美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「第二の矢」危うし  (イザ!ブログ 2013・11・20 掲載)

2013年12月26日 07時53分04秒 | 経済
「第二の矢」危うし

日本経済は、まだデフレから脱却したわけではありません。内閣府が11月14日に発表した2013年四半期別GDP速報によれば、七月~九月のGDPデフレーター(包括的な物価指数)は前年比マイナス0.1%でした。その前の四半期(四月~六月)がプラス0.1%なので、デフレからの脱却において直近の三ヶ月間は一歩後退したと言っていいでしょう。

デフレ下において、個人・企業は「流動性の罠」状態にあるのですから、積極的に消費や投資をしようとはせず、できるだけお金を使わずに溜め込もうとします。だから、デフレ下においては、政府が積極的な財政出動(いわゆる「第二の矢」)によって有効需要を創出し、GDPを引き上げる必要があります。インフレ期待を引き上げるために、インフレ・ターゲットを設定し、それに向けて大胆な金融緩和をパッケージで実施しなければならないのはいうまでもありません。

これは、ごく常識的な議論です。そう考える私の目に、次の記事が飛び込んできました。眠気もなにも吹っ飛んでしまいました。

公共事業費、今年度以下に…民間議員が提言へ
読売新聞 11月19日(火)11時4分配信

政府が20日に開く経済財政諮問会議(議長・安倍首相)で、2014年度予算をめぐり、民間議員が公共事業費を13年度当初予算(5兆2853億円)より減らすよう求める提言を行うことがわかった。

提言では、政策に充てる経費について、「13年度比でマイナスに抑制する必要がある。社会資本整備についても例外ではない」と主張する。

インフラ整備にあたっては、PPP(官民連携)やPFI(民間資金活用による社会資本整備)と呼ばれる方式を積極的に導入するよう求め、民間の人材を活用するために「PFIファンド事務局」の体制を英国並みの50人規模に強化することも盛り込む。

地方自治体が行政改革をどれだけ進めたかを判断する指標として、公共事業のうちPPPやPFIを活用した事業が占める割合を用い、これを基に地方交付税の配分を変えることを検討することも求める。


民間議員たちは、何の権限があって、国民経済の根幹に関わる「デフレからの脱却」という課題に水を差すようなマネをするのでしょうか。国民は、断じてこのような暴挙を許してはいけません。

私は、十月十五日の施政方針演説における安倍総理の、農業・医療・電力の規制緩和に関する積極姿勢に危惧の念を抱きました。なんとなく、「第二の矢」を素通りして、「第三の矢」=成長戦略に力を入れているように感じられ、また、成長戦略とは要するに小泉改革路線の延長としての規制緩和にほかならないのではないかと考えたからです。それらと、来年四月からの消費増税の実施とを重ね合わせれば、デフレからの脱却の実現の時期がはるか彼方に遠のいてしまうのは必定と思われます。安倍内閣は、ここにきて、経済政策に関してどうやら変調をきたしてしまったようです。

また、国家戦略特区の推進に関して、民間議員の連中の意見ばかりを重宝して、厚労大臣と農林水産大臣とをできうるかぎり蚊帳の外に置こうとしているのも、きわめていぶかしく感じます。安倍首相は、TPPがらみでアメリカのオバマ大統領となにかしらの密約を交わしたのでしょうか。どうも変です。

とにもかくにも、現段階における財政出動の収縮は、国民経済をデフレ圧力にさらすとんでもない暴挙なので、安倍内閣は、民間議員の馬鹿げた提案を採用しないように。

なお、上記のPPPやPFIの本質は、一般国民が総体として享受すべき経済的な利益を私企業が横取りするレントシーキングです。ゆめゆめ"PPPやPFIは、上からの経済政策を民間活力によって肩代わりする素晴らしいもの"などという「美しい言葉」にだまされないようにしましょう。むろんこれは、スティグリッツや三橋貴明氏から学んだ視点です。民間議員の国政におけるのさばりは、なんとしても阻止したいものです。


〔付記〕
その後、十二月四日に国土強靭化基本法が、ようやく成立しました。「第二の矢」を推進し、緊縮財政派や新自由主義勢力の圧力に抗するための法律上の拠点が生まれたことは、もって慶すべきことです。しかし、油断はできません。敵対勢力は、あの手この手を使って、この法律の換骨奪胎・有名無実化を図ることでしょう。朝日新聞などの反日メディアも、この法律が有効に働き出したら、日本弱体化とは逆の動きが息を吹き返すことになってしまうので、そんな悪夢を払拭するために「土建国家」批判に全力を尽くすことでしょう。闘いは、これからますます本格化することになるものと思われます。(2013・12・26 記す)
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シャドー・バンキングとは何か (イザ!ブログ 2013・11・19 掲載)

2013年12月26日 07時37分49秒 | 経済
シャドー・バンキングとは何か


石平太郎氏

中国の経済問題を扱った文章を読むと、必ずと言っていいくらいに、「シャドー・バンキング」という言葉を目にします。正直なところ、これまで私は「だいたいの意味は分かる」というくらいのレベルに甘んじてきました。

今回たまたま中国問題評論家の石平氏の『「全身病巣」国家・中国の死に方』(宝島社)を読んでみたら、「シャドー・バンキング」についての言及がありました。それを読むと、シャドー・バンキングのイメージが実に鮮やかになったのです。石平氏が、シャドー・バンキングをどう論じているのかについて、その要点をかいつまんでお伝えしようと思います。

1980年台前半以来の中国の高度経済成長は、「二台の馬車」という特殊な要因によって生み出されてきました。その「二台の馬車」とは、「輸出」と「投資」です。「輸出」の目覚しい伸びは、中国を「世界の工場」と呼ばれる存在に押し上げました。また、「投資」とは国内の固定資産投資を増やすことです。中国は、工場や機械など企業の設備投資、民間の不動産投資、政府のインフラ投資(いわゆる公共事業)を猛烈な勢いで拡大してきたのです。

このことは、中国の貧弱な内需を物語ってもいます。つまり、目覚しい経済成長の陰で、中国は、慢性的な消費不足に悩んできたのです。中国のGDPに占める個人消費の割合は37%に過ぎません。「世界第二位」の経済大国になった国として、普通それはありえないことです。この事態は、共産党員という特権階級に、国民が汗水垂らして生み出した国富が集中する中国経済のいびつさを物語っています。要するに、慢性的な消費不足という中国経済の宿痾を治すには、共産党員という特権階級が消滅しなければならなのです。だがそれは、中共の独裁体制の崩壊を意味するので、到底不可能である、というジレンマにいまの中国は直面しているのです。ちなみに、日本のGDPにおける個人消費率は60%であり、アメリカは70%です。

では、中国はどうやって「投資」を増やしてきたのでしょうか。それは、中央銀行頼みの財政出動と金融緩和によってです。平たくいえば、中国政府は、国民が消費をしないかわりに、企業や政府がお金を使いまくることにした、というわけです。企業や政府が、売上や税収だけを元手に投資することにはおのずと限界があります。その限界を突破するために、中公銀行がどんどんお金を刷って、政府の財源に当て、企業の投資を後押しするわけです。これは、中国のみならず、世界の国々でごく普通に行われていることではあるのですが、中国の場合は、過度の「放漫融資」になっている点が異なります。09年を例にすれば、GDPが日本円換算で536兆円なのに対して、新規融資額は154兆円に及んでいます。新規融資額が、GDPの約29%を占めているのです。その前年の日本の新規融資率が、GDP比で1%にも満たないことと比較すれば、その異常さがお分かりいただけるでしょう。

このようないびつな形においてではありますが、中国では市場経済が発達して、民間企業が中国経済の6割を支えるようになりました。ところが、中国の銀行は、あいかわらず大手国有企業ばかりを優遇し、中小企業にはお金を貸しません。また、いま述べたような異常な貨幣供給状況があるので、中共政府は、悪性インフレの影に怯えています。そこで中共政府は、11年秋から12年春まで金融引き締め政策を実施しました。そのせいで、ただでさえ慢性的な資金不足に悩む中小企業に、当然のことながら倒産の嵐が吹き荒れることになりました。例えば、浙江省温州市では、12年末に約4000社あった中小企業が約1600社にまで激減しています。

では、なんとか生き延びている中小企業は、どうしたらいいのでしょうか。正規の融資の道は絶たれているのですから、ヤミ金融に手を染めるよりほかはありませんね。

金融引き締めを実行しても、中国は基本的に金余りの状態だから、ヤミ金融にお金が流れ込み、中小企業を相手に高い金利でお金を貸すようになっている。11年頃から、いわゆる高利貸し的な商売が流行り、場合によっては年利80%を超える業者まで現れた。(中略)高利貸しが儲かることがわかると、多くの貸し手が高利貸しに参入してくる。しまいには、一部の国有企業までが、高利貸しに参入したいと考えるようになった。

国有企業は、中小企業と異なり、銀行と取引ができるという特権を有するので、安い金利でお金を借りることができます。それを高金利で中小企業に貸し出せば、ボロ儲けができます。本業に精を出さなくても、「濡れ手で粟」状態になれるのですから、それを見逃す手はありません。笑いが止まらないことでしょう。これが、石平氏によれば、「シャドー・バンキング」の前身だそうです。

国有銀行が、指をくわえて、このような国有企業のウハウハ状態を眺めているはずがありませんね。

高利貸しで大儲けをしている業者を見て、最後に腰を上げたのが国有銀行だった。国有企業からすれば、もともとは自分たちのところから出たお金でボロ儲けしている連中がいるということになる。であれば、自分たちで直接、高利貸しをしたほうがいいと考えた。

こうして、国有銀行も高利貸しに参入するようになった。ただし、政府の管轄下にある国有銀行が、法外な高金利でお金を貸すことはできない。法の網をかいくぐるために、国有銀行ダミー会社を作ることにした。具体的には、「融資平台」(ロンズーピンタイ)と呼ばれる投資会社を設立する。国有企業は、この投資会社に出資する形を取るのである。

融資平台は国有銀行からの出資金を元手に、中小企業に対して高い金利でお金を貸し出す。融資平台を通した国有銀行による脱法的な高利貸しこそが、「シャドー・バンキング」 の正体だ。


脱法的な存在なのではありますが、「シャドー・バンキング」は社会的なニーズに深く根ざしているので、どんどん拡大しています。やがて、その豊かな資金源を生かした「理財商品」(高利回りの資産運用商品。主に小口で短期の金銭信託)が開発され、一般の人々も融資平台に投資するようになっていきます。さらに、金融引き締め政策で財政状態が逼迫した地方政府も、融資平台からお金を借りるようになりました。

いかがでしょうか。以上をお読みになったみなさまも、「シャドー・バンキングのイメージが実に鮮やかになった」のではないでしょうか。明快な説明で名高い三橋貴明さん(私自身、そう思います)でも、ことシャドー・バンキングに関しては、なんとなくすっきりしない説明になってしまっているような感じなんですね。

私は、石平氏が描き出した「シャドー・バンキング」の生々しい正体を、正鵠を射たものとして受けとめます。しかし、そこには、中共政府に対する根底的な激しい批判が存するので、日本の大手メディアが、それをきっちりと報道するとは思えません。大手メディアって、中共関連の報道に関して「遠慮深い」ですからね。つまり、石平氏の正鵠を射た議論は、なかなか世間に広まらない。というのは、彼らの主なスポンサーである経団連等の大手グローバル企業団体が中共政府と一蓮托生的な利害を共有する、ゆがんだズブズブの関係にあり、それゆえいかに正しいものであっても、中国批判を好まないという事情に、大手マスコミが取り巻かれているからです。実際、大手マスコミから納得のいく中国報道が私の耳に伝わってきた経験はほとんどありません。産経新聞でさえ、経済面では筆先が鈍っているような印象があります。

それはそれとして、石平氏が描き出した「シャドー・バンキング」の正体にじっと目を凝らしていると、中国の貧弱な実態経済がくっきりと浮びあがってきます。それを無視して、国家がかりでマネーゲームになおも踊り続けているのが、いまの中国の現実なのです。とするならば、「シャドー・バンキング」が融資したお金が、きちんと回収される可能性は絶望的である、という結論が得られそうです。つまり、今後膨大な金額の「不良債権」が浮上するのは必然ということです。それを経験した日本が、長らくのデフレ不況に陥ったことを、私たちは身に沁みて知っています。つまり、そう遠くはない未来に、中国は強烈なデフレ圧力に見舞われ、それに呻吟する時期を迎えることになるのでしょう。

それが、政治的に何を招来することになるのか、私たちは注意深く見守りそれに粛々と対処する必要がありそうです。その点、石平氏の今後の発言は、おおいに参考になりそうな気がします。いっそのこと、彼を対中国外交のブレーンとして招くわけにはいかないものでしょうか。「日中友好バンザイ、お金クレ」というレベルの低い連中ばかりがいつまでも政府を取り巻いていては、まともな対中国政策が浮上して来にくいのではないかと思われます。
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先崎彰容×藤井聡 対談の模様  (イザ!ブログ 2013・11・8 掲載)

2013年12月26日 07時25分09秒 | 文化
先崎彰容×藤井聡 対談の模様

『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)の著者である先崎彰容氏が、十月二四日池袋ジュンク堂で国土強靭化の唱導者・藤井聡氏と繰り広げたトーク・ショーの模様がyou tube にアップされました。ご覧ください。二人の丁々発止の息の合ったスリリングなやり取りが楽しめます。私も、当ブログにご寄稿していただいている小浜逸郎氏・小松待男氏を含む読書会仲間四人と聴きに行ってきました。会場はほぼ満席で、参加者のみなさんはとても熱心にふたりの話に耳を傾けていました。「しなやかなナショナリズムをつくる」というテーマのもと、フィールドの違うふたりの話が見事に噛み合っていたのにはビックリ。波長が合うというのもあったのでしょう。ブログ雑誌の同人としては、先崎氏の「話す才能」を再認識しました。きっと学生たちから慕われる良い先生なのでしょうね。

藤井 聡× 先崎 彰容 「しなやかなナショナリズム」をつくる ~大衆社会の病理とこれからの共同体論~
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食品偽装表示問題の根は、デフレ不況である  (イザ!ブログ 2013・11・6 掲載)

2013年12月26日 07時17分13秒 | 経済
食品偽装表示問題の根は、デフレ不況である
――朝日新聞の記事付き――


阪急阪神ホテルズ(本社・大阪市)がホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材を使っていた事実が発覚したのが先月の二八日でした。その翌日、大津プリンスホテルが乳飲料を「低脂肪牛乳」と誤った表示で提供していたことが分かりました。このほかJR四国の子会社が運営するホテルのレストランも虚偽表示を発表。札幌市や浜松市のホテルでも、同様の事例が発覚しました。今日の報道では、食品の偽装表示は百貨店にまで広がり、大手百貨店「高島屋」が、店内のレストランや食品売り場で、表示と異なる食材を使っていたと発表しました。このように、食品偽装表示問題がどこまで裾野を広げるのか、見当がつかない状況になっています。

食品偽装表示した企業を個別にバッシングし、庶民の閉塞感をガス抜きするのはマスコミに任せておくことにしましょう。私たちはその沸騰した場から一歩退いて、この現象の根にあるものに視線を移してみましょうね。

しばらく、日本経済全般をざっと見渡すような話をします。アベノミクスの効果は、すぐに円安・株高という形であらわれました。それゆえ、輸出関連企業はその恩恵にたっぷりと浴しているといえるでしょう。その関連業界は、自動車・電気・インフラ・工作機械・精密機械など多岐に渡ります。

また、大胆な金融緩和は市中の資金量を増やし、各種金利の引下げ効果を持ちます。そのため、個人の住宅向けのローン金利も下がり、住宅・不動産業界にとっては追い風に働きます。住宅業界には来年四月の消費税増税実施前の駆け込み需要も期待されるでしょう。 異次元緩和は、銀行などの金融機関にとっても基本的にはプラスに働くと考えられます。

アベノミクスの目玉の一つに、東北の復興促進や老朽化した各種インフラの補修に向けた公共投資の活性化(財政政策)があります。それは、建設業などの関連業界に大きな波及効果をもたらします。

さらに、今年の一月の末、二〇一三年度税制改正大綱が決定されました。そのなかで、企業向けに、設備投資や試験研究費などに係る控除の拡大が行われています。 いわゆる国内投資減税措置です。これは、設備投資比率が高い企業にはプラスに働きます。なお設備投資の多い企業は製造業に多いため、この減税措置の恩恵に浴する企業の多くは、円安による恩恵も受ける可能性が高いと言えるでしょう。

これが、いまのところアベノミクスの恩恵に浴している業界の全リストです。その中に、「ホテル業界」が出てきたでしょうか。「外食産業」は?「百貨店」は?全然出てきませんね。つまり、これらの業界は、いまのところ、アベノミクスの恩恵の「蚊帳の外」なのです。言いかえれば、10数年来のデフレ不況に相変わらず苦しんでいるのです(日本がまだデフレから脱していない、ということまで煩わしい数値をあげて確認する必要はありませんね?)。

しかるに資本主義において、企業の拡大再生産は、至上命令です。それができない企業は、敗者として資本主義のバトル・フィールドから立ち去るのみなのであります。そうならないために、企業は、絶えざる売上アップを目指し続けるよりほかにはない。

ところが、デフレ経済下において、物価は下がり続けます。ひたすら下がり続けるのです。それがデフレということなのですから。それゆえ、ホテル業界や外食産業や百貨店業界は、全体として売上減の圧力に絶えずさらされることになります。それに抗して、個別企業は売上増を目指し続けるのですから大変です。

そこで次善の策として、当諸業界は、コスト・ダウンによる営業利益(=売上高-諸コスト)増を図ります。従業員にコピー用紙の使い方から何から細かく指導し、人件費をなるべく低く抑え、一人当たりの労働生産性をなるべく高め(要するに、従業員をコキ使い)、残業代はなるべく払わないようにします。つまり、デフレ下でその圧力に抗して生き残ろうとする企業は、おのずとブラック企業化するのです。

ブラック企業になり果てるほどのコスト・ダウンの実行にもやがて限界がおとずれます。なにせ、(企業側にとってはまことに残念なことながら)従業員はロボットではないのですから。

それでもなおも企業は利益率をアップさせたいと思います。そうしなければ、生き残ることができないのですから。しかし、デフレのせいで売上高は依然としてアップしない。コスト・ダウンは、従業員の消耗度から見て限界に来ている。

そのようなコスト・ダウンの限界状況が、自づからなる食品偽装表示を生むのです。つまり、食品偽装表示とは、対社会的な企業倫理を犠牲にした究極のコスト・ダウン戦略である、と言えるでしょう。むろん、企業トップがすべてを知っているのは当然のことです。社員教育の不備もなにもあったものではない。

安倍政権は、十月一日に消費増税を決定しました。それが、少なくともデフレ不況からの脱却を著しく遅延させることは確かです。それは、アベノミクスの恩恵の「蚊帳の外」にいる企業や業界のブラック化を促進し、偽装問題を深刻化させることを意味します。安倍政権はまったく困った意思決定をしてくれたものだと、あらためて思います。おそらく、近いうちにブラック企業問題や偽装問題に対処するための法案がでっちあげられることになるのでしょうが、そういう弥縫策の有効性は限定的なものでしかありません。デフレからの脱却の早急なる実現以外に、ブラック企業問題や偽装問題を解決する手立てはないのです。企業倫理の衰弱や、「おもてなし」文化の崩壊を嘆いてみても、何も益するところがない、ということでもります。

メディアがどこもはっきりとは言おうとしないので、あえて私が、「何をお前は当たり前のことを言うのだ」という非難を承知のうえで、申し上げた次第です。

〔付記〕朝日新聞が、当問題に関して、特集記事を組んでいます。その経済音痴ぶり、世間知の欠如ぶりの露呈した、ぬるま湯にどっぷりとつかった人間にしか書き得ない、微温的な、見るも無残な記事です。私の申し上げることが極論かどうか、できうれば、ご自分の目でお確かめください。digital.asahi.com/articles/TKY201311050618.html


〔コメント〕

☆Commented by murata19510321 さん

初めてコメントさせていただきます。今まで自称「熱心な読者」でしたが、今回の美津島さんのエントリーには、コメントせずにはいられなくなり、投稿させていただきました。

私は定年までの10年間、企業内で内部監査の仕事に就いていました。定年後も引き続き別な会社で監査業務に従事しております。

こうした私の業務経験から言えることは、まさに美津島さんが主張されるように、今回の食品偽装の淵源は、日本における15年来のデフレにあるということです。

美津島さんがおっしゃるように、今回の事件の表層を追いかけているだけでは、何の解決にもならず、また同じような事件が繰り返されるだけです。

企業収益の極大化を目指せば目指すほど、そのしわ寄せは、いかにコストを下げるかというところに行き着きます。その結果、こうした事件にいたるのです。そして結局は企業はそのしっぺ返しを受けることになるわけです。

よく、企業が利益を追求することは当たり前のことだと言われますが、その企業活動が成り立つには、よってたつ社会的な基盤がしっかりしていなければなりません。企業が自らの利潤を追求しすぎると、その基盤である社会の信用を失い、さらにはその基盤そのものを毀損してしまうというパラドクスに陥るわけです。

したがって、今回のような事件の解決策は、個々の企業におけるコンプライアンスの徹底だとか、コーポレート・ガバナンスの確立だとか、内部統制の仕組みの構築だとかではありません(もちろん大事なことではありますが)。

企業が無理をして利益を生みださなければならなくしている元凶であるデフレ状態からの脱却こそが最も有効な手段であると考えます。
そのためには、まずは政府がデフレ脱却政策に舵をきらなければなりません。

美津島さんのご主張はまさに翠眼です。


Commented by 美津島明 さん
To murata19510321さん

ハートのあるコメントを投稿していただいたことを心から感謝いたします。内部監査のプロによる、貴重なご意見、情報提供、とても説得力・迫力があります。こういう素晴らしいコメントをいただけただけでも、この文章を書いて本当によかったと思っています。

murata19510321さん のコメントに、私は同志愛を感じます。日本が少しでもより良きものになってほしいという思いが素直に共有できるような気がするのです。

自称「熱心な読者」などと遠慮をせずに、これからは、気が向いたらコメントをくださるようお願いいたします。
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山本太郎の何が本当は問題なのか (イザ!ブログ 2013・11・5 掲載)

2013年12月26日 06時57分11秒 | 政治
山本太郎の何が本当は問題なのか
――山本太郎・手紙騒動再論――


以下は、11月3日、当ブログに投稿した拙文「山本太郎の手紙騒動は低レベルの深刻な問題である」に対する宮崎二健さんのFBコメントへの自分の返事を加筆・訂正したものです。

*****

コメント、ありがとうございます。この問題の根は深いと思います。

一般国民が、山本太郎に不快感を募らせているのは、実に素朴で、彼の振る舞いが、鎮魂を司る祭祀王としての天皇に「ケガレ」をもたらしたからです。国民は、そのことに素直に反応しているだけなのですが、それが、おバカで鈍感な山本太郎にはどうやら通じないらしい。彼としては、首をひねるばかりです。そんな奴だから、今回のような騒ぎを起こした、とも言えるのです。また、同じことは、彼に投票した六十万人にも言えます。同じような鈍感さを共有しているからこそ彼に投票したのでしょう。「別に構わないじゃん。いいじゃん、いいじゃん」という例の殺伐としたノリですね。彼らも、一般国民がどうして不快感を示すのかさっぱりわからないのでしょうね。山本太郎とその支持者とは、そういう悪質な感性を共有しているのです。困ったことです。

「鎮魂を司る祭祀王としての天皇」について、いささか確認をしておきましょう。それが顔をのぞかせたのは、最近では、東日本大震災のときでした。当時の総理大臣だった菅直人が被災地に顔を出しても、「もう帰るのか。それで済むと思っているのか」と非難・罵倒されるのがオチだったのにひきかえ、天皇皇后両陛下が被災地を訪れ被災者にお声をかけられると、被災民たちは素直に両手を合わせて涙を流さんばかりでした。その光景をテレビで観て、私は素直に感動しました。「やはり、天皇でなければどうにもならない局面があるのだな」と思いました。同じ感想を持たれた方が、けっこういらっしゃるのではないかと思われます。それは理屈ではありませんね。

「天皇でなければどうにもならない局面」の最たるものが、一九四五年八月十五日だったのではないでしょうか。当時の日本国民のひとりひとりの思いはそれこそ十人十色だったのでしょうが、彼らが筆舌に尽くしがたいほどの多大の犠牲を払って、それぞれのポジションで大東亜戦争を戦い抜いてきたことは確かなことだったでしょう。すでに死者が膨大な数にのぼっていることも周知されていました。そのことを踏まえながら、敗戦の事実を国民に対して厳粛な空気のなかで告知し、その受け入れがたい事実を国民に受け入れさせることのできる存在は、天皇よりほかにはいなかった。そのことの深い意味を、『神やぶれたまはず』の長谷川三千子氏は、佐藤卓巳氏の『八月十五日の神話』を援用しながら、次にように述べています。

佐藤氏は、竹山昭子氏の『玉音放送』を引用して、「この放送の祭儀的性格」を指摘する。すなわち、それは単なる「降伏の告知」ではなく、「各家庭、各職場に儀式空間をもたらした」出来事であり、この放送を通じて国民全体が「儀式への参加」をした。だからこそそれが「忘れられない集合的記憶の核として残った」のだ、と佐藤氏は述べるのである。さらに氏は「この場合、昭和天皇が行使したのは、国家元首としての統治権でも大元帥の統帥権でもなく、古来から続いた祭司王としての祭祀大権であった」と述べて、この八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつたことを指摘してゐるのである。

八月十五日の天皇が、祭祀王として国民の前に登場したのは、たまたまそうだということではもちろんありません。そのことは、天皇という存在の根幹に関わることなのです。

和辻哲郎は、『日本倫理思想史』(一九五二年)において『古事記』を精密に分析して、次のようなことを言っています。すなわち、天皇は西欧における神のように一方的に祀られるものではなく、どこまでも「祀られる神」であると同時に神を祀る祭祀者であるという無限連鎖が存する。その帰結をどこまでもたどろうとすると、ついには虚空に消えてしまう。そこに、天皇存在の世界史的な意味での特異性がある、と。

いろいろと申し上げましたが、要するに、一般国民が山本太郎に対する振る舞いに対して示している不快感は、素朴なものであると同時に、天皇の歴史性に深く根ざしている、ということが言いたいのです。

ところが、日本が豊かな社会を実現し、大衆個人主義が浸透する過程で、そういう歴史的なコモンセンスを共有できない人びとが無視し得ない率で増えつつある。今回の騒動は、そういう危機的な事態を露呈した。そう考えるべきではないでしょうか。

そうであるからといって、そういう事態を野放しにすることに、私は与しえません。なぜなら、マルクスがいうごとく「無知が栄えたためしはない」からです。

鈍感で無知な彼らには、越えてはならない一線を越えるとどうなるのか、社会的にちゃんと分からせる必要があります。その姿勢を緩めれば、これまで国の秩序を根のところで支えてきたものに、確実に罅(ひび)が入ることになります。蟻の一穴ということです。山本太郎はバカで無能ですが、彼が国会議員というエリートの地位にあることは事実です。その地位を担うには、国民として踏まえるべきコモンセンスはちゃんと踏まえるという当然の義務が含まれます。彼には、その自然感覚の義務意識が欠如していることが今回の件ではっきりしたのですから、議員を辞するよりほかに道はないのです。そうしなければ、山本太郎と悪しき感性を共有する者たちに、間違ったメッセージを送ることになります。それは、お国柄の崩壊という致命的な事態に道を開く、終わりの始まりになる危険があるのです。

国を支えるものは、自然環境と同じで、壊すのはとても簡単ですが、一度壊すと修復するのはとても大変なのです。お国柄は、里山のようなものなのです。それをぶち壊すに任せれば、後には、殺伐とした住みにくい場所が残されるだけなのです。これは、憲法に国民主権が規定されていようとどうだろうと、そのこととはほとんど関わりのないことです。お国柄は、憲法によって規定される側面があると同時に、それを越える側面も確実にあります。私たちは、目に見えない伝統や慣習の網の目に支えられて生きているのです。そのことに対して、私たちは、あくまでも謙虚であらねばならないと、私は考えます。二健さんも、おそらくそうなのではないかと拝察いたします。

二健さんに対してではないのですが、念のために今一度言っておきたいことがあります。私が今回申し上げたことに、反原発議論の代理戦争の意図を深読みするのは、やめていただきたいということです。そんな不純な(?)動機は、これっぽっちもございません。むしろ、真面目に反原発運動を展開している人の立場を想像して、山本太郎とどう距離をとるのか苦慮していることだろうな、としなくてもいい心配をしてくるくらいなのです。政治的な立場にかかわらず、今回の件のひどさ、愚かしさは限度を超えていると、普通の人なら思うのではないでしょうか。


〔付記〕(2013・12・26 記す)

後日、当問題が思わぬ波及をして、脱原発・市民団体を解散させるに至った、ということを知りました。具体的には、静岡県焼津市の市民グループ「くろしおネットはまおか」が11月8日、同市の静岡福祉大で10日に予定していた山本太郎参院議員の講演会を中止することを決め、さらに多くの人に迷惑をかけたことの責任を取るために、担当者が、同グループを解散させる意思決定をしたというのです。

山本太郎は、自分の無思慮な振る舞いのせいで、自分と信条を共有しているはずの市民団体を解散に追い込んだのです。彼は、少なくとも、脱原発の仲間に対して土下座をして謝るべきでしょう。彼は、そうしたのでしょう。してないでしょう?やはり、この問題に関わっていると、不快感がせり上がってくるのを如何ともしがたい思いに襲われます。救いがたいバカが、国家の手厚い保護のもとに、国民のリーダーを気取って高給を貪るのを座視するほかないのは、片腹痛いこと限りなし、というよりほかはありません。
http://www.hoshusokuhou.com/archives/33912840.html
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