美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

低レベルな、あまりに低レベルな ―――毎日新聞のたそがれ (イザ!ブログ 2013・1・17 掲載)

2013年12月07日 08時15分05秒 | 経済
私は昨日「クルーグマン、アベノミクスを高く評価する」をブログ・アップしました。混迷を深める世界経済の正しい指針を果敢に示し続けているクルーグマン教授にアベノミクスが評価されたことは、一国民として、とても祝すべきことであると思ったからです。クルーグマンはおそらく、「財政の崖」などというチキン・レースに明け暮れる米国の政治状況に業を煮やしてこの文章を書いたのではないかとは思います。「そんな馬鹿なことをやってる場合かよ。ほら、日本はちゃんとマトモな経済政策を実行し始めたじゃないか。目覚しい成果も挙げているじゃないか。ちっとはそれを見習おうじゃないの」と言っているように感じられるのですね。

そんなわけで、少々いい気分でいたところ、ツイート友だちのプシケさんから次のようなお知らせがありました。

プシケ♂‏@psyche_s_
美津島さん、早速毎日新聞は、敢えて曲解したとしか思えない偏向ぶりの記事(ネットニュース)でしたよ。先に毎日新聞のを見たんですが、伝わってくるニュアンスが全く違う、嫌がらせです。このあとツイートしときます。

で、そのツイートに表示されていたURLをクリックしてみたところ、プシケさんが言う通り、その内容はひどいものでした。それほど長いものではないので、全文を掲載します。赤字のところが、問題にしたい箇所です。
headlines.yahoo.co.jp/hl

<クルーグマン氏>アベノミクス「結果的に完全に正しい」

毎日新聞 1月14日(月)18時21分配信

【ロンドン坂井隆之】大胆な金融緩和や財政出動で景気底上げを図る安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」が、ノーベル経済学賞受賞者からも評価されている。著名な経済学者のお墨付きを得たことで、首相は一段と自信を深めそうだが、アベノミクスへの期待感が支えになっている円安や株高の持続性には疑問の声もある。

08年のノーベル経済学賞受賞者で、コラムニストとしても知られる米プリンストン大のクルーグマン教授は11日付ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)のブログで、安倍首相が目指す経済政策について「深く考えてやっているわけではないだろうが、結果的に完全に正しい」と“評価”した。

同氏はかねて、不況脱却のためには大胆な財政・金融政策が必要だと主張。安倍政権が打ち出した20兆円規模の緊急経済対策や、日銀に対する強硬な金融緩和の要求に対し、「(財政破綻のリスクなどを強調する)堅物過ぎる理論にとらわれて他のどの先進国もできなかったこと」と指摘する。

ただ、クルーグマン氏の分析には、皮肉も交じる。アベノミクスの効果について「国債の金利は上がらず、円は下がっており、日本に非常によい結果をもたらしている」と述べる一方、「安倍(首相)はナショナリストで経済政策への関心は乏しく、それ故に正統派の理論を無視しているのだろう」と推測。金融市場はひとまず好感しているものの、財政持続可能性などに深い洞察を欠いたままの政策運営には、懸念をにじませる

円相場の急速な下落と日本株の上昇に対しては欧米でも関心が高く、連日報道されている。ただ、各紙とも持続性には半信半疑で、英フィナンシャル・タイムズ(FT)は12日の記者コラムで「過去20年間、日本株に失望させられ続けてきた。今回、何が違うのかは疑問だ。昔と違い日本が世界に売るものは乏しく、円安は特効薬ではない」と言及した。そもそもアベノミクスは、クルーグマン氏らの主張を裏付けにした側面があり、同氏が評価するのは当然という指摘も。新政権の経済政策の評価が定まるには、なお時間がかかりそうだ。


この文章は、極めて陰険で姑息で悪質な記事です。どのようにそうなのか、以下列挙します。なお、私は毎日新聞の当記事を扱うために、クルーグマンの原文に一通り目を通しました。

①クルーグマンの文章掲載の日付が誤っているし、題名が明記されていない

ニューヨーク・タイムズの電子版に掲載されたクルーグマンのアベノミクスについての文章は、「11日付」ではなく「14日付」です。私は自分がなにかの勘違いをしているのではないかと思い直して履歴を調べてみました。しかしながら、「11日付」の文章は「Coins Against Crazies」という、もっぱらアメリカの国内政治がらみの内容で、そのなかに「Japan」や「Abe」という単語は皆無です。また、クルーグマンの文章は、当HPでブログではなくコラムとして扱われています。さらに、当記事には、クルーグマンの文章の題名(「Japan Steps Out.」 日本、動き出す)の記載がありません。

記者の坂井隆之氏は、日付を勘違いしたのでしょうか。コラムをブログと書き間違えたのでしょうか。うっかり題名を書き忘れたのでしょうか。もしそうであったとしても、社内の原稿チェック体制によってそういう基本的なミスは事前にチェックされるはずです。

「お前が読んだ文章以外に、クルーグマンがアベノミクスを論じた文章があるのではないか」という疑問が当然のように湧いてきますね。

その可能性はありえます。ただしその場合、対照的な二人のクルーグマンがいることになります。皮肉たっぷりにアベノミクスを“評価”する11日付のクルーグマンと極めて明快に率直にアベノミクスを評価する14日付のクルーグマンとが。

そこで次の話に移ります。以下の話は、14日付のクルーグマンしか実在しないというのが前提です。

②曲解・無理解のオンパレードである

以下、具体例です。

・クルーグマン教授は(中略)、安倍首相が目指す経済政策について「深く考えてやっているわけではないだろうが、結果的に完全に正しい」と“評価”した。:「「深く考えてやっているわけではないだろうが」などとは一言も言っていません。クルーグマンは、最終段落で「Whatever his motives, Mr. Abe is breaking with a bad orthodoxy.」と言っています。「彼の動機がどうであろうと、ミスター安倍は、悪い正統派を打ち破ったのだ」とはっきり言っているのです。「a bad orthodoxy」とは、大胆な量的緩和や積極財政を実行しようとすると決まって「ハイパーインフレになる!」とか「ほら、財政破綻だ!」とか「市場の信認が毀損される!」とわめき散らし、脅しをかける連中のことです。国債自警団の露払いですね。安倍首相は、そういう勢力をねじ伏せたと、クルーグマンは言っているのです。さらには、「In short, Mr. Abe has thumbed his nose at orthodoxy, with excellent results.」とまで言っています。つまり、「要するにミスター安倍は、優れた結果を出すことで「正統派」を鼻であしらったのだ」と。いわくありげに「評価」にクォーテーション・マークをつけるのがいかにばかげたことかお分かりいただいけるでしょう。

・「クルーグマン氏の分析には、皮肉も交じる」:確かに、クルーグマンはこの記事で皮肉を交えています。だが、それはアベノミクスに対してではなく「a dismal(愚かな、うっとうしい)orthodoxy」に対してであり、「harsher austerity」(どんどん荒っぽくなる緊縮財政派)に対してであり、「the Very Serious People」(めちゃくちゃ生真面目な人々)に対してです。皮肉の矛先が毎日新聞の指摘する対象とは正反対なのです。

・「安倍(首相)はナショナリストで経済政策への関心は乏しく、それ故に正統派の理論を無視しているのだろう」と推測。→どこからこんな解釈が出てくるのでしょうか。クルーグマンは確かに、日本のことをよく知っていると称する知人から安倍総理が古風な利益誘導型の政治家であると聞いていると言っています。そのうえで、「But none of that may matter.」ときっぱり言っています。つまり「しかし、それがどうしたっていうんだ」と。「経済政策への関心が乏しいので、正統派の理論を無視している」などとはどこにも書いていないし、当文章からそういう含意を汲み取るのは不可能です。


・「財政持続可能性などに深い洞察を欠いたままの政策運営には、懸念をにじませる」→どこをどう解釈したらこういう読み取りができうるのか、私には皆目見当がつきかねます。こういう「懸念」は、いわゆる「正統派」(とその腰巾着)の常套文句ではありえても、不況時における積極的な経済政策の断行を是とするクルーグマンの姿勢としてはありえないものです。クルーグマンは、もっともらしいことをいいながらそれに水をさそうとする連中と闘っている人なのです。そういう連中に加担するようなことを彼が言うはずない。つまり、これは訳が不適切でありさらには捏造であることをも超えて、坂井隆之という記者と毎日新聞のクルーグマンに対する根本的な無知さえも指し示す誤読なのです。恥ずかしいことではないですか。

・「過去20年間、日本株に失望させられ続けてきた。今回、何が違うのかは疑問だ。昔と違い日本が世界に売るものは乏しく、円安は特効薬ではない」→これは、クルーグマンの言葉ではありませんが、ここにはどうにも看過しがたいものがあります。この言葉は、円高がこれまでどれほど深刻に国内日本企業の弱体化・国際競争力の低下を招いてきたのかということ、および、それにもかかわらず、日本企業の底力はまだまだ捨てたもんじゃないということに対する洞察が全くありません。そういう心なき言葉を引用することで、毎日新聞は、円安政策の効果を最大限低く見積もり、日本企業の実力を不当に低く評価するという国力弱体化推進言論を展開しています。

もう、お分かりでしょう。この記事の本質は要するに典型的な反日なのです。その歪んだ意図によって、クルーグマンのアベノミクスに対する清々しいまでのエールを強引に捻じ曲げ、なるべくケチをつけようとしているのです。

クルーグマンは、なにゆえアベノミクスにエールを送るのか。それは結局、世界経済が危機を脱して人類がカタストロフを迎えるのを回避する大きなきっかけをアベノミクスに見出そうとしているからにほかなりません。

反日というみみっちい執拗で不健全で非生産的な精神にしがみつくことで、毎日新聞は、クルーグマンの真意が見えなくなっているのではないでしょうか。

反日にしがみつくメディアは、停滞と混迷に放り込まれた世界のあり得べき方向性を模索しようとする真摯な場からは、あまりにもレベルが低くて、たそがれの寂しげな光線によって弱々しく照らし出された存在にしか見えない、というよりほかはありません。
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美津島明  クルーグマン、アベノミクスを高く評価する (イザ!ブログ 2013・1・15 掲載)

2013年12月07日 08時08分02秒 | 経済
14日、太平洋の向こう側からアベノミクスに対する強力な援護射撃がなされました。『さっさと不況を終わらせろ』の著者でノーベル賞経済学者のポール・クルーグマン氏が、アベノミクスを高く評価する記事をニューヨーク・タイムズに載せたのです。好都合なことに、ハンドル・ネームTakabedaiさんがご自身のブログにその和訳を公開なさっています(インターネットってスゴイですね)。それをご紹介しながら、コメントをつけたいと思います。ただし、一部分表現を変えさせていただきました。もちろん、意味内容は変えておりません。http://takabedai.blogspot.jp/2013/01/blog-post_15.html

動き出した日本(原題Japan Steps Out” )

失業率が高止まりしているのに、世界の先進国の経済政策はまちがった原則論を信奉して何年も"麻痺”している状態だった。雇用を作り出そうとする試みはすべて極端な結論を持ち出されては停止させられてきた。財政支出を増やそうとすると国債が暴落する!とか、紙幣を刷ろうとするとインフレーションが爆発する!とか、極端な悲観論者たちが騒ぎ立てる。何をしても結果など出ないのだから何もするな、というわけだ。ただ今までのような厳しい耐久生活に耐えよ、というわけだ。


「ハイパーインフレ・オオカミ少年」は海の向こうにもうようよと棲息しているようです。「 何をしても結果など出ないのだから何もするな」。これは、ひっきりなしにマスメディアに登場するアベノミクス批判の本質をズバリ言い当てています。寸鉄人を刺す、とはこのことです。シビレるなぁ。

しかしある一つの経済大国が、つまりは他でもない日本がこの状態を打破しようと動き出したように見える。

これは我々が捜し求めていたような異端者ではない。日本の政府は何度も政権交代を繰り返したけど、これまで何かが変わるようなことはなかったと思う。新しい首相となった安倍晋三氏。彼は一度政権を担った人物だけど、彼の復帰は何年も誤った経済運営を続けてきた自民党とともに、”恐竜”の復帰を予感させた。さらに日本は人口と比較して巨大な政府債務を抱えているため、他の先進国と比較しても新しい政策を試す余地がさらに限られているとみられていた。

しかし安倍首相は日本の長い不況を終わらせるとの公約の下、既に不況原理主義者が言うような政策とは違った新しい政策に着々と挑んでいるように見える。そしてその最初の踏み出しは上々のようだ。

日本の今までの背景を少し紹介すると、2008年の金融危機よりはるか前から日本は不況に苦しんできた。株価の崩落と不動産バブルの破裂を受けて日本が不況に陥った時に、日本の政策は常に過小で、遅すぎ、そして一貫性を欠いてきた。

確かに日本は大規模な財政支出を行ってきたが、財政赤字を気にするあまり引き締めに転じて、何度も確かな回復の目を摘んできてしまった。そして90年代の終わりには既にやっかいなデフレーションが根付いてしまった。2000年に入ってから日本の中央銀行である日銀はお金を刷ることによってデフレと戦おうと努力した。しかしすぐにまた引き締めに転じてデフレが消え去る機会を葬り去ってしまった。


クルーグマンは、九七年以降の日本の財政政策と金融政策が、デフレからの脱却のための一貫したものでなかったことを指摘し、批判しているのです。日本のマスコミはこれまで(そうしていまにおいても)、一貫して積極財政を叩き続け(土建国家批判!)、日銀の金融政策の重要性をまったくといっていいほどに理解してきませんでした。そうしてひたすらに、日銀と財務省が供給する情報をヘドロのように垂れ流し続けてきました。日本のマスコミは、国力弱体のために陰謀を張り巡らせてきたというのではなく、単に不勉強で能力が低いだけだったのです。彼らは、学力が足りないのに学級委員にだけはなりたがる中身が空っぽの権威主義的な生徒のようなものだったのです。

このことが示しているのは、日本は2008年から続く高失業率や災禍を経験する必要はなかったってことなんだ。(中略)

これまでの日本の経験は、僕らにもう一つの教訓を教えてくれる。長く続いた不況からの脱出は難しいってのは確かなんだけど、それは主に政策遂行者に果敢な政策を採らせることが難しいことから生じているってことを。つまり問題の本質は経済的な問題というよりも政治上・知性上の問題だということなんだ。実際のところ、積極政策のリスクは悲観論者が君たちに信じ込ませたいリスクよりもずいぶんと小さいものなんだよ。

クルーグマン先生の尻馬に乗ります。私はたびたび経済問題の本質には、「誤った思想」をいかに乗り越えるかという問題がある、と申し上げてきました。言いかえれば、狂った羅針盤には、デフレ脱却の能力がはじめからなかった、ということです。私は、政府内とアカデミズムの市場原理主義者や構造改革原理主義者や規制緩和原理主義者、財務省内の緊縮財政原理主義者、日銀内の金融引き締め原理主義者のことを言っているのです。彼らは、寄ってたかって日本をデフレ地獄に日本を叩き込み続けてきた無駄飯喰らいの連中です。

巷間言われている政府債務や赤字の問題について考えてみよう。ここアメリカでは我々はいつも「財政赤字を減らさなければならない、さもないとギリシャみたいになる」と警告している。しかしギリシャは通貨発行権なき国家であって、アメリカとは似ても似つかない国だよ。アメリカはよっぽど日本のほうに似ている。悲観論者は破滅の兆候として、長期金利の度々の上昇を挙げながら財政破綻の可能性を論じ続けるんだけど、いつまでたってもその日は来ない。日本政府は依然として1%以下の金利で長期国債を発行することができるってのに。

「さあ、財政破綻だ!」「ほらハイパーインフレだ!」と「オオカミ少年」たちはデフレ状況下で吠え続けました。そうして、いまだに懲りることもなく同じ吠え声を上げています。

そして安倍首相だ。首相はより高い物価を目指すように日銀に圧力をかけながら、それによって政府債務の一部を償却しようとして、同時に積極的な財政政策を行うことを高らかに宣言した。で、それにたいしてマーケットはどう反応したか?

あらゆる反応が良好だと答えておこう。長いことマイナスであった期待インフレ率が、言いかえれば、マーケットによって目下のデフレが長いこと続くと予想されていた期待インフレ率が勢いよくプラスのレベルに入ってきているのだ。にもかかわらず政府債務の金利はまったく変化しているようには見えない。これは、まずまずのインフレが続いていけば日本の財政事情が急速に改善していくことを予見してくれているんだ。円の為替レートも下がり続け、これは本当にいいニュースだ、輸出状況も大幅に改善していくことだろう。

「日本の財政事情が急速に改善していくことを予見してくれている」。これは、緊縮財政原理主義者が言い募ってきた財政再建そのものです。彼らが主張する歳出削減によってではなく、大胆な量的緩和と積極的な財政出動によってこそ財政再建が実現すると、クルーグマンは言っているのです。真理はいつも「水が上から下に流れるように無理のないものである」、との念を強くします。

要するに、安倍氏はすばらしい結果を出して原理主義者たちをあしらうことに成功したんだ。

安倍首相は外交的にそんなに”良心的”な政治家ではないよ、と僕に忠告してくれる日本の政治にいくらか詳しい人がいる。そんな人たちによれば、彼は利益誘導型の古いタイプの政治家に過ぎないそうだ。

だけどそれがなんだっていうんだろう。彼の意図がどこにあろうと彼が今やっていることは原理主義を打破しているのだ。彼が成功した暁には何かすばらしいことが起こったことを意味するだろう。つまりそれは世界の他の国々に対してどうやって不況から脱出するのかについての模範を示してくれているのだ。


私は、いまの安倍首相を世界水準の政治家であると思っています。言いかえれば、彼は経済政策や外交における世界レベルでの常識・良識がなんであるのかをよくわきまえていて、その常識・良識を着実に大胆に踏み行おうとしているのではないかと思っているのです。その視野の広さゆえの風通しの良さこそがいまの彼の自信にあふれた態度の根底にあるものなのではないでしょうか。

とは言うものの、一方では楽観ばかりしてはいられない状況もあります。それを列挙します。

一つ目。小泉構造改革を推進した経済財政諮問会議が三年五ヶ月ぶりに復活しました。今年の半ばをメドに作成される予定の当会議の方針の名前がなんと「骨太の方針」なのです。私は、この名前を目にすると新自由主義の権化・竹中平蔵の顔が浮かんできます。新聞でこの「骨太」の文字を目にしたとき、大袈裟ではなく恐怖感と不快感が湧いてきました。事実安倍首相は、当会議のメンバーとして竹中平蔵を提案したとのこと。ところが、麻生財務大臣と甘利経産大臣が難色を示したので実現しなかったそうです(朝日新聞一月十日)。

二つ目。当会議のメンバーにこれまたゴリゴリの新自由主義者にして「オオカミ少年」の伊藤元重(東大大学院教授)とこれまたゴリゴリの新自由主義者・高橋進(日本総合研究所理事長)がいること。いずれも要注意人物です。伊藤元重を迎えたのは、安倍首相の石破幹事長懐柔策なのではないかと推測します。

三つ目。産業競争力会議のメンバーに竹中平蔵がいること。竹中は、規制緩和とTPP参加を強力に推し進めようとするでしょう。その動きが一定以上の力をもってしまうと、デフレ脱却の足を引っ張ることになります。

政治は妥協の産物であります。だから、たとえ安倍首相が心の底からの国民経済派であるとしても、同じ考え方の人間だけで政府機構という巨大組織を固めることが不可能なことは、私にも理解できます。しかしながらそのことは、政治にはミイラ取りがミイラになる危険が伴うことを意味するのではないでしょうか。それゆえ、優れた政治家は理想を追求する情熱を保持し続ける強い意志の持ち主であると同時に、海千山千の手練手管も駆使できる「人たらし」であることも求められるのでしょう。その矛盾する要求にどこまで応えられるか、そこは安倍首相の力量次第というよりほかはありません。そういう意味で、安倍首相をかつてのように心理的に「孤立」に追い込むのが一番まずい状況なのではないかと思われます。
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