美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

マレーシアのマハティール元首相、TPPを駁す  (イザ!ブログ 2013・8・28 掲載)

2013年12月19日 23時37分43秒 | 経済
マレーシアのマハティール元首相、TPPを駁す

私は、このブログを立ち上げたときから、一貫して、TPP反対の論陣を張り続けてきました。いまでも、その姿勢に変わりはありません。

これまでに何度か申し上げたことですが、TPP問題は自由貿易推進が是か非かという経済問題ではなく、その本質は、国家主権の独立性を守るのが是か非かという政治問題なのです。さらに言葉を継ぐならば、自由貿易それ自体が、覇権国家にとっては常に絶対善ですが、その他の国々にとっては、常にそうとは限りません。大学の経済学の教科書レベルの青臭い議論に、私たちは惑わされることなく、社会人としての常識を働かせようではありませんか。TPP問題をめぐって、自由貿易推進の立場からそれを是とする者は、たとえ彼がどんなに年を食った経済の専門家であろうと、所詮は、その精神において、しょんべん臭い青二才であると断じることを躊躇するには及ばないと、私は考えます。

ちなみに、自由貿易を擁護する立場の経済学者スティグリッツでさえ、「TPPは危険である」ameblo.jp/minna4970/entry-11553373414.htmlという旨の発言をしています。彼は、「TPPは、『自由』な貿易協定ではない」とも言っています。「自由貿易を推進するTPPに、日本は加盟すべきである」という、おもにオタク系の若手のエコノミストの主張に、われわれは眉に唾をして耳を傾ける必要があります。彼らの専門知に対して、私は「経済学の知見は、現実をよく見るための道具に過ぎない」という健全な感覚を対置させたいと考えます。現実がゆがんで見えるようなら、そんな使えない道具はいつでも潔く捨て去る勇気が必要であると、私は考えるのです。直感的に言えば、経済学者の言うことって、なんだかエラそうでうっとうしいことって多いですよね。あくまでも、人々の物質的な意味での幸福のより良き実現のために、経済学の知見は存在するのです。そのことに対して、専門家はあくまでも謙虚であらねばならないのではないでしょうか。

論証抜きに申し上げておきますが、アベノミクスの第三の矢の核心は、規制改革であります。ここで、規制改革とは、自由貿易の用語に直せば「非関税障壁の撤廃」です。そうして、それを今のところ日本に関わるところで最も推進しようとしているのは、TPPであります。TPP加盟諸国は、果敢な規制撤廃を余儀なくされることになるのです(「平蔵」派が、TPP加盟に躍起になるはずです)。

つまり、アベノミクス「第三の矢」の「成長戦略」の肝(きも)は、TPP参加による劇的な規制緩和の推進なのです。安倍内閣は、どうやら最初からそう考えていたようなのです。もしかしたら、民主党政権に続いて、私は、安倍内閣にも、またもや騙されてしまったのかもしれないと、煮え湯を飲んでしまった思いがし始めています(いま繰り広げられている消費増税・政治ショーの空騒ぎを見ても、そう思ってしまいます。消費増税賛成派の議論は、すべてすでに反対派によって論破され尽くしたものなのですから)。むろん、それが私の思い過ごしにすぎないことを祈る気持ちは、いまでも持ち合わせていますけれど。それと同時に、安倍内閣は、その支持基盤としての景気回復基調を台無しにしてしまっても平気なのかと、いぶかしく思う気持ちも湧いてきます。権力の伏魔殿は、やはり常人には推し量りがたい、摩訶不思議な別世界なのでしょうかね。

TPP参加が、なにゆえ景気回復基調を台無しにしてしまうのか。TPPは経済的に見れば規制緩和の劇的な推進を意味します。そうして、規制緩和の劇的な推進は、経済諸領域での競争の激化をもたらします(そのことで、供給能力の向上を図ろうとするのが、サプライサイド経済学の眼目なのですね)。ここで競争の激化は、価格の下方圧力を生じます。つまり、デフレからの脱却の途上にある経済状況に対して、規制緩和の劇的な推進はマイナスに働いてしまうことになるのです。だから、純粋に経済的に考えてみたとしても、TPP参加や消費増税の是非は、日本経済が、日銀の目標とする2%インフレを達成した後の主題である、と申し上げるよりほかはありません。いま、それらを問うのは、拙速に過ぎる。また、それらをこのタイミングで推進し断行しようとするのは暴挙にほかなりません。「それでは、バスに乗り遅れてしまうではないか」と問われれば、私は「そんな地獄行きのバスになんか、乗り遅れてしまった方が良いに決まっているよ」と応えたいと思います。さらに、「それでは、日本国債に対する国際的な信認を失って、金利が暴騰し、国家財政が破綻してしまうではないか」と問われれば、私は「それは杞憂にすぎない。なぜなら、内国債が国家財政を破綻に追い込んだ事例は歴史的に皆無であるし、それが生じる可能性は理論的にもありえない」と応えたいと思います。

話を元に戻しましょう。では、TPPの正体は何なのか。端的に言えば、それは貿易協定の名を借りて〈米国ウォール街金融資本を筆頭とするグローバル企業が、諸国家の主権という名の非関税障壁を撤廃することで、あくなき利潤追求の貫徹を実現すること〉です。そのことが露呈されないように、TPPは秘密交渉の原則が厳重に守られているのです。諸国民が、グローバル企業による自国内での円滑な営利活動を実現するために、自分たちの命や生活を守ることを犠牲にして、ノーガードになることを黙って受け入れるはずがありませんものね。事の真相が分かれば、怒りの声を上げるに決まっています。TPPを推進したい勢力にとって、「それでは困る」というわけです。(mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3142374/ )私が、TPP問題は経済問題というよりむしろ政治問題である、と主張する所以(ゆえん)です。センシティヴ五品目の聖域を守れればそれでOKなどという甘っちょろいお話ではないのです(もっとも交渉担当者たちは、その五品目の関税でさえも、いろいろと弁解がましいことを言って、死守する気などまったくなさそうですけれどhttp://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130829-00040879-diamond-nb)。

それゆえTPPとは、言葉を換えれば、近代世界が達成した国家主権の確立による民主主義の実質的展開の実現という歴史的な成果に、真正面から打撃を与えようとする由々しき毒性条項である、というのが、私の当初からの見立てでしたし、それに変更を加えるべき、決定的な資料・情報を、残念ながら、いまに至るまで得ることができていない、というのが現状です。TPPは、近代が成し遂げたなけなしの成果に脅威を与えるとんでもないものなのです。マスコミのミスリードによって、そのことが日本国民に常識として周知されていないことは返す返すも残念です。この歴史的な空前の事態に臨んで、イデオロギー上の立場のちまちました違いになおもこだわるのは、私からすれば馬鹿げているように思われます。いまこそ心ある知識人は、自分たちの言論の生き生きとした取り交わしを可能とする健全な国民的基盤を保持するために、一致結束すべきであると、私は考えています。君たちはお利口さんのつもりなのだろう?だったら、早く目を覚ましなよ、と言いたいのですね。それ抜きに、一般国民の覚醒はおぼつかないことでしょう。

そのような認識を抱き続けている私にとって、以下に掲げる、マレーシア元首相マハティールのコメントは、日本にとっても傾聴すべきものが少なからずあるものと思われます。つまり、彼が抱いている、マレーシアがTPP参加によってアメリカの植民地になってしまうという危機感は、ちょっと言葉を変えれば、日本人としての私のものでもある、ということです。それが、あなたのものでもあってほしい、という願いをこめて以下に掲げます。

NHKニュースWEB マレーシア元首相 TPPは再び植民地化招く
8月27日 4時32分

TPP=環太平洋パートナーシップ協定を巡り、マレーシアのマハティール元首相は、「TPPに署名すれば、外国の干渉なしでは国家としての決定ができなくなり、再び植民地化を招くようなものだ」と述べ、TPPに強く反対する考えを示しました。

2003年まで22年間、マレーシアの首相を務めたマハティール元首相は、26日に首都クアラルンプールで開かれたTPPに関するフォーラムで講演を行いました。

この中でマハティール氏は、TPPではマレーシアよりもアメリカのほうがはるかに多くの恩恵を受けるとしたうえで、「TPPは、経済成長を続ける中国の脅威に対抗するため、アジア太平洋地域の国々を自国の勢力圏に取り込もうとするアメリカの企てにすぎない」と厳しく指摘しました。

そのうえで、マハティール氏は、「もしマレーシアがTPPに署名すれば、外国の干渉なしでは国家としての決定ができなくなり、再び植民地化を招くようなものだ」と述べて、TPPに強く反対する考えを示しました。

マレーシアは2010年10月にTPP交渉に参加しましたが、このところ国内では、国有企業の優遇措置の是正や製薬の特許延長などの交渉分野を巡ってTPPへの反発が強まっていて、政界引退後も強い影響力を持つマハティール氏の発言はこうした世論にも少なからぬ影響を及ぼしそうです。
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 『ひこうき雲』カヴァー・ベスト3 (イザ!ブログ 2013・8・27 掲載)

2013年12月19日 23時30分03秒 | 音楽
『ひこうき雲』カヴァー・ベスト3

先日、109シネマズ港北で宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観ました。正直に申し上げると、一緒に観た年配の友人とともに、私はこの映画にすっかり「ヤラレて」しまったのです。図らずも、深く感動してしまったのですね。「図らずも」と申し上げましたが、もとよりアニメ映画を馬鹿にしているわけではありません。というよりむしろ、宮崎映画をリスペクトする気持ちにおいて人後に落ちないつもりではありました。しかしながら、アニメ映画の描写のディテールのあれこれがこちらの心の襞に知らぬ間に静かに入りこんできて、見終わった後、ふたりでそのあれこれを語り合っているうちに、それがじわじわと効いてきて、ふたりともに涙が滲んでくる経験をするとは思ってもいなかったのでした。所を代えて酒を酌み交わしながら、その日は、心ゆくまでこの作品について語り合いました。アニメ映画というよりは、久々に良い日本映画を観たという感慨に、その夜の私は心ゆくまで酔いしれました。小津安二郎や成瀬巳喜男のDNAは、宮崎駿によってひそやかにきちんと受け継がれていたのです。

そういう経緯があったので、この作品について、いろいろと申し上げたいことがないわけではありません。しかし、今の私には、いささか準備不足のところがある。それがどうも気になる。率直に申し上げれば、私は、これまでまともに堀辰雄の作品を読んだことがないのです。当映画に関係のあるところでは、『風立ちぬ』や『菜穂子』を読んでいません。「映画と原作とは異なるので、いくらでも映画について語ることができるだろう」とは、確かに正論であり、常日頃、自分自身がそう主張してさえいます。

しかしながら、今回は、そのことが気になって仕方がない。つまり、こういうことです。これまでの私は、堀辰雄の文学に対して偏見と言っても過言ではないものを持っていました。どこか軽んじるところがあったのです。だから、まともに読もうとしなかったのでしょう。しかるに、宮崎駿の当映画は、その偏見の変更を迫るところがあるように感じるのです。堀辰雄の文学をもう少しちゃんと評価せよ、と。その無言の要求に自分なりに応じてからではないと、当映画を論じるときに、なんとなく居心地が悪い思いをするのが、自分には分かるのです。

だから、当映画を論じることはとりあえずお預けにしておきましょう。

それで、というわけではないのですが、今回は当映画のエンディング曲として使われた、荒井由美の『ひこうき雲』にまつわる話をしてみようと思います。

『ひこうき雲』は、この映画のなかで実に効果的な使われ方をしています。インターネットのコメントの中には、当曲がいちばん印象に残ったというものも少なからずあるくらいです。私は、そこまで極端な感想を述べるつもりはありませんが、印象に残ったのは確かです。1973年に作られたそうですが、私は今回はじめてこの曲の存在を知りました。一緒に映画を観た友人は、以前からこの曲を知っていて、「荒井(松任谷)由美の曲のなかで、これがいちばんいいんじゃないか。自分は、若い頃からこれがとても好きだった」と言っています。なるほど、名曲の名に恥じぬ出来栄えです。

ところが、という話になります。たまたまyou tube で熟年に達してからの松任谷由美がこの曲を歌っているのを聴いたのですが、はっきり言って、全然ダメなのです。この曲の命にあたるものが、きれいさっぱり「蒸散」してしまっているのですね。本人が若い頃に作った歌でありながら、後年の彼女はもはやその歌の命を掬い取ることがかなわなくなってしまっている。私は、そこに歌なるものの難しさと恐ろしさとを感じます。

この曲の命とは何か。それは、「本当に美しいものを目がけて、真っ直ぐに視線を上げ、手を差し伸べてできうることならばそれに触れようとして、ついには命を失うに至った者の魂の、痛々しいまでのみずみずしさへの心からの憧れ」です。その感情を、若い頃の荒井由美は見事に表現できたのですが、後年の松任谷由美はもはや表現できなくなってしまったのです。私は、そのことで歌手としての彼女を貶めようとは思っていません。それは、自然現象のようなもので致し方のないことだからです。

では、この曲の命を表現できるほかの歌い手はいないのか。そう考えて、私はyou tube の〈『ひこうき雲』をめぐる小さな旅〉に出かけてみたのです。その結果を以下に発表します。題して、〈『ひこうき雲』カヴァー・ベスト3〉。選にもれた歌い手を挙げておきましょう。柴田淳、松浦亜弥、aiko、miwa、スーザン・ボイル、A.S.A.Pの7名(グループ)です。優秀な歌い手たちとの「激戦」を勝ち残った三名を順に紹介しましょう(私の選定に不服のある方もおありでしょうが、自分の感性にウソをつくわけにはいかないので、ご了承ください)。

第三位:長谷川きよし

いまの長谷川きよしがどうなっているのか、私はまったく知りません。若い頃の彼の歌声は、本当に魅力的でした。情感と知性とが絶妙のバランスを保っているような印象があるのですね。長谷川きよしは、当曲の命を損なうことなく、しかも彼一流の解釈で見事に歌い切っています。


ひこうき雲 長谷川きよし


第二位:小谷(おだに)美沙子

私は、今回はじめて彼女の名前を知りました。彼女は、当曲の命を彼女のピュアで内に激情を秘めた一級のセンスで掬い取り、守りきっています。ほかのメンバーも、彼女の気持ちをきちんと理解して、息の合った素晴らしいパーフォマンスを繰り広げています。彼らは、良い意味で、若さの特権を活かしきっているように感じます。ヴォーカルを含めた彼らの表現ぶりには、若い頃特有の切羽詰ったものを生々しく喚起させるものがあるのです(「そのころに君は戻れるよ」と言われたら、私は絶対に嫌ですけれど)。

odani misako・ta-ta - ひこうき雲


第一位:小柳淳子

彼女の名も、今回はじめて知りました。おそらく、知る人ぞ知るという存在のジャズ・シンガーなのでしょう。すれっからし風の、ふざけ半分でくだけた態度の陰にひっそりと真摯でピュアな感性を忍ばせた、とても魅力的な味わい深いヴォーカリストです。おそらく羞恥心の強い女性なのでしょう。この魅力は、申し訳ありませんが、若い人には分からないのではないかと思います。私は、この陰影深い歌いっぷりに心底しびれました。一度、行けるものなら彼女のライヴに行ってみたいものです。村山義光というギタリストのパーフォーマンスも本格派特有の卓越した技術とセンスを感じさせます。この方もおそらく知る人ぞ知るという大変なジャズ・ギタリストなのでしょう。実力派のふたりが、この曲の命を表現できるのは若い人だけだ、という「偏見」を見事に打ち砕いてくれました。

"ひこうき雲" 演奏 "小柳淳子"
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 徳田秋声『あらくれ』(講談社文芸文庫)について (イザ!ブログ 2013・5・22 掲載)

2013年12月19日 16時42分48秒 | 文学


最近ある読書会で、徳田秋声の『あらくれ』を扱った。その報告を兼ねて、当作品を論じてみたい。だから当論には、読書会に参加した方々のもろもとの意見や見識が織り込まれていることをあらかじめお断りしておきたい。ただし、文責がすべて私に存することはいうまでもない。

以下を読んで、みなさんに、『あらくれ』を読む楽しみが増えた、あるいは、読んだことはあるがかくかくしかじかのことは気づかなかった、と思っていただければ、これに勝る喜びはない。


その1 『あらくれ』の概要

『あらくれ』は、1915年(大正四年)の一月から七月まで「読売新聞」に連載された。また、単行本として年内に新潮社から刊行されている。秋声、四五歳のときである。新聞連載後すぐに単行本になったくらいだから、連載中はおおむね好評だったのだろう。むろん、秋声はいわゆる流行作家の部類に入る人ではない。

作品世界の時代背景について触れよう。六三節の「その頃初(ママ)まった外国との戦争」という文言が日露戦争を指しているものと思われることや、九二節の「そのころ開かれてあった博覧会」が、一九〇七年(明治四〇年)の東京勧業博覧会を指しているものと思われることなどから、当作品は、おおよそ一九〇〇年(明治三三年)から一九一〇~十一年(明治四三~四四年)まで、主人公のお島の年齢で言えば一八歳から二九~三〇歳までの一〇年間ほどを扱っている。

教科書的な言い方になるが、日本資本主義は、一八九四年の日清戦争の前後に第一次産業革命を成し遂げて軽工業部門を充実させ、十九〇四年の日露戦争の前後に第二次産業革命を成し遂げて重工業部門を充実させた。北九州市の八幡製鉄所が操業し始めたのが一九〇二年である。また日本は、日露戦争ではじめて近代総力戦なるものを経験している。

このことを勘案するならば、お島は、日本が本格的に近代化の道を歩みはじめる真っ只中を体ごとでがむしゃらに駆け抜けたことになる。お島がそのことを意識していないのは確かであるが、そのことがお島の有為転変に深い影を落としているのもこれまた確かなことなのである。時代は、すなわち、歴史は、お島の身振りの隅々にまでその振動を伝えているのである。それを軽く見積もって、解説文(大杉重男)中にあるように、「この小説は、しかし決して一人の女性の『歴史』ではなく、むしろ『歴史』への抵抗の荒々しいドキュメントである」などと蓮實重彦的な小さな知識人村のなかで自己満足的に言挙げするのは間違っている。つまらないことでもある。幼稚であるとさえ言えよう。なぜなら、当時の人々は、上記の時代の振動を当然のこととして感じ取りながら、この作品を読んだはずであるからだ。また、その振動を我が事として感じ取ることができなくなった私たちが、それをいささかなりとも感じ取ることができる隘路を見つけ出すことは、「読む」という営為に自ずと織り込まれることになるからだ。それを言葉の上でだけ拒否してみても何の意味もない。当たり前のことである。


その2 登場人物

お島〕主人公。実母から「暴(あら)い怒と惨酷な折檻」を受け続け、「昔気質の律儀な」父の計らいで七つの年に養父母のところに貰われてくる。良く言えばなにがあっても屈せずへこたれない性格、悪く言えばあまり深く物事を考えようとしない直情径行タイプ。また、良く言えば気前が良い、悪く言えば見栄っ張りで浪費癖がある。男勝りで荒い気性。情は深い。

○父母たち:過酷な現実をお島に思い知らせる存在

養父母〕紙漉き業を営んでほそぼそと暮らしていたが、ひとりの六部(巡礼)を泊めたことで大金を手にしてからは、にわかに身代が太り、地所などをどんどん買い入れるようになった。そのきっかけを養父母は、牧歌的な報恩譚として語るが、お島は、学校の友人たちなどから、養父母家に泊まった六部はその晩急病のために落命し、その懐に入っていた財布に大量の小判があったのを養父母が盗んだにちがいないと聞いた。お島は、そのことが気にかかってしかたがなくなる。養父の名は作中で記されていないが、養母の名は、「おとら」である。養父母は、お島の手に財産が渡らないように策謀をめぐらす。お島はそのことを後に知る。

実父母〕王子界隈で植木屋を営む。昔は庄屋で、その頃も界隈の人たちから尊敬されていた。祖父は、将軍家の出遊のおりの休憩所として広々とした庭を献納した。お島の実母は、父の二度目の妻で、近辺の安料理屋にいた賎しい出である。実父母の名は作中で記されていない。実母は、幼いお島の小さい手に焼火箸を押しつけたりして、彼女を虐待し続けた。実父は、そのことを思い悩み、お島の遣(やり)場に困ること、たびたびであった。そのことを物語る印象的な場面を引用しておこう。

お島は爾(その)とき、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久の渡あたりでもあったろうか。のんどりした暗碧(ぺき)なその水の面(おも)には、まだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕いでゆく淋しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋(すが)っているのであった。

場所の説明をしておくと、文中の「尾久の渡」は「小台の渡し」とも呼ばれ、江戸時代から江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。隅田川(荒川)をはさんで、北岸はいまの足立区小台2丁目、南岸は荒川区西尾久3丁目である。大江戸の北限の一環をなしていたと言っていいだろう。お島は、そういう場所で幼少期を過ごしたことになる。

さて、引用のなかで分かりにくいのは、「お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて」の箇所だろう。「畏怖」については、次の引用で明らかになる。そのうえで「安易」についても述べよう。

その時お島の父親は、どういう心算(つもり)で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素(もと)より解らない。或は渡しを向こうへ渡って、そこで知合の家(うち)を尋ねてお島の躰の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或可恐(あるおそろ)しい惨忍な思着(おもいつき)が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯えた。父親の顔には悔恨と懊悩の色が現われていた。

水を見ている父親の暗い顔の底に潜んでいる「或可恐(あるおそろ)しい惨忍な思着(おもいつき)」とは、文中にはっきりと書き記されてはいないが、お島を水に沈めて殺してしまうことである。とはいうものの、ここでの秋声の書きぶりは微妙である。要するに、次のようなことなのではなかろうか。実母から虐待を受け続けている幼いお島は、父親に無条件ですがりつくよりほかにない。父親としては、そういう娘を愛おしく思う気持ちがないわけではないのだが、その脳裏には、賎しい身分の妻との一時の感情に任せただけの安易な再婚を悔いる気持ちや、妻とお島との諍いに疲れ果てて一時的に思考力を低下させた状態で「この子さえいなければ」という漠然とした感情がうっすらと漂っていたのではなかろうか。その様子に、父親に頼り切ったお島は、幼い自分にとってその存在理由など到底推し量ることなどかなわない大人のひんやりとした世界の殺伐としたものを鋭敏に感じ取ったのではないだろうか。それゆえ、お島は「怯え」「畏怖」を感じたのだろう。

とはいうものの、それだけであれば、お島はこの体験をいわゆるトラウマとして受けとめざるをえなくなる。それは、生きるエネルギーの致命的な毀損、さらには、極端な場合、精神的な死を刻印されざるをえなくなる。それを本能的に避けようとして、お島は、「畏怖」と同時に「安易」にもうたれるほかはなかった。つまり「安易」は、お島の生きようとする意欲を象徴していると言っていいだろう。幼い子どもの心のなかで、実はそういう激しいドラマが演じられる場合があることが、「一種の畏怖と安易」という一見なにげない、しかし腑に落ち難い言葉の並列から汲み取ることができる。

登場人物の説明に要求される簡潔さを犠牲にして長々と引用し、それらに対する自分の見解をも述べたのには、じつは理由があるのだが、それについては後ほど触れる。では、登場人物の説明を続けよう。

植源(うえげん)の隠居〕父の仲間うち。奉公人の扱いが酷。お島の嫁入り先の世話をする。

小野田(後出)の父〕お島の三番目の夫の父。田舎で一人暮らしをしている。家や田畑が人手に渡って零落し、みすぼらしい姿で土いじりをする日々を過ごしている。「お島は慄然(ぞっ)とするほど厭であった」。夫婦で面倒を見ることになる。

○男たち・・・田舎臭くて野暮な「作」と「小野田」は、お島の好みではなく、色白で洗練された「鶴さん」や「浜屋」が彼女の好み。しかし人生は、彼女の好み通りにはなかなかならない。

作(作太郎〕お島の養父の兄であるやくざ者と、旅芸人との間にできた子ども。養父母にずっとこき使われてきた。「お島からは豚か何ぞのように忌嫌われた」。養父母の策略で、お島の戸籍上の最初の夫となる。

鶴さん〕植源の隠居の世話で、お島が嫁ぐ。お島より十歳ほど年上。植源の隠居の生まれ故郷の出で、若いころから実直に働き、神田で缶詰屋を営む。「色白で目鼻立ちのやさしい」鶴さんは、浮気でお島を困らせ、お島は嫉妬に悩み抜く。

浜屋〕お島が鶴さんと別れた後、商売をしていた兄が仕事の手助けとして彼女を連れていった山国のS町にある旅館の主人。旅館の屋号がそのまま主人の名前として作中で使われている。妻帯者であるが、お島と恋仲になる。「色の白い面長な優男(やさおとこ)」で「大い声では物も言わないような、温順(おとな)しい男」である。その妻は、肺病のため生家に帰されている。

小野田〕父親の従姉にあたる伯母の下谷の家に出入りしていた裁縫師。お島は彼と洋服屋を始め、所帯を持つ。愛情ではなく主に実利的なつながりで夫婦になった。小野田の過剰な性欲に困り果てる。

○女たち・・・旧社会の犠牲者として描かれている

おゆう〕植源の隠居の息子房吉の嫁。昔からずっと鶴さんに惚れている。結局、鶴さんへの事実上の「心中立」をすることになる。

狂女〕小野田の昔からの女。夫はいるが、小野田との関係はずっと続き、その浮気現場をお島に押さえられて、精神に変調をきたすようになる。


その3 作中におけるお島の身の振り方の軌跡

*年号との対応関係は推定の域を出ないが、せいぜい1年ほどの誤差である。その推定の根拠を示すのは、煩雑に過ぎるので、省略する。不明な点があれば、遠慮なく言っていただけたなら幸いである。

☆1900年(明治三三年);一八歳。作との婚礼話が耳に入る。「私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です。」

☆同年秋;養父母やその関係者たちの策謀によって作との祝言をあげさせられたお島は養家を飛び出す。「ふん、御父さんや御母さんに、私のことなんか解るものですか。彼奴等(あいつら)は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ。」

☆1901年(明治三四年)春;一九歳。植源の隠居の世話で、神田の缶詰屋の鶴さんに嫁ぐ。鶴さんの激しい女性関係のせいで夫婦仲はうまくいかない。「どうせ長持のしない身上(すぐに離婚するという意味―引用者注)だもの。今のうち好きなこと(贅沢なおしゃれー引用者注)をしておいた方が、此方の得さ。あの人だって、私に隠して勝手な真似をしているんじゃないか。」

☆1902年(明治三五年)夏の末;二〇歳。鶴さんとの一年足らずの結婚生活の後、植源に居候をしていたお島は、兄の壮太郎に連れられて山国のS町に行く。そこで浜屋と恋仲になる。「他人のなかに育って来たお蔭で、誰にも痒いところへ手の達(とど)くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の背を、昨夜も流してやったことが憶出された。然うした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、弾返すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。『鶴さんで懲々している!』お島はその時も、溺れてゆく自分の成行に不安を感じた。」

☆1903年(明治三六年)五月末;二一歳。浜屋の生家や近所への聞こえを憚って、浜屋と縁続きの山の温泉宿へ移される。そこへ、噂を聞きつけた実父が彼女を引取りに来た。「『帰ってみて、もし行くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ。』浜屋は切符を渡すとき、お島に私語(ささや)いた。」

お島と浜屋とのつながりは、その後浜屋が死ぬときまで細く長く続く。

☆同年、盆過ぎ。東京下谷で独り身で暮らしている、父方の伯母のところに身を預ける。そこで伯母の裁縫の手伝いをするようになる。

☆1904年(明治三七年)二月;二二歳。「時にはお島の坐っている裁物板の側への来て、寝そべって笑談(じょうだん)を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始(ママ)めて自分自身の心と力を打籠めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初(ママ)まった外国との戦争が、忙しい其等の人々の手に、色々の仕事を供給している最中であった。自分の仕事に思うさま働いてみたい―――奴隷のような是迄の境界(きょうがい)に、盲動と屈従とを強いられて来た彼女の心に、然うした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。」

いささか脱線をする。ここは、この小説にとって、極めて重要な局面である。実父母や養父母やその関係者によって、過酷な運命を強いられてきたお島が、力強く社会的な自立を果たそうとするきかっけを具体的な職業に見出しているのである。

このくだりで連想するのは、やや飛躍するようであるが、石光真清著(石光真人編集)『石光真清の手記三 望郷の歌』(中公文庫)に登場する軍人・本郷源三郎である。彼は、貧農の出であるが、地元の人々の援助を得て、陸軍幼年学校から士官学校へと進み、若くして将校となった人である。彼は、昔ならそのようなことが決してありえなかったことをよく分かっている人であった。それゆえ、そのような幸運を自分にもたらしてくれた明治という時代への心からの感謝の念を主人公の真清の目の前で率直に表明し、満足の笑みを絶やすことなく日露戦争の激闘のなかで軍人らしい死を従容として迎えた。

お島に、源三郎のような国家への忠誠心が欠落しているのはいうまでもない。そういう意味では、お島と源三郎とは違う。しかしながら、日露戦争という日本史上初の近代的な総力戦によってもたらされた国民的な熱気が、そういう違った人物において違った現れ方をした、という言い方はできるような気がする。また、それは、生まれ落ちた環境がたとえどんなに不利なものであろうと、当人の頑張り如何でどうにかなるというオプティミズムが、この国民戦争によって本格的に市井人にもたらされた、と言いかえても良いように思う。そのような時代の気風の変化の刻印を、お島の自立心の芽生えに見出すのは、さほどの難事ではないように思われる。先ほど述べたことを繰り返そう。時代は、すなわち、歴史は、お島の身振りの隅々にまでその振動を伝えているのである。脱線は、以上である。

☆1904年、年末;日露戦争で消費される柿色の防寒外套を作る仕事を請け負っている小野田の雇われ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚え、また、自分に営業能力があることを自覚する。やがて、芝で小野田と店を出し、人を雇い入れるようになる。

☆1905年(明治三八年)冬の初め;二三歳。戦争景気が終わり、経営の行き詰った芝の店を引き払って、月島に移る。苦しい経営状態が続く。性の不一致に起因する諍いが小野田との間で絶えない。苦し紛れに買ったねずみ講のようなものが当たり、かろうじて年を越すことができた。それで、しばし小野田と和解をする。

☆1906年(明治三九年)三月;二四歳。経営難で万策が尽き、月島の店を引き払い、小野田の故郷に近いNというかなり繁華な都会に半年ほど住む。小野田の妹の家の二階で寝泊りをする。律儀な暮らしぶりに慣れた地方都市の気風にお島はついになじむことができなかった。

☆同年九月頃;着の身着のままで東京に舞い戻った二人は、築地の川西(小野田の昔の雇い主か?)の洋服店に夫婦住み込みとなる。川西がお島に性的関係を迫ったのをお島が拒絶したのが原因で店を出る。愛宕(現港区)の印判屋の奥の三畳一室を借りる。そこに注文したミシンを置いて仕事を始める。仕事はそれなりに順調な滑り出しだったが、性の不一致によるお島の苦痛は続く。

☆1907年(明治四〇年)三月~七月の間;二五歳。根津に引越し、やっと落ち着いた暮らしができるようになる。上野で催されている東京勧業博覧会のおかげで、根津も結構な賑わいを見せていた。そこに、小野田の父が住み着くようになり、また、お島が1902年当時お世話になった山国S町の人々を呼び寄せたりした。そこにはこなかったが、浜屋ともたびたび顔を合わせた。

*「『それは東京にも滅多にないような好い男よ。』お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の赤くなるのを禁じ得なかった。」という描写などから察するに、お島が心底惚れ抜いた男は浜屋である。

☆1909~10年(明治四二~四三年);二七~八歳。本郷に店を持つ。洋風の本格的な洋服屋。お島は、洋服を着て自転車に乗り仕事を取るようになる。当時としては珍しいこと。

☆1910~11年(明治四三~四四年)初夏;二八~九歳。浜屋に会いに山国に行くが、浜屋はすでに死んでいた。そのまま家には戻らずに、遠い山のなかの温泉場に数日間逗留する。そこに、目をかけている職人を二人呼び寄せて、「事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁をやってもらって、独立(ひとりだち)でやるかも知れないよ。」と告げる。

*なにがあろうとへこたれてしまわずに、ひたすら前向きに生きようとするお島の姿が浮かび上がってくるだろう。それを、秋声は、変に大げさに称揚したりしないで、彼女の性格的な欠点もしっかりと見据えながら、描き出している。人間的な欠陥を抱えながらも、お島の言動には真実味があり、そこに読み手は美しさを感じることになる。


その4 夏目漱石の『あらくれ』評 「徳田氏の作物には、フイロソフイーがない」

夏目漱石の『あらくれ』評が面白い。読書会参加者によれば、有名なのだそうだ。やや長くなるが、引用しよう。

『あらくれ』は何処をつかまへても嘘らしくない。此嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だらうと思ふが、世の中は苦しいとか、穢はしいとか―――穢はしいでは当らんまいかも知れない。女学生などの用ひる言葉に「随分ね」と云ふのがある。私はその言葉をここに借用するが、つまり世の中は随分なものだといふやうな意味で、何処から何処まで嘘がない。

尤(もっと)も他の意味で「まこと」の書いてあるのとは違ふ。従つて読んで了ふと、「御尤もです」というやうな言葉はすぐ出るが「お陰様で」と云ふ言葉は出ない。「お陰様で」と云ふ言葉は普通「お陰様で有りがたうございました」とか、「お陰様で利益を得ました」とか、「お陰様で面白うございました」とか云ふ場合に多く用ひられるやうである。私のここでいふ「お陰様で」も矢張り同じやうな意味であることは、断るまでもないであらう。(中略)

つまり徳田氏の作物は現実其儘(そのまま)を書いて居るが、其裏にフイロソフイーがない。尤も現実其物がフイロソフイーなら、それまでであるが、目の前に見せられた材料を圧搾する時は、かう云ふフイロソフイーになるといふ様な点は認める事が出来ぬ。フイロソフイーがあるとしても、それは極めて散漫である。然し私はフイロソフイーが無ければ小説ではないと云ふのではない。又徳田氏自身はさう云ふフイロソフイーを嫌って居るのかも知れないが、さう云ふアイデアが氏の作物には欠けて居る事は事実である。始めから或るアイデアがあつて、それに当て嵌めて行くやうな書き方では、不自然の物とならうが、事実其の儘を書いて、それが或るアイデアに自然に帰着して行くと云ふやうなものが、所謂深さのある作物であうと考へる。徳田氏にはこれがない。
        (「文壇のこのごろ」(大阪朝日新聞)大正四年十月十一日)


ここには、漱石と秋声の作家としての資質の違いがはっきりと出ているという意味で、とても興味深い。漱石が「フイロソフイー」と呼んだものを、秋声は、「理屈」あるいは「さかしら」として嫌うのではないかと私は感じる。その意味で、漱石の「徳田氏自身はさう云ふフイロソフイーを嫌って居る」という言葉は、正鵠を射たものである。

では、「理屈」や「さかしら」という意味ではない「フイロソフイー」が本当に『あらくれ』にないのかといえば、そんなことはない、というのが私の考えである。それは、上記の「その2 登場人物」で、「幼い子どもの心のなかで、実はそういう激しいドラマが演じられる場合があることが、『一種の畏怖と安易』という一見なにげない、しかし腑に落ち難い言葉の並列から汲み取ることができる」と述べたことを思い出していただければ、よく分かるのではないだろうか。つまり、秋声には人間がよく見えているのである。その曇りのない目に映ったものを「フイロソフイー」と呼ぶことを躊躇すべき理由が私には見つけられない。小説における「フイロソフイー」とはそういうものであって、それ以外のものではないと言っても過言ではないのだ。

このことは、読み手の存在を織り込むとよりはっきりとすると思われる。読み手が生の営みにおいてうすうす感じ取っていたものを、文字ではっきりと記されたとき、それを目にした読み手は「そのとおり」と腑に落ちて、心を動かされる。これが、小説を含む言語表現によってもたらされた感動なるものの基本イメージなのではなかろうか。この場合読み手は、書き手の「理屈」なり「観念」なりに心を動かされているのではなくて、書き手の、いわば目に映った人間の真実味に心を動かされるのである。

小説における「フイロソフイー」の意味の取り違えは、漱石の小説に一定の限界もしくは瑕疵を与えてしまっているように思われる。『行人』における過剰な論理癖が読み手にもたらす辟易感や『こころ』における「先生」の妻の心理への洞察の致命的な欠如などは、その端的な例である。そういう限界や瑕疵をまぬがれているのは、小説では『門』の前半部分、随筆では『夢十夜』あるいは『硝子戸の中』である、というのが私の見立てである。『道草』もそういう作品であると聞いているが、残念ながら未読である。

また、この両者の、リアリティをめぐる対立は、日本近代文学に底流するふたつの流れのそれを象徴しているとも言いうる。それは、坪内逍遥が『小説神髄』で述べた「おのれの意匠をもて、善悪正邪の情感をば作設くる事をなさず、只傍観してありのままに模写する心得にてあるべきなり」というリアリズム観と、二葉亭四迷が『小説総論』で述べた「模写といえることは実相(すなわち現象―引用者注)を借りて虚相(すなわち本質―引用者注)を写し出すことなり」というリアリズム観との対立として描くことができるだろう。単純に、逍遥は四迷によって乗り越えられたとするのは、その後の文学の流れを見誤ることにつながりかねないのである。


その5 秋声の風貌

読書会のメンバーのひとりが、巻末の写真をみながらつくづく「秋声の風貌は、よく分かっている人、できた人という感じだ」と感慨を漏らした。あまりにも当を得た意見だったので、なんだか、笑ってしまったほどだった。この小説を書く人は、こういう顔をしているはずというイメージにぴったりなのである。その写真そのものではないが、ひとつ参考までに掲げておこう。




〈コメント〉

☆Commented by miyazatotatsush さん
美津島明様

徳田秋声「あらくれ」論を拝読いたしました。
私も徳田秋声の小説はあまり(というかほとんど)読んでいないのですが、十数年前、偶然、彼の遺作の「縮図」を読み、いたく感動したことがあります。
この小説は秋声の死で、中途で終わっておりますが、主人公の初老の男(といっても、今なら七十代の感じ)と、元芸者で置屋の主人の女との、何気ない会話から、昔はねんごろだったふたりの、今は互いを労わる関係のなかから、過去の情景があわあわと甦るところに感動しました。
秋声の文体が「いぶし銀」と呼ばれるゆえんが解ったような気がしました。
ブログに掲げられた秋声の写真の寒々とした世界の孤高の姿からもそれが伝わりました。


☆Commented by 美津島明 さん
To miyazatotatsushさん

宮里さん、コメントをいただきましてどうもありがとうございます。『縮図』がいいのですね。今度、読んでみます。

若いころは、どうしても「スター」級の文学者にばかり目が向きがちです。むろん、私もそうでした。「スター」とは、もちろん漱石・鴎外・芥川・太宰・三島・大江・村上春樹たちのことです。「スター」たちには「スター」たちの良さがあります。花にたとえれば、真っ赤な薔薇や向日葵の艶やかさ・美しさが彼らにはあります。しかし、どう転んでも、彼らには、野に咲く花の素朴で地味な美しさを醸し出すことはかないません。別に、それを非難しているわけではないのですけれど。

個人的に、最近は、年を取ったせいか、艶やかで派手な花をみてもあまり感動しなくなりました。というか、ややうるさく感じるくらいです。むしろ、道ばたになにげなく咲いている花の美しさに心惹かれるものがあるのですね。「スター」ではない地味な文学者たちの良さが視野に入ってきたのも、要するに、そういう感受性の変化のせいなのかもしれませんね。

*****

徳田秋声『あらくれ』に出てくる魅力的な言葉について

『あらくれ』には、耳慣れぬ言葉が散見される。この作品が約一世紀前に書かれたものであることを考えれば、それは当然のことといえる。

しかしながら、その意味を分からずに読み飛ばしてしまうにはあまりも惜しいと感じるほどに、魅力を発散している言葉がたくさんあるのだ。当時の人々の生活感情がそこに織り込まれているような印象を受けるから、というのが主な原因であるような気がする。また、身体性を濃密に感じさせる言葉が少なくないのである。もともと私は、身体性の密度の高い言葉を好むところがあるのではあるが(たとえば、「見る」より「目にする」を好み、「読者」より「読み手」を好む)。

そういう言葉を、これからいくつか取り上げてみたいと思う。ちなみに、カッコ内のページは、講談社文芸文庫のそれである。

○のんどり(P9);「のんどりとした暗碧なその水の面(おも)には~」という使われ方をしている。のどかなさま、のんびりとしたさまの意。「今日一日、のんどりと過ごした。」などと言えば、それだけで肩の凝りがほぐれていくようだ。

○業つく張(P10);「この業つく張め」。実母がお島を罵倒する言葉である。昔の悪態語には、言われた方が心底堪える迫力がある。当作品には登場しないが、「このぼけ茄子が」なんてのも、生活感情がうかがえて、なかなか味がある。

○六部(P11);諸国の社寺を遍歴する巡礼。六十六部の略で、六十六部の法華経を一部ずつ霊地に納めることからその名がついた。後には、死後の冥福を祈るため、鉦(かね)や鈴を鳴らし、厨子(仏像や経巻を入れた両扉の箱)を負って家ごとに銭を乞い歩いた。私の興味・関心に引き寄せると、津軽三味線弾きの原型がこれである。その存在から、日本各地に「六部殺し(ろくぶごろし)」の民話・怪談が生まれた。ある農家が旅の六部を殺して金品を奪い、それを元手にして財を成したが、生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する、というものである。『あらくれ』は、「六部殺し」を部分的に下地にしている。

○いらいらしい(P16);「彼女のいらいらしい心」という使われ方をしている。昔は、「いらいら」が擬態語としてのみならず、形容詞の語幹の一部としても使われていたことが分かる。

○天刑病(P20);ハンセン氏病(らい病)。天の刑罰としての病ということであるから、差別感情が濃厚である。本文中でも「汚い天刑病者」という言い方をしている。

○疳症(P23);一般的にはちょっとした刺激にもすぐ怒る性質。激しやすい気質の意。ここでは、「一日取りちらかった其処らを疳症らしく取片着けたりしていた」という使われ方をしていることから見て、異常に潔癖な性質の意である。この派生的な意味では、昨今あまり使われなくなったのではないだろうか。

○ひきる(P27);蚕が繭をかける状態になること。元は甲州弁らしい。生糸業が衰退してしまった今日ではもはや死語(そうではない地域がまだあるとは思うが)。当作品では、「もうひきるばかりになっている蚕」という使われ方をしている。

○から薄ぼんやり(P30);うすのろであること。また、そのような人。意味は「薄ぼんやり」と同じなのだろうが、「から」=「空」がつくとその意味が強調され、強烈なインパクトが加味される。昔の人々は、悪態語の天才である。ここでは、「から薄ぼんやりなお花」という使われ方をしている。

○懲りずまに(P31);「ま」は、そのような状態であるの意を表す接尾語。前の失敗に、懲りもしないで。しょうこりもなく。とても便利でニュアンスに富んだ言い方のように感じるが、なぜかめったにお目にかからない。作中では、「作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た」という使われ方。

当初はこれくらいで終わりにしようかと思っていたのだが、思いのほか興に乗ってきたので、このまま続けよう。

○因業(P34);頑固で思いやりのないこと。人に対する仕打ちが情け容赦もなくひどいさま。もとは、仏教用語。前世の悪行が招いたこと、というニュアンス。根の深い欠陥という意味合いと、その人のせいではないからそれを受ける側は諦めるほかないという意味合いとがある。「――おやじ」。作中では「因業を言張って許りもいられなかった。」という使われ方をしている。

○大束(P46);「おおたば」と読む。①大ざっぱなこと。また、そのさま。大まか。雑。②偉そうな態度をすること。また、そのさま。ここでは、お島が「大束を極込んだ」とあるので、①の意味。「悪く―なことを言って落着いているよ」〈紅葉・多情多恨〉

とか、「―を言うな、駈落の身分じゃないか」〈鏡花・婦系図〉といった用例がある。

○口入屋(P47);奉公人などを世話する業者。おもに、身分の低い者を対象とする職業斡旋業者。江戸時代がその活動の全盛期。

○心中立(P102);「しんじゅうだて」。自分の心の中をすっかり見せ、契を交わした相手に愛の証拠を見せ、恋愛の誠実性を立証すること。黒髪を切って相手に渡したり、指を切ったり、さらには、命を捧げたり、とエスカレートしていく。遊郭での恋愛のルール・マナー・エチケットがもともとの姿で、それが、一般人にも流布していったのではないだろうか。「みんな鶴さんへの心中立だ。」これは、鶴さんのことで錯乱状態に陥ったおゆうが、自宅の庭の井戸に飛び込もうとしたことを、お島がそう感じたというくだりである。

○兇状持(P116);「きょうじょうもち」。殺人などの凶悪な犯罪を犯した者。前科者より強い意味を持つ。「寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い蝙蝠傘を一本もって、宛然(さながら)兇状持か何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。」それをふまえると、この描写のわびしさがひとしお感じられる。

○石楠花(P135);これは単に、私が読み方を知らなかったので調べてみただけのことである。「しゃくなげ」と読む。ちなみに、「木瓜」はどう読むか、お分かりだろうか。「ぼけ」である。

○饅頭(P151);読みは、もちろん「まんじゅう」だが、どうもおかしいと思って調べてみると、「饅頭の形に似たアイロン台の一種」とあった。「小野田は顔を顰めながら、仕事道具の饅頭を枕に寝そべりながら、気の長そうな応答(うけこたえ)をしていた。」とあるのだから、食べ物の「饅頭」でないことは分かるだろう。

○射幸心(P162);偶然に利益を得ようとする心。分かるような分からないような感じだったので、調べてみたらやはりよく分かっていなかった、という次第。宝くじを買う心理などを言う。

○業腹(P175);しゃくにさわること。「ごうはら」と読む。「自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業腹であった。」野心家のお島の心持ちは、地方都市の堅実な暮らしぶりにどっぷり浸かった人々には分からないことを、お島は憤っているのである。

○ぼんつく(P183);馬鹿の意。またまた素敵な悪態語が出てきた。

○女唐服(P219);「めとうふく」と読む。本来は、唐服の婦人物のことをいうのだが、当時は洋服のことをそう呼んだ。女唐は、西洋婦人をあなどっていった言葉。当時の、洋服に対する意識がうかがわれる言葉。女性の洋装が珍しかったのだろう。
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 宇多田ヒカル、母を語る  (イザ!ブログ 2013・8・26 掲載)

2013年12月19日 09時24分06秒 | 音楽
宇多田ヒカル、母を語る

今日、藤圭子の一人娘で歌手の宇多田ヒカルが、自身の公式サイトに、母の死についてのコメントを発表した。藤圭子の死についての私の、かつてのファンとしての思いは、前回の投稿http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/84a8254f09bcf2b1e525b4a521744e30ですべて述べたつもりである。そこに、新たに何かを付け加えようとは思わない。

私が宇多田ヒカルのコメントに心動かされたのは、そこに、投身自殺というすさまじい死に方をした母の名誉を守りきろうとする娘の真情が感じられたからである。

その死をめぐって、どうやらさまざまな揣摩憶測がまことしやかに飛び交っているようである。いつもながらのメディアの陋劣さ、醜悪さが展開されているのだろう。そういう情報の汚泥から、娘ヒカルが、母のイメージとしての亡骸を両の手でぐいと掴んで救いあげようとしている強い意思が、下記のコメントを虚心に読む者にはおのずと分かる。その偽りのない心根が、こちらのハートを掴むのだ。ここには、人気歌手としての計算など微塵もない。また、娘の目に映った裸の人間・阿部純子(藤圭子の本名)の魅力的な姿が面目躍如としている。そうして、その姿は、実の母を失った娘の深い哀しみに染め上げられている。私は、久々に秀逸な文章に巡り会ったような気さえもするのである。

以下、コメント全文である。

8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。

様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。

彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。

その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。

幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。

症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。

母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。

誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。 悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。

母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。

25年8月26日 宇多田ヒカル [2013年8月26日12時0分]


http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130826-1179073.html

今の宇多田ヒカルは、母の死をめぐってとても苦しんでいるようである。どうやら、自分を強く責めているようなのだ。私は、私人としての彼女の周辺をまったく知らない。しかし、今の彼女には、崩れてしまいそうなその心をしっかりと支えてくれる存在が必要であることだけははっきりと分かる。自殺報道をめぐる国際的な倫理上のルールを破りまくるバカ・テレビ・メディアによる暴力のいちばんの被害者は、どうやら一人娘・宇多田ヒカルのようである。痛ましいことこの上ない。
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宮里立士氏・八月十五日の雑感――「天籟」のこと  (イザ!ブログ 2013・8・25 掲載)

2013年12月19日 09時12分08秒 | 宮里立士
八月十五日の雑感――「天籟」のこと




美津島明さんの「玉音放送」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/076fa861ea18bf298421c59cf319209b

を拝見して、私も八月十五日に関わる小文を綴りたくなりました。

八月十五日の「終戦記念日」は、昔の私にとっても特別の重い日でした。しかし、今ではこの日が、年中行事の一種のように感じられています。それはひとつに、「先の大戦」後、日本は戦争を経験していないとはいえ、五十年も六十年も前の、いや七十年近く経た後の今では、この日に終わった「戦争」を、リアルなものとして受けとめることが、なかなかできにくくなっていると感じるからです。

もちろん自分にとっても子供のころ――ちょうど戦後三十年から四十年にかけてのころ――は、大人たちが実際に戦争を体験した世代であり、その人たちの語る戦争の話を身近で、あるいはテレビ、ラジオから聴くと、それを知らない子供ながら、戦争に想いを潜めることができました。特に私の生まれ育った沖縄では、地上戦で住民も戦火の中を彷徨い、その実体験者たちの語る話は、子供ながら戦慄と恐怖を覚えました(ちなみに、誤解の無いように付け加えますが、昨今、しきりに左派が主張する、住民の集団自決に軍の命令があった、という議論とはこれは関係ありません。なぜなら、私がここで言う「戦争の話」は、「政治」とは関係がないからです)。

しかし、その世代がだんだん少なくなり、高齢化するに従い、「戦後も遠くなりにけり」という実感の方が自分のなかでは日増しに強くなってきました。つまり、八月十五日は、戦争を追体験する日というよりも、歴史のなかで祖国に殉じた先人に想いをはせる日というふうに変わっていったのです。そしてこれとは別に、この日が来るたび、近年、ひとつの不快な出来事で、途方に暮れます。それは、この八月十五日に、我が国の首相をはじめとした閣僚が靖国神社を参拝するかどうかが、まるで日本の踏み絵のようになっているからです。

日本国の公人が戦没者を慰霊追悼するのは義務だと思います。その意味で、靖国神社にこれらの人びとが参拝するのは当然です。そのことに「軍国主義の復活」やら「戦争の反省が足りない」などと、中国や韓国から批判されたり、米国から懸念を表されたりする謂れはありません。観念(イデオロギー)や大義を越えて、国に殉じた人びとに敬礼することができなければ国家は存立できないからです。とはいえ、このこととは別に、個人的には、わざわざ戦争に敗れた日に靖国神社に参拝することもないのでは、との感じも持っています。

靖国神社には公式な式典として春と秋に例大祭があります。日本国の公人なら、この日に参拝するのが自然と思えます。八月十五日に靖国神社を訪れたことのある知人から聞いたことですが、この日は神社の内外が騒然としていて、とても落ち着いてお参りできる雰囲気ではないとの由です。そのことはテレビなどからも知っておりましたが、何がなんでも無理に八月十五日に参拝するというのは、「敗戦」、あるいは「戦後」に重要な意味を見いだしているからでしょう。

昭和の時代には、八月十五日が近づくと、昭和天皇の玉音放送がテレビやラジオで流されておりました。子供ながら、その独特の抑揚を伴ったお声に触れると、その意味する内容は知らねど、かつて日本は大戦争を闘い敗れたのだ、という思いがおのずから湧いてきました。先に書いた、子供のころ聞いた大人たちの戦争の話とあいまって、すでに敗戦後三十年が経って、十分豊かになっていた日本に生きていても、その前時代には「戦争」があったことを教えてくれました。今回、美津島さんのブログから久しぶりに「玉音放送」を拝聴し、そのことも思い出しました。

八月十五日正午、昭和天皇の終戦の詔勅を聴いて、多くの日本人がおそはれた〝茫然自失〟といはれる瞬間、極東日本の自然民族が、非情な自然の壁に直面したかのやうな、言葉にならぬ、ある絶対的な瞬間について考へた。そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか。〉

これは桶谷秀昭氏の『昭和精神史 戦後篇』の冒頭にある言葉です(7頁)。続けて、桶谷氏は「天籟」(てんらい)を聴いたと書いています。

天籟とは、荘子の「斉物論」に出てくる言葉で、ある隠者が突然、それを聴いたといふ。そのとき、彼は天を仰いで静かに息を吐いた。そのときの彼の様子は、「形は槁木の如く、心は死灰の如く、」「吾、我を喪ふ」てゐるやうであつたといふ。〉(7頁)

この言葉は、マッカーサーがその回想記の中で、敗戦によって、「日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去った」、「徹底的に屈伏した」うえに戦後が始まり、ここを出発点として、自分たちの占領改革が行われ成功したという自賛の文章への反措定として置かれています。

八月十五日の靖国神社参拝問題とは、「戦後」が占領改革から始まったのか、あるいは「天籟」を聴いたことに始まったのかを考え、そこから「戦後」イメージが亀裂を生じる問題と密接に絡まっているように思えます。

ただ、今の私にこの「戦後」の亀裂について、答える能力はありません。今回、「雑感」として小文を記した所以です。


〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん
 宮里立志さんへ。

 難しい問題をとてもよく受け止めていると思いました。
 8月15日の玉音放送が日本人に与えた衝撃が、日本史上かつてないものであったことは確かなことですが、このことが同時に、周辺諸国や国内の左派たちをして、「日本軍国主義の敗北記念日」という図式によって、この日を「政治的に利用できる日」として扱わせている事実も無視できません。

 ですから、そういう政治的利用を避けるために、以後6年間続いた占領統治期間を、戦争の継続(敗戦過程)とする見方も成り立つ余地があるわけですね。

 私自身は、いまとなっては、この日をあまり大げさに考えずに、靖国参拝を、英霊を思う日本人の普通の営みとして、平常心の中で維持していけばよいのではないかと思っています。その意味で、貴兄の趣旨に賛成です。


☆Commented by miyazatotatsush さん
 kohamaitsuoさま

 コメントありがとうございます。

 8月15日の敗戦の日に靖国神社に参拝する、しないが、どうも政治の具になっているのではないかと、気にかかり、拙文を草しました。
 「平和の誓いを新たにし」、この日に参拝したと、国会議員のどなたかが仰っていた記憶があります。拙文にも書いたとおり、その「平和」とは、戦後の占領改革の上に築かれた「平和」なのか、それともそれへの是認を含まぬ「平和」なのか。

 敗戦という日本史上、未曾有の出来事に「天籟」を聴いたという感覚を、英霊と確かめたいという想いの8月15日の参拝というのは、解るのですが……。
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