美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎氏「タチの悪い言論とは何か――内田樹批判」についてのコメントと応答(2013・8・2)

2013年12月18日 23時14分37秒 | 小浜逸郎
小浜逸郎氏「タチの悪い言論とは何か――内田樹批判」についてのコメントと応答

*Commented by soichi2011 さん

以下は拙著『軟弱者の戦争論』で述べたことの要約ですが、今回の記事に関連しそうなので述べます。
 対象にしたのは内田樹氏の処女出版『ためらいの倫理学』冒頭に収められた二つの短文「古だぬきは戦争について語らない」と「アメリカという病」です。ここで氏は、コソボ紛争時にナトーによるユーゴ空爆を支持したスーザン・ソンタグを批判しています。
 内田氏の大前提は、「泥棒にも三分の理。ましてや戦争だ。ミロシェビッチにだってNATOにだってコソボ解放軍にだってギリシャにだって、それぞれ言い分はあるだろう」から、戦争当事国のうち、どちらかが正義でどちらかが悪だなどと言うことはできない、というものです。そこからして、戦争に対してはシニカルな態度ではなく、決然とした立場をとることを知識人に求めるソンタグを、「とてもアメリカ的」だと言います。自らの正義を疑わず、武力を使ってでも他国にも押しつけようとするところが。自分は腰が引けていて、それは「日本の腰の引け方と同型」なのかも知れないが、悲惨な戦禍を引き起こすのはたいていは「決然」としているほうなのだ、と。
 問題はもちろんソンタグの支持とか、それ以前に空爆は正しかったか、などではありません。内田氏はそれについては自分は語らない、語りたくもない、と言っているのですから。彼は態度決定を迫るソンタグの押しつけがましさをいやがっている。それはわからなくはないです。しかし、俺はどんな立場も取らない、なんて「主張」したら、それ自体が「立場」になってしまい、しかも立場をとったことに対する責任は頬かむりすることになる。とてもズルいやり方だ。「古だぬき」を自称するからには気づいている、のかなあ?
 コソボ紛争については、たいていの日本人は「知らない」ですましていいでしょう。では、内田氏の前提を、日本が当事国だった大東亜戦争に応用するとどうなるか。「あれだけの大戦争で日本だけが悪いなんてことはあるわけない。そんな主張をするヤツは愚かだ」。これだと立派な「立場」だと、少なくともある国からはみなされるでしょう。だからその部分では、口を噤んでいる。局外者の身軽さがある時しかものが言えない。どうしてもそう見えてしまうのは、内田氏個人でも、「同型」とされる日本でも、やっぱり恥ずかしいんじゃないですかねえ。


*Commented by kohamaitsuo さん
soichi2011さんへ。

 スパイシーなコメント、ありがとうございます。
 貴兄がすでに『軟弱者の戦争論』で内田氏を批判していたことは覚えていましたが、その文脈を忘れていました。今回改めて貴コメントを読み、その鋭い批判に「わが意を得たり」の思いでした。
 局外者なら「決然としない」「立場をとらない」という立場が何やら考え深げでかっこよく見えますが、おひざ元の問題になったら立場を取らざるを得ないことがあるわけですよね。内田氏の好きな「おフランス」でも、サルトルやマルローら知識人は、間違う可能性を承知のうえで最終的にある立場をとっています。それが正しかったのかどうかは、ここでは問いません。
 内田氏のような言説が許されるのは、日本の知識人がオキラクな「立場」にいられるからこそです。そのぶん、政治家が時々業を煮やして本音を吐き、そのたびに「失言」として葬られてきました。本当は、知識人こそが内外の批判を恐れず、それらの本音が正しいと思われる場合には、その根拠を情理を尽くして説き、サポートしなくてはならないはずです。もちろんそれをしている人も少数ながらいますけれど。
 やれフーコーだ、やれレヴィナスだと、西洋知識人の輸入業で飯を食ってきた多くの戦後日本知識人は、「局外者の身軽さ」が染みついているせいか、わが同朋の問題に触れるときになると、とたんにその幼稚さと無責任ぶりと逃避癖をさらします。内田氏にぜひ大東亜戦争について「日本だけが悪いなんて決めつけられるはずがない」と言わせてみたいものです。そうでないかぎり、彼もまた、あの戦後日本知識人たちの悪弊をそのまま踏襲するひとりとして位置づけられることになるでしょう。「内田樹よ、お前もか!」
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小浜逸郎氏・タチの悪い言論とは何か――内田樹批判(イザ!ブログ 2013・7・29,8・1 掲載)

2013年12月18日 22時33分28秒 | 小浜逸郎
小浜逸郎氏・タチの悪い言論とは何か――内田樹批判



私はジャーナリズム言論あるいは知識人言論のあるべき姿を、基本的には次のように考えています。

書き手が時代の現状をできるだけ把握したうえで、その状況に対してある主張・意見を示し、なぜ自分はそういう主張・意見をもつのか、その根拠を、論理的に説明する。それは突き詰めて言えば自分の思想的な立場(政治的な立場ではありません)を鮮明にすることにつながる。要するに、「私はこの問題に関してはこう思う」とはっきり言うことである、と。

しかし、そうは言っても世は複雑で難解。必ずしも立場を言葉で鮮明にできるとは限らないし、それが無条件にいいとも言い切れないこともあります。厚みを失った単純な裁断は、時として言論文化を腐らせる元にもなるからです。ですから、そういう場合には、「このことに関して自分はいまのところはっきり決断できない」とか、「この点については疑問なしとしない」とか「こちらの言い分にも共感するが、こちらの言い分にも一理ある」というような一見曖昧な、どっちつかずの文体であってもかまいません。それだけでも言論として発表する値打ちはじゅうぶんにあります。それはそれなりに一つの問題提起であり、読者をして考えさせるきっかけを与えるからです。

いずれにしても、ジャーナリズムに言論を発表する以上は、現状の何が問題であり、自分はそれについていまのところこう考えている、ということだけは明確に語る必要があるでしょう。

それはもちろん間違う可能性が大いにあります。人間はもともと不完全な存在だからです。でも、その間違う可能性をも織り込みながら、局面、局面で最大限広い視野を展望しつつ決断を下していく。もし間違ったことが明らかになったら、その時点で間違いを潔く認め、きちんと訂正する。そういう責任の取り方が大切で、こういうことを果たしているのが「タチのよい言論」だと思います。

それに対して、「タチの悪い言論」とは、はじめから自分のイデオロギー的な好みが決まっているのに、それを読者に刷り込むために何やら客観的に見える事実や証拠の断片とおぼしきものを寄せ集めてきたり、怪しげな権威筋を借りてきて説得力があるかのように装ってみせたり、いかにも意味ありげなひねくった文体を意識的にとる、そういう言論です。しかも、肝心のところでその言論のもとになっている基礎認識が間違っているのに、そのことを自覚していない。だからじつは自分の好みのイデオロギーを押しつけているだけなのです。

この場合、当の書き手は、「客観性」や「権威性」や「高級めかした文体」に自分をゆだねていますから、言葉を発表するということに伴う決断と責任を無限に回避していられます。こういう巧妙さ、狡猾さは、日本の知識人の一部に見られるお家芸で、彼らは、戦後の「言論の自由」の恩恵に長い間甘えてきたために、言論がもつべき公共的な責任意識をすっかり忘れてしまったのでしょう。

これから取り上げる内田樹氏の論文「アメリカからの『警告のシグナル』」(『新潮45』2013年8月号特集・私の憲法論)は、まさにその典型とも評すべき論文です。

内田氏は、いまかなりの売れっ子評論家です。私はそれほど深く読み込んだことがないのですが、ホームページから立ち上げた処女作『ためらいの倫理学』(冬弓舎・2001年)以来、大文字の「正義」の胡散臭さをたえず相対化してみせる繊細で柔軟な思考スタイルを売りにしてきたことは間違いないでしょう。フェミニズムやポストモダニズム以後の若い世代のインテリが、左右を問わず既成のイデオロギーに対して感じてきた違和感にうまくヒットしたのだと言えます。つまらぬ理想をけっして掲げず、自前の感性を大事にしながら好き嫌いをきちんと言う、というところが受けたのでしょうね。成熟社会の文化的特徴とも言えるでしょう。

たとえば、セックスワーク(売春)について書かれた次の論文などは、フェミニズムの論理破綻を鋭くかつ緻密に指摘してなかなか読ませます(2003年)。blogos.com/article/63222/ 

しかし、最終的に私は、この人の考え方に賛同できません。まさに「ドミナント(支配的)な思考制度」に対して、それがただドミナントであるからというだけの理由で、自分の個人的な嫌悪感を論述の基本的なモチベーションにしており、そこにのみ自論のアイデンティティを置いてるとしか思えないからです。ちなみに、ここでは触れませんが、セックスワーク(売春)については、少し前に私自身も書いていますので、興味のある方は、読み比べてみてください(『なぜ人を殺してはいけないのか』洋泉社・2000年)。

私はじつは、どうもこの人は、硬直した思考の隙間をねらって撃つというテクニックに長けてはいるが、本人が根のところで持っている政治観、社会観、倫理観は意外に単純で、政治や経済に関して不勉強な日本の文学者などにありがちな、ただの反体制、反国家的な心情主義にすぎないのではないか、という疑いを抱いてきました。でも語り口が洗練されていて巧妙で、いいことを言っているところもあり、なかなかシッポをつかませないな、と感じていたのです。

 最終的に特定のイデオロギーにおもねず、個人の好き嫌いをはっきりさせて物事を判断するというのは、「言論の自由」をよく生かしていることになりますし、論じる対象によっては、それがいい持ち味を出すということも大いにあります。しかし、政治言論は、それでは少々困るのです。この領域は、主観的には自分の個人的な判断だと思っていることが、じつは特定のイデオロギー(ドミナントな価値観)にまったく籠絡されているにすぎないということが最も起こりやすい領域だからです。

今回の彼の論文は、まさにそのような代物であり、とうとうその馬脚を現わしたと思いました。

さて本題です。『新潮45』の論文は以下の書き出しによってはじまります。

改憲が政治日程にのぼっているという情勢判断に基づいてこの特集が組まれているのだが、私は安倍自民党は改憲をなかば諦めているというふうに判断している。

ところがすぐ次を読むと、この「判断」なるものは、競馬の予想屋のような「判断」とは違って、かなりの部分まで「私の主観的願望」なのだと言います。

でも、あまり心楽しむことのない政策が続いている安倍政権にひとつくらい「希望」を持たせてもらってもいいじゃないか。というわけで、私の「希望」の拠って来たる所以について以下に管見を記す。

つまり自分は安倍政権の政策に批判的であり、その批判を「希望的観測・予測」のかたちで述べさせてもらう、と言うのですね。もし安倍政権の政策に批判的なら、それは大いに結構なことで、この政策はこれこれこういう理由で国民生活をよい方向に導かないと思うから反対である、と論理を駆使して述べればよいはずです。それなのに「願望」とか「希望」にすぎないものを、客観めかした「判断」のかたちで述べる、というのは、なんだかおかしくはありませんか(ちなみに私自身は、安倍政権の政策には賛成できるものもあれば賛成できないものもあるけれど、ほかにこれを凌駕するだけの定見のある党がないと考えています。ご関心のある方は、このたびの参院選公示直後に書いた以下の拙稿をご覧ください。http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8a6d883f24d81296fbc4c3669e6005f7)。

でも、こういうことをあえて「言ってみせる」ところがこの人の巧妙なところなのですね。かなりの部分まで自分の主観的な願望なのだと告白しておけば、その誠実さのポーズが担保できるわけです。じっさい、人間のやることですから、完全中立な判断など不可能ですし、事実いまの世の中、右から左までただの恣意的・感情的な価値観にすぎないものをいかにも客観的・科学的・中立的めかして論じている欺瞞的な言説には枚挙にいとまがありません。それに比べれば、内田氏のこういうレトリックは、「まだマシ」ということになりましょうか。

しかし、では彼はこの論文でどういう「願望」をどういう「価値観」に依拠してどのような「判断」のかたちで述べているか。続くくだりを読むと、そのカラクリがまったくお粗末であることが透けて見えてきます。

まず彼は、安倍首相が4月に「村山談話をそのまま継承しているわけではない」と踏み込んだ発言をし、後に参院選前の政治的な情勢判断から、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない。安倍内閣としてもこれまでの歴代の内閣の立場を引き継ぐ」とトーンダウンさせたことをとらえて、「食言」であると非難します。しかし私は別に安倍首相の肩を持つわけではありませんが、政治家がとにかく選挙に勝つためにこの程度の「訂正――引っ込め」発言を行うことを取りたてて非難に値するとは思いません。政治とはそういう妥協と術策の連続だと言っても過言ではないでしょう。

たとえば内田氏は、民主党政権を正面切って非難したことは(おそらく)一度もないようです。あの政権がいかにマニフェストなるものを振りかざしながらまったく約束を守らず、統制も取れず実行力もなく、しかもそのほとんどの政策の実現自体が国益(国民の利益)を損なうものでしかなかったかという周知の事実をどう見ているのでしょうか。それについてはだんまりを決め込みながら、圧勝が確実視されていた与党党首が、選挙戦中に「逸る駒」の手綱を引き締めるために行った「食言」だけをあげつらうというのは、とても偏った態度ではないでしょうか。

それはともかく、内田氏は、安倍首相が「食言」せざるを得なかったその根拠を二つ持ちだします。一つは、ニューヨークタイムズ(以下、NYTと略記)に安倍発言(4月のもの)批判の社説が掲載されたこと。もう一つは、2月の安倍首相訪米の際のホワイトハウス(以下、WHと略記)の冷淡な態度と、パク・クネ韓国大統領と習近平中国主席とが訪米した際の厚遇の態度とのコントラスト。特に習近平主席との会談が8時間に及んだことを強調しています。

氏が言いたいのは、アメリカという超大国が、その同盟関係にある日本に対して批判的で冷淡な態度をとったことが、日本の外交筋を畏れさせ、その結果が安倍首相の「食言」につながったということです。

ここに、氏の考え方のインチキ性がいかんなく発揮されています。ひとつひとつ行きましょう。

まず、氏は、NYTを無条件に「クオリティペーパー」と呼んで、その社説の批判的評言が何かものすごく大きな正統的権威をもつものであるかのような威嚇的言辞を弄しています。私見では、NYTは、いうなれば日本の朝日新聞。もっと言えばただのサヨク新聞です。一応は広く言論を集めて懐の深さを見せているようですが、社説にこそその社是がよく現われています。ワシントン・ポスト(WP)のほうがはるかに公正な姿勢を示しています(一例として、産経新聞7月29日付、各国の新聞の社説紹介欄「環球異見」におけるWP紹介記事を挙げておきます)。

さて氏は、なんの実証的根拠も示さずに、次のようなことを言っております。

この「叱責」(NYTの社説――引用者注)はむろんアメリカ政府からの直接のものではないが、米政府の意向をかなり強く反映しているものと官邸は受け止めた。

これ
(首相の訂正発言――引用者注)はどう見ても首相の発意によるものではなく、アメリカに「強制」された前言撤回と解釈すべきであろう。

NYTの社説による安倍発言批判が、2月訪米時のWHの対日批判姿勢の証拠だというわけです。バカじゃないの。

あのね。安倍発言は4月でNYTの社説も同じ日。訪米は2月。なんでたかが一新聞の「叱責」なるものが2カ月も前の中央政権の「冷遇ぶり」の証拠になるの。

だいたい夕食会や記者会見がなかった程度のことが、どうして「冷遇」と決めつけられるのか。私はこれを特に日本の代表・安倍首相への冷遇とは思わないのです。アメリカはいま国内事情・中東情勢でたいへん。同盟国との信頼関係はそこそこ継続しているので(むしろ安倍政権の誕生で民主党時代の日米関係の懸念は払拭されたことが確認済みだったので)、特に賓客・珍客を迎えるような必要性を感じなかっただけのことです。ああ、いつもの友達が帰ってきてくれたね、ということですよ。

これに対して、韓国、中国、特に中国は、いまアメリカにとって真剣に、じっくり相手にしなくてはならない「問題大国」です。外交上「歓迎」のポーズを示す必要があると考えるのは当たり前じゃないですか。内田さん、あなたも多くの日本人のように自己中心的でお人好しですねぇ。

オバマ大統領と習主席とが8時間会談したというのは、何もアメリカが日本との同盟関係を捨てて心底中国との友好関係を築こうなんて考えているからではない。厄介な相手が来たら、長く話し込むのも当たり前。ちなみにこれ、知ってますか。同席した高官の証言ですが、習さんが日本との領土問題に触れて喋々とやりだしたら、オバマさんが「そこまでにしましょう。日本はアメリカとの同盟国です」と制止したという話。

 しかし私は某社会学者のように「アメリカ教徒」ではないので、こうしたやり取りの中に、日米間の絶対の信頼関係を見て喜ぼうなどとは思いません。オバマさんの心境からすれば、「その問題はそちらで解決してくれない? それはそれで考えてはいるけど、ちょっといまウチはたいへんなんだからこっちにあんまり尻を持ち込まないで」といったところでしょうね。見かけ上の厚遇冷遇の差なんかに、アメリカ政府の本音は出ていません。

内田氏は、いかにも冷静に情勢判断をしているように見せながら、言いたいことはとても単純で幼稚です。

それゆえ参院選後も安倍内閣の「対米従属」の基本的な構えは変わらないと私は思っている。アメリカが「中韓との関係を緊張させることはしてはならない」というはっきりしたメッセージを出してきている以上、安倍自民党が改憲をこれ以上ごり押しすることはありえない。(中略)それ(改憲の強行――引用者注)は「戦争ができる国になる」という宣言にほかならず隣国からの激しい外交的な反発を招くことは間違いない。

だから、アメリカは「今は改憲すべき時ではない」ということをすでに安倍首相に対して複数のチャンネルを通じてはっきりと伝えているはずである。長期政権を狙うなら首相にこれを拒否する選択肢はない。(中略)だから、改憲は参院選の争点にならないし、仮に選挙で自民党が圧勝しても、やはり近い未来の政治日程には上ってこない。以上の日米関係の文脈に基づいて私はそう予測している。

内田さん、「予測」が外れてザンネンデシタ。この文章は選挙運動期間中に書かれたもののようですが、すでに投票日の直前に安倍首相は、「公明党にも理解してもらうよう、じっくり取り組んでいくが、9条改正を政治日程にのぼらせてゆく」とはっきり言明しています。しかも選挙での圧勝後すかさずASEAN諸国を回り、現憲法下の制約のもとでは、自衛隊は、平和維持活動で一緒に活動しているあなた方の国軍が隣で危機に陥っても助けることさえできないのだ(つまり集団的自衛権が認められていないのだ)と発言しました。その非常識な日本の現状を知った各国首脳はびっくりしたようです。

内田氏の「判断」「予測」能力にはいくつもの欠陥(病気)があります。

あの巨大な国アメリカの一メディアNYTと中央政権WHの意向とを単純に同一視するような近視眼。待遇の形式的な差だけを根拠に、アメリカ親分が日本の新政権に対して根本的に批判的なのだなどと考える被害妄想。近年の東アジア情勢の緊張、特に中国が引き起こしているそれはまったく新しい事態であり、現に早急な対応を迫られているという現実については、いっさい言及せずに頬かむりしているご都合主義(この姿勢は私が触れたかぎり、最近書かれた彼の他の論文でも一貫しています。たとえば blog.tatsuru.com/2013/07/12_1234.php

しかし何と言っても一番問題なのは、アメリカに叱られたのだから改憲はやめなさいという自虐的な説教です。これって、占領統治時代から受け継いだかつての甘ったれサヨクの精神とまったく同じですね。超大国アメリカの傘の下でこそ戦後日本の安全保障体制は維持されてきたのに、その現実を認めず、アメリカ資本主義や核問題や基地問題や憲法改正問題に対して一応ガキの反抗を試みてみたりはする。でも心の底ではアメリカ親分にしっかり媚びることも忘れず、「いざとなったら守ってくれるよね、でも見放されたらどうしよう。日本の保守政権よ、改憲なんかやって、もしそうなったらあんたの責任だからね」と身勝手な思いを抱いている。戦後日本の奴隷根性、属国根性は、アメリカという虎の威を借りて時の政権を批判してきたこういう万年野党的なスタイルにこそ最も如実に表れるものなのです。

しかも内田氏の場合、非常にタチが悪いと思えるのは、この説教を「私は改憲に反対だ」と堂々と言わずに、「改憲するとアメリカの不興を買うに決まっていて、そのことを官僚も理解しているから、安倍政権も改憲に踏み込めないだろう」なる回りくどい「情勢判断」として提示している点です。これは、自国がどんな危機に巻き込まれた有事の際でも、アメリカのご機嫌をうかがわなければ何もやってはいけないと言っているのと同じで、まさしく奴隷根性以外のなにものでもないではありませんか。志位さんや、いまや政治生命が断たれた(失礼)瑞穂さんの空想的平和主義のほうが、まだしもすっきりしていてカワイイ。

上記のブログで、内田氏は、自民党の改憲案に反対して、いろいろと反論しています。この中で、自民党の改憲案が新自由主義やグローバリズムに都合よくできているという点については、なかなか鋭い批判であり、私も同感です。なお私自身は、自民党の改憲案や産経新聞の改憲案には別の理由から根本的に賛成できません。しかしこれについては、

http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f

を参照していただくとしましょう。

さて内田氏の改憲批判には、『新潮45』での論文とほぼ同趣旨の部分が多いので重複を避けますが、これまで指摘してきた以外に、三つの問題点があります。

ひとつは、戦後の日本で平和が維持されてきたのは、日本国憲法のおかげだと説いている点です。これは、国際政治上で危うく平和が保たれるのは大国のパワー・バランスによっているのだという常識を知らないバカげた議論です。東西冷戦構造下での軍事的・政治的な均衡状態が続き、日本は安保条約によってアメリカとの同盟関係を最重要視してきました。冷戦崩壊後もこの関係は続きました。だから平和が保たれてきたので、日本国憲法の超理想主義的な内容とは関係ありません。こういうところに過度な重きを置くのは、現実感覚を失った一部戦後知識人の悪い癖です。

第二に、いまアメリカの覇権が後退し、それに乗じて中国がアジアに露骨な侵略的意図を示している。こういう東アジア情勢の大きな変化の中で、もはや現行憲法の「空想的平和主義」は安全保障上の障害となっているだけです。

内田氏は、「(自民党は)『この憲法では国を守れない』と言い募るだけで、『この憲法のせいで国を守れなかった』事実を一つとして挙げていない」と批判しています。しかし、もともと憲法のせいで国が守られてきたのではないのだし、これまで僥倖が重なって平和が守られてきたにしても、国際情勢の急激な変化には迅速に対処しなくてはならないのですから、こういう論理は「護憲」を正当化する根拠には全然ならない。事実、尖閣問題では、領土・領海・領空を日々脅かされながら自衛隊が満足な防衛手段を取ることができないわけです。内田氏は(サヨクはみなそうですが)、そういう現実問題との絡みで憲法問題を論じようとはけっしてしません。

第三に、内田氏は、現行憲法がアメリカの占領統治のための暫定的措置にすぎなかったという成立過程を全く無視しています。この憲法は、日本人の伝統的な国民性にも合わず、文章もヘンな文章で、不必要な重複、順序のおかしさなど欠陥が目立ちます。それでも護憲派の言い分にしたがうなら、たとえ「押しつけ憲法」でも国民がそれを受け容れて、現実にそれによって平和が保たれたのだからいいじゃないかというわけでしょう。これはいま繰り返したように国内だけしか見ない視野の狭い認識なのですが、いくら説得しても説得不可能でしょうから、一つだけこういう例を挙げておきましょう。

日本国憲法の草案作りに最も深くかかわったGHQ民生局のケーディス大佐(当時)が、30年後に本国で、憲法がそのまま生きているというのを聞いてびっくりし、「えっ、まだ変えていないのか!?」と言ったそうです。内田氏の大好きなアメリカ人です。それから40年近くたちましたが、このみっともない憲法は、まだ一行たりとも変わっていないのですね。

もちろん、ただ情勢の変化に合わせて必要事項をごちゃごちゃ書き加えるのは、そもそも憲法というものの精神に反しており、けっしていいことではありません。しかし逆に「平和が保たれたから護憲」という間違ったロジックで、この欠陥憲法をそのままにしておくのもどうかと思います。私は一部の人が唱えている「廃憲」もありだと考えています。

内田氏が、改憲すると「戦争ができる国になる」といった小学生並みの危機感から改憲に反対しているにすぎないのは、上記の引用部分から明らかです。これは、いまや政治生命を絶たれた(失礼)瑞穂さんなどとまったく同じことを言っているとしか受け取れません。鋭敏な感性と深い思考力の持ち合わせを多少とも自負する言論人なら、もう少しひねりを効かせてみてはいかがでしょうか。じつはただのナイーブな空想的平和主義者(戦後にのみ登場した突然変異種)にすぎないのに、何やら回りくどい理屈を弄して、いかにも高級なことを言っているように見せかける。しかし少していねいに読めば、その思想の幼さは明らかです。こういうのを「タチの悪い言論」と言わずして何でしょうか。




もう少し内田批判を続けます。

今回取り上げるのは、次の2つの資料です。

①「赤旗」5月31日号インタビュー:
blog.tatsuru.com/2013/06/03_1253.php
②「朝日新聞」7月23日付オピニオン「複雑な解釈」:
blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php

ちょっとここで脱線しますが、ついでに言っておきたいことがあります。

上記のURLは、内田氏が自分のブログに掲載している当該記事のコピーです。特に②について言いたいのですが、当の朝日新聞の紙面に掲載されていた記事そのものを、そのURLであるはずのhttp:/www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307220692.htmlによって読もうと思っても、アクセスできません。私ははじめ、ある人から内田氏が上記記事を朝日新聞に掲載していることを聞き、「内田樹 朝日新聞 オピニオン」とグーグルって検索しました。新聞紙面での全文を読みたい方はそうしてください。

朝日新聞を取らないでその記事に触れるためには、「朝日新聞デジタル」の会員にならなくてはなりません。しかも無料会員だと一日に3つしか記事を読むことができず、その他を読もうと思ったら有料会員になることが必要です。アーカイブを読むためにもそれ専用の有料会員にならなくてはなりません。

日経はもっとひどくて、有料会員しか読めない。

日ごろから情報公開だの表現の自由だの規制緩和だのと声高に叫んでいる当のメディアがこのセコさです。巨大メディアが、大衆に媚びた記事や大量の広告や小学生の作文まがいの低レベル社説を満載してたっぷり儲けているくせに、情報公開に規制を設けているとは!

さて①です。

テーマはアベノミクス批判ですが、内田氏はここで、マスメディア知識人のご多分に漏れず、モロにその経済音痴ぶりをさらしています。経済の「ケ」の字もわかっていないのに、経済のことについてもっともらしく論評する、その厚かましさがすさまじい。

私も経済音痴ですが、この1年間ほど、それではまずいと思い、せめてバカなことだけは言わないようにしようと、老骨に鞭打って少しばかり勉強してきました。おかげで、「ケ」の字くらいはわかってきたように思います。私にいろいろ教えてくれた数々の経済論者および知人に感謝。

まず内田氏は、次のように述べています。

私は経済の専門家ではありませんが、「アベノミクス」の先行きは暗いと思います。
国民に「景気が良くなった」と思わせて株を買わせ、消費行動に走らせる。
「景気がよくなる」と国民が信じれば景気がよくなるという人間心理に頼った政策です。
実体経済は少しもよくなったわけではありません。賃金も上がらないし、企業は設備投資を手控えたままです。


これ、常識(イロハ)に照らして全然間違っていますね。「景気は気から」と昔から言われるように、不況からの脱却には、まずもって国民(消費者だけではなく、企業も含めて)に「景気がよくなりつつあるな」という期待感を抱かせることが何よりも大事です。国民が消費行動に積極的になれば、需要が増えてそれだけデフレギャップが縮まりますから、企業も活気づいて投資が伸び、やがて生産活動が息を吹き返して、雇用も好転するはずです。雇用が好転すれば、賃金も上がり消費活動もさらに盛んになって、ますます実体経済はよくなります。

ただし、アベノミクスが実体経済に及ぼす効果について、性急に判断してはなりません。これがどの局面にも目に見える効果を示すためには、1年半から2年ほどの時間がかかるのです。だからこそ、黒田日銀総裁は、2%のインフレターゲット(物価安定目標)を達成するために2年という期間を設定しているのです。

とはいえ、内田氏の決めつけと異なり、すでにこの数カ月で、アベノミクスの実体経済への好影響は少しずつ出始めています。7月23日にまとめられた経済財政白書によれば、景気の基調判断として、5月は「緩やかに持ち直している」、6月は「着実に持ち直している」、7月は「着実に持ち直しており、自律的回復に向けた動きもみられる」となっています。また、総務省が7月26日に発表した全国消費者物価指数は平成22年を基準として100.0となり、前年同月比で0.4%上昇しています。

さらに、バイト、パート、派遣などの非正規雇用者の時給も少しずつ値上がり傾向を見せており、正規雇用者への一時金を増額する企業も増えています。ちなみに、景気上昇の兆しが賃金に反映するのは、まず非正規雇用者からであり、正規雇用者の賃金が上がるのには時間がかかります。

求人倍率は、もっか確実に上昇中です。失業率もインフレ率が高まれば減少していくことは、経済学的に証明されていますし、歴史的に実証もされています(フィリップス曲線)。

内田氏は、凡百の緊縮派エコノミストと同じように、ごく短期的に見て現状がまだ動いていないからアベノミクスはダメだと決めつけているだけですね。「不景気だから何をやっても不景気だ」――これを同義反復と言います。

ただし断っておきますが、今年の4月~6月の景気指標に基づいて10月に消費税を増税するか否かを決断するという政府の既定方針は、早すぎると思います。いま述べたように、明らかに実体経済が回復したという確信が得られるのにはまだ時間がかかるので、せっかく上向きになった景気を再び冷え込ませないために、ぜひ増税を凍結させてほしいものです。

次です。

市場における投資家の行動は予測不能です。彼らは市場が荒れ、大きな値動きをするときに利益を上げる。だから、経済活動の安定より、急成長や急落を好ましいと思っている。そして、そうなるように仕掛けてきます。
「アベノミクス」はそういう投資家の射幸心に乗って、意図的にバブルを引き起こそうとしているハイリスクな政策です。
自分たちでコントロールできないプレイヤーに一国の経済を委ねてしまうことに私は強い不安を感じます。
それに「アベノミクス」は国際競争力のあるセクターに資源を集中して、グローバル化した企業が世界市場でトップシェアを獲得することに全国民が貢献すべきだという考え方をしてます。
企業の収益を上げるために国民はどこまで犠牲を払えるのかを問いつめてきている。
しかし、国民は企業の収益増のためにそれほどの負担に耐える必要があるのか。


これまさに、国家財政破綻の危機というウソをまき散らしてきた財務省、20年ものデフレ円高不況を放置してきた旧日銀、そして「企業」の収益増が「国民」を苦しめる結果になるという共産党お得意の古色蒼然たるインチキ二元論(アンチ資本主義)の引き写しですね。噴飯ものというべきです。内田さん、お願いですからマスコミの偽情報や共産党のカビの生えた理論(?)を鵜呑みにせず、資本主義下における国民経済は一国内のお金の循環(フロー)によって潤うのであり、そのためには企業が収益を上げることが不可欠なのだという最低限の認識だけは持ってください。それとも社会主義にしますか?

内田氏は、アベノミクスの何たるかをまるでわかっていないで、エラそうにアベノミクスを批判しています。それは、意図的にバブルを引き起こそうとすることだと。

粗雑きわまる頭ですね。というか、これまでデフレ不況でどれだけ国民、ことに中小企業経営者や低所得者層が苦しんできたのかにまるで想像が及ばない、ハートのない人なのですね。

景気回復と「意図的なバブル引き起こし」との間には、千里の径庭があります。緩やかなインフレこそが生活の豊かさを導くのであり、バブルが過熱しそうになったら政府・日銀が手綱を引き締めればよいだけの話です。それは、日本の政府・中央銀行がこれまで得意としてきたところです。

百歩譲って、バブルが到来しても、バブルそれ自体は、必ずしも悪いことばかりではありません。バブル期には多くの人が豊かさを実感したし、国民一人当たりGDPも上昇の一途でした。また、首都圏への人口流入率は、この時期に急カーブで下がっています。ということは、地方の産業が活性化していた証拠であって、地方在住者は、仕事を探しのために故郷を捨てる必要がなかったのです。バブルがはじけてから、首都圏と地方との格差はまた一気に開いています。(上念司著『異次元緩和の先にあるとてつもない日本』参照)

アベノミクスのキモは、日銀が行う「大胆な金融緩和」(第一の矢)と、政府が行う「機動的な財政政策」(第二の矢)とを連動させるところにあります。第一の矢で、企業の投資意欲を刺激します。第二の矢では公共投資(土建事業だけではありませんよ)その他によって民間にお金を流通させます。お金が流れるということは、民主主義社会ではみんなに仕事が行き渡るということであり、そのぶん賃金がもらえるということです。

また、震災対策の迅速な実行や劣化したインフラのメンテナンス、医療福祉事業の増進や新規需要の開拓などのためにも、この政策はぜひ必要なことです。どうしてそれが、これまでデフレ不況でさんざん苦しんできた「国民」にさらに犠牲と負担を強いることになるのですか? ちゃんと論理的に説明してください。アホ知識人め。

なおここでは詳しく述べませんが、アベノミクスの第三の矢「成長戦略」については、いろいろな理由から私は賛成できまん。

このあと、内田氏は、グローバル企業に対する批判を延々と繰り広げた後、その批判をアベノミクスにそのまま結びつけます。

多国籍企業と国民国家は今や利益相反の段階に至っています。この論理矛盾を糊塗するためにナショナリズムが道具的に利用されている。

安倍自民党がことさらに中国・韓国との対立感情を煽っているのは、無国籍産業がそれを要請しているからです。国同士の経済戦争で命がけで戦っているのだという「ストーリー」を信じ込ませれば、国民は低賃金に耐え、消費増税に耐え、TPPによる第一次産業の崩壊に耐え、原発のリスクに耐えるからです。


グローバル企業が自社の利益だけを追求するかぎり、国富の流出に歯止めがなくなるので、国民国家の利益と矛盾することは確かです。TPPはそのよい例ですね。私もTPPには反対です。しかし、そのためにナショナリズムが道具的に利用されているというのは、短絡も甚だしい。むしろ健全なナショナリズム(国民主義という意味です)が存在してこそ、グローバル企業の負の側面に対する批判性を確保できるのではありませんか。

なお、安倍自民党は、けっして「ことさらに中国・韓国との対立感情を煽って」などいません。向こうが勝手に無謀な行動に出て日本を挑発しているので、安倍首相はそれに対して冷静に構え、日本の安全を守るために必要最低限の措置を取り、「いつでも窓口を開いている」と一貫して言っています。内田氏に代表される日本のサヨク(反日勢力)は、なぜ他国の非をきちんと検証せずに、自国政府に対する無責任な批判に終始するのでしょう。わざと隠しているのか、それともただの視野狭窄なのか。

要するに内田氏は、多国籍企業も嫌い、資本主義もナショナリズムも嫌い、とわがままなことを言っているだけです。結果的に何でも反対のオキラク野党・共産党の方針にまんまと丸め込まれています。さすが共産党、自分たちをヨイショしてくれる「知識人」をうまく嗅ぎ当てるものですね。

②の、朝日新聞コラム「複雑な解釈」に行きましょう。これは、参院選開票直後に書かれたもので、おおかたの国民が政治の安定を求めて支持する結果となった「ねじれ解消」がいいことではない、というへそ曲がり説をあえて唱えたものです。

へそ曲がり説、大いに結構。そしてこの論は一見、筋が通っています。しかしよく読むと、単なる「抽象的な正論」であって、今この時点で、なぜ「ねじれ解消」が必要だと多くの国民が感じたのかについて具体的なことが何も言及されていません。その問題への視点は完全に封殺されています。その封殺のうちに、この人のイデオロギー性がいかんなく出ているのですね。

また、二院制の理念をただ形式的に強調するだけで、現在の参議院のもつ克服困難な問題については少しも触れられていません。まあ、ただの幼稚な「民主主義」原理主義者であるこの人に、そこまで期待するのは無理かもしれませんが。

では、原文に当たってみましょう。

現に、今回の参院選では「ねじれの解消」という言葉がメディアで執拗に繰り返された。それは「ねじれ」が異常事態であり、それはただちに「解消されるべきである」という予断なしでは成り立たない言葉である。だが、そもそもなぜ衆参二院が存在するかと言えば、それは一度の選挙で「風に乗って」多数派を形成した政党の「暴走」を抑制するためなのである。選挙制度の違う二院が併存し、それぞれが法律の適否について下す判断に「ずれ」があるようにわざわざ仕立てたのは、一党の一時的な決定で国のかたちが大きく変わらないようにするための備えである。言うならば、「ねじれ」は二院制の本質であり、ものごとが簡単に決まらないことこそが二院制の「手柄」なのである。

前半は、教科書的に二院制の意義を述べているだけですから、私ももとより反対ではありません。しかし、後半、「ねじれ」が二院制の本質であり「手柄」であるとまで言い切られると、おいおい、ちょっと待てよと言いたくなってきます。

氏に合わせて一般的に言えば、慎重な審議の結果、やはり衆院の決議どおりに法案が通るならば、それはそれでいいことなのであって、「ねじれ」そのものがいいことだなどという一義的な結論は出てこないはずです。何しろ、国政にかかわる重要事を決するというのが、国会の使命なのですから。

次に、この論述は、今回の衆参両院の選挙の背景に何があったかという具体的な問題にまったく触れていません。言うまでもなく、その背景には、民主党政権のあまりのだらしなさ、何も決定できない無統制、内政・外交における明らかな失政という事実があり、そのさらに前には、くるくる変わる旧自民党政権の機能不全状態がありました。それを踏まえずに、ただ形式的に「ねじれ」は本質とか手柄などと言われても、実際にはふたたび乱調国会を目の当たりにするだけで、ふつうの国民はそんな事態にけっして納得しないでしょう。

そのことを感じたからこそ、国民は安定政権を求めたのです。安定政権がおごらずに民意をよく汲み上げ、少数意見を尊重するなら、それは単なる「暴走」する権力などにはなりません。かえってゆっくり、じっくり将来を見つめた政策立案をすることが可能となるはずです。

さらに、ここでは、いまの参議院がどういう問題点を持っているかということが少しも語られていません。

参議院の本来の趣旨は、ただ数として「二」院のひとつであるというところにあるのではありません。慎重な審議を実のあるものとするために、衆議院よりも深い政治的な学識や思想的な良識を持ち、出身地域や特定業界への利益誘導を動機としない公共精神を持った人たちを結集する必要があります。

しかしいまの参議院はどうでしょうか。ただ被選挙権年齢が5年上だというだけで、実際には、ポピュラーなタレントであれば政見のいかんにかかわらず(YTやAIのようなアホでも)当選してしまうという体たらくです。これは、二院制の本来の意義がないがしろにされている事実以外のなにものでもありません。

じっさい、たとえば民主党政権時代に、国会同意人事の候補者の名前が事前に漏れたらそれは同意してはならないなどというおかしなルールが幅を利かせていて、原子力規制委員会の委員を決める際に、参議院ではただ数を頼りにこのルールがまかり通ってしまったのです。

 そういう具体的な事実を考慮した上で、ただ「ねじれ」が本質で手柄だ、などと言えるでしょうか。二院制の本来の意義が実質的に貫かれるためには、参議院議員の選出のあり方そのものを根本的に考え直さなくてはならないのです。内田氏はそのあたりを何も考えていないようです。

次です。

その冗長な合意形成プロセスの過程で、「ほんとうに必要な法律」と「それほどでもない法律」がふるいにかけられる。二院制はそのためのシステムである。だからもし二院間に「ねじれ」があるせいで、与党発議の法律の採決が効率よく進まないことを端的に「よくないことだ」と言う人は二院制そのものが不要だと言っているに等しい。「参院廃止」という、政体の根本にかかわる主張を「ねじれの解消」という価値中立的(に見える)言葉で言い換えるのは、あまり誠実な態度ではあるまい。

ここで内田氏は、政治関係者が「法律の採決が効率よく進まない」ことだけを「よくないこと」と考えていると決めつけていますが、国会の審議は「法律の採決」だけを目指しているのではないということを完全に見落しています。法律の採決ならば、たしかになるべくたっぷりと時間をかける必要があるでしょう(しかし法律でさえ、たとえば安全保障問題や災害対策問題のように、案件次第では、非常に急を要するということがありえます)。

国会の審議で最も重要でかつ急を要するのは、毎年の予算の審議です。もちろん予算の議決は衆議院が優越しますから、「ねじれ」の悪影響は法律案に比べれば小さいとはいえるでしょう。しかし参議院が衆議院と異なった議決をすれば、最大30日の遅れを覚悟しなくてはなりません。これが遅滞すれば、その間、行政機関も動きようがない。内田さん、あなたはその事態に責任をもちますか。

ついでにもう一つ付け加えておきましょう。民主党政権時代、野田前総理には、予算案と赤字国債法案とをわざと別立てにして、後者の議決が参院を通過するのを阻止する(つまりデフレ脱却に少しでも寄与するはずの財政政策の実現を阻止する)ために「ねじれ」を悪用したという無責任極まる前科があります。

これらのことを内田さんは踏まえた上で「ねじれは手柄」などと言っているのでしょうか。

ここにも、ただ観念的にしかものを考えない「知識人」特有の現実感覚欠落が躍如としています。

以上を要するに、内田説は、抽象的な理念を並べたてることによって、国民がなぜこの間、「決まらない国会」にうんざりしていたのかという具体的な事情を隠蔽しているのです。ここでも、意識的なのか、ただバカだからなのか、判定がつきかねます。しかし、結果的に安倍政権の勝利をただ感情的に面白くないと思う反体制的、反国家的な人たちを代弁するかたちにしかなっていないことだけはたしかです。批判が見かけとは裏腹に、ちっとも有効な理性的批判になっていないのですね。

氏は進んで、なぜ国民が「ねじれ」をよしとせずに「決められる」政治を選んだのかと自問し、次のように自答しています。

その「短期決戦」「短命生物」型の時間感覚が政治過程にも入り込んできたというのが私の見立てである。
短期的には持ち出しだが100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない。


目先の金がなにより大事なのだ。
「経済最優先」と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば「未来の豊かさより、今の金」ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である。


またかよ、とそのお決まりのパターンにうんざりです。この「見立て」なるものは完全に間違っています。政治について何も知らないそこらの道徳オヤジなどが言いそうな、最悪の床屋政談ですね。

たとえば、これは内田氏と折り合うはずのない私見ということになるので、いちいち議論しませんが、自民党の原発に対する考え方は、ただ反原発、脱原発を叫んでエネルギー危機問題をどうするのか、その長期的見通しを何ももたない他の野党に比べれば、はるかに現実をよく見据えたすぐれたものです。また、安全保障対策も、今後のアジアにおける日本の立ち位置を考えたしっかりしたものです。

内田さんさ、あなた、「100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない」などと、調べもせずによくも無責任に言えますね。きちんと考えて実行している政治家に失礼ではありませんか。そんなに言うなら、まずあなたが政界に出てやってごらんなさい。

「経済最優先」を政策として立てることがどうして「未来の豊かさより、今の金」なのですか。バカも休み休み言ってほしい。このたびの選挙で「経済最優先」がいちばんの争点となったのは、どんな「未来の豊かさ」(なんとアイマイな言葉!)を実現しようとしても、まずいまの窮境から脱しなければ、何も始まらないということがよく理解されていたからです。

内田さんは、大朝日などに書かせてもらってたいへん結構なことですが、もし「目先の金」がなかったらどうしますか。いえ、内田さんが飢えようがどうしようが私の知ったことではありませんが、ことは、個人の生き方の問題ではなく、国民生活全体のかじ取りをどうしていくかという公共性がかかった問題なのです。金の問題をバカにするな。

いかにも朝日新聞が受け入れそうなこんな空虚な文章を書く暇があるなら、なぜ「未来の豊かさ」をより確実なものとするためにこそ、国民レベルで「今の金」が必要なのか、最後のお願いですから、もう少し勉強してください。

くどくなったので、ここらで退散。


〈コメント〉

*Commented by neoeco さん

経済学を学ぶ理由は、経済学者に騙されないためである。
と言った経済学者がいます。
現代主流経済学者は、ホモエコノミクスを前提にしますが、現実にはありえない。
アベノミクスは、現代主流経済学者が考え出したものです。
気をつけてください。
参考:世界8月号伊東光晴論文

*Commented by oisif さん
 小浜逸郎様

 タチの悪い言論とは何か――内田樹批判、拝読しました。

 論旨、一言一句、完全に同意します。我が意を得たりとはこのことです。私が感じていて言葉にできなかったこと、というか言葉で言ってしまうことを無意識に自己規制していたことを、丁寧に解きほぐしてくださって感謝します。そうなんですね。この人の根本思想はあまりにもシンプルなんですね。まさに戦後教育の申し子です。おまけに、左翼であることが伝統的に知識階級のスタンスであるフランスのしかも現代思想の研究者であり、かつてあるセクトに属していた全共闘というのですから何をか言わんやです。
 以前、内田氏の著書を何冊か読んだことがあり、また氏のブログも一時読んだことがあります。一読痛快、視野と頭がすっきりしたような思い。ところが、なにか腑に落ちない違和感、不快感がどうしても残るのを禁じ得ませんでした。その根本原因が、内田氏が現実を論評しているようでいて、実は、本当の現実ではなく、氏の戦後脳が設定したに過ぎない現実もどきを俎上に載せて、決して自分は傷つかない位置から、フランス現代思想的な片腹痛い言葉遣いで気楽な床屋政談をしているに過ぎないのだということが、いよいよわかってきました。
 小浜さんの著書、論文をいくつか拝見したことがあります。半ば同意、半ば不同意だった記憶があります。これはその頃まだ私が戦後脳に支配されていたからです。現在は私も相当程度治癒の方向に向かっていますので、小浜さんの論旨はほとんど受け入れることができるようになりました。
 ブログの方も最近拝読させていただいています。興味深い論考を無料で載せていらっしゃいますが、もったいないことです。一層の健筆をお祈りしております。

*Commented by kohamaitsuo さん
oisifさんへ。
 コメント、ありがとうございます。
 じつは私も内田氏をそれなりに評価していたところがあり、こんどやってみて初めて、こんなバカサヨク的な政治観しかもっていなかったのかということがよくわかりました。自分なりにひとつの収穫か、と思っております。
 拙ブログも読んでいただいているとのこと、まことにありがとうございます。なお、いま進めている『倫理の起源』『日本語を哲学する』でも戦後日本人のいわれなき「西洋心酔者流」を批判するために、ご本尊の西洋哲学者たちをターゲットにしていきますので、今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。

コメント (3)
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呉善花氏の入国拒否について (イザ!ブログ 2013・7・28 掲載)

2013年12月18日 22時15分48秒 | 外交
呉善花氏の入国拒否について

今朝(7月28日)の産経新聞によれば、韓国出身の評論家で拓殖大国際学部教授の呉善花氏(56)=日本国籍=が韓国への入国を拒否され、日本に引き返していたことが、7月27日に分かりました。韓国にとって反日が国是なのは分かっています。百歩譲って、それが愛国のひとつの形であることを認めたとしましょう。

その上で申し上げます。呉善花氏は、心からの愛国者です。彼女の著書を素直に読んだ者にとって、それは自明のことです。彼女の膨大な著書は、お互いの文化を深く知りあうことで、日韓関係がもっとまっとうなものになることを祈念して書かれたものばかりです。彼女は、できうることならば、その架け橋になりたいと思っているのです。それほどの愛国者はめったにいません。

彼女のそういう姿勢が視野に入らない韓国国民や当局の狭量さには、致命的なものがあります。それに加えて、彼女は今回冠婚葬祭で訪韓しただけなのです。言論活動のために入国しようとしたわけではありません。また、こういう、言論人に対する韓国国家による陰湿な圧力のかけ方・嫌がらせは、今回に限りません。以下の阿比留瑠比氏の記事で、それがよく分かることでしょう。

普段から、やれ民主主義だ、言論の自由だと騒いでいる左翼メディアや知識人は、この事件に怒りの声を発するべきです。韓国当局に対して堂々と異議申し立てをしなければいけません。それができないようであれば、彼らの唱える民主主義や言論の自由の主張は、底の浅い寝言に過ぎません(朝日や毎日は、少なくとも今日の朝刊では、この事件を取り上げていません)。ささやかながらも言論活動に関わる者のひとりとして、私は、今回の件に対して、韓国当局に異議申し立てをします。「正当な理由もなく、言論人・呉善花氏に対して陰湿でレベルの低い嫌がらせをするのはやめろ。彼女に対する入国拒否措置を撤回せよ」と。

ところで安倍内閣は、今回の件に対して、知らんぷりを決め込むつもりなのでしょうか。自国民、それも公人ではなくて一私人が、正当な理由もなく、隣国への入国を拒否されたのですよ。せめて、抗議の意を表する通達くらいは出すべきであると、私は考えます。そうすることによってこそ、安倍内閣がまっとうな人権感覚を尊重する価値観外交を「本気で」展開する気でいることが、国際社会に周知されるのではないでしょうか。それとも、安倍内閣は「本気」ではないのでしょうかね。これは、政府が看過しうるほどに小さな事件ではないと、私は考えます。ナメないほうがいいでしょう。

次に、産経新聞阿比留瑠比記者のFB記事(7月28日)を掲げておきます。韓国当局による呉善花氏に対する嫌がらせ・圧力がけが根深いものであることがよく分かるものと思われます。

今朝の産経新聞(14版~)には、拓殖大教授の呉善花さんが韓国に入国拒否された記事が載っています。実は昨夜はデスク番で午前2時過ぎまで会社にいた私も、この記事を書いたわけではありませんが少しバタバタしました。

で、呉さんと韓国をめぐってどうしても思い出してしまうのが、10数年前の出来事です。当時、まだ韓国籍だった呉さんが、都内で開かれたあるシンポジウムで、出身地である韓国・済州島で暮らしていたころ、「慰安婦の強制連行など一切聞いたことがなかった」という趣旨の発言をした際のことでした。

ご承知の通り、済州島は詐話師、吉田清治が慰安婦狩りをした証言し、後に現代史家の秦郁彦氏が現地調査をしたところ、全くデタラメであることが発覚した場所です。それだけに、韓国当局も神経質になっていたのかもしれません。

私がシンポでの呉さんの発言を産経紙面でちょっと紹介したところ、その日の夜に呉さんから電話がかかってきて、「済州島の実家や親類の家が、韓国の公安に家宅捜索された。何も出てこないのを知っていての嫌がらせだ。どうしよう」という相談がありました。

そのときは、呉さんの意向で記事にはしませんでしたが、まあ、そういう側面のある国なわけですね。あれから10数年経ったというのに、今回もこんなことをしているわけです。なんか、悲しくなってしまいます……。


人の脇腹を突くようなマネは許しがたい。呉善花さん、めげないでくださいね。



〈コメント〉

*Commented by ぱんたか さん
 先日のTPP問題始め、ユニークな切り口の論評をとても有難く勉強させていただいております。
 朝鮮半島は、歴史始まって以来シナの影響下にあって、自分は“大中華”の一員という認識があるようですから、日本という東夷など程度の低い民族が世界に頭角を現し、剰え短い期間とはいえ自国を統治するなどあってはならないこと、という劣等意識があるのではないでしょうか。
 
 ソウルに長く住んでいる元産経新聞の黒田勝弘さんによると、最近、本音は親日という韓国人が増えているという話もありますので、一概に決めつけることは出来ないでしょうが、子供に対するように、軽く受け流すのがいいように思っています。
 いつの日か真実の歴史を学んだ時、赤恥をかくのは彼らですから。
 但し、日韓以外の国に“従軍慰安婦”が恰もあったように宣伝するなどについては、日本政府はその都度公式に抗議し、場合によっては外交的・経済的対抗手段をとるべきです。

 今回の呉善花さんのことについても同様です。
 彼女は日本国民ですから、自国民を護る意味で断固とした処置をとる必要があるでしょう。
 菅官房長官は、今日午前の記者会見で「極めて残念」との見解を表明し「事実関係を把握した後、適切に対応したい」とのことですが、今回の東アジアサッカー競技での横断幕のこともありますので、もっと強い対応が必要ではないでしょうか。

 それから、阿比留記者のお名前は瑠比さんかと思います。


*Commented by 美津島明 さん
To ぱんたかさん

いろいろと教えていただいて、ありがとうございます。菅官房長官が、この件で記者会見をやっていたなんて、知りませんでした。日韓サッカーでの韓国サポーターの馬鹿な振る舞いについては、さすがに知っていましたよ。やれやれ、です。しかし、嘆いてばかりもいられません。こういうことに関しては、変に「大人の対応」などと寝言を言わずに、ぱんたかさんがおっしゃるように、厳重に抗議すべきでしょう。それでこそ、安倍外交の基本が国際的に周知されます。「とにかく波風立てないのが、いい外交だ」という「百姓路線」が無意味であることはもはや自明ですからね。だから今回は、安倍内閣に、きっちりと言うべきことは言っていただいたいと思うのです。

個人的なことを言えば、私は呉善花さんの年来のファンです。その、我が身を韓国と日本の間に思い切りよく置いて、日本に滞在し続けることによる心境の変化を率直に語る誠実さが、こちらのハートに響くのですね。だから、そういう正直な彼女をいじめる韓国が許せない、というのが、今回アップした文章の感情的な意味での原動力です。本文中でも申し上げましたが、彼女はオーソドックスな愛国者なのです。日韓の真の友好関係を願っている人なのです。今回のことで被った彼女の心の痛手は、察するにあまりあります。

「瑠衣」は「瑠比」の誤りとのご指摘、感謝します。


*Commented by ぱんたか さん
To 美津島明さん

 お早うございます。
 ご丁寧なコメント、痛み入ります。

 呉善花さんは、私も“隠れファン”のつもりでおります。
 本当なら、こういう人をこそ韓国は大切にしなければならないと、私はかねがね思っています。

 問題は、朝日を始めとする“内なる敵”ではないでしょうか。
 これを退治する根本的方法は、まことに迂遠ではありますが、より多くの日本人が“お仕着せの歴史”を脱却して、正しい近現代史を学び直すことだと思っております。

 今、『逝きし世の面影』を読みはじめましたが、ザルのような私の頭には難物中の難物です。 


*Commented by 美津島明 さん

To ぱんたかさん

> 問題は、朝日を始めとする“内なる敵”ではないでしょうか。
> これを退治する根本的方法は、まことに迂遠ではありますが、より多く の日本人が“お仕着せの歴史”を脱却して、正しい近現代史を学び直す  こ とだと思っております。

私も、そのように考えています。いわゆる東京裁判史観を中央突破することを通じて、私たちは、戦前とつながることができるようになるのではないかと思っています。では、どうやって東京裁判史観を中央突破するのか。私の場合は、非力ながらも東郷茂徳の手記とがっぷり四つで取り組むことで、それを果たそうと思っています。どこまでできるのか、まったくわかりませんが、一応、そういう心積もりです。また、コメントをお寄せください。


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TPPは、世界の「99%」のために阻止されなければならない (イザ!ブログ 2013・7・27 掲載)

2013年12月18日 21時29分26秒 | 経済
TPPは、世界の「99%」のために阻止されなければならない
―――ロリ・ウォラックさんへのインタビュー動画をあらためて取り上げる


まずは、次の二〇分弱の動画を観ていただきたい。この動画は、2012年6月14日にイギリスの報道チャンネルBBCの「デモクラシー・ナウ」で放映されたものです。インタビューに応じているロリ・ウォラックさんは、米国の市民団体「パブリック・シチズン」の代表です。一年以上前に放映された同番組の内容は、いまにおいても衝撃的なものであり続けています。ということは、TPPの本当の危険性が、少なくとも日本ではいまだに周知されていないということです。その点、日本の大手マスコミの怠惰で反国民的な姿勢は、万死に値すると断じざるを得ません。ウォラックさんは、TPPの本質を「表向きには『貿易協定』だが、実質は企業による世界統治である」と喝破します。自分なりの考察の結果、現在の私は、この見識に与する者となっています。TPP交渉がなにゆえ秘密裡に行われなければならないのか。その理由は、この本質からまっすぐに導き出すことができるでしょう。

アメリカ市民団体がTPPについて報道した驚異の内容とは


いかがでしょうか。はじめてご覧になられた方は、少なからず衝撃を受けられたのではないでしょうか。私はむしろ、この内容が日本の一般国民に周知されていないことに静かで深い衝撃を受け(続け)ています。この番組の内容には、今後の日本やさらには世界を占ううえで、極めて重大なものが含まれているのではないでしょうか。インターネットに、同動画の文字の起しが掲載されていましたので、それを以下に引用します。あらためてご覧いただければ幸いです。
http://tppmasahiko.hatenablog.com/entry/2013/05/23/184847

*****

【動画文字起こし】

『アナウンサー』

密室で進む米国と環太平洋諸国の貿易協定草案がリークされました。環太平洋経済連携協定(TPP)です。リーク草案によると米国で営業する外国企業は、重要な規制について国際法廷に持ち込むことが出来ます。この裁定は国内法にも優先され、違反には罰則を課すこともできます

交渉担当はオバマ大統領が任命した米国通称代表のカーク氏です。しかしリークされた草案はオバマ氏の選挙公約に反しています。2008年の選挙公約は、「環境や食の安全や国民の健康が守られ守られなかったり、外国の投資家を優先する貿易交渉はしない」

リークされたTPP草案には著作権の保護を強化したり、医薬品コストを押し上げる規定もあります。通称代表部は出演を断り、声明を送ってきました。

「TPPの投資関連の提案には、交易保護のための正当で非差別的な政府規制を妨げるものはない」

市民団体パブリック・シチズンのロリ・ウォラックさんです。リーク文書は同団体のウェブサイトで公開されました。リーク草案でわかったTPPの正体とは? 

ウォラック 「表向きには『貿易協定』ですが、実質は企業による世界統治です。加盟国には例外なくすべての規定が適用され、国内の法も規制も行政手続きもTPPに合わせなければなりません。全26章のうち貿易関連は2章のみ、他はみな企業に多大な特権を与え各国政府の特権を奪うものです。私たちのサイトに掲載したTPP投資条項によれば、外国の投資家がTPP条約を盾に米国政府に民事訴訟を起こし、国内規制が原因で生じた損害の賠償を請求できるのです。米国の企業はみな同じ規制を守っているのに、これでは国庫の略奪です」

極秘に進行するTPP交渉には議会も不満を申し立てています。約600人の企業顧問はTPP情報にアクセスできるのに、米国の議員はできないのですね?

ウォラック 「こんなひどい内容を、それもリークで知るとは驚きです。内容がひどいだけでなく、これは『1%』が私たちの生存権を奪うツールです。交渉は極秘で行われました。暴露されるまで2年半も水面下で交渉していた。600人の企業顧問には草案へのアクセス権を与えながら、上院貿易委員会のワイデン委員長はカヤの外です。TPPを監督する立場なのに草案にアクセスできない。たまりまねた委員長が監督責任のある協定の内容を知る権利があるとする法案を提出したありさまです。ワイデン氏は情報委員会ですよ、核関連の機密も知る立場なのに貿易協定という名の『企業の権利章典』は見られない。じつに見事な『トロイの木馬』です。

通りのいい看板の裏側に、表に出せない内容を仕込む。製薬大手の特許権を拡大する条項も入手しました。医薬品価格を急騰させます。TPP情報の分析や行動の誘いが私たちのサイトにあります。TPPはいわばドラキュラです。陽に当てれば退治できる。米国やすべての交渉国で市民の反対運動が起きます。企業の権利の世界的強制なんて私たちは許さない。民主主義と説明責任に反します

『アナ』 米国通商代表部から届いたコメントを読みます。

「TPPの交渉経過には高い透明性を確保してきた。議員たちと協力し関係者を毎回の交渉に招き、説明会や個別交渉によって透明性と市民参加を高めてきた」

これについては?

ウォラック 「透明性といっても『市民には映らない』鏡です。説明会で意見を言うことはできる、でも公益団体の意見はなにも草案には反映されていない。環境から消費者・労働者まで公益は何ひとつ反映されていない。国民をまったく無視した過激なまでの強硬策です。金融制度の安定のため各国が施行する金融規制にすら米国は反対しています。そこには米国民の意見がない。でも間に合います。歴史的な観点で見てみましょう。1990年代のFTAA(米州自由貿易協定)は、2年かけて34ヶ国が協議し全草案が各国で公開されました。TPP交渉は3年目ですが1行たりとも公開しない。おまけに締結後4年間は非公開という密約もあった。秘密をさらに隠すのです

カーク通商代表に聞きました、なぜ公開しないのか? お世辞にも透明とはいえない、WTOさえ草案を公開したのに。彼の答えは『FTAA交渉は公開したら暗礁に乗り上げた』それってどういう意味ですか? 密室でこそこそやる理由は、国民や議会に知られるだけで危うくなるような内容だから? しっかり押さえてください。TPPの狙いは貿易ではなくセメントのような作用です。一度固まったらおしまい、全員が同意しないと変更できない。リーク草案が示唆するのは司法の二重構造です。国民は国内法や司法を使って権利を護り要求を推し進めますが、企業は別建ての司法制度を持ち、利益相反お構いなしのお抱え弁護士たちがインチキ国際法廷に加盟国の政府を引きずり出し、勝手に集めた3人の弁護士が政府に無制限の賠償を命じるのです。規制のおかげで生じた費用を弁済しろとか、不当な扱いを受けたとかいって、国内の企業には同じ規制が一律に適用されているというのに、NAFTAにも似た制度があり有害物質規制や都市区画法の補償として3億5千万ドルが企業に支払われた。こういう悪だくみは明るみに出せば阻止できます」

『アナ』 交渉に関わっている8か国の国名は? 交渉方法の問題や参加国が急増する可能性は?

ウォラック 「リークが重要な意味を持つのは、これが最後の交渉になる恐れがあるからです。NAFTA以来、大企業は貿易協定を姑息に使って規制を抑え込み、底辺への競争を煽りました。交渉のたびに規制が緩和され、企業の権限は拡大した。今回がとどめです。いったん固まれば門戸を開き広く参加国を募ります。企業の特権化を保障する世界的な協定になりかねません。為替と貿易手段が強制手段です。

TPPは強制力のある世界統治体制に発展する恐れがあります世界的なオキュパイ運動に対する企業側の反撃です。旧来の悪弊が一層ひどくなる。さらに交渉のゆくえによっては既存の国内法が改変され、進歩的な良法がなくなるばかりか新法の制定さえもできなくなる。交渉国は、米国・豪州・ブルネイ・シンガポール・ニュージーランド・チリ・ペルー・ベトナムで、マレーシアも加わります。

NAFTAと同じく企業の海外移転を促す特権があり、新たな特権も付与されます。医薬品や種子の独占権が強化され、医薬品価格つり上げのため後発医薬品を阻止する法案まである。オバマ政権が医療制度改革法案に入れた医薬品についても、他国が使用する権利を奪おうと密談がされています。各国の金融規制も緩和させられ、高リスク金融商品も禁止できない。米国政府が金融制度改革で規制強化を進めているときにです。TPPは地方財政にまで干渉します。全国で搾取労働の撤廃や生活賃金を求める運動が広がる中で、TPPは地域産業の優先を禁じます。

地産地消や国産品愛用は許されないのです。環境や人権に配慮する商品も提訴されかねません。TPPは企業に凄まじい権力を与えます。密室だから過激になった。どの国の人々もこんなものは御免です。過激な条項を推進するのは米国政府です。だから陽の目にさらして分析することが重要です。何が起きているか人々に知って欲しい」

『アナ』 ダラスで説明会が行われた際、カーク通商代表が演説しましたが『イエスマン』が市長になりすましニセの授賞式を行いました。

(VTR)

【ご参集ありがとうございます。テキサス企業協会からお知らせです。2012年企業パワーツール賞の受賞者は米国通商代表部です! 通商代表部のたゆまぬ努力に感謝します。とくに力を入れているTPP交渉は、市民の意見はおかまいなく企業利益を最大にするためです】

『アナ』 次回のTPP交渉は7月4日の週末です。いかがですか? オバマ大統領はどう対処するのでしょう? サラ・ジェシカ・パーカー邸で資金集めパーティーをするようですが、金融業界の献金額はロムニー候補に約4千万ドル、オバマ陣営へは480万ドルでウォール街もオバマ離れをしています。金融業界にはロムニー氏以上に良くしているつもりでしょうけど(笑)

ウォラック 「オバマ大統領については2通り考えられます。1つはTPPが密室交渉だったので把握していなかったケース。だからリークが重要でした。国民や議会に警告した。大統領は通商代表部の監督が甘かった。クリントン時代にNAFTAを通過させた連中が好きにやった。もう一つは、結局はお金です。『1%』を喜ばせる協定なのです。『1%』の夢なのです。ありったけの金とロビイング力をつぎ込んで、未来永劫に力を振るうのです」

アナ 『パブリック・シチズン』のウォラックさんでした。


*****

国内大手マスコミは、「TPPが国益にかなうかどうか」だけを報じようとします。そうして、オタクっぽいエコノミストたちが登場し、損か得かソロバンを弾こうとします。それがいかに馬鹿げたことか、もうお分かりでしょう。

私たちは、「国益」という言葉にだまされてはいけません。それは、端的に「国民の利益」という意味なのです。ごく普通に暮らしている一般国民にとってプラスかマイナスか。それだけが問題なのです。その点、TPPは国家主権の侵害を通して、民主主義の実効性を脅かす危険性がとても高い。いいかえれば、民主主義を制度的に保障するのは国家主権の枠組みなのです。それなしに、民主主義は成立しえない。

そう考えれば、TPPは明らかに国益に反する。出自が日本であるのにすぎないグローバル企業にとって損か得かは、この際、どうでもよろしい。つまり、グローバル企業にとってのプラスが、国益の観点からマイナスであることはいくらでもありえる。変動相場制のもとでの国民国家は、そこをきちんと見極めないと、亡国の憂き目にあいかねません。この見地に立つならば、TPPに異を唱えることによって、アメリカの「99%」と手をつなぐ道筋がかすかに見えてきます。そうして、アメリカの「99%」と手をつなぐことは、もちろん、世界の「99%」と手をつなぐことに通じます。反TPP運動のスピリットは、そういうものであらねばならないと思っています。反米感情の捌け口として反TPPを唱えるなんてのは、愚の骨頂と申し上げるよりほかありません。
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ちあきなおみ・テレサテン・聴きくらべ (イザ!ブログ 2013・7・27 掲載)

2013年12月18日 19時14分58秒 | 音楽


ちあきなおみと聴きくらべができるほどの歌手といえば、テレサテンくらいしかいません。そうして、これくらいのレベルになると、優劣を論じるのは野暮なことであって、歌心の微妙な違いを味わうという姿勢でにじり寄るのが妥当なのではないかと思われます。

まずは、『矢切の渡し』から。この曲は、石本美由起の作詞、船村徹の作曲による演歌で、ちあきなおみの歌として1976年に発表されました。梅沢富美男がお芝居で同曲を取り上げたことをきっかけに、1983年に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしのシングルが大ヒットし、彼はその年のレコード大賞を獲得しました。しかし、有線のチャートではちあき盤が首位を独走しており、ちあき盤を後発の細川盤が上回ることは一度もありませんでした。

矢切の渡し ちあきなおみ


テレサ・テン/矢切の渡し


ちあきなおみによる『矢切の渡し』がまるで映画を観ているような劇的な表現であるのに対して、テレサテンによる同曲は、駆け落ちをしてまでも恋路を貫こうとするふたりの密度の濃い情感に表現の力点が置かれているような印象があります。そうすることで、彼女は同曲におけるちあきなおみのイメージを払拭することに成功しています。それは、十分に意識的なものであると私は感じています。つまり、テレサテンはとても賢い歌い手なのです。彼女もまた、ちあきなおみと甲乙がつけがたいほどの、歌い手としての大変な力量の持ち主であることが、この一曲の聴きくらべで分かるのではないでしょうか。

次は、『さだめ川』。この曲も、作詞・石本美由起、作曲・船村徹のゴールデン演歌コンビによって作られた名曲です。『矢切の渡し』ほどの注目は浴びませんでしたが、曲の完成度は遜色ありません(私はこちらの方が好きなくらいです)。『矢切の渡し』と同様に、ちあきなおみのオリジナルです。ちあきなおみは、さすがに、まったく隙のない完璧な世界を作りあげています。『矢切の渡し』の場合もそうですが、このような完璧で圧倒的な世界を見せつけられた後に、それを別の歌い手がカバーするには、よほどの何かがなければ、オリジナルと比べたときに「惨敗」の印象を残すのがオチでしょう。惨酷な言い方になりますが、ほとんどのカバー曲は、その運命を逃れ得ていません。

ちあきなおみ - さだめ川

さだめ川 *** Teresa Teng


テレサテンは、この曲に「大陸的」としか形容のしようがないスケールの大きさとなんとも言えない魅力的なやわらかさを付与することで、オリジナルに勝るとも劣らない歌世界を作り上げることに、またもや成功しています。テレサテン恐るべし、の思いを新たにしました。

ちなみに、他の歌い手のバージョンもできうる限り聴いてみましたが、残念ながら、いずれも、ふたりの足元にも及びません。ふたりがいかに傑出した歌い手であるか、私は思い知りました。
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