美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎氏・反原発知識人コミコミ批判(その2)  (イザ!ブログ 2013・2・16 掲載)

2013年12月12日 20時31分15秒 | 小浜逸郎
さていよいよ本命の宮台真司氏と飯田哲也氏です。

先に提示した『原発社会からの離脱』(両氏の共著・講談社現代新書)に入る前に、くだんの本(『脱原発とデモ――そして民主主義』筑摩書房)での宮台氏の発言に少しだけ触れておきましょう。くだらないゴミのような本だと評しましたが、この本の中で、もしみなさんが反原発思想、脱原発思想に共鳴するなら、唯一、耳を傾けるに値する主張です。

まず、国会議員や霞が関官僚、電力経営陣や電力労組などの連中にとって、こういうデモは痛くもかゆくもありません。官僚は政治家に弱く、政治家は有権者に弱く、有権者は官僚に弱い関係にありますが、国民が直接運動で働きかけられるのは、政治家と経営陣です。

政治家にとって一番痛いのは落選運動です。原発や原発住民投票に対してどういうスタンスをとるのかによって有権者が議員に投票するかどうかを決める落選運動が広がったら、彼らにとっては恐いことになります。この恐怖を押し広げていくことが有効です。

東電など地域独占的電力会社に原発を納入している東芝、日立、三菱。これらは昔の軍需産業でもあります。こうした企業の製品の不買運動を展開していくことも大切です。同じクーラーを買うなら、この三社の製品は絶対買わない。これを押し広げるのです。

  (中略)

原発推進政治家には落選運動を、原発納品企業や原発電源販売企業には不買運動を、徹底して展開していく。そのためにも原発電源販売企業から電気を買わないで済む発送電分離を早期に実現させる。こうしたピンポイントの有効性を狙う運動こそが、必要なのです。


反原発デモなんか無効だとはっきり言っているのですね。権力を揺さぶるにはもっと有効な方法がある。政治家と企業家の弱点を突け。なるほど。いかにも宮台氏らしいプラグマティックな方法論で、これは、権力闘争の原理としては、間違っていないでしょう。私の推測によれば、じつは彼の本音は、そういう「有効な」運動のイデオローグになりたくてしょうがないところにあります。本質的に権力志向なのですね。

それはそれで結構ですが、その具体策となると、落選運動と不買運動ですか。うーむ、大言壮語している割には、どうやって広がりをもたせていくのか、その戦術面にいまいち有効性が感じられません。これではデモと五十歩百歩で、「市民運動」なるものの限界内にまるごと収まってしまうのでは。

私なら、まず普通に、地域で地道な足固めをして住民の人気を勝ち取り、選挙運動へと拡大させて、政党を立ち上げ、認知度を上げるためにマスメディアを利用し、さらには組織票を獲得できるような手も使いながら、権力を徐々に奪取していく方法をお勧めします。場合によってはかの橋下徹氏のような大阪ノリのポピュリストキャラも少しは利用価値があるかもしれません(これは冗談です)。もちろん自分にはこんな政治運動などやる気も能力もまったくありませんが。

本題です。

一国のエネルギー問題、特に電力について考えるとき、おおざっぱに言って次の三つの問題をクリアーしなくてはならないと思います。

①将来にわたる安定供給の確保

②発電施設の安全性と環境への影響

③発電コストと電気料金

これらをすべてひっくるめて、エネルギー安全保障問題としてとらえることができます。 原発問題も、当然この三つの点について総合的に考えていかなくてはなりません。京都大学原子炉実験所教授・山名元氏は、昨年の総選挙前、脱原発を訴える各政党の政策が現実性・具体性に乏しいことを説きつつ、次のように述べています。

エネルギー資源をほとんど持たない日本としては、化石燃料、再生可能エネルギー、原子力、省エネルギーなど限られた選択肢を、得意の技術力や外交力を生かしつつ総合的に組み合わせて、「リスクとコスト最小化」と「廃棄物合理化」を探求していくしかないのが現実である。

そのためには、エネルギーに関し①供給事業②資源輸入③廃棄物管理④外交⑤科学技術開発――など全てを包括的に司る行政組織があって然るべきで、そうした組織が機能していれば多くの無駄や問題の発生を避け得たのではないか。

我が国にも、米国のエネルギー省(DOE)のような政府機能が必要なのではないか。このような強力な政府機能なら、一定規模の慎重な原子力利用と、増強する再生可能エネルギーを組み合わせつつ、火力依存度増によるリスクを最小化する戦略を作ることは可能であろうし、それは、国民的議論と称する政策議論よりも、はるかに実効性をもつはずである。(産経新聞2012年12月7日付「正論」)


また山名氏は、政権交代がなされた直後の年頭、脱原子力の実態が政治、外交、経済、国民生活全般に及ぼすリスクについて、次のように指摘しています。

いま、急速な脱原子力によって、我が国は大きな損失をこうむりつつある。膨大な化石燃料購入費用の海外への流出、天然ガス購入価格の上昇、貿易赤字の拡大、電気料金の値上げ、それによる産業への圧迫、停電リスクの常態化、過度な節電要請による負荷、CO₂排出の増加といった損失である。

それらの結果として、産業の空洞化、雇用の喪失、国民負担の増大など国力の低下につながる可能性が大きい。原子力発電とは「海外からの燃料購入にほとんど費用をかけずに安定的に電力を供給する電源」なのであるが、その恩恵すべてが危機にさらされている。そうした経済的余力の喪失は、再生可能エネルギーの拡大や火力発電の強化に必要な投資力までも減少させ、”原子力・再生可能・火力の3者共倒れ”すら起きかねない状況だ。原子力発電の有無は長期的には、貿易立国としての存立、主権国家としての独立性、国家安全保障など国の存立基盤にまで関わる重大事なのである。(産経新聞2013年1月4日付「正論」)


私としては、原発問題にどう対処するかという基本的なスタンスにおいて、この山名氏の指摘に付け加えるべきことはありません。原発が放射能汚染の危険を抱えていることはもとより明らかですが、そのリスクだけに特化して、他のリスクについて考えず、ただ感情的に反応して原発か再生可能エネルギー(自然エネルギー)かの二者択一を迫るような問題提起の仕方はそもそもおかしいのです。全電力エネルギーのうちの再生可能エネルギーのシェア(2011年現在、1.4%。電気事業連合会資料)を適切な割合にまで高めるためにこそ、産業の健全な発展が求められ、そのためにこそ、電力の安定供給が必須の課題となるのですから。

同じことは、評論家の中野剛志氏も指摘していて、日本のような資源に乏しい国は、これからのエネルギー安全保障を考えるにあたって、多様な発電方式を確保しておかなければならないことを強調しています(『日本防衛論』角川SSC新書)。

とりわけ重要なのは、外交問題にまで視野を広げてものを考える必要です。世界経済や国際政治の状況がこれだけ不安定な現在、中東など化石燃料産出国に過度に依存することは避けなくてはなりません。これに対してウラン産出国は世界に広く存在しており、しかも輸入相手国として地政学的に比較的安定した国が含まれます。また原子力発電は単に資源を確保しやすいのみならず、発電システムそのものが安定供給に寄与する長所をきわめて多く持っていることは、これまで実証されてきました。

宮台氏は、「原子力はウランを輸入しているから自給でもなんでもない」などと言っていますが、ごく少量の資源を輸入した上で日本の高度な技術を結集・蓄積して成立している原子力発電は、準自給エネルギーと言ったほうが適切なのです。

あんな大事故があったために、私たちは恐怖心の虜になってしまい、そのメリットを忘れているのです。なお、福島第一原発事故はまさに「想定外」の津波によるものであり、この教訓を生かして予防措置を講ずることは十分に可能です。原子炉そのものの安全性を飛躍的に高める次世代型原子炉の開発も進んでいます。

ちなみに、昨年10月30日、日立製作所が英国ロンドンで英原発事業会社の買収を発表した記者会見で、「福島第一原発に設備を納入したメーカーをなぜ選んだのか」と厳しい質問が飛んだ時、デービー英エネルギー気候変動相は「事故は津波が原因だった。原子炉の安全性に技術的な問題があったとは考えていない」と一蹴したそうです(産経新聞2013年2月7日付)。

高すぎる火力依存度を減らし、再生可能エネルギーの割合を高め(太陽光発電のコスト高や立地の難しさなどを克服し)、しかも国民生活の維持にとって十分な安定供給を確保するためには、豊かな経済力の維持、絶えざる産業発展の努力、安全技術の向上も含めた研究開発努力などが不可欠です。そのためにこそ、既存の原子力発電をなくしてはならないし、より安全な発電施設再構築の方向性を捨ててはならないのです。再生可能エネルギーのシェア拡大と原発の存続とは矛盾しません。矛盾どころか、後者が前者の条件となるのです。「いますぐ原発をやめて再生可能エネルギーへの転換を」などというスローガンが、いかに現実性のない粗雑な感情的発想であるかがわかるでしょう。

さて宮台氏、飯田氏は、次のように言います。まず冒頭の宮台氏の発言。

原子力発電は技術の問題であると同時に、それこそ飯田さんが「原子力ムラ」と名付けられたような社会的な「何か」ですよね。太陽光発電、風力発電、バイオマス、地熱といった自然エネルギーを軸とした社会づくりは、そういう「何か」と訣別しないと、できあがらない。社会の新しいエポックを築かないとダメなこと、そういう話をしていけたらと思います。

ここで言われている「社会的な『何か』」とは、要するに中央官僚体制のことです。宮台氏は、「共同体自治」を理想に掲げる一種の欧米型リベラリスト(と同時にコミュニタリアン的な思想傾向も持つ)ですから、少数の権力者や専門家たちが集まって作っている原発推進・容認勢力を破壊したくてたまらないらしい。

たしかに一般国民に十分に開かれない密室で国策を決めていくような体質、一度決めてしまったことをその弊害が明らかになってもなかなか変えようとしない体質が、中央官僚体制に根強くあることは事実でしょう。しかし、そのことと、原子力発電が現在および未来の国民生活にとって必要か不必要かという問題とは別の次元の話です。原子力発電がなぜ必要かについては、山名氏、中野氏の考えを引きながら、いま述べました。

宮台氏は、別のところで、ウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」を肯定的に評価しながら、次のように述べています。

リスク社会論は二項対立の図式を効果的に阻止しているわけです。もともと、予測不能、計測不能、収拾不能の高度リスクの代表例である原子力発電に、われわれはすでに依存しているので、イチかゼロというわけにはいかない。しかし、その危険は市民、市民社会に直接及んでしまうがゆえに、市民の自治によって是々非々で解決するしかないんだ、こういう理屈でした。


宮台氏は、「市民の自治によって」というところがことのほかお気に召すらしく、これを用いて、自治ができるヨーロッパの市民社会は善、日本の中央集権的近代社会は悪、という彼の固定観念を補強したいようです。これについては後にもう一度言及しますが、それはともかく、ここで言われている「イチかゼロというわけにはいかない」というロジックそのものには賛同できます。多様なエネルギー源を確保しておくことがリスク逓減につながるからです。

しかしそれなら、宮台氏は、どうして反原発デモに参加したり、原発から再生可能エネルギーへの転換をラジカルに主張したりするのか。それこそは「イチかゼロ」に走っている姿以外のなにものでもないではありませんか。

意思決定機構としての「市民の自治」が成立しにくい日本のような国民性であっても(これには歴史的・文化的な理由がありますが、ここでは述べません)、民意を十分にくみ取ることのできる良質の中央政権が成立していれば、エネルギーの選択に関して「是々非々」を実現することは可能です。現に安倍政権は、それに近い形を実現しつつある、と私は思います。それなのに、宮台氏は、政治・官僚体制の形式的な面のみを見て、日本は「悪い共同体」であると決めつけています(この表現は本書にたびたび出てきます)。緻密なことを言っているように見えて、ヨーロッパ由来の近代民主主義イデオロギーをそのまま信じ込んでいるのですね。悪しき丸山眞男主義から一歩も脱皮できていません。

飯田氏もこれは同じです。次の発言を見てください。

日本では大規模な水力を除くとわずか四パーセント(電力比)に満たない自然エネルギーですが、世界では自然エネルギーを取り巻く現実が倍々ゲームに加速して、研究者の予測を現実が追い越してしまった。たとえばヨーロッパでは風力・天然ガス・太陽光が一気に増えてきたので、二〇五〇年までには一〇〇パーセント自然エネルギーで賄えるという予測をする研究機関、団体、政府機関などが、昨年(二〇一〇年)に入って次々に出てきています。


とんでもないデマゴギーです。

まず、「ヨーロッパでは風力・天然ガス・太陽光が一気に増えてきた」と言っていますが、飯田さん、天然ガスは化石燃料であって自然エネルギー(再生可能エネルギー)じゃありませんよ。専門家が素人でもわかるこういうデマを言っては困りますね。

次に、100パーセント自然エネルギーで賄えるという予測をする研究機関が出てきたからといって、それがどうしたのですか。こんな予測が当てにならないことは、いまのヨーロッパ諸国の電力事情を見ればすぐにわかります。少し古いですが、以下に2008年における主要国の電源別電力量の構成比を掲げておきます。

主要国の電源別発電電力量の構成比



これで一目瞭然なように、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアのヨーロッパ諸国では、火力と原子力の合計がいずれも8割を超えています。ことにフランスが8割近く原子力に頼っていることは有名です。また、この構成比には現われませんが、ドイツが、原発に大きく依存しているフランスから莫大な電気を買っていることもよく知られています。

では、欧米諸国はそれほど自然エネルギーへ向かっての大転換を図ろうとしているのでしょうか。先に、イギリスが新しく原発建設を日立に発注したことを述べましたが、アメリカでは、強力な原子力規制委員会の監視下に、約9割の原発稼働率を実現しています。一方、太陽光発電のための太陽電池生産量は、たしかにここ数年で幾何級数的に伸びていますが、以下のグラフに明らかなように、これを大きく押し上げているのはほとんど中国と台湾、その他新興国、途上国であって、ヨーロッパも北米もさほどの伸びを見せていません。


世界の太陽電池(セル)生産量(ウィキペディア)

ところで飯田氏は、スウェーデンに長く滞在した経験を持ち、かの国がことのほかお好きなようです。かの国では燃料のバイオマスへの転換計画をきちんと立てているなどとしきりに強調しています。しかし彼は意図的にか無自覚にか、スウェーデンの電力供給が、水力43%、原子力39%と、ほとんどこの二つで賄われていることにまったく言及していません。 風力は4%、太陽光に至っては0%です。また、スウェーデンは、1980年代から90年代にかけて脱原子力を目指しましたが、2010年にはこの政策を根本的に見直しました。現在10基の原子炉が稼働中ですが、新たに原子炉を建て替えることも計画しています。この方針は福島事故後も変更されていません(http://www.jepic.or.jp/data/ele/pdf/ele09.pdf)。この事実を知らないとは言わせません。彼はあきらかにごひいきの国の事実を隠蔽しているわけです。官僚の閉鎖的体質を批判するなら、自分がまずその隠蔽体質から脱却すべきではありませんか。

さらに飯田氏は北欧好きの一部インテリのご多分に漏れず、フィンランドも褒めたたえていますが、そのフィンランドは、二百万キロワット級の原発を1基建設中、2基計画中です(http://www.jaif.or.jp/ja/nuclear_world/overseas/f0103.html)。

いったいに「アメリカでは」「フランスでは」「スイスでは」「スウェーデンでは」「フィンランドでは」と、欧米諸外国から得てきた局部的な知見をもとに日本批判をやるのは、日本の進歩派インテリの昔からの得意技(欧米コンプレックスにもとづく悪癖)ですが、こういうのを「ではのかみ」と言います。それぞれの国情(自然的地理的条件、国家規模、国民性、伝統や慣習、政治イデオロギー、その他)を無視して、モデルをそのままスライドできると考える方がどうかしています。参考程度に見ておけばよいのです。

事実、飯田氏は、本書の中で、ドイツが北欧諸国と比べて、その国家規模が格段に大きいので、「複雑で力のあるポリティクスが機能してきます。国レベル、州レベル、地方自治体レベルの三層構造があって、変化がむずかしい」と正確な把握をしながら、それならドイツに優るとも劣らない大国・日本にだって同じことが言えるはずなのに(しかもその上に、日本の場合には、ヨーロッパとの国民性の違いや、平野が少なく気候が不安定な地理的条件が作用します)、日本だけは「遅れている」という話になるのですね。ここに、宮台氏にも共通する西欧・北欧信仰がはっきりと出ています。

脱原発が間違っている大きな理由の一つに、次の点が挙げられます。

宮台氏も飯田氏も、日本をただ批判するだけのために、先進的な「知識社会」ではいち早く再生可能エネルギーに切り替えて原発を見限りつつあるかのようなデマをまき散らしていますが、これらの国々では、理想を掲げて目標数値を提示しているだけであって、現状はいま見てきたとおりです。果たして目標が達せられるのかどうか、甚だ疑わしい。

現在、中国をはじめとして、ロシア、インド、韓国、中東諸国、東南アジア諸国では、建設中、計画中の原発が目白押しです(http://www.jaif.or.jp/ja/nuclear_world/overseas/f0103.html)。この場合、技術的に一番頼りになるのは、言うまでもなく東芝、日立、三菱重工といった日本の企業です。特にインド、中東、東南アジアが、今後これらの企業に白羽の矢を当ててくる可能性はたいへん大きい。大企業がそれを見逃すはずはありません。いわば技術や投資の矛先が国外に流出していくわけですが、巨大プロジェクトで日本の底力が再認識されて国際競争に勝つという面もあるわけですから、長い目で見れば国益にかなうはずで、それ自体は悪いことではないでしょう。


*****

さて問題は、世界の大きな市場がこんなに原発の建設を求めているのに、もし日本があの平和憲法とやらと同じように、「原発放棄」をしてしまったら、これまで蓄積してきた高度な技術を次世代に継承する道が断たれ、国際競争に敗れる可能性が非常に高くなるということです。最悪の場合には、かつて自前のものとして持っていた技術を、よその国から教えてもらわなくてはならない情けない状態になるかもしれません。ある人から聞きましたが、これはすでに原発ではない他業種(製造業)で起きていることで、日本のその業種が国内で空洞化してしまったので、タイ人にわざわざ来日してもらって技術指導を受けなくてはならなかったそうです。

評判の悪い高速増殖炉の話をしましょう。

高速増殖炉は、原理的には、天然ウラン資源の利用効率を飛躍的に高めることができる(百倍近く)ため、原子力技術者の夢をかきたてました。しかし現段階ではいろいろと克服課題が多く、「もんじゅ」の運転中止に象徴されるように、いま日本では開発が頓挫してしまったように見えます。宮台氏や飯田氏は、本書で、この事態を次のように嘲笑っています。

飯田 そこで高速増殖炉というフィクションが登場するんです。諸外国は諦めているのに、日本だけは目覚めていな               い。
宮台 なるほど。
飯田 高速増殖炉というのは、二〇五〇年に実証炉が一基できるかどうか、という話をしているわけです。いまや自然エネルギーは二〇五     〇年にすべて供給できるというビジョンがあるのに、困ったものです。既存の原子力発電も急速に減っていきます。


ところがこれも途方もないデマなのですね。

まず、高速増殖炉の研究開発は、日本以外の国でやめてしまったわけではありません。フランスも開発を続けていますし、ロシア、中国、インドなど、新興国、発展途上国では旺盛に研究開発に取り組んでいます。飯田氏にとっては、「諸外国」というのは、一部のヨーロッパ諸国を意味するので、それ以外の国々ははじめから目に入らないらしい。死刑反対論者が、一部ヨーロッパの例だけを基準にして、日本はまだこんな残酷な遺制を残しているなどと騒ぎ立てるのと同じですね。

第二に、原発建設ラッシュが新興国、発展途上国でこれから起きてくるにちがいないことはいま述べたとおりです。急速に減っていくなどという見通しは自分の願望を客観的予測めかして自己投影しているだけです。

第三に、「自然エネルギーは二〇五〇年にすべて供給できる」というのは、ごく一部の先進国が打ち立てているただの「ビジョン」にすぎません。本当にそうなることがどうして確信を持って言えるのでしょうか。

高速増殖炉の場合、冷却材にナトリウムを使う方法は確かに難点が多いようですが、鉛・ビスマスを使う方法には、腐食問題を解決すれば、まだ実用化の可能性が大きく残されていると考えられます。

私が言いたいのは、たとえ細々とではあれ、こういう研究開発の道を閉ざしてしまってはいけないということです。予算と優秀な人材とによって研究開発が続けられていれば、ある時、ぱっと解決策が開けることがあり得るからです。世界の偉大な発見・発明の多くが、優れた研究者たちの執念の持続によって、ほんのわずかなきっかけから成し遂げられたことは、人のよく知る事実です。

もっとも、科学上の発見・発明が、人類に幸福をもたらしたかどうかは、別途、哲学的・思想的な問題として真剣に考えてみなくてはならないことですが。しかし、少なくとも、エネルギー安全保障の観点からは、経済的な余裕があるかぎり、さまざまな試行錯誤を続ける必要があるのです。

欧米リベラリズムの信仰者・宮台氏は、再生可能エネルギー普及のために欧米で進められてきた電力自由化、発送電分離、固定価格買い取り制度などを、すばらしい制度として無条件に支持していますが、この支持がそういうイデオロギー信仰以外にさしたる根拠をもたないことは明らかです。これらの方向性がさまざまな問題を含んでいるために、彼の大好きな欧米でさえすでに見直されつつあることを宮台氏はご存知でしょうか。中野剛志氏前掲書の中の次の記述をよくお読みください。

ドイツでは、再生可能エネルギーによる電力の固定価格買い取り制度による負担が大きくなりすぎて問題になっており、家庭用の太陽光発電電力の買い取り価格を日本の買い取り価格の半分以下に引き下げたり、大型の事業用については、買い取りを廃止したりしている。しかも太陽光発電の設備容量が五千二百万KWに達したところで制度は廃止することが決まった。ドイツの脱原発政策や再生可能エネルギー政策は、見習うべきモデルではないのである。

また、スペインでは、巨額の債務を抑制するため、再生可能エネルギーの買い取りを停止しました。

アメリカでは、発送電分離を進めたために、各地で供給の不安定によるトラブルが発生しています。カリフォルニア州では停電の頻度がすさまじいと聞きます。2012年に東海岸を襲ったハリケーン・サンディによる260万戸に及ぶ停電被害の復旧に一週間以上を要したことは記憶に新しいところです。これに対してわが国の電力業界では、独占、独占などと批判されながら、東日本大震災における停電では、あれほどの大災害であったのに、東北電力がわずか三日で回復にこぎつけました。

さらにヨーロッパでは、電力自由化によって価格競争が激化したために、弱小業者が倒産して寡占化が進み、電力料金はかえって高騰したとも報告されています。

ちなみに中央管理体制を維持している現在の日本の電力料金は、先進国中でもけっして高くありません。このリーズナブルな価格の維持には、発電コストの安い原発の存在が陰の力として、安定供給に大きく貢献してきた事実を付け加えておきましょう。翻って、再生可能エネルギーの普及をもくろんで電力自由化と固定価格買い取り制度を取り入れたヨーロッパ諸国では、当初のもくろみほど普及が進んでいないことは、先に見たとおりです。

このように、電力のような公共財の取り扱いをむやみに自由市場にゆだねると、ろくなことにならないのです。電力は、いわば産業界の通貨のようなものです。通貨そのものを自由取引にゆだねてしまった金融市場の成立と過熱が、しばしば世界経済の混乱の元凶になってきたことはよく知られているところです。一国の通貨を適切な中央の管理(金融政策や財政政策)から引き離してしまうと、国民経済が世界経済の混乱に簡単に巻き込まれてしまうのと同じように、電力のような高度な公共財に対しては、強力な中央管理体制がぜひとも必要なのです。

現在、原発事故に伴う東電悪者論に便乗して、宮台氏の唱えるような自由化論が幅を利かせています。そしてついに日本政府は、すでに弊害が多いとして見直されつつある発送電分離や固定価格買い取り制度の導入を決めてしまいました。日本国家のこの鈍感さ、あちらの権威をよく検討もせずに鵜呑みにして取り入れる百姓性は、いまに始まったことではありません。欧米でとっくに反省されていた教育自由化論としての「ゆとり教育」、アメリカの圧力に負けて政界、財界、官界、学界、マスコミが大合唱して取り入れた「構造改革」、すべてが失敗に終わっていることが明らかなのに、いまだにその後遺症に国民は悩まされているのです。

では、電力自由化や発送電分離がなぜよいことであるかのように考えられてきたのでしょうか。これは欧米リベラリズム思想の根本的な脆弱さを象徴しているように思われますので、私が想定できる範囲で2点だけ挙げておきましょう。

①何にせよ、規制を撤廃して個人や企業が商品を自由に取引できることはよいことだ。市場原理が適切にはたらいて経済は活発化し、価格も均 衡する。
②中央官僚体制や独占体制がのさばっているような状態は、個人の欲望を抑圧し、市民の自由な自治を妨げる悪い制度であるから、これをなる べく壊すべきだ。

ここまで読んでいただいた読者のみなさんには、上記2点が、リベラリストのイデオロギー的な思い込みにすぎないことがよくわかっていただけることと思います。

事実、①については、ケインズに反逆を企てたシカゴ派経済学に端を発する新自由主義・市場原理主義にそのまま当てはまる考え方で、これがリーマン・ショックのような世界経済の混乱を惹き起こした大きな原因の一つであることは、心ある人たちの間ですでに常識となりつつあります。優秀な社会学者であるはずの宮台氏には、そういう現実から学び直そうとする姿勢がほとんどまったく見られません。

また②は、まさに宮台氏自身を、①の考え方の誤りを認めることから遠ざけさせている「目の前のうつばり」です。はじめにも述べたように、彼は、市民が連合してつくる比較的小さなスケールの「共同体自治」の提唱者ですが、こんな理想が実現不可能なことは、柄谷行人氏を批判した部分ですでに述べたとおりです。言葉こそ巧妙に駆使していますが、帰するところは柄谷氏の「ぼんぼんの空想」と同じなのです。

宮台氏はスローライフの勧めなども説いています。しかし、個人生活にそれを勧めるならどうぞご勝手にと言いたいところですが、ギラギラしたグローバリゼーションの渦に巻き込まれている日本のような巨大国家の社会構造全体を、どうやってスローライフに転換するのですか。車をなくせとか、「友愛の海」とやらを説くのと変わりないではありませんか。

宮台氏は、なぜ、こんなできもしない理念を掲げるのか。これは私の想像ですが、自分が培ってきた西洋近代的な思想感覚が、日本の中央政治になかなか受け入れられないので、どこかで執念深いルサンチマンを抱えていて、裏返しの「権力への意志」を表明しているのでしょう。そこには日本の一般民衆の「頑固さ」(いわゆる「民度の低さ」)に対するあからさまな軽蔑心もうかがえます。そしてこれは、西洋的自由の理念に対する片思いにいつまでも囚われているという意味で、戦後進歩主義知識人に共通したメンタリティの一典型にほかなりません。新しがっていますが、本質的にはこれまでのパターンをなぞっているだけです。

日本の一般民衆の「頑固さ」「民度の低さ」と言いましたが、それは、宮台氏のような欧米型「自由」原理主義知識人から見るとそう見えるので、ここには、簡単に上から目線で見てはいけない根深い国民性の問題が横たわっています。

話を電力自由化の問題に限るなら、たとえばアメリカ(の特に中間層)には、何よりも個人の自由と自立と自助を重んじる伝統的な気風があるので、こういう政策には喜んで飛びつく心理的な下地があります。「自分で電気を作って売ったり、買いたいところから買いたいぶんだけ電気を買えるんだって? 自分で選択できるなんてすばらしいじゃないか」というわけですね。

サラリーマンでも確定申告を必ずやること、不動産を買うときには徹底的に調べること、家の外壁塗装を自分でやることなどは、アメリカ人のこの気風をよくあらわしています。しかし、この気風がもたらす弊害も明らかで、競争の敗者に対する冷たさ、医療保険制度の不備、なんでも訴える訴訟社会の混乱ぶり、銃社会のもたらす治安の悪さなどは、その典型的な例です。

これに対して、日本は自由・自立・自助を重んじるよりは、伝統的に相互扶助の精神に貫かれた社会です。いま詳しく比較文明論をやっている余裕はありませんが、仮に電力が自由化されたとしても、一部の大企業や富裕層以外の大方の国民は、固定価格買い取り制度などにさほどのインセンティヴを感じないのではないかと予想されます。自主的・自発的なモチベーションの希薄なところに強引に制度化を押しすすめれば、制度の悪い面、つまり中央管理体制の劣化・崩壊による無秩序の跋扈、災害時などにおけるリスクの増大、供給の不安定化などが露出するだけでしょう。

宮台氏は、日本の民衆のメンタリティに対していつも上から目線なので、こういう国民性には長い間の慣習からくる深い理由があるのだという肝心な点を見ようとしません。それが西洋式理念をそのまま持ってきて日本社会に押しかぶせようとするリベラル知識人のダメなところと言えるでしょう。

最後に、原発問題に話を戻しましょう。

もともとこの問題は、福島第一原発事故があってから、にわかに多くの国民の関心を引くようになったいきさつがあります。その関心の根底にあるのは、唯一、放射能という目に見えない不気味な危険物に対する恐怖という単純な感情です。もちろん、広島、長崎の被爆という身の毛もよだつ現実体験を味わわされたただ一つの国民という特殊性がこれに重なっていますから、恐怖感情が他国に比べて一段とリアリティを持っていることは当然です。だからこそ、原発の周辺住民は言うに及ばず、電力供給サイドの関係者のショックもひとしおだったわけです。

私はこの文章で、恐怖に裏付けられただけの脱原発派知識人の視野の狭さを批判してきました。恐怖そのものは当然ですが、さてだからと言って、原発をすべて廃炉にすればエネルギー問題が解決するのかといえば、なかなかそうはいきません。結論として、最大限慎重な安全確認を行った上で徐々に再稼働してゆくほかはないだろうというところに落ち着きます。

この点に関して、二つのことを言っておきたいと思います。

第一。人間の生というのは、今日明日をどうやって生きていくのかという関心と、自分を超越した無限の時空にまで視野を引き延ばすことができる意識との二重性によって構成されています。エネルギー問題に軸足を置いて再稼働に賛成する議論はどちらかと言えば前者を重んじる立場であり、恐怖心をどこまでも拡大して、それを根拠に脱原発の理想を唱える議論はどちらかと言えば後者を重んじる立場と言えるでしょう。両者はそれぞれが立っている生活上のポジションの違いに依拠している部分がありますから、もしかしたら永遠に交わらないのかもしれません。

私は、両者が少しでも交わる可能性を探るために、もし自分が事故のあった原発の至近距離に住んでいたら、果たして再稼働賛成派に回るだろうか、また、福島第一原発の建設や稼働にかかわっていた技術者だったらどうだろうか、などをあれこれ想定してみました。これは安易に答えが出ない問いです。当初は茫然として判断不能に陥るに違いありません。しかし一定の時間を経て、恐怖心や挫折感からある程度自由になり、冷静さを取り戻すことができた段階なら、やはりギリギリのところで再稼働賛成派に回るだろうと思います。理由はこれまで述べてきたとおりです。ただしこれはまったく私の個人的な述懐にすぎませんが。

第二。人類は核エネルギーというとんでもないものを手にしてしまいました。これは、ギリシャ神話に登場するプロメテウスによって、第三の火を与えられてしまったということを意味するでしょう(第一は火。第二は電気)。

核エネルギーがいかにすさまじいものであるかは、たとえば次のような単純比較によってとらえることができます。

1グラムのウランを核分裂させるのと、1グラムの石油を燃焼させるのとでは、発生エネルギーにどれくらいの差があるか。答えは、前者が後者の800万倍です。現時点での原子力発電では、原子炉から蒸気タービン、発電機とプロセスを経ることによってその効率がどんどん下がり、全エネルギーの1%ほどしか電気を取り出すことができません。それでも化石燃料に比べて5万倍から10万倍の威力があることになります。今後、原発技術を発展させれば、この利用効率はもっともっと高めることができます。

よく言われるように、科学というのは人類一般の幸福実現を根拠に成立しているのではなく、物事をどこまでも追求せずにはいられない欲望中毒存在としての人間の本性にもとづいています。ですから、こういうとてつもないものを手中にしてしまったのは、いわば人類の業のようなものです。人類は、今後、たとえば核融合技術の実用化などを実現できない限り、核分裂反応というエネルギー源をけっして手放さないでしょう。

西部邁氏の最近の発言の受け売りになりますが、こういう人間の現実を、オプティミスティックに語るのではなく、私たちの宿命としてペシミスティックに受け入れ、それを前提として物事を決断していくほかはないのです。それが生きるということです。
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小浜逸郎氏・反原発知識人コミコミ批判(その1) (イザ!ブログ 2013・2・11)

2013年12月12日 20時12分05秒 | 小浜逸郎
*いま私は、イザブログの投稿をアップ順にGooブログに移す作業を延々をやっております。下記の小浜逸郎氏の論考は二月上旬のものですから、私は誤って飛ばしてしまったようです。その点、お詫びいたします。
*****

まず次の新聞記事をごらんください。東京新聞2013年1月12日の朝刊です。

脱原発デモ 参加者増の兆し 自民政権に危機感

東京・永田町で毎週金曜夜に続けられている脱原発の抗議活動が11日夜、今年初めて行われ、約1万3千人(主催者発表)が集まった。自民政権下での原発推進に懸念を抱く人々が、あらためて脱原発を訴えた。

東京・永田町で毎週金曜夜に続けられている脱原発の抗議活動が十一日夜、今年初めて行われた。主催者発表で夏場は十万~二十万人に上った「官邸前デモ」は秋以降縮小したが、原発再稼働に積極的な自民党への政権交代を機に再び人波が増えているという。主催する首都圏反原発連合によると、十一月末~十二月初めは最も参加者が少なく五千人ほど。増加傾向に転じたことに、スタッフの戸原貴子さん(35)は「政権交代に危機感があるのでは」と推測する。「全員が毎回来るのではなく、ライフスタイルにあわせて入れ代わりに参加する形になってきた。初めて来たという人もまだおり、これま で届いていない層を開拓する方法を考えたい」と話す。

八月以降、夫とともにほぼ毎回参加している東京都目黒区の渥美澄子さん(73)は「二人で来れば月数千円かかるし、日々の暮らしで精いっぱいの人は来られないでしょう。どんな思いで来ているのか、首相や議員に想像してほしい」と訴えた。

主催者発表で、この日の参加者は約一万三千人。警察関係者は八百人ほどとみている。


この記事の書き方ですが、だれが読んでもこの見出し、大げさだなあ、と思いませんか。「脱原発デモ参加者増の兆し」とありますが、主催者発表だけで見ても、夏場に十万から二十万に達していた参加者が、一時期五千人ほどに激減し、それが安倍政権成立後に一万三千人になったというのです。ピーク時の5%以下に落ち込んだのが、年が明けてわずか八千人ほど増えたのをもって、「脱原発デモ参加者増の兆し」とはねえ。

もしほんとうに「自民政権に危機感」をもった国民が増えたのなら、せめて五万人くらいに回復していないと、参加者増の兆しなんて言えないんじゃないでしょうか。いえ、本当に自民政権に危機感を持って原発ゼロを国民の多くが求めているのだったら、主催者発表三十万人くらいになってもおかしくないはずです。

だって、いまの安倍政権は、安易な脱原発、ゼロ原発などをけっして言わず、10年かけてエネルギーバランスを見直すと言っているのですから、反原発イデオロギーの持ち主からすれば、「原発依存をそのまま残そうとする許しがたい欺瞞的政策」と映るはずで、それが「国民の声」を代表しているとすれば、もっともっと多くの国民がデモに参加して当然ではありませんか。

参加者の一人が「二人で来れば月数千円かかるし、日々の暮らしで精いっぱいの人は来られないでしょう。」と言っているのは本音で、そんなお金をかけてまでわざわざデモに参加しようとする人など、現在ではほとんどいないことを示しています。私は寡聞にしてこの記事以後、デモ参加者が増えたという情報に接していませんが、もしそういう情報を得ている方がいたら教えてください。

ちなみに、デモ参加者数についての「主催者発表」と「警察発表」との極端な乖離は昔から有名ですが、もし警察発表のほうをいくらかでも信用する立場に立つなら、なんと八百人だそうです。もちろん私はこちらをそのまま信じるわけではありませんが、「主催者発表」なるものが、「白髪三千丈」「南京大虐殺三十万人」式のハッタリをかなり含んでいることはどうも疑えないようです。いずれにしても、いまの実態はずいぶんみすぼらしいのね。

というわけで、この記事の見出しをつけた東京新聞の記者が、すでに運動がポシャっている現実に目をつむって、デモ主催者・参加者の幼稚な反原発思想にひたすら迎合しているのは明らかです(彼らの思想がいかに幼稚か、これからきちんと述べます)。よせばいいのに、バカだねえ。

昨年(2012年)10月、一昨年から昨年夏場にかけてのデモの盛り上がり気運を記録に残そうと、一冊の本が出版されました。『脱原発とデモ――そして、民主主義』(筑摩書房)。

執筆者は24人(一人は団体名)。そのなかに、日頃目配りの悪い私でさえ知っている「錚々たる」知識人・芸能人の名前がありました。知らない人のことは興味ないので、知っている人の名前だけを挙げておきます(カバー掲載順)。

瀬戸内寂聴(作家)・鎌田慧(ルポライター)・柄谷行人(思想家)・落合恵子(作家)・小出裕章(京大原子炉実験所助教)・坂本龍一(音楽家)・田中優子(江戸学研究者)・飯田哲也(環境エネルギー政策研究所長)・宮台真司(社会学者)・いとうせいこう(作家)・小熊英二(歴史社会学者)・鶴見済(ライター)・山本太郎(俳優) 以上13名。

一言で言うと、まあ、この人たち、なんてナイーブ(バカという意味とほぼ同じ)なんだろう!、というため息です。下品なたとえで恐縮ですが、いくつになるまで処女やってるんだろう! という印象ですね。目を覆いたくなるようなデジャヴュ(既視感)です。

なかで宮台氏だけは彼特有の狡猾さを発揮して、いくぶん醒めたところが感じられますが、それでも彼はなぜ自分がこういう試みに参加するのか、原発問題をどう考えているのか、明晰なはずの社会学者のくせに、その論理を何も打ち出していません。ただし彼は2011年6月の時点で、飯田哲也氏との共著『原発社会からの離脱』(講談社現代新書)という本を出していますので、これを読めば一応その考え方はわかります。これについてはのちに言及しましょう。

さてこれから、この人たちの発言からいくつかを選び出して、それらがいかにひどいかを批判していきますが、それだけでは終わりません。一般にデモという集団行動がどういう意味をもち、どんな限界をもっているかという組織論的な問題にも触れたいと思います。また、知識人がデモに参加したり抗議声明をしたりすることの意味について考えを述べるつもりですし、さらに、そもそも私自身が、現時点で原発問題をどう捉えているかをはっきりさせたいと思います。

初めに参加者数の話をしましたので、そのつながりから、まず数についてとんでもないことを言っている小熊英二氏の発言から。

社会科学的には、その背景には、100人は同じ意見の人がいると考えたほうがいい。組織動員なら別ですが、先日のデモにはほとんど自由参加でした。

10万から20万ということは、東京人口の1パーセントから2パーセント。その100倍ということは、東京人口の1倍から2倍。広く東京圏の中から集まったとしても、多数派が同じ意見だということです。

「再稼働反対」と唱える人波は、人数からいっても60年安保を超えていた。(中略)30~40代の男女を中心に、東京人口の1~2パーセントが平日の夕刻に集まるなど、30年前の社会構造では、あらゆる意味で考えられないことだった。

この変化がどこにつながっていくのか、先行きは未知数だが、しばらくは同伴してみようと思っている。日本で起きていることを知るのは学者としての知的好奇心だが、人びとがエネルギーを発散する場に参加し、歴史的変化の現場に立ち会うことは、単純に楽しいからだ。


「社会科学的には」などと格好をつけていますが、どうして100倍も同じ意見の人がいるなどと断定できるのでしょう。「学者」のくせにずいぶんずさんな想定ですね。第一、原発はやめた方がいい(何となく怖いからいやだという人も含めて)という考えや感覚を持っているのと、それをデモという行動にあらわすのとでは、まったく意味が違います。いきなり100倍と言っておいて、それが東京の人口と同じだとは、なんともすさまじい言葉の暴挙です。こんな論理が通るなら、先の選挙で安倍自民党に投票した人が1500万人として、そのうち自民党の原発政策の公約に賛同した人が十分の一としても150万人、その100倍の人が同じ意見だとすると、1億5000万人となって、ゆうに日本の人口を上回るわけです。

小熊氏は続けて、この現象を「日本で起きていること」と一般化し、さらにそれを「歴史的変化」と呼んでいます。もしそんな大げさなことなら、わずか数か月後にデモ参加者が激減したことも「日本で起きている歴史的変化」ということになるはずですから、その点についても、小熊氏にぜひ「学者としての知的好奇心」を発揮してほしいものです。

それにしても小熊さん、「単純に楽しいからだ」なんて、発言に責任をもつべき立場の知識人がこんなことを言っていいんですか。はじめから原発問題の外側に立って、自分は野次馬でーすと告白しているわけですね。原発問題をどうしようかと苦労しているさまざまな立場の人たちのことをまったく考えていない。普通の生活者ならそれで結構ですが、選ばれた立場で重要問題に関して発言するときには、もっと自覚を持ってもらわなくては困ります。

戦後思想史や社会問題についてもっともらしく分厚い本を何冊も書いていながら、しょせんはさ、ノリが軽すぎるんだよな、あんたは。このデモ騒動のリーダーとしてあんたが一翼を担っていたことも私は知っているぞ。野次馬を気取らず、ちゃんと落とし前をつけなさい。

少し先輩風を吹かせます。今回のデモ騒ぎが、「あらゆる意味で考えられないこと」なんてことはないんですよ。小熊さんは戦後思想史の専門家なのだから、まさか知らないわけはありますまい。安保闘争の時にも、国会前を数十日にわたって数万人規模のデモが取り巻きましたが、自然承認がなされるやいなや、潮が引くように一般のデモ参加者はたちまち消滅してしまいました。デモがピークのとき、いまのあなたと同じように、かの有名な丸山眞男が興奮して、普通の市民が政府にノーを突きつけたことは戦後初めてで、これは新しい社会を切り開く画期的なことだと騒ぎ立てました。もともと彼は、政治学者のくせに、なぜ自分が安保改定に反対なのか、一度も理論的に説明したことがない。しかもその後彼は、市民運動の盛り上がりに対する自分の期待が的外れだったことをきちんと総括したことがない。小熊さん、あなたはぜひやってくださいね。やりっこないと思うけど。

老婆心ながら、問題のポイントを指示しておきます。なぜ一部の一般市民というのは、あるときはインテリがびっくりするほどシングル・イシューに対して熱気を示すのに、状況が変わると、すーっと日常に戻ってしまうのか。この問題を真剣に考えなければ、いくらオタク知識を延々と披歴しても、思想的にはオシマイです。

坂本龍一氏といとうせいこう氏。

坂本氏については、少し前に自伝『音楽は自由にする』(新潮社)を読んでいましたが、そんなに悪い感じは持っていませんでした。まあ、世界に名を馳せた音楽家だから、音楽は国境を超えるという体験にもすごく実感があるのでしょう。ジャズやクラシックの浅いファンである私自身にもこの実感はあります。ちなみにマーク・ジョンソンがプロデュースして福原美穂が参加している「PLAYING FOR CHANGE」は、作成の動機になっている思想はくだらないけれど、音楽として仕上がったものはすごくいいですね。念のため言っておきますが、フルトヴェングラーもカラヤンもナチスの協力者だったなどとつまらないことをほじくるのはもうお互いにやめましょうね。音楽は人々の生存全体を「自由に」などしませんが、国境や民族を超えてその感動が伝わることは確かです。そのことは思想の右左などと関係なく認めなくてはなりません。

それはともかく、良心的な動機から政治にかかわるイベントをやって影響を及ぼすのも、それ自体月並みなことで、坂本氏の言動にいちいち目くじらを立てることもないだろう、音楽家に社会問題を深く考えなくてはならない責任なんてないんだからな、と思っていたのですが、ことが言葉の問題となると、どうも黙ってはいられなくなりました。

くだんの本からの引用ですが、坂本氏は、2,011年の10月22日(東日本大震災から七か月後)にオックスフォードで次のようなメッセージを発しています。

Adorno said "Writing poetry after Auschwitz is barbaric."

I would like to revise it and say ,”Keeping silent after Fukushima is barbaric."

 
日本語訳では次のようになります。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とアドルノは言いました。

ぼくはこう言い換えたい。

「フクシマのあとに声を発しないことは野蛮である」と。


この人、詩的な言葉に対する感性がひどく鈍感ですね。というか、もし意図的にこういうレトリックを用いているのだとしたら、許しがたい確信犯です。たぶん、前者なのでしょう。ドイツの哲学者でもあり、作曲家、音楽批評家でもあるアドルノの気の効いた言葉などちょいと引用して格好つけてみたものの、アドルノの言葉の意図そのものを台無しにしています。もっとも私は、このアドルノの言葉にも感銘など受けませんが。

アドルノが言っているのは、ああいうひどいことがあった後では、その記憶から自由になれない限り、いわゆる「美的な」言葉を安易に発することはできなくなる、それが人間の素直な心情であろう、ということでしょう。ここには、ナチス時代における、半分ユダヤ人でもあった彼の生活体験が色濃く影を落としていて、その体験者の絞り出すような声の出所がよく理解できます。しかし、そういうローカルな文学言語のもつ強さは、同時に、ナチス・ドイツの時代を当地で体験しなかった人々にとっては、それこそ、安易に共有することができないものであって、また、この言葉の威力に過度なプレッシャーを感じる必要など全然ないはずのものです。ナチスやアウシュヴィッツに直接関係のない人、近代史に興味など持たない人は、どんどん好きな詩、素敵な恋の歌などを書けばよろしい。

さて、坂本氏は、アドルノなりの実存的な叫びの意味を、まったく逆転して平然としています。アドルノが、ひどいことがあった後では言葉を安易に発せられないと言っているのに、坂本氏は、ひどいことがあった後に黙っていることは許されない、と政治的な脅しをかけているのです。一見詩的な文句(レトリック)というものが、私たちの情緒に直接訴えかけてくるだけに、これはたいへん始末が悪い。

この後、坂本氏は、福島第一原発事故を「人類史上最悪の事故」などと大げさ極まるアジテーションをやっていますが、どうして放射能拡散によってまだ一人の死者も病者も報告されていない事故が、「人類史上最悪」なのですか。御巣鷹山の日航機事故は? 関東大震災によって引き起こされた火災事故は? タイタニック号沈没は? これらによって何人の犠牲者が出たかご存知ですか? 歴史をさかのぼれば、まだまだいくらでも大事故があるでしょう。



 坂本氏のメッセージは、自分の観念的で幼稚な平和理想をだれもが共有すべきであり、しかもその意思表示をしない人は「野蛮である」と言っているわけですから、福島原発事故から一定の距離を置いて、たいしてそれを気にせずに平穏に暮らしているすべての人々は野蛮人だということになります。私は逆に、有名人の権威を笠に着たこういう威圧的な口ぶりをこそ、許すことができません。普通の人々は、意識の片隅に被災者たちへの同情心を、それぞれのポジションに応じた深浅の度合いで保ちながら、一方では日々の暮らしの関心に追われているのです。たとえば、震災から四カ月ほどたって私がある慧眼の士から聞いた話では、関西の人たちの今回の震災に対する受け止め方には、首都圏とはだいぶ温度差があるということでした。当然のことと思います。坂本氏のような政治的・情緒的脅しに直面したら、関係者以外の普通の人々は、木枯し紋次郎のように「あっしには関わり合いのないことでござんす」と胸を張って言い返せばいいのです。

もちろんこう言ったからといって、今回の原発事故がこれからの私たちの生活全般にとって大きな意味を持たないということではありません。問題は、どういう意味を持つのかを、叡智を結集してあくまで冷静に見定めることであって、坂本氏のようなお気楽な「平和運動家」が、いっときの興奮から扇情的なメッセージを打ち出すことなどには、なんの意味もありません。先に述べたように、音楽家としての坂本氏に、私は、この問題を総合的な見地からよくよく考えよなどと無理な要求をしませんが、何も考えずにただ恐怖心だけから反原発に賛同している人々の情緒を煽る効果しか持たないこの種のアジテーションだけはやめてほしいものです。

いとうせいこう氏については、坂本氏と同断ですが、彼には一言だけ言っておきましょう。

2011年9月11日の新宿・反原発デモで、彼は次のようなアジテーションを行っています。たぶんラップのノリで演じたのでしょう。

 廃炉せよ 廃炉せよ
 廃炉のあとを花で埋めよう

 廃炉せよ 廃炉せよ
 廃炉のあとを花で埋めよう

 諸君、自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ
 そいつは暗示のレールの上を一直線に走っていくだけさ
 だから、暗示の外に出よ
 おれたちには未来がある


あ~あ、とまた溜息が出ます。廃炉せよ、廃炉せよと連呼して暗示をかけているのは誰ですか。小説など書いて一応インテリ面しているいとう氏にもまた、原発問題が今後の日本国民の生活全体にとってどういう意味を持つのかをしっかり考えた形跡がまったく感じられませんね。そういう人は軽挙妄動を慎んでください。有名人やインテリがデモのような行動をするときには、最低限、必要なことを考えた上で決断してください。いとう君、自分でかけた暗示のトリックに、自分ではまっちまったらおしまいだ。

次は江戸学研究者・田中優子氏。

田中氏はくだんの本の中で、自分の専門である近世史研究を活かして、江戸時代の一揆についていろいろと薀蓄を垂れております。それはそれで勉強にもなり、たいへん結構なことなのですが、最後の数行がいけません。

今やたいていの場合、運動は組織の拡大、継続、社会的承認、自己表現、時には選挙の票が目的となっている。それでもデモは重要な示威行動である。デモを少しでもテロル(恐怖)を生み出す一揆に近づける必要がある。明るく楽しく学生運動の模倣をする学生たちが発生しているように、デモが本来のデモの明るく楽しい模倣をするだけであったら、デモの存在意味はない。デモは怒りの表現であり、求めずにはいられない要求をもっているのだから、明るく楽しいはずがないのだ。理不尽を見つめ個々の利害を超えることからしか、一揆は始まらない。

要するに、反原発デモの趣旨を、その適否についての考えは棚上げにしたまま全肯定した上で、かつての百姓一揆のようにもっと権力者を脅かすテロルの要素を織り込んで、命を懸けて激しくぶつかれ、とアジっているわけです。

バブル時代に女性江戸学者として華やかに登場し、学界の三大美女などとうたわれた田中さん、何を血迷ったか、じつは恐ろしいことを言う人だったのですね。「三大美女」かどうかはともかく、虫も殺さぬ優しげな容貌をしながら、心の中では過激なことを考えている女性というのは、けっこういるものです。男性諸君、気をつけましょうね。

私は全共闘世代です。大したことをやったわけではありませんが、わりと早い時期に転向しました。理由はいろいろとありますが、その重要な一つに、あの運動が大衆的支持を失うのに並行してどんどん過激化していき、その末路が連合赤軍事件というおぞましいリンチ殺人に帰結したという経過を同時代者として見たことが挙げられます。あの事件は日本の政治構造には何の影響も与えないただの凄惨な私的殺人ゲームでした。ちなみにあの事件の最も先鋭的な遂行者は女性でした。

江戸の一揆といえば、二百年から三百年も前です。近代化が達成される以前の農村は、しばしば飢饉や重税に苦しみ、命をかけざるを得ないぎりぎりのところまで追いつめられた背景をもつ場合がほとんどでしょう。しかし、私たちには、それについての歴史的な知識はあっても、大方のところ、その切実感を喪失しています。それは、多くの人がそこそこ食っていけるようになったので、権力者にテロルを感じさせるだけのモチベーションが低下したからです。それはそれでいいことです。

ところで田中さん、歴史学を専門とする知識人として、今回の原発デモのような問題に対して提供すべき知恵とは何でしょうか。「個々の利害を超え」た一揆の勧めなのですか。「個々の利害を超え」ることを何かすばらしいことのように勘違いしているようですが、この理念のうちには、そのうるわしい見かけの陰に、必ず個々の訴えを政治的に利用して全体主義的な権力に組織化していこうとする恐ろしい力が潜んでいるものなのです。連合赤軍などは、まだまだちゃちなもの、現在の北朝鮮、カンボジアのクメール・ルージュ、中国の文化大革命、ソビエト・ロシアのスターリニズム、ドイツのナチズム、フランス革命期の恐怖(テロル)政治等々、歴史に例をとれば、枚挙にいとまがないほどです。そういう教訓をきちんと伝えるのが、歴史家の務めではないでしょうか。

反原発デモが「明るく楽しく」盛り上がり、短期間に「明るく楽しく」ポシャって行きつつあるのには、それ相応の社会的な必然性があるので、ヘンに過激化しないのはよいことなのだと判断できます。それを田中氏は、自分が責任を負う気もないくせに、なんと、江戸期という、時間的にも状況的にも遠く隔たった時代の知識をそのまま現在に接ぎ木して、デモがテロルを呼び起こすべき過激な一揆に発展することを扇動しているのですね。あな、恐ろしや、というよりも、正直なところ、こういう専門知識人特有の鈍感ぶり、ノーテンキぶり、無責任ぶりにはほとほと嫌気がさします。


ここで、デモという行動の意味、その可能性と限界について、私見を述べておきましょう。

少々、思想家の西部邁氏流をまねますと、デモの原語であるdemonstrationとは、もともとは、神の前で自分が正しいことを実証して見せるという意味です。ですから、証明もできない主張や信念を、集団の力を借りてただ訴える(示威行動)というのは、本来は邪道なのです。それが近代になって、いつの間にか、民衆が、少数では権力を行使できず主張を聞いてもらえないので、とにかく数の力で対抗するという行動を意味するように変質してしまったのですね。

デモはこのように、あるイシューをめぐって構成された臨時の圧力団体ですから、自分たちの主張が正しいかどうかはどうでもよくて、訴えの共通点さえ集約できれば、あとはみんなで行動しましょうということになります。この行動は、その様式がお祭りととてもよく似ています。どんな点が似ているか、列挙してみましょう。

①情緒の共有による、集団的な一体感を求める。
②むずかしい理屈は邪魔。
③にぎわえばにぎわうほど、参加者の高揚感が増大する。
④一体感を象徴するシンボルが必要(プラカード、単純なスローガン、色つきヘルメット、神輿、山車、注連縄、巨大な陽物など)。
⑤同一行動をとるための、リズムや調子をもつ。
⑥体を動かすので、日頃のストレスを発散できる。
⑦「祭りの後」が必ずやってくる。

いかがでしょうか。どの項目を見ても、その問題について相手と静かに討議したり、ひとりでじっくり考えるという行為とは対極にあることがお分かりでしょう。

これは、反原発デモに限らず、反戦デモでも、反核デモでも、反日デモでもみな同じです。つまり、理性的な言葉によって相手を説得しようという試みをはじめから放棄しているわけです。同時に、もしかしたら自分の考えと行動は間違っているかもしれないという自己懐疑の可能性は、あらかじめ禁じ手になってしまっています。

誰が見ても理不尽なことがまかり通っていると感じられる場合、それを覆すための方法はいくつか考えられますが、デモは、たかだかそのうちのほんのひとつの、しかも粘り強く続けることが難しい手段にすぎません。続けることが難しいのは、人の思いや都合がさまざまであること、場と時間を共有しないと成立しないこと、などによります。

権力を手中にしていない一般民衆が、時にこうした手段に訴えるその気持ちはわからないではありません。もちろん有効な結果を生み出すこともあるでしょう。やりたい人は、なるべく暴動にならないように気をつけながら、大いにやったらよろしい。ですが問題は、インテリとか知識人とか呼ばれる人たちが、この非理性的な行動様式の盛り上がりに圧倒されて、彼らの本来の役割を忘れがちになり、時には悪乗りしてただの扇動者になってしまうことです。本来の役割とは、当の問題についてじっくり考えた上で、時には専門知を駆使しながら、なぜある主張が正しいのかについてきちんとした論理を提供することです。原義としてのdemonstrationを行うということですね。今まで取り上げてきた人たちも、一様に、この役割を怠っています。

戦後の多くの反体制的なインテリ、左翼知識人、リベラリストたちは、一般民衆に片思いをしてきましたから、デモの盛り上がりなどがあると、すぐに、これは自分の理想に近い状態が生まれたに違いない、と勘違いしてしまうのですね。この70年近く続いたインテリたちの慣性は、いまだに根強く残留していて、それが今回の反原発デモにもそのまま踏襲されている、と私は言いたいわけです。

では、多少とも専門家である人たちの言動はどうか。京大原子炉実験所助教・小出裕章氏の発言を見てみましょう。

この人は肩書から推して、原子力発電の現場でその問題点をいろいろ見てきた人のようで、その見解はそれとして尊重すべきなのでしょう(私は不勉強で、彼の著作を読んでおりませんが)。しかしこと政治問題がからむとなると、やはり専門知識人のノーテンキぶりを遺憾なく発揮しています。2012年6月15日に次のようなコメントを発しています。

原子力は、私を含め個人の力では到底防ぐことができない巨大な力で進められてきました。しかし、「民主主義」を実現できるほどに一人ひとりが自立できるなら、原子力など簡単に廃絶できると私は思います。

原発をめぐる知の現場で無力感を感じてきたはずなのに、どうしてこんな大風呂敷を広げられるのでしょうね。キーワード(マジックワードといったほうが適切でしょうか)は、「民主主義」。


いったいに、この本で発言している人たちは、「民主主義」という言葉を、反原発デモに集まってきた人たちの意思を直接政治に反映させて、国家権力のたくらみを封じ込む営み、というように解釈しているようです。なんとも粗雑な、また手前勝手な「民主主義」解釈ですね。以前私は、社会学者の橋爪大三郎氏が直接民主主義を理想としている、その幼稚な思想を批判しましたが、彼の考え方とよく似ています。

「民主主義」――この手垢だらけの便利な、そしてそれゆえに誰もがそれぞれ違った意味で葵の印籠のように振りかざす言葉。そして、この言葉を絶対のイデオロギーのように後生大事にしてきた戦後という時代。

私たちは、いまさらこの言葉を否定し切ることなどできないでしょう。おそらく私たちにできるのは、この言葉が使われているそのつどの文脈をよく理解して、その使われ方に対する懐疑を失うことなく、背後にどんな思想が隠されているかを見通すこと。また、国家と民主主義とを二律背反的な対立命題と考えないこと、さらに、国際社会における他の政治制度との比較相対化を怠らずに、政治制度としての民主主義国家のあるべき姿をたえず模索し、鍛え直すこと。

ところで小出氏のように「『民主主義』を実現できるほどに一人ひとりが自立できるなら」などというできもしない安っぽいスローガンを掲げるのは、もういい加減にやめてもらいたいものです。はじめにデジャヴュと申し上げましたが、こういう悪しきロマン主義的なスローガンは、丸山眞男、鶴見俊輔氏、吉本隆明などの戦後思想家でもうたくさんです。げっぷが出ます。

なんですか。一人ひとりが自立できるって。民衆のそれぞれが固有の考えと意思を持って三々五々、政治に参加するんですか。こんなに複雑高度な社会になって、個人化が進み、みんながバラバラな欲求や考えをもつ時代に、それらのおそろしく多様な利害や意思を、だれがどうまとめるんですか。原子力を廃絶するという決断を下すのは誰ですか。権力はいらないんですか。間接民主制を廃止するんですか。国家を解体して、それぞれが勝手放題にふるまうんですか。それとも、社会秩序を壊すのが面白いだけなんですか。

こういうのを政治用語では、アナーキズムと言います。17世紀の思想家、ホッブズによってそのダメさ加減はとっくに指摘され克服されています。民主主義という言葉を使う人は、その適用限界をよくわきまえて使ってください。そのためにも中学・高校レベルでいいですから、せめて基礎的な勉強をしてください。それにしてもこの人たちは、いっぱし知識人を張っていながら、デモに集まった群衆の数に狂喜するだけで、どうしてこういう当たり前のことについてちゃんと考えようとしないんだろう。

さて次に、こういう問題については人一倍過敏に反応する文芸評論家の柄谷行人氏を取り上げましょう。

この人の言動を私は昔からある程度よく知っていて、その小難しい言説がいかに「東大生だまし」のインチキであるかを批判したことがあります。しかし、今回は、その点には触れません。本人がお年を召して、もう難しいことを書くのがいやになったと、くだんの本で告白していますからね。それは日本の文学界、思想界にとって良いことです。もはや深追いはしますまい。

柄谷氏は、次のようなバカなことを言っております。

日本だけではない。氏族社会の段階から、どんな社会にも、寄り合いのようなものがある。それが歴史的に民会や議会に転じたのである。しかし、現在の議会(代表制議会)には、寄り合いにあった、直接民主主義的な要素は失われている。それを取り戻すにはどうすべきか。アセンブリしかないのである。

なぜ人々がデモ(アセンブリ)に来るのか。代表制議会が機能不全だから、ということは確かである。しかし、デモ〈アセンブリ〉はたんにそれを補うための手段ではない。それは、代表制民主主義とは異なる直接民主主義の可能性を開示するものだ。


同じ指摘の繰り返しになりますが、これが一時は日本の文壇で盛名を馳せた文芸批評家のなれの果てです。そこらの生意気な高校生レベルのことしか言えていない。

要するに、村の寄り合いが直接民主主義の原点であり、それこそが現在のデモや集会につながるのだから、デモや集会こそ、理想的な政治形態の雛形だと言いたいわけです。

デモという集団形態の本質的な脆弱さについては先ほど分析しましたが、ここで柄谷氏が言っていることは、ややもすると多くの人々にとって当たり前のように受け取られがちなので、しつこいようですが、その根本的な誤り(想像力の欠落)を正しておきます。


寄り合いというのは、小さな共同社会(ムラ)の中で、そのムラ固有の問題を解決するために、みんなで集まって話し合おうという組織ですね。たしかにそういう組織はあったでしょう。

しかし、第一に、人類史のどの段階でも、他とまったくかかわりのない孤立したムラというような実験室みたいな共同社会は、ほとんど存在したためしがありません。あるムラは、必ず周囲のムラと政治的・経済的に交流しているし、また、もっと上位の共同体からの規制を受けています。なかには実体的に上位の共同体が存在しない場合もあるでしょうが、そういう場合には、必ずムラどうしで共通に自分たちを拘束する超越的な象徴秩序(≒かみさま)を作り出します。だから、ある一つのムラが仮に全員参加の寄り合いで水平的な「仲良し集団」を形成しているように見えたとしても、それは事の一面を示すにすぎず、それだけで自己完結したユートピアを作ることなどまずあり得ないのです。そういう共同体は、近代社会の複雑な秩序から疎外されたり、その中でつきあうことに疲れてしまったりした柄谷氏のようなインテリの頭の中にしか存在しません。

第二に、寄り合いがいかに全員参加の「仲良し集団」だったとしても、その内部でことを最終的に決断していくのは、なんらかの権威筋です。長老であったり、長者であったり、政治能力のすぐれた者として承認された人であったり、世襲の権力者であったり、要するにリーダーとしてふさわしいとみなされている人または家です。

日本のサヨクインテリは、しつこく「みんなで決める直接民主主義」なる理想郷がかつてどこかに存在し、それが未来において実現可能であるかのように夢想します。昔、空想的社会主義者が歴史のはるかかなたに原始共産制を夢想したのと同じです。しかしそんな夢から一刻も早く醒めてほしいものです。

集団における意思決定が常に一定の求心力を必要とする(主役、脇役、端役がいる、つまり権力場が存在する)という原理が、どの共同社会でもはたらいていることは、なんの利害関係もない趣味のサークルでさえ、一定人数になれば理事、幹事が要請されるという事実を見ても明らかです。いわんや、錯綜する人間関係のすべてに何らかの決断を下していかなくてはならない政治社会においてをや。

柄谷氏のような思考をする直接民主主義信奉者は後を絶ちませんが、この人たちの致命的な欠陥は二つあります。ひとつは、「木を見て森を見ず」、要するに、全体の関係に視野が及ばずに、ある一部だけを見て、それが何か普遍的な可能性を切り開くものだと勘違いしてしまう点です。もうひとつは、福澤諭吉の言う「天賦の不平等」、つまり「天賦の身体に大小強弱あり、心の働にも亦大小強弱なかる可らず」という不変の人間的現実に目を塞ごうとする点です。そういう意味で、直接民主主義信奉者は、不治の人間音痴なのです。ぼんやりとしか物事を考えない人ならばそれでもかまいませんが、一家をなした文芸評論家がそれでは困ります。

柄谷氏は、かつて湾岸戦争の折にも、日本文壇特有の空想的平和主義をまき散らした前科があります。

また、地域貨幣を流通させるNAMとかいう「新しき村」まがいの地域共同体を夢想して実践に移しましたが、見事に失敗しました。この本でもそのことを自慢げに語っていますが、失敗から何も学ぼうとしていません。世界中グローバリゼーションでつながってしまっているこの人類社会で、自己完結的な地域経済など成り立つはずがないのは火を見るより明らかです。火星にでも行って実験してみたらよいのです。

ひとりで空想に耽っているだけなら、まだ可愛げがあります。しかし、次の引用を見ると、なぜ柄谷氏がこういう空想をもてあそぶのか、その体質的欠陥がよく見えてきます。

もう一つは、世界経済がいまどんどん悪化しているでしょう。アメリカに始まり、最近はヨーロッパで目立っている。簡単にいえば、バブルがはじけたんですよ。日本人がここ十何年間に経験したことを、今世界中で経験しているわけです。その点で、日本人のバブル崩壊後の長い停滞の経験は、重要なものだよ(笑)。日本では、若い人たちが現状を受け入れるようになってきた。つまり、もう一度豊かな生活を取り返す、企業を発展させる、いい大学に行く、というような中産階級の夢を捨ててしまった。日本が経済的に停滞することは確かですが、僕は悲観的にならない。結構、楽しいんですよ(笑)。

これは許しがたい発言です。若い人たちがこの不況の中でどんなにつらい目にあってきたか、失業者のみならず、劣悪な条件に甘んじてきた派遣やバイトなどの非正規雇用者たち。小さい子どもを抱えながら保育園代もままならず働きづけの女性ワーキング・プア―、手当なしの非自発的な残業でこき使われてきた正規社員たち。日本の産業の基幹である中小企業の相次ぐ閉鎖や倒産、そういう苦境の中でも何とか明るく生きようとしているけなげな若者たち。だれでも見えるこうした状況を一顧だにせず、「僕は悲観的にならない。結構、楽しいんですよ(笑)」とは何事か。悲観的にならなくて結構楽しいのは、あんたが金に困ったことがないからでしょう。いまどき清貧の思想などを偉そうに説いて不況を正当化するような、この根っからのぼんぼん野郎を、一度貧困の中に叩き落としてみたいものです。

と、共産党的なことを言ってしまいましたが、柄谷氏は結局、日本文壇で甘やかされた永遠のぼんぼんなのですね。だから、勝手な言辞を垂れ流しつづけ、ボケかかったいまもなお老害をまき散らしているという次第です。

まだ続きます。次回は、反原発思想の総本山ともいうべき宮台真司氏と飯田哲也氏を論評します。今回扱った人々に比べれば、この二人のほうがはるかに強敵です。もっとも、強敵というのは、いっぽうは若い層に妙に人気が高い社会学者であり、他方は一応、原子力エネルギー問題の専門家だからという理由にすぎません。二人はこの本にも登場するのですが、もともとこの本はゴミみたいなくだらない本なので、そこでの発言を問題にするよりは、先に紹介した『原発社会からの離脱』(講談社現代新書)を相手にしましょう。それを通して、原発問題に関する私自身の考えを――すぐれた識者の意見や、最新データを援用しながら――はっきりさせることにします。こちらの方がむしろ本題です。乞うご期待。
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フクシマが復旧・復興するための本当の礎(その4)(イザ!ブログ 2013・5・8,8・16 掲載)

2013年12月12日 19時18分44秒 | 原発
LNT仮説(放射線の被ばく線量とその影響〔具体的には、がんの発生率〕との間には、しきい値がなく低線量域においても直線的で比例的な関係が成り立つという考え方)に焦点を当てて、いろいろと論じてきました。話がいささか錯綜した面があったかもしれません。しかしながら、少なくとも次のことは明らかになったのではないでしょうか。″福島が復旧・復興するために、わたしたち一般国民は、この仮説の呪縛から解放されなければならない。″なぜならば、一般国民の間にいまだに存在する、放射能に対する過剰な恐怖心こそが、福島の人々を心理的にも現実的にも追い詰めてきた社会的な圧力の正体であり、また、その恐怖心を煽る人々の根拠になっているのがこの仮説であるからです。当人にそのつもりはなくても、理屈としてはそういうことになる、というのが私の見立てです。

とするならば、福島の被災者を含めた一般国民がLNT仮説の呪縛から解放されるために、すなわち、放射能に対する過剰な恐怖心から私たち自身を解き放つために、放射能の専門家としての科学者は、大きな責任を背負うことになります。わたしたちが抱いている恐怖心がさらに膨らむのも、収縮するのも、専門家の発言・発信次第という面が否めないからです(マスコミや政府の責任についてはしかるべきところで触れましょう)。科学って、専門家でもない限りよく分かりませんものね。

その点について、心ある科学者たちはどう考えているのか。それをぜひ知りたいものだと思っていたところ、ちょうどいいものがありました。それは、チャンネル桜が昨年の八月十八日に放送した「闘論!倒論!討論! 放射能キャンペーンの真実と原子力政策の行方」です。

そのやり取りの詳細については、末尾に動画を掲げておきますので、興味のある方はぜひご覧ください。

その前に、私なりに話の内容をまとめておきたいと思います。正直なところ、とても勉強になりましたので、頭の中を整理しておきたいというのもあります。と同時に、自分はとんでもない深いテーマに手を出してしまったなという怖れと後悔のような思いをあらためて抱いたのも事実です。しかし、まあ、この世に簡単に解決できる問題など実はひとつもない、という「常識」に立ち返って気持ちを立て直し、やれるところまでやってみることにしましょう。

まず、出演者の顔ぶれを紹介しましょう。札幌医科大学教授で放射線防護学者の高田純氏。原子力学会シニアネットワーク部会運営委員・放射線問題検討委員会主査の斎藤修氏。東工大助教・澤田哲生氏。いわゆる学者はこの三名です。ほかに、元三井物産株式会社・原子力燃料部長の小野章昌氏、『放射能を怖がるな!』の著者で株式会社世界出版代表取締役の茂木弘道氏、経済評論家の上念司氏の三名です。

議論の口火を切った高田氏は、福島原発事故から一ヶ月も経っていない四月八日に、浪江町から二本松市に避難してきた40人の甲状腺検査をしています。その結果を踏まえたうえで、その二ヶ月後に、南相馬市の人々の前で氏は、「チェルノブイリ事故と比べたら、子供たちの甲状腺にたまった放射線量は1千分の1です。福島から甲状腺がんになる子供は出ないと私は断言します。甲状腺がんのリスクは消滅しています。これまで20年以上ロシアなどで調査してきた成果を総合して言えることです」と言い切ったそうです。

この「宣言」が、後のUNSCEARによる国連報告と一致することはいうまでもありません。また、「福島原発事故による放射線量はチェルノブイリの1000分の1」という数値は、驚くべきことに、前回ご紹介した西村肇氏の計算上の数値と一致しています。むろん、西村氏は放出された全線量に着目し、高田氏は、それらを子どもたちそれぞれがどれだけ被曝したのかに着目した、という違いはあります。しかしながら、これは素人考えですが、「チェルノブイリの1000分の1」という数値の一致が偶然のものとは到底考えられません。西村氏は、この数値を2011年の四月八日に記者会見で公表したのですが、当時の政府筋から完全に黙殺され、菅直人民主党政権は、その四日後に、福島原発事故はチェルノブイリと同じ「レベル7」であると発表してしまいました。そうして、世界に向かって同政権は「日本はチェルノブイリ事故と同じ深刻に放射能汚染された国だ」と宣言し、世界レベルの風評被害を撒き散らしてしまったのです。いまから振り返ると、とんでもないことをしでかしてくれたものだというよりほかはありません。この発表が、これまで日本の国益を害してきた程度は、「河野談話」のそれに匹敵するのではないかと思います。事実無根である点もよく似ています。

高田氏によれば、放射性ヨウ素による甲状腺がんの発生のみならず、もろもろの学者によって調査・公表された線量を総合的に判断すると、福島原発事故の放射線による健康被害の可能性はゼロであるとのことです。これも、UNSCEARの報告書や世界原子力協会(WNA)が制作した『福島とチェルノブイリ~虚構と真実』の内容と一致します。つまり、高田氏の見解は、放射線による健康被害についての世界標準の議論をきちんと踏まえたものであると評価していいのではないかと思われます。

そこで、澤田哲生氏は、次のようなもっともな疑問を投げかけます。すなわち、福島原発事故による健康への影響がないのだとすれば、福島県民十六万は、なにゆえいまだに避難生活をしなければならないのか、と。

その疑問に対する高田氏の応答は、私にとって、衝撃的なものでした。政府発表で90~100ミリシーベルトとされている地域を氏は実地調査しています。2012年三月の浪江町末の森での調査の二泊三日の間、氏の胸に装着された個人線量計は、積算値で、0.074ミリシーベルトで、24時間あたり0.051ミリシーベルト。2種のセシウムの物理半減期(2年と30年。半減期とは、平たく言えば、放射性物質が「崩壊」をして、元の半分の量になるまでの時間)による減衰を考慮して、平成二四年の1年間、この末の森の牧場の中だけで暮らし続けた場合の積算線量値は、17ミリシーベルトと推定されました。個人線量計を装着するのは、一日の大半は自宅や牛舎で過ごし、そして残りの時間は放牧地や周辺で作業をする、という実際の暮らしの中で線量を評価すべき、という考え方に基づいてのことです。人は、一日中戸外で放射線にさらされ続けて生活するわけではない、ということですね。素人の腑にもすとんと落ちる常識的な考え方ではないでしょうか。

要するに、内外被曝の総線量値は、政府の言う帰還可能な線量20ミリシーベルト未満なのです。しかも、国の責任で家と放牧地の表土を10センチほど除染すれば、低コストで直ぐに年間5ミリシーベルト以下になるとのことです。

それに対して、政府発表の数値は、こうした生活者の実線量を調べることなしに、畑などの空間線量率から机上で計算した線量です。そのような政府の屋外の値に年間時間を機械的に掛けて計算すると、96ミリシーベルトになり、帰還不能という誤った判断になるのです。机上の空論は、実社会を捨象して展開されるので、実社会で暮らす者にとっては酷い結論を導くことが多いという実例です。財務官僚の、消費増税導入による税収増の計算のようなものです。

当時の政府は、どうしてこのような、非科学的で、愚かで、無慈悲な計算方法を正しいものとして認めたのでしょうか。前回申し上げたように、ここには民主党政権の深い闇の所在が、言いかえれば、底知れない愚かさ・無能さと絡み合った根深い悪意の所在が感じ取られます。

氏によれば、政府によって強制された福島県民16万人の避難は、科学的に根拠のない荒唐無稽な所業にほかならない、ということになるでしょう。ここでは、その詳細については述べませんが、大量の牛の殺処分もまったく必要がなかった、とのことです。なんとも無残な話ではありませんか。

高田氏の話を受けて、斎藤修氏は、放射能の安全基準についての国民の理解に混乱があることが、事態の解決を困難にしていると言います。

斎藤氏によれば、「安全基準は100ミリシーベルト以下でも以上でもない、これが疫学上の結論である」となります。これは、広島・長崎の原爆の被爆者10万人を60年以上調査した結果なので、これ以上の証拠はない、と氏は言います。少しこまかく言えば、100ミリシーベルト以下では早期障害は起きないし、晩発障害(長期の潜伏期を経て発現するもので、主に発がんや遺伝的な影響のこと)も小さすぎて確認されていない。あるとしても、受動喫煙程度のものと推定される、とのこと。

では、ICRPが提唱する「平常時1ミリシーベルト、避難線量20~100ミリシーベルト、緊急時線量限度100ミリシーベルト」というのは、いったい何なのか、という素朴な疑問が湧いてきますね。これは、疫学的安全基準とは別の、ICRPによる、本質的に政策的な提案に他ならないということらしいのです。当シリーズでずっとLNT仮説にこだわってきた私としては、なるほどとうなずくよりほかはありません。高田氏によれば、賞味期限と同じようなものとして受けとめればいいとのこと。賞味期限が過ぎたからといって、食えなくなるとか、体に悪いとかいうわけではありませんものね。

斎藤氏は、さらに続けます。なぜ、放射線基準はこんなにも混乱したのか、と。

その原因として、氏は五項目を挙げます。

① 政府の対応への不信

② 内閣参与辞任時の記者会見「20ミリシーベルトは許せない」

③ 学校管理線量目標値の変更

④ 心ない学者の発言

⑤ マスコミの誇大な報道

①は、要するに、政府が避難者にきちんと情報を与えなかったので、国民の間に芽生えてきたものです。端的な例としては、関係官僚が、事故当日にSPEEDIを通じて情報を入手し、以降も膨大なデータで汚染状況を監視し把握し続けたにもかかわらず、その情報を避難民に伝えず、避難民はSPEEDIが放射線の漂っていく危険な方向と指し示していた北西の飯館村方面に逃げてしまった挙句に、無残にも被曝してしまったことが挙げられます。これには、関係官僚は、ある時期までその拡散予測データの存在も内容も、官邸には報告しなかった、というオマケまでついています。

②は、福島県内の学校で屋外活動を制限する放射線量が「年間20ミリシーベルト」と決定されたことに抗議して、小佐古敏荘内閣官房参与が辞任し、記者会見で悔し涙を流しながら「20ミリシーベルトは許せない」と絞り出すように発言したことが、一般国民に大きな衝撃を与えたことを指し示しています。「東大のエライ先生が泣きながらあそこまで言うのだから、もっともなことであるにちがいない」とわれわれは思い込んでしまったのでした。覚えていらっしゃいますか。

③は、上記のように決定した学校管理線量目標値20ミリシーベルトをその10日後に、文科大臣が、1ミリシーベルトを目指すと朝令暮改したことを指します。マスコミや一般国民のブーイングに動揺した民主党政権の失態と言えましょう。ポピュリズム政党としての民主党の「面目躍如」です。

④は、武田邦彦氏や児玉龍彦氏などの発言を指しています。武田邦彦氏の発言については、当シリーズでも「その8」「その9」で取り上げました。彼が、LNT仮説を固持することで、″放射能ママ″たちの恐怖心を煽り、社会に悪影響を及ぼしたことは明らかです。斎藤氏によれば、武田氏は自身のブログに「自分は三重県に住んでいるが、ここでも線量がだんだん上がってきた。このままでは、三年数ヵ月後に5ミリシーベルトに達し、住めなくなってしまう。ということは、日本国中住めなくなってしまう」などと言っているそうです。これは、とんでもない人騒がせな発言です。はっきり言えば、正気の沙汰ではない。

また、「除染せよ」と政府を恫喝したことで一躍名を馳せた児玉龍彦氏も、おかしなことを言っています。2011年七月二七日の 衆議院厚生労働委員会「放射線の健康への影響」参考人説明で、氏は「熱量から計算すると、今回の原発事故は、広島原爆の99.6個分に相当し、ウラン換算では広島原爆20個分に相当する。また、原爆の場合残存量は全体の1000分の1程度だが、福島原発の場合10分の1も残る」と言っていることに出演者が異議を差し挟んでいます。高田氏は、「放射線被害はどこまでも線量で判断すべきであって、広島原爆の場合、爆心地で一分間当たり100シーベルトで、福島原発の場合一年間で10ミリシーベルトとなる。つまり、福島は広島の100万分の1の規模と判断するのが妥当。児玉氏は変な計算をごちゃごちゃとしているとしか言いようがない。また、『放射能は半減期に反比例する』。すなわち、半減期が長いものほど単位時間当たりにごく微量の放射線を放出することになるのでより安全であるということ。つまり、残存量率が高いということは、より安全ということ」と児玉氏の真意を図り兼ねるといういささか困惑気味の様子で反論しています。参考までに、児玉氏の発言を動画でアップしておきましょう。ちなみに、上記の「トンデモ科学」発言は、2:15~3:10です。

2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦


⑤ については、多言を要しないでしょう。TPP問題や消費増税問題などにおいて見られるマスコミの無責任な報道ぶりが、原発報道や放射能報道においても見られるということです。彼らの不勉強ぶりは、経済問題についてだけあてはまるのではないのですね。私は最近、日本のニュース番組はほとんど見なくなってしまいました。アメリカのCNNやイギリスBBCワールド・ニュースを見たほうがはるかに有益なので、そちらを見ています。特に、BBCの質の高さ、視野の広さにはいつも感心しています。日本人としていささか残念なことですが、仕方ありません。衛星放送料金を少々払えば、世界の動きがリアルに分かるのですから、考えようによっては安いものです。日本のニュースをいくら見ていても、世界の動きはまったくといっていいほどに分かりません。ここには、日本のマスコミの、「視界狭窄」「内向き」という致命的な欠陥が無残に露呈されているのではないかと思っています。

番組後半では、脱原発では日本のエネルギー政策は立ち行かないことが、懇切丁寧に論じられています。これはこれで、原発の存廃が、日本のエネルギー安全保障の根幹を成す問題であることがよく分かるという意味で重要な論点です。ここではとりあえず、そのことを指摘するに留めておきます。

番組の紹介文としては、随分ながくなってしまったようです。高田氏は番組の後半で「放射能とは、忌み嫌うべきものではなく、エネルギーそのものであって、生命が必要とするものである。だから、放射線は少なければ少ないほどいい、できたらゼロがいい、という考え方は誤りである。とするならば、放射線には生命にとって適切な量があるはずで、それを考えるうえでホルミシス仮説はおおいに参考になる」という言葉を残しています。それに触れて、「その10」を終わりにします。

地球の森羅万象の「エネルギー」の源泉は、太陽エネルギーです。太陽では、水素原子の原子核が燃えています。水素の原子核が反応して重水素の原子核になり、それがまた反応してヘリウムの原子核になります。この一連の原子核反応で、核力によって原子核内に閉じ込められていた原子力エネルギーが解放されて電子の運動エネルギーとなり、太陽光エネルギーとなって四方八方に放出されます。その一部が地球にも降り注ぎ、それが植物を育てます。その植物と、それを食べる動物が、人間の食物として、人間活動のエネルギー源となります。つまり、もとをたどれば、原子力エネルギー、すなわち、放射能が人間の生命を育んでいるのです。これは、比喩でも文学でもなんでもなく、厳然とした科学的事実です。このことを頭にきちんと入れるならば、「放射能はゼロが理想」などという考え方は、天に唾する罰当たりのそれにほかならないことは明らかでしょう。(この稿、続く)

1/3【討論!】放射能キャンペーンの真実と原子力政策の行方[桜H24/8/18]


2/3【討論!】放射能キャンペーンの真実と原子力政策の行方[桜H24/8/18]


3/3【討論!】放射能キャンペーンの真実と原子力政策の行方[桜H24/8/18]



*以下のコメントに対論者の発言がないことが、奇異に感じられることでしょう。実は、私の判断で「ブログ荒らし」と判断した人物の発言を削除した結果、そういうことになってしまったのです。

〔コメント〕

Commented by 美津島明 さん
そちらが、なんの御挨拶もなく、高飛車に全否定のもの言いをするのだから、遠慮なくこちらもその流儀で行こう。

他人の職種をあげつらって、なんだかんだと人の言説に悪態をついた段階で、あなたは、人間として、言論に関わる者として、即アウトです。深く恥じ入るべきです。これがなんのことかわからないようなら、マズイよ。「塾なんか、点取りの手法だけ教える教習所」。この言い方には、学習塾に対する蔑みがおのずからにじみ出ています。他人の生業を軽んじるようなことは、あなたの、近代人としての品性・コモンセンスを疑われるからやめておいた方が良い。それに加えて「保護者も思想を刷り込むことを要望していません」とは何の寝言か。そんな馬鹿なことをしたら即刻塾は潰れてしまうよ。何のことだか。「塾経営をしなければ食えないのは、評論がお粗末ななによりもの証拠」とはこれも寝言のたぐい。アナクロニズムもはなはだしい。評論家稼業の苦しい台所事情をなにも知らずに、ヒトの文章を馬鹿にするのは、無知丸出しで恥ずかしいのでやめましょう。まだ、わかりませんか?あなたにもしも尊敬する現有の評論家がいたとしたら、その人は十中八九ほかに生業(大学教授・大学臨時講師・予備校講師・学習塾講師・自営業など)があります。それが、活字離れの進んだ今日の偽らざる状況です。

原発関係について。「原発御用学者ばかりが集まった対談」。どちらの立場の論者の発言でも、理にかなったものは取り上げます。当たり前のことです。それは、上の文章をちゃんと読めば明らかでしょう。私が目指しているのは、理にかなった原発言説を自分なりに構築することです。「福島で、奇形の赤ちゃんや脳障害をもった新生児が生まれている(他の地域とは比べ物にならない高い確率で)現実」とは?出典・論拠・中身を明らかにしたうえで、こういう重要事は主張するように。東京新聞とか、そんな感じでしょうか?それはそれで、おそらくあなたとは異なる切り口からでしょうが、関心があります。まあ、自分で調べてみましょう。

もし、以上の警告を無視して、そちらがなおも聞き苦しい差別的な言辞を弄するようであれば、ブログ主人の権限を行使し即刻削除するので、そのつもりで。ただし、思い直して、まっとな正面からの批判をするのであれば、それはいつでも歓迎。すべては水に流します。


Commented by 美津島明 さん
To marchan707さん

言葉の軌道修正、ありがとうございます。

私は、ペンネームを使って当ブログで文章を発表したり、雑誌に文章を書いたり、本を出版したりしています。それは、ささやかではありますが、言論の自由を確保するためです。なるべく余計なことを気にせずに、自分が信じることをきちんと表現したいということです。

裏から言えば、学習塾の経営者としての私は、自分の文筆活動の影響が自塾の経営に及ぶことをとても恐れています。それを小心者と嘲笑うのは自由ですが、私は過去において、在塾生の保護者の心ない噂が元で、自塾を潰した経験があるので、その嘲りを甘受するよりほかはありません。自営業者にとって、世間は決して甘いものではないのです。世間は、文字通り、私の生殺与奪権を握っているのです。

だから、学習塾関係者で、自分の教育論や指導方法の素晴らしさを脳天気に語ろうとする人に対する私の評価はきわめて低い。「いい気になるなって。お前は、浮世のことを何も分かっちゃいなんだよ。頓馬な野郎め」と思うからです。

そんなわけで、私が自分の教育論や指導方法を自分から積極的に語ることはありえません。知らないうちに語っていることはあるのかもしれませんが。とにかく、生徒やその親の思いをきちんと把握して、「入塾してよかった」と心底思っていただけるように、誠心誠意指導するだけです。だから、完全個別指導方式を採っています。あまり詳しく語ると「あそこか」と特定されかねないので、このくらいでやめておきます。

以上のように、「文筆活動」と「生業」とをきちんと区別しようとしているので、それをつなげた形で論じられると、腹の底からの怒りがこみ上げてくるのです。また、生業に注がれる真摯な思い(それは、ごく普通の人なら分かるものです)を理解せずに、それを軽んじるかのような言辞を弄されると、堪忍袋の緒が切れることにもなるのです。 (続く)


Commented by 美津島明 さん
原発言説について。あなたが理想とする方法論は、言ってはなんですが、絵に書いた餅のようなものです。また、人性への洞察が足りないようにも感じます。

人は、ある主題に関して、全ての情報を集めることなどできません。ある程度の情報と、それから得られた心象に基づいて、自分なりの態度をとりあえず決める。それが、ごく普通の態度決定のあり方でしょう。あなたもそうしているはずです。問題は、その先です。自分が決定した態度に都合の悪い情報についてかたくなに耳を塞ぎ、心を閉じるのが、マズイのです。人は誤りうる、という厳然たる事実に対して、私たちは謙虚であらねばならない。

私は、お察しのとおり、原発再稼働推進に与する者です。その態度決定そのものについて「偏りがある」と難じられるのであるとすれば、反原発派も、同じく「偏りがある」と難じられるよりほかないでしょう。つまり、そういうことは意味がありませんね。

で、私の場合は、当論考シリーズのなかで反原発派の「巨頭」武田邦彦氏の言説を遡上に載せて、詳細に検討しています。そういう形で、反原発派が発信する情報にも心を開いているつもりです。当論考シリーズは、まだ途上ですから、これからも反原発派の言説は、遡上に載せていくつもりです。

その流れのなかで、あなたからご指摘のあった「奇形の赤ちゃん」の紹介ブログをきちんと読んでみました。その上で申し上げます。「奇形の赤ちゃん」と放射線被害との因果関係が私にはまったくつかめませんでした。また、奇形児の発生率が他県に比べて福島県が極めて高いという客観的な資料もまったく読み取ることができませんでした。科学を尊重なさるあなたらしくない資料や情報の指摘ではないかと思いました。これだったら、高田純教授の、政府主導の放射線量測定法に対する批判の方がそれとは比べられないほどに科学的ではないでしょうか。この言い方さえも「偏っている」と言われたら、何をか言わんや、です。


Commented by 美津島明 さん
「こういうところに反論する人は、おおよそ、感情の反発も含めて、ぶつかってくるのではないでしょうか?」。いいえ。そういう方は、あなたがはじめてです。ほかの方は、例外なく、反論があっても大人としての礼節をわきまえた態度をキープしています。感情をむき出しにして、露骨に(失礼!)ケンカを売って来たのは、あなたがはじめてです。ウソだと思われるのであれば、ほかの方のコメントを覗いてみてください。ほかの皆さんは、なかなかの紳士ですよ。紳士のスタンスをキープしたうえで、主張すべきはきちっと主張しています。

だから、あなたから感情むき出しで売られたケンカを素直に買った小浜氏を、私が責めるいわれはありません。腹が立ってしょうがないのであれば、もう一度、あなたのほうから本人に直接ケンカを売ればいいだけの話でしょう?それをもう一度小浜氏が買うかどうかは、本人の自由です。

「このブログを美津島さんの考えに賛同する人だけに読んでもらったらそれでいいとは考えていないですよね?自由闊達な議論の中で、なんとか新たな知を求めているはずです。いわば、反論者もその知を想像する共同作業者です」。そうです。その見識の立派さと、感情むき出しの、相手を愚弄するような言辞を弄する幼稚さとが、どうも結びつきません。まず自分から相手の気分を好きなだけ害しておいて、当の相手には心を開いた揺るぎなき理性的対応を求める、というのはちょっと無理がある。「感情的な反発に、感情的にさらに反発していては、何も生み出しません」なんて言っていますが、それを言う資格を得るためには、わがままな消費者や子どもではないのですから、まず反論を切り出す側が抑制された表現をキープすることが、肝要でしょう。それが、あなたの思い描いているような生産的な議論をもたらす前提なのではないでしょうか。

最後に。私は、言論活動と生業を分けるスタンスをキープしていること、その理由、それゆえその二つをつなげるコメントは許容しがたいこともすべて率直にお伝えしましたね。そのうえで、なおもあなたは、言葉の端々にそれをつなげたコメントをしようとなさる。気づきませんか。そんな無神経なコメントを発信した人は、これまでほかにはだれもいませんよ。考えられないことです。これが、最後の警告です。これ以上そういう類いの言辞を弄されたら、あなたのコメントをすべて削除します。


Commented by tiger777 さん

美津島様

バカバカしい挑発に乗る必要はないと思います。「共同作業者」などと嫌らしいことをことを言うな、です。

>ま、ゆっくりと時間をかけて反証してみてくださいな。データはデータですからね。「ねつ造だ」のような卑怯な批判はなしですよ。ここに上がっている地域の人たちの臨床データとかで反証してくださったら、べりーグッド!ですね?期待していますよ。その卓越した取材力を!

この人の品性がこの文章に如実に表れていますね。
この人は世の中が悪くなればなるほど快感を感ずる人のようですから。
ゴーイングマイウエイで行きましょう。


Commented by 美津島明 さん
To tiger777さん

ご心配をおかけしました。ご投稿、ありがとうござます。彼を「荒らし」と認定し、そのコメントを完全に削除することにしました。その言動が、常軌を逸していましたので。

*****



福島が復旧・復興するための本当の礎とは何か。その答えを求めて、当シリーズも今回で11回目を迎えることになりました。いままでの論考で分かったことを要すれば、「福島が復旧・復興するためには、福島の被災者を含めた一般国民がLNT仮説の呪縛から解放されることが必須の条件である」となります。

これは、次のように、いろいろと言いかえることができます。思いつくままに列挙しましょう。「一般国民の、放射能への過剰なほどの恐怖心をあおり、それに対する冷静な思考を阻むような言説は、厳に慎まなければならない」。「一般国民が、科学万能信仰から脱却することが必要である」。「福島問題をイデオロギー闘争の手段にしてはならない」。

こうやって並べてみると、放射能や放射線についての正しい知識を身につけることが、すべての議論の前提あるいは土台であることに気づきます。

それは、他人(ひと)事ではありません。私自身がそうするように心がけなければ、福島問題を論じる資格がない、ということです。

実は、ほそぼそとではありますが、私なりにそういう営みをしていないわけではありません。その場合、あまりにも刺激的な書きっぷりをしているようなものを読むのは、私を含む放射能の素人にとっては、副作用が多すぎるのではないかと思われます。ぐいぐい引っ張られて洗脳されてしまうか、その強引さに嫌気がさして拒否反応を示すか、というふうに反応が両極端に分かれてしまうのではないかと思われるのですね。

それではいけません。なぜなら、私を含めた一般国民が、放射能や放射線についての正しい知識を身につけることができるかどうかは、大風呂敷を広げれば、国家百年の計に関わる重大事であるからです。突き詰めて考えれば、そうなるのではないかと思われます。というのは、原子力を考えるということは、エネルギー問題という切り口での総合安全保障に関わることを考えていることを意味し、総合安全保障は、経済問題に先行する、あるいは、その土台になる主題であるからです。私たちが原子力問題を考えているとき、じつは、日本国家の土台について思いを巡らしていることになるのです(そんなのお上が考えればいいことだ、とか、お前の言うことは大げさなんだよと思われた方は、以下、読まなくてもけっこうですよ)。

だから、次世代を担う子どもたちに、原子力についての正しい知識を伝えることは、教育関係者にとってはもちろんのこと、親にとってもとても大切なことであると、私は考えるのです。生徒や子どもの未来の幸せを願うのであれば、当然そういうことになるのではないでしょうか。

その場合、先生と生徒が、あるいは親子が一緒に読めるような原子力関連本があればいい、と思いますね。

今回ご紹介する『原子力のことがわかる本 原子爆弾から原子力発電まで』(舘野淳監修 数研出版)は、そういう本のなかの一冊になりうるのではないかと思われます。たとえば、本書のどういうところが優れているのか。その「はじめに」で、舘野氏はこう言います。

果たして原子力は安全で安いエネルギー源として本格的に使えるのかどうか、みなさんが判断しなければならない時がきっときます。そのために、原子力の長所も、欠点もよく知ってもらおうと思って書かれたのがこの本です。

この本の第1刷は、平成15(2003)年7月1日です。また、最新の第3刷は、平成22(2010)年11月1日です。つまりこの本は、平成23(2011)年3月11日に発生した福島原発事故の前に書かれています。その意味で引用の言葉は、予言的でさえあります。この言い方から分かるように、舘野氏は、子どもがこの本を読むことによって原子力について真剣に考えるようになり、また、大人とその問題について真摯に語り合うようになってくれることを願っているのです。押し付けがましいところを感じさせなくて、なかなかすがすがしい心がけですね。本を読むことで、子どもが自分自身で物事を考えようとするところにまで達することができたなら、確かにそれはすばらしいことにちがいありません。

いま「子ども向けの本」と申し上げましたが、この本は大人の読み物としても学ぶべき内容が満載です。試しに、次の10問の問いに答えてみてください。答えるのに苦慮する質問がいくつかあるなら、あなたは、大人向けの原子力関連本を読む前に、まずはこの本を読んだ方がよいのではないかと思われます(馬鹿にしているわけではありませんよ、念のため)。すべて、この本の内容で答えられる質問です。下の解答を見ずに、真剣に答えてみてください。

〔問1〕 原子核のなかに、陽子のほかに中性子があるのはなぜか。

〔問2〕 原子力発電の燃料はウランですが、そのなかで核分裂を起こすウランの同位元素は何か。また、核分裂しにくいウラン同位元素は      何であり、発電後、それは部分的に何に変化するか。

〔問3〕 放射線と放射能との違いを述べよ。

〔問4〕 自然放射線量は、世界年間平均で何ミリシーベルトか。

〔問5〕 原子爆弾と原子力発電との技術上の決定的な違いは何か。

〔問6〕 「核物理学の父」と呼ばれ、有核原子模型を考案したイギリスの物理学者はだれか。

〔問7〕 電源の「ベストミックス」とは何か。

〔問8〕 減速剤と冷却剤にふつうの水(軽水)を使う軽水炉の二つの型を答えよ。

〔問9〕 原子力発電の臨界とは何か。

〔問10〕プルサーマルとは何か。簡潔に答えよ。


以下は、その解答です。

〔問1〕陽子と陽子とはくっつきにくいため。
〔問2〕順に、ウラン235・ウラン238・プリトニウム239
〔問3〕放射線とは、原子核が壊れるときなどに出てくる高速の粒子や、大き
    いエネルギーをもった電磁波のこと。放射能とは、放射性物質が放射線を出す性質のこと。(だから、「放射能は危険」と言い方は誤    り)
〔問4〕2.4ミリシーベルト(だから、「0ミリシーベルトが理想」というのは、
    自然界ではありえない。地域によっては、10ミリシーベルトにも達する)
〔問5〕原子爆弾の場合、核分裂の連鎖反応を制御しないのに対して、原子力発電では、その連鎖反応を制御すること。言いかえれば、中性子    の制御の有無。
〔問6〕ラザフォード
〔問7〕火力・水力・原子力という発電の方法をバランスよく組み合わせること
〔問8〕沸騰水型と加圧水型(ちなみに、福島第一原発は沸騰水型)
〔問9〕核分裂が連続して起こる状態のこと。
〔問10〕高速増殖炉で使われるはずだったプルトニウムを、ふつうの軽水炉型
    発電所で使う方法のこと。

いかがでしょうか。実は、この子ども向けの本から、もっと答えにくい設問をでっちあげることも可能なのですが、読み手の皆様を慌てさせよう、困らせようと思ってこういうことをしているわけではないので、そういうことはやめておきます。要するに、「子ども向けの本だからといって、あなどれませんよ」ということがお分かりいただければいいのです。

原子力や放射能・放射線についての、以上のような基礎的な知見の地道な積み重ねと社会思想的な意味での深い洞察とを適切に擦り合わせることによって、私たちは、福島問題やさらには原発問題についての妥当な着地点に降り立つことができうるのではないか、と私は考えています。

最後に、本書の若干の瑕疵について触れておきましょう。

その1。一方では、年間自然放射線量は2.4ミリシーベルトであると述べながら、他方では、一般の人の年間線量限度は1ミリシーベルトと述べている点。このままでは、虚心に読み進む者を無用の混乱に陥れる危険がある(子どもからそこを追及されたらふつうの大人は困ってしまうだろう)。ここは、年間「人工」線量限度は1ミリシーベルトと明記すべきである。

その2。年間線量100ミリシーベルト以下では、明らかな健康被害はない、というのが疫学の知見である。そのことをきちんと述べたうえで、1ミリシーベルト基準は、国際放射線防護委員会(ICRP)の、科学的というよりむしろ多分に政策的な見解に基づくものであることを明記すべきである点。この点、歴史的に明らかである。子どもたちにとっての真の科学教育は、そのような不偏不党の見識に根ざすものであることが望ましい。

その3。原爆問題はそれ自体重要ではある。しかし、この本のなかであまりにもそれにページを割きすぎているような印象がある。そこに、子どもを含む読み手に対して、原爆問題=原発問題という刷り込みをしようとする監修者の意図があるのなら、その点、遺憾である。なぜなら一般国民の、放射能に対する過剰なまでの忌避感は、その連想によってもたらされているという側面が否めないからである。その混乱した思考を、子どもの世代にまで持ち込もうとするのはいかがなものだろうか。

と、悪口を言ってはみましたが、本書が、原子力についての知識の基礎・基本をできうる限りわかりやすく説明した良書であることに変わりはありません。

今回は、こんなところで。 (続く)


*末尾に、「続く」とありますが、その後の投稿はありません。今後、気長に書き続けていく所存です。
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フクシマが復旧・復興するための本当の礎(その3) (イザ!ブログ 2013・4・20)

2013年12月12日 18時49分58秒 | 原発
武田邦彦氏と副島隆彦氏の対談(『ケンカ対談』)で、二人は、福島原発事故と関連してチェルノブイリ原発事故に触れています。そのなかで副島氏は、西村肇という東大名誉教授の名を挙げます。副島氏によれば、西村氏は、日本の環境工学を創った偉大な学者だそうで、具体的には、四日市ぜんそくや水俣病の原因解明や、瀬戸内海の研究や新潟イタイイタイ病などにも取り組み、東大の中で孤高を守り、冷や飯食いを貫いた人だそうです。東電から1円ももらっていないので、定年退官しても、私立大学からまったく声がかからなかったそうです。福島原発事故の最高責任者だった小川宏氏(元原子力安全委員長で、今も東電の監査役)のことを、西村氏は「自分が教えた人だ。出来が悪かった」と言っていたとのこと。

そんな西村氏が、副島氏が事故直後の原発のそばと東京との往復を繰り返していた最中に、原発から放出されたすべての放射線量を計算し、2011年4月8日に記者会見を実施して、数値を発表しました。その発表によれば、チェルノブイリ原発事故で放出された全線量は370万テラベクレルで、その半分は燃料棒のまま残っていたものとし、残りの約半分の167万テラベクレルくらいだろうとした。それに対して、福島原発事故の場合、自分が長年の公害研究で培った汚染物質の「拡散方程式」を使って、一日当たりの放出量は10テラベクレルとし、2週間続けて出たとしても、120テラベクレルだから、最大でもチェルノブイリの1000分の1の放出量であると結論づけた。西村氏と20年来の付き合いのある副島氏は、西村氏の「最大1000分の1」説を信じるという。

(参考 jimnishimura.jp/tech_soc/chem_today1105/chem_today1105.pdf 西村肇「理論物理計算が示す原発事故の真相」 。われわれ物理学の素人にとって、当論文を読み通すことは難事なので、とりあえず最後の「研究結果から導かれる重要な結論」を確認できればいいのではないでしょうか。)

副島 (前略)ところが、この4月8日の西村発表のあった後の、9日、10日、11日になって急に、なんかよく分かりません  が、まず、保安院が、4月11日に「チェルノブイリの10分の1説」を言い出した。ですから保安院は「37万テラベクレル説」です。保安院は、西村論文が出たので慌てて、泥縄で計算してというか、その根拠となる資料とかは後々出すのでしょうが、チェルノブイリが370万テラベクレルだから、その10分の1にしょうや、という逆算で福島は37万テラベクレルだ、と発表した。私はこのようにウラ読みをしました。こうして西村説の1000分の1説と対決することになった。この後ただちに、安全委員会のほうが22万から56万テラベクレルが  放出された全量だ、と発表した。保安院と口裏を合わせていますね

  そしてこのまさしく4月11日が大震災、原発事故からちょうど1ヶ月目に当たるので、この日に飯舘村を「計画避難区域」にするか   ら、牛を処分して出てゆけ、ここは放射線量が高いから、という政府発表が出ました。その次の日に、私は飯舘村に行ったのですが、    チェルノブイリと同じ事故評価尺度でチェルノブイリと同じ「レベル7」であると菅直人首相が発表したわけですよ

  これで、愚か極まりないことですが、世界中に向かって日本政府が「日本はチェルノブイリ事故と同じ深刻に放射能汚染された国  だ」と発表  することで、世界中に風評被害を撒き散らしました。この「レベル7」の発表の後、日本国民もみんなすっかり意気消沈して  立ち直れないく  らいの沈鬱なムードになった。なんとバカな発表をしたものだ、と私は苦々しく思います。

 (中略)

武田 (福島原発事故の全線量の問題は―引用者補)非常に難しい議論なので、速やかにあれ(放射能放出量のこと―引用者注)が、彼(西村  氏のこと―引用者注)が計算した通りであるのか、それともそれ以上だったのかということは、現在ではなかなか僕には分からない。

副島 武田さんの推定では「10分の1」でいいと。

武田 ええ。チェルノブイリの10分の1くらいはあると思います

(太字は、引用者による)

当シリーズに掲載したUNSCEAR報告書や、世界原子力協会(WNA)制作の『FUKUSHIMA and CHERNOBYL ~Myth versus Reality』(邦題『福島とチェルノブイリ~虚構と真実』を知る私たちは、事故当時の武田氏と副島氏(と西村氏)のどちらが事態を正確に観ていたのか、確信を持って言うことができます。専門家の武田氏ではなく、いわゆる素人の副島氏に軍配が上がることは明らかですね。同じことですが、科学者として、西村氏の見識はどうやら正鵠を射ていたようなのです。それにひきかえ、ここでの武田氏は、LNT仮説を原理主義的に固持する科学者であることからさえも踏み外して、当て推量で物を言う無責任でいい加減な科学者になってしまっている印象が拭えません。事の重大さに鑑みれば、そういう厳しい評価をせざるをえないのではないでしょうか。

それはそれとして、先の引用のなかでの副島氏によって言及された保安院や安全委員会や菅内閣の態度には看過しがたいものがある、ということにとどまらず、なにやら「これを機に日本を地獄の底に突き落としてやろう」という凄まじい悪意さえも感じるのは、私だけでしょうか。ここには、民主党政権の、日本弱体化への底知れぬほどの執念が感じられるではありませんか。とはいうものの、この一連の動きの真相は、おそらく闇に葬られることになるのでしょう。これ以上言い募ると、いま流行りの陰謀論的な世界観にはまってしまいそうなので、この話はこれくらいでとどめておきましょう。

話を元に戻します。

西村肇氏は、「原子力文化」二〇一二年九月号に掲載された「がんと放射線とストレスと―福島の友人へのメッセージ」というインタヴュー記事で、いわゆる「100ミリシーベルト問題」について、次のような興味深いことを言っています。http://jimnishimura.jp/tech_soc/mg_atm1209/1.pdf


西村 (前略)放射線を一生で100ミリシーベルト浴びるとがんになる可能性が5%増えるのは、科学的には確実なことです。ただし、それはどういうことから考えられているかというと、原爆症の患者のうち500ミリシーベルト以下の被ばくの人、5万人について四〇年間のがんの発生の有無を調べ、これを被ばくしなかった人の集団とくらべたものです。(中略)そこに実はちょっと注意しなければいけないことがあります。

―――どういうことですか。

西村 がんになる程度はその人の持っている体質によります。家族を調べてみると、よくわかります。結局がんになる率は、がんになりやすい体質かどうかと、現在の健康状態と、それから食事など生活全部含めて、がんになる危険率が決まってくるのです。(中略)疫学の結論はヒトという一つの集団についての結論であって、個人にあてはめるものではありません。ヒトがいない以上、自分はどうなるかということは、医者や科学者に聞いてもわからないので、自分で自分の家系や健康状態、年齢その他を考えて、判断は自分がしないと・・・。

(中略)

―――そうすると、放射線を100ミリシーベルト受けると、五%がんになる可能性がある。100ミリシーベルト以下になると有意の差が現れないなどの数値は、あまり意味がないということになりますか。

西村 意味がないとは言えませんが、それはあくまで目安で、最後の判断は自分でしないといけないということです。それを覚悟して避難地から地元に帰るかどうかの判断は、あくまで自分で自分の体を考えてやらないとだめということです。科学者や医者に「大丈夫ですか」と聞けば、「大丈夫とは言えません」という答えしか出ません。(中略)

―――今まで日本人はそういう言い方に慣れてなくて、「自分で決めなさい」と言われても、「何で判断すればいいんだろう」と困る方が多いと思います。

西村 一つは、行政も科学者も含めて、そういう疫学のもっている弱さを認めて、結論を○×では出せない、ということをはっきり言うべきだと思います。「最後の判断はあなたですよ」と。慣れていないといっても、みんな株を運用するでしょう。危険率などデータは全部ありますが、最後の決断は個人ですよ。特に避難地から帰郷の問題を考えるときに、自分の年齢を考えて・・・。例えば、若い子どもなどは帰さないようにしますが、自分たちは大丈夫だと思ったら、決断する。すべて行政やお上が責任を取るから、それに従えばいい、という考えはやめないと問題は解決しませんね。(中略)例えば、がんの原因はストレスが非常に大きいのですが、ストレスの一番は人間関係です。人間関係で一番大きいのは他人との関係です。ですから、自分の知らない町で仮設住宅の狭いところで暮らしている、というストレスは相当あると思います。それよりはやはり自分の家に帰ると違うでしょう。そのときにストレスと被ばくとどちらを取るかは、やはり最後は自分の決断が大事だと思います。そして、働く意欲がなくなっていくというのが一番怖いですね。家にいれば自然に農作業をしていたのが、避難所だとそれもできません。


一見いわゆる「自己責任論」を説いているかのようですが、西村氏はここでもっと重要なことを言っています。ざっくりと言えば、「計画的避難区域など、馬鹿げているからやめてしまえ」と西村氏は言っているのです。科学者も行政も、疫学の限界をわきまえるならば、計画的避難区域などという住民排除の施策などできうるはずがない、と。「自分の家に住み続けるかどうかは、最終的には自分で決めるよりほかはない。そういう意味での自己決定権を最も重要なものとして科学者や行政側が社会的に保証するのでないかぎり、福島問題は決して解決しない。また、被災者の側も、科学者や行政に依存し、最終的な意思決定権を彼らに委ねる甘えときっぱり決別して、自分のことは自分で決めると腹を据えなければ問題は解決しない」、と西村氏は言っているのです。

科学の碩学の、なんとマトモな考え方でしょう。彼のメッセージを一言にまとめれば、「正気であれ」となりましょう。こういう識見をこそ真の意味でのコモン・センスというのでしょう。私は、西村氏の意見に全面的に賛同します。おそらく、ここが復旧・復興の確かな根底・底板になるはずです。この世に、それに依拠していれば物事を上手に解決する打出の小槌のようなものは存在しないのです。科学者や政府は、『カラマーゾフの兄弟』のなかの大審問官の役割を果たし得ないし、また、果たしてはならないのです。

西村氏の科学者としての立派な態度と比べるとき、武田邦彦氏が当時とった態度はあまりにも陋劣である、と評するよりほかなくなってくる感触が否めません。人騒がせにもほどがある、と。その「人騒がせ」という点で、次のやり取りは見逃せません。


副島 東京の公立小学校の学校給食に、放射能物質が多く入っているから、自分の子には弁当を持たせる自由を与えよと言う、そういう″放射   能ママ″を野放しにしてはいけない。

武田 しかし給食でも原子力でも、制度上の欠陥という意味では同じです。

副 そういうことを主張するのは自由ですけれど、無意味です。

武 だって、お母さんがたがね、教育委員会とか学校に一所懸命給食のことを言いに行ってはじかれてくるわけですよ。

副 それは、はじかれますよ。

武 はじかれてくる人をサイドから応援するっていうのはよくない行為ですか。

副 そんなことにエネルギーを使わないでください。

武 いや、だけど学校によってはね、今度のことで校長先生が動いて、心配な人は弁当でいいということが結構ある。複数ある。

副 なるほど、分かりました。そういうふうになるでしょうね。母親たちが教育委員会や学校にワイワイ言えば。

武 ところが、それを言いに行く人たちはね、僕が書いたブログを持っていくんですよ。なぜかといったら―――。

副 だからあなたがその母親たちを煽動しているんだ。私はここでは武田さんと完全に対決して、その母親たちをね、ヒステリックになっている母親たちを煽動するのはやめてください、と言う。非常に迷惑だ。社会全体にとって、本当に。そういう類いの女たちというのは、ろくな女たちじゃありません。

武 そう?

副 はい。

武 だって、お母さんが子どもを心配するのは普通でしょう。

副 だから、心配する気持ちそれだけなんです。放射能に対する自分の恐怖心だけなんだ。

武 そう。

副 原発事故や、それが社会全体に及ぼす問題などへの配慮に一切関知しようとしない。

武 お母さんのほうが正しいと思う。

副 いいですよ。命を守る、自分の赤ちゃんを守ろうとする自分は絶対に正しい(原文は傍点)のだ、と居直れますから。女の一番いけないところが出る。そこには社会性がゼロなんですよ。

武 僕は社会性ゼロのほうが立派だと思うけど。

副 分かりました。それならそれでいい。それぞれのご意見ですから。

武 だって、社会の前に個人があるわけだから。

副 ただし、あの放射能コワい、コワいの女性たちは、これまでの武田さんの本を読んで、きちんと物事を判断できるような能力のある人たちではありません。

武 それはそうかもしれません。だけども、能力がないからといって、社会に存在価値がないかというと。

副 分かりました。武田さんは今回、100万のそういう女性たちを自分のブログで味方につけた。だから自分は民衆に支持された新しい体制(原文は傍点)での、次の代表の一人になろうとお考えなんですね。よーく分かりました。新たに怒れる民衆を味方につけた悪賢いお公家様だ。武田さんを支持しているその女たちの感情的な激しさは、この原発、放射能漏れ問題全体から見たら、中心ではない。私は非常にはずれのほうの問題だと思います。「学校給食と放射能」など。しかし武田さんはそこに、その100万人の女性たちからの応援があることを、自分の信念の中心にしようとしている。絶対失敗しますからね、そういうことをやっていると、言論人としては。

武 僕の失敗なんかどうってことないけど。



話は、まだまだ続くのですが、ここいらでもういいでしょう。長々と引用したのには、それ相応の理由があります。

ここで二人は、図らずも現代日本社会の病理の核心を突く議論を、それぞれ正反対の方向からしているのです。その病理は、原発問題との関わりでは″放射能コワいコワいママ″の姿として顕在化します。また、教育問題との関わりでは″モンスターペアレンツ″の姿で立ち現れます。さらには、医療の現場では、医者や看護師に対して暴力的な言動をする″バイオレンス患者″として跋扈します。もっと卑近な例をあげれば、周りの迷惑をまったく顧みることなく、大きなシャカシャカ音を撒き散らしながら、ヘッド・フォンで自分の好きな音楽を聴きまくる、電車の乗客たちです。私は、正直なところ、彼らの正気を疑っています。そういう存在の特徴に、あえて名前を与えるとすれば「自分だけが大切。自分の子どもだけが可愛い。この世はオレ様のためだけにある。他人のことなんか知ったこっちゃない」という社会性ゼロの攻撃的個人原理主義です。これが、日本社会の屋台骨をメルト・ダウンさせかねない怪物の正体であると私は考えています。社会のさまざまな分野のフロントで活動していらっしゃる人たちを心底困らせ憔悴させている存在に私なりに名前をつけるとすれば、そういうものになります。

そこで、話は「言論人の最低のマナー」に移ります。私は、この「攻撃的な個人原理主義」に、それが社会的に跋扈・跳梁することを可能にするエネルギーを決して供給しないことが、現在における言論人の最低のマナーであると考えています。これに違反する言論人は、言論上のマナー違反者として厳しく糾弾されてしかるべきであると私は考えるのですね。これは、言葉を変えれば、言論諸活動が繰り広げられる舞台としての社会それ自体は維持されなければならない、という考え方です。そういう意味では、この最低限のマナーを守ることは、思想信条の違い、立場の違いを超えたものなのではないでしょうか。

その観点からすれば、武田邦彦氏は、ひとりの言論人として、放射能問題をめぐり、絶対に越えてはならない一線を超えてしまう振る舞いをしてしまった、と評するよりほかはないと私は考えます。ハーメルン・武田の笛は、明らかに変調をきたしていたのです。

それに対して、ここでの副島氏の、言論人としての命綱を決して手放そうとしない凛とした態度は立派です。そうとしか言いようがない。ここで副島氏が示した姿勢は、実のところ、言うは易く行うは難し、なのです。なぜなら、彼が正面の敵として見据えている「攻撃的個人原理主義」は、表見的には、いわゆる「市民面(づら)」あるいは「弱者面」をしているので、市民の味方や弱者の同伴者を気取りたいスケベ根性を断ち切らないかぎり、それを背景にした論者を正面切って論難するのは、けっこう難しいのです。その意味で、副島氏は、勇気のある言論人です。

武田邦彦氏を一方的に断罪してしまった形になりました。しかし、彼がこれまで環境問題に関する俗論を木っ端微塵にし続けてきた長年の言論活動の功績はいくら高く評価してもしすぎることはないと、私は考えています。私は、彼の環境問題に関する著書を読むことで、おおいに蒙を啓かれた経験を持っています。そのおかげで、私はいわゆる「環境問題」なるものに対して、健全なる懐疑心を抱くことができるようになりました。また、原発問題に関しても、彼の「福島原発事故は、津波によって引き起こされたのではない。その直前の地震によって、設備は稼働しなくなっていたはずである。なぜなら、福島原発は設計上、震度6の地震に耐えられないように作られているからである。設計思想の根本的な欠陥が、今回の事故を招いた。その設計思想が根本的に是正され、原発設備の耐震機能が飛躍的に高められないかぎり、再稼働はするべきではない」という提言には、傾聴すべき多くがあると考えていることも、申し添えておきたいと思います。それはそれ、これはこれ、と分けて評価すべきでしょう。 (この稿、続く)

〔コメント〕

Commented by kohamaitsuo さん
気迫のこもったシリーズですね。続きが楽しみです。
副島隆彦氏があの時期にこれだけ言い切ったというのは、ちょっとした驚きです。彼を見直しました。武田邦彦氏は、科学信仰者のところがありますから、防戦一方でちょっとオタオタしてしまったのでしょうね。その点は理解してあげなくては、と思います。
ところで最後の部分で貴兄は、武田氏の「福島原発事故は、津波によって引き起こされたのではない。その直前の地震によって、設備は稼働しなくなっていたはずである。なぜなら、福島原発は設計上、震度6の地震に耐えられないように作られているからである。設計思想の根本的な欠陥が、今回の事故を招いた。」という発言を引用されて、「傾聴すべき多くがある」と評されていますが、傾聴すべきでしょうか。私は極めて軽率な断定だと思います。どうせあの時点での武田氏を批判するなら、この発言のおかしさも指摘すべきではないでしょうか。というのは、この発言は、少しも「科学的」ではないからです。あの事故は、外部電源との接続が津波によって断たれたために冷却装置が作動せずに水素爆発を起こしたと一般的には説明されています。これが正しいかどうかはともかくとして、武田氏の発言は、こういう説明が正しいかどうかの検証そのものをしないで、ただ、震度6に耐えられない設計だったから、津波が原因ではないと断定しているだけです。本当にその時に地震そのものによって圧力容器が破壊されたのかどうかについて、彼はまったく言及していません。科学者として誠実を期すなら、こんな軽率な断定は避けるべきで、「原因については、いまのところ分からない」というべきでは?
ちょっとしつこく書きましたが、貴兄がこのブログに込められた熱意を尊重すればこそのコメントと受け取っていただければさいわいです。


Commented by 美津島明 さん
To kohamaitsuoさん

小浜さん、このシリーズをお読みいただいているようで、どうもありがとうございます。最初は、稲博士の発言に触発されて、一連の放射能騒ぎに関してちょっとした自分なりの気づきがあったので、それを元にして二、三回くらいのシリーズで書いてみようかとおもむろにスタートしたのですが、いつの間やら、図らずも長丁場になってしまいました。自分がこれまであまり詰めて考えてこなかったことでもあるので、考え始めると次から次に大事な論点が浮かび上がってくることになりました。で、こういうことになっています。まとめを急がずに、気になることが出てきたら、落ち着いて考えていこうと思っています。
 
ご指摘の件について。武田さんは「水素爆発で配管は絶対に飛ばない。しかるに、外部電源をつないでもいまだに冷却されない。ということは、最初から配管系が壊れていたことになる。とするならば、その原因は津波ではなく最初の地震である」と一貫して言っていますね。それに対して、対談のなかで副島氏が、「その事実を4月30日に保安院が認めました。地震で壊れたって、はっきり言いました」と言っているのです。武田さんのスタンスに対してことごとく異を唱えている副島氏が、それについてはあっさりと受け入れているので、私は「そうなのかな」とまあ鵜呑みにしてしまったのですね。どうやらちゃんと調べてみる必要があるようですね。結論は、それまでご猶予ください。


Commented by ぱんたか さん
 美津島 様

力の籠った正論を、ひざを打ちながら拝見しております。
 
これは、副島さんと武田先生の『喧嘩対談』のことでしょうか。
 私も武田先生のそれまでのご本で、特に環境問題などで蒙を啓くことができた一人ですが、放射能については閾値を認めず「一粒なりとも危険」という考え方には、当初から大きな疑問を持っていました。

事故直後から「メリット・デメリットを考えた場合、人体への影響は無視しても良い程度」ということを、中川先生のような学者さん、副島さんや渡部昇一さん、池田信夫さんなど一部の評論家も一貫して言っております。

未だに避難先からの帰還が叶わないのは、当時の政府の誤った方針の結果だと思います。この“風評被害”をなくさぬ限り、福島どころか日本中の被害はこれからも延々と続くでしょう。

これを終わらせるためには、政府が丁寧な説明をした後に、「…であるから、帰還は差支えない」という宣言をすることだと思います。

高橋 龍渉


Commented by kohamaitsuo さん
なるほど。武田さんにケチをつけた私自身も、貴兄が引用されている部分からだけ判断してしまった軽率さがあったようです。お詫びします。
とはいえ、仮に水素爆発では配管は絶対飛ばないという武田説が正しいとしても(なぜこう断定できるのでしょうね)、津波で配管系が壊れた可能性が残りますね。武田さんの2つの説明は、水素爆発以前に配管系が故障していたことを証明しているだけで、それが地震によるものだということの証明にはなっていません。上記の説明も、そんなに論理的(科学的に)ではないように印象されます。
だいぶ話が細かいところに入ってきてしまいました。こういう点に関して私に厳密な調査の能力と余裕があればいいのですが、どうもそれも望めませんので、いまのところ、疑問の提示だけにとどめさせてください。
いずれにしても、今後この記事を書き続けるにあたって、貴兄があまりに細かいところまで踏み込んで肝心の執筆エネルギーをいたずらに消耗されないことを祈ります。原発再稼動か廃炉かをめぐって40万年以前の活断層などを調べている規制委員会の方針に私はばかげたものを感じていますので、バランスが大事か、と愚考いたします。


Commented by 美津島明 さん
To ぱんたかさん

コメントをどうもありがとうございます。

はい、当シリーズ(その8)(その9)で取り上げたのは『喧嘩対談』です。私も、ばんたか(高橋)さんと同様に、以前から武田さんの環境問題に関する見識の高さや鋭さにとても感心していました。ところが、放射能問題に関しては、素人ながらも、なんとなく小首をかしげざるをえませんでした。それほど思考力があるとは思えない人たち(副島氏のいわゆる「放射能ママ」)の放射能に対する恐怖心を、武田氏は、なだめるというよりも、どこかしら煽っているような印象を持ったからですね。実は、私、その現場を目撃しています。普段2~30人程度でつつましく集って、いろいろな分野の専門家のお話を聴くということを約十年間やっていたのですが、武田さんが講師として招かれたときだけは、200人超の人々がぶわっとやってきて、武田さんに、若いお母さん方が、放射能をめぐってあれこれと具体的な指針の教示を請うような質問を、眼を三角にして矢継ぎ早にしているのが、どこか異様な感じがしたものでした。そのときの武田さんはまるで新興宗教の教祖さまのようでした。

> 未だに避難先からの帰還が叶わないのは、当時の政府の誤った方針の結果だと思います。この“風評被害”をなくさぬ限り、福島どころか日本中の被害はこれからも延々と続くでしょう。
>
> これを終わらせるためには、政府が丁寧な説明をした後に、「…であるから、帰還は差支えない」という宣言をすることだと思います。

おっしゃるとおりだと思っています。その結論に至るまで、あまり急ぐことなく、途中で湧き起ってくる疑問や論点に丁寧に触れて行きたいと思っています。この問題を考えることは、いまの日本をまるごと考えることにつながっているのではないかと感じ始めていますので。当シリーズを続けているうちに、日本全体がなんだか「計画的避難区域」であるような錯覚を覚えてきています(笑)。


Commented by 美津島明 さん
To kohamaitsuoさん

>なるほど。武田さんにケチをつけた私自身も、貴兄が引用されている部分からだけ判断してしまった軽率さがあったようです。お詫びします。

とんでもありません。副島さんのお話を鵜呑みにした私こそが軽率でした。ご指摘感謝しています。

>とはいえ、仮に水素爆発では配管は絶対飛ばないという武田説が正しいとしても(なぜこう断定できるのでしょうね)、津波で配管系が壊れた可能性が残りますね。武田さんの2つの説明は、水素爆発以前に配管系が故障していたことを証明しているだけで、それが地震によるものだということの証明にはなっていません。上記の説明も、そんなに論理的(科学的に)ではないように印象されます。

なるほど。論理的思考のお手本を垣間見る思いです。触れる触れないは別にして、細部における論理的な詰めをきちんとしておく緻密さは必要ですね。

>いずれにしても、今後この記事を書き続けるにあたって、貴兄があまりに細かいところまで踏み込んで肝心の執筆エネルギーをいたずらに消耗されないことを祈ります。原発再稼動か廃炉かをめぐって40万年以前の活断層などを調べている規制委員会の方針に私はばかげたものを感じていますので、バランスが大事か、と愚考いたします。

なるほど。細部における論理的な詰めをきちんとする緻密さをオタク的に追及するあまり、「要するになにが大切なのか」をめぐっての全体への直観がおろそかにされてはないらないということですね。それがおろそかにされた場合、読み手に無用の負担をかけますからね。それはつまらないことです。小浜さんから、思考なるものをめぐって、高度ないわく言い難いバランスをキープするヒントをいただけたような気がします。ありがとうございます。


Commented by ぱんたか さん
美津島 様

分をわきまえないコメントを差し上げてしまって、首をすくめておりましたところ、ご丁寧なお返事を戴きホッとするやら嬉しいやら、複雑な心境でおります。

若いお母さんと武田先生のやり取り、目に見えるようです。
原発のことで若いママさんと話をしていた時、初めは和気あいあいだったのですが「再稼働という選択肢もあるのでは…」といった途端、怒って帰ってしまいました。

武田先生には「日本人の50パーセントががんに罹り、30数パーセントが死ぬそうですが、福島の放射線で20年先に数パーセントの人ががんにかかるかも知れない、ということについてどのようなご意見でしょうか。」と、メールでお尋ねした時、すぐに「近いうちに私のブログに書きましょう」というお返事を戴きましたが、あれから2年、未だに音沙汰なしです。
 高橋 龍渉


Commented by 美津島明 さん
To ぱんたかさん

>美津島 様
>
> 分をわきまえないコメントを差し上げてしまって、首をすくめておりましたところ、ご丁寧なお返事を戴きホッとするやら嬉しいやら、複雑な心境でおります。

とんでもありませんよ。忌憚のないコメント、いつでも大歓迎です。このブログの「直言の宴」というタイトルが、ブログ主人のスタンスを物語ってあまりあると受けとめていただければ幸いです(*´▽`*)。

> 若いお母さんと武田先生のやり取り、目に見えるようです。
> 原発のことで若いママさんと話をしていた時、初めは和気あいあいだったのですが「再稼働という選択肢もあるのでは…」といった途端、怒って帰ってしまいました。

そうですか。さもありなん、と思います。そういう人たちに対して、「あなたたちは正しい」という免罪符を与えるような言動は慎むべきであると、私は思います。世間の普通の人々が、そのことで、迷惑をこうむり、消耗することを余儀なくされるからです。自分のことしか考えない人のために世の中はあるわけではないと私は思っています。

> 武田先生には「日本人の50パーセントががんに罹り、30数パーセントが死ぬそうですが、福島の放射線で20年先に数パーセントの人ががんにかかるかも知れない、ということについてどのようなご意見でしょうか。」と、メールでお尋ねした時、すぐに「近いうちに私のブログに書きましょう」というお返事を戴きましたが、あれから2年、未だに音沙汰なしです。

その件に関する武田さんの姿勢は、あまり感心のできるものはありませんね。いまからでも、武田氏はちゃんとぱんたか(高橋)さんと交わした約束を果たすべきです。なぜなら、福島県の被災者はいまだにさまよえる民として、忍びがたきを忍んでいて、そのことに武田氏の言動は少なからぬ責任があるのですから。彼が、反原発運動の神々の一人に祭り上げられている現状は、この運動のレベルの低さを物語ってあまりあると、私は思っています。
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フクシマが復旧・復興するための本当の礎(その2) (イザ!ブログ 2013・4・8,9,11,14)

2013年12月12日 18時10分43秒 | 原発
放射能への過剰反応に基づく、非現実的で厳しすぎる基準は、食品に関するものにとどまりません。「計画的避難区域」の設定基準もまた合理性に乏しいものである疑いが濃厚です。政府による「計画的避難区域」の設定基準は、年間20ミリシーベルトです。これは、ICRP(国際放射線防護委員会)が提唱している国際基準の年間20~100ミリシーベルトの下限を採ったものです。国民の放射能に対する社会的アレルギー反応を斟酌すれば、致し方のない設定基準である、とも言えそうな気もします。にもかかわらずなにゆえに、年間20ミリシーベルトが合理性に乏しいと言えるのでしょうか。

それは、先のUNSCEAR(国連原子放射能線影響科学委員会)の報告のなかの次の文言によります。報告書ははっきりと「0.1Sv(10 rem)以下の被曝に誤ってLNT仮説を当てはめたことによる経済的・心理的負担は、ただでさえストレスを感じていた日本国民には著しく有害で、今後もそれを続けることは犯罪行為といえる。当然ながら、年間0.1Sv(年10 rem)以下では被曝量が2倍になっても発がん率は2倍にならない。人体への影響はまったくない」と言っているのです。UNSCEARに集う世界水準の科学者たちは、職業的な良心を賭け、また社会正義実現の使命感をこめてこの報告書を作成したものと思われます。そのような報告内容を、こちらが疑ってかかる合理的根拠が示せない以上、この言葉に対して一定の敬意を込め、それを真正面から受けとめざるをえません。そうすると、ここでUNSCEARは「計画的避難区域」の合理的な設定基準は年間100ミリシーベルトであって、それ以下に設定することは意味がない、と言っていると解するよりほかはありません。

とすると、日本政府が設定した基準は、合理的な基準の5倍の厳しいものであると評するよりほかはありません。これが、何を意味するのか。まずは、下の図をごらんください。二〇一二年三月十一日までの福島県東部の累計線量分布です




赤線の内側が、現在の20ミリシーベルト基準に基づく「計画的避難区域」です。ここで、基準を100ミリシーベルトにすれば、「計画的避難区域」が激減することがお分かりいただけるでしょう。よく名前が出てくる飯館村を例にとれば、その全域が「計画的避難区域」の規定を解除されるのです。UNSCEAR報告書を真正面から受けとめるかぎり、一日でも早くそうしなければならないということになりましょう。そうすると、集中的に除染しなければいけない本当のホットスポットの絞込みが可能になります。限りある人力とおカネの有効活用が可能になるのです。つまり、「光の見えないトンネルの中状態」であったフクシマの復旧・復興のイメージが現実味を帯びてきて明瞭になるのです。おそらく、フクシマ復旧・復興の具体的な工程表を作ることができるようにすらなるはずです。その場合、農業に壊滅的な打撃を与えるTPP参加などとんでもないという認識が常識として国民の間で共有されるはずです。

20ミリシーベルト~100ミリシーベルトの地域に住んでいた方々は堂々と自分たちの生業の場に舞い戻って、身体に何の害もない美味しい野菜や乳製品を自信をもって作り、それらを市場に送り出せばいいのです。なにをはばかることがありましょうか。国連のお墨付きなのですからね。UNSCEARの指針に従う限りそうとしか言いようがありません。

また、除染の基準は1ミリシーベルではなくて100ミリシーベルト未満とすべきです。100ミリシーベルト以上のホットスポットをまずは除染して100ミリシーベルト未満に収め、次に、民心を宥めるために福島東部全域を50ミリシーベルト以内に収める。除染の優先順位はそうなります。そうして除染はそれで終わりです。それ以上の除染は、個人的な趣味の領域であるとしか言いようがないでしょう。まして、公的な除染基準を、自然放射線量の平均(日本の場合、年間1.4~1.6ミリシーベルト)未満の1ミリシーベルトに抑えることなど、正気の沙汰ではないと申し上げるよりほかはありません。

「放射能に弱い子どもたちはどうなるのか」という疑問が湧いてきます。しかし、それに対しても、UNSCEAR報告書はきちんと答えています。「ヨウ素の放射性同位体で半減期の短い『ヨウ素131』の食物摂取は、子供や若者の甲状腺で吸収されると甲状腺がんを引き起こすリスクがあることで知られている。(中略)日本ではこうしたこと(チェルノブイリのような、子どもたちをみまった悲惨なことー引用者注)は起こらない。半減期がわずか8日のヨウ素131は事故後の数カ月で崩壊してしまい、大量に摂取した例は1人も報告されていない」と。

私たち日本人はなんとなく、「フクシマ原発事故は、チェルノブイリ原発事故並の悲惨な事故である。とくに子どもたちは放射能の脅威にさらされている」と思い込んでいます(私もその例外ではありません)。しかし、それが幻想に過ぎないことを次の動画は物語っています。冒頭に、当動画は、福島原発事故後一年を迎えることを機に、世界原子力協会(WNA)が制作したものである旨が語られています。タイトルは『FUKUSHIMA and CHERNOBYL ~Myth versus Reality』(邦題『福島とチェルノブイリ~虚構と真実』)です。


Jaif Tv 特別編 「福島とチェルノブイリ ~虚構と真実~ 」(2012/4/20)


ほんの10数分ほどの動画ですが、その内容はとても充実しています。傾聴に値する言葉が目白押しですね。私なりに当番組の主張を以下にまとめてみましょう。

「1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故は、マスコミを通じて、その犠牲者が数十万人にも達すると予想されていた。ところが現在、世界の主要な科学団体や科学者の見解は、それとはかけ離れたものである。チェルノブイリ原発事故以降、唯一確認された放射線による住民の健康への影響は、6000例を超えた子どもの甲状腺ガンだけ。そのうち死亡が確認されたのは15例。被曝線量が最も高かった作業員の場合、放射線量で亡くなったことが明らかなのは五〇人未満。以上である。これは大きな数字であるが、予想されていた数字と比べると大きいとは言えない。では、フクシマの場合どうか。チェルノブイリの場合、母親たちは、放射性ヨウ素によって汚染されたミルクを、何も知らずに、子どもたちに与えた。それが6000人の犠牲者を生んだのである。ところが、フクシマの場合、母親たちは子どもたちに汚染されたミルクをまったく与えなかった。だから、子どもたちの甲状腺に問題が起こらなかったし、今後起こることも考え難い。また、作業員の被曝線量は一般住民に比べれば高いけれど、チェルノブイリで消防士たちが被曝した線量に比べれば、一桁低い。だから、彼らに長期的な影響が出るとは到底考えられない。つまり、フクシマの放射能による直接の犠牲者はいない。ゼロである」

いかがでしょうか。「フクシマ原発事故は、チェルノブイリ原発事故並の悲惨な事故である。とくに子どもたちは放射能の脅威にさらされている」というわれわれの思いが、単なる幻想に過ぎないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。また、チェルノブイリの犠牲者でさえも、実際には当初の予想の100分の1程度の規模に収まっているのです。  (この稿、続く)


*****

私たちは、チェルノブイリ原発事故の健康被害者の実際の数字を数百倍にふくらませ、フクシマ原発事故の、実際にはいない健康被害者数はチェルノブイリ並に違いないと妄想をたくましくさせてきました。その結果、フクシマ原発の周りに、ありもしない放射能のホット・スポットを作り上げ、そこに住むなんの罪のない人々を着の身着のままで追い出す暴挙もやむなしとしてきたのです。

その数(かず)10万人ともいわれる多くの、生業を失った人々が、流民と化して日本列島をよるべなくさまようことになったのです。さまようだけではなくて、生活不安・生命不安に起因する極度のストレスから健康を害し、無残にも命を落とした人も少なからずいることでしょう。これが、フクシマをめぐって「絆」などと軽薄に騒ぎ続けた総体としての日本人が、実際にやったことなのです(だからといって、「一億総懺悔(ざんげ)」を求めようなどとは思っていません。責任には自ずと濃淡の別があります)。

特に「原発やめますか、人間やめますか」などと調子に乗って空騒ぎを演じ続けた反原発運動家などは、愚の骨頂と称するよりほかはありません。そのなかでもとりわけ、そこに参画したいわゆる「知識人」なる存在は、「知識」人としてのノーブレス・オブリージュを放棄した単なる頓馬として銘記されなければなりません。もっとも彼らの多くは、そう言われても、反省などしないでしょう。反省するほどの殊勝な心根の持ち主であれば、あんな馬鹿げた、本質的に非人間的な運動に躊躇することもなく参加するはずがありませんから(彼らは、「UNSCEAR報告書など、原発推進派のデマである」と一蹴するのではないでしょうか。私は、彼らのなかには一種のカルト信者のような心性の持ち主が少なからずいるのではないかと思っています)。私は、フクシマ問題の本質についての洞察ができかねていた段階においてすら、なにがあろうと反原発運動に参加しないことだけは決意していました。この運動がなにかしら途方もなく馬鹿げたものであるという印象が拭えなかったからです。

この点については、当シリーズの次に掲載されることになっている小浜逸郎氏の論考がきちんと論じていますので、そちらにゆずります(「反原発知識人コミコミ批判」 http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d4e1c312938bccab4344516d46a8617d(その1)http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/81ea246f3cbd75f9002375de226188a2(その2))。ここで私が問題にしたいのは、われわれ日本人が演じた(そうして、いまでも演じている)、放射能をめぐる無残な喜悲劇の根本原因です。

これまでお話したことから、すぐに思いつくのは、緊急時における政府の(とくに事故当時の菅直人・民主党政権の)腰の引けた説得力に乏しい対応です。そうして、国民の間にはびこる放射能アレルギーを助長し煽るだけの無責任なマスコミの報道ぶりです(それに、狂言回しの役割を務めた「反原発知識人」を加えてもよいでしょう)。これはこれで大きな問題なので、後ほどあらためて触れることになりましょう。

ここで、いささかこだわってみたいのは、放射能をめぐる無残な喜悲劇の根本原因としての科学理論的な側面についてです。経済学者ケインズが、『一般理論』の結語の部分において、「困った社会事象の根本原因は、既得権益などという社会構造的なものに求めるよりも、観念の領域における間違った思想にこそ求めるべきである」という意味のことを言っています。リアリスト・ケインズですら、こういうことを言っているのです。私は、この考え方を諒とする者です。

私が考えているのは、この論考のはじめのところですこしだけ触れたLNT仮説の存在です。私は、この仮説こそが、科学理論として、上記の喜悲劇の真の演出者の役割を演じてきた張本人なのではないかという思いが強くなってきたのです。(この稿、続く)


*****

LNT仮説に触れる前に、ひとつだけ言っておきたいことがあります。当シリーズで引用した文章についてです。これは、稲恭宏(やすひろ)氏が、UNSCEAR公式学術報告書「日本国放射能異状なし」についての記事「放射線と発がん、日本が知るべき国連の結論」の重要箇所をピック・アップしたものをそのフェイス・ブックから引用したものです。この、月刊誌Forbsに掲載された記事について、ツイッター上で、脱原発派から「この記事は、報告書に対する誤解・曲解に満ちている。報告書には、記事が強調するような内容はない」という趣旨の発言が複数なされています。その真偽を確かめるために、私は原文に当たってみました。http://www.un.org/ga/search/view_doc.asp?symbol=A/67/46

すると、ChapterⅡ-B-1、通し番号9(a)に次の英文があるのを見つけました。

To date, there have been no health effects attributed to radiation exposure observed among workers , the people with the highest radiation exposures.

To data, no health effects attributable to radiation exposure have been observed among children or any other member of the population.

私訳をつけると、「データによれば、最もレベルの高い放射能被曝をした人々である原発現場の作業員たちの間に、放射能被曝に起因する健康上の影響はこれまでのところまったく観察されていない。また、データによれば、子どもたちやほかのどのような人々の間においても、放射能被曝に起因する健康上の影響はこれまでのところまったく観察されていない」となります。これは、もちろん福島原発事故に関する記述です。

このことからだけでも、脱原発派の、Forbesの記事に対するコメントは根も葉もない単なるデマにほからないと結論づけることができるでしょう。Forbesの記事は、UNSCEAR報告書の内容をきちんと正確に踏まえているのです。

では、本題に戻りましょう。LNT仮説の問題点について、ですね。まず、LNT仮説とはいった何なのかについて、あらためて触れておきましょう。インターネットで探していたら、次のような分かりやすい説明がありました。*は、引用者の補足です。また赤字は、引用者が加工をほどこしたものです。http://criepi.denken.or.jp/jp/ldrc/study/topics/lnt.html

■しきい値無し直線仮説(Linear Non-Threshold : LNT仮説)とは?

放射線の被ばく線量と影響の間には、しきい値がなく直線的な関係が成り立つという考え方を「しきい値無し直線仮説」と呼びます

*「しきい値」とは、ある事象の境目となる値のことです。漢字を当てると、「閾値」。英語は、「threshold」。

■確定的影響と確率的影響

放射線の人体への影響は、「確定的影響」と「確率的影響」の2つに分けけることができます。

このうち、確定的影響には主に高線量被ばく時に見られる障害で、脱毛を含む皮膚の障害や、骨髄障害あるいは白内障などが含まれ、それ以下では障害が起こらない線量、すなわちしきい値のあることが知られています。

一方、発がんを中心とする確率的影響ついては、1個の細胞に生じたDNAの傷が原因となってがんが起こりうるという非常に単純化された考えに基づいて、影響の発生確率は被ばく線量に比例するとされています。しかし
実際には、広島・長崎の原爆被爆者を対象とした膨大なデータをもってしても、100ミリシーベルト程度よりも低い線量では発がんリスクの有意な上昇は認められていません。これよりも低い線量域では、発がんリスクを疫学的に示すことができないということです



■なぜ「仮説」なのか?

このように
確たる情報に乏しい低線量の範囲について、放射線防護の立場からリスクを推定するために導入されたのがLNT仮説です。低線量放射線の影響についてはよくわからないが、影響があると考えておいた方が安全側だという考え方に基づいたもので、科学的に解明されたものではないことから「仮説」と呼ばれています

*国際放射線防護委員会(ICRP)は、1920年代以来ずっとこの説を採っています。上の図の、低線量域において点線で表された直線を想定する考え方を妥当とするのがLNT仮説である、と理解すればいいのではないでしょうか。

この説をめぐっては、さなざまな科学者や科学的研究機関などから異論・反論が提起されてきた論争の歴史があるようです。それらについては、のちほど触れることにして、私がここで一言申し上げたいのは、「この説は、自分の感覚に合わない」ということです。別に奇を衒ったことを言おうとしているわけではありません。

例えばアルコール。これを一時に大量に摂取すれば身体に害を及ぼします。単位時間当たりの摂取量が限度を超えると、急性アルコール中毒で命を失うことになる場合さえあります。ところが、適切な量を摂取するとこれが「百薬の長」に化けることになります。喉を潤す水だって、一時に大量に摂取すればお腹を壊したりして身体に変調をきたします。

高線量域においてのみならず低線量域においても線量と癌発生率の比例関係を想定するLNT仮説は、いま述べたような日常感覚に反するところがあるように感じるのですね。その点、「鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~」というブログの次の記事は、おおいに頷けます。
http://plaza.rakuten.co.jp/kmrkan55/diary/201112010001/「常識はLNT仮説を否定する」


私は常識的な判断で、LNT仮説はおかしいと思っている。音や光、温度、湿度、塩分など様々な物理量は大きすぎれば、人間に多大の被害を与え、一定の限度を超えれば死に至る。

だが、少なくなれば感じなくなり、害はない。むしろ心地よさ、プラスの価値を与えることが少なくない。

例えば、航空機の騒音をすぐ近くで受ければ鼓膜が潰れかねないが、山中の鳥の鳴き声は耳に優しく心地よさがある。摂氏40度以上の戸外では熱中症にかかる人間が多発するが、20度前後なら快適だ。

プロのヘビー級のボクサーに素手で思い切り殴られれば即死しかねないが、赤子に撫でられれば問題はなく、むしろ楽しい。

人間にとって閾値のない物理量は考えられず、放射線量のみ例外ということはありえない。

(中略)人々に恐怖心を植え付け、東電福島原発の周辺住民はいつまでも自宅に戻れない。数十キロも離れた人まで避難したままの人が少なくない。それによるノイローゼなどによる精神障害の方がはるかに人々の寿命を短くするし、生活破たんなどの被害は測り知れない。

政府はこうした被害をなくすように、政策のかじ取りをすべきで、マスコミも科学的データを示しながら冷静さを呼びかけ、いたずらに不安をあおる報道を中止しなければならない。 
   

この人、とてもいいことを言っています。  (この稿、続く)


*****

私は、当シリーズの「その6」の終わりのところで、次のようなことを述べました。すなわち、われわれ日本人が演じた(そうして、いまでも演じている)、放射能をめぐる無残な喜悲劇の真の演出者は、科学理論としてのLNT仮説なのではなかろうか、と。これを言いかえれば、「日本国民は、放射能バカ騒ぎを演じることによって、気づかぬうちに、福島県民の生活を破壊し、彼らをよるべない流民になるよう追い詰め、彼らのうちの少なからぬ人々(その多くは体の弱い老人でしょう)に耐え難いストレスを与え、果ては命をも奪った。その一連の動向に、根のところで大きな影響を与えた存在こそ、科学理論としてのLNT仮説なのではないだろうか」となります。

これは、私の勘といえば勘なのですが、フクシマ問題を自分なりに突き詰めて考えているうちに、どうしてもそういう印象が強くなってきてしまったのです。もちろん、事故当時の菅直人民主党政権の責任は甚大です。放射能問題に対する姿勢を明確にしない自民党現政権も、その点、同罪です。 また、国民の放射能に対する恐怖心を無責任に煽り続けたマスコミの報道姿勢にも看過しがたいものがあります。私が申し上げたいのは、そのような、政府やマスコミの腰が引けた無残な対応を根のところで規定しているものとして、LNT仮説があるのではないか、ということです。念のために付け加えておくと、それは、彼らがそのことを意識しているかどうかとは関わりのないことです。その点に関して、私は彼らを衆愚とみなしています。

そんなわけで、私は自分の勘を確かめるために、インターネットをたくさん検索してみました。いろいろと参考になる情報がないわけではないのですが、ズバリこれだというものになかなかヒットしません。で、いくつか書店にも足を運んでみました。さすがに、放射能や福島原発事故関係の本は豊富なのですが、そのほとんどは、脱原発のバイアスがかかった立場から書かれたものです(そのたぐいの本の多さには、いささか食傷気味になりました)。そうでなければ、専門家による、刺激の足りない概説本です。それでは、食指が動きません。さて、どうしたものかと行き詰まりかけたとき、あったのでした、わが心にずばりヒットする本が。それは、あの武田邦彦氏と副島隆彦氏の『原発事故、放射能、ケンカ対談』(幻冬舎)です




私がこの本に着目した理由は、次のとおりです。

①武田氏は、愚直と評しても過言ではないほどはっきりとICRPの公式見解の立場に立っている。それに対して、日本人離れしたほどにと形容し たくなるくらいに直截に異を唱える副島氏との対話において、LNT仮説の問題点が誰の目にもくっきりと浮かび上がっている。

②副島氏は、自然科学分野、とりわけ放射能や原子力の専門家ではない。だから、彼が武田氏に対して唱える異論には、良い意味での常識感覚 がおのずと織り込まれることになった。

③この対談は、2011年の五月三日、福島県郡山市において実施された。福島原発事故の直後から現地に駆けつけ、事故現場、あるいはその すぐ近くでフィールド・ワークをしていた副島氏が、放射能の危険性を強くアナウンスする武田氏を同地に招くことで実現した。つまり、こ の対談は、放射能騒ぎが収まらない五里霧中のさなかで実施されたものなので、そこには当時の切迫した空気がおのずと織り込まれている。 そのことが、当対談における二人の言葉を抜き差しならない臨場感のあるものにしている。つまり、二人ともに、逃げも隠れもできないタイ ミングとシチュエイションでその言葉を発している。

では、その内容に入っていきましょう。まずは、ICRPの「年間1ミリシーベルト基準」について。

副島 (前略)武田さんの文章の中に、「ICRPとともに自分たちが何十年にわたって一生懸命つくってきた基準なんだ」と。だから「この年間1    ミリシーベルトという数値は変えられないんだ」と書いておられる。

武田 そうですよ。

副 あなたが「何が何でも年間1ミリシーベルトの基準値を守るんだ」 と言った途端に、ICRPが態度を変えたんですよ。

武 いや、変えてないですよ。あれはもう前から――。

副 それはICRPの二〇〇七年勧告のことですね。

武 そう。二〇〇七年勧告は有名な勧告です。

副 ところがICRP自身が、二〇〇七年勧告を変更して、日本に関しては緊急事態だから、許すと言って、規制値を変更した。(中略)三月二一  日にICRPが、20ミリシーベルト・パー・イヤーから、100ミリシーベルトまでは緊急事態であるから日本に許すと、わざわざ声明を出した  んですよ。

武 そうでしたね。

副 それに対して武田さんが一所懸命抵抗している。

武 全然抵抗していません。僕は年間20ミリシーベルトでもかまわないよ、と。だけど、年間20ミリシーベルトには条件がついているんだと。  条件を満足すればいい。ICRPはそういうことを言っているんですね。


ここで、2011年三月二一日に出されたICRPによる日本向けの緊急メッセージに触れておきましょう。http://www.scj.go.jp/ja/info/jishin/pdf/t-110405-3j.pdf

ICRPは、その中で慎重な言い回しながらも、はっきり「国の機関は、人々がその地域を見捨てずに住み続けるように、必要な防護措置を取るはずです」と言っています。これはいまから振り返ると、とても重いメッセージです。ここには、「計画的避難区域」などという線引きをして、そこから住民を追い出すなどという馬鹿げた無慈悲な政策を実施しないように、という警告が含意されていると読めるからです。とするならば、ICRPはこの段階ですでに、住民が被災地域に住み続けても、放射線被曝による重大な健康被害は出ないと判断していたのではないでしょうか。そう解するよりほかないのではありませんか。

二人の対談に戻りましょう。上の引用の最後のところで武田氏が言っている「条件」とは何なのか。


武 じゃ、僕はね、ネットにこう書きますよ。今日から1ミリシーベルトを20ミリシーベルトに変えます。しかし、お母さん方に言っておきたいことは、皆さんの赤ちゃんのがんになる可能性は20倍に増えます、と。それは承知してください。

副 ただし、5年後にがんになるのは1000人に一人ですって書いてください。

武 もちろん1000人に一人はいつも書いています。1000人に20人になりますけどね。


「1ミリシーベルトが20ミリシーベルトになると、がんの発生率が1000人に1人から20倍の1000人に20人、つまり100人に2人になる」。これが、さきほど武田氏が言っていた「条件」です。ここにLNT仮説の特徴がよく現れています。100ミリシーベルトまでは低線量域です。その領域を超えると、線量と癌発生率との間に「確定的な」比例関係が見られます。それを低線量域においても想定しようとするLNT仮説がどういうものなのかを、武田氏はここで具体的にはっきりと示しているのです。そうして、ここにこそ、福島原発事故をめぐってのLNT仮説の問題点が、集中的に現れています。そのことにかかわる箇所を引用します。

武 人間は必ず、自然放射線で一番発がんが低いように体の発がん性物質が生じているわけですね。日本人の場合は、1.4ミリシーベルトで最  もがんが少なくなるように人間の体っていうのは、それで調整してる。それに対して、それにプラス1(ミリシーベルト・パー年間―引用  者補)しますと、がんの発生率が高くなります。これが、実は1億人に5000人というがん(の増加分―引用者補)なんです。ですから、例  えば年間20ミリシーベルトにしますと、1億人当たり10万人が(自然放射線状態の数値に上乗せされたかたちでー引用者補)がんになると  いうことになります。

副 1億人で10万人ということは、1000人に1人ということですね。それで、武田さん、年間20ミリシーベルトの放射線を浴びたら、1000人に1  人(新たに―引用者補)がんが出る。これはサイエンティフック・ファクトであると。

武 いや、コンセンサスなんです。

副 そのコンセンサスであり、ICRPの主張してきた事実と一致した上に、日本国内の放射線医学者たちともコンセンサスであると(これは武田  氏に対する皮肉です。副島氏によれば、国内の放射線医学者たちは異口同音に、100ミリシーベルトまでは大丈夫と言っている、とのこと  ―引用者注)。1000人につきたったの1人ですよ。今でもがんで死ぬ人は3割くらいで、若い癌患者もいますから、日本人の3人に1人は今  でもがんで死んでいるんですよ。これは小さい数字であるから、原発の地元の人たちは避難所にいて本当に大変なんです。かわいそうだか  ら、あなたの基準を緩めてくれませんかって、副島隆彦がね、武田邦彦氏にお願いしたいんですよ。あなたが「年間1ミリシーベルト以上の  場所からは避難しなければいけない」と厳しいことを言うとね、生きていけなくなるんですよ。住人たちが現実的に生きていけなくなる。  地獄を味わっているんです。たった1000人に1人の5年後のがんの発生率なんだったら、笑い話なんですよ。

  (中略)武田さんね、武田さんだってね、僕がさっき話したように、昔は会社員、勤め人だったでしょう。職業っていうのはね、どんなに  嫌な目にあっても何があってもそこで我慢して働くことなんです。それで生きてようやく人間はご飯食べてるんですよ、ほとんどの人は。

武 それは、子どもが――。

副 小さい子どもがいても。病気になるとしても、ですよ。


ここで副島氏が言っているのは、次のようなことです。すなわち「武田さん、あなたは科学者としての良心から、ICRPのLNT仮説、つまり微量の放射線量でも健康には害を及ぼすので基準線量は少ないほどよいから年間1ミリシーベルトにすべきであるという考え方を固辞しようとしているが、そのことで得られる社会的なメリットは、例えば年間20ミリシーベルトと比べると、計算上1000人当たり1人-0.05人=0.95人の癌の発生率の低下が得られるに過ぎない。しかも、それは5年後のことにすぎない。さらには、その数値は、科学的に正しいと実証されていないし、科学者の間で異論が多い仮説が正しいものとしたうえでのことなのだ。それに対して、その厳しい基準のせいで、逃げ場のない福島県の住民たちは、避難生活を余儀なくされたり、生業を失ったり、生きる希望を失ったり、といったさまざまな形で追い詰められて、耐え難い思いに心身ともに苛まれている。あるかないかはっきりしないメリットのために、あなたは、彼らに、これだけの生々しいデメリットをすべて我慢しろというのか」と。

これは、私としては熟考に値するとても重要な視点というよりほかはありません。この視点から、次のようなことが導き出せるのではないでしょうか。すなわち、科学的な真理ではなく科学者の合意によって是とされたLNT仮説は、基本的に社会的な影響を勘案した功利主義の観点から、その都度そのメリットとデメリットを冷静に検討して慎重に取り扱われるべきであるという結論が得られるのではないでしょうか。その仮説の固辞が、人びとの放射能に対する恐怖心を煽り立てるものにほかならなかったり、社会的な弱者を追い詰める働きをしてたりする局面においては、そういう振る舞いは差し控えるべきであるというよりほかはないのではありませんか。

*対談のなかで一つ、数値の整合性という点で問題があるので、申し上げておきます。年間1ミリシーベルトを20ミリシーベルトに上げるうえでの「条件」のところでは、「がんの発生率が1000人に1人から20倍の1000人に20人、つまり100人に2人になる」と言っていたのに対して、ここでは「年間20ミリシーベルトに上げると、がんの発生率は、1000人に1人になる」となっています。どちらが正しいのか、いろいろと調べてみたところ「年間20ミリシーベルトで、がんの発生率が1000人に1人になる」の方が正しいようです。白熱した対談のなかで混乱が生じたのでしょう。また、緊急出版なので関係者がみな見逃してしまったのではないでしょうか。

ふたりの話は、そこで終わりません。(この稿、続く)


〔付記〕最近、当原発事故シリーズのトラック・バック欄に、大量の意味不明のURLがリンクされるようになりました。これまではまったくなかった珍現象です。もしも、脱原発派の方が、私の論考が気に入らなくて、嫌がらせのつもりでやっているのなら、そういう馬鹿なことはせずに、コメント欄にきちんと反論をしていただきたい。ただし、私は、脱原発運動を批判するために当シリーズを続けているのではない。あくまでも、タイトルにあるとおり、福島県民が、復旧・復興にその持てるエネルギーを心おきなく傾注できるようになるための本当の条件・土台を探り当てるために書き続けています。とはいうものの、それを探り当てる過程において、脱原発運動が価値のないものであることは、自ずと明らかになると考えてはいます
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