美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

宮里立士  「理性の君主」昭和天皇が抱いた逆説的な認識  (イザ!ブログ 2012・12・9 掲載)

2013年12月04日 23時21分36秒 | 宮里立士
「理性の君主」昭和天皇が抱いた逆説的な認識
――『昭和天皇』(古川隆久著 中公新書)の書評の補論として――           
      宮里立士

                  まえおき

11月24日に古川隆久氏の『昭和天皇「理性の君主」の孤独』の書評を書き上げ、美津島明さんのブログに投稿しました(翌日にブログアップして頂きました)。しかし、拙文を読み返したとき、本書の内容紹介に力が入りすぎ、書評としての論旨が十分に展開されていないことに気づきました。そこで改めて補論というかたちで、これを展開したいと思います。

          *

先の書評の最後に、本書の古川氏の論調に「若干の疑問が残った」と記した。

その疑問とは、「昭和天皇を『理性の君主』と強調しようとするあまり、陸軍(部分的には海軍)を、図式的に「悪玉」に仕立てていないか」、「本書の『歴史的文脈』が、やや安易に戦後的価値観に依りかかっていないか」の二点であった。しかし、これは率直にいって、やはり本書への「批判」というべきだった。「疑問」という言葉にこれを和らげたのは、古川氏の本書結論に深く共感するところがあったためである。

すなわち、「天皇・皇室というものが、日本の国家と国民、さらには世界の平和と発展に寄与し得るはずだという認識が昭和天皇にあった」。そして「森羅万象すべてを理性で解き明かすことができるとは限らず、しかも、理性だけでは人間社会は維持しきれず、天皇は、国家において、そうした信仰や信念に相当する役割を果たしてきており、これからも果たし得る、という認識が昭和天皇にあった」という結論である(395頁)。

しかし、その一方で古川氏は本書で、昭和天皇への政治責任追及の声に、「一般住民すべてが国民という、いわば国家の正式なメンバーとなる、近代国家においては、貴族や武士などごく一部の人々しか政治に関与できない前近代の国家と比較して、指導者の業務が飛躍的に多くなり、問題も解決方法も複雑になる。近代国家の指導者は、一人で長期間適切に業務をこなすことは不可能なのである。しかも昭和天皇は世襲君主であって、望んでその地位についたわけではない」と述べて、その立場を擁護する。

そして、「天皇にすべての最終権限を集中した旧憲法の制度設計はそもそも不適切だった」と指摘する(393頁)。

ここには古川氏が君主制を合理的とはいえない、「前近代」的存在である、と観ていることが窺われる(古川氏は「近代国家において、君主は象徴的な存在にとどまるべき」とも述べている)。

この古川氏の結論と指摘を念頭に改めて本書のテーマを考えた。すると、先の結論の引用部分、「森羅万象すべてを理性で……」の前に置かれている古川氏の文章、すなわち「天皇機関説事件の際や終戦直後の昭和天皇の発言や、その背景となっている生物学者たちの議論が示唆しているように」、という箇所が気にかかった。

昭和天皇は生物学研究を通して「進化論者」になったと、古川氏はいう。その当否はともかく、昭和天皇がダーウィンを尊重していたのは、自らの執務室に彼の胸像を、リンカーンの胸像とともに置いていたという逸話からも察せられる。その天皇が進化論を肯定していたことは多くの史料から明白である。古川氏は本書で、戦前の代表的な生物学者の丘浅次郎が執筆し、ロングセラーとなった『進化論講話』の大正三(一九一四)年の増補修正版に追加された「進化論の思想界に及ぼす影響」という章に注目する。そこでは丘の、「『信仰は理会力〔理性〕の外に立つ』もの」で、「人類という種を維持繁栄させるためには、信仰、宗教のような非理性的な観念が必要だという見解が示されている」(199頁)。

これに続けて、丘が「極めて面白い」と評するドイツの生物学者ヘッケルの著書『生命の不可思議』(上下二巻として、岩波文庫に収録)の学説を古川氏は紹介する。それは結局、生命発生の時期と原因とは不明であるという学説である。そしてこの説は現在の生物学でも踏襲されているという。これを受けて古川氏は、「昭和天皇の思想は当時の自然科学の動向から大きな影響を受けたものだった」ことを踏まえて(200頁)、「理性だけでは人間社会は維持しきれず、天皇は、国家において、そうした信仰や信念に相当する役割を果たしてきており、これからも果たし得る、という認識が昭和天皇にあった」という結論を抽き出したのである。

先に「若干の疑問」として挙げた二点から私は、古川氏が「丸山真男流の『戦前無責任体制』論」に依拠し、この戦後的視点から「歴史評価」を下しているのではないかと疑った。しかし、これは誤りだったようだ。

「世襲君主」という己れひとりの意思では身動きできない立場に同情する視点から、昭和天皇の「戦争責任」追及を擁護しようとする主張は、戦後の穏健リベラリストの多くに見られた。また、皇室祭祀の執行に端的に現れる「天皇の宗教的権威」から、その「尊厳」を、近代個人を超えた存在価値として重んずる論説も、戦後にも一部に一定の有力なものとしてあった。しかし、古川氏は本書で、これらをおそらく意識しつつ、異なる視点から両者を止揚する見解を述べようとしている。ここに私は、古川氏の現代の歴史家としての「誠実さ」を感じとった。古川氏は、昭和天皇という、未だ「歴史」となりきっていない存在に対し、自身の歴史家としての「評価」を本書で披露したのである。

ここまで考え直したとき、私が本書に「若干の疑問」を内包しつつ、深い共感を寄せた理由もはっきりと解った。

すわなち、「理性の君主」である昭和天皇は、その立場ゆえに、「孤立」を強いられた。しかし、その「孤立」のなかで、昭和天皇は理性を超えた、天皇の存在理由を認識することができた。これが本書で古川氏が辿りついた結論だったのである。

「天皇」(ここでは「君主制」と置き換えてもいいであろう)という、近代政治の通念では「前近代の遺物」とも観念される存在を、「進化論」という、ある意味で優れて「近代的」な観点から捉え直し、昭和天皇がここから「理性」の限界とそれを超えた「天皇」の存在意義を逆説的に感得したという天皇の自己認識のダイナミズムを説くところに、私は本書のユニークでオリジナルな魅力を感じたのであった。

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先崎彰容  「橋下・石原現象」について――「父」とは何か  (イザ!ブログ 2012・12・7 掲載)

2013年12月04日 23時13分37秒 | 先崎彰容
ブログ主人より。また一人、強力な言論人の登場です。先崎彰容(せんざき あきなか)氏です。小浜逸郎氏からのご紹介で、この度、当ブログにご参加いただくことになりました。まだ三〇代でありながら、その博覧強記ぶりに私が舌を巻いたのは一度や二度ではありません。

専攻は、近代日本思想史・日本倫理思想史の大学人です。著書・共著もすでに二冊以上あります(『個人主義から“自分らしさ”へ—福沢輸吉・高山樗牛・和辻哲郎の「近代」体験』、『高山樗牛—美とナショナリズム』ほか)。近くナショナリズムにかんする新書も出版の予定とお聞きします。

これから、先崎氏がどういう文章を書くことになるのか、今からとても楽しみにしています。読書会での彼の、既成のアカデミズムの枠を突破しようという野心に燃えた若々しい姿が、今回の文章にも静かに躍動しています。

*********


「橋下・石原現象」について――「父」とは何か

                              先崎 彰容

11月16日、約束どおり野田民主党政権は衆議院を解散した。翌年の総選挙後にほんとうの問題がやってくる。選挙後の政党間の離合集散、これが人びとの本当の注目の的だからだ。日本は「二大政党制」だと言われているが、実際は一〇以上の政党が今回の選挙では乱立し、その後の離合集散をねらっている。選挙前ですら、数日前にできた政党が今日には他の政党に吸収されてしまっていて、情報を追いかけるのに苦労するくらいだ。

だが、その立役者こそ橋本氏の日本維新の会であり、石原慎太郎氏の太陽の党であったことは間違いない。「太陽の党」とは当然、石原氏のデビュー作『太陽の季節』をもじったものだろう。とすれば、氏は一橋大学時代から八〇歳をむかえる今日まで、何ひとつ成熟していないことになる。橋本・石原氏が二大政党のなかに割って入る可能性や、今後の政局について口角泡を飛ばしておしゃべりすることは、いわゆる「政治評論家」にお任せしよう。

私が以下で述べたいのは、彼ら自身への個人的評価云々ではなく、「橋本・石原現象」とでもいうべき事態についてである。つまり、彼らふたりに象徴される、現代日本の特徴を述べてみたいのである。

札つきの悪たとえばこんな話を、私たちはいくらでも耳にしたことがあるはずだ――中学生の頃、彼は手のつけようもない「札つきの悪」だった。学校に行かないのは当たり前、金色に染めた髪をジェルでがちがちに固め、バイクを改造し深夜の国道を乗りまわし、警察に追いかけられたことも一度ではなかった。高校に入るころには、周囲も認める地元一番の不良になり、不良連中のあいだでも一目置かれる存在になっていた。

警察に何度も頭を下げにいった母親はすっかり困り果ててしまった、近くにボクシングジムがあるから行くとよい、と友人に進められた。ボクシングジムの会長は母親の話をきいて「今度、練習につれてくるのがいい」と武骨に言った。母親は金髪の息子をつれて、ジムを訪れる。道端で人を殴りつけているエネルギーを、ここでなら犯罪にならずに発散してくれるのでは…というのが母の本音だった。札つきの悪は、ジムの会長からこういわれる「おれのこと、殴っていいよ」。馬鹿にされたと思った札つきは、思い切りこぶしを振りあげた。でも一度もあたらなかった。

その日から、札つきの悪の練習がはじまった。

もちろん、学校などとうの昔に中退しているから練習に行こうと思えば、朝から行けた。でも起きるのが苦手で、午後からの練習が多かった。ジムの会長はそれを叱り飛ばした。札つきの悪が、練習道具を投げつけ出て行ったことも何度もあった。だがジムの会長は、悪に才能があることを見抜いていた。一度だけ、ことばでは足りずに思い切り、吹っ飛ぶくらいに殴り飛ばしたことがある。金髪の悪は、黙って下を向いていた。

それから数年がたった。

今夜は世界チャンピオンを決める戦いである。そこで勝利者インタビューをうけ、赤く膨れ上がったまぶたから涙を流しているのは、あの札つきの悪である。今でも髪は金髪だが、チャンピオンベルトを肩にかけ、片方の腕には小さな子供が抱かれている。そして悪は言った「ジムの会長には感謝のことばもありません」。

金髪とサングラス
なぜこんな例からはじめたかには、もちろん理由がある。東京都知事をなげうってまで「国政の第三極」をつくろうという石原慎太郎氏には、それなりの決意があるだろう。東日本大震災の際には、東京消防庁の活躍に感謝の涙をながし、尖閣諸島を国が動かなければ東京都が買うと発表し、そして今回の決意に石原氏は至った。つねに注目をあつめる発言と行動は、ある小説家の発言をひけば「無意識過剰」でなければできるものではない。その力強さは、2012年の人びとを惹きつけてやまない。

橋下氏もまた、石原氏とおなじ人生の道を後から追っているようにみえる。橋下氏の家族にどのような悲劇やドラマがあったのか、私にはまったく興味がない。また持つべきでない。ただ橋下氏が、高校時代ラグビーに打ち込みながら大学卒業後、弁護士となりテレビ出演していた時には髪を染めサングラスをしていたこと。そして大阪府知事となり、ある機会に偶然、私は講演を目の前で聞いたのだが、そこで「上司の言うことを聞かない部下など、どこでもやっていけない。私の言うことを聴くべきだ」といった趣旨の発言をしていたことだけで事は足りる。

橋下氏の心には、あの札つきの悪とおなじ「怒り」が宿っている。何にむかって放てばいいのか、対象がわからない怒りと反抗の心が宿っている。それは、自分を社会のどこに位置づけたらいいのか分からないことからくる混乱であり、さらに自分の思っているような自分に、未だなっていないことへの怒りと不安の表現だった。金髪にサングラスとは、自己主張のひとつの方法である。世間をふり向かせたい、自分を見てほしいと言うのは、自分がなりたい位置づけに未だ収まっていなかったことの、あからさまな象徴である。

人から何か指示されるのは気に喰わない。社会全体が、自分から見れば、苛立たしく「よくない」ものに見える。そのとき、橋下氏は髪を染め、自分への注目をもとめ、そしてようやく今度は、自分が人から認められ、人を指示する側にまわったとき髪を染めるのをやめ、サングラスをとった。社会を直視できるようになったからである。そして今度は、人びとに自分の意見を聴くことを求め、礼儀正しくなれと言っているのだ。

あの札つきの悪だった息子が、警察に親に当たり散らしながら、実は自分でも何に向かって怒りをぶつけていたのか、その怒りの出所もわからないまま物を破壊していた時代、そしてボクシングに出会い、おそるべき努力で頂点をつかみとった時の思いに近い経験を、橋下氏はくぐりぬけてきたにちがいない。

私は石原慎太郎氏と橋下徹氏に対する個人的な攻撃に一切、興味がない。だから私は、彼らの心のなかを占領している苛立ちと怒り、そして反抗の心を「橋下・石原現象」とカッコつきで書いているのだ。第一の結論をここで言おう。この「橋下・石原現象」こそ、2012年現在の私たち日本人の多くの心を、もっともはっきりと示した現象なのだ。

荒涼としたことば
ところで、橋下・石原氏にたいする批判や警戒心の言葉が溢れかえっていることを、私たちは知っている。彼らをファシスト・独裁者呼ばわりし、警戒すべきだと主張する精神科医や、自称保守主義者のなかにさえ、彼らを本物の保守ではないと叫び主張する人がいることを私たちは知っている。

だが私がわざわざ「橋下・石原現象」を、ボクシングの話から始めた意味はここにもあるのだ。

自分の怒りや苛立ちをどうしようもない人間にたいして、それを叱り飛ばす精神科医や保守主義者は、実はPTAのおばちゃんよろしく、説教=啓蒙しているにすぎない。啓蒙主義は、ぜったいに橋下・石原氏には届かない。グレている人間はさらに殻を閉ざし、自らが理解されていない、世間から理解されていないという苛立ちを増幅するだけだからだ。

その結果は見え透いている。怒りを爆発させるか、あるいは凄まじい努力の後に、どうしても自分を世間に認めさせようとするか、いずれかだ。「橋下・石原現象」に、啓蒙的なお説教や「あなたは危ない」式のことばは何ももたらさない。グレた人間はいっそう、心を閉ざすだけである。

橋下氏にたいする批判に、反撃をしかける氏自身の口調は常軌を逸した激しいものだ。新聞やマスコミは、それを扇情的にかきたて拍手喝采する。さらに「ハシズム」に警告を発する人びとも当然存在する。だが橋下氏からみれば、どちらも自分を分かってくれない人間どもにすぎないのだ。そしてここに第二の結論がでてくる。

橋下氏のことばも、その橋下氏を注視・喝采することばも、さらに警告を発する自称知識人のことばも、すべてのことばが怒りをふくみ、そして毛羽立っている。荒涼としたことばの世界が言論界を、ジャーナリズムを、つまりは日本人全体を覆っている。

これは恐ろしいことではないだろうか。

私が「橋下・石原現象」とわざわざ言ったのには意味があった。橋下氏のことばに込められている暗い感情、憤怒は、実は現在の日本社会の毛羽立った状態をもっともよく象徴している。

ことばなどで、なにが分かる?現実社会はことばなどとは違う生々しいものだ。人はよくそう言う。だがおそらくそれは間違いだ。いま、日本社会はことばが荒廃し粗雑な手つきで取り扱われている。それを一人の政治家と、その周囲のことばの風景に私は見いだす。それが日本社会全体の象徴だと確信する。

これからも橋本氏の怒りは増幅しつづけるであろう。橋下氏の眼には、ひとつひとつの社会現象の欠点がみえ、「見えすぎる」自分に驚き自負心を感じながら、怒りをぶつけて破壊して行くことだろう。喝采する人びとと、批判する人びとがいる。だが橋下氏は分かっているのだ、実は自分が世間から一切、分かってもらえていないことを。だれも本当の自分のことを理解してはくれず、自分は孤独なのだということを。そして多くの日本人も孤独を抱えたまま生きているということを。

橋下氏は、ボクシングの例で言えば、実はいまだ札つきの悪の時代である。サングラスははずした、だが橋下氏を理解し承認してくれる人間はまだどこにもいない。

石原氏について石原慎太郎氏は『太陽の季節』で芥川賞を受賞した小説家である。つまり彼はことばの世界から出発した。では、彼はことばの荒廃になぜ参加してしまうのだろうか。それはこれまた私たち自身のことばへの通念を、石原氏が代表しているからである。

小説家はつねに、前衛的であるはずだと石原氏は言う。私たちもまた小説家とはつねに実験し、創造し、前衛的な存在だと思っている。それはことばが、つねに「破壊的」であらねばならないという意味だ。新しくなければならないという意味だ。だが本当だろうか?ことばとは、むしろ失われた過去に私たちの危うい現在をつなぎとめる行為ではないのか?

小説はもちろん、新奇なものを求めるであろう。だがことばとは、和歌の本歌取りが端的にしめすように、本来、過去とのつながりを意識せずには成り立たないもののはずである。保守思想家であれば、なおさらのことだ。だが石原氏のことばからは、破壊の匂い、つまりは死の匂いしか漂ってこない。ここにも何かに苛立ち、つねに欠点を破壊しようという荒涼とした心が垣間見える。

その石原氏は、しばしばジャーナリズムから「父」の象徴とみなされてきた。また石原氏自身、みずからを強い「父」であると自負し、教育論も展開してきた。そのマッチョイズムは、三島由紀夫さえもどこかコンプレックスを抱くような「無意識過剰」なものであった。

だとすれば、いま、髪の毛を黒くしサングラスを外した橋下氏にとって、石原氏は「父」となりうるのだろうか。橋下氏はみずからの心のなかにある不満、孤独を癒し、人びとから認められたいという承認欲求を満たすことができるだろうか。

成熟とはなにか
私の結論は「NO」だ。それは「父」のイメージが、石原氏と私とではまったく違うからである。そしてこの違いが、今後の日本国民全体の意識を、さらに殺伐とした風景にしてしまうのか、あるいは一人の人間を成長させ、やがてはボクシングチャンピオンにし家族をもつことができるのか、要するに成熟した日本をつくりあげられるかの分岐点だと思うのだ。

人は子供のとき父親に叱られる。しかしその叱るはずの行為が、いま大きな問題を生みだしている。「幼児虐待」という問題である。年上の人間が、年下の子供を「怒る」。その怒り方によって、おなじ行為が「教育」にもなるし、「暴力」に豹変することもあるのだ。

ではその違いは何か?「叱る」とは畢竟、上位の者がみずからが正しいと思う「ルール」を、下位の者に強制することに他ならない。だから教育問題は、かならずルールや秩序を「強制」していいのか、悪いのかをめぐる堂々巡りの議論に終始する。強制を否定し、子供に自由を与えるべきだと叫ぶ陣営と、いやいや子供には絶対にすべきでないことを教える=強制すべきだという陣営がお互いを罵倒する風景を私たちはいくらでも見てきた。このように、「教育」と「暴力」を峻別するのはむずかしいのである。

子供はルールを教えなければ何をなすべきか基本的にしらない、か弱い存在である。その子供にもしルールを強圧的に教えこみ、スパルタ教育をすれば「強い」子供が育つだろうか?むしろ事態は逆に進んで行くのではないか。

子供はスパルタへの恐怖心から、何がメッセージとして、ルールとして言われているのかわからず、パニックを起こしてしまう。相手が、つまりは父が何かを「怒っている」ことは分かるが、何をすべきなのかを理解できない。怒りだけが伝わる。それでは恐怖しか伝達しない。一方の父もまた、怒る自分が最終的には何をめざして怒っているのか、わからなくなる。こうして家庭においてもまた荒みきったことばが、怒号として、泣き叫ぶ子供の声として2012年の日本の家庭に現れているのではないか。

私が言いたい最終的な結論は次のようなことなのだ。

この父は「父」ではない。「父」とは、子供にたいしてルールを「強制」する人間のことである。だが、その「父」には、かならず包容力がなくてはならない。子供にルールの大事さを教え、時には厳しいことばをかけつつも、一方で、子供が社会で転びそうな場合には、そっと後ろに手をまわし気づかれぬように支える度量がなくてはならない。かならずそこには一種の「余裕」が必要なのだ。

子供から大人になることは、大きな川を必死に泳ぎながら高い堰を飛び越えるような困難な作業だ。子供にとって、それは大きな賭けである。大人はそれを見守り、本流から外れそうになる魚たちにそっと手を差し伸べ、支流からもとの流れにもどす。だが流れに逆らい泳ぎつづけること自体を、可哀そうだと止めることはない。それは過保護だからだ。このような姿こそ「父」ではないか。

だが、ひるがえって石原慎太郎氏と橋下徹氏に、このような「余裕」があるとは思えない。石原氏のマッチョイズムを喝采し、父権の再興をもとめる人間に、この包容力への嗅覚があるだろうか。子供を「見守る」腕っ節の太さがあるだろうか。

そう思って「橋下・石原現象」を眺めてみると、私は言いようのない不安を覚える。橋下氏には、いまだボクシングジムの会長のような「父」がいない。氏の存在を承認し、彼を包容するだけの人間にめぐり会えていない。また一方で、父を自認する石原氏は、実はどちらかと言えば、札つきの悪のまま大人になってしまった存在で、彼自身にもさらに上位の「父」が必要なのかもしれない。実はこの国には、本当の意味での「父」がいない。「父」がいなければ札つきの悪はチャンピオンになり、家庭をもつことができない。父親からの罵声は、国民という子供たちをさらに動揺・興奮させるだけではないのか。何を破壊すればいいのか、何を怒られているのか、私たちは本当のところ、分かっていないではないか――この比喩が、比喩ですまされないことを、私はことばの荒廃というささやかな、しかしまことに重要な部分に見いだしてきた。

そして最後に述べておこう。「余裕」ある父性を帯びた人物を選ぶこと、これこそが今回の選挙で求められる私たちの判断基準なのだ。

以上の見解は個人的なものであり、所属する団体等とは一切関係ありません。
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妄想科学小説・iPS細胞は人類を救う? (イザ!ブログ 2012・12・5 掲載)

2013年12月04日 23時05分29秒 | 文学
妄想科学小説・iPS細胞は人類を救う?
                                   美津島明

今年の10大ニュースのトップを飾るのは、なんだろうか。私見によれば、山中伸弥教授のノーベル生理学・医学賞受賞である。これは、多くの人に賛同していただけるのではないかと思う。今年の流行語大賞は、「iPS細胞」なのではないか、とも。アメリカ・アップル社の大人気商品「i POD」にヒントを得て、山中さんは世界中の人々に注目されるように「I」を小文字の「i」 に変えた。そのポップ・センスは大したものだと思う(などと言っていたら、今年の流行語大賞は、すぎちゃんの「ワイルドだろぉ」に決まったと報じられた。私は、一度もその言葉を耳にしたことがない。電波系芸人たちの痴呆的な笑い声が聞こえてきたら即座にチャンネルを切り替えることにしているので)。


ヒトiPS細胞 ( http://www.cira.kyoto-u.ac.jp/nakagawa/?page_id=1163より)

これから話すのは、iPS細胞を小道具に使ったSF小説のあらすじのようなものである。だから、「お前は、iPS細胞のことをまるで分かっていない」と眉間にシワを寄せて私を難詰するのは勘弁してほしい。また、愛国心溢れる山中教授の画期的な研究成果にイチャモンをつけようなどという魂胆などまるでないことも合わせて言っておきたい。

中東アフリカで猿人「ルーシー」が誕生してから数百万年間。人類にとって最大の問題であり続けてきたのは「食料問題」である。「日本の食料自給率は、カロリー・ベースで約39%である。穀物自給率はもっと低くて28%である」という事実を突きつけられると、心穏やかではいられなくなるのは、そのことの名残なのかもしれない。高度資本主義は、食料問題をおおむね解決した、とはしばしば耳にする言葉である。が、私はそれをにわかには信じられない。「食料問題」と格闘してきた人類の記憶は、われらが高度資本主義の住人たちのDNAにも深く深く刻み込まれているに違いないと考えるからである。

それよりもなによりも、現在十分に栄養の取れない飢餓人口は9億6300万人であり、その数は毎年増加傾向にあり、毎年約1500万人、4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している(国連食糧農業機関の統計(2008年))という事実が、世界レベルにおいて、「食料問題」がいまだに深刻な問題であり続けていることを雄弁に物語っている。

そこで、心ある科学者たちは、iPS細胞の技術を応用・改善して食料問題を解決しようと叡智を絞った。

やがてドクターP.D.を中心とする科学者グループZが、食料問題の究極的な解決法を考案した。

それは、葉緑体をiPS細胞に組み込んでそれを人体に移植する、というものであった。ご存知のように、葉緑体は光合成を行う場である。光合成によって、水と二酸化炭素から酸素とでんぷんなどの養分が作られる。

道管がなくても、人間は水分を摂取できるからその点は問題ない。ところが、光合成によって作られた養分を体全体に運ぶ師管が人体にはない。

これをめぐって、グループZは少なからず試行錯誤を繰り返した。しかしながら、ほどなくその問題は解決された。彼らは、体中の葉緑体で作られた養分を血流の利用によって胃にまで運ぶ新物質アルファ(これは宇宙船での無重力実験によって偶然見つかったものである)を含有した新薬を開発したのである。

彼らの献身的かつ英雄的な研究活動によって、人類誕生以来自分たちを悩まし続けてきた「食料問題」は究極的最終的に解決されたのである。

「食料問題」の最終的な解決は、人類社会に文字通り革命的な変化をもたらした。最も大きな変化は、人類が労働から最終的に解放されたことである。経済は、根本的な変化を被り、衣と住関連を除けば、諸文化活動だけで構成されることになった。

また、人類は死の恐怖からも最終的に解放された。食の問題の消滅は、死の恐怖が「食料問題」に直面し続けてきた人類の切迫した歴史に基因する幻想に過ぎなかったことが、全人類レベルにおいて判明したのである。さらに、過剰な金銭欲からも解放された。もちろん、戦争の恐怖からも解放された。戦争を起こす根本動機としての動物的な自己保存欲求が希薄化したからである。自己保存欲求と死の恐怖とは表裏一体だったのである。

ささいなことを付け加えれば、人類は、哲学なるいかがわしいものからも解放された。死の恐怖が消滅したので、「死のレッスン」という遊戯のしようがなくなったのである。

このように、「食料問題」の解決は良いことだらけのようだが、問題がないわけではなかった。

まずは、見た目の問題があった。つまり、全身に葉緑体を移植された人間は、要するに、緑色なのだ。その見た目の異様さに慣れるまでに結構な時間がかかった。しかし、これも単に慣れの問題なので時間が解決した。各国政府が各種メディアを駆使して「Green  is  beautiful」のキャンペーンを大いに盛り上げたことが功を奏した、という面もあった。結局は、人類が皆緑色になってしまえば、それが常識になってしまうということである。

もちろん、葉緑体の移植を拒む少数派が存在した。彼らは「人間らしさの保守」をスローガンに立ち上がった。しかし、彼らは、金銭欲や征服欲や破壊衝動の肯定者として社会的に反動と見なされ危険視され差別されたので、人類の進歩の名においてその人権を剥奪され圧殺されてしまった。

もう一つの問題は、より深刻だった。「食料問題」の解決は、動物としての意識の希薄化をもたらしたのである。つまり、人間の植物化が進んでしまったのである。エサを求めてうろつきまわるという動物としての習性の必要がまったくなくなったので、その習性と不可分の関係にある、活性化された意識状態が保てなくなったのだ。

そうすると、メスを求めてうろつきまわるオスの習性も希薄化してきた。気に入ったオスを誘惑するメスの手練手管もその存在根拠を失った(ついでに言えば、飽くことなく人間のスケベ心を扱い続けてきた文学なるヤクザな存在も消滅した)。「食料問題」の解決は、人類を性衝動からも解放してしまったのである。これは、出家僧や敬虔なキリスト教徒ならいざ知らず、人類の存続にとっては由々しき事態である。

結局、人工授精の普及によって、人類はこの問題に対処した。

科学の力で、人類は存続の危機から脱することができたかのようであったが、そうは問屋が卸さなかった。肉食動物たちが、逃げ回る衝動そのものが希薄になった人間を格好の餌食にするようになったのである。これは、悲劇かそれとも喜劇なのか。ドクターP.D.は、考えあぐね、酸素まじりの溜息をつくのだった。

人類を脅かし続けてきた大問題の根本的な解決によって、人類が、肉食類の餌食になることに怯え続けるか弱い存在に成り下がった、というお話。

(もし、類似のストーリーがあったとしても、私はそれを参考にしたわけではありません。悪しからず)

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小浜逸郎 中立性という名の政治性――榊原英資批判 (イザ!ブログ 2012・12・3 掲載)

2013年12月04日 22時53分18秒 | 小浜逸郎
中立性という名の政治性――榊原英資批判(その1)  
                                  小浜逸郎

総選挙へ向けて各党の動きが活発化する中、去る11月29日、産経新聞「正論」欄に、榊原英資(さかきばら・えいすけ)氏の「日銀中立性には円の信認がかかる」という論文が発表されました。

榊原氏といえば、旧大蔵官僚として辣腕を振るい、国際金融局長、財務官を務めた輝かしい経歴の持ち主です。国際金融局長時代には、強力な為替介入政策をとって当時の超円高傾向の是正に功績をもたらしましたし、アメリカの財務官僚とも堂々と渡り合うその姿勢が頼もしく見えたことも事実です。退官後も評論家としてその弁舌の流暢さと頭の良さとで鳴らした人で、ひところはテレビへの露出度もかなりのものがありました。現在でもテレビ・ラジオのレギュラー番組を持っているようです。しゃべりながらやたら体を左右にゆするのが、どうもおっちょこちょいに見えてあまりいただけませんけれどね。まあ、それは内からのエネルギーが溢れてきてしまう証拠のようなものですから、いいでしょう。

この人はまた、2003年の総選挙で民主党が政権を取った場合、財務大臣に就任することに決まっていました。「閣僚予定者名簿」に載っていたのです。

ところでくだんの論文は、原稿用紙わずか5枚のものですが、公正めかしたその論調の陰にじつは「安倍政権成立反対」を訴えるという、明らかな政治的メッセージを隠した欺瞞の見本ともいうべき文章です。いわゆる玉虫色の「官僚の作文」ならまだましです。どうせそんなものさとあきらめられるからです。逆に、ひとりの有権者、識者として、これこれの理由で安倍政権成立には反対であるとはっきり言うなら、その方がはるかに潔いといえましょう。そのどちらでもないところがいかにも曲者です。

要するにこの文章の本質は、安倍政権が成立すると、ご実家である財務省(旧大蔵省)及びこれと癒着した日銀が脅かされるのではないかというお家意識に金縛りになって(いまさらそんな必要はないはずなのに)、事の善悪もわきまえずにひたすらお家の防衛に走っているだけの代物です。短いので、以下に全文を転載しましょう。

ちなみに私自身(小浜)は、このたびの総選挙における安倍自民党の政権公約、ことに即効性のある円高デフレ不況対策、景気浮揚なくして増税なしの鉄則の遵守、原発問題に対する空文句を排した現実的な対応、TPP参加に対する慎重な態度、などに賛同するので、安倍自民党を支持することをこの機会にはっきり表明しておきたいと思います。

さて榊原論文です。みなさん、よく注意してお読みください。書かれていることは論理破綻、ウソ八百、だましテクニックのオンパレードです。

金融政策、あるいは日本銀行をめぐる自民党の安倍晋三総裁の発言はかなりのインパクトを市場に与え、円相場は1ドル=82円台までの円安に振れ、株式市場はこれを好感して、日経平均株価は上昇した。12月16日の衆議院選挙で自民党が勝利し政権交代が実現する可能性が高いと思われているので、「次期総理」の発言は非常に重く受け止められたのだ。

円安、株高は結果としては悪いことではなかったが、こうした発言は成熟した先進国では禁じ手に近い。日本銀行も米連邦準備制度理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)も、政治から独立した「中立性」を維持してきたからこそ、市場に強く信頼されてきた。新興市場国や発展途上国ならともかく、先進国では中央銀行は政治から独立した存在だ。

政府と中央銀行ではインフレターゲットを共有するなど、中央銀行の中立性を侵さない範囲での協調はあり得るし、過去にも行われた例はあるが、今回の安倍発言は、日銀法改正にまで言及するなど、あまりに乱暴である。

安倍総裁が日本経済の先行きに「懸念」を持っていることは理解できる。さらなる金融緩和が必要と考えている人たちも決して少なくない。が、そのことと、中央銀行の中立性を放棄させてまで政治家が特定の政策を金融当局に強制することとは別の事だ。

本来は日銀総裁と今後の財政金融政策について、穏やかに話し合う機会を頻繁に持つようにするのが筋だろう。しかし、その場合も日銀総裁は政治的スタンスはとれない。むしろ、安倍総裁が日銀の説明を聞くといった範囲にとどめるべきだといえよう。

白川方明(まさあき)日銀総裁の任期は来年春までで、総裁の任命権は政府にある。政権交代が実現すれば、次期首相は日銀総裁の任命権者になる。ただし、衆議院および参議院の同意が必要だ。現在、参議院では、自民党も民主党も、単独では過半数の議席をもたないし、自民党と公明党を足しても過半数には届かない。ということは、今回の衆議院選挙の結果がどうなろうとも、次期総裁の選出は慎重に行われないと参議院で否決される可能性があるということだ。

過去、政府が国会に提出した武藤敏郎(日本銀行副総裁)、田波耕二(国際協力銀行総裁)の日銀総裁人事案は、いずれも参議院で否決されている。衆院選で自民党が勝利し、安倍政権が実現したとしても、総裁任命人事は他の政党の協力が必要になる。

客観的に誰が見てもこの人ならという人物を選ばないと、承認はそう簡単にはいかないだろう。その意味でも、現在の段階で安倍総裁が日本銀行や金融政策について多くを発言することは望ましくないのではなかろうか。

日本の場合、中央銀行だけでなく、行政府、つまり各省庁の人事もほとんど政治色がない。各省とも、次官や局長は長い間の人事の展開の中で政治状況とはそれほど関係なく決まってきている。2009年に自民党から民主党へ政権交代をした後でも、各省の人事は大きく動いていない。つまり、中央銀行のみならず官僚機構も、日本では政治からそこそこの中立性を維持してきたのだ。

アメリカで大統領が代わると、各省の次官だけでなく次官補、次官補代理クラスまで大きく代わるのと対照的な構図だ。アメリカのように少なくとも官僚機構は(政治化)すべきだという意見もありうるだろう。そうしなければ、首相や大臣たちが行政機構を思うように動かせないからだ。

しかし、日本では少なくとも今まではそうなってはいないし、将来、これが大きく変わるとも思えない。06年9月26日、安倍首相が就任してから約6年で首相は6人目。平均在任期間は1年強だ。閣僚の在任期間はさらに短く、財務省で7・4カ月。これでは、総理大臣も各省大臣も行政を大きく動かすことはできない。

好むと好まざるとにかかわらず、日本の政治、行政はほとんどの時期、中立的な官僚機構によって動かされてきたのだ。5年強在任した小泉純一郎首相、あるいは中曽根康弘首相はそれなりのインパクトを政治、行政にもたらしたが、他の首相たちは任期も短く、そのリーダーシップは基本的に官僚に依存したものだったということができるのだろう。

これだけ首相が頻繁に代わっているのに、政府、行政に目立った混乱がないのは、官僚機構が中立的でかつ安定的だからということができる。元官僚の筆者にはかなりのバイアスがあるかもしれないが、これが日本の政治・行政の強みだろう。半面、大きく方向を変えようというときは、このシステムはマイナスに働く可能性が強い。中立的、安定的な官僚機構に革命はできないからだ。

しかし、いずれにせよ、中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試みは危ういし、また、成功もしないだろう。


では、まずみなさんにクイズ。この短い文章に「中立性」「中立的」という言葉が計何回出てくるでしょう。

はい正解。なんと7回ですね。

これは何を意味しているかというと、官僚が政治的中立性を確保・維持できていたからこそ、日本の行政は何とか機能してきたので、したがって、頻繁な政権交代があっても、それとは関係なく国民生活もうまく保たれてきたということを強調しているわけです。昔から「日本は官僚がしっかりしているからもっているんだ」というよく聞くセリフと同じですね。

たしかに、地方官僚もふくめて、全体としては、日本の官僚は今でも少ない人数でじつによく働き、しかも諸外国に比べて賄賂や汚職が少なく、かつ有能な人が多い。私は2009年4月から2012年3月まで横浜市の教育委員を務めましたが、そのささやかな経験で得た実感からもこれは言えることです。

ちなみに私は、近頃珍奇な合流によって成立したばかりの「日本何とかの会」のように、中央官僚一般の役割を否定して、中央政府の大切さを無視するような粗雑なスローガンにまったく与しません。このスローガンは、三つの点で間違っています。

一つ目。現在の一部の中央官僚の存在が国民生活にとって障害になっているという事実があったからといって、そこからは中央官僚体制一般を否定するという論理はけっして導けません。メンバーを入れ替えたり組織体質を改善すれば解決可能な問題です。「日本何とかの会」は、現在の具体的で個別的な課題として改革すれば済む問題を、全体の形式一般を壊すべきだというように、すっかりはき違えているのです。

二つ目。この「日本何とかの会」の中央官僚打破の方針は、東西両大都市の行政ボスが結託して地域主権や道州制を確立しようという意図のもとに仕組まれたものです。たしかに地方には地方固有の課題があり、ある部分は地方行政に任せた方が効率的で効果的という部分はあるでしょう。しかし、複数の地方にまたがって国全体の利害にかかわる重要課題は、国家の意思決定としての中央政府が責任をもって取り組まなければ解決できませんし、また財政の重要部分を地方に任せると、ただでさえ進んでいる都市と地方との格差がますます開いてしまうことは明らかです。お金の適切な配分を決める役割を国が握っていないと、地域間の紛争解決ができず、力の勝負になってしまうのです。この方針は、下手をすると堅実な国家体制そのものを崩壊に導きます。

三つ目。現在の「日本何とかの会」の現状刷新ムードが、民主党の大失政に乗じて作られてきたことは明瞭です。民主党政治を解体させることは大いに結構ですが、始末の悪いことに、このムードは、日本人にとって伝統的な(悪い伝統ですが)、「お上を引きずりおろせ」という野卑で粗雑な感情的動機と強く結びついています。これは、官僚や政府要人、国会議員らが高給を取ったり天下りしたり高額の歳費を使うのを「根絶」することを目指しているので、国民感情に適合しやすい。

折からこの不景気です。苦しんでいるのは、非自発的な失業者ばかりではありません。民間労働者、特に若年層は低賃金で過酷な労働を強いられ、いやならやめろという状況です。彼らにはいま、相当な不満がたまっていると想定されます。そういう時に、安定していて相対的に高給を取っているお役人がうらやましく見えるのは当然です。羨望は往々にして怨念(ルサンチマン)に変化します。現在の因循姑息(いんじゅんこそく)な財政担当者たちは、この怨念のガス抜き効果を狙って、自分たちもムダをなくして節約しますからどうぞ増税を受け容れてくださいと、国民だましのトリックを用いているのです。そして肝心の不況対策に関しては、何ら有効な手を打てないし、打とうともしない。

「日本何とかの会」も、根がポピュリズムそのものですから、このトリックにすっかり引っかかってしまっています。しかし、このトリックを用いているのは、あくまで財務省、日銀の現在の担当者たちであって、中央官僚体制一般が間違っているわけではありません。そこを混同しているのが、「何とかの会」をはじめとした中央政治批判者たちの致命的な欠陥です。人事を刷新し、少々法律をいじれば、大胆な政策によって劇的に景気回復を実現することは十分に可能なのです。

さて本題の榊原論文です。

さらなる金融緩和と日銀の国債買いオペ強化、日銀執行部人事の刷新、マイナス金利政策の実施、公共投資の大幅拡大、2%のインフレターゲットの設定、日銀法の改正などに言及した安倍自民党総裁の発言は、きわめて時宜にかなったものです。これ以外に日本の経済的窮境を救う手は、中央政治がなしうる方法としてはほかに考えられません。そればかりではありません。公共投資の拡大は、震災復興や防災体制の確立、劣化しつつあるインフラのメンテナンスなど、焦眉喫緊の課題を解決するために必要不可欠なのです。

それなのに、榊原氏は、「こうした発言は成熟した先進国では禁じ手に近い。日本銀行も米連邦準備制度理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)も、政治から独立した『中立性』を維持してきたからこそ、市場に強く信頼されてきた」と、専門家ぶってウソ八百の一発目をかましています。

この榊原発言は、事実とまったく相違して、日銀がいくら十兆円規模の融資枠拡大を試みても、市場、ことに投資家たちはもともと今の日銀など信頼していませんから、株価も上がらず、為替も円高のままでした。投資家たちの反応は正直なるかな、安倍総裁が発言しただけで、現に金融市場は大きく好感し、株高、円安に動いたではありませんか。自己保身に走るしか能のない白川総裁は、この事態に狼狽して、さっそく「2%は非現実的だ」などと反論しましたが、なんの効果もありませんでしたね。

外国の事情はどうでしょう。ECBはともかく、FRBはアメリカ国内の生産力増強、景気回復のために一貫してインフレターゲットを高く設定してお札を刷りまくってきました。これは、アメリカの底力を考えれば、国際的には必然的にドル安に結びつきます。ですから、これまで国民の消費力に頼っていた輸入重視の経済政策から輸出重視に切り替えようとしている連邦政府の方針と軌を一にするものであって、結果的に、無策の日本にとっては、対ドル超円高となって現われることになります。これがどうして政治から独立した「中立性」なのでしょうか。むしろ国益にかなう積極的な政治手法ではありませんか。

そもそも、政府の財政政策と密接に絡み合っている中央銀行の金融政策が、政治から「中立」を保つことなどあり得ません。両者は連係プレーであってこそ意味をもつのです。このことをよくわきまえなかった先例に、EUの失敗があります。通貨統一をして金融政策権はECBが握っていながら、財政政策は各国の主権に任されている。これでは混乱が起きて当然です。中央銀行の対策は、政府の政策と独立になしうるものなどではなく、マクロ的な経済対策は、そのまま政治的な対策なのです。したがって、日銀の無能無策も、その政治責任を厳しく問われなくてはなりません。

次です。

政府と中央銀行ではインフレターゲットを共有するなど、中央銀行の中立性を侵さない範囲での協調はあり得るし、過去にも行われた例はあるが、今回の安倍発言は、日銀法改正にまで言及するなど、あまりに乱暴である。

どうして乱暴なのですか。いまは選挙運動期間中ですよ。ある政党が、現在の中央政治の体たらくをこのように変える、と一定の政治理念をもって宣言するのは当たり前ではありませんか。どこの政党だってやっていることです。それともなんですか、榊原さん、民主党が政権を取るために、「中立的」であるはずの官僚行政への介入を意味する「政治主導」とやらをマニフェストに書き込んだことは、乱暴ではないとでもいうのですか。できもしないこんなことを書く方がよっぽど乱暴ではありませんか。

次です。

安倍総裁が日本経済の先行きに「懸念」を持っていることは理解できる。さらなる金融緩和が必要と考えている人たちも決して少なくない。が、そのことと、中央銀行の中立性を放棄させてまで政治家が特定の政策を金融当局に強制することとは別の事だ。

よろしいですか。いま安倍自民党は、政権を取ったらこうする、と言っているのであって、何も「強制」などしていません。しかし、国民の信任を受けて政権を取った暁には、日銀の側から「強制」と見えることでも、政策の実現のために法的に許された権限内で介入的な措置を取るのは当然のことです。現に民主党政権は、「事業仕分け」というかたちで行政当局に「強制」的な介入を行ったではありませんか。派手なパフォーマンスだけの何の意味もない「強制」でしたけどね。

中央行政当局と金融当局とは違うなんて屁理屈は聞きませんよ。いま述べたように、国の命運を左右するマクロの政策を行うという意味で、両者は同じ重みをもっています。ある政党が政権を取った場合、政権の権限内で金融当局のあり方を改善しようとする、人事を変えたり法改正に乗り出したりする、これは国民の意志を正しく政治に反映させるための王道でしょう。自由な立場の言論人であるはずの榊原さん、中立、中立と、実質的には無意味な理念を振りかざして、請われたわけでもないのに「お家を守る」走狗の役割を買って出るのはおやめになったらいかがでしょうか。いや、もしかしたらその筋から請われているのかな?

もっといけないのはその次です。

本来は日銀総裁と今後の財政金融政策について、穏やかに話し合う機会を頻繁に持つようにするのが筋だろう。しかし、その場合も日銀総裁は政治的スタンスはとれない。むしろ、安倍総裁が日銀の説明を聞くといった範囲にとどめるべきだといえよう。

この文章は論理がめちゃくちゃですね。榊原さんの頭はすっかり混乱しています。安倍総裁が現在の野党の立場で「穏やかに話し合う機会を頻繁に持つ」べきだと言っているのか、それとも首相になってからそうすべきだと言っているのか。後者の場合ですら、そんな悠長なことに終始していたら、いまの日銀総裁のひどさを目の当たりにしている私どもとしては、日本経済はどんどん悪化の一途をたどると断定せざるを得ません。いわんや、投票日を目前に控えた前者の場合においてをや。

日銀総裁が政治的スタンスがとれない(実際にはそんなことはないのですが)からといって、安倍総裁がどうして日銀の説明を聞くだけの範囲にとどめなくてはならないのですか。いつの間にか、主体が白川さんから安倍さんに入れ替わっていますね。もし両方ともそういうことしかできないなら、中央政治は、こと金融政策に関して何もできないと言っているに等しいではありませんか。

もう少し続けましょう。

過去、政府が国会に提出した武藤敏郎(日本銀行副総裁)、田波耕二(国際協力銀行総裁)の日銀総裁人事案は、いずれも参議院で否決されている。衆院選で自民党が勝利し、安倍政権が実現したとしても、総裁任命人事は他の政党の協力が必要になる。

客観的に誰が見てもこの人ならという人物を選ばないと、承認はそう簡単にはいかないだろう。その意味でも、現在の段階で安倍総裁が日本銀行や金融政策について多くを発言することは望ましくないのではなかろうか。

これまたひどい言い分です。なんで承認が簡単にいかないから一政党の党首が日銀や金融政策について発言することが「望ましくない」のか。全然論理が通りません。簡単にいかないからあきらめろと言っているのと同じですね。

まず、過去の武藤、田波両氏の人事案否決のいきさつですが、月刊誌『正論』2013年1月号掲載の上念司氏の論文(「正論壁新聞」)によれば、民主党こそが不同意を連発したのであり、受験秀才であるだけで何の決断力もない白川さんを選んだのは、なんと民主党のなかの極左ボス、仙石由人氏だそうです。

あまり陰謀史観的な雑な言い方はしたくないのですが、この上念氏の指摘が正しいなら、白川総裁は国内反日勢力の傀儡(かいらい)であったということになります。榊原さんのここでの文脈からすれば、白川さんこそ「客観的に誰が見てもこの人ならという人物」ということになりますから、榊原さんは、「客観的」とか「中立的」とかいう評価によって、自分では政治的決断が何もできず反日勢力に利用されるだけの無能力者こそ、日銀総裁にふさわしいと言っていることになりますね。

だいたい、「客観的に誰が見てもこの人ならという人物」なんて、この世に存在するんですか。私が許せないのは、こういう幼稚な「科学主義」の論理を人間世界に当てはめて通用すると思っている榊原さんの安っぽいデマゴギーなのです。

きちんと読む読者の目はごまかせませんよ。榊原さんは結局何が言いたいのか。安倍総裁の論鋒の鋭さにたじたじとなっている自分の怯えを隠すために、「客観的」と称して、日銀総裁人事の承認が簡単にいかないという事実を隠れ蓑にしつつ、しかも、いかにも安倍さんのために言ってあげるという体裁を保ちながら、じつは、安倍自民党の台頭を抑えたくてしょうがないということです。だったらそう言えばいいのに。

これって、「中立的」とはほど遠く、とても「政治的」なことですね。一見ソフトで手の込んだ、しかしよく見れば言論の自由を弾圧する思想の片鱗がうかがえます。なぜかと言えば、論理に論理を対置して対等に渡り合うのではなく、「きみきみ、いまそれを言っても通らないし、ためにならないよ」といったおためごかしによって、討論相手を懐柔しようとする狡猾な「大人の手口」が見え見えだからです。結果的にレイム・ダック(死に体)の民主党を擁護する形にしかなっていません。

はっきり安倍自民党の政権公約にはこれこれの理由で賛成できないというなら、たとえその思想が極左であろうとかまわないのです。互いに堂々とやり合えば済む話ですから。しかしここでの榊原さんの言説は、知識人の「中立性」の装いを悪用した欺瞞性に満ち溢れています。かつて日本の国益のために、したたかなアメリカ経済人と対等に渡り合った闘将・榊原財務官、いまいずこ。

最後です。

これだけ首相が頻繁に代わっているのに、政府、行政に目立った混乱がないのは、官僚機構が中立的でかつ安定的だからということができる。元官僚の筆者にはかなりのバイアスがあるかもしれないが、これが日本の政治・行政の強みだろう。半面、大きく方向を変えようというときは、このシステムはマイナスに働く可能性が強い。中立的、安定的な官僚機構に革命はできないからだ。

しかし、いずれにせよ、中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試みは危ういし、また、成功もしないだろう。


これはまた、官僚機構の体質がこうだから変えようとするのはやめなさいと言っているだけですね。ただの現状追随主義です。加えて、ここでも論理破綻は明瞭です。

「中立的、安定的な官僚機構に革命はできない」のは当たり前です。誰も官僚機構に革命をやってくれなどと要求していない。もし現在の官僚機構に欠陥があるなら(機構そのものに欠陥があるのではないことはすでに述べましたが)、国民のマジョリティの意思を反映した政治の力によってこそ改善が可能なはずです。それを少しでも変えようという勢力が出てくると、すっかり慌てて、官僚は変わらないから変えられないと、おっとり刀で同義反復を繰り返す。それでは何も変わるはずがないし、政治の無力をいっそう印象づけるだけのことです。

では榊原さん、あなたは民主党が「政治主導」を唱えたときに、それは無理だからやめておきなさいと忠告したのですか。寡聞にして私はそれを知りませんが、もしそれをやっていたのでしたら、あなたの言う「中立性」「客観性」を少しは信用することにしましょう。

榊原さんは、安倍総裁の発言に「中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試み」を見ているようですが、安倍総裁の主張はけっして「過度」ではありません。そもそも「過度」ならダメで「穏健」ならいいといった定量的な問題提起で済む話ではなく、なぜ安倍自民党が、ちまちました金融緩和や為替介入ではいまの日本の経済的苦境、国民の生活難を克服できないと考えて、くだんの主張をしているのか、その具体的な「質」をめぐって、定性的な議論をするべきでしょう。

しかし、榊原さんのこの論稿は、少しもそれについて触れていませんね。それではまともな議論はできません。こういうお家意識丸出しの官僚OBの言い分に出会うと、ああ、やっぱり秀才官僚ってダメなのね、という粗雑な括り方をしたくなってしまいます。どうかそうさせないように、優秀な元官僚としての豊富な経験と経済知識を存分に駆使して、安倍自民党の主張は、これこれこういう理由で日本国民の今後の生活にとっていい結果をもたらさないのだという説得力ある論を展開してください。そうして、経済音痴である私たちをしっかり啓蒙してください。それでこそ経済畑出身の知識人の誇りが保てるというものでしょう
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前代未聞の記者会見 あっと驚く石原党首発言 (イザ!ブログ 2012・12・1 掲載)

2013年12月04日 21時26分55秒 | 政治
石原慎太郎は、日本維新の会の代表です。つまり、れっきとした党首です。しかし、以下に掲げる記事によれば、彼はなんと自党の選挙公約の内容をまったく知りません。それどころか、その内容を記者たちから知らされると(それにもビックリですが)、それに反対の意を表するというオマケまで付きました。また、日本維新の会の経済政策はすべて竹中平蔵の発案であり、自分は竹中氏を嫌っているとも発言しました。これで、少なくとも次の四つが判明したことになります。

①日本維新の会は、その党首が自党の選挙公約を知らないデタラメな政党であること。そこには、政治倫理のカケラもありません。

②日本維新の会の事実上のリーダーである橋下徹氏は、票集めのためだけに石原氏を党首に据えたこと。彼は、理念も政策もどうでもいいと政 治を舐めきり、腹の底で国民を愚弄し切ったヤクザな政治家であること。

③日本維新の会の経済政策を牛耳っている竹中平蔵氏は、貧困問題に取り組む気などまったくない、冷血なゴリゴリの新自由主義者であるこ  と。

④石原慎太郎氏は、中央官僚憎し、自民憎し、息子可愛やの私情だけで、あまり深い考えもなく国政に打って出たこと。

③については、竹中氏の次の文章を付け加えておきます。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。(toyokeizai.net/articles/-/11927「新世代リーダーの条件 私のリーダー論」11月30日)

私には、これが正常な価値観の持ち主によって書かれた文章であるとうは到底思えません。

私は、こういう事実を知ってもなお維新の会を支持し続ける人たちの気が知れません。そういう人々が、有権者のなんと10%以上を占めているのです。デフレ不況という異常事態が常態化したことに基因する、一種の社会病理現象として捉えるのが妥当なのではないかと思います。

そういう人々の意思決定には理屈などありません。私はそこに、心理学者ユングのいう自律化した無意識のコンプレクスの所在を感じます。政治における「暴力」を不自然なほどに排除し続けてきた戦後支配思想の「意識の一面化」によってもたらされた、という側面も無視し難いものとしてあるのかもしれません。

それとは別に、石原慎太郎という人はどこか憎めないところがあります。小細工を弄さない人なのです。それが、彼の人気の源泉なのかもしれません。維新の会の正体を図らずもバラしてくれた人、第三極の虚構を思わず知らず暴き出した人として、私は拍手を送ります。

彼は、都知事の職を放り出してやみくもに国政に打って出ることで、晩節を汚してしまいました。「石原、老いたり」の感慨が湧いてきます。これから死ぬまで、彼には恥まみれの日々が残されているだけなのではないでしょうか。そうやって、人生のバランス・シートは帳尻が合うようになっているようです。

**********

石原代表は30日、自由報道協会主催の記者会見で、

同党の衆院選公約に明記された解雇規制の緩和や最低賃金制の廃止について「知らない、なんて書いてあるの?」と述べ、公約内容を把握していないことを明らかにしました。

石原氏は、記者からこれらの政策を実行すれば「貧困が底なしになる」と指摘されると、「それはまずいわね」と表明。

石原氏はまた、「俺は竹中(平蔵慶応大学教授)って好きじゃないんだよ。あれが、こういうものを全部書いている」と内幕を明かしました。

竹中氏は貧困と格差を拡大させた小泉「改革」の中心人物。日本維新の会では衆院選候補者の選定委員長を務めています。

石原氏は、小泉改革と同様になるのではと問われると、「まったくそうですよ。あんまり竹中を信じるなと言っているんだ」と述べました。



http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-01/2012120104_04_1.html

また、こんな記事もありました。ひどいもんです。維新支持者は、これらの事実を知っているのでしょうかね。私が石原慎太郎だったら、恥ずかしくって穴があったら入りたくなること請け合います。いまの彼には、国政を担う能力などまったくありません。彼から言霊は去ってしまったのです。

********************

維新新・石原代表

“原発ゼロ”公約知らず 最賃廃止知らない
記者失笑

日本記者クラブ主催の党首討論に参加した「日本維新の会」代表の石原慎太郎前東京都知事。衆院選公約で「既設の原発は2030年代までにフェードアウト(消失)」するとしていることを記者から問われ、「それは違う。公約は書き直させた」と答えると、失笑をかいました。
自党が掲げた公約にもかかわらず、「フェードアウトってどういうことですか」と記者に問いただす石原代表。原発ゼロは「願望」などと批判して「公約は直させました」と強調。「直っていないから直してください」といわれて、「わかりました」と答えると記者席からどよめきが起こりました。


石原氏も同席して、橋下徹代表代行・大阪市長と、衆院選公約「骨太2013―2016」と「政策実例」を発表したのは党首討論の前日のことです。その公約を簡単に投げ捨てるとはあまりにも有権者を愚ろうする態度です。


橋下代表代行も公約発表の席で、「マニフェストってどこまで重要視しなきゃいけないんですか」と無責任な姿勢を示していましたが、有権者そっちのけの離合集散を繰り返す党の本質を表しています。
  www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-12-01/2012120104_04_1.html


情報ソースは、いずれも「赤旗」なんですね。赤旗も、たまにはいい仕事をするのですね。

有権者にとってトップクラスの重要性を有する情報を、大手新聞五社は、いずれも報じていないわけです。これも、維新を後押しする露骨な偏向報道のひとつの形です。先ほど私は、「こういう事実を知ってもなお維新の会を支持し続ける人たちの気が知れません」と申し上げました。私は、「こういう事実」をなるべく知らされないことで、一般国民は維新支持を変更する正当な機会を、大手マスコミから奪われていると言い直すべきでしょう。背中に薄ら寒さを感じるのは、私だけでしょうか。

そこで、次の記事。古賀氏は、明言はしていませんが、石原発言に腹を据えかねての発言であると受けとめるべきでしょう。これから維新の会で、ひと悶着ありそうです。主義主張の異なる者たちの寄り合い所帯の弊害を、私たちは、民主党政権の三年間で、思い知らされたはずではありませんか。維新は、選挙後に、民主党以上の醜態を晒すのではないかと私は思っています。「たちあがれ」のご老人たちと橋下氏とでは水と油に決まっているでしょう。

*************

古賀顧問「橋下氏は老人たちと決別を」

2012.12.1 23:38 [west政治]

大阪府市特別顧問の古賀茂明氏

大阪府市特別顧問の古賀茂明氏は1日、日本維新の会代表代行の橋下徹大阪市長に対し「間違えたということはよくお分かりだと思う。理念も政策も違う石原慎太郎さんや旧たちあがれ日本の老人たちと決別してください」とする文章を短文投稿サイト「ツイッター」に投稿した。 (産経msnニュースより)


ちなみに情報ソースとしての彼のツイートは次のとおりです。

古賀茂明‏@kogashigeaki
橋下さんへの切なるお願い その1: 間違えたということはよくお分かりだと思います。理念も政策も違う石原さんや旧たちあがれ日本の老人たちと決別してください。そして、みんなの党と選挙協力をやり直してください。そうすれば、国民は付いて来ます。

古賀茂明‏@kogashigeaki
橋下さんと石原さん。「ロミオとジュリエットの許されない愛みたいだ。結婚しようとすると悲劇になる。」と大阪ABCのキャストでだいぶ前に警告しましたが、心配が的中してしまいました。維新の家訓とたちあがれの家訓は真逆。離婚するなら、早い方がいいと思います。最後の頑張りに期待します

一部に、彼を中央官僚の横暴に反旗を翻した人として英雄視する向きがあるようです。しかるに私は、彼を中央官僚に対するルサンチマン(うらみつらみ)で心がいっぱいのつまらない人だと思っています。言いかえれば、ノーブレス・オブリージュ(エリートとしての高度な責任感)の欠如した、志の低い人であると思っています。『TPP亡国論』の中野剛志さんは、通産官僚に戻る前に「アイツと俺を一緒くたにされては困る」という趣旨の発言をしています。どうでしょう、古賀さんって、見るからに根が暗そうではありませんか?

近ごろ、国政に関わるリーダーの必須の要件の一つは、健全な「余裕ある」心の持ち主であることではないかと思い始めています。ジュリアス・シーザーは、おそらくそういう人物だったのではないでしょうか。
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