先崎氏は、当ブログの常連執筆陣です。また、読書会でお会いしたことも何度かあります。だから、その人となりの少なくとも一端は知っているつもりです。それを無視して、クールな書評を展開することも可能なのでしょうが、自然体を大切にしたいと思っている私としては、どうも気が進みません。
彼は、博覧強記の人です。また、情報収集能力がきわめて高い人でもあります。テクノクラート的ないわゆる「エリート脳」の持ち主であると言っていいでしょう。そのことは、先崎氏ご自身自覚なさっているものと思われます。つまり、平たく言えば「物ごとのよく分かる、頭のいい人」なのです。
しかしおそらく、そこに彼のアイデンティティはないはずです。そこにアイデンティティを見出すには、彼のハートはあまりにも温かい。彼はそれを人前で出すことを慎み深く控えていますが、彼に接した人は、その所在をそれとなく察することでしょう。
筆者が自分の魂の置き場所にしたいと思っているのは、おそらく、本書のテーマとなっているナショナリズムという言葉で差し示される何かです。だから、本書のタイトルである「ナショナリズムの復権」とは、深い意味で「私なるものの復権」でもあるのです。大急ぎでおことわりをしておきますけれど、この場合の「私」(わたくし)は、全体主義を呼び込みかねない個人主義的なニュアンスとは無縁のものです。
また、筆者にとって、政治がナショナリズムという言葉を専有している現状は、どうやら許容しがたいことであるようです。そこには、筆者独特の政治嫌悪が感じられます。その意味で、「ナショナリズムの復権」とは、筆者にとって、ナショナリズムを政治から思想・文化の側に奪還する試みでもあります。
そういう深いこだわりがあるからこそ、筆者は、ナショナリズムをめぐるさまざまな誤解を、丁寧に、ひとつまたひとつ解こうとします。自分が大切にしようとするものを守りぬこうとするとき、人は、ごく自然にそういう振る舞いをするものです。そのプロセスには、ハンナ・アーレント、吉本隆明、柳田国男、江藤淳、丸山眞男らの主著の大胆な読みかえ作業という知的試みが伴います。
筆者が解こうとする誤解の一つ目は、「ナショナリズム=全体主義」という等式です。その等式を破壊するために、筆者は、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を援用します。全体主義とは何か。筆者は次のように述べます。
全体主義を、トラヴェルソを参考に「独裁者の支配を歓迎する雰囲気、集団である」と定義しておいた。しかし今や、もう少し詳しい定義をすることができる。第一に、全体主義に雪崩れこむ人々の心は自閉的で孤独である。なぜなら彼らは過去とも他者とも断絶しているからだ。第二に、みずからの過去に対して否定的であり、つねに現在の自分に不満を抱えている。そして第三に、伝統と断絶し、不平をいだく人々は、つねに未来を求めて変化と移動を好んでいる。空洞と化した心のなかに、何かを受けいれることで安心しようとするのだ。そこにしのび寄るのが、人種主義であり擬似宗教なのである。それこそ全体主義だとアーレントは言ったのだ。
長々と引用したのには訳があります。この箇所の行間から、筆者の「全体主義は、私だ」というつぶやきが聴こえてくるような感触があるからです。過去や伝統から断絶した、バラバラで、いまの自分に不満を抱き、つねに未来を求めて変化と移動を好み、空洞と化していて、何かを受けいれることで安心しようとしている心性こそ、高度消費社会を担う消費者のそれにほかなりません。私たちはみな、高度消費社会の住まい人です。「アーレントが描いた魂の漂流者たちは、私でありあなたでもあるのだ」という、筆者の、小声ではあるが確信に満ちた声が、響いてくるような気がするのです。
とするならば、高度消費社会は、その核心部分において、全体主義を呼び込みかねない危険な社会である、となります。おそらく、筆者はそう考えているのでしょう。「根源とのつながりを断ち切られた存在は、危険きわまりない」と。次の引用に、筆者のそういう思いを読み込むと、ひときわ味わい深く感じられます。
安定した秩序と均衡を重視すること、運動や移動よりも土地に刻んできた歴史、祖先の営んできた労働を受け継ぐこと、これがナショナリズムなのである。定住こそ、ナショナリズムの第一の定義である。孤独に打ちひしがれた人間の無目的な運動とそれは対照的な立場のことだ。
筆者は、全体主義の概念を深堀し、そのイメージをより鮮明にするために、吉本隆明の『共同幻想論』を取り上げます。ここで筆者は、『共同幻想論』を全体主義論として読み替えようと試みて、興味深い視点を提示します。筆者は、『共同幻想論』において、「默契」と「タブー」とをきちんと腑分けすることで、全体主義を対象化する論が展開されているとするのですね。ここは、やや危なっかしい冒険であるような気もしますが、それゆえユニークであることは間違いありません。また、芥川龍之介の死の意味を突き詰めることによって、吉本は、個人幻想にこだわりすぎることには、人を自殺に追い込みかねない危険性が存するとしているとの指摘は、なかなか新鮮でした。言いかえれば、個人幻想への過度のこだわりは、心の空洞化を招き、それを埋めるために全体主義を呼び込みかねない危険性を有するというわけです。
次に、筆者が解こうとする誤解は、「ナショナリズム=宗教」という等式です。その等式を破壊するために、筆者は、ふたたび吉本隆明の『共同幻想論』に触れ、さらに柳田国男の『先祖の話』を取り上げます。
まずは、ハイデガーについて。筆者によれば、ハイデガーは死について次のように言っています。
要するに現存在は、何を可能性として選択したとしても、そもそもの始まりが無根拠なのだ。だから始めから負い目を背負いこんでいるし、不安でそわそわしている。死はこの現存在=人間の冷酷な事実を、私たちに明らかにしてしまうとハイデガーは言っているのである。
筆者によれば、吉本は、「他界」の問題を考えているうちに、ハイデガーの死についての考察があまりにも個人に焦点をしぼりすぎていることに違和感を抱くようになりました。それを筆者は、吉本の内言として、次のように表現します。
そうだ、他界は個人の死について考えている限り登場しない。あくまでも対幻想=家族の利害関係、そこから外れていく者たちが行きべき場所が他界なのである。そこは空間的な広がりをもち、村の各家の外れ者――六〇歳を過ぎた老人――を収容する場所である。だから村はずれ、村の利害関係のいちばん外側につくられる世界なのである。(中略)ハイデガーの死とは違う世界が、他界には広がっている。他界には、個人の肉体の死をこえた時間が続いている。しかも他界は村はずれにあって、土地に結びついている。
ポイントは、「土地に結びついている」です。ここを重視して、網野善彦の、定住=農本主義は否定されるべきであり移動漂白することこそ正しい、とする史観を否定的に取り上げたのち、筆者は、柳田国男の『先祖の話』に言及します。
『先祖の話』は昭和二〇年十月に刊行されましたが、柳田はこれを同年の四月から五月にかけて、連日の空襲下という異常な情況下で、書き続けました。アジア大陸や、南方や、アリューシャン列島で、若い兵士たちが戦い敗れて次々に死んでいきます。敗戦の色が濃厚であるとの情報は、柳田の耳にも届いていたはずである。それを踏まえて、筆者は、次のように言います。
一九四五年の敗戦が奪おうとしていたのは、人々の積みあげてきた秩序とつながり、そして世界観であった。そこに定住した者たちが、自然と話しあい、また戦いとってきた秩序を粉々にしてしまうかもしれなかった。
ここに、柳田の次の言葉を並べれば、筆者の思いは、より印象深いものとして、読み手に伝わるのかもしれません。
少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏教徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う。・・・・・ともかくも歎き悲しむ人がまた逝き去ってしまうと、程なく家なしになって、よその外棚を覗きまわるような状態にしておくことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途ではなく、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思う。
ごくおだやかな口ぶりではありますが、柳田はここでとても深いことを言っています。ここには、日本人の心の襞に息づいている生死観が織りこまれているのです。それは、言葉にすれば、こういうものです。
この島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。
筆者は、柳田のこういううるわしい言葉を、心のとても深いところで受けとめているはずです。
ここで、次のような疑問が浮かんでくるかもしれません。「筆者の言わんとするところは分かった。ところで、生死観とは広い意味で宗教に他ならないだろう。筆者は、どうやら柳田の言葉にナショナリズムの深い意味合いを読み取っているようだが、それは、生死観を含んでいるのだから、宗教でもある、となるのではないか。先ほどの「ナショナリズム=宗教」という等式を破壊するどころか、むしろ、その等式を強化してしまっているのではないか」と。
それに対しては、筆者に成り代わってこう申し上げておきましょう。土地に根ざした定住者のおのずからなる生死観は、むしろ、生身の人間を崇め奉る似非宗教を拒否する。だから、土地に根ざした定住者のおのずからなる生死観に立脚したナショナリズムは、そういう意味での宗教とはまったく別物なのである。それゆえ、「ナショナリズム=宗教」という等式は、根のところで破壊されうる、と。
さて、筆者が解こうとする最後の誤解は、「ナショナリズム=民主主義」という等式です。その等式を破壊するために、筆者は、江藤淳と丸山眞男の戦後評価を対比します。しかしながら、その詳細について述べてしまうと、この文章がネタバレ物になってしまう危険があります。すると、これを読んで本書の内容が分かったような気がして、本書を手に取らなくなる可能性がないわけではありません。それは、私の本意に反しますので、本書の内容についての話は、このくらいでやめておきます。
筆者は、本書において、現実離れをした観念的なナショナリズム論を展開しているのでしょうか。
そんなことはありません。本書でも言及されているように、国際政治学者の故高坂正堯氏は、国家を、利益の体系・力の体系・価値の体系の三つからなる、とします。戦後の日本は、ひたすら利益の体系を強化してきました。また、最近の中国の軍事力の脅威の高まりによって、力の体系の強化がクローズアップされています。いずれにしても、価値の体系としての国家がなおざりにされている状態に変わりはありません。本書での試みは、そういう状態を憂慮してのものである、と位置づけることができるでしょう。本書は、ごく現実的な問題意識に基づいて書かれているのです。
また、本書に対して、次のような反論がありえると思われます。すなわち、「柳田が『先祖の話』を書いた一九四五年当時、農業を含む第一次産業の就業人口は、全体のおよそ50%弱を占めていた。ところが、いまや第一次産業のそれは、5%に激減している。それに対して、いまや約65%ほどの人々は第三次産業に従事しているのである。だから、当時なら、『土地に根ざした定住者』を中心に考えることに妥当性があったことは認めるが、産業構造が激変した現代に筆者の話はマッチしない」と。
それに対して、私は、自分自身の問題意識に引き寄せて、次のように答えたいと思います。いずれの時代においても、人間の本質としての共同性に立ち帰ってものごとを考えるべきである、という真実に変わりはない。一九四五年当時においては、「土地に根ざした定住者」に視点を定めることが、そういう考え方にかなったことであった。産業構造が激変した今日においては、人間の本質としての共同性は、ひとそれぞれの生き方によって肉付けされるべきものである。その多様性に応じて、柳田的な視点を受けとめればいいのだ、と。
以上を踏まえたうえで、私は、筆者の果敢な試みを是とする者です。
〔付記〕
先日、古森義久・産経新聞記者のブログ「ステージ風発」の「靖国問題への内政干渉をやめろ」に次のようなコメントを送りました。上記とそれなりに関連するところがあるような気がしますので、掲げておきます。靖国問題に関するものです。
ケビン・ドーク氏の「国立追悼施設での代替は、より全体主義に陥りかねない」というご指摘に、ハッとさせられました。為政者の思惑が、伝統や慣習に根ざした魂の問題を左右するのを許すことは、全体主義に道を開きかねない危険でどこか醜悪な振る舞いであるということですね。とても腑に落ちる議論です。これが、国内の反日メディアの手にかかると、国立追悼施設での代替こそが、近隣諸国の被害感情に配慮した、世界平和に貢献する、民主的な素晴らしい方策である、という扱いになります。夢々だまされてはならないとあらためて思いました。