美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)について  (イザ!ブログ 2013・6・24 掲載)

2013年12月16日 15時27分09秒 | 文化


先崎氏は、当ブログの常連執筆陣です。また、読書会でお会いしたことも何度かあります。だから、その人となりの少なくとも一端は知っているつもりです。それを無視して、クールな書評を展開することも可能なのでしょうが、自然体を大切にしたいと思っている私としては、どうも気が進みません。

彼は、博覧強記の人です。また、情報収集能力がきわめて高い人でもあります。テクノクラート的ないわゆる「エリート脳」の持ち主であると言っていいでしょう。そのことは、先崎氏ご自身自覚なさっているものと思われます。つまり、平たく言えば「物ごとのよく分かる、頭のいい人」なのです。

しかしおそらく、そこに彼のアイデンティティはないはずです。そこにアイデンティティを見出すには、彼のハートはあまりにも温かい。彼はそれを人前で出すことを慎み深く控えていますが、彼に接した人は、その所在をそれとなく察することでしょう。

筆者が自分の魂の置き場所にしたいと思っているのは、おそらく、本書のテーマとなっているナショナリズムという言葉で差し示される何かです。だから、本書のタイトルである「ナショナリズムの復権」とは、深い意味で「私なるものの復権」でもあるのです。大急ぎでおことわりをしておきますけれど、この場合の「私」(わたくし)は、全体主義を呼び込みかねない個人主義的なニュアンスとは無縁のものです。

また、筆者にとって、政治がナショナリズムという言葉を専有している現状は、どうやら許容しがたいことであるようです。そこには、筆者独特の政治嫌悪が感じられます。その意味で、「ナショナリズムの復権」とは、筆者にとって、ナショナリズムを政治から思想・文化の側に奪還する試みでもあります。

そういう深いこだわりがあるからこそ、筆者は、ナショナリズムをめぐるさまざまな誤解を、丁寧に、ひとつまたひとつ解こうとします。自分が大切にしようとするものを守りぬこうとするとき、人は、ごく自然にそういう振る舞いをするものです。そのプロセスには、ハンナ・アーレント、吉本隆明、柳田国男、江藤淳、丸山眞男らの主著の大胆な読みかえ作業という知的試みが伴います。

筆者が解こうとする誤解の一つ目は、「ナショナリズム=全体主義」という等式です。その等式を破壊するために、筆者は、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を援用します。全体主義とは何か。筆者は次のように述べます。

全体主義を、トラヴェルソを参考に「独裁者の支配を歓迎する雰囲気、集団である」と定義しておいた。しかし今や、もう少し詳しい定義をすることができる。第一に、全体主義に雪崩れこむ人々の心は自閉的で孤独である。なぜなら彼らは過去とも他者とも断絶しているからだ。第二に、みずからの過去に対して否定的であり、つねに現在の自分に不満を抱えている。そして第三に、伝統と断絶し、不平をいだく人々は、つねに未来を求めて変化と移動を好んでいる。空洞と化した心のなかに、何かを受けいれることで安心しようとするのだ。そこにしのび寄るのが、人種主義であり擬似宗教なのである。それこそ全体主義だとアーレントは言ったのだ。

長々と引用したのには訳があります。この箇所の行間から、筆者の「全体主義は、私だ」というつぶやきが聴こえてくるような感触があるからです。過去や伝統から断絶した、バラバラで、いまの自分に不満を抱き、つねに未来を求めて変化と移動を好み、空洞と化していて、何かを受けいれることで安心しようとしている心性こそ、高度消費社会を担う消費者のそれにほかなりません。私たちはみな、高度消費社会の住まい人です。「アーレントが描いた魂の漂流者たちは、私でありあなたでもあるのだ」という、筆者の、小声ではあるが確信に満ちた声が、響いてくるような気がするのです。

とするならば、高度消費社会は、その核心部分において、全体主義を呼び込みかねない危険な社会である、となります。おそらく、筆者はそう考えているのでしょう。「根源とのつながりを断ち切られた存在は、危険きわまりない」と。次の引用に、筆者のそういう思いを読み込むと、ひときわ味わい深く感じられます。

安定した秩序と均衡を重視すること、運動や移動よりも土地に刻んできた歴史、祖先の営んできた労働を受け継ぐこと、これがナショナリズムなのである。定住こそ、ナショナリズムの第一の定義である。孤独に打ちひしがれた人間の無目的な運動とそれは対照的な立場のことだ。

筆者は、全体主義の概念を深堀し、そのイメージをより鮮明にするために、吉本隆明の『共同幻想論』を取り上げます。ここで筆者は、『共同幻想論』を全体主義論として読み替えようと試みて、興味深い視点を提示します。筆者は、『共同幻想論』において、「默契」と「タブー」とをきちんと腑分けすることで、全体主義を対象化する論が展開されているとするのですね。ここは、やや危なっかしい冒険であるような気もしますが、それゆえユニークであることは間違いありません。また、芥川龍之介の死の意味を突き詰めることによって、吉本は、個人幻想にこだわりすぎることには、人を自殺に追い込みかねない危険性が存するとしているとの指摘は、なかなか新鮮でした。言いかえれば、個人幻想への過度のこだわりは、心の空洞化を招き、それを埋めるために全体主義を呼び込みかねない危険性を有するというわけです。

次に、筆者が解こうとする誤解は、「ナショナリズム=宗教」という等式です。その等式を破壊するために、筆者は、ふたたび吉本隆明の『共同幻想論』に触れ、さらに柳田国男の『先祖の話』を取り上げます。

まずは、ハイデガーについて。筆者によれば、ハイデガーは死について次のように言っています。

要するに現存在は、何を可能性として選択したとしても、そもそもの始まりが無根拠なのだ。だから始めから負い目を背負いこんでいるし、不安でそわそわしている。死はこの現存在=人間の冷酷な事実を、私たちに明らかにしてしまうとハイデガーは言っているのである。

筆者によれば、吉本は、「他界」の問題を考えているうちに、ハイデガーの死についての考察があまりにも個人に焦点をしぼりすぎていることに違和感を抱くようになりました。それを筆者は、吉本の内言として、次のように表現します。

そうだ、他界は個人の死について考えている限り登場しない。あくまでも対幻想=家族の利害関係、そこから外れていく者たちが行きべき場所が他界なのである。そこは空間的な広がりをもち、村の各家の外れ者――六〇歳を過ぎた老人――を収容する場所である。だから村はずれ、村の利害関係のいちばん外側につくられる世界なのである。(中略)ハイデガーの死とは違う世界が、他界には広がっている。他界には、個人の肉体の死をこえた時間が続いている。しかも他界は村はずれにあって、土地に結びついている。

ポイントは、「土地に結びついている」です。ここを重視して、網野善彦の、定住=農本主義は否定されるべきであり移動漂白することこそ正しい、とする史観を否定的に取り上げたのち、筆者は、柳田国男の『先祖の話』に言及します。

『先祖の話』は昭和二〇年十月に刊行されましたが、柳田はこれを同年の四月から五月にかけて、連日の空襲下という異常な情況下で、書き続けました。アジア大陸や、南方や、アリューシャン列島で、若い兵士たちが戦い敗れて次々に死んでいきます。敗戦の色が濃厚であるとの情報は、柳田の耳にも届いていたはずである。それを踏まえて、筆者は、次のように言います。

一九四五年の敗戦が奪おうとしていたのは、人々の積みあげてきた秩序とつながり、そして世界観であった。そこに定住した者たちが、自然と話しあい、また戦いとってきた秩序を粉々にしてしまうかもしれなかった。

ここに、柳田の次の言葉を並べれば、筆者の思いは、より印象深いものとして、読み手に伝わるのかもしれません。

少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏教徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う。・・・・・ともかくも歎き悲しむ人がまた逝き去ってしまうと、程なく家なしになって、よその外棚を覗きまわるような状態にしておくことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途ではなく、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思う。

ごくおだやかな口ぶりではありますが、柳田はここでとても深いことを言っています。ここには、日本人の心の襞に息づいている生死観が織りこまれているのです。それは、言葉にすれば、こういうものです。

この島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

筆者は、柳田のこういううるわしい言葉を、心のとても深いところで受けとめているはずです。

ここで、次のような疑問が浮かんでくるかもしれません。「筆者の言わんとするところは分かった。ところで、生死観とは広い意味で宗教に他ならないだろう。筆者は、どうやら柳田の言葉にナショナリズムの深い意味合いを読み取っているようだが、それは、生死観を含んでいるのだから、宗教でもある、となるのではないか。先ほどの「ナショナリズム=宗教」という等式を破壊するどころか、むしろ、その等式を強化してしまっているのではないか」と。

それに対しては、筆者に成り代わってこう申し上げておきましょう。土地に根ざした定住者のおのずからなる生死観は、むしろ、生身の人間を崇め奉る似非宗教を拒否する。だから、土地に根ざした定住者のおのずからなる生死観に立脚したナショナリズムは、そういう意味での宗教とはまったく別物なのである。それゆえ、「ナショナリズム=宗教」という等式は、根のところで破壊されうる、と。

さて、筆者が解こうとする最後の誤解は、「ナショナリズム=民主主義」という等式です。その等式を破壊するために、筆者は、江藤淳と丸山眞男の戦後評価を対比します。しかしながら、その詳細について述べてしまうと、この文章がネタバレ物になってしまう危険があります。すると、これを読んで本書の内容が分かったような気がして、本書を手に取らなくなる可能性がないわけではありません。それは、私の本意に反しますので、本書の内容についての話は、このくらいでやめておきます。

筆者は、本書において、現実離れをした観念的なナショナリズム論を展開しているのでしょうか。

そんなことはありません。本書でも言及されているように、国際政治学者の故高坂正堯氏は、国家を、利益の体系・力の体系・価値の体系の三つからなる、とします。戦後の日本は、ひたすら利益の体系を強化してきました。また、最近の中国の軍事力の脅威の高まりによって、力の体系の強化がクローズアップされています。いずれにしても、価値の体系としての国家がなおざりにされている状態に変わりはありません。本書での試みは、そういう状態を憂慮してのものである、と位置づけることができるでしょう。本書は、ごく現実的な問題意識に基づいて書かれているのです。

また、本書に対して、次のような反論がありえると思われます。すなわち、「柳田が『先祖の話』を書いた一九四五年当時、農業を含む第一次産業の就業人口は、全体のおよそ50%弱を占めていた。ところが、いまや第一次産業のそれは、5%に激減している。それに対して、いまや約65%ほどの人々は第三次産業に従事しているのである。だから、当時なら、『土地に根ざした定住者』を中心に考えることに妥当性があったことは認めるが、産業構造が激変した現代に筆者の話はマッチしない」と。

それに対して、私は、自分自身の問題意識に引き寄せて、次のように答えたいと思います。いずれの時代においても、人間の本質としての共同性に立ち帰ってものごとを考えるべきである、という真実に変わりはない。一九四五年当時においては、「土地に根ざした定住者」に視点を定めることが、そういう考え方にかなったことであった。産業構造が激変した今日においては、人間の本質としての共同性は、ひとそれぞれの生き方によって肉付けされるべきものである。その多様性に応じて、柳田的な視点を受けとめればいいのだ、と。

以上を踏まえたうえで、私は、筆者の果敢な試みを是とする者です。

〔付記〕

先日、古森義久・産経新聞記者のブログ「ステージ風発」の「靖国問題への内政干渉をやめろ」に次のようなコメントを送りました。上記とそれなりに関連するところがあるような気がしますので、掲げておきます。靖国問題に関するものです。

ケビン・ドーク氏の「国立追悼施設での代替は、より全体主義に陥りかねない」というご指摘に、ハッとさせられました。為政者の思惑が、伝統や慣習に根ざした魂の問題を左右するのを許すことは、全体主義に道を開きかねない危険でどこか醜悪な振る舞いであるということですね。とても腑に落ちる議論です。これが、国内の反日メディアの手にかかると、国立追悼施設での代替こそが、近隣諸国の被害感情に配慮した、世界平和に貢献する、民主的な素晴らしい方策である、という扱いになります。夢々だまされてはならないとあらためて思いました
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小浜逸郎氏・政治家のみなさん、もっと「失言」してください (イザ!ブログ 2013・6・22 掲載)

2013年12月16日 09時28分52秒 | 小浜逸郎
ここのところ、政治家の「失言」が多いですね。

 維新の会共同代表・橋下徹氏の「従軍慰安婦」失言、同会の共同代表・石原慎太郎氏の「大迷惑」発言、それを受けた橋下氏の都議選前の「敗れたら辞任」予告。

以上は、このお二人のおっちょこちょいとだらしなさという「心理学」で片づけてもいいかもしれませんが、その合間を縫って、高市早苗・自民党政調会長の「原発事故では死者が出ていない」発言がありました。この人、正直で直情型、私は昔からわりと好きですが(ヘンな意味じゃありません、念のため)、とかく「失言」が多いようで、党内から「参院選前なんだから気をつけてくれよ、お願い」という溜息が聞こえてきそうです。

ところで、「失言」とはすなわち本音です。上の四つの失言は、すべて本当のことを言っていますね。

「従軍慰安婦の強制連行」には証拠がない、当時のどの国にも軍には慰安施設があった、この橋下発言は本当のことです。でもこれを言ってしまっては、改憲で連帯できると考えていた与党自民党との間もしっくりいかなくなるでしょう。自民党の人たち、「またやってくれたか」と苦々しく思ったんじゃないでしょうか。

次の石原発言。せっかく第三極を作ろうというときに、こういう発言をされたのでは、内側から組織をつぶす結果になるので「大迷惑」だ。これも本当ですね。でもこの石原発言で、維新の会は、さらにまとまりの脆弱さを印象づけてしまいました。

橋下氏の事前辞任予告発言は、「たしかに迷惑をかけてしまった。どうも負けそうなので、手っ取り早く責任を表明しておこう」という心理でしょうか。あるいはこの人はもともと典型的な劇場型政治家なので、劣勢に立っている今、起死回生の一発として「ここでもう一度カッコいいとこ見せて」と考えたのかもしれません。いずれにしてもこれもどうやら本心らしい。でも全然カッコよくないですね。維新の会にとっては、このせっかちがまたまた「大迷惑」で、どう見ても逆効果でしょう。

また福島原発事故では、現段階で放射線による死者はおろか、障害さえ生じていません。その後亡くなられた方は、強制避難による心的ストレスが大きな原因と考えられます。高市発言は正しいのです。

しかし発言後、自民党の福島県連幹事長から発言撤回と謝罪を求める抗議文を突きつけられ、福島出身の森雅子少子化担当大臣からも国会内で追及されたために、ついに謝罪することになりました。

たしかに福島県地元の党内幹部から「心ない発言」と言われれば、腫れ物に触るように対応しなくてはならないでしょうね。さすがの高市さんも情緒的な圧力に屈したわけです。でも、理性的に考えれば、高市発言こそは、これからの原子力行政を健全な方向に導くことにとって象徴的な意味を持ちます。私たちは彼女の不本意な屈服の過程に見られる、政治という妖怪の「ねじれ」と「ゆがみ」をよくとらえておかなくてはなりません。

政治の世界では、ホントのことを言うと政治生命が奪われる、というジンクスがまかり通っていることは、みんながよく知っています。95年、当時の総務庁長官・江藤隆美が「日本は朝鮮の植民地時代に良いこともした」発言(これも認識としては正しい)によって、辞任に追い込まれたのをはじめ、こういう例はたくさんありますね。

言ってしまったあとで弁明したり、一人ぶつぶつつぶやいても、もう遅い。戦後のサヨク的な風潮、メディアや反対政党や党内の思惑など、なにしろ周りの空圧によって押しつぶされるのですから、せめて謝罪して露命をつないでおこう、というのがこういう場合の政治家のぎりぎりの世間知なのでしょう。

さて、ここで考えてみたいのは、こういうことの良し悪しではありません。私は、「なぜホントのことを言っちゃいけないんだ!」と目くじらを立てる気はあまりしないのです。また、こういう「空気」が、日本だけのものとも思いません。私のような評論家ふぜいが、外野席から言いたいことを言っていても別に困りはしませんが(少しは困るかな。最近どうも干されているような…… 笑)、やっぱり政治家のみなさんは、「もの言えば、くちびる寒し秋の空」でしょうな。そのあたり、少々同情したいところもある。

まさかこういう事態を、「ふざけたことを言った政治家なのだから葬られて当然だ」などと心底から考える人はそんなにいますまい(けっこういるか)。そういう人は、世間を知らないよほどのおバカさんか、権力者倒し、国家破壊に快楽を感じているサヨク・サディスト・グループ(略称SSG)でしょうね。

いっぽう、「失言」の烙印を押すことが単純に悪いこと、すぐにも糺すべきことなのか、と言えば、どうもそう言い切れない部分もある。例えば、鳩山元首相の「最低でも県外」発言が、国益を著しく損なったのはたしかですが、まさにそのために民主党政権の命取りのきっかけになったことなどは、結果的に見ればよかったのではないでしょうか。

で、いまの政治の世界では、なぜ本音をちらりとでも言うとタブーに触れて干されてしまう事態があまりに多いのか、その客観的な理由を考えてみようというのが、本稿のテーマであります。

昔、佐藤栄作という人が、首相時代に記者会見場で、「新聞記者諸君は出てってくれ」(ラジオ、テレビはOK)と発言したことがあります。そうしたら、新聞記者諸君は、一瞬憮然としながらも、「じゃあ、出ましょう」と言ってぞろぞろ出てっちゃったんですね。それから、みんなで思い直したのか、ほどなく戻ってきて、記者代表とおぼしき人が、「総理、先ほどのご発言はたいへん心外であります」とかなんとか詰め寄って少しばかり揉めました。たしか、記者会見をやりなおすというところに落ち着いたのだったと記憶します。

私はこれを見ていて、青臭い身ながら、佐藤の横暴さにも腹が立ちましたが、それ以上に、「なに、これ。新聞記者、なんで政治家の言うなりになって出て行っちゃうの。あとから抗議したって遅いだろ、自分たちのほうがよっぽどみっともないじゃん」と思いました。

彼らにしてみれば、出ていくという行為が抗議の意思表示のつもりだったらしい。全党そろって国会審議拒否、なんてよくありますからね。しかし、それとこれとはケースが全然違います。審議拒否は計画的な戦術ですが、この記者たちは、その場の気分に流されただけです。

「どうして出て行かなきゃならないんですか」とがんばる記者が一人もいなかったという事実。これはふがいないことこの上ない。ふだん紙面では体制批判を得手勝手に書き散らしているくせに、いざというとき腹が据わっていない。ちなみに当時の政治記者というのは、左寄りが主流でした。

もちろん、佐藤のこの発言によって彼が退陣に追い込まれたかというと、まったくそんなことはありませんでした。いまだったら確実に不信任決議可決ものでしょうね。

佐藤の前に首相だった池田勇人は、高度成長の立役者ですが、彼は「貧乏人は麦を食え」と発言したことで有名です。この言葉の真意はニュアンスが全然違うのですが、当時の野党やマスコミがこれさいわいとばかりに攻撃の材料に仕立て上げました。しかし池田もこの発言で地位を危うくされてはいません。

「あーうー」とあだ名をつけられた大平正芳という総理大臣もいました。佐藤みたいに悪玉っぽくなく、とても優しい人なんですが、なんせ答弁も演説も下手で、鈍牛みたいな顔を上に持ち上げながら、口元でぼそぼそと呟く。「あーうー」としか言ってない感じなんです。この場合も発言のなんやかやによって激しく糾弾されたり、退陣に追い込まれるなんてことはありませんでした。「あーうー」と言ってりゃ無難、ということでしょうか。

これらを要するに、良い意味でも悪い意味でも、政治権力者って、昔はメディアや世論を向こうに回して強かったんですね。というか、政治権力の座にいるということに自信を持っていて、メディアや世論を過剰に気にしなくても済んでいた、ということでしょうか。かの吉田茂の「不逞のやから」「曲学阿世の徒」「バカヤロー解散」はあまりにも有名です。

ところで、ある時期から感じ始めたのですが、近頃の政治家は、話がうまくなり、饒舌になり、雄弁になりました。たいへん論理的な人もいますし、四方八方に気を配っている人もいます。ある領域のことなら、そこらの知識人顔負けなほどよく勉強し考えている人もいる。

このようになったのには、いろいろな要因が考えられます。

一つは、国際社会、特に欧米から、「日本人は何を考えているのかよくわからない」と批判されて、たしかにこれでは通用しないという反省がはたらき、弁論術を磨く人が増えたこと。

もう一つは、国内においても社会の仕組みがますます複雑化し、互いに矛盾するさまざまな要求が立ち上がってくるため、それらにきちんと対応するには、「殿様」然としていては、もはや政治家としてのビジネスが成り立たなくなったこと。

さらに、おそらくこれがいちばん大きな要因でしょうが、民主主義社会が成熟し、情報社会化が進んで、各層、各分野の多くの人が、その値打ちはともかく、強い発言力、発信力、他人の発言の検索力を持つようになったこと。いまメディア環境は、テレビ、新聞だけではなく、SNSに代表されるように、あらゆる場所、あらゆる時間帯で、多方向に錯綜した状況となっています。まさに「壁に耳あり、障子に目あり」ですね。

多少とも公式的に何か言えば、すばやく誰かが嗅ぎつけてあっという間に拡散し、しばしば炎上する。いい加減なことをひょいと洩らしただけですぐに叩かれる。では黙っていればいいかというと、情報公開や説明責任を課せられている政治家としてはそういうわけにもいかない。「あーうー」的な人はもう政治家にはなれませんね。

私は、政治家が雄弁になったこと、きちんと勉強してしゃべらざるを得なくなったことそれ自体は、昔に比べればよい変化だと思います。アメリカの公開討論などを見ますと、昔からすごく雄弁ですね。もっとも雄弁は銀とも言います。みんなディベート訓練やローヤーとしての活動で鍛えているだけで、三百代言にすぎないとも考えられますから、一概に全肯定はしません。でも、さすが覇権を握るだけのロゴスの国、「あーうー」で通ってしまう日本に比べて、なんて正々堂々とやりあうんだろうと、若いころは、その言論文化のあり方を羨ましく思ったものでした。

日本もかなりそうなってきたんですね。いまの若手論客とときどき接する機会がありますが、みんな頭の回転がすごく早くて、理路整然、主張もはっきりしていて、私などただただ舌を巻きます。ちょっとこのスピードにはついていけないな、と感じることもたまにあるのですが、彼らにとっては、幼いころからの文明社会の進展に適応したごく自然な構えなのでしょう。

さて、このことは、反面、時代が厳しくなってきたことをも意味します。単位時間当たりの情報量(受信量、発信量)がものすごく多くなっている。昔、♪「の~んびりいこーぜ、おーれぇたちは。あーせえってみたと~て、おなじこ~と」♪というCMソングが流行りましたが、今はそうも言えなくなってきたんですね。高速鉄道の発達と同じようなものです。

そうすると、「失言」の可能性もそれだけ高くなります。何しろ、政治家たる者、黙ってちゃいけなくて、何かしゃべらなければダメなんですから。そしてまた、「これだけの量をしゃべらなければいけない」というプレッシャーに、「ホントのことを言ってはダメ」というタブーが重なります。有力政治家は一種の強迫観念に駆られていて、すごいストレスを感じているのではないでしょうか。

そこで時には本音をつぶやき(ツィート!)たくなる。しかしそのツィートもたちまちやり玉に挙げられる。安倍総理と小泉進次郎議員とが、拉致問題に絡んで田中元外交官を批判した安倍発言をめぐってやりあったそうですね。

アメリカなんか、おそらくずっと昔から、こういう状況におかれていたんだと思いますよ。ブッシュ前大統領の「失言」語録は有名ですね。ブッシュ氏、それを自覚していてジョークに使ってもいます。オバマさんは二期務めていて、そういう話、ほとんど聞きません。おそらく周囲への配慮にたけたすごい実務能力なんでしょうね。それだけ逆に、政治家としての情熱をあまり感じませんが。

閑話休題。

「失言」の可能性が不可避的に増大している時代である。ではどうすればよいか。高市さんへの安倍総理の忠告通り、「発言には気をつけるように」というしかありません。

ただし、まったくタブーをタブーどおりに通していたのでは、いつまでたってもよい政治ができないことも明らかです。「福島事故の放射線拡散による死者はひとりも出ていない」と言っただけで袋叩きに会うような情緒的な風潮。これこそが「戦後レジーム」でしょう。ここから、何とか「脱却」しなければ。

そしてこれは、私たち日本国民みんなに課されたとても難しい課題です。というのは、現代政治は大衆を前にした弁論術以外のなにものでもないので、それはもともと次のディレンマを抱え込んでいるからです。

一つは、一般大衆の情緒に訴えかけなければ、簡単な政策実現の足掛かりすらつかめないこと。もう一つは、にもかかわらず、真の公共精神とは何かをたえず理性的に自問自答している必要があること。この情緒と理性の永遠の相克のはざまで、政治家は自己実現していかなくてはなりません。

私たち一般国民は、現代政治家が抱えているこのディレンマを、少なくともよく理解する必要があります。「失言」を許してやれというのではありません。寛大になれと言っているのでもありません。それはものによります。また人によります。ある政治家のある「失言」があった時に、その是非を一般的コード(イデオロギー)のようなものに照らし合わせて安直に判断するのではなく、その人のどういう状況下におけるどういう文脈での「失言」であるかを、私たちはきちんと把握すべきだと言いたいのです。

これからも政治家の「失言」はどんどん出てくると思いますが、それは、その政治家を、逃れられない厳しい現代状況の中で鍛えさせる一種のよい機会だと考えられます。あんまりおっかなびっくりでは何もできません。

また、私たち国民も、ある人のある「失言」があった時に、ただの野次馬を決め込んで「バカな奴だ」と言って済ませるのではなく、なぜそういうことを言わずにはおれなかったのかを、注意して見守ることにしましょう。そうすれば、私たちも、政治の世界を少しでも親しい、意義あるものとして感じることができるようになるのではありませんか。

何だかいやに啓蒙的な文章になってしまいましたが、一人の国民としての私自身の自戒の弁と受け取っていただければさいわいです。
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宮里立士氏・私の日本国憲法試論 (イザ!ブログ 2013・6・21 掲載)

2013年12月16日 07時52分17秒 | 宮里立士
はじめに

小浜逸郎さんのブログ「ことばの闘い」のなかの「私の憲法草案」(その1、その2)

http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155(その1)
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f(その2)

を拝見して、かねがね自分が抱いていた、憲法改正論議に対するモヤモヤしたわだかまりを文章にしようと思い立ちました。

まず、これを小浜さんのブログのコメント欄に寄せました。しかし、字数に制限があり、コメント欄には自分の原文を半分以下に省略しました。

今回、この原文を基に、その後に考えたことも含めて、美津島明さんのブログにお送りいたしました。

                        *

小浜逸郎さんのブログを拝見し、また、今回、議論のきっかけとなった産経「国民の憲法」要綱や、私宛の小浜さんのメールに貼り付けていただいたチャンネル桜「【討論!】どうする!?自主憲法制定」を視聴して、日ごろ漠然と思っていた、憲法改正論議に関する自分の考えを述べてみたいと思いました。

実を言えば、小浜さんと同じく私も現憲法の大上段からの改正に、最近(といっても5、6年前から)、消極的になっています。

というのも、もう十数年来「改憲」の必要が唱えられ、世論調査でも改憲派が多数を占めている筈だったのに、今回、その入り口に過ぎない改正事項緩和の96条の改正ですら、「橋本発言」などという、改憲問題とまったく関係ない、いわゆる「従軍慰安婦」問題絡みで、世論はナーバスとなり、改憲支持が少数となるのが現状だからです。このような状況を見るにつけ、いったいいつになったら、現憲法の全面改正ができるのやらと、百年河清を俟つ思いがします。

たしか7、8年前でしたが、50歳代の改憲派の公法学者と改正問題を話して、「憲法改正の気運はだいぶ高まってきている。しかし、それでも本当の改正までは、まだ十年は議論が必要だろう」と云われ、「憲法改正の気運が盛り上がった90年代以来、すでに十年たっている。それでもあと十年議論が必要だと、いったいほんとうの改正まで何十年かかるのだろう」と、内心思いました。

国民の多くは現憲法がいい加減なものであることは知っていると思います(護憲派でも、よっぽど「良心」的な人か、幼児体験的刷り込みに無自覚な人以外は内心では、いい加減だと知っていると思います)。それでいて70年近く改正できなかったのは、ひとえに現憲法下でも、何となくうまくやってきたと大多数の国民が思っているからではないでしょうか。  

現憲法が改正されるときとは、日本社会が大混乱し、到底、こんな憲法ではやっていけないと、国民の大多数が考えたときだけではないのか。そしてその一歩手前までは、何だかんだ云っても、解釈改憲で凌いでいくというのが、実際のところではないのか、という気がします。

現憲法下でも最大限、何と戦術核兵器の保有まで、憲法違反にならないというのが、政府の憲法解釈です(戦略核の大陸間弾道ミサイルは、さすがに今の解釈では認められていないようですが)。

しかも、もともと根本法(というか体制)を変えたがらないというのが、日本国の伝統的あり方です。明治憲法も「不磨の大典」と云われ、その「弾力的運用(=解釈)」によって、議会制民主主義の道を開きました。そしてそれ以前、明治維新までの日本は、形骸化していたとはいえ、千年来、律令が根本法でした。

それならば、もっと簡便な「改憲」を考えたほうがよいのではと思えてきます。

たとえば、つぎのようにしたらどうでしょうか。すなわち、国会議決などで、現憲法は日本国が主権を喪失している占領下に制定されたものであることを確認する。しかし、その条項の多くは国民の権利として、判例を通して定着しているのは事実です。とはいえ、十七条憲法以来の日本国の憲法典の伝統にそぐわない日本国憲法前文には積極的意味を見いだしえないので、それもあわせて確認する。また、非常事態に国家主権を縛る条項は有効性を持たないと宣言し(このことに関連して、わざわざ9条2項を明示する必要があるかどうか、これだけ挙げたら、他の条文で縛られる可能性があるような気がしますので、特に明示しないほうが良いような気がします)、代わりに十七条憲法以来、明治天皇の憲法発布の詔勅などなどを日本国憲法典の理念として掲げ、非常事態に備える戒厳法令を制定し、自衛隊法に代わる自衛軍法、あるいは国防軍法を制定する方式が良いのではと、最近は考えております。

この方式でも、政治的労力がかなり必要で実現困難なのでは、というご意見があると思います。それならば、まず、集団的自衛権の行使を政府解釈で可能にする点に政治エネルギーを集中するというのも一考かと思います。

「集団的自衛権は、わが国は主権国家なので国際法上、当然、保持しているが、現憲法下では行使できない」という、奇怪な政府解釈こそが、わが国を主権国家たらしめるうえでの足枷となっているからです。

現憲法第98条2項には、主権国家として条約及び確立された国際法規を誠実に遵守する義務が謳われています。そして、サンフランシスコ平和条約以降の、戦後処理の過程で締結した諸条約には、個別的、集団的自衛の固有の権利が確認されています。条約の相互主義の建前からいっても、自国のみ「保持はしているが行使できない」という訳の解らない解釈をしていると、日本は主権国家ではなく条約の主体にもなれない欠陥国家と自己主張しているようにしか聞こえません。素人ながらこんなヘンな話は、それこそ国際社会に通じるものかと危惧します。

つまり、現在の政府の集団的自衛権に対する憲法解釈は、国際法上および国際慣習上、非常識だということです。これでは護憲派の大好きな日本国憲法前文の「国際社会に名誉ある地位を占めたい」といっても相手にされませんね、と皮肉のひとつも云いたくなります。

素人なので、法技術的なことは解りませんが、日本国憲法自体の制定過程や、あるいはワイマール体制も憲法改正がされた訳でもないのに授権法でナチス体制に変わったりしたことや(しかも、第二次大戦後は憲法に代わる基本法を現在でも根本法にしています)、イギリスの不文法の伝統といったものを少し調べると、何が何でも現憲法の手続きに従って憲法を改正するというのは、戦後の70年近い体験から鑑みて、「労多くして功少なし」ではと最近、とみに感じております。

このことと関連し、チャンネル桜の討論会で、佐瀬昌盛さんが冒頭に強調していた「国民の憲法」という発想に、私はあまり積極的意味を感じません。というのは、佐瀬さんの日ごろの見識については、いろいろ教わるところがあり、彼をとても尊敬しているのですが(集団的自衛権に関する議論に関しても、佐瀬さんの『集団的自衛権 論争のために』PHP新書、は、とても勉強になりました)、この場合、「国民」という存在はどうしても、現に存在する「民意」の多数派という俗論に結託するだけだと思うからです。

歴史の古い国は、一時的な「民意」では動かされない根本の精神があると考えます。これは佐瀬さんの本意ではないでしょうが、憲法に関して「国民」を強調すると、それこそフランス革命に由来する人民主権を私は連想します(もちろん、人民主権も単に多数派の意思というのではなく、「一般意思」が主権の主体となるのでしょうが)。

とはいえ、今の憲法下では国家の体をなさないのは事実なので、これを変えてゆく工夫は必要だと思いますし、さまざまな憲法論議から今の日本の問題点を浮き彫りにしていくことは意義あることだと感じております。

そういう視点から、ここで述べた自分の感想は、我ながら少し消極的過ぎるかな、という反省も湧きますが……。

                      *

ところで、これは余談になりますが、先の「慰安婦問題」に絡む「橋本発言」が、第96条の改正にも影響を与えたということは、端的に云って、橋本徹氏の発言にアメリカがかなり感情的に猛反発したことに、世論が動揺した結果だと思います。橋本氏の「ホンネ主義」は、所詮、国内でしか通じないものであることが今回明らかになりました。政治家として、中国、韓国相手だと、「失言」でも致命傷にまでは至らないのに対して、アメリカ相手だと、致命傷に至るという、戦後政治の構造は変わっていないことが、橋本氏の「失言」で改めてよく解りました。

これはある種の論者がしたり顔で云う「対米従属」とは違い、日本社会が未だに「戦後」のなかでもがいている一例だとも痛感しました。

私は橋本氏の政治手法には批判的です。しかし、そのことと別に、今回、わざわざ「虎の尾」を踏んでくれた橋本氏からいろいろと教えられた、とは思っています(反面教師的ですが)。

わが国の憲法改正とは、国内問題であると同時に、戦後の国際社会をも大きく変えるものであるとの認識を新たにしました。この点に改憲派こそ敏感でなければならないと思います。
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哲学と政治 ―――プラトン『ゴルギアス』について (イザ!ブログ 2013・6・12,14,19 掲載)

2013年12月16日 07時21分05秒 | 思想・哲学

ゴルギアスの彫刻

先日の読書会で、プラトンの『ゴルギアス』を扱った。いろいろと思うところがあったので、忘れないように書き記しておきたい。例によって、参加した方々のご意見・見識をそこかしこに織り込んでいることをおことわりしておきたい。

岩波文庫の解説によれば、この作品は、プラトンの全著作を彼の生涯の主要な区分(遍歴時代、アカデメイア時代、晩年)に応じて、初期と中期と後期とに分けると、初期のおおむね終わりごろに書かれたとのことである。ならば、紀元前388年の少し前として、プラトンが三〇代後半のときに書かれたことになる。解説から引用しよう。

この対話篇ではまだ、後の作品においてよく見られるように、ソクラテスだけが主な話し手になっていて、相手方のほうはただ、「イエス」とか「ノー」と答えるだけの、形式的な対話人物となっているのではない。いな、ソクラテスとその問答相手たちとは、互いに問い手になったり答え手になったりしながら、文字通りの「対話」を交わしており、そして両者の挑戦と応酬によって作り出される緊張が、この対話篇を一個のすぐれた劇作品としているのである。その点では、プラトンの数多くの対話篇のなかでも、おそらくこの『ゴルギアス』ほど真の意味で 「対話篇」の名に値する作品は、他にはないといってよいかもしれない。

文中の「一個のすぐれた劇作品」という評価は、まったくその通りである。だから、当作品はとても楽しくスリリングに読み進めることができる。これは、作品としての『ゴルギアス』を褒めて言うのだが、読後、「ソクラテス先生、圧勝」という印象はあまり残らない。逆に言えば、対話の相手たち(ゴルギアス・ポロス・カリクレス)は、ソクラテスを相手になかなか善戦しているのである。特に三番手のカリクレスは、なかなかの存在感を示していて、ソクラテスによって論破されたとは、本質的なところでは、到底言えないと私は考えている。

以下、カリクレスとの対話に焦点を当てて当作品のいくつかの論点を提示し、それらについての私見を述べよう。

〔1〕カリクレスによるニーチェ的視点の提示と強者・弱者のパラドクス

カリクレスは、当作品のなかで、現役のバリバリの政治家として登場する(もちろん実在の人物だ)。だから、その態度は、現実なるものをよく知る者に特有の自信に溢れていて余裕がある。彼は、あくまでも哲学の立場に固執するソクラテスに対して、次のような言葉を投げかける。

ぼくの思うに、法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである。だから彼らは、自分たちのこと、自分たちの利益のことを考えにおいて、法律を制定しているのであり、またそれにもとづいて賞賛したり、非難したりしているわけだ。つまり彼らは、人間たちの中でもより力の強い人たち、そしてより多く持つ能力のある人たちをおどして、自分たちよりも多く持つことがないようにするために、余計に取ることは醜いことで、不正なことであると言い、また不正を行うとは、そのこと、つまり他の人より多く持とうと努めることだ、と言っているのだ。というのは、思うに、彼らは、自分たちが劣っているものだから、平等に持ちさえすれば、それで満足するだろうからである。
(483B,C)

これは、2000数百年以上も後のニーチェが、民主主義における平等の理念の本質は弱者の強者に対するルサンチマンであると喝破したのに、まっすぐに通じる。カリクレスは、さらに次のようにも言う。 

法律習慣の上では、世の大多数の者たちよりも多く持とうと努めるのが、不正なことであり、醜いことであると言われている(中略)。だが、僕の思うに、自然そのものが直接に明らかにしているのは、優秀な者は劣悪な者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多く持つのが正しいということである。(中略)それは他の動物の場合でもそうだけれども、特にまた人間の場合においても、これを国家と国家の間とか、種族の間とかいう、全体の立場で考えてみるなら、そのとおりなのである。すなわち、正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことであるというふうに、すでに決定されてしまっているのだ。 (483C,D)

これまた、ニーチェの「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」があらゆるものの根源であるとする〈力への意志〉の思想を、カリクレスなりの言葉で先取りしたものであると解することができる。

カリクレスの歯に衣着せぬ物言いに対して、ソクラテスは次のように尋ねる。

より優れているということと、より強いということとの定義は、同じなのかね。

(488D)

以下、二人のやり取りを見ていただきたい。


カリクレス (略)あなたにはっきり言っておこう、それらは同じ意味なのだ。

ソクラテス それでは、どうだろう。多数の者は一人よりも、自然本来においては、より強いのではないかね。そして、まさにその多数の者が、一人に対抗して、法律を制定しているのだが、君もさっき言っていたようにだね。

カ それはもちろん、そうだ。

ソ そうすると、多数の者の定める法規は、より強い人たちの定める法規だ、ということになるね。

カ たしかに。

ソ ではまた、より優れた人たちの定める法規でもある、ということになるのではないかね。なぜなら、君の説によると、より強い人たちというのは、より優れた人たちのことだろうから。

カ そうだ。

ソ だとすると、彼ら多数の者の定める法規は、自然本来において、美しいものだということになるのではないかね。とにかく、それはより強い人たちの定めるものなのだから。

カ それは認めよう。  


                             (488D,E)

こんなふうにして、ソクラテスはおもむろに議論を自分に有利な形に持っていこうとする。しかし、そのことよりも、ここで注目したいのは、弱くて劣った存在のはずだった多数者が、本来強くて優れた存在のはずであった者よりも、数の力で強者となり優れた者となる「法律習慣」の世界、すなわちこの世のパラドクスである。このパラドクスが、さまざまな領域における統治の不可思議と困難とをもたらすのである。この事態を、かの魯迅は、当時の中国の政治情況に引き寄せて「暴君に支配される民は、暴君よりも暴である」と言い表した。無上の権力を持つ専制君主でさえも、被支配者たちから専制君主であることの同意を取り付けなければ、専制君主として振舞うことが不可能なのである。いささか逆説的な物言いを弄するならば、強者としての支配者は、弱者としての被支配者に支配されることによってはじめて支配者として振舞うことが可能となるのである(ある貨幣が流通しうるのは、その流通圏内の人々がそれを貨幣として承認するからである、という事態に似ている。その承認が、貨幣をめぐる抜き差しならぬ喜悲劇をもたらす。人間は、そういう不思議で馬鹿げたことを当たり前のようになす存在なのである)。この支配の本質が、民主政治においては、ポピュリズムの病として顕在化しやすくなることは言うまでもない。奴隷制によって支えられていたとはいえ、ソクラテスたちは、アテナイの民主政治の担い手だったので、統治なるものの不可思議と困難とがとりわけ身にしみてよく分かったのではないだろうか。そういう背景を想定して、上の問答を読むと、面白みがさらに増すのではないかと思われる。

☆上記の二人の問答のなかの「法律習慣」(ノモス)と「自然本来」(ピュシス)という言葉の対比が気にかかった方がいらっしゃると思う。とくに「自然本来」(ピュシス)は、われわれ日本人の自然概念とはかなりニュアンスを異にしている。それについては、読書会のレポーターF氏が適切な解説をしてくれたので、それを援用しておこう(興味のない方は読み飛ばしてください)。

以下はすべて、F.ハイニマンの『ノモスとピュシス』(1945・みすず書房1983)からの引用である。

通説によれば、現存するものに対するソフィストの批判が、ノモスとピュシスの両概念を初めて互いに対置させたとされる。すなわち、すでに比較民俗学によって知識が伝えられていたさまざまな民族におけるきわめて多くの相互に矛盾する風習とものの考え方を眼にして、ソフィストの批判は、それらの一切がたんなる人間の所産であり、またそれゆえ拘束力をもたないもの(ノモス)であると宣言し、それらに対して自然(ピュシス)こそが唯一の真なる規範であると告げるに至ったとされる。 (原文引用)

両概念を対にした用法の現存文献における初出は、ヒポクラテス(460BC~370BC)の『空気、水、場所』である。これは、ペロポネソス戦争(431BC~404BC)勃発直前、ペリクレスの時代に成立した。ヒポクラテスは、当著において、アジアとヨーロッパとの身体的特徴や気候や地理の相違点の因って来たる原因を首尾一貫した形で問おうとする。そうして、その原因を、気候・地勢(季節・水・土地)などのピュシス的原因と、自然環境に依存せず、もっぱら人間にのみ依存した第二の原因としてのノモス的原因とに分けて論じた。       (レポーターのレジュメの文言を文章化したもの)

語源とその意味の変遷について。

「ノモス」の元は、動詞「ネメイン」。他動詞としては①分ける②放牧する、という意味であり、自動詞としては①自分自身に割り当てる(享受する・所有する)②牧草を食べる、という意味である。ここから、「ノモス」=「割り当てられたもの」という原義が生まれて来る。それが、ヘシオドスの『仕事と日々』においては「共同体の秩序」という意味で使われており、ヘラクレイトスは「妥当するもの」という意味で使い、ピンダロスは「国家体制」という意味で使った。「ノモス」は、このようにして、一方の方向においては、権威ある意味を持った概念へと発展していったが、しかし他方では、共同体の秩序の拘束性をもはや強調しなくなり、単なる「慣習」の名称に成り下がった。

次に「ピュシス」について。

「ピュシス」は名詞であるが、つねに「生じる」「成長する」という動詞的な力を保持してきた。「合理的で自然科学的な」イオニアにおける「ピュシス」概念は、①副次的な例外に対する「正常な状態」②規範・基準③物事の真の本質・真の状態、という意味を持つ。  (レポーターのレジュメの文言を文章化した)

後のルソーが肯定的に「自然」と言うとき、そこには、上記の③の「物事の真の本質・真の状態」というニュアンスが濃厚である。

詩の話になっていささか恐縮だが、私は「ピュシス」概念の意味の箇所に触れるうち、突然次の詩を思い出した。そのことを話しておきたい。

道程  
高村光太郎

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


ここでの「自然」の意味が、私は高校生のとき以来、ずっと分からずに来た。どうにもしっくりこなかったのである。ところが、「自然」=「ピュシス」ととらえて、上記の意味のうち「②規範・基準③物事の真の本質・真の状態」に着目すれば、ちゃんと理解が行き届く、という体験を得ることができたのである。日本的な「自然」概念をいくら引き伸ばしても、ここで高村光太郎が使っている「自然」のニュアンスには届かない。昔、故吉本隆明が、高村光太郎は日本人ばなれした知的な詩人であるという意味のことを言っていたが、その意味が今回少しだけ実感できた。小さな喜びである。

この文章、思ったよりも長くなりそうである。続きは、近いうちに。


*****

〔2〕カリクレスの哲学批判とソクラテスの政治批判

ソクラテスとの埓のあかない問答に業を煮やしたカリクレスは、次のように言う。

いや、ぼくとしては、もうさっきから言っているはずだ。まず第一に、ぼくが強者であると言っているのは、靴屋のことでもなければ、肉屋のことでもないのだ。そうではなくて、国家公共の事柄に関して、それはどうしたならよく治められるのか、ということに思慮のある者が、もし誰かいるとすれば、その人たちのことなのだ。そして、たんに思慮があるだけではなく、その上また勇気もある人たちのことなのだ。つまり、思いついたことはなんでもやり遂げるだけの力を持っていて、そして精神の柔弱さのために、途中でへこたれてしまうことのない人たちのことなのだ。 (491B)

ここでカリクレスは、一国を統治するに足るだけの者は、国にとってなされねばならないことをきちんと考えぬくだけの思慮深さと、それをやりぬくだけの意志の強さ・勇気とを合わせ持っているという意味での強者であらねばならない、と言っている。言いかえれば、ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)を果たしうるだけの力を持った者が統治の任に当たるべきである、と言っているのである。これは、極めて妥当な見識であると申し上げるより他はないだろう。

それを受けての、ソクラテスの言葉とカリクレスのやり取りをしばらく見ていただきたい。

ソ では、どうだろうね。自分自身のことは、君、どうなっているのかしら?

果たして、その支配する人たちは、自分自身をなんらかの意味で支配しているのだろうか、それとも逆に、自分自身については、支配されたままになっているのだろうか。

カ というと、それは、どういう意味かね。

ソ その人たちのひとりひとりが、自分で自分自身を支配しているのか、と訊いているのだよ。それとも、そんなことは、つまり自分で自分を支配するということは、全然不必要なことであって、ほかの人たちを支配すれば、それで足りるのかね。

カ その、「自分自身を支配する者」というのは?

ソ いや、何もこみいったことではなく、世の多くの人たちが言っているとおりの意味なのだ。すなわち、自分で自分にうち克ち、節制する人のことで、つまり自分の中にあるもろもろの欲望や、それに伴う快楽を支配する者のことなのだ。

カ なんてあなたは甘い人なんだろうね!あなたの言う節制家とは、なあんだ、あのお人好しの、とんま連中のことかね。

ソ いや、どうしてそんなことがありえよう。ぼくがそんなことを言おうとしているのでないということは、だれだってわからぬ人はないはずだが。
                         (491D,E)

ここで、私はカリクレスの立場に肩入れするうえで、もどかしい気分におそわれる。ソクラテスの逆襲を撃退するうえで、カリクレスの言葉はお世辞にも有効とは思えないからだ。カリクレスは、「自分が主張しているのは公人としての徳の在り方であるのに対して、ソクラテス、お前が主張しているのは私人としての徳なのだよ。だからお前の反論は、私の主張に対してまったく有効性がないのだ」と言ってしまえば良かったのである。公人として有するべき徳の議論に、節制の是非などという私人の徳の議論を持ち込むのは基本的に意味がない、と。

ソクラテスの主張は、朱子学になぞらえれば、修身・斉家・治国・平天下の連続性のそれである。つまりソクラテスは、治国・平天下を実現するためには、修身が礎とならなければならないと言っているのである。しかし、近代的な政治意識は、修身・斉家と治国・平天下との間にきっぱりと切断線を入れる。その視点からすれば、ソクラテスの政治意識は古代的である。それは、ソクラテスが古代の人であるのだから、当たり前のことである。つまり、ソクラテスの政治家論は、古代のパラダイムの中にすっぽりと入ってしまうのだ。それに対して、カリクレスの拙劣な反論の言葉にこそ、古代の限界を突き抜けかねない先見の明があるのだ。

ここでわれわれは、『ゴルギアス』を書いたのはソクラテスではなくてプラトンであるという単純な事実を思い出そう。プラトンが作中のなかでソクラテスにもっとも心を寄せているのはたしかなことであるのだが、ちょっとした補助線を引けば、そのソクラテスを論破してしまいかねないほどにカリクレスなる人物を生き生きと力強く造形しえたプラトンの、劇作家としての手腕が並々ならぬものであることもまたたしかなことなのだ。

これをプラトンの思考のドラマとしてとらえれば、プラトンの頭のなかで、ソクラテスとカリクレスとは、その存在を賭けてギリギリの対話をしているのである。その過程で、もう少しで古代の限界を突き抜けるところまでの思考の突き詰めがなされている。こういうところで、私は「プラトン、恐るべし」の思いにかられる。

その思いは、カリクレスの次の発言を目にしたときにも湧いてくる。

ソクラテス、哲学というものは、たしかに結構なものだよ、ひとが若い年頃に、ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし、必要以上にそれにかかずらっていると、人間を破滅させてしまうことになるのだ。(中略)つまり、一口でいえば、人さまざまのあり方について、まるっきり心得のない者になるからなのだ。だから、そんな状態で、公私いずれにもせよ、何らかの行動に出るようなことがあれば、物笑いの種になるだけであろう。それはちょうど、政治の仕事にたずさわっている者たちが、逆に、あなた方が日常行っている談話や討論に加わった場合には、笑い物になるだろうとぼくは思うけれど、それと全く同じことなのだ。(中略)実際、いい年になってもまだ哲学をしていて、それから抜け出ようとしない者を見たりするときに、ソクラテスよ、そんな男はもう、ぶん殴ってやらなければいけないとぼくは思うのだ。なぜなら、そういう人間は、さっきも言ったことだけれど、いかによい素質をもって生まれて来ていたところで、もう男子たる資格のない者となってしまっているからだ。                          (484C~485D)

カリクレスは、いい年をして哲学なんかにかまけていると、自分に対して妙に自信を持った、救いがたい「世間知らず」になってしまう、と言っているのだ。これは、実に痛烈な哲学批判である。ここには、哲学者に限らず、思想家とか学者とかあるいは知識人などと呼ばれるような、生活過程において「考える」という作業に、普通の人と比べると過剰にウェイトづけをしている存在の弱点を鋭く突くものがある(アドルノは、『ミニマ・モラリア』で、それに「現代において、知識人はみなどこか『ハンス坊や』である」という意味の言葉で言及した)。そういう人々が、ここにそういうものを感じないとすれば、それは、その人が、馬鹿か鈍感か傲慢なせいである。こういう言い方をしているからといって、私は、いい気になっていうわけではない。いい歳をしてこんなものを書いている私自身、他人(ひと)ごとではないのである。ましてやカリクレスは、ちゃんと「逆に、あなた方が日常行っている談話や討論に加わった場合には、笑い物になるだろうとぼくは思う」と言って、自分の発言が一方的なものにならない配慮さえしているのである。そこには、成熟したまっとうな社会人の常識感覚がある。お見事というより他はない。

それに対して、ソクラテスはどう言っているのだろうか。彼は、テミストクレス(BC528頃~462)、キモン(BC512~449)、ミルティアデス(BC550頃~489)、ペリクレス(BC495頃~429)という前五世紀のアテナイを代表する四人の偉大な政治家たちを、デモス(民衆)のご機嫌をとる召使のようなものに過ぎないとしてことごとく否定したうえで、次のようにいう。

ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけだとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っているのだと思っている。        (521D)

歴代の偉大な政治家たちを「ほんとうの政治の仕事」を行っていないという理由で全否定したうえで、ソクラテスは、少なくとも自分が生きている時代においては、自分だけがただひとり、「ほんとうの政治の仕事を行っている」と言い切る。これは、取りようによっては、傲岸不遜の極みのような発言であり、独りよがりもはなはだしい噴飯ものだと評されかねない問題発言である。

ここで問題になるのは、ソクラテスのいわゆる「ほんとうの政治の仕事」とは何かということである。ソクラテスによれば、それは、デモス(民衆)のご機嫌をとる召使や迎合家のような仕事とは正反対のものである。すなわち、それは「人々のご機嫌をとることを目的にしているのではなく最善のことを目的に」する仕事である。

では、「最善のこと」とは何か。それは、文脈から察するに、アテナイ人ができるだけすぐれた人間になるようにあくまでも頑張り抜く役を果たすことである。そのためには、人々のご機嫌をとったり、彼らが心地よいことを言ったりすることなどもってのほかであり、彼らの反発や拒否反応にめげることなく、あくまでも、彼らのためになる、ほんとうのことを誠実に言い続け、実行し続けなければならないのである。ソクラテスが言おうとしている「ほんとうの政治の仕事」とは、どうやらそういうものであるらしい。

世論調査では、国民が政府に望む政策の筆頭はいつも景気対策である。そのことに例外はない。それを目にすることに慣れた者にとって、ソクラテスの政治観は、あまりにも浮世はなれした、ある意味ではとても過激なものである。それは、当時のアテナイの人々にとってもそうだったのではないだろうか。なによりも、ソクラテスの言葉を受けつけないカリクレスのような存在そのものが、その証拠である。

ソクラテスの政治観は、浮世ばなれしているだけではない。彼は、政治家の業績の評価をめぐって具体的な看過しがたい誤りさえも犯している。彼は、ペリクレスの評価をめぐって、「ペリクレスは、公けの仕事に手当を支給する制度を最初に定めた人なのだが、そのことによって彼は、アテナイ人を怠け者にし、臆病者にし、噂好きのおしゃべりにし、また金銭欲の強い人間にしてしまった」と言う。

しかし、岩波文庫の注によれば、その批評は、「歴史的事実としては正確でない」。

なぜなら、これらの手当を受ける機会は、市民全体の総数からいえば、きわめて限られた範囲の者に訪れただけであるからである。つまり人は、政務審議会の議員(任期一年)には、一生の間に二度なれただけであり、またどの官職(任期一年)――軍事関係を除いて――にも、人は一度しか就任しえなかった。そして民会の開催は一年に四十回であり、しかもその出席手当を受ける人員の数は制限されていた。また観劇手当は一年に数日のことにすぎない。しかがって、戦時にける軍隊勤務の場合を別にすれば、陪審員の職だけがかなり恒久的に手当を受ける機会をもたらしたと言える。しかしその手当にしたところで、その額はたいへん低く、一人の人間がどうにかその日を送ってゆけるだけのものにすぎなかった。
  (岩波文庫P320~321)

これだけの事実を突きつけられれば――注は遠慮して「歴史的事実としては正確でない」などと言っているが――要するに、ソクラテスの批評は誤った事実認識に基づいたものなので話にならない、というのが正確なものの言い方だろう。

いろいろと言い募ってきたが、端的にいえば、ソクラテスが言おうとしている「ほんとうの政治の仕事」とは、実は、現実の政治の仕事とは根のところで反するものなのである。さらに踏み込んでいえば、「本当の政治の仕事」とは「本当の哲学の仕事」とその本質において一致する、とソクラテスは言いたいのだろう。しかしながらそれは、現実の政治家が到底受け入れるところではない。そうしてそれは、政治なるものの本質からして、至極もっともなことなのである。

それはどういうことなのか。私見によれば、前回述べた支配をめぐるパラドクスの視点から、そのことは根拠づけることができる。すなわち、「強者としての支配者は、弱者としての被支配者に支配されることによってはじめて支配者として振舞うことが可能」であるとするならば、支配者は、支配するためには、不可避的に被支配者に迎合するよりほかにないのである。この言葉が気に入らないのであれば、支配者は、支配するためには、不可避的に民意に配慮しなければならないのである、と言いかえても一向にかまわない。なぜならそれらは、突き詰めると、同じことに帰着するからである。その度合いがはなはだしい場合、その支配形態は、ポピュリズムと呼ばれて否定的に論じられる。つまり、通常の支配とポピュリズムとは、隔絶したものではなく、地続きのものなのである。

つまり、私がここで言いたいのは、政治と哲学とは、それぞれが自分の本性に忠実であろうとするならば、激突するよりほかにないものなのである、ということである。

ここで政治学者の櫻田淳氏にご登場願おう。彼によれば、知識人や学者は、「ほんとうのこと」を言わなければならない存在である。逆から言えば、決してウソを言ってはならない存在なのである。それに対して、政治家は、「必要なこと」を言わなければならない存在である。逆から言えば、決して不必要なことを言ってはならない存在なのである。

ここで、彼が「知識人や学者」と言っている存在を理念として突き詰めると、ソクラテスのいわゆる「哲学者」に帰着することは、ご同意いただけるのではないかと思われる。だから、ここから先は、「知識人や学者」を哲学者に言い変えよう。

「ほんとうのこと」のみを言わなければならない哲学者と、「必要なこと」のみを言わなければならない政治家とは、言論の展開をめぐって、角逐を余儀なくされるのである。それが、彼らの宿命なのだ。

「ほんとうのこと」を言う哲学者の目に、不必要なことを言おうとしない政治家は不誠実な唾棄すべき存在としか映らない。

逆に、不必要なことを言おうとしない政治家の目に、明らかに不必要なことを含む「ほんとうのこと」をあえて言おうとし、また、政治家がそれを言うことを要請し、さらには、そうしようとしない政治家を激しく否定しようとする哲学者は馬鹿者としか映らないのである。

言論をめぐる両者の本質的な対立関係を、プラトンは、ソクラテスとカリクレスの非妥協的な対話の展開をその思考経路において継続し抜くことによって、保ち続けたのである。そこが、思考の達人としてのプラトンの凄いところである。

それにしても、作品中のソクラテスの非妥協性の行き着く先が、ひとりの読み手として気になるところである。ここで、私の関心は、おのずとソクラテスの非業の死に向かう。                 (次回につづく)


*****

〔3〕ソクラテスの死について

前回の最後のところで、「作品中のソクラテスの非妥協性の行き着く先が、ひとりの読み手として気になるところである。ここで、私の関心は、おのずとソクラテスの非業の死に向かう」と申し上げた。ここで、一気に当作品のなかのソクラテスの死に関わる箇所にアプローチする前に、ソクラテスが死を迎える時期のアテナイの人々の雰囲気や時代背景に触れておきたい。テーマが、あまりにも大きいので、慎重を期して、その外堀を埋めておきたい、ということである。

Wikipediaによれば、当時のアテナイの情況は、次のようである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%BA%E6%94%BF%E6%A8%A9

ギリシャ全土を巻き込んだペロポネソス戦争(BC431~404)は、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟側の勝利に終わった。その結果、アテナイを盟主とする海洋国家群のデロス同盟は瓦解し、アテナイでは共和制が崩壊した。

その後、スパルタの強い影響のもとで、30人による親スパルタの寡頭制政権が成立した。メンバーには過激派の急先鋒クリティアス、穏健派のテラメネス、アポロドーロスの息子カリクレス(『ゴルギアス』に登場する、あのカリクレスである)などがいた。政権成立の当初、行き過ぎた民主政がアテナイ敗北の原因だったと考えていたアテナイの貴族や富裕層はこの事態を期待すべきものと捉えた。

しかし、その期待は裏切られた。まもなく三十人政権は恐怖政治を敷き、貴族、富裕層や対立勢力を次々と粛清して財産を奪い、仲間内でも穏健派のテラメネスを殺害したのだ(道義上の変革を目指したことが、その政治を過激化した、という側面が否めなかった)。そのため、この政権への失望と反発が強まり、翌紀元前403年にトラシュブロス率いる民主政支持勢力との戦いによって打倒された。なお、ペイライエウス港をめぐる攻防戦で三十人政権のリーダー格のクリティアスが戦死した。こうして、再びアテナイは民主政へと回帰した。

だから、ようやくにして政治の実権を取り戻した当時のアテナイ市民の間には、アテナイを苦境に陥れた者はだれかという不健全な「犯人探し」の心理が蔓延していたものと思われる。敗戦とその後の政治不安によって、プライドを深く傷つけられたアテナイ市民は、疑心暗鬼に陥り、不満足な現実を受け入れがたく思う欝情をぶちまける格好の「獲物」を探し求めていたのではないだろうか。ユングなら、ここで、集合的無意識における自律的なコンプレクスが働いている、と言うところである。

そこで、ソクラテスの登場である。人々は、ペロポネソス戦争敗北の原因となった「裏切り者」アルキビアデスや、恐怖政治を強行した三十人政権の指導者のクリティアスらはソクラテスの弟子であるとした。実は、ソクラテスは彼らを弟子とは思っていなかったのであるが。なぜなら、『ソクラテスの弁明』(青空文庫)で、ソクラテス自らが「私は正式に弟子を持ったことはありません」と言明しているのであるから。その言明の精神は、親鸞が「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」(『歎異抄』)と言明したそれに深く通じるものがある。というのは、親鸞が阿弥陀如来のお導きによって信心を得たように、ソクラテスは、デルフォイの神のお導きによって、他のすべてを犠牲にしながら哲学なる営みに専心してきたのであるから。「私は神様からみなさんへの贈り物」(『弁明』)というソクラテスの言葉に嘘はないのである。

いずれにしても、アテナイ市民は、格好の「獲物」を探し当てた。これでやっと鬱憤を晴らすことができる、というわけだ。ソクラテスの側から言えば、彼は、衆愚の無自覚なルサンチマンという始末に負えないものと対峙することになったのである。ソクラテスを訴えた詩人のメレトスや政治家と職人代表のアニュトスは、それからエネルギーを補給して、ソクラテスに迫っているのだ。ソクラテス自身そのことを、「もし私が殺されるなら、私を殺すのはメレトスさんでもアニュトスさんでもなく、世間のねたみと悪口なのです。それはこれまでも多くの善人の命取りとなってきましたし、これからも多くの命を奪うことでしょう」(『弁明』)と言って、はっきりと認識していたのである。

ここでふたたび、われわれは、『弁明』を書いたのがプラトンであるという素朴な事実を思いだそう。二八歳の若人プラトンは、ソクラテスという、自分がこの世でもっとも尊敬するかけがえのない人物が、衆愚の無自覚なルサンチマンという人間のもっとも醜くて質(たち)の悪いものに圧倒され、おしつぶされそうになっている現場を目撃しているのである。そうしてプラトンは、自分でも気づかないほどに深く傷つく。さて、ソクラテスは、そういうものにひたすらおしつぶされただけなのだろうか。それがありのままの現実なのだろうか。

「そうではない」という静かではあるがはっきりとした声が、歴史の薄暗がりの彼方から聴こえてくる。それはもちろんプラトンの声だ。ソクラテスの口を借りて、プラトンはこう言う。

かりにもしぼくが、法廷へ引き出されて、君(ゴルギアスのこと――引用者注)がいま言っているような、何かそういうことについての危険にあうのだとすれば、ぼくをそんなところへ引き出した者こそ、悪い人間だろうということだ。――なぜなら、罪のない者を、誰もよい人間は、そんなところへ引き出すはずはないからね。――そしてまた、ぼくが死刑になるとしても、それは少しも意外なことではないということだ。なんならぼくがなぜそんなことを予期しているかを、君に話してあげようか。  (521D)

ソクラテスは、なぜ死刑になることを予期しているのだろう。ここで、私は前回と同じ箇所を引用しなければならない。

ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけだとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っているのだと思っている。         (521D)

この言葉をとらえて、私は前回「取りようによっては、傲岸不遜の極みのような発言であり、独りよがりもはなはだしい噴飯ものだと評されかねない問題発言である」と申し上げた。この「問題発言」と死刑の予期とはどうやってつながることになるのだろうか。これに続くソクラテスの言葉に耳を傾けてみよう。

そこで、いつの場合でもぼくのする話は、人びとの機嫌をとることを目的にしているのではなく、最善のことを目的にしているのだから、つまり、一番快いことが目的になっているのではないから、それにまた、君が勧めてくれているところの、「あの気の利いたこと」をするつもりもないから、法廷ではどう話していいか、ぼくはさぞ困るにちがいないのだ。  (同上)

ここでも、また、『ゴルギアス』のほかの箇所を目を皿のようにして探してみても、ソクラテスは肝心要のことを言っていない。すなわち彼は、法廷に引っ張り出されたら、これまでの姿勢を貫こうとする自分は人々の反感を買って窮地に陥るだろうとは言っているが、先の「問題発言」と死刑の予期とはどうやってつながることになるのかについては何も語っていない。言いかえれば、なにゆえ自分の言動が、法廷に引っ張り出されて、死刑を求められるほどに人びとから憎まれることにつながらなければならないのかについてはなにも触れていないのである。

実はそれについて、ソクラテスは『弁明』で率直にふれている。引用しよう。

金持ち階級の若者たちが、さしてやることもないまま、自発的に私のもとに集まって、智恵者のふりをした人が試されるのを聞きたがり、しばしば私の真似をして、他の人たちを試し始めたのです。なにか知っていると思っているが、その実は、ほとんど知らないかまるで知らないということを、この若者たちにたちまち見破られた人は多数にのぼり、若者に試された人たちは、若者に怒るかわりに、私に怒ったのです。このいまいましいソクラテスめと、この人たちは言うのです。この若者を惑わす不埒者めと。

この箇所はずいぶん読み手の想像力を掻き立てる。吟味と検証とによって、「智恵者のふりをした人」の無知を、ソクラテスは、白日の下にさらす。それを当人たちの周りで耳を大きくして聴いている「金持ち階級の若者たち」(プラトンはそのなかのひとりである)の目は、好奇心で爛々と輝いていたことだろう。そうして、彼らは、ソクラテスの、哲学というものすごい威力を発揮する言葉の武器を、自分たちでも試してみることになった。すると、年長の、世間で知恵者ともくされていた人びとの無知が、どんどん暴かれるではないか。知的でひまをもてあました若者にとって、これはとても愉快で知的刺激に富んだ、強烈な経験であったことだろう。そうして、彼らは興奮して言い合ったに違いない、「ソクラテスは凄い人だ」と。

しかしながら、公衆の面前で恥をかかされた側はたまったものではない。当然、恨みつらみが残る。彼らは、上の引用にあるように、小生意気な若者たちを怒るかわりに、ソクラテスに怒りの感情を差し向けた。「このいまいましいソクラテスめ、この若者を惑わす不埒者め」と。彼らの目に、ソクラテスは、邪悪でいかがわしい黒魔術のようなものを操る恐るべき存在と映ったに違いない。しかし、ソクラテス流の対話に魅せられていた若き日のプラトンにとって、ソクラテスは、「その当時の人々のうちでいちばん正しい人であるというのをほとんどはばからない」(第七書簡より『プラトン書簡集』(角川文庫)所収)ほどの高みにある存在であった。

かねてよりソクラテスに畏れと恨みとを抱いていた彼らに、やがて好機が訪れることになった。先ほど述べたように、ペロポネソス戦争敗北の余波から脱し切れない不安定な社会情勢下で、アテナイ市民の間に、アテナイを苦境に陥れた者はだれかという不健全な「犯人探し」の心理が蔓延することになったのである。その好機を彼らは捉えたのだった。彼らは、社会不安に乗じて、ソクラテスの社会的な生命の抹殺に動いたのである。メレトスとアニュトスを代表者に仕立てて、彼らは、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じている」と裁判所に訴え出たのだった。(『弁明』)

以上述べたことが正しいとするならば、ソクラテスの窮状は、半ば以上、対話における吟味と検証とを重視する、彼の哲学の非妥協的な性格が不可避的にもたらしたものということができるだろう。窮状を招く可能性が顕在化し現実化するかどうかは、時代の動向といういわば偶然による。しかしながら、もしもソクラテスの哲学の非妥協的な性格が、本質的にはアテナイの危機的な情況の産物であるのならば、すべては起こるべくして起こったということになるだろう。今の私には、そこまで見通す力量は、残念ながらない。

それにしても、ソクラテスの敵は、ソクラテスの命を是が非でも断とうとしたわけではないような気がする。彼の社会的な生命を抹殺すれば足りる、というのが本心だったのではなかろうか。彼らのそういう本音と自分の命を救う可能性が少なからずあることとを、ソクラテスはよく分かっていたのではあるまいか(ソクラテスは、それまで、だれかれ構わず知恵があるとされている者をつかまえてはそれが幻想にすぎないことを暴きたて続けてきたのではあるが、それは神託を果たそうとする使命感からそうしているだけであって、彼はいわゆる人間音痴ではないからだ)。そのことは、『弁明』におけるソクラテスの次の言葉からも窺い知ることができる。

私はこの歳で、亡命の地を転々と変え、絶えず追い立てられて、都市から都市へと流浪しながら、どんな生活を送るのでしょうか。というのは、私があちらこちらとどこへ行っても、若者は私のまわりに群れようとし、私が追い払えば、年長の者が若者の求めに応じて私を追い払うだろうし、来るにまかせれば、父親や友人が自分たちの都合で私を追い払うのは、はっきりしているのですから。 なかには次のようにいう人もいるでしょう。ああ、ソクラテスや、黙ることはできないのか、そうして見知らぬ都市へいけば、だれもじゃまだてしないだろうよ、と。


死刑の可能性以外のものを突きつけられていない者が、追い詰められた状態で、こういう言葉を開陳するとは、私には考えられないのである。

『弁明』にあるとおり、ソクラテスの知人のカイレフォンはデルフォイにおもむき、ソクラテスよりも知恵ある人がだれかいるかどうかを教えてくれる神託を求めた。するとデルフォイの巫女はもっと知恵ある者はだれもいないと答えた。その神託が真実であることを確認する営みが、ソクラテスにとって、対話者の言葉の妥協なき検証を貫く哲学のそれであった。ソクラテスは、ほかのすべてを犠牲にして、それを貫徹してきたのだった。

追い詰められたソクラテスがひたすらに畏れたのは、自分のこれまでの営みのすべてが神託の使命を果たすためのものだったという真実に一点でも瑕疵が生ずることであった。それを防ぐためになら、ソクラテスは、自分の命などどうでもよかったのである。

そう、我が命などほんとうにどうでもよいのだ。それを自分に対して証明し、さらには、それを共同幻想として決定的に確立するために、自分は、自ら死刑を求めるよりほかにはない。そうすることが、神託の所在を証明する直接の証拠にはならずとも、それを間接的に証明するうえでもっとも効果的なやり方である。そうソクラテスは思い定めたのだった。それをソクラテスは次のような言い方で表現している。

今朝家を出るときも、法廷に向かう途中も、また言いたいことをしゃべっている間も、神託は反対の徴をなにも出さなかったのです。ところが、私は演説の最中によく中断したのですが、今度は当面の問題について話したり行動したりしないと、神託が私に反対するのです。この沈黙を私はどう説明したらよいでしょうか。言いましょう。それは私の身に起こることは良いことであり、死が災難だと思っている人は間違っているという暗示なのです。というのは、私が悪いこと、良くないことをしようとすれば、いつもの徴が私に反対するのは確かだからです。  (『弁明』)

自分は、神託が真実であることを確認する使命の遂行者であるという確信に瑕疵が生じないように、言いかえれば、哲学者としての自分を守るために、ソクラテスが、死刑に処されることを望んだことは、つぎのエピソードからも窺い知ることができよう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9 Wikipedia「ソクラテス」

神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだとされる。

紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。

自ら望んだ刑死は、我が身に降りかかった悪質なポピュリズムの圧力を我が命とひきかえに押し返す戦略でもあった。そのことをソクラテスはきちんと認識をしていたようである。

私は我が下手人であるあなたがたに、私が世を去った直後に、あなたがたが私に課したよりはるかに重い罰が、あなたがたを待ち構えているのは確かだと予言しておきます。  (『弁明』)

彼の予言はどうやら当たったようである。Wikipediaに次のような記載がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9#.E8.A3.81.E5.88.A4.E3.81.A8.E6.AD.BB 「ソクラテス・裁判と死」より

ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。

むろんこの「予言」は、その後の結果を知るプラトンによって、ソクラテスの慧眼を誇示するために、書き加えられた可能性があることを、私は否定しない。

そろそろまとめよう。

ソクラテスの刑死は、避けようのない歴史的な事実であるのと同時に、ソクラテスの妥協なき哲学的営みの必然的な帰結でもあった。そのことが、ソクラテスの死に崇高さの印象を付与することになるのだ。言いかえれば、プラトンは、ソクラテスの死に、避けようのない愚劣な現実の真っ只中で、それを押し返す精神の自由の強靭な響きを聞き取ったのであった。ソクラテスの、真理の使徒としての魅力的な形姿は、永遠の相として、プラトンの心をとらえた。

ソクラテスの死を積極的な意味があるものとして掴み取ろうとしたプラトンは、それゆえ、我が身を超えたところにほんとうのこと、すなわち真理を求めるやみがたい心的傾向を植えつけられることになった。そうでもしなければ、最愛の友ソクラテスの死は無駄死にであったということになりかねないのであるから。それは、プラトンにとって、到底受け入れがたいことであった。

それゆえプラトンは、圧倒的で天才的な筆力によって、真理の「ほんとう」の在り方を執拗に描き続けた。その結果、後世の哲学者たちは2000年以上に渡って、プラトンの真理イメージに強く呪縛されつづけることになったのである。プラトンの筆力には、それほどの魔力が存する。

当論考のテーマである「哲学と政治」に引き寄せて、ひとつだけつけ加えておこう。ソクラテスは、現世において、政治なるものに敗れた。それは厳然とした事実である。しかしながら、その、命とひきかえの負けっぷりの良さによって、かえって、後々に至るまで、プラトンの筆によって描かれたその形姿に接する者に対して拒み難い魅力を発揮することになった。それをソクラテスの勝利と呼ぶべきなのかどうか、私には判断しかねるのである。   (おわり)

〔付記〕

書こうか書くまいか、いささか迷ったのだが、書いてしまうことにした。

今日(六月二〇日)の午後、私はひとりで喫茶店にいた。月に一・二度の頻度で来店する、昭和の雰囲気を残した喫茶店である。客のまばらなほの暗い店内に、生ギターをフィーチャーしたアコースティックなBGMが流れていた。本を紐解いていた私は、不意に、ソクラテスがすぐそばにいる気配を感じて、愕然とした。それは明らかに、ソクラテスのことを考えているという状態とは違っていた。その気配をあえて言葉にすれば、「それで美津島くん、私のことが何か分かったのかね」と語りかけているようなのだった。そのたたずまいは、古代戦士の不屈の魂を宿した物静かな老人であった。

めったにない経験だったので、「コイツ、頭がおかしい」と思われるのを覚悟で、書いた次第である。一種の意識の変容のようなものを経験したのだと思う。その、若々しい分け隔てのない態度に、私は、彼の哲学の風韻を感じて、胸が打ち震えた。(やっぱり、おかしいよなぁ)
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先崎彰容氏・「戦後」思想のかんたんな復習 ~網野善彦編~(イザ!ブログ 2013・6・12,16 掲載)

2013年12月16日 07時13分54秒 | 先崎彰容
ブログ編集者より

最近先崎氏は、ちくま新書から『ナショナリズムの復権』を上梓しました。これからの世界史の流れにかかわるものと思われる米中会談がつい先日終わり、心ある人々はなにやら胸騒ぎがしているものと思われます。アメリカは日本を見放すのか、と。その世情を察したのか、当著は、書店で平積みになっています。タイトルひとつとってみても、タイムリーな出版と言えましょう。

******

「ナショナリズム」について考えた本で、網野善彦(1928-2004)を取りあつかうなんて不思議ですね。しかも吉本隆明と絡めるなんて――こんな感想を、さいきん複数の人から受けた。たしかに、そうかもしれない。網野と言えば、誰でも知っている「網野史観」を確立した有名な日本史家だ。いっぽう吉本と言えば、戦後を代表する在野の知識人で一生をつらぬいた人だ。

彼らに共通する問題意識など、あるのだろうか。立場も考えも、さっぱりつながるようには思えない。それをどうして、「国家について考える」ときに使ったの?? というわけである。

なるほど、その通りだ。「直言の宴」の主催者は寛大な人である。こうした時代から少し離れた問題でも、掲載を許してくれるからだ。だとすれば、ここで少し、網野善彦とは誰なのかを説明してみよう。『ナショナリズムの復権』の書き洩らしを、ここで補足しようという魂胆なわけだ。

                 *

網野の専門は、時代で言えば「中世」だった。高校の先生をしていた時に、生徒から「なぜ、鎌倉時代に多くの仏教者が一気に登場してきたんですか?」という質問を受け、網野はがく然とした。こんなに一生懸命、勉強してきたのに、答えられなかったからだ。よく学者のあいだで使う言葉がある、それは「教科書に載るような学問をせよ」というものだ。

学者の言う事は、専門的でむずかしいことばかり…これは、ほんとうは嘘である。学者は教科書に載るような、もっとも骨太で素朴な問題に勇敢に取りくむべきなのだ。

網野はそれができた学者だった。では彼はどのような経緯で、大日本史家になっていたのだろうか。

網野の本を、「中世の専門家の本」だと思って読んでいては、駄目なのである。私は、網野は、1968年の全共闘革命運動後に登場した「戦後の知識人」として評価すべきだと思った。そして、民俗学者の赤坂憲雄氏とおこなったシンポジウムで、そのことをしゃべってみた。赤坂氏は、非常にそれを高く評価してくれたし、東北大の日本史の専門家も、私の説をきわめて妥当だと言ってくれた。だから、次に書くことにおそらく間違いはないだろう。

網野が登場するまで、日本史を席巻していたのは、あの「マルクス主義歴史観」なるものであった。その特徴を一言で言おう。それは徹頭徹尾「土地」に関心を持っているという事である。

だが網野は違った。日本史を生き生きと描くためには、「土地」にしばられてはいけない。「土地」から自由な人たち、つまり漁民とか、商人とか、そういう人の生活を描けなければ駄目なのだ、網野はこう思った。

つまり網野の歴史観は、60年代まで席巻していた「講座派」などと呼ばれるマルクス主義歴史観のその先をゆく、最先端の歴史観だったのだ。

さらに、網野はもっともっと最先端の思想家だった。彼の考えた歴史の見方は、80年代に日本を席巻する思想、そう、かのポスト・モダンの先駆けでもあったからである。

網野史観と、ポスト・モダン。いったい何が同じなのか。

それは「土地」にへばりつくことを嫌ったという点にあるのだ。自由と移動を肯定する思想。自在にうごきまわることを肯定する思想が、網野の描きだす商人たち、漁民たちの生き方そのものだった。その軽やかな思想は、歴史のお墨付きを得たというわけだ。資本主義の極北=大量消費社会を思いだそう。もっと分かりやすく、ファーストフード店を頭に思い浮かべてみよう。

そこでは、世界中どこでも、誰でも、同じものを食べることができる。世界中を同じ商品が駆け巡り、その土地その土地の特徴ある食べ物を蹴散らしてしまうのだ。この移動性、拡散性こそ、ポスト・モダン思想を、背景で支えている時代の雰囲気である。

だから私は、網野の思想を「戦後」から読むことができると言っているのだ。網野の登場とは、「戦後」の日本の思想家たちの動きにつながっている。網野は中世が専門の日本史家であると同時に、「戦後」思想家なのだ。

今日はここまで。次回は、では吉本隆明との関係は?という問いにお答えしよう。もう、みんなさん薄々、分かって来たのではないでしょうか。(以下、次回)


*****

私はいま、新書『ナショナリズムの復権』で書きもらしたことを、説明している。

ほんとうは、もう少し引用し、丁寧に言いたかったことを補足している。それは「網野善彦と吉本隆明をどうして一緒に取りあつかうのか?」という友人の質問からだった。

ナショナリズムを考える。そのとき、どうして網野善彦なのか、それの吉本との関連とは何か?

もう少し、網野の説明をつづけよう。次の引用を見ていただきたい。

日本における西欧中心主義史観の牙城たる日本共産党=講座派史学から出発した網野のそこからの脱却は、まさしく「リオリエント」的転回にほかならなかった。それは図らずも(?)、定住に対するノマド、農業に対する商業、国家に対抗する戦争機械…といった…「六八年の思想」と呼応することとなったのである…それは即ちマルクス主義的「前衛」からの離脱が民族的下層「民衆」への視座の転換によって保証され癒されるという、日本においても繰り返されてきたパターンを踏襲するものであったのである。周知のように、一九三〇年代のコミュニズムからの「転向」現象の簇生以降、日本の「良心的」マルクス主義者たちの一部は、柳田国男の民俗学へと接近した。これもまた、「リオリエント」的現象の一つとはいえる(絓秀美『革命的な、あまりに革命的な』。作品社、2003年、11頁)

このままでは分かりにくいと思われるので、説明しよう。「講座派」という歴史観から、網野は脱出した思想家だった。その網野史観の特徴は、1968年=全共闘運動以後の日本のモノの考え方、流行を先取りしていると言っているのが前半。

その網野が注目したのは、商業、定住の否定であることもこの引用から分かるだろう。やはり、網野は「戦後」の思想家、とりわけポスト・モダンの思想家といっていいのである。

ところでここで、絓秀美さんがポロリと書いている「柳田国男」に注目してほしい。ここに吉本隆明とのつながりがあるからだ。読者はすでにお分かりのとおり、吉本隆明が『共同幻想論』で、さらに『柳田国男論』で柳田に注目していたことを、ここで思い出してみたいのである。

すると、吉本が、柳田国男の『遠野物語』を引用し、一生懸命分析していることに気がつくのだ。その詳細については、私の新書を読んでほしい。でも、ここで結論だけ言うと、結局、網野善彦も吉本隆明も、「土地」をめぐって商人/農民、漂泊/定住、つまり動きまわる生き方を良しとするか、しっかりと土地に根づいて生きていくことを理想的だと考えるのか、この二つの人間像のまわりをグルグル回っていることが分かるのだ。

もう一度、言おう。ポスト・モダンの思想家・網野善彦は、動きまわること、資本主義の商品のように、世界中を移動するのがいいと思った。

だが吉本は違った。柳田国男を参照している時点での吉本は、土地に根づいて生きていることへの共感をもっていたのだ。少なくとも、この問題の重要性にだけは、気がついていたのである。網野と吉本は、おなじ問題の周辺をめぐり歩いていた「戦後」思想家だったのだ。

結論を言おう。網野善彦と吉本隆明を「ナショナリズム」を考えるために、なぜ、並べたのか?

それは、今、私たちがナショナリズム=外交問題・政治問題だと思い込んでいる、その「常識」を叩き壊すためだ。国家についておしゃべりする、するとすぐに外交と政治ばかり取りあげる「強がり」に疑問を投げつけるためだ。

そうではない、私たちにとって国家は、そして国家について考えることは、網野や吉本のように、自らの生き方について、生のスタイルについて考えることなのだ。

ナショナリズム――それは、落ち着きなくウロチョロするのがいいのか、歴史に抱かれた土地で、静かに生を営み、生を終える方がいいのか、そういう、もっともっと倫理的で奥深い問いなのだと言いたかったのである。(おわり)



ブログ編集者より

先崎氏の『ナショナリズムの復権』は、売れ行き順調のようです。ブログ仲間として、とても嬉しいことです。文芸批評を核とする日本近代の知的遺産に深い敬意を払いつつも、その湿気の多い呪縛から解放されている者のさわやかさが、書き手としての先崎氏にはあります。近代日本思想のユニークな得難い継承者のひとりであることは間違いないでしょう。当新書のアマゾンURLを掲げておきます。
www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%BE%A9%E6%A8%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-1017-%E5%85%88%E5%B4%8E-%E5%BD%B0%E5%AE%B9/dp/4480067221
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