招集兵だ。めっきり白髪が増え、島田も四十歳が近かった。
(中略)
故郷や肉親の話は、私たちにはタブーであった。そんな話をしたあとは、なぜか不吉なことが待ち構えていた。
 島田が好んでしたのは盆踊りの思い出話だった。
(中略)
 「あんな楽しいものはなかったなあ。なにしろ年に一度の楽しみなんだから」
 島田は本当に楽しげに話した。
 しばらくして、私たちは家族の写真を載せたビラや手紙を拾った。島田は二人目の子が女の子であることを知った。
 夕食後、妻子の顔が載ったビラを島田はじっと見入っていた。
 不吉な予感は、数ヵ月後に現実になった。


次が、島田伍長戦死の場面です。島の西のゴンチン海岸でのことです。山の斜面でほかの二人が仮眠していて自分が見張りをしているとき、ふだんは慎重な島田伍長がなぜかそのときにかぎって無防備に、赤く熟したナンカの実をむき出しの岩の上に並べてしまいました。目を覚ました小野田少尉が、敵にそれを見つけられたら自分たちの命に関わる重大事に発展しかねないと危惧の念を抱くのとほぼ同時に、住民らしい男が駆け降りていきます。恐れていたことが現実のものになります。その男は、討伐隊の道案内だったのです。ほどなく激しい銃撃戦になります。

私は斜面に身を伏せ、小塚は三メートルほど離れたところで倒木の陰に身を隠し、応戦した。
島田はまだ一発も撃たない。見ると、立ったまま銃の装填動作をしている。
中隊の射撃大会で表彰状をもらったのが自慢の島田は、早撃ちでも三人のうちで一番だった。私と小塚が二発撃つ間に、五発は撃つ。
「島田、少しは弾を大事にしてくれよ」と、銃撃戦のあとでいつも文句をいったものだ。
「伏せろ!姿勢が高いぞ」
私は怒鳴ろうとしたが、声にはならなかった。
一斉射撃が谷いっぱいにこだました。
島田の体が頭からゆっくりと前のめりに倒れた。動かない。即死だった。
昭和二九年五月七日、島田庄一伍長は九年間の戦闘の末、戦死した。
のちに捜索隊が残していった新聞記事によると、島田は眉間を打ち拔かれたいたという。
私たち三人は、敵に突然、遭遇したとき、それぞれ一発ずつ敵を銃撃して出ばなを押さえ、間げきをついて離脱する取り決めになっていた。
島田はなぜ、あのとき発泡しなかったのか。なぜ、あんな高い姿勢をとり続けたのか。私はいまだにこの疑問が解けないでいる。


島田伍長の″戦死″が確認されたことで、厚生省引揚援護局が残る二人の救出に乗り出しました。小野田少尉の長兄・敏郎氏と小塚一等兵の弟・福治氏がそれに加わって、昭和二九年五月二五日に羽田を出発しました。島田伍長が″戦死″した十八日後のことです。小野田少尉は、長兄や母タマエの手紙を目にします。しかし、いま祖国は米軍の占領下にあり、日本政府はアメリカの傀儡(かいらい)に過ぎないというのが小野田少尉の認識ですから、それらは米兵に脅されて書いたものにちがいないとされるのでした。また、タマエさんは武家の出で、気丈な明治の女です。小野田少尉が出征するとき、短刀を渡して「武人として道にもとるときは、この短刀で自決しなさい」と申し渡しました。「そんな母が、投降をすすめるはずがない」と小野田少尉は考えるのでした。



昭和二九年五月、島田庄一伍長が″戦死″しました。残るは、小野田少尉と小塚一等兵のふたりとなりました。仲裁役のいない男ふたりだけの世界は、衝突した場合、抜き差しならない事態に発展しやすいところがあるようです。そのうえふたりは普段から戦闘態勢のまま日々を過ごすという極限状況にあったので、そうなりやすいという側面があったのではないかとも思われます。小野田氏によれば、「小塚と二人きりになって、私たちはどちらからともなく自分を「アコ」、相手を「イカオ」とタガログ語で呼び始めた。『貴様』とか『お前』という言葉は時と場所によっては相手の感情を損ねることがあると、無意識のうちに気を遣ったのかもしれない」そうです。衝突しないようにお互い細心の注意を払っているのが分かりますね。

しかしそれでもぶつかるときが来るのを避けられない場合があります。そうして、そのきっかけはほんの些細なことです。あるとき、ふたりで小学校から盗んできたトタン板をめぐってのちょっとしたやり取りがありました。トタン板を雨期を過ごすための場所に運ぶことになり、昼間トタンを背負って歩きます。トタンの光の反射をそのままにしておくと敵に自分たちの所在を知らせることになりかねないので、それに草やつるを巻きつける必要があります。小野田少尉は、つるを探しましたが、適当なのが見つからなかったので、細いつるを多めに巻きつけました。小塚一等兵は、それを見とがめて「横着するなよ。もっと丈夫なつるでなきゃダメだ。なぜ徹底的に探さないんだ」と文句を言います。小野田少尉は「これで十分間に合うさ」と軽く流そうとします。それが口火になって、ふたりは言い争うことになります。ふたりとも前夜遅くまで密林を歩き、疲れと睡眠不足でイライラしていたのも悪く働いたようです。小塚一等兵は、憤然として立ち上がり、山の中に入って行きます。ほどなく戻った彼は、蛮刀で小野田少尉が巻きつけたつるをバサっと切り、持ってきたつるで縛り直します。小野田少尉はその粗暴な振る舞いにもちろんカチンときますが、何か言えば激しい口論になると思い、黙ってトタンを背負って歩き出します。しかし、それで事態は収束しなかったのです。



小塚は前を歩きながら、「横着して」とまた私をなじった。私が黙っていると、そのうち彼は吐き捨てるようにいった。
「これからは、オレのあとについて歩けばいいんだ!」
「ついて歩け?」
私は思わず立ち止った。
「待て、小塚。いまの言葉は聞き捨てならんぞ」
背中の荷物を下ろし、その場に腰を据えて私はいった。「オレは一人でも歩ける。一人で任務も遂行できる。これまで貴様や戦死した島田からいろいろ助けてもらったことは感謝している。が、オレは将校だ。この島での戦闘については全責任をとる覚悟でやってきた」
小塚はフンといった顔でいい返した。
「陸軍少尉、文句はもうたくさんだ。能書きや説教は聞き飽きた!」
険悪な雰囲気でにらみ合いが続いた。


事態は、極限的な状況へとエスカレーションしていきます。戦闘態勢が解除されないことから来る緊張や孤立感が果てしなく続いていて、仲裁役がだれもいない閉鎖空間において、男ふたりが衝突するとそういうことになってしまいがちなのは、想像するのがそれほど難しいことではないでしょう。

(前略)私は立ち上がり、再びトタン板を背負って歩き出した。十歩も行かないうちに、足元に石が飛んできた。振り向くと、小塚がさらに石を投げようとしていた。
「バカ野郎、やめないか」
 これがかえって油を注いだ。「バカ野郎とは何だ!貴様は味方じゃねえ、殺してやる」
「殺す!? 殺したいなら殺してみろ。その前にひと言、いうことがある。よく聞け」
 私は小塚の目をにらみ据えていった。
「オレは貴様と一緒に長い間、国のため、民族のために戦ってきた。オレは同志である貴様を、自分の感情だけで傷つけないよう心を砕いてきたつもりだ。それなのに貴様は、オレの統率が悪いから、多くの投降者を出し、赤津を脱走させ、島田を戦死させたと、何度も同じことをいった。だが、貴様がそれを言い出すときは決まっている。一つ、敵の勢力が強いとき、二つ、天候が悪いとき、三つ、計画がうまく運ばず、心身ともに疲れているとき、四つ、ハラが減っているときだ。このうち何か一つにぶつかると、必ずオレを批判し、怒りっぽくなる。きょうの場合は三番目だ。なぜ、もっと冷静になれないんだ。オレたちはたった二人だけなんだぞ」
「うるせえッ! 説教なんてたくさんだ」
「そうか、これだけいってもわからんか。よし、命はくれてやる。オレを殺して、あとは貴様一人で生き抜け。そして、オレの分まで戦え!」
 裏海岸の断崖の下には南シナ海の荒海が打ち寄せていた。耳には何も聞こえなかった。いっさいの物音が途絶えてしまったような感じだった。
 静寂の中で私たちは対峙した。太陽がジリジリと焼きつけていた。長い時がたった。
「隊長殿」沈黙を小塚が破った。
「先を歩いてくれ」


いかがでしょうか。最後の二行は、男泣きを誘うとは思われませんか。この場面が映画なら、このセリフを役者さんがうまく言えるかどうかが、作品全体の出来に大きく関わると思われます。私は、なにか趣味的なことを言いたがっているのではありません。この最後の二行を深く味わうことで、極限状況における赤裸々な激しい姿をお互いにさらしながらなおも許し合い尊敬し合って、ふたりの戦友としての絆が人間としてこれ以上はないほどに深いものになっていくのがよく分かります。そういうことが申し上げたいのです。小野田氏自身、上の箇所に続けて、次のように言っています。

 私と小塚は、この南の島で初めて知り合った。
 戦争がもたらした運命が、私たちを実の兄弟以上に結びつけた。
 ろくに言葉を交わさなくてもお互いの考えが理解できた。敵と遭遇したときも、目と目でうなずき合っただけで次の行動を展開した。私は彼の勇気と、果敢な行動力を尊敬し、彼は私の判断力に一目おいてくれているようであった。私たちは何度も「任務を遂行したら、二人そろって元気に内地に帰還しよう」と誓い合った。


ラジオで競馬中継を聴きながら、ふたりは結果の予想をするのが趣味のようになっていましたが、その予想が不思議なほどによく当たるので、ふたりは内地に帰還したら競馬の予想屋になろうと約束していたそうです。

次に、私は小塚一等兵の戦死の場面を語らねばなりません。小野田氏は、「昭和四十七年十月一九日――小塚一等兵が撃ち殺された日を、私は生涯忘れることはない」と言って、その場面を語り始めます。昭和四十七年は西暦1972年ですから、日本が高度経済成長を経て豊かな社会を実現し、1971年のドルショックを境に安定成長の時代に移行しつつある時期に当たっています。日本経済は、成熟期を迎えることになったのです。ふたりは新聞や入手したラジオでそういう現実の一端を垣間見て、とにもかくにも喜ばしいことだと祝するのではありましたが、他方では、抵抗を続ける友軍が来る日に備えて、ルバング占領の既成事実を作り、それを外へ向けてアピールする遊撃戦を続行するのでした。

ふたりは、雨期明けに決行する存在誇示の″狼煙(のろし)作戦″を実行に移します。場所は、島一番の町であるテリックが見渡せる丘(ジャパニーズ・ヒル)です。威嚇射撃をし、稲むらにヤシ油を浸した布を突っ込み、マッチで火をかけます。畑の中を走りながら、小塚一等兵は、ドハの大樹のわきに米俵が積んであるのに目をつけます。

「ついでに、やるか」小塚は木に銃を立て掛け、近くにワラを取りに行こうとした。
「時間がないぞ」
「わかっている」
そのとき、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。
しまった!至近距離だ。
私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
 敵は激しく撃ってきた。 
 応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。いままで何度もあったことだ。 
 だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」小塚が叫んだ。
 振り向くと、右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く、先に走れ!」
「胸だ!ダメだ」
私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
 敵の銃声が途絶えた。
 いまだ! 私は二丁の銃を持って後ずさった。退いたものと思っていた小塚がいた。
「小塚!小塚!」
 私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
 反応がない。顔を見た。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
 私は両手に二丁の銃を持って、一気に潅木の斜面を駆け下りた。激しい銃声が後を追った。
 私は最後の戦友を失った。小塚、五十一歳であった。


小野田少尉は、とうとう一人ぼっちになってしまいました。次は自分の番だという恐怖感はなかったそうです。極限状況の連続で、命に執着するという平時の当たり前の心がはたらかなくなっていたのかもしれません。そういうことはなかったのですが、一番苦労したのは、折に触れ突き上げてくる激情を抑えることだったそうです。つまり、かけがえのない戦友・小塚一等兵を殺された復讐心がせり上がってくるのを如何ともしがたく思うのでした。

 「胸だ!ダメだ」
 小塚の最後の悲痛な叫びと、口から血を吐いた顔がいつも脳裏を離れなかった。
 畑の住民の姿を見ても憎悪がこみあげ、女性にまで銃口を向ける自分を抑えねばならなかった。
 私は感情におぼれ暴発を防ぐため、自分の年限を決めた。あと十年、六十歳で死ぬ。
 体力に衰えはなかった。視力は1.2、夜間も目はきいたが、やや老眼が出始めたのは自分でも気づいていた。(このときもなぜか、蒸気機関士の定年が四十五歳だから、と妙なものを計算の基準にしていた)
 六十歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃。保存している銃弾すべてを撃ち尽くして死に花を咲かそう・・・・・。


自分の人生に決定的な区切りをつけなければ、その噴出をどう処理していいのか分からなくなってしまうほどの激情とは、すさまじいものです。戦友の存在が、小野田少尉にとってどれほどにかけがえのないものであったのか、余人にはうかがい知れないところがあります。

とにもかくにも、そのようにして、小野田少尉のひとりぼっちの戦いは続行されることになります。


小野田寛郎氏と鈴木紀夫氏

小塚金七一等兵の″戦死″は、日本において衝撃的なニュースとして伝えられました。当時の東京新聞(昭和四十七年夕刊)は、一面トップニュースとして「元日本兵がゲリラに」「一人射殺一人逃走」「現地警察と撃ち合い」と7段見出しで報じられました。関係者は、「小野田少尉、生存す」の事実を決定づけられたのです。日本は大々的な捜索隊を組織し、現地に送り込みました。厚生省、マニラの日本大使館、小野田氏の家族、友人などに、武装したフィリピン空軍約二〇〇人が加わり、大型ヘリコプターや軍用犬も動員されました。

小野田少尉は、当時を振り返って「こんな大捜索隊を見たら、だれだって討伐隊、戦場の軍隊と思うに違いない」と言っています。また、「こんどの姉、兄弟まで動員した捜索隊は、昭和三十四年のそれとは違う。どうやら日本政府が派遣した可能性が強い。捜索隊というのはあくまで口実で、実体は日本の謀略機関が送り込んできた特殊任務者の集団ではないだろうか。私への救出の呼びかけは、アメリカの謀略機関を欺くためのトリックで、その裏で島の飛行機やレーダー基地を写真に撮ったり、兵要地誌を候察したり、情報収集をしているにちがいない」とも言っています。「兵要地誌の候察」とは聞きなれない言葉です。「兵要地誌」とは、軍事的な観点から地理・ 地誌・緊要地形などについて研究を行う学問のことで、現代では軍事地理学と呼ばれています。また、「候察」とは、対象物件の状態を詳細に把握することです。このような若い頃に叩きこまれた実践的な軍事学の知見と、「あくまでも死ぬな」という陸軍中野学校精神と、小野田少尉の生来の意志の強さと、孤独な環境と、二人の戦友の死への深いこだわりとが相まって、小野田少尉の戦闘態勢はどうしても解除されるには至りません。これでは、捜索隊の思いと小野田少尉のそれとはどこまで行っても平行線です。

その膠着状態を打破したのは、意外な人物でした。それは、小野田少尉を″発見″するためにルバング島にやってきた冒険家・鈴木紀夫氏(二十四歳・当時)です。彼の夢は「パンダと小野田さんと雪男に会うこと」で、彼は、その夢を果たすために小金を貯めてはふらりと世界旅行に出かける、気楽でのびやかな戦後青年でした。鈴木青年は、たったひとりで島にやってきて、小野田少尉の偵察巡回の要所だった「和歌山ポイント」にテントを張り、小野田少尉との遭遇を心待ちにしていたのです。小野田少尉は、鈴木青年の背後から「おいッ」と声をかけ、銃口を突きつけて出現しました。昭和四九年二月二十日のことです。なんと強烈な出会いでしょうか。

「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と鈴木君は繰り返し、ぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。このときの心境を彼は書く。「足がガタガタと震え出した。男が手にもっているモノが鉄砲だとわかったからだ。体中の毛がそうけだっているのがわかる。殺される。死ぬ。しかし、男の目がキョロキョロ動いているので、一瞬、これは勝てるという気もした。そうだ、ナイフだ、しまったあ、ナイフを忘れたあ。これはダメだ」
 鈴木君にとっても、私にとってもこれは幸運であった。もし、あのとき、鈴木君がナイフに手をかけたら、私は間違いなく彼を射殺してしまっただろう。私が鈴木君を殺さずにすんだ理由は、彼が丸腰だったこと、毛の靴下にサンダル履きという住民にはない珍妙なスタイルだったせいである。


小野田少尉と鈴木青年とは、徹夜で語り明かしました。鈴木青年は日本が戦争に負けたことを小野田氏に対してかきくどいたそうです。小野田少尉は、鈴木青年の話を信じる気持ちがわずかながら兆したようです。鈴木青年は、小野田少尉の「オレはいま五一歳だが、まだ三十七、八歳の体力だと思っている。人間というのは体が健康であるかぎり、生きていたいもんだ」という言葉を聞いて、「小野田さんにはぜひ日本へ帰ってもらいたい」という決意が固まったそうです。小野田氏によれば、「計画は行き当たりばったり、性格は天衣無縫な鈴木君だが、核心はズバリ突いてきた」そうです。

「小野田さん、本当に上官の命令があれば、山を下りてきてくれますね。何月何日何時何分、どこへと指定すれば、きますね」 
 私は「上官が命令下達にくれば、敵と撃ち合ってでも出る」と答えた。(中略)
 私は自分の上官として比島派遣軍参謀部情報班別班長・谷口義美少佐の名をあげた。(中略)私は鈴木君と別れぎわ「あてにしないで待ってるよ」といった。期待するものはなにもなかった。


それから二週間ほど後、小野田少尉は、連絡箱で鈴木氏の手紙を発見し、「山下奉文大将の命令書を持って、谷口義美少佐と島にきました」という文言と、「命令は口達す」という谷口少佐の文書を目にします。

昭和四九年三月九日の夕方、約束の場所に谷口少佐が現れ、小野田少尉は不動の姿勢で″投降命令″を受けます。それは表向きだけのことで、何かほかに本当の命令があるのではないかと思って少佐の目を見つめますが、少佐は、何も言わずに、ゆっくりと命令書をたたんだだけでした。そのとき小野田寛郎氏(この命令を受けた瞬間、小野田少尉は、一私人・小野田寛郎に戻ったのです)は、不意に背中の荷物が重くなり、夕闇が急に重くなったような気がしたそうです。そうして、心の中に(戦争は二十九年も前に終わっていた。それなら、なぜ島村伍長や小塚一等兵は死んだのか)という思いが湧いてきて、体の中をびょうびょうと風が吹き抜けていく思いを味わったと述懐しています。また、長兄の敏郎氏とも現地で三十年ぶりの再会を果たすのですが、なぜか懐かしいという人間的な感情が湧いてこなかったとも言っています。小野田氏が、戦争に払った代償の大きさがうかがえる言葉です。

とにもかくにも、以上のような数奇な経緯を経て、小野田氏は、祖国日本に帰還することになりました。

しかしながら、 三十年ぶりに戻った祖国日本は、小野田氏にとって決して居心地のいい場所ではなかったようです。それが証拠に、小野田氏は帰国してから一年足らずでブラジルに渡っています。そのころを、小野田氏は「頭の収拾のつかない混乱」の日々と形容しています。以下に、帰国してからのエピソードをいくつか掲げますが、そこには単純に「祖国へ生還できてよかったですね」と言い切れない悲劇的なトーンが感じられます。小野田氏は、ルバング島での戦いとは別の、もっと込み入った心理的な戦いを強いられることになったのです。

昭和四九年三月十二日、タラップを下りた小野田氏は、両親と三十年ぶりに対面しますが、(年をとったなあ)と思っただけで何の感激もなかったそうです。これはやはり、戦いの日々の後遺症ではないかと思います。彼自身、「肉親への思いを拒絶し続けた三十年が、私の習性になってしまっていたのかもしれない」と自己分析をしています。そのそばに、島田伍長の成長した長女が、父の遺影を両手で包みこむようにして持って立っていました。小野田氏は胸が詰まり「申しわけありませんでした」というほかに言葉がなかったそうです。

小野田氏は、その足で羽田東急ホテルでの記者会見に臨みます。「カメラのレンズが十字砲火のように向けられていた。私は黒い銃口を連想した」という口ぶりから、彼が漠然とした不安や身の危険さえも感じていたことが分かります。小野田氏は、そのときいわゆる不適応症状の噴出を抑えるのに苦慮していたのではないかと思われます。ある記者の、小塚伍長の死で山を降りる心境になったのか、という軍人の心を察しないぶしつけな質問に対して、小野田氏は次のように答えています。

「むしろ逆の方向です(ムッとした表情)。復しゅう心のほうが大きくなりました。二十七、八年も一緒にいたのに″露よりももろき人の身は″というものの、倒れた時の悔しさといったらありませんよ(くちびるをふるわせ、絶句)。男の性質、本性と申しますか、自然の感情としてだれだって復しゅう心の方が大きくなるんじゃないですか」

おそらく、会場に居合わせた記者のみならず、この会見をテレビで見ていた日本の多くの人々は、小野田氏のこの言葉に込められた真情が分からなかったのではないかと思います。かくいう私が分かっているのかどうかも怪しいものです。その無理解こそが、小野田氏が帰国してからの「頭の収拾のつかない混乱」の大きな原因だったのではないかと思われます。そうして、その無理解それ自体は、そのとき避けようがないものでもあったのではないかと思われます。それは、小野田氏に、口外するのをはばかるような辛い思いを強いることになりました。

羽田空港で小野田氏を乗せた車は、東京・新宿の国立東京第一病院へ向かいました。帰国第一夜を、小野田氏は病院のベッドの上で迎えることになりました。帰国時に精悍そのものだった小野田氏は、自分がなぜ入院させられているのかわけがわかりませんでした。彼は当然のことながら退院を申し出ますが、厚生省から「政府として責任を負うための必要な処置」との理由で却下されます。小野田氏は「三十年間の戦いは、私個人でしたこと。国に責任を負っていただく必要はない」と反論しますが、聞き入れてはもらえませんでした。不本意ながら入院しているうち、本当に体が衰弱してきました。検査のために食事を最低カロリーに抑えられたのと、運動不足のために体力が衰えて、病院の廊下を思い通り真っ直ぐに歩けなくなってしまったのです。

入院中の小野田氏は、当時の総理大臣・田中角栄から、お見舞い金をいただきます。記者会見で金額は「百万円」だと教えられます。記者から何に使うのかと尋ねられたので、小野田氏は、靖国神社に奉納すると答えました。記者会見でお金の使い途まで聞かれて内心穏やかでなかったうえに、「靖国神社への奉納」が報道されると、どっと抗議の手紙が来ました。その内容は、「百万円を靖国神社へ奉納することは軍国主義にくみする行為だ。あなたは間違っている」といったものでした。それに対して、小野田氏は次のような痛切な言葉を吐いています。

なぜ、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くしてはいけないのか。私は生きて帰り、仲間は戦死した。私は戦友たちにお詫びし、心の負担を少しでも軽くしなければ、これからの人生を生きていく自信がなかった。

そんな無為と絶望の日々を病院で過ごしている小野田氏に、厚生省からスケジュール表が示されます。それには、「三月三〇日午前退院。靖国神社参拝――千鳥が渕参詣――皇居参詣――田中首相表敬後、新幹線で和歌山に帰郷」とありました。小野田氏はがく然とします。なぜならそこには、島田伍長と小塚一等兵のお墓参りの予定がなかったからです。小野田氏は、抑えていた憤懣が一気に爆発しました。陸軍中野学校同期会″俣一会″の幹事長・末次一郎氏にその胸の内を打ち明けたところ、末次氏は、厚生省に掛け合ってくれて、首相表敬の後に戦友ふたりの墓参ができることになりました。次に掲げるのは、小野田氏が小塚一等兵の実家を訪ねて、彼がルバング島での二七年間片時も離さずに握りしめていた形見の三八式銃を、彼の両親に手渡す場面です。この銃は、小野田氏が自分の銃とともにマルコス大統領から特別の許しを得て持ち帰った物で、厚生省に「国の支給品」として保管されていましたが、小野田氏がお願いしてもらい受けたのでした。小野田氏は、小塚一等兵の死後一年五ヶ月間、この銃をルバング島の「ヘビ山」の岩壁の割れ目にいつでも使えるように錆びない工夫をして隠していました。だから、銃床は古色蒼然としていたけれど、銃身や機関部は、小塚一等兵が毎日手入れをしていたときと同じように黒光りしていました。

「これしかお返しするものがありません」
が三八式小銃をお渡しすると、父上は突然、立ち上がって「金七!金七!」と息子の名を呼びながら銃を手に仏壇の前に倒れ込まれた。
 父上の両手に握られた銃は、激しく震えていた。
私は思わず目を閉じた。
ドハの大樹のわきで、右肩から血を流しながら銃を取ろうとして取り落とした小塚の顔が、涙ににじんで揺れていた。


四月三日、小野田氏は三十年ぶりに故郷・和歌山に帰ります。新大阪からバスで向かう沿道は人の波で埋まっていたそうです。歓迎の人々に頭を下げ、手を振って応えながらも、小野田氏は胸が苦しかったと言います。なぜなら、生きて帰った自分だけが歓迎されるのに対して、戦争で死んだ仲間は、非道な戦争の加害者のような扱いを受けている。その扱いのギャップが、小野田氏をして堪らない気分にさせるからです。

小野田氏の実家は、氏神さまのそばにありました。小野田氏は、出征のときその神社に参拝し、兵営に向かいました。だから、氏神さまに「帰還」の報告をすれば自分の公式行事はすべて終わり、やっと私人に戻れる。もうひと息で自分は自由だ。わがままもできる。そう思って、小野田氏は神社の石段を二段跳びに駆け上がります。

ところが、鳥居の前で弟の滋郎氏が、小野田氏を通せんぼします。叔父の喪中だから鳥居をくぐってはいけない、鳥居の前から参拝するようにとの父親の指示があったというのです。小野田氏は、帰国してすぐに叔父が亡くなったことを知ってはいましたが、その指示に従ったのではどうにも心の収まりがつきません。小野田氏は、思わず弟を怒鳴りつけて、自分の意志を押し通します。

「お父さん、寛郎、ただいま帰りました」
 あいさつしたとたん、頭から雷が落ちた。
「大勢の人さまの前でただいまの行為はなにごとか。お前は、恥と思わぬか。郷に入らば郷に従えだ!」
父は、私と弟のいい争いをテレビで見ていたらしのだ。敷居をまたぎ、ホッと気が緩んでいた私は、父のお目玉に逆上した。
「命が惜しくて未練たらしく生きていたのではありません。死ぬに死ねずに生きていたのです。だれがこんなうるさい世の中に生きていたいと思うもんか。もうすべては終わったのだ」
 私は床の間にあった軍刀をわしずかみにして引き抜こうとした。割腹するつもりだった。
 次兄の格郎と力ずくでもみ合った。
「父上、寛郎は気違いです。そうでなければ、戦場で三十年も生き抜けなかったと思います。そして帰ってきて日本の姿を見た寛郎が、なんと感じているかおわかりですか。父上はそばにいなかったからわからないのです。寛郎ももう少し時間がたてば、常人に戻るでしょう。どうか許してやってください」
 父は両手をついて父に詫びた。父は黙っていた。


家族にも自分の孤独な思いをまったく分かってもらえないのか。小野田氏は、そう思ったにちがいありません。こらえにこらえていた思いが一気に噴出しているのが分かります。小野田氏は、このときほど、戦後の日本と自分との間に立ちはだかる分厚い壁を感じたことはなかったでしょう。小野田氏自身、その当時の自分の気持ちを「やり場のない憤怒の渦の中で、たいへん心が高ぶっていた」と述懐しています。また、端的に「私は、平和で豊かな日本に帰ってきながら、生きる目的を失い、虚脱状態に陥っていた」とも述べています。

実は次兄の格郎は、中国からの復員兵で、「特攻隊は犬死だ」と小学校の娘に教えた教師に象徴される戦後の日本に絶望してブラジルに移住した人です。そんな彼が、弟の寛郎の気持ちを分からないはずがありません。痛いほどによく分かるのです。

だから、何度も小野田氏に「休養がてらブラジルへ遊びに来い」と声をかけたのです。昭和四九年十月、祖国に帰還して七ヶ月後に、小野田氏はブラジル・サンパウロへ旅立ちました。そうして、ブラジル移住を決心します。ジャングルを伐開して牧場をつくることにしたのです。小野田氏は、そのことに生きる意味を見出そうとしました。小野田氏によれば、「ブラジルでの牧場開拓は、私の″生きる証し″であった」とのことです。

ブラジルでの牧場開拓は、小野田氏のもう一つの「三十年戦争」となりました。しかし、それは孤独な戦いではなく、心優しい「戦友」との三〇年でもありました。ここで私が「戦友」と呼ぶのは、小野田氏の奥さんの町枝さんのことです。彼女との夫唱婦随の「三十年戦争」がどういうものであったのか。彼女は、2002年に『私は戦友になれたかしら---小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(青流出版)という本を書いています。その著書の編集者・臼井雅観氏が、次のような文章を書いていて、それが、そのことを垣間見るのにいいかもしれないと思いました。

実際、執筆依頼してから刊行に至るまでに2年半かかった。それも無理はない。初めての著書なのだから。

20年ほど前、小野田町枝さんは某大手出版社から単行本執筆を依頼されたことがある。その時は多少のメモ書きを残しただけで、 結局、書き上げることはできなかった。

それが今回のこの本につながったのである。

どうしても出版したいと、渋る著者を説得したのには、わけがある。著者・町枝さんの人生が、「事実は小説より奇なり」を正に地でいく人生だったからである。

天の時も味方した。寛郎さんが今年三月、八十歳を迎えたのだ。この機を逃したら、恐らく本を書くことは叶わない。そう町枝さんも思ったからこそ、 執筆を快諾してくれたのだった。

町枝さんの人生は、38歳の時、大きく転換を始めた。

30年間ルバング島で戦い続け、 日本に帰還した小野田寛郎さんの記者会見をテレビで見たのがきっかけだった。偶然が重なって寛郎さんと婚約・結婚、30年に及ぶブラジルでの牧場開拓の生活が始まった。

これが夫婦二人して命懸けの30年になった。

町枝さんは3ケ月で日本に逃げ帰るだろうと言われたというが、それほど過酷な開拓作業であった。便利で快適だった東京での生活からは想像もできない、ブラジルでの日々の生活。気候が違う。風習が違う。食べ物が違う。広大な荒野にポツンとある一軒家で、 近くに知った人もいない。電気も通っていないランプだけの生活。

毒虫、毒蛇、大蛇、ワニ、蜂、ピラニア、豹にアリ食い。荒野は危険な動物がいっぱいである。自分の身は自分で守らなければならない。 銃が必携の土地柄といえばおわかりいただけるだろう。

私も知らなかったのだが、牧場からの収入は8年目位から。7年間はまったく無収入なのだという。経済的に困窮して、明日の食べ物に事欠いたこともあった。

その時は、窮余の一策で、ブルドーザーで出稼ぎをし、 糊口をしのいでいる。
信頼する牧童が殺人者だったり、メイドに大金を持ち逃げされたこともある。

牧場がようやく軌道に乗り始めたのは10年を過ぎてから。そこまで頑張れたのは、やはり夫婦の絆の強さである。ご夫妻に何度かお会いしているが、確かに仲がいいのだ。元気印で饒舌な町枝さんを、横で優しく見守る寛郎さん。寛郎さんの庇護あればこそ、町枝さんもこの開拓生活を耐え忍べたのである。
(中略)
そんな中にあって、 寛郎さんから「戦友を得た」と表された町枝さん。「戦友」とは、人間的な結びつきも半端ではない。 希有なケースではなかろうか。今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻。
(後略)



「今でも毎朝、お互いほっぺにチューをし、お風呂も一緒に入るというご夫妻」。この箇所を読んで――小野田氏がどう思っているのかは分かりませんが――何があろうと歯を食いしばって生き抜くのは、まんざら悪いことではないなと思いました。そこには、心温まるものがあるからです。今回の五〇代半ばからの「三十年戦争」には、小野田氏はどうやら勝利したようです。そのことに他人ながらほっとすると同時に、これはなかなかできることではないと感心することしきりです。

最後に無骨なお話を少々。

消費増税の決定やTPP交渉における事実上の公約破りによって、安倍政権が高く掲げた「戦後レジームからの脱却」は、俄然雲行きが怪しくなってきました。しかしながら、そのことにガックリきてばかりもいられません。安倍政権がどうなろうとも、その課題の重要性にはいささかの変わりもないからです。

私は、小野田氏の戦いの連続の人生を追いかけながら、「戦後レジームからの脱却」の根底に置くべきものがよく分かるようになりました。それは、端的に言えば、祖国のために戦って命を落とした戦友に礼を尽くそうとする生き残った者のやむにやまれぬ素直な心を最大限に尊重することです。それは、戦争を美化することでも、小野田氏を崇めることでもなく、国家が国家であるための心的な土台を踏み固める厳粛な営為です。それが、「戦後レジームからの脱却」の理念に背骨を通すことにどうやら深くつながるのではないかと思えてきました。たとえ安倍政権がダメだったとしても、その理念を鍛え上げることはひとりでもできます。そのことが、結局は二番手三番手の旗手を誕生させる原動力になるのではないかと、私は考えます。
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幸田文『流れる』(一九五六年)について  (イザ!ブログ 2013・10・1 掲載)

2013年12月22日 06時38分35秒 | 文学
幸田文『流れる』(一九五六年)について



私は、当作品を読むずっと前に、成瀬巳喜男監督の『流れる』を観ています。もちろん、幸田文の当作品を映画化したものです。私は、小説は小説、映画は映画と分けるようにしているので、その優劣にはあまり頭が行きません。しかしながら、映画のほうを何度も観ているので、当作品を読み進みながら、そのなかの登場人物を演じた俳優の面影が浮かんでしょうがない、という経験を何度もしました。

特に、五〇歳を過ぎた落ち目の老芸者である染香を演じた杉村春子の面影が何度も浮かんできました。そういう意味での杉村春子の演技の呪縛力には凄まじいものがあって、成瀬の『流れる』を観た者は、小説の中の染香の言動に接するたびに否応なく杉村春子の演技が浮かんでくるようになっているのではないかと思われます。いま私は、それがあたかも普遍的な法則であるかのようなもの言いをしてしまいましたが、そう言いたくなるほどに、杉村春子は、小説のなかの染香を完璧に演じているのです。杉村春子がいかに優れた女優であるのかを今回あらためて思い知ることになりました。DVDになっていますから、それを確認するためだけにでも、ぜひみなさんにもこの映画を見て欲しいと思います。「観て損をした」とはおそらく思われないのではないでしょうか。きっと日本映画の豊かさを満喫なさることでしょう。

面影が浮かんでくると言えば、小説中でも染香とコンビを組んでいるなな子を演じた若き日の岡田茉莉子もそうです。なな子は、二〇代前半の売れっ子芸者でありながら、そのことに浮かれ切っているわけではなくて、自分が身を置く芸者屋にごまかされないように現金出納帳にちゃっかりとまめに記帳するほどの現代感覚の持ち主です。いわばクール・ビューティの走りのような存在なのですが、岡田茉莉子は、どこか杉村春子の名演技に釣られるようにして、それをなかば以上無意識の勢いで好演しています(その好演を引き出した功績の半ば以上は杉村春子に帰せられるものと思われます)。その匂い立つようなシュミーズ姿と、杉村演じる染香と酔っ払って「それジャジャンカジャン、それジャジャンカジャン」と浮かれ騒ぐシーンは、おそらく日本映画史に残る名場面なのではないかと思われます。もったいぶってシュミーズ姿になるのではなくて、すんなりとなるところになな子のクールな持ち味がよく表現されており、そのことでかえって強烈な印象を残すのです。後の岡田茉莉子は、そのときの杉村と組んでのお芝居がとても楽しいものであったことを懐かしそうに回想しています。

名演技といえば、この小説の中心人物である柳橋の置屋「蔦の屋」の女主人を演じた山田五十鈴を外すわけにはいかないでしょう。この女主人は、三〇代後半から四〇代はじめ(推定)の花街・柳橋の名花として描かれています。冒頭に近い場面で、当作品の主人公である梨花に「この土地じゃもう三十になると誰でもみんなばばあって云われるんでね」と言っていることから、自分は芸者としての盛りがすでに過ぎた存在であることを曇りなく自覚しています。しかしながら、ここ一発の勝負どころでのその色香には瞠目すべきものがあることは、例えば次の描写からうかがうことができます。これは、かつて「蔦の屋」に身を置いた田舎者のなみ江の父「鋸山」(のこぎりやま。もちろんニックネーム)が、娘は女主人から売春を強要されたと因縁をつけてお金をせしめようとしつこく何度も脅迫を繰り返しているのを女主人がなんとかしのごうとしている場面で、それを梨花の目を通して描写しています。

(鋸山は――引用者補)主人の花やかに修飾多く話す話しかたをどう捌いていいかわからないらしい。自分にまったく無縁な話しかたをされるので困っているのである。床の間のまえにすわって、いかにも鋸山(これは、なみ江親子の出身地・千葉県房総半島の鋸山のこと――引用者注)の石工(いしく)を剥きだしに、ころんとおっころがっているというかたちである。

一方主人のほうは、はっきりと座敷を勤めているというものだった。芸妓の座敷というものを梨花は見たことがないけれど、一見してこれがそうだとわかった。ふだん茶の間にいる主人とまるで違って、一トかさも二タかさも大きく拡がっていた。からだのまわりに虹がかかっているような感じである。思いあたるのは梨花がはじめてここへ目見えに来たときの、初対面の印象だった。牡丹だとか朴(ほお)だとかいう大きな花が花弁を閉じたりひらいたりするような表情だとおもって感歎して見たのだったが、いま花弁はまさにみごとにひらくだけひらいて香っているのである。上品であり艶であり、そして才気が部屋の空気を引き緊(し)めていた。自然に備わった美貌と長年の修練で身につけた伎(ぎ)としての技術が、惜しみなく拡げられていた。豪勢な料亭の座敷に客という対手(あいて)がいてはじめて座敷なのだと思いこんでいたのに、こんなちゃちな自分のうちの二階に客でもない鋸山に対(むか)っていても、こちらの腹一ツでいかようにも座敷たり得るのに、しろうと女中
(梨花のこと――引用者注)が感心したのである。

辛口の批評眼の持ち主である梨花から、ここまで褒めあげられる女主人を演じ切ることのできる女優は、当時では山田五十鈴よりほかにだれもいなかっただろうと思います。また、いまではもはや誰も演じることができないのではないかとも思われます。事実、山田五十鈴は、当作品でその芸歴において特筆されるべき名演技をしました。身につけている着物の柄は決して派手ではないし映画は白黒なのですが、その奥行のある演技によって、上品な色香が画面いっぱいに匂い立つのですね。観ているときはそれほどのことがないような気がするのですが、顧みると、そこに絶対感を帯びた姿が浮びあがってきます。山田五十鈴はやはり正真正銘の大女優なのです。

では、何度か名前が出てきた梨花を演じたのは誰なのかといえば、それは田中絹代です。原作では、梨花が主人公で、彼女は作中においてものごとの本質を直観的に掴み取る鋭敏な感性を伴ったカメラ・アイの役割を果たしています。映画の場合、姿が映ってしまいますから、純粋なカメラ・アイに徹することはできません。また原作では、その鋭敏な感性は、モノローグ的な地の文で十分に表現されていますが、映画では彼女のナレーションがあるわけでもないので、眼差しや仕草などの身体表現で示すほかはありません。つまり、映画の梨花はとても難しい役どころなのです。そうして、山田五十鈴や杉村春子や岡田茉莉子が圧倒的な存在を示す演技をしているところに、田中絹代までおっぱじめてしまったら、作風が不必要に暑苦しくアンバランスなものになってしまいます。やろうと思えば、田中絹代は共演者を食ってしまうことのできる底力を持った女優です。しかしこの映画で、彼女はその底力をぐいっと封印しました。当作品を上出来のものにするために、彼女はそうすることに決めたのではないかと思われます。そのことが、当作品に美しい均衡をもたらしています。

田中絹代と同じことを意識したのが、女主人の一九歳の一人娘の勝代を演じた高峰秀子です。原作では、勝代は母とは対照的に無器量で芸事の身につかない能なしとして描かれています。高峰秀子は、みなさんご存知の通り普通にしていれば美貌の持ち主なので、無器量な娘を演じるのはちょっと難しい。そこで高峰秀子は、自分の存在を薄消しすることで、その美貌を無化してしまいました。そうすることが、田中絹代のスタンスと同様に、当作品に美しい均衡をもたらすことを彼女はよく分かっていたのです。

映画への言及はこれくらいにしましょう。そろそろ小説の中身に入っていかないと、タイトルに偽りあり、というそしりを免れない雰囲気になってきたようなので。

さて、当作品の冒頭を少し掲げてみましょう。梨花が女中として雇ってもらおうと「蔦の屋」をはじめて訪う場面です。彼女は、神田川が隅田川と合流する手前の柳橋を渡って花街・柳橋の「蔦の屋」にたどり着いたはずです。「しろうと」として「くろうと」の世界に迷い込むときの戸惑いやためらいがよくあらわれています。

 このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。

 往来が狭いし、たえず人通りがあってそのたびに見とがめられているような急(せ)いた気がするし、しようがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひっこんでいる玄関へ立った。すぐそこが部屋らしい。云いあいでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子を張ったいろんな声が筒抜けてくる。待っていてもとめどがなかった。いきなりなかを見ない用心のために身を斜(はす)によけておいて、一尺ばかり格子を引いた。と、うちじゅうがぴたっとみごとに鎮まった。


これを書き写しながら、なにかとても懐かしい感触が身体の芯から湧き出てくるような感じに襲われました。それは、幸田文がこの文章を身体の芯から紡ぎ出していることのなによりの証しではないかと思います。それは、まあ私の単なる思い込みと一笑に付されても構わないのですが、そのことよりもここで考えてみたいのは、当作品の人称についてなのです

当作品をまだ通読したことのない方が、先に掲げた冒頭を虚心にお読みになり、そのうえで、「この作品が実は三人称小説なのだ」と聞かされたら、少なからず戸惑うのではないでしょうか。というのは、先の冒頭部分には主語が明示されていませんね。で、この調子が延々と続くのですから、普通は「私は」という主語をおのずと補って読み進めることになります。つまり、「この小説は一人称小説である」と判断するのが自然である、となります。

ところが、文庫本で最初から七ページ先にさしかかったところで、不意に次のような叙述が目に飛び込んできます。

手のひらの薄い美人は雪丸さんというのだそうだ。主人のかさにかかった云いかたにもおとなしい挨拶をして起(た)ちあがった。うろうろしている梨花に、「お折角お勤めなさい。あたしまた寄せていただきますが、そのときに又ね。」

最初から読み進めてきた読み手は、この箇所を目にすることではじめて、一人称小説だと思いこんでいた当作品が実は三人称小説なのだと知ります。しかし、それは「ああ、そうだったんだ」という程度のことです。そこで、ひとつ疑問が湧いてきます。この小説の「梨花」をすべて「私」と書きかえてなにか支障を来す点があるのだろうか、という疑問がです。つまり当作品は、「梨花」を「私」と書きかえることで、三人称小説から容易に一人称小説に変換しうるかどうかということです。

結論を言えば、形式的な意味でなら、答えはYESです。なぜなら、当作品の内容に、梨花の知りえないことは書かれていないからです。言いかえれば、当作品の叙述内容は、すべて梨花の知覚を通したものになっているからです。

「梨花」と「私」とが、形式的な意味でならスムーズな変換を許すということは、当作品が、「主語がない」という日本語の特色をよく生かした小説である、ということです。ちなみにこれが、英語の作品ならそうはいきません。先ほど取り上げた冒頭部分から、全面的に書きかえる必要が生じます。そうすると、作品の印象はガラッと変わってしまうことになるのです。英語が、日本語と比べた場合、「主語がなにか」をいかに強く意識した言語であるのかがこの一事からもお分かりいただけるものと思われます。

では当作品の「梨花」を「私」に変えてしまったとしても、本当に何の違いもないのでしょうか。人称の単なる形式的な違いとして処理すればいいのでしょうか。

それをきちんと考えるには、次のような考察が必要となるでしょう。一般に形式的なものの相違は、それだけにとどまらず内容的な相違をもたらします。ここで、「作品の構造」という言葉を使うならば、作品の形式的な相違は、「作品の構造」に根本的な変更をもたらす、ということです。『流れる』に即すならば、「梨花」を「私」に書きかえることは、当作品に構造的な変更をもたらすはずである、ということです。

これだけでははっきりしませんね。もっと言葉を尽くしましょう。

どのような文学作品においても、メタレベルでの「私」は常に同じです。それは、当作品を書いている作者です。すべての文学作品が、表現主体としての作者の産物である以上、それは自明です(連歌なんかはどうなんだという問いかけが聞こえてきそうですが、それは表現主体論の応用編ということで、話が妙に複雑になってここでの論旨とずれることになるのでとりあえずここでは措きます)。

三人称小説において、作者としての「私」は構造的に明示されます。それに対して、一人称小説においては、それは構造的に作中の「私」の陰に隠れることになります。

それゆえ、三人称小説において、作者としての「私」は、自分の作品のなかのすべての登場人物から一定の距離を置くことができます。つまり、作者は自分の作品からの自由を構造的に獲得することになるのです。『流れる』に即するならば、作家幸田文は、作中の「梨花」と一定の距離を間にはさんだ明示的な「私」としてゆるぎなく存在することが許されます。たとえ、幸田文がどれほど濃厚に自画像を「梨花」に投影しているとしても、この構造は微動だにしません。このことを読み手の側に立って述べるならば、読み手は、強烈な主観を伴ったカメラ・アイとしての作中の「梨花」に作家幸田文の自画像を読み込むのも自由ですし、読み込まないのも自由なのです。また、作中のどの人物に肩入れをするのかもまったく自由となります。作品の構造が、読み手の読みのそういう自由を許すのです。書き手の立場からすれば、「どうぞ、お好きなように読んでください」と胸を張って言えるのですね。そのことは、作品におおらかな虚構の可能性をもたらすことになります。いいかえれば、作品世界の3D化をうながします。事実『流れる』は、失われた「昨日の世界」としての花街・柳橋の超一級のルポルタージュとしても読むことが可能です。同じことですが、その作品世界には入口があり出口もあるのです。『流れる』は、「昨日の世界」として「生きた世界」なのです。そこでは相変わらず、染香は身過ぎ世過ぎにしのぎを削り続けていますし、女主人は憂いを帯びた表情で芸妓としての最後の華を咲かせ続けています。また、みんなからろくに面倒を見てもらえない哀れな瀕死の老犬は、「蔦の屋」の玄関に回虫まじりの糞を垂れながら梨花に面倒を見てもらおうとして必死に尻尾を振って媚を売ろうとしますし、飼い猫のポンコは相変わらずのおすまし顔で梨花の布団の半分を占領します。そんな生きた作品世界、自立した虚構の生活世界の描写の実現を支えている根本的構造こそは、この作品の三人称性なのです。

もしも、「梨花」を「私」に書きかえたならば、どうなるでしょうか。先ほど述べた通り、作中の「私」の陰に作者としての幸田文の「私」は隠れてしまいます。それは、良いとか悪いとかいったことではなくて、作品の構造の不可避性としてそういうことになってしまう。そうすると作者は、作品の外部から作品を構築する自由を失うことになります。作品の虚構性は、作中の「私」の語りの間隙を縫って構築されるよりほかはなくなるのですね。そのかわり、作中の「私」の語りは、読み手にとって作者のそれと等号で結ばれることになりますから(読み手のそういう決めつけを書き手は構造的に拒めなくなるということです)、強度の高められたリアリティを獲得することになります。「この話は本当のことであるにちがいない」という錯覚が、一人称小説の場合、不可避的に高まってしまうのです。その場合の虚構性の追求は、読み手のそういう錯覚の裏をかくことでなされるよりほかなくなるということです。

一人称小説の場合、作中の「私」の語りは、リアリティの強度の高まりを獲得するかわりに、読み手の「なぜそう語るのか」という厳しい追求から逃れ難くなります。なぜなら、その厳しい追求を無視してしまうと、せっかく獲得した「語り」のリアリティの強度の高まりがいちじるしく毀損されてしまうからです。「なるほどね、それでそういう『語り』をするわけね」という納得のしかたが深ければ深いほどに、一人称小説の「語り」のリアリティは高まり、ウソ話としての「語り」のなかの虚構性の説得力もそれに応じて強くなるので、読み手の「なぜそう語るのか」という問いかけにきちんと応えることは、一人称小説の生命線と形容しても過言ではないでしょう。たとえば太宰治の場合、その問いかけに応えるために死んで見せたとさえ言いうる側面があるほどです。

『流れる』に即するならば、「梨花」を「私」に変えた途端に、その厳しい問いかけにさらされて、ほのめかされる程度だった「梨花」の過去の生活をもっときちんと述べて、読み手の「なるほどどういうわけでこういう言い方や感じ方をするわけだな」という納得を得る必要が高まるものと思われます。もっと具体的に言えば、死んだ子どもは男の子だったのかそれとも女の子だったのか、何歳のときにどんな原因で死んだのかとか、これも亡くなったものと思われる夫は、どんな仕事をしてどんな家庭をふたりで築いていたのか、どんな死に方をしたのか、そのとき「私」はどう思ったのか、などという読み手の好奇心に一定程度きちんと応えるべき契機が高まるのではないかと思われます。そうしないと、読み手の無意識の欲求不満がうっすらと高まるばかりで、作品のもたらす感動をその高まりの程度に応じて損なうことになってしまうのではないでしょうか。

そうすると当作品は、まったくとは言いませんが、その内容の様相を変えることになるのではないかと思われます。少なくとも、「私」ではなく「梨花」をカメラ・アイにした場合のように、作品世界としての柳橋が自立したものとして鮮やかに浮かび上がる度合いは弱まるものと思われます。その意味で、幸田文が「くろうとの別世界」としての柳橋をイメージ鮮やかに描くことを眼目に筆を進めたのであるとすれば(おそらくそうだとは思われます)、当作品を三人称小説にしたことは成功だったと評することができるものと思われます。その意味で、この小説を成功に導いた根本原因は、三人称構造であると申し上げたい。幸田文が描き出した柳橋の世界は、そこでいまだに人や動物が生活し関わり合い生き死にしているリアリティを獲得しているという意味で永遠不滅なのです。

この結論は、実のところ私一人で得たものではありません。ある読書会で、当作品をめぐって、ごく少人数で腹を割ったやり取りをするうちに、おのずと浮かび上がってきたものを、私なりにすくい取っただけのことなのです。

このことの意味は、とても大きいと思います。読みの対象としての作品が優れたものであるほどに、「読みの多様性」などという猪口才なものは通用しなくなると申し上げたいのです。私にとって、それは理論というよりむしろ生々しい実体験と言うべきものです。真摯な読みをお互いに腹を割って虚栄心を超えたところで交換し合っているうちに、その作品の本質を射抜く読みの在り処がおのずと浮びあがってくるのです。私は、こういう読みのリアリティを解さぬ文学論を、(そうしてそのような思想・哲学も)ほとんど信用していません。その意味で読みの共同性は、いまの私にとってテキストを読むうえでの必須のプロセスとなっています。

最後に、無骨な話をひとつ付け加えます。『流れる』が書かれたのは一九五六年です。高度経済成長の起点はふつう一九五五年に求められますから、ほぼそのスタート地点で、幸田文はこの作品を書いたことになります。優れた作家の感性は、時代の「流れ」を鋭敏に掴み、今後消えてなくなるものが、見えすぎる目にはくっきりと映っていたものと思われます。今日の私たちが、豊かな経済力と引き換えに失ったものがいったい何だったのかについて、当作品は問わず語りにはっきりと指し示しているのではないでしょうか。
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中国事情、つれづれなるがままに   (イザ!ブログ 2013・9・26 掲載)

2013年12月22日 06時16分05秒 | 外交
中国事情、つれづれなるがままに



最近の中国情勢のもろもろが、魚の小骨のように引っかかっています。気にかかってしかたがないのですね。

とはいうものの、私は別に中国事情のウォッチャーではありませんし、ましてや専門家でもありません。だから、気にかかるネタをいくつか並べてみて、そこに浮かび上がる何かがあるかどうか検証めいたことをしてみようと思います。それはもちろん、尖閣問題がどれほど深刻なものであるのかという問題意識に集約されることになるでしょう。

私見によれば、尖閣問題に関する大きな情報で最新のものは、msn産経新聞ニュース当月21日掲載の「王毅外相、米で日本批判 尖閣めぐり」でしょう。sankei.jp.msn.com/world/news/130921/chn13092110450000-n1.htm

【ワシントン=佐々木類】中国の王毅外相は20日、訪問先のワシントン市内で講演し、尖閣諸島(沖縄県石垣市)について、「日本が41年前の日中合意を否定して国有化したため、中国としても対抗措置をとらなければならない」と述べ、日本政府の姿勢を批判した。

(中略)

王氏は「われわれは話し合いのテーブルにつく用意があるが、日本が『領有権問題は存在しない』として協議に応じない」とも述べ、尖閣諸島をめぐる日中対立の原因は日本側にあると強調した。

王氏が講演したのは、リベラル色が強く、オバマ政権に多くの政策提言をしてきた大手シンクタンク「ブルッキングス研究所」。元ホワイトハウス国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長時代にG2(米中2国の枠組み)を主導し、現在は同研究所上級研究員を務めるジェフリー・ベーダー氏が講演後に質疑を行った。


中国外相の発言中の「41年前の日中合意」とは、国交正常化した1972年の日中共同声明のことでしょう。しかし、同声明で尖閣諸島について「棚上げ」で合意した事実はありません。尖閣諸島に関して「領有権問題は存在しない」というのが日本政府の一貫した立場です。

また、2012年9月の野田民主党政権は、尖閣諸島の国有化に関して「平穏かつ安定的に維持・管理するため、1932年まで国が所有していた所有権を民間の所有者に移転していたものを再度国に移転するものに過ぎない」というコメントを残しています。しかも、尖閣諸島の一部は12年9月以前から国有化されています。だから、王氏の発言は、事実関係の誤認に基づくものです。

しかし中共首脳は、そんなことなど先刻ご承知であるにちがいありません。なぜなら彼らは、軍事力の行使による戦争以外に、サイバー戦争や情報戦を、それと同じくらいに重視していて、今回の発言もその情報戦の一貫であることが明白であるからです。つまりヒトラーと同じく、彼らは「ウソも百回言えば本当のことになる」という考え方の信奉者なのです。つまり、自分たちの発信するメッセージの真偽よりもその効果のほどを彼らは重視するのです。その意味で、彼らは徹底したリアリストです。内戦と情報戦を戦い抜くことで、中華民国政府から大陸中国の実権を力ずくでもぎ取った中共の先達のDNAは、歴史的な記憶として、今の中共首脳部に確実に引き継がれているということです。下品なたとえ話をすれば、女を口説くとき、口説き文句に自分の真情がどれほどこめられているのかということよりも、それが「落とす」という目的に関してどれほど効果的であるのかを重視する男っていますよね。こういう男をふつうリアリストと呼びますね。それがあまりに露骨だと嫌われてしまうわけですが。中共ってのは、そういう露骨な男のような考え方をします。

そういうふうに考えてみると、王外務相の発言が、中国寄りの姿勢の目立つ米国のリベラル勢力に中国の一方的な主張を訴え、かつてG2(米中2国の枠組み)を主導した知識人に講演後の外務相との質疑を任せて米国リベラル陣営における中国のイメージアップを図るものであることは、やはり無視できません。米国における中国の尖閣問題をめぐる地歩固めを一歩でも二歩でも進めるうえで、今回の動きは一定の効果があったと考えざるをえません。「デマを飛ばしても、何の効果もない」などとタカをくくるのは間違っています。安倍首相が、五輪招致のプレゼンテーションで「汚染水の状況はコントロールされています」と言ったのに対して、目くじらを立てて「ウソをついた!ウソをついた!」と糾弾したがる日本人の可愛らしい国民性をながめて、海の向こうから高笑いが聞こえてくるようです。「なんと手玉に取りやすい国民であることよ」と。

繰り返しになりますが、中共は、軍事力の行使以外のサイバー戦争や情報戦をそれと同じくらいに重視しています。アメリカ国防省の「中華人民共和国の軍事及び安全保障の進展に関する年次報告(2011年八月)」には、中共の情報戦=三戦(世論戦・心理戦・法律戦)についての次のような説明があります。

世論戦:中国の軍事行動に対する大衆及び国際社会の支持を築くとともに、敵が中国の利益に反するとみられる政策を追求することがないように、国内及び国際世論に影響を及ぼすこと。

心理戦:敵の軍人及びそれを支援する文民に対する抑止・衝撃・士気低下を目的とする心理作戦を通じて、敵が戦闘作戦を遂行する能力を低下させようとすること。

法律戦:国際法及び国内法を利用して、国際的な支持を獲得するとともに、中国の軍事行動に対する予想される反発に対処すること。


王外務相が、「法律戦」を手段として直接的には「世論戦」を展開することを通じて「心理戦」的な効果をも狙っていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。中共は、デマを飛ばし続けていますが、それは、すべて自覚的戦略的なデマなのです。それに対して、日本政府は常に守勢に立ち、後手に回ることを余儀なくされています。また、日本のマスコミはおおむねいままで述べたことに関して感度が鈍い。日本国民がまっとうな危機感を抱くようなマトモな報道を展開しようとはしません。さらには、毎日新聞や朝日新聞のように、日本の新聞でありながら、中共の立場で記事を書いているとしか思えないような不健全な報道が少なからずあります。尖閣問題に関して、侵略の意図を一方的に一貫して抱いているのは中共であり、中共が「話し合い」によって日本政府に妥協する余地はまったくないという厳しい現実を踏まえたうえでの報道でなければ、それらはすべて広義における虚報とならざるをえないことを私たちは肝に銘じる必要があります。日本政府の姿勢は拙劣ではありますが、良い悪いの次元で言えば、中共はこの問題に関して常に一方的に悪いのです。私がこの当たり前のことを力こぶを入れて主張しなければならないほどに、日本における中共の「三戦」は着実に成果を挙げていると言えましょう。私が今しているお話は、おそらく日本人の七~八割にはほとんど通じないものと思われます。それほどに、日本は中国に情報戦によってヤラれてしまっているのです。

ここで、日本における中共のスパイ活動について話したい気がしないわけでもないのですが、それについてはもう少し勉強する必要がありそうなので、控えておきます。ただし、その浸透ぶりは、私たち一般国民の想像をはるかに超えた戦慄すべきものであるとはどうやら言えそうです。マスコミ内はもちろんのこと、国籍条項を撤廃した地方自治体や一流企業にも、中共のスパイはすでに大量に潜り込んでいるものと思われます。また、例の朱建栄氏の件なんてずいぶんきな臭い話しだし、そこには熟考すべきものが少なくないとも思われます。ほかにも最近日本から忽然と姿を消した中国知識人がいるようですね。また、日中関係について独特のポジションから貴重な発言をし続けている石平太郎氏なども、中共の策謀に引っかからないよう身辺に気を配られたほうが良いような気がします。石平氏によれば、日本にいる中国知識人はいま事実上の箝口令を布かれていて、中共の自分たちに対する出方をめぐってあれこれと憶測し戦々恐々としているとのことです。日本にいる中国知識人が日本の報道機関と接触することに対して、中共首脳が極度に神経質になっている現状が想像されます。習政権は、政局運営に関して、おそらく相当に苦慮するところがあるのではないでしょうか。そのことについては、後であらためて触れましょう。

最近新聞が大きく取り上げた中国関連の情報といえば、日経新聞インタネット版九月二四日に掲載された薄熙来(はくきらい)氏の無期懲役判決でしょう。www.nikkei.com/article/DGXNASGV24002_U3A920C1000000/ 当記事はとても参考になるものだったのですが、気になるのは、それが英フィナンシャル・タイムズ紙に掲載された記事の翻訳である点です。もしかしたら、日本の大手新聞は、中共に関してはっきりしたことが言えなくなっているのかもしれないのです。事実上の報道管制。私の杞憂に過ぎないことを祈ります。

さて、同記事を見てみましょう。全文を引くことにします。

22日に無期懲役の判決が下った中国の元重慶市トップの薄熙来被告は、手錠をかけられ、両脇を大柄な警察官に固められながらも、顔にうっすら冷笑を浮かべているように見えた。

収賄、横領、職権乱用で有罪を宣告した裁判官に対し、同被告は判決が「不当」で「不公正」だと叫んだと、海外の中国メディアは23日に法廷の様子を伝えた。ただ、国営テレビでは報道されなかった。

昨年失脚するまで中国共産党の25人の政治局員の一人だった薄被告が、妥協することなく抵抗姿勢を貫いたことは、党指導部がこれほど厳しい判決を仲間の一人に下す必要性を感じた理由を部分的に説明している。

■最大の脅威は党内部から起こる

さらに、権威に頼る共産党が直面する動かしがたい事実も浮き彫りにする。世界最大の人口を抱える国家を継続支配するうえで最大の脅威は、革命でも、平和な反乱でもなく、党内部から起きるということだ。

共産党が軍や公安を含む政治や国民生活のすべてを掌握していると、「悪い皇帝」がトップに就いた場合のリスクが大きく、上層部に深刻な亀裂が生じれば、体制崩壊や機能不全に陥る恐れがある。

「歴史の終わり」の著者で米スタンフォード大学のシニアフェロー、フランシス・フクヤマ氏は「薄熙来は『悪い皇帝』になる恐れをはらんでいた。エリート集団で唯一、毛沢東後の党の総意を塗り替えるカリスマ性をもった存在だった」と指摘する。「彼が昇進していたら、体制をひっくり返し、ルールをすべて変えたかもしれない」という。

政府の公式説明によると、薄被告の失脚の引き金になったのは、薄被告の元側近だった王立軍・重慶市前副市長兼公安局長との個人的ないさかいだという。

王受刑者は汚職の罪と、薄被告の妻、谷開来受刑者が英国人ビジネスマン、ニール・ヘイウッド氏を重慶市のホテルで殺害したとされる事件を隠蔽した罪で、懲役15年の判決を受けて服役中だ。

王受刑者がこの殺害事件の証拠をつかんで薄被告にひそかに報告したところ、薄被告は激怒して王受刑者を殴打し、大半のポストから解任したという。

これに対し、王受刑者は米領事館に駆け込んで薄被告に命を狙われていると訴え、殺害事件を巡る証拠を提示し、それが後に中国の捜査当局の手に渡った。

谷受刑者は昨年、執行猶予付き死刑判決を受けており、生涯服役するものと見られる。

政府コメントでは、王受刑者が上司を裏切るに至った経緯が説明されていないが、フィナンシャル・タイムズ紙が得た多くの情報源によると、薄被告の政敵による厳しい捜査で追い詰められた王受刑者が、薄被告に保護を求めていたようだ。

政敵は、2012年11月に行われた10年ぶりの指導部交代においてトップ7人の党政治局常務委員入りをねらう薄被告に対し、同被告の一族や協力者の不正の証拠をかき集めて妨害するつもりだった。

結局、新たに発足した指導部では習近平氏が党総書記、国家主席、そして中央軍事委員会主席に就任した。

■反体制派の動きを封じ込める習主席

薄被告をよく知る人々は、彼がひとたび指導部入りすれば、同志を追放し、競争相手のいないリーダーとして突出した地位を築くだろうことを恐れた。習主席の経歴は驚くほど薄被告と共通点が多く、トップ就任以来の政策も異様なほど薄被告の政策と似ている。

習主席は汚職や不満、党の方針への批判に対する厳しい弾圧を指示してきた。それは、薄被告が重慶市時代に手掛けた暴力団や腐敗一掃の「打黒」運動を強く連想させる。

また習主席は、好んで毛沢東の言葉を引用し、共産党の過去を賛美してきた。

習主席が権威主義に傾斜し、薄被告の政策を模倣するのは、根強く残る同被告の影響力を中和し、党内部から政治的変化を引き起こす可能性があり、党が最大の脅威と見なす反体制派の動きを封じ込めることが狙いだと党幹部は認める。

64歳の薄被告は控訴する方針だが、政治の表舞台から消えるのはほぼ確実だろう。しかし同氏の失脚により、中国の政治が姿を変え、内部の亀裂が一党支配体制にどれほど大きな脅威になり得るかが明らかになったのは確かだ。

By Jamil Anderlini


この記事を読んでの素朴な感想は、「薄被告は、無期懲役という重罪に処されたのであるから、さぞかしヒドいことをしたに違いない。では、重罪に値するような、薄被告の悪業とは何なのか、具体的にはさっぱり分からない」ということです。奥さんが本当に人殺しをしてしまったのなら、それはヒドイことであるとは言えそうです。しかし、薄被告が人殺しをしたわけではどうやらなさそうです。高い地位を利用して、妻の殺人の事実をもみ消そうとしたならば、それは確かに軽くない罪ですが、それも上記の記事を読む限りはっきりとはしません。

要するに、裁判を通して事実関係がはっきりしたというわけではどうやらなさそうなのです。相変わらず、すべては藪の中。なんとなく、色欲と権力と権謀術数の匂いの立ち込めたあまりにも怪しい事件であるとは思いますけれど。薄被告の社会的生命を抹殺するという政敵(具体的には習近平)の意図が最初にあり、裁判という形を借りて、その意図を貫徹した。はっきりしているのは、どうやらそれだけです。はっきりした証拠があろうがなかろうが、そんなことはお構いなし。実権を握った側が「コイツを抹殺する」という意思を固めたならば、そこには、なんとしででもそれを完遂するという力ずくのプロセスがあるばかりです。記事にある通り、政敵が手強ければ手強いほどに、実権を握った側の抹殺の仕方は問答無用の熾烈なものとなる。それは、そうしなければ、今度は実権を握ったはずの側が、ひっくり返されてしまう危険があるからです。抹殺する側も必死なのです。記事にもある通り、「世界最大の人口を抱える国家を継続支配するうえで最大の脅威は、革命でも、平和な反乱でもなく、党内部から起きる」という事実を、実権を握った側は骨身にしみて知っているのでしょう。さすがは、「法の支配はなくて、あくまでも人治主義があるだけだ」と言われるお国柄だけのことはあります。彼らにとってみれば、極東軍事裁判における勝者による敗者の裁きなんて当たり前のことであって、何が問題なのかさっぱり分からないのではないでしょうか。

このような生死を賭けた権力闘争は、中国権力政治におけるお家芸である、とはよく言われることです。私は、その事実をこれまで知らないわけではありませんでした。しかしながら、それはあくまでも国内政治における現象であるとばかり思っていました。

ところが、それが尖閣問題にも濃い影を落としているどころか、尖閣問題を生み出しているという面さえもあることが近ごろ分かってきました。具体的には、軍事ジャーナリスト・鍛冶俊樹氏の『国防の常識』(角川ONEテーマ21シリーズ新書)や彼のメーリング・リストを読んで、そのことに気づきました。

鍛冶氏によれば、中国政治における権力闘争は、中国共産党の内部においてのみならず、中国共産党と人民解放軍との間においてもあるとのことです。『国防の常識』から引用しましょう。

中国共産党はもともと政治部と軍事部の二本立てで、それぞれが現在、中国政府と中国人民解放軍になっている。同じマルクス・レーニン主義国家でも旧ソ連とは根本的に違う。ソ連の場合は、ソ連共産党が軍を完全に支配下に置いていたが、中国では両者は対等な関係なのである。

何故こうした違いが生じたかと言うと、ソ連の場合、軍隊はもともとロシア帝国軍であった。帝政が倒れ共産主義者が国家を乗っ取り、いわば皇帝に成り代わって軍隊に命令する様になったのだ。

中国共産党はこのソ連により第1次世界大戦後に設立された。軍事工作を主とする部門と政治工作をする部門とに分かれ、ソ連からの命令で動いたのである。後に中ソ対立でソ連から離れたため、統一的な命令権者がなくなり政府と軍の二本立てのまま今日に至っている。現在、国家主席は胡錦濤(二〇一二年八月現在。いまは、習近平――引用者注)だが、これは政府の代表に過ぎない。軍の代表は軍主席、正確には中央軍事委員会主席という役職が別にある。胡錦濤は二〇〇三年三月に国家主席に就任し翌年九月に軍主席を兼務して漸く国家の統一を保っている。

ところが軍主席は中央軍事委員会で選出される仕組みになっており、委員会のメンバーはほぼ軍人だ。つまり軍の意向一つで胡錦濤はいつでも軍主席を解任されてしまう立場なのだ。


中国共産党は一枚岩の権力機構なのではなくて、政治部を中国政府が、軍事部を中国人民解放軍がそれぞれ担う二本立て構造であるという指摘は重要です。というのはその指摘をもとに考えれば、中共の尖閣諸島戦略のうち軍事的な側面は人民解放軍が、情報戦(三戦)は中国政府が、それぞれ相対的に独立して担っているという視点を獲得することができるからです。とすると両者は、ある局面では協業関係にあり、また別な局面では離反することになります。そこに、政府と軍との間の権力闘争の契機が存在します。とりわけ注意すべきは、人民解放軍による尖閣諸島をめぐっての暴走や単独行動が生じた場合、中国政府は、それを抑止しうる権力を構造的な原因によって手中にできないという点です。戦前の日本政府と関東軍との関係に似たものが、いまの中共には存在するのです。

そこで気にかかるのは、中国人民解放軍の思想傾向です。それについて、鍛冶氏は同書でおおむね次のように述べています。

現在の中国は社会主義市場経済のしくみを大胆に導入しています。だから、硬直したマルクス・レーニン主義は、あたかも捨て去った過去のものであるかのようです。しかしながら、軍内部の基本的なテーゼは相変わらずマルクス・レーニン主義であり、それは微動だにしていないというのです。では、彼らのイデオロギッシュな目に、市場経済の大胆な取り入れはどう映っているのでしょうか。

マルクス・レーニン主義によれば、資本主義の崩壊は歴史的必然です。だから、市場経済や外資を大胆に導入した中国資本主義の崩壊も必然です。そうしてそれと、中国バブル経済崩壊論とは、彼らの頭のなかでは符合します。つまり、中国人民解放軍首脳部は、資本主義化した中国経済は遅かれ早かれ崩壊すると考えているのです。だからその前に、台湾・南シナ海・尖閣諸島などを結ぶ第一列島線までの海洋支配を確実なものにしておこうと考えているそうです。なにせ、台湾統一は中華人民共和国の国是なのですから。

それゆえ、人民解放軍の尖閣諸島侵略の意図はあくまでも真剣なものであるのみならず、それは、中国経済崩壊のタイム・テーブルをにらんでの焦燥感にあふれたものでもあるのです。なんとも危なっかしい話ではありませんか。

尖閣諸島問題に投影される中国内部の権力闘争は、中国政府と人民解放軍との間のそれにとどまりません。鍛冶氏が週に一度のペースで配信している「軍事ジャーナル」の九月二一日(土)「中国の権力闘争」によれば、人民解放軍と警察との間にも権力闘争は存在します。

日本では軍隊の存在が公式に認知されていないから、軍隊と警察との関係についての認識が希薄だが、実はすこぶる重要だ。

軍隊と警察はともに国家に認められた武力集団であり、歴史的に見るとたいてい軍隊から治安維持用の専門部隊として警察が分離して成立している。軍隊が対外戦争用であり、警察が国内治安用と一応管轄が分けられているが、国家が内戦に陥った場合などは軍隊と警察が対立する可能性があるわけだ。

さて中国は現在、国内権力闘争の真っ盛りであることは、中国専門家の見解の一致するところだ。権力闘争といっても日本と違い中国では殆ど内戦である。昨年の中国共産党大会では100万人以上の警備員が北京に動員されたというが、単なる警備で100万人も必要なわけはない。

中国共産党のボス達がそれぞれ軍隊や警察にいる手下に号令をかけ、武力集団を集結させた結果であろう。つまり権力闘争の現場は人民大会堂の中ではなく外側であり、そこで武力集団が睨み合って一触即発の状況であったのだ。

習近平の一応勝利という形になったが、まだ完全に決着が付いた訳ではないらしく、今も権力闘争は続いている。ということは武力集団同士の睨み合いも続いていることになろう。

 *

現時点において中国国内政治の焦点は、警察の大ボスといわれる周永康が逮捕されるかにある。警察の大ボスが俎上に載っていること自体、軍隊と警察の対立が背景にあることを暗示させる。

3月に中国では海洋監視局などいくつかの海洋警察機関が統合されて海警局という巨大警察官庁が出現した。海警は尖閣諸島に対して殆ど毎日のように挑発を繰り返しているが、面白いことに中国の海軍や空軍は尖閣に対して領侵を不思議なくらい自制しているのである。

つまり尖閣においても軍隊と警察の対立の構図が見え隠れする。おそらく中国警察の大ボス周永康は海警をして日本に戦争を仕掛ける所存であろう。日本と戦争になれば戦うのは中国軍であり中国警察は高みの見物である。

兵器の性能など比較して日中戦争をシミュレーションすると、日本の自衛隊が有利であり中国軍は敗北する公算が高い。もし中国軍が敗れれば敗北の責任を問われて中国の将軍・提督など軍幹部は一斉逮捕されるであろう。つまり日本の勝利は中国警察の勝利を意味する。


とても刺激的な論考です。その論旨は次のようにまとめられるでしょう。中共首脳部はいま権力闘争の真っ盛りであり、それは内戦の様相を呈している。内戦においては、軍隊と警察とは対立することがある。いまの中国がまったくそうであり、尖閣諸島をめぐってもその対立は展開されている、というふうに。

「とんだトバッチリだ。そんなこと自分たちだけでやってくれ。はた迷惑なんだよ!」という怒りや不快感が湧いてきますが、それはこの際収めておきましょう。そのうえで、次のことがどうやら言えそうです。

私たち日本人が(具体的には日本政府が)尖閣諸島問題に臨むとき、そこに中共の国家意思としての尖閣侵略の意図を読みこみ、軍事バランスの均衡を図ることでそれに冷静に対処しようとするのは当然のことでしょう。ところがどうやらそれで話は終わらなくって、中共内部における政府首脳部メンバー同士間の、政府と軍部との間の、軍部と警察との間のそれぞれ複雑に入り組んだ権力闘争の投影をもそこに読み込み、それにもきちんと対処しその都度的確に意思決定をする必要があるのですね。そのためには、一見尖閣諸島問題とは何のつながりもなさそうな中共関連の諸事件にも目配りをして、全体の構図のなかで諸事件の意味をていねいに考える姿勢を日頃から身につけておく必要があるようです。それが自分にできうるかどうかははなはだ心もとないかぎりではありますが、とりあえずの結論が得られたような気もしますので、これで終わりとします。尖閣問題は、日本政府にとっても、それをきちんと考えようとする一般国民にとってもかなり難易度の高いものであるようです。


〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん

たいへん示唆されるところの大きい記事でした。
私はこれを読んで、中国内部の混乱によって起こりうる我が国への「とばっちり」について、次の四つを考えました。ご参考になれば幸い。
①「尖閣」侵略のみならず、人民解放軍主導による「暴走」が、日本の他領土にも直接及ぶ。
②中共の国内統治の失敗によって大量の難民が発生し、隣国日本にどっと押し寄せる。
③中国経済の混乱が、世界経済に波及し、日本もその悪影響をこうむる。
④中国の富裕層が利権確保に奔走し、日本の国土・資源(技術を含む)を収奪しまくる。
少し先走った素人の「危機煽り」かもしれませんが、転ばぬ先の杖、最悪の事態を常に想定しておくことが重要かと愚考します。


☆Commented by 美津島明 さん
To kohamaitsuoさん

早速のコメントをいただきましてありがとうございます。
中国の国内問題の諸矛盾のとばっちりは、尖閣問題のみならず、日本の安全保障のほかの諸領域にも及ぶ危険性があるというご指摘、ごもっともとうけたまわりました。以下、論点ごとに私見を添えます。

>①「尖閣」侵略のみならず、人民解放軍主導による「暴走」が、日本の他領土にも直接及ぶ。
→中国の権力構造が、軍部の暴走をチェックできるものでない以上、そのリスクは日本にとって想定内とするよりほかはありませんね。

>②中共の国内統治の失敗によって大量の難民が発生し、隣国日本にどっと押し寄せる。
→したかな中共は、それに偽装難民を忍ばせて、どさくさまぎれに日本の統治機構を混乱に陥れようとする可能性があります。日本だって昔は、小野田少尉のような人がいたのですから。その場合、日本国内に潜行していた大量のスパイが、それに呼応することでしょう。

>③中国経済の混乱が、世界経済に波及し、日本もその悪影響をこうむる。
→それは東からのデフレの大波として日本を襲うことになるでしょう。そのリスクが高まっている今、消費増税を決断するのは愚挙であると申し上げるほかありません。安倍さんは、悩む必要なんてない。

>④中国の富裕層が利権確保に奔走し、日本の国土・資源(技術を含む)を収奪しまくる。
→早急に、国土・資源保護のために立法措置を講じる必要があります。それに、離島保護強化立法も織り込んでいただきたい。
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古松待男  話し合うことの難しさについて  (イザ!ブログ 2013・9・25 掲載)

2013年12月22日 06時08分11秒 | 古松待男
〔ブログ編集者より〕

ここに、新たな執筆者を迎えることができました。二〇代半ばの哲学の俊秀、古松待男(こまつまつお)氏です。執筆依頼をしたところ、いきなり成熟した論考が飛び出してきたので、正直に云って、私はびっくりするとともに、新しい思想家の誕生を祝する気持ちでいっぱいになりました。古松氏の今後のご活躍を期待いたします。

*****


話し合うことの難しさについて



長い人生、生きていれば誰しも他人との意見の対立は避けられない。誰と・どこで・何について話し合うかによって質や量の差はあったとしても、話し合いがうまくいかずに物別れとなることは往々にして起こることである。

言うまでもなく、議論することの目的はそこに参加する人々が協同することによって真理へと接近することだ、そのためには他人の声には真摯に耳を傾けてもしも自分に非があるならばそれを素直に認めなければならない――、と言うのはまことに結構なことだが、言うまでもないことをわざわざ言わなければならないのだとしたら、それは現実に行なわれる議論が真理の追究という理想からいかに外れやすいものであるのかということをすでに示していると言える。ある者は決して他人の話を聞かないし、またある者は決して自分の非を認めない。まっとうな反論だと心の底では分かっていても、言い方が気に入らない、お前には言われたくない、負けを認めたくない、などという理由から聞き入れることができなかったという経験は誰しも一度ぐらいあるのではないだろうか。現実の議論は常に生身の人間によって運営されるものであるから、理論のたんなる整合性や命題のたんなる信憑性によってのみ結論が導き出されるのではない。だから、話し合うことは難しい。

***

プラトンはこのことを強く自覚していた哲学者であった。たしかに、「イデア論」であったり、「哲人政治」であったり、「洞窟の比喩」であったり、「主知主義」であったり、プラトンのものとして紹介される思想はどれも生身の人間を超絶しようとする志向をもっているように見える。さらに、ラファエロの絵画「アテネの学堂」の中央で天を指さす老哲人の姿や、「プラトニックラヴ」といった言葉から醸成されるイメージも加われば、いよいよこうしたプラトン像も固まってくる。こうなると、プラトンは生身の人間の情念や人間同士の感情の対立を捨象して思想を展開した哲学者のように思えてくる。しかしそうではない。プラトンが話し合うことの難しさに強く自覚的であったこと、このことはプラトンが自分の思想を語るために用いた手法、つまり、対話篇という形式において示されている。

プラトンの著作のほとんどは対話篇という形式が採られている。対話篇とは、作中の登場人物が一定のテーマについて議論を行なうことによって真理の探求を行なう文学形式である。そこにおいてあらゆる学説・理論・思想はそこに現れる登場人物が語ることとなる。「イデア論」、「哲人政治」、「洞窟の比喩」、「主知主義」といった生身の人間を超絶する志向をもつ思想も、生身の人間の口を通して語られるのである。

対話篇という形式において、著者プラトン自身の(と思しき)主張とそれに対立する主張との比較・吟味は、生き生きと描かれた人物同士が向き合って議論することを通してなされる。人間同士が向き合っているのだから、議論の方向はまっすぐに進むことばかりではない。ときに冗談を言うこともあれば、ときに悪口を言うこともある。対立にいらだって立ち去ろうとすることもあれば、話題が何らかの学説からそれを奉じる人物のパーソナリティへと向かうこともある。このようにプラトンの対話篇において学説の吟味を行なわれる際には、学説それ自体のみならず、それを(1)「誰が議論しているか」、(2)「どのように議論するべきか」ということにも焦点が当てられるのである。

ただし、対話篇でありさえすれば上述の条件が満たされる訳ではない。たとえば、バークリ(George Berkeley, 1685 - 1753)の対話篇『ハイラスとフィロナスの三つの対話』のように、作中に人格を持った人物が登場してくるとしても、一人が一方的に自説を述べ、もう一人が一方的に聴き手にまわることもある。これでは一人で語っているのとあまり変わらない。語り手が何らかの教えをもたらす先生の役割であるのに対して、聴き手は、そうした先生の教えを分かりやすく読者に伝えるために、ひたすら生徒の役割に徹する。(この種の生徒は理解力に、妙に長けていることもあれば、妙に欠けていることもある。ただ、どちらの場合も共通しているのは、概して素直なところである。)このような先生と生徒の対話には意見の対立がない。だから、話し合いは難しくない。

また、決定的に異なる意見を持つ人物同士の対話であっても、人間同士が話し合うことの難しさに焦点が与えられていない場合もある。たとえば、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564 - 1642)著の『天文対話』がそれに該当する。作中では、天動説と地動説という真っ向から対立する学説同士が、ガリレオの弟子とアリストテレス学者の口を借りて相対する。彼らの対話は大いに長引き、岩波文庫二巻分延々と続くわけであるが、両陣営ともに大変行儀正しく冷静である。ぜひとも議論のお手本としたいところだ。

プラトンの対話篇に出てくる登場人物は、主人公のソクラテスも含め、あまり行儀が良いとは言えない。最も有名な作品の一つである『国家』でもそうした点は見受けられる。序盤に登場するトラシュマコスとソクラテスとの議論は、「〈正義=正しいこと〉とは何か」というテーマをめぐって行われる訳ではあるが、そのやり取りはほとんど喧嘩に近い。トラシュマコスの登場シーンを見てみよう。

こうしてぼく(ソクラテス・・・引用者註)たちが話し合っているあいだに、トラシュマコスが、すでに一度ならず身を乗り出しては、話題に割って入ろうとした。〔…〕話がしばしとぎれると、彼はもはや、じっとしていられなくなって、獣のように身をちぢめて狙いをつけ、八つ裂きにせんばかりの勢いでわれわれ目がけてとびかかってきた。

ぼくとポレマルコスとは恐れをなして慌てふためいた。トラシュマコスは、満座にとどろく大声でどなった、

「何というたわけたお喋りに、さっきからあなた方はうつつをぬかしているのだ、ソクラテス? ごもっともごもっともと譲り合いながら、お互いに人の好いところをみせ合っているそのざまは、何ごとですかね? もし〈正義〉とは何かをほんとうに知りたいのなら、質問するほうばかりまわって、人が答えたことをひっくり返しては得意になるというようなことは、やめるがいい。答えるよりも問うほうがやさしいことは百も承知のくせに! いやさ、自分のほうからも答えを提出しなさい
。〔…〕」(『国家』336B-C)

トラシュマコスがまさにケンカ腰でソクラテスに噛み付いていることがこの箇所からわかるだろう。

この場面において「〈正義=正しいこと〉とは何か」という議論自体は行われない。ここでは第一に、これからソクラテスとの対話を始めることとなるトラシュマコスの性格が描かれている。つまり、トラシュマコスという人物は、他の人が語り合っているそのさなかに割って入ろうとするような人物であり、「獣のように身をちぢめて狙いをつけ、八つ裂きにせんばかりの勢いで」とびかかってくるような行儀の悪い人物である、と。第二に、そのようなトラシュマコスの第一声が何に向けられているかも示されている。つまり、トラシュマコスにとってソクラテスとポレマルコスの対話は「お互いに人の好いところをみせ合っている」だけの「たわけたお喋り」であり、「〈正義=正しいこと〉とは何か」を探求するためには不完全な方法である、それゆえソクラテスは人に聞いているばかりではなく「自分のほうからも答えを提出」するべきである、と。このように、トラシュマコスの登場シーンには、「〈正義=正しいこと〉とは何か」というテーマを議論する以前に、それを(1)「誰が議論しているか」(2)「どのように議論するべきか」といった問題に焦点が当てられているのである。

さて、この強烈なキャラクターからは、「〈正義〉とは強者の利益である」という強烈な正義論が飛び出すわけであるが、程なくソクラテスによって命題内部の意味の矛盾を指摘され論駁されることとなる。その対話のさなか、トラシュマコスは自説の論証を行なうこともあれば、ソクラテスに悪態をつくこともあれば、議論をそのままにその場から立ち去ろうとすることもある。最終的にトラシュマコスはソクラテスの反駁を受け入れて引き下がるわけではあるが、それは彼の正義論そのものが論駁されたというよりもむしろ、ソクラテスの執拗な追窮に辟易した面が大きかったのだと思われる。そのことは、トラシュマコスがソクラテスとのやりとりのさなかに発する「まあ、あんたの気に入るようにしてあげるよ」(350E)だとか、「まあ心安らかに議論を楽しむがよい〔…〕わたしはけっして反論しはしないから。ここにいる人たちに嫌われないためにね。」(352B)だとかいった言葉からもうかがい知れるし、また、この作品自体の語り手でもあるソクラテスのト書き(たとえば、「さて、トラシュマコスは以上すべてのことに同意してくれはしたものの、とてもぼくがいま話しているような具合に、なめらかにことが運んだわけではなかった。彼はさんざん引き延ばしたり、嫌な顔をしたりし、びっくりするほど汗を流していた。」(350D)のような文章)からも読み取れる。結果的にトラシュマコスは、ソクラテスに対する「自分のほうからも答えを提出しなさい。」(336C)という要求を叶えられぬままに引き下がることとなってしまうのだった。

トラシュマコスが引き下がったのは「〈正義〉とは強者の利益である」という自説が論破されたからというよりもトラシュマコス自身のキャラクターによる要因があるのではないか。このような疑念はその場に居合わせた者にも抱かれていたようで、トラシュマコスが引き下がったあとすぐにグラウコンという人物からこのような問いが発される。

ソクラテス、いったいあなたは、私たちを説得したと思われさえすれば、それで気がすむのですか? それとも、ほんとうに私たちを説得して、正しくあることは不正であることよりもすべてにおいてまさるのだと、心から信じさせたいのですか?(357A-B)

このあとグラウコンは「私自身は、けっしてこのような見方に与するものではありません」と断りを入れたうえで、トラシュマコスの説を復活させる。「〈正義〉とは強者の利益である」との正義論は再びソクラテスに立ち向かうこととなる。トラシュマコスと比べると格段に冷静で行儀のよい人物が対話の舞台に上がったことで、徹底的に〈正義〉について語り合う場が構築され、ソクラテス自身の正義論が語られるきっかけとなるのであった。

この『国家』の序盤でのやりとりからも分かる通り、プラトンの対話篇は非常に生々しい現場で議論が行われているものが多い。同じテーゼであっても、それを唱えるのが情熱的なトラシュマコスなのか、幾分冷静なグラウコンなのかによって議論の筋道は変わってくるのである。

プラトン研究者のヴラストス(Gregory Vlastos, 1907 - 1991)は、プラトン初期対話篇の中でみられるソクラテスの独特の論駁法=エレンコス(Elenchus)には二つの目的があると指摘した。一つ目が「善い生き方についての真理を探求するもの」であり、二つ目が「答え手自身の生き方を吟味して彼を真理へと導こうとするもの」である。ソクラテスの目的は、人間一般にとっての真理を共同して探求することだけでは十分ではなく、同時にその探求に参加する人間個人を真理へと導くことも目標とされる。したがって、ソクラテスの対話相手への追窮は学説からそれを奉じている人物のパーソナリティへと向かうこととなる。この点についてはプラトンの作品内でも指摘されていることであり、『ラケス』の中に登場するニキアスは次のように語っている。

誰でもあまりソクラテスに近づいて話をしていますと、はじめは何かほかのことから話し出したとしましても、彼の言葉にずっとひっぱりまわされて、しまいにはかならず話がその人自身のことになり、現在どのような生きかたをしているか、またいままでどのように生きてきたか、を言わされるはめになるのです
。(『ラケス』187E-188A)

このようにソクラテスの論駁法は、命題や学説そのものの検討と対話相手の生き方への吟味が一体となって行われるのである。

ソクラテスの問答を受ける者は自分自身の発言に無責任では居られない。答え方次第で、自己自身の非倫理性を暴露してしまうことになる。心の底では思っていることでも、それを口にしてしまうことで自分の評判を落とすことになるのなら、なかなか正直な発言はできないものである。

『ゴルギアス』において三人目の対話者であるカリクレスとの対話が長引くのは、カリクレスが世間の評判を気にしないで自説を徹底的に展開したからである。自分に先行する対話者二人の敗北原因を周囲の目に遠慮したことであると見て取った(482C-D)カリクレスは「強者の正義」を掲げ、臆面もなく「正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。」(『ゴルギアス』491E)と主張する。これに対してはソクラテスも「ほかの人たちなら、心には思っていても、口に出しては言おうとしないようなことを、君はいま、はっきりと述べてくれている。」(492D)と徹底的に論じ尽くす姿勢を讃えている。

もちろん上に挙げた例は極端なものである。プラトン作品の中には二人の人物が議論を淡々と繰り広げることもあれば、一人の人物が自説を滔々と展開することもある。ただ、少なくともここで見てきた対話篇では人間と思想が一体となっている。異なる主張のぶつかり合いは人間同士のぶつかり合いとなる。つまり、そこでの議論は難しい話し合いとなる。

現存する最古の哲学書である一連のプラトンの作品群は対話篇形式で書かれたが、その弟子のアリストテレスはこれを採用しなかった。初期作品の中には対話篇形式で書かれたものもあると言われているが、現在残っているものはすべて整然たる論文形式である。『形而上学』の冒頭ではタレス以来のギリシア哲学史が、物事の原理(アルケー)を巡る思想の変遷として実に見事にまとめられている。プラトンにあっては鮮やかに描写される対象であったパルメニデスやプロタゴラスも、アリストテレスにあっては学説のみが切り離され、著者の図式の中に配置されるだけの対象となる。この変化は論証法の精錬とも言えるし、人間の忘却とも言える。少なくとも、アリストテレスの中に難しい話し合いは存在しない。


引用文献

『プラトン全集 7』、生島幹三訳、岩波書店、1975年。
『プラトン全集11』、藤沢令夫訳、岩波書店、1976年。
『ゴルギアス』、加来彰俊訳、岩波書店(岩波文庫)、1967年。

参考文献・その他

①G・ヴラストス「ソクラテスの論駁法」(井上忠・山本巍 編訳『ギリシア哲学の最前線Ⅰ』、東京大学出版会、1986年、pp. 37-72)
②トーマス・A.スレザーク『プラトンを読むために』、内山勝利・丸橋裕・角谷博 訳、岩波書店、2002年。
→ プラトンの思想だけでなく、その対話篇という形式のもたらすプラトン解釈の深さ・面白さが分かりやすく描かれている。
③ハンス・ヨアヒム・クレーマー『プラトンの形而上学(上)(下)』、岩野秀明訳、世界書院、2000年。
→ プラトンは人類史に燦然と輝く偉大な作品群を残した一方で、本当に大事なことは書き残さないとも述べている。(『第七書簡』)これを真に受けて「語られぬ学説」の探求を試みるテュービンゲン学派の一人であるクレーマーの書物。彼らの研究によると学説が語られなかったのは、プラトンの教育的な配慮があり、知の有効な伝達は対話を通じた長期間の教育課程の上に初めて可能であると教師プラトンが考えていたから、ということらしい。
④デイヴィッド・ヒューム『自然宗教に関する対話』、福鎌忠恕・斉藤繁雄訳、法政大学出版局、1975年
→ 宗教をテーマにした対話篇。冒頭で、なぜ哲学書が対話篇で書かれなくなったのかについて説明している。それによると哲学に求められる厳密な論証法やその体系が、会話の形には適さないからだそうだ。
⑤A. P. ダントレーヴ『国家とは何か』、石上良平訳、みすず書房、1972年。
→ リアリスト的な政治理論・法理論・国家論が論じられる本書にあって、プラトン『国家』のトラシュマコスを「実力 force」に関する議論の最も古いものとして検討している。
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小浜逸郎  拝啓。安倍総理大臣殿 (イザ!ブログ 2013・9・24 掲載)

2013年12月22日 06時01分04秒 | 経済
〔ブログ編集者より〕

以下の論考は、編集者の強い要請により、小浜逸郎氏に書いていただいた消費増税に対する抗議文です。私は、前回申し上げたとおり、安倍首相が消費増税に関する態度表明をする十月一日まで徹底抗戦をするつもりです。今回小浜氏にご協力を要請したのも、その意思表明のひとつの現れであると受けとめていただければ幸いです。この場を借りて、小浜氏には深謝の念を表したいと思います。

*****


拝啓。安倍総理大臣殿

                  小浜逸郎

 初めまして。評論家の小浜逸郎と申します。

 総理が昨年12月の総選挙において、あの著しく国益を害した民主党政権を見事に打ち倒し、第二次安倍政権の長として返り咲いた時、私は心の中で快哉を叫びました。そうしてそれからわずか二、三か月の間にデフレ脱却に向かっての明らかな兆しが見え、「アベノミクス」という言葉が定着するに至った事態をたいへん喜ばしく感じてきました。黒田日銀新総裁による大胆な金融緩和と、これに連動する形での機動的な財政出動の路線こそ、長い間円高デフレ不況に苦しんできた日本国民に光明を与えるものといまでも信じております。特に国内中小企業の経営者に投資意欲を掻き立て、雇用の改善や給与の上昇や消費の促進を実現させることにとって、この政策は不可欠のものと思われます。

 ところで、目下、消費増税問題が国論を二分しており、まさに総理が10月1日にどのような決断をされるのかという点に国民の目が集中しております。

 私は長いこと評論活動を続けてまいりましたが、元来、経済問題が苦手で、不得手なことには手を出さないほうがよいという警戒心から、ほとんどこれに触れないできました。しかし戦後未曾有の国難に直面した今の日本の現在と未来を考えるにあたって、言論人が経済のイロハも知らずに発言することは許されないと思い至り、この一年半ほど、いろいろな政治経済論客の力を借りつつ、おぼつかない足取りながらに政治経済関係の勉強を続けてきました。この論客の中には、総理が経済政策の決定にあたって参考にされたと言われるポール・クルーグマン氏、浜田宏一氏、宍戸駿太郎氏、現内閣官房参与の藤井聡氏などが含まれます。

 さて現在の時点で、消費増税に踏み切るべきかどうかという点についてですが、私はこの政策が、その出発点からして、根本的に誤っているという確信を抱いております。この確信を抱くに至ったのにはいくつかの理由がありますが、最も重要なものは、次の二つです。

 一つは、この政策の根拠となっている「財政再建の必要」という課題が、一部の財務官僚によって作られてきた虚構に過ぎないという事実です。日本国家はいま、そしてこれからも、財政危機状態などにありません。喧伝されている1000兆円の借金(GDPの2倍)という話は借りている金額だけを強調しているので、持っている資産とのバランスシートをとれば、約400兆円、これはGDPを下回ります。たとえばアメリカは純債務のGDP比は日本よりもはるかに高く、財政危機を言うなら、こちらのほうが深刻です。

 もう一つは、増税によって税収が増え、それがいくらかでも、財政再建に貢献するという話がまことしやかに語られていますが、この話は、増税によって企業の投資や生活者の消費などの実体経済が冷え込むという当たり前の流れを無視したところで成り立つ机上の空論です。ごく普通に考えれば、一般消費者(ある生産者も、自分の生産が可能となるためにお金を投じるとすれば、その投じ先に対しては消費者です)にとって、税金をこんなに取られるならちょっと財布のひもを締めようと考えるのは当然の反応です。つまりデフレ期に増税などをすれば、投資や消費の欲求にブレーキがかかり、その結果、せっかくのアベノミクスが「腰折れ」になるのは目に見えているのです。本当にデフレ脱却、景気回復が庶民のレベルで実感できるためには、最低でもあと1年は必要ですね。

 総理。こんなことは、もちろん織り込み済みだろうと思います。しかし私が危惧するのは、総理の周りの騒音があまりに激しくて、総理をして、冷静に判断させる余裕を許さない雰囲気になっているのではないかということなのです。この「騒音」の中で、最も顕著なのは、言うまでもなく、この間のマスコミの暴走です。

 つい二、三日前、新聞各紙、およびテレビが、「安倍首相、消費増税を決断」という報道をいっせいに流しました。えっ、そうなの、と思って記事を読んでみると、そう決断したという証拠がどこにもないのですね。せいぜい法人税減税の方向性を示唆したという程度。なんでこれが「増税」決断の証拠になるのか。総理は別に「私は決めた」などという表明を公式にしたことは一度もありませんね。菅官房長官も、一貫して「そんな事実はない」と言い続けています。

 私は、こういうマスコミの姿勢に限りない憤りを感じています。なぜこういうことになるのかについては、いろいろな考察や憶測が可能ですが、今はそれについては控えましょう。ともかく事実の歪曲を平然と垂れ流して世論を操作するその汚いやり口があまりに見え透いているので、ああ、「大本営発表」とおんなじね、ちっとも変ってないのね、と思いました。

 で、総理。私のような者の言葉が届くのかどうか、そんな可能性はほとんどないのですが、総理を取り巻くものすごい増税圧力の群らがりがあり、やっぱり誰でも一人の人間なので、そういう流れにまったく影響されないでいられるかと言えば、これはかなり難しいと想像します。実際には国民の7割近くが増税に反対しているのに、総理のもとに届くのは、権力を手中にしている声の大きい者たち、ということになるのでしょう。

 ですが、いくら身近なところでの影響を無視しえないと言っても、最終的な決断が総理一人の胸にかかっているのは事実なのですから、この事実を大いに生かしてほしいと思っております。端的に言えば、この問題に関して総理は独裁者なのです。あれもこれも聞く、多様な意見を尊重する、でもそのために決断できないというのが民主主義政治の特徴ですが、私はこういう民主主義の弊害をそれなりによく知っていますので、私がいま総理に求めたいのは、「賢明な独裁者たれ」ということです。どんなに周りが総理を増税承認の方向に誘導しようと仕掛けても、そんなことを気にする必要はありません。民のためを思えばこうするのが最適、という決断ができる立場に総理は現にいるのです。

 総理はその職業柄、毎日分秒刻みのスケジュールに追われ、ゆっくり考える暇もないのが実情でしょう。そのたいへんさを想像するだけで気が遠くなるほどです。そういう超多忙な生活というのを私は経験したことがありませんが、その百分の一くらいの経験を通して、少しばかり言えることがあります。

私は物書きですが、締め切りに追われることが何度かありました。そういう時、何日までにこれ、何日までにこれ、と、一応頭に入れてはおきます。でも自然、質的に見て優先順位というのがあって、早い締め切りのものよりも、あとの締め切りのもののほうが気にかかってしまうということがままあります。この数日間における総理のスケジュールはいつも通りぎっしりだと思いますが、おそらく消費増税に関しては、ちょうどこれと同じように、ほかのことに比べれば最優先事として前々から気にかかっているのではないでしょうか。

 さて私のささやかな経験からお勧めしたいのは、もう十分考えてきたのだから、ここ数日はほかのことに専心して、消費税に関しては意識から追い払ってペンディングしておけばよいということです。決断は、前夜、または当日直前でも構いません。人はくよくよ長く考えればより良い決断ができるのかというと、意外とそうでもない、と私は言いたいのです。

 実情も知らず、勝手なことを申し上げました。どうぞご寛恕ください。

 それはそうと、私が一番心配するのは、消費増税に踏み切ってしまうと、安倍政権の掲げている重要政策のいくつかが実現困難になってしまうのではないかということです。私が安倍政権の掲げる政策の中で、支持しているのは、原発政策、安全保障政策、憲法改正問題の三つです。これらはいずれも国家的課題であって、長期政権が保証されてこそ実を結ぶ政策ですね。もし景気回復が確実に保証されない今の時点で消費増税に踏み切った結果、国民の信頼が揺らぎ、政権基盤が崩れたりすれば(その可能性は大いにありうると私は思っています)、せっかくの「長期安定政権」の下でなしうることが、すべておじゃんになります。どうかそういうことになりませんように、総理のご賢察に一縷の望みを託す次第であります。

                                          敬具
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