美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「米軍基地の75%が沖縄にある」は、事実上の虚偽記載である (イザ!ブログ 2013・7・12 掲載)

2013年12月17日 16時01分29秒 | 政治
つい最近まで私は、「日本における米軍基地の75%が沖縄にある」と信じていました。事実、目に触れる教科書や問題集にもそう書いてあるので、これまで塾の生徒たちにもそう教えてきました。学校の先生も、おそらくそんなところでしょう。

ところが、ツイッターで次のような記事を目にしたのですね。

産経ニュース(2012/03/04)
75%発言 沖縄の脱被害者意識を阻む人たち

つい最近のことだが、テレビのワイドショーを見ていて、思わず、耳を疑ってしまった。「沖縄の米軍基地は在日米軍基地の75%を占めているのです。75%ですよ」したり顔で「75%」を連呼する自称・ジャーナリスト氏に、司会者も「そうなのです。75%も沖縄に駐留しているのですよ」。

在日米軍基地の総面積は平成22年3月末現在で、10万2822ヘクタール。そのうち沖縄の米軍基地面積は2万3293ヘクタールで、全体の22・7%だ。

75%というのは、在日米軍基地のうち、米軍「専用」基地が沖縄に占める割合である。それも、実際は75%ではなくて、73・9%なのだが、それはさておき、佐世保や横須賀、厚木、岩国、三沢など自衛隊と共用している米軍施設は含まれていない。自衛隊と共用する基地を含めると、沖縄の占める割合は22・7%なのである。

実情を知らない視聴者が聞けば、「それは大変だ」ということになる。一般国民に、沖縄県民がいかに基地被害を受けているかを浸透させるには格好の数字ではある。       (中略)

沖縄は今年で復帰40周年を迎える。復帰の年に生まれた「復帰っ子」と呼ばれる年齢層が社会の中心になり、「戦争」と「米軍基地」への被害者意識は薄れつつあるように感じる。彼らの間から、それ以上に段階的な基地の撤去と沖縄の自立経済の確立への道を探ろうとする声が出始めている。

ところが、被害者意識の呪縛からの脱却を阻んでいるのが紹介したジャーナリスト氏や活動家たちで、彼らは自分たちの主義主張の発露のために沖縄を利用しているのである。

(中略)

沖縄にいると、日本の行く末を少しは真剣に考えるようになる。(那覇支局長 宮本雅史)



記事によれば、「75%」を強調しているのは、主に左翼メデイアや左翼ジャーナリスト・活動家である、と読めますが、事態はもっと深刻です。というのは、私が目にしたことのある教科書や問題集は、すべて「75%」記載だったような気がするからです。

それで、本当はどうなのか気になったので、インターネットで調べてみたのですが、なんとそれを調べ上げた奇特な方がいらっしゃったのですね。tamatsunemi.at.webry.info/201005/article_2.html

公民教科書の偏向記述

こういう偏向報道と関連しているのだろうが、実は、ほとんどの現行版公民教科書にも一部の現行歴史教科書にも、沖縄に米軍基地の75パーセントが集中していると書かれているのだ。以下に、その例を引用しておこう。

○中学校歴史教科書
帝国書院……「日本における米軍基地の75%が沖縄にあります」(229頁)

○中学校公民教科書
東京書籍 

米軍普天間基地の写真説明で「日本にあるアメリカ軍施設の約40%、面積では75%が沖縄県にあります」(41頁)。

大阪書籍 「沖縄のアメリカ軍基地」の写真説明で「在日アメリカ軍基地の約75%が沖縄県にあり、その面積は県の10%(沖縄本島の18%)にもおよんでいます」(168頁)。

教育出版 「冷たい戦争の後に残された課題」の大コラムの下、「沖縄のめざす道」の小見出し下、「沖縄県には、在日米軍基地の約75%が集まっています。そのため、住民は騒音や振動、米軍兵士による犯罪などの危険と隣り合わせの生活を強いられてきました」(150頁)。

帝国書院 「空から見た嘉手納基地(沖縄県)」の写真説明で、「現在日本にある米軍基地の半分以上は沖縄に集中しています。米軍基地の周辺では、米軍機による騒音や米兵の犯罪などの問題が発生しています」(163頁)。

清水書院 本文で「また、沖縄などでは、アメリカ軍基地を維持し続ける理由も問い直されている(⑤)。」と記し、側注⑤で「こんにち、東アジアのアメリカ軍基地の機能の多くが沖縄に集中し、また、日本にあるアメリカ軍基地や訓練場の約75%が沖縄におかれ、住民の生活空間を圧迫している」(95頁)。

日本書籍新社 「全国の在日米軍基地の整理・縮小問題が大きな課題となっている。とくに米軍基地施設の75%が集中する沖縄県では、人々の生活に多大な影響を与えている。米軍人が沖縄県民をまきこむ事故や事件があとをたたない」(146頁)。

扶桑社 「在日アメリカ軍基地」の語句説明で、「在日米軍基地の75%が沖縄県に集中している」(138頁)。


偏向報道も問題ですが、何も知らない子どもたちへの偏向教育による刷り込みはさらに大きな問題です。なぜなら、報道よりも学校教育の方が公共性の程度が高いからです。なんといっても、学校教育はわれわれの血税によってまかなわれているのですから。正直、私自身これまで長い間だまされ続けていたわけで、それを思うと怒りを禁じえません。その感情は、左翼勢力の狡猾さに向けられたものであると同時に、それを――意図的にか不勉強からかどちらかは分かりませんけれど――見逃してきた文部科学省にも向けられたものです。血税を投入して、次世代を担う子どもたちを洗脳しようと企てるとは、不埒千万です。

この件は、曖昧な部分を残さないように決着をつけておきましょう。

在日米軍施設・区域別一覧(防衛省ホームページ)

このURLの表のいちばん下に、以下の数字があります。

沖縄計 33施設・区域 231,761 千m²
全国計 132施設・区域  1,027,092 千m²

沖縄 231,761 千m² / 全国 1,027,092 千m²×100 = 約22.6%(小数第2位四捨五入) となります。

これが、全ての在日米軍基地のうち沖縄に占める割合です。

沖縄県庁が公表している資料にも、上とほぼ同じ数字が記載されています。
www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/toukeisiryousyu2403.html
「1. 基地の概況」の2ページ目です。

沖縄にある米軍基地の割合は、分母を、在日米軍基地全てにする場合と、そのうちの米軍「専用」基地にする場合とで、得られる数値が大きく変わります。だから、なにも説明をせずにいきなり「75%」と大きい方の数字を表記するのは、教科書の記載としては、「虚偽」と断じざるをえません。私は、条件を明示したうえで「22.6%」と表記するのが常識的であると考えます。百歩譲っても、ふたつの数値を条件を明示して併記すべきであると考えます。というのは、普通の人は、分母は在日米軍基地全てであると思っているはずであるからです。むろん、私もそうでした。

また、報道においても、いきなり「75%」と言い出す場合は、いま述べた普通の人たちの思い込みを悪用した虚偽報道であると断じざるをえません。分母を米軍「専用」基地にした場合でも、本当は「75%」ではなく73.9%の小数第一位を四捨五入したとして「74%」なんですがね。それをさらに繰り上げて75%にするとは、いささか強引のそしりをまぬがれません。

これからは、そういう目で教科書や報道に接することにしましょうね。油断もスキもあったもんじゃないとはこのことです。


〈コメント〉

Commented by kusanone-world さん
在日米軍基地の数字は、防衛省発表の132と言う数字からして、疑わしいものです。実際は、203ではないかと推定されます。防衛省のその数字は、地位協定(在日米軍基地の日本政府による米軍への「提供」の公式記録でありこれを恣意的に変えることは本来防衛省はできないはず)による3種類の基地に分類していないものであって、恣意的ですらあります。第1種類は、地位協定2条1項のいわゆる「米軍専用基地」、第2種類は、2条4項aの「米軍管理の米日共同使用基地」、第3種類は2条4項bの「自衛隊管理の米日共同使用基地」です。ところが、防衛省のホームページでは、第2種類は第1種類に含めてしまっています。なぜそうするのか。多分事実上の憲法違反の「集団的自衛権」行使に当たっているからではないかと推定します。また、第3種類の米軍基地を米軍基地とせず自衛隊基地として発表しているに近いのです。しかも、その数を実際(119基地)よりも55基地少ない64基地と発表しています。米軍のホームページ、自衛隊防衛省のホームページでも沖縄米軍基地は全国の74%と大いに宣伝していることは、彼ら基地維持勢力にとって、その数字が都合がいいからであると推定されます。彼らにとっては、全土基地方式の「基地国家日本」の問題を沖縄問題に閉じ込めることに利益を感じているからでしょう。約20%の米軍基地を国土の0.6%、人口の1%の沖縄県に集中させていることは、すさまじい基地の集中であると言わざるを得ません。なお、全世界の米軍基地の約33%が日本にあると推定されることも、付言する価値があることです。沖縄県への米軍基地の集中は、全世界の中で、日本に米軍基地が集中していることのそれこそ集中的表現であり、日本がとうてい独立国家であるとは言えないことを示しています。詳しくは、「沖縄・日本から米軍基地をなくす草の根運動」の機関紙「草の根ニュース」74号をご覧ください。平山基生


Commented by 美津島明 さん
To kusanone-worldさん

貴重な情報提供をありがとうございます。ご指摘の点、知らないことばかりでした。政府が、自分たちの実施したい政策のために、数字をいくらでも都合のいいように改ざんしている可能性が大いにありうることは、消費増税議論における税収弾力性の数値や公共投資の乗数の数値をめぐって、私自身、政府見解をあまり信じていないことから鑑みて、けっこう受けいれられます。国防に関しても、kusanone-worldさんのような批判的視点を持つことは、とても重要であると思っています。

ここで、お断りしておきたいのは、私は、沖縄の米軍基地の存在を正当化する側に加担するために、当小論考をアップしたつもりなどまったくない、ということです。自国の領土は基本的に自国で防衛すべきだと思っているので、沖縄から米軍基地がなくなることを願う気持ちは人後に落ちないつもりです。もしかしたら、あなたとは防衛に対する考え方が異なるかもしれませんが、それは勘弁してくださいね。

私がこの文章を書いた基本的な動機は、公教育で子どもたちに教える重要な数字は、きちんと条件を明示して、教え手が教えられるようにすべきなのに教科書の記載の仕方がそうなっていない、ということへの怒りなのです。私自身、「騙された」という思いが強くあります。kusanone-worldさん がおっしゃるように、①「米軍専用基地」から②「米軍管理の米日共同使用基地」を分離したとしても、「75%」と「23%」の乖離が失くなるわけではありませんね。むしろ、その方が分母が小さくなるので、「75%」の数値が大きく跳ね上がり、乖離が大きくなります。その場合、条件の明示・両数値の併記の必要性は高まることがあっても、低くなることはありません。私が申し上げたいのはそういうことです。高い・低いで言えば、「23%」でも十分に高い割合であると私は思っています。

また投稿してください。


Commented by okinawazin さん
ネットの誤った情報に惑わされて、勘違いしている方が多いみたいですが、
米軍専用施設だけでは無く、自衛隊と共同使用している施設を加えても、

「在日米軍施設の約74%は沖縄県に集中している」
で間違い有りません。

米軍専用施設に横田、厚木、横須賀、佐世保などの自衛隊と共同使用している
施設を加えても、在日米軍施設の約74%は沖縄県に集中しているのです。

「沖縄の在日米軍施設は23%しか無い」と主張する方がいますが、
その数字を導き出すには、
東千歳駐屯地、仙台駐屯地、朝霞駐屯地、伊丹駐屯地、北熊本駐屯地等の
陸上自衛隊、各方面隊を代表する自衛隊施設を米軍施設として、

無理に「米軍専用施設」や、「米軍と自衛隊との共同施設」に加えなければ

導きだす事ができません。
下記の資料の( )付きの施設が自衛隊施設です。

在日米軍施設・区域別一覧(防衛省)
http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_sisetsu/sennyousisetuitirann.html

ちなみに、防衛省の下記資料を根拠に、沖縄の負担は、
「在日米軍専用施設の74%」
「在日米軍施設の23%」を主張される方が居ますが、

在日米軍施設・区域(専用施設)面積
http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_sisetsu/sennyousisetumennseki.html
在日米軍施設・区域(専用施設)都道府県別面積
http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_sisetsu/sennyousisetutodoufuken.html

防衛省は、3種類ある在日米軍の使用形態を
2種類に分け資料を公表しています。

(1) 米軍専用施設(①専用施設+②共用施設)
(2) 一時利用可能施設(③一時利用可能施設)

資料を閲覧する方が誤読してしまうのは仕方がないです。


Commented by okinawazin さん

補足します。

まず、在日米軍の施設利用形態は次の3通りに分かれます。

A.米軍だけが使用する施設
B.米軍の施設だが、自衛隊も使用する施設
C.自衛隊の施設だが、米軍も使用する施設

より、正確に表すと、

A .在日米軍が専用で利用している米軍施設
B .日米地位協定2-4-(a) に基づいて日米で共同使用している施設
C .日米地位協定2-4-(b) に基づいて米軍が一時的に利用可能な自衛隊施設

そして、AとBを対象にした時の沖縄県の負担率が74%。
それに、Cを加えると23%です。

ですから、専用施設+共同施設では74%に成ります

自衛隊施設は上に上げた(C)以外に自衛隊専用施設があります。


Commented by 美津島明 さん
To okinawazinさん

貴重な情報をありがとうございます。

おかげさまで、論点の精緻化を図ることができました。

在日米軍の施設利用形態は、

A .在日米軍が専用で利用している米軍施設
B .日米地位協定2-4-(a) に基づいて日米で共同使用している施設
C .日米地位協定2-4-(b) に基づいて米軍が一時的に利用可能な自衛隊施設
の三つであること。

AとBを対象にした時の沖縄県の負担率が74%となり、それに、Cを加えると23%になること。及び、単に「専用施設+共同施設」というなら74%になること。

以上、納得です。自分なりに調べ直してみた事実とも符合します。その機会を与えていただいたことを重ねて感謝します。

私としては、マスコミや教科書や教育現場は、そういうふうに、正確に言うことが肝要である、と申し上げたいのです。単に「沖縄には米軍基地の75%があるんですよねぇ」では、報道言説としても教育言説としても困るということです。また、どうやらCが増えているという別の問題もあるようですし、そのことを考え合わせてもやはり、正確な事実認識の上に立って議論をすべきだとあらためて思いました。



*私は、この記事を掲載したときほど、ブログをやってよかったと思ったときはありませんでした。なぜなら、自分がアップした投稿に対するコメントやレスポンスによって、投稿の論点が精緻化されていって、投稿者自身が正しい認識を得るに至る、という道筋が、このときほどくっきりと浮びあがったときは、他にないからです。その点、議論の勝ち負けはどうでもいいと思っています。むろん、okinawazinさんにはボロ負けです。感情的な論争や唾のかけあい的な応酬の虚しさをあらためて痛感します。(2013・12・17 記す)
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健全野党の登場を望む (イザ!ブログ 2013・7・11 掲載)

2013年12月17日 15時44分51秒 | 政治
今回の参議院議員選挙での、各党の主張を聞いていてしみじみと思ったのは、日本にはいままともな野党が存在しない、ということである。それは、一般国民の政治的な選択肢をいちじるしく狭めるという意味で、きわめて深刻な事態である。言いかえれば、政党の布置の現状が、多様な民意をリアルに反映するものになっていないということである。それは、民主主義の危機であると言っても過言ではないだろう(もっとも、民主主義はいつも危機にさらされているものであるが)。

安倍自民党がとりわけ素晴らしい政党である、というわけではもとよりない。じつは、看過できない問題点が少なからずあると言っても過言ではないのだ。にもかかわらず、それをきっぱりと指摘し、自民党とはひと味異なる、ありうべき国家像を説得力のある言葉で国民に提示し、それを訴えかけることができている野党がまったくないのである。

アベノミクスの圧倒的な実績を目の当たりにして、それにどこかでひるみながら、あれこれとあら探しをして、にわか仕立ての反対論をブチ上げてみるが、どうにもならない。空振り三振の山を築いているというのが実状だ。情けないことである。民主党の細野幹事長が、「国民のみなさん、自民党を勝たせて、それでほんとうにいいんですかぁ」などと悲鳴を上げていたが、負け犬の遠吠えとはまさにこのことで、みっともないこと限りがない。

ポイントは、つい先ほど申し上げたとおり、安倍自民党の、とりわけアベノミクスの「看過できない問題点」をしっかりとわかりやすい言葉で指摘することである。そのためには――逆説を弄するようであるが――アベノミクスの評価すべき点をまずはしっかりと押さえ、それを潔く認めることである。それを認めることこそが、自分たちの政党を、政権を担いうる現実主義に立脚した健全野党に鍛え上げる第一歩なのである。

では、「アベノミクスの評価すべき点」とは何か。それは、その経済政策が株高・円安を導いたことではない。むろん、株高・円安は、株安・円高に苦しんできた日本経済にとって朗報である。しかしながら、それを評価すべき点の筆頭に持ってくるのは、いかにも格調が低い。というのは、それは単にアベノミクスの現象面をとらえた評価にすぎないからだ。その本質への透徹した視線をしっかりと織り込んだ評価をこそ、筆頭に持ってくるべきなのだ。

では、アベノミクスの評価すべき点の筆頭とは何であるのか。それは、先進諸国を含む世界56ヵ国ですでに採用されているインフレ・ターゲット政策を経済政策の柱としてはじめて取り入れたことである。このことによって、日本の経済政策は、やっと世界標準に達したのである。別言すれば、それまでの日本は、経済政策に関しては、いわゆる後進国であったのだ。経済政策後進国として、ああでもないこうでもないと雁首をそろえて、小田原評定を繰り返してきたのが、ここ二〇年の政治の実情であったのだ。

「先進諸国を含む世界56ヵ国ですでに採用されているインフレ・ターゲット政策を経済政策の柱としてはじめて取り入れたこと」をアベノミクス評価の筆頭に持ってくることには、少なくとも次のふたつのことが含意される。

ひとつめ。〈いわゆる「失われた二〇年」は、デフレがもたらしたものである。そうして、戦後の先進国では唯一、デフレが二〇年間も続いてきたのは、政府が誤った財政・金融政策を、とりわけ誤った金融政策を実施しつづけてきたせいである。だから、長期経済停滞から脱却するためには、とにもかくにも、デフレから脱却することが絶対条件であり、デフレから脱却するためには、過去の誤った金融政策を破棄して、世界標準の金融政策を実施するよりほかはない。というのは、厳しい国際経済情勢という同一条件の下、先進諸国のなかで日本だけがデフレに陥っているのは、日本だけがインフレ・ターゲット政策を実施していないからだと結論づけざるをえないからである〉。この見識を是とすることが含意される。

ふたつめ。〈変動相場制においては、自国通貨の対外的な変動が、自国経済にとってプラスに作用するように図ることを、経済政策の柱にするべきである。言いかえれば、通貨の、実体経済に与える影響が、無視できないほどの大きさになるという事態に、政府は真正面から対処することが求められることになる。それゆえ、固定相場制においては、財政政策が景気対策のメインであったのに対して、変動相場制においては、金融政策の、経済政策における相対的な重要性の高まりが、不可避的にクローズ・アップされることになる〉。この見識を是とすることも含意される。

(とはいうものの、若手のエコノミストによく見られるような公共事業の軽視は、正当であるとは言い難い。公共事業がたとえかつてのような景気浮上効果を失ったとしても、国民経済におけるその重要性がいささかなりとも減じたわけではないから。ここ15年間、先進諸国で公共事業を削減し続けてきた馬鹿な国家は日本だけである)

以上を踏まえたうえで、アベノミクスが、インフレ・ターゲット政策を経済政策の核心に据えたことを最大限に評価することが、次の政権を担いうる健全野党の絶対条件である。というのは、今後どの政党によって政権が担われようと、インフレ・ターゲット政策は継続されなければならないからだ。とするならば一見、みんなの党がその条件にかなう健全野党であるかのようである。しかし私見によれば、同党は、健全野党の条件にかなっていないのである。その理由は、以下の説明によって明らかになる。

上の太字でしめした健全野党の絶対条件を踏まえるならば、アベノミクスに対する、次に列挙するような批判が、いわゆる俗論として一笑に付されることは自明である。

いわく「アベノミクスの大胆な金融政策は、行き過ぎたインフレ(ハイパー・インフレ)を招く」。

いわく「大胆な金融政策は、インフレ率の上昇によって名目金利の上昇を招き、そのことによって、日本の財政を圧迫し、場合によってはギリシャのような財政破綻を招きかねない」。

いわく「大胆な金融政策によって、円安・株高が生じたとしても、それは実体経済の好況に結びつかないのだからただのバブルである」。

いわく「大胆な金融政策を行っても、銀行に資金が滞留するだけで貸出は増えない。つまり、効果はない」。

いわく「大胆な金融政策によって物価が上がったとしても、名目賃金は上がらないのではないか」。

いわく「大胆な金融政策によって円安が進むと貿易収支が赤字となり、経常収支も赤字となる」。

いわく「大胆な金融緩和によってインフレになると、年金生活者の生活が脅かされる。アベノミクスは一般国民に恩恵をもたらさない」。

きりがないのでこれくらいにしておこう。それらが俗論なのは、要するに、インフレ・ターゲット政策とはどういうものであるのかについての理解不足に起因する。インフレ・ターゲット政策とは、「中央銀行である日銀が目標インフレ率(2%)を明示し、人々が有する予想インフレ率を目標インフレ率に収束・安定化させ、そのことで実際のインフレ率を日銀が設定する目標インフレ率に誘導・維持するという政策」(片岡剛士『アベノミクスのゆくえ』光文社新書)なのである。この定義をきちんと頭に叩き込めば、俗論に惑わされて右往左往したりしなくなること請け合いである。

残念なことに、野党が展開しているアベノミクス批判は、上に挙げた俗論の枠を出た試しがない。既存野党が健全野党たりえないゆえんである。とくに、民主党海江田代表のアベノミクス批判の程度の低さが無残である。彼は、経済評論家出身ということになっているが、そのころ何を根拠に経済を論じていたのか、首を傾げざるをえない。「この半年で皆さんの暮らしが良くなったでしょうか」「物価が上がっている」「自民党が大勝すると暮らしが危うくなる」。馬鹿じゃないだろうかとしか評しようがない。

アベノミクスの真髄を正確に認識し、自分たちが政権を取った場合、それを積極的に引き継ぐことを言明することによってはじめて、その政党は、安倍自民党の弱点をえぐり出す切符を手にすることができる。

まず、インフレ・ターゲット政策の継続を制度的に確立するために、健全政党は、自民党が今回の選挙公約に日銀法改正を掲げていないことを徹底的に非難することができる。「安倍自民党は、アベノミクスのとりあえずの成功に慢心し、内閣が変わったり、政権が交代したりしても、インフレ・ターゲット政策が変更されることのないように、その継続性を制度的に担保する真摯な努力を怠っている。それが証拠に、今回の選挙公約に、安倍自民党は日銀法改正を掲げていないではないか」と。これは、安倍自民党の脇腹をえぐるくらいの効果のある批判である。いまの安倍自民党は、「支持率の高止まりによって自民党が慢心に陥っている」というイメージが国民の間に定着することを、なによりも恐れていると推察できるからである。

つぎに、インフレ・ターゲット政策の貫徹によって、デフレからの脱却を実現しようとするのであれば、デフレからの脱却の途上にある現段階において、消費税増税などありえないことを、「健全政党」は力を込めて主張することができる。1997年から今まで続いている、いわゆる橋本デフレが、同内閣による消費税率の3%から5%への引き上げによってもたらされたものであることは周知されている。

ところが当時は、消費増税決定に至る3年前から所得税の特別減税(1994年・マイナス5.5兆円)、所得税の制度減税(1995年・マイナス3.5兆円)、所得税の再びの特別減税(1996年・マイナス2.2兆円)、地価税の税率引き下げ(1996年)などの減税措置によって、消費増税実施による心理的な負担感をやわらげて、経済への悪影響をなるべく減らす努力・配慮をしていた。

それに対して、今回の消費増税においては、そういう配慮・努力はまったく見受けられない。それどころか、逆に2012年の個人住民税増税(扶養控除廃止・縮小)、2013年所得税復興増税などの増税措置が講じられている。それゆえ、今回の消費増税の心理的な負担感は、1997年の比ではないことが容易に想像できる。つまり、このまま推移すれば、わたしたちは「橋本デフレ」よりさらに深甚な悪影響を日本経済におよぼす「安倍デフレ」の悪夢を見ることを余儀なくされそうなのである。そうなれば、「デフレからの脱却」も「日本を取り戻す」ことも到底不可能となる。

それゆえ健全野党は、現段階での消費増税実施には断固反対しなければならない。選挙戦で「この期に及んでも、消費増税反対の旗色を鮮明にしない安倍自民党は、本気で〈デフレからの脱却〉や〈日本を取り戻す〉ことに取り組もうとしているとはいえない」と、国民に向かって腹の底から訴えかければいいのである。敵の「目的と手段との不一致」という弱点には、狼のように喰らいつくべきである。

そもそも今回の消費増税は、「社会保障と税の一体化」のために実施され、消費増税分は、すべて社会保障関係費に繰り込まれることになっている。多分に胡散臭い建前論に過ぎないような気もするが、それはそれとして、選挙戦を戦い抜くためには、この建前論を、敵の弱点をえぐり出すための武器として徹底的に利用すべきである。

超高齢社会に突入した日本の社会保障関係費は、一年間に一兆円ずつ自然増している。その事態に対処するためには、歳入と歳出のシステムをなるべく効率的なものにしなければならない。つまり、歳入の漏れをなるべく少なくし、歳出のムダを省かなければならない(何が無駄であるのかは別途考慮する必要がある)。歳入漏れを防ぐには、税金を国税庁が徴収し、社会保険料を年金機構が徴収するといういまの形をやめて、歳入庁を設置して徴収機能を一本化するのがもっとも合理的である。さらに、消費税の税額を記載した納品書を課税事業者に義務付けるインボイス方式とマイナンバー制とを導入する。高橋洋一氏によれば、そうすることで、最大20兆円ほどの徴収漏れが防げるという。20兆円といえば、消費増税による増収分の試算である13兆円を余裕で超える。とすれば、消費増税など必要なくなる。さらには、インフレ・ターゲット政策が軌道に乗れば、GDPが順調に伸びて税収の自然増が期待できる。

こんないいことずくめの歳入庁構想に、自民党は反対する。「社会保障と税の一体化」の核になるものを否定しようとするのである。健全野党なら、ここに喰らいつかない法はない。「自民党は、社会保障と税の一体化に本気で取り組もうとはしていません。それが証拠に、自民党は歳入庁構想に反対しています。社会保障と税の一体化の核心部分は、消費増税などではなく、実は歳入庁構想なのです。なぜなら、同構想が実現すれば、経済に深甚なる悪影響を与えかねない消費増税ではなく、徴収漏れの防止によって、充実した社会保障制度の維持の財源を安定的に確保できるからです。自民党は、なぜ歳入庁構想に反対するのか。それは、同党が、国民を差し置いて、財務省の意向を最優先しようとするからです。財務省は、自分たちの権力の源泉である国税庁を手放すことを快く思っていないのです。歳入庁の設置は、あきらかに財務省の権力を弱体化させます。自民党は、財務省の意を汲んで歳入庁構想に反対しているのです。このように自民党は、あいかわらず官僚との癒着を断ち切れていない。旧態依然とした体質を脱しきれていないのです。財務省べったりだからこそ、財務省が目論む消費増税に対して、安倍自民党は真正面から反対の意を表することができないのです。国民のみなさん、ゆめゆめ騙されてはいけません」。健全野党は、国民に、そう訴えかければいいのである。

健全野党は、以上のことを国民経済に立脚して主張しなければならない。「1%対99%」のうちの「99%」に立脚して主張するのだ。だから、健全野党は、所得再分配の充実を目指す。ここで、健全野党は、「1%」に立脚するみんなの党や維新の会とは袂を分かつ。

安倍内閣は13年度予算案で、生活保護費のうち生活費にあたる生活扶助基準の引き下げを提示している。また、党として、生活保護費の給付水準の10%切り下げを目指している。アベノミクスの成功によって、生活保護を受けていない人々の名目賃金・実質賃金がともに増えていくのに対して、生活扶助基準額を引き下げれば、生活保護を受給している人とそうでない人との格差が広がることになる。それは、人生の挫折者の再チャレンジの道を断つことを意味する。だから、健全野党は安倍自民党の生活保護弱体化政策に断固として反対しなければならない。弱者切り捨て政策は、純粋にマクロ経済的な視点からだけでも、得策ではない。なぜならそれは、有効需要の強制的な削減を意味するからである。

国民経済に立脚することは、国家主権を脅かすものに対して、断固たる態度で臨むことを意味する。揺るぎない国家主権と国民経済をより豊かなものにすることとは、表裏一体の関係にあるからだ。だから、健全野党は、国家主権を揺るがしかねないTPPへの参加には、断固として反対しなければならない。TPP参加の是非は、算盤勘定の問題ではないのだ。

揺るぎない国家主権の確立のために、健全野党は、総合安全保障の充実を目指す。だから、豊かな経済社会の土台を成すエネルギー安全保障への競争原理の安易な導入に、健全野党は、断固として反対しなければならない。健全野党が、電力自由化・発送電分離に与することなどありえないのである。また、エネルギーの安定供給を脅かす、安易な脱原発推進議論に対して、健全野党は一定の距離を取らざるをえない。現状で、エネルギーの安定供給をなしうるのは、火力発電と原子力発電のほかにはないからである。また、メガ・ソーラー関連業者が国民所得を不当にも掠め取るだけの、再生エネルギー固定額買取制度の即時撤廃を、健全野党は、国民経済重視の立場から孤立を恐れずに主張するよりほかにない。再生エネルギーに、安定供給をなす力は現状では想定しがたいからである。健全野党は、国民を裏切るわけにはいかないのだ。

このように、経済政策に限ってみても、安倍自民党は、一見絶好調のようなのだが、実はツッコミどころ満載なのである。私は、その一部分に触れてみただけなのであるが、それを攻めあぐねている既成野党は、不勉強に過ぎる。おそらく、国家百年の経綸が、その腹にないのだろう。それは、国民の行く末を心の底から思いやる惻隠の情が欠けているからである。国を導こうとするリーダーとして、なんとも情けないことである。

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「石炭・LNG発電の最新技術」の動画がありました  (イザ!ブログ 2013・7・4 掲載)

2013年12月17日 07時47分35秒 | エネルギー問題
ひょんなことから、「石炭・LNG発電の最新技術」を紹介する動画を見つけることができました。ガリレオ・チャンネルで放送された「ニッポンの火力発電がスゴイ!石炭・LNG発電の最新技術!」です。ちなみにガリレオ・チャンネルは、1998年4月〜2011年3月までTOKYO MXで放送されたワック制作・著作の科学ドキュメンタリーです。2011年4月からは、「ガリレオX」として生まれ変わり、BSフジで毎週日曜日ひる11時30分〜12時に放送されています(知りませんでした)。

先日、石炭火力発電についての報告をアップしました。

「日本の石炭火力発電は世界最高水準である」
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/fbf53ecf276af94a454ab3e55ecde1d4

素人のにわか勉強でデッチあげた論考なので、舌足らずなところが少なからずあり、読み手にとって、実感の伴わない記述に戸惑われた方もいらっしゃることでしょう。その点、「To see is to believe.」というわけで、これを観れば、いろいろと腑に落ちるところがあるのではないかと思われます。

私としては、次の四つを新たに知りました。

ひとつ。LNG発電におけるコンバインド・サイクル発電は、温度条件1500℃で熱効率59%を実現し、世界最高水準であること。なお今日では、温度条件がさらに上がっているので、熱効率はもっと上がっているようです。日本は、石炭火力発電においてのみならず、LNG火力発電技術においても世界最高水準なのですね。「オバマよ、日本を見習え」とあらためて言いたい。火力発電全般をリードしているのは日本であって、アメリカではないのです。オバマには、それをきちんと踏まえたうえで、エネルギー問題について発言していただきたい(どうもオバマは、日本に対してあまり良い感情を抱いていなくて、どこか軽く見ているところがあるように、私は感じるのです。反米感情、というのではないんですよ。オバマ個人に対して、どこか癪に障るところがあるのです。なんとなくですけどね)。

ふたつめ。燃料としての石炭のうち、現状で主に利用されているのは、高品質の「れき青炭」であるが、低品質の「亜れき青炭」やさらには「かっ炭」の利用が可能となる研究が進められていること。この技術が実現すれば、世界の大気汚染の改善に資するところ大ですね。

みっつめ。「石炭ガス化複合発電」(IGCC)は、石炭をガス化して先ほど述べたLNG発電におけるコンバインド・サイクル発電につなげることで、熱効率を60%にまで飛躍的に高めようとする技術開発であること。

よっつめ。「石炭ガス化燃料電池複合発電」(IGFC)は、石炭をガス化して、それを燃料電池に利用し、「石炭ガス化複合発電」(IGCC)よりもさらに高い熱効率を実現しようとする技術開発であること。

このような、国家のエネルギー政策の根幹に関わるような技術の進歩・改善の心強い現状を垣間見るにつけ、エネルギー政策に安易に競争原理を持ち込もうとする新自由主義の流れが、いかに薄っぺらくて、お門違いのものであるか、少しはお分かりいただけるのではないでしょうか。私は、発送電分離や電力自由化に反対の意を表する者です。欧米社会は、間違ったことをしでかしてしまったのです。日本は、その間違った道をこれから歩もうとしています。どうして、日本はいつもこうなのでしょう。教育政策においても、一〇年ほど前、アメリカでの「ゆとり教育」の失敗が判明し、撤回されたころに、日本はそれを取り入れ、予想通り失敗しました。また同じことを、今度はエネルギー政策で繰り返そうとしているのです。

さて、番組は二部に分かれています。第一部は、日本近代における火力発電の技術の発達をコンパクトにまとめた内容になっています。第二部が、現代における火力発電の技術開発を扱っています。そのなかで、磯子火力発電所も登場します。合わせて30分にも満たない短時間ですから、お気軽にごらんください。


ニッポンの火力発電がスゴイ!石炭・LNG発電の最新技術【1/2】


ニッポンの火力発電がスゴイ!石炭・LNG発電の最新技術【2/2】
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日本の石炭火力発電は世界最高水準である (イザ!ブログ 2013・6・30,7・3 掲載)

2013年12月17日 06時45分05秒 | エネルギー問題
まずは、次の記事を見ていただきたい。

「オバマ大統領、既存発電所のCO2も規制へ 温暖化対策発表」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130626-35033855-cnn-int
「CNN.co.jp 6月26日(水)10時59分配信

ワシントン(CNN) オバマ米大統領は25日、ワシントンのジョージタウン大学で地球温暖化を含む気候変動対策について演説し、現在稼働している石炭火力発電所からの二酸化炭素(CO2)排出規制を盛り込んだ新戦略を打ち出した。

(中略)

同戦略の効果が現れるまでには時間がかかるかもしれないが、CO2汚染を削減し、米国民を気候変動から守るためには、今、さらなる備えをすることが必要だと大統領は指摘。米国は世界最大の経済国として、また世界2位のCO2排出国として、世界をリードしなければならないとの認識を示した。

(中略)

オバマ大統領は2009年の時点で、2020年までに温暖化ガスの排出量を05年のレベルから17%削減するという目標を打ち出し、政権1期目では新規に建設される火力発電所に対する規制を制定している。

今回の演説では現在稼働中の発電所に対するCO2排出基準の確立を打ち出した。基準は発電所が業界や州、労働団体などの関係者と協議して設定するものとし、米環境保護局に対し、2014年6月までに具体的な提案を、その1年後に最終案をまとめるよう求めている。

米国では現在、電力の約40%を石炭火力発電に依存している。」


この記事を読むと、オバマのアメリカが、これから火力発電所のCO2排出の削減に関して世界をリードしていくかのように読めますね。また、火力発電所は相変わらず、煙突から煙をもくもくと吐き出して、地球温暖化の元凶であるかのような印象も受けます。これ、ほんとうでしょうか。

″いやいや、そんなことはない。火力発電所のCO2排出の削減に関しては、日本が世界をリードしているし、これからもその役割がますます期待されている。また、日本の火力発電所は、どこかの国みたいに煙突から煙をもくもく吐き出したりしていませんよ″と、私は言いたいのですね。

「え?それホント?」と思われたあなた。これから、ちゃんと順を追って説明しますね。

私は、先月の二八日(火)に、神奈川県は横浜市の磯子区にある磯子火力発電所を見学してきました。そこで知り得たことをこれから皆さんにお伝えして、上の主張を裏付けたい、と思っています。




上の全景図で、設備の配置を、石炭のルートをたどる形で説明しておきましょう(退屈でしょうが、まあ、我慢して聞いてくださいね)。

右端の灰色の石炭船で運ばれてきた石炭は、その舳先の左側にある円柱形で灰色の石炭受入ホッパに陸揚げされ、そこから左に伸びている細長いうすい青色のベルトコンベアーで、敷地左端にある四つの淡い水色のクローバー型の石炭サイロに運ばれます。ちなみに、石炭を運ぶコンベアーは、密閉パイプ内のベルトを空気で浮上させて搬送する方式を採用しています。これらのシステムは、石炭粉じん飛散防止、騒音・振動の低減に効果的です。

石炭サイロに運ばれた石炭は、写真の中でひときわ高い、色違いの水色の二つのボイラー建屋のなかの石炭バンカーとそれに続く給炭機へと運ばれ、最後に微粉炭機で粉末状にされ、ボイラーで燃やされます。そこで発生した熱によって、ボイラー内部にある何千本もの細いパイプを通る水を加熱し、高温・高圧の蒸気をつくります。蒸気条件は超々臨界(USC:Ultra Super Critical)を採用していて、世界最高水準を達成しています。これは、今回のお話のなかでもっとも重要なものなので、後ほどあらためて取り上げます。なお、狭い敷地を最大限に活用するために、同規模の従来型ボイラーより、設置面積の少ないタワー型ボイラーを日本ではじめて採用しています。だから、ボイラー建屋が高くなるわけですね。

蒸気は、ボイラー建屋の手前の、黄色い長方形やオレンジ色の横線の見られる平らなタービン建屋内のタービンに送られ、その噴射力と膨張力によってタービンの羽根車を高速回転させ、発電機ローラーを回転させることにより電気を起こします。タービンを回転させた蒸気は、タービン建屋内の復水器に送られ、海水で冷却されて水に戻り、再びボイラーへ送られます。ちなみに、蒸気がタービンに送られるところからは、原子力発電所の場合も、基本構造に違いはほとんどありません。

「煙突の手前の、ブレード・ランナーに出てくるようなパイプの構築物は、なんなんだ」と気になった方も、いらっしゃるでしょう。それは、排煙脱硫装置と言います。詳しくは後ほど。あ、そうそう、言い忘れるところでした、煙突は200mです。高いですね。これについても、ちょっと驚きのお話があるのですね。それも、後ほどに。

ついでながら、手前の大きなふたつのタンクは、東京電力の敷地内の構築物です。磯子火力発電所は、東京電力ではなくJ・POWER(電源開発株式会社)の傘下にあります。J・POWERは、1952年、政府によって設立された電気の卸売会社で、2004年に民営化され卸電気事業を営んでいます。日本全国に発電所、送変電設備を保有し、一般電気事業者(10電力会社)に電気を供給しています。

ところで、みなさんの素朴な疑問の第一は、石炭火力発電っていまどき必要なのっていうことでしょう?国内の炭鉱がすべて閉鎖されたのですから、そう思うのも無理はありません(ただし、夕張炭鉱の地下採掘作業だけはいまでも行われている。地下採掘技術輸出のため)。

ところが、それはまったくの誤解なのです。次のグラフを見てください。




2009年の、主要国の電源別発電電力量の構成を帯グラフにしたものです。

石炭が、石油や天然ガスにとって代わられているとは言い難いのが現状であるというのが一目瞭然ですね。

先進国の場合、アメリカが約45%、韓国が46%ドイツが44%、イギリスが29%、日本が27%となっています。また、新興国の場合、中国がなんと79%、インドが69%となっています。世界全体でも約41%という高さです。ちなみに、記事のなかで、アメリカが40%となっているのは、近年シェールガスなどの天然ガスへの依存度が高まっているということでしょう。いずれにしても、世界が石炭火力に大きく依存している現状がお分かりいただけたことと思います。

そうして、現状のみならず、将来においても、石炭は発電の主役としての役割が期待されています。IEAによれば、いまから22年後の2035年においても、石炭は発電の主役であり続けるとのことです(IEA A World Energy Outlook2011)。ちなみに、同じくIEAによれば、2035年の世界の発電総量は、2035年の約1.8倍にふくれ上がっているそうです。

では、エネルギー資源の埋蔵量はどうでしょうか。



上の図から分かるとおり、石炭の確認埋蔵量は、石油の約3倍、天然ガスの約2倍です。ウランを含めた主なエネルギー資源のなかでもっとも埋蔵量が豊富なのですね。資源の安定供給の観点からも、石炭の重要性は増します。

それだけではありません。電力の安定供給のベースを作ってきた原発は、いま軒並み稼働停止状態にあります。それで、石炭火力発電の重要性が急浮上しているのです。それに関連して次に掲げるのは、産経新聞六月二日(日)の記事(記者 長谷川秀行)です。

原発停止で火力発電の燃料費負担が急増する中、天然ガスや石油より安く、電気料金の値上げ抑制につながる石炭火力が再評価されている。政府は環境影響評価(アセスメント)の審査基準を見直して建設を後押しし始めた。

(中略)

発電量1キロワット時あたりの燃料単価は、液化天然ガス(LNG)の11円、石油の16円に対し、石炭はわずか4円。東日本大震災前の平成22年度と比べ、25年度に電力各社が支払う燃料費の増加額は原発停止分だけで3兆8千億円になるとの推計があるが、大半は石油とLNGだ。安価な石炭火力を増やせば、円料費を大幅に削減することができる。

しかも、産出国に偏りがある石油や天然ガスと比べ、石炭は世界的に産出し、可採埋蔵量が多い。中東の政治情勢などを勘案すれば、石炭火力の拡大はエネルギー安全保障の面でも大きな意味を持つ。

第一生命経済研究所の永浜利広主席エコノミストの試算では、現在、発電電力量の4割を超えるLNGの割合を1割分減らし、2割台の石炭火力を1割分増やせば、実質国内総生産(GDP)は3年後に1兆6千億円(0.3%増)程度押し上げられる。企業のコスト負担が減って業績が改善し、設備投資が増えるほか、家計の所得増が個人消費にプラスに働くことなどが期待できるためだ。


ふたつほど説明を加えておいた方がよさそうです。ひとつは、記事のなかの「発電電力量の4割を超えるLNG」という数値と上記「主要国の電源別発電電力量の構成」の帯グラフのなかの日本の「天然ガス27.4%」とはつじつまが合わないではないか、という疑問についてです。

記事のなかの「発電電力量の4割を超えるLNG」という数値は、直近の(おそらく2012年の)ものであるのに対して、帯グラフのなかの日本の「天然ガス27.4%」は2009年のものなのです。2011年度は、東日本大震災の影響による原子力発電所の長期停止等により、火力発電量が増加しました。原発の長期停止は、それまでの安定した電源構成を激変させたのですね。原子力がそれまでの29%から11%へ18%も激減したのに対応して、天然ガスは29%から40%へ、石油は8%から14%へ激増しています。それらの激増分を足すと17%になりますから、原子力の激減分をほぼ天然ガスと石油の激増によってカバーしたと言えるでしょう(それに対して、石炭はほぼ横ばいです)。そのコスト増が、最近の電気料金の大幅な値上げの主たる要因のひとつになっているのですね(そのことひとつとってみても、発送電分離によって電気料金の値下げを、という主張が筋違いであることが分かります。それについては、いずれ)。だから、現在の電源構成は、応急処置的なものであって、この構成が固定化してしまうのは、コストの面からも、エネルギー安全保障の面からも、とてもマズイのです。

ふたつめは、「企業のコスト負担が減って業績が改善し、設備投資が増えるほか、家計の所得増が個人消費にプラスに働く」の箇所です。これはマクロ経済学の基本を踏まえたうえでの議論です。企業の設備投資は、それ自体、GDPの増加をもたらしますが、それにとどまりません。設備投資増は、マクロ的な観点からは、新たな雇用を生み出します。それは、家計の所得増をもたらし、所得増は消費増をもたらします。その分、GDPが増えるのです。

とはいうものの、「石炭火力発電に、期待に満ちた熱い注目が集まっているのは分かった。しかし、煙モクモクの石炭火力発電は、SOx(ソックス・硫黄酸化物)やNOx(ノックス・窒素酸化物)やばい塵(じん)を大量に排出して、深刻な大気汚染をもたらすではないか」という疑問が湧いてきた方が少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

その疑問をいだいたままでけっこうですから、次のグラフを見てください。




アメリカって、SOx排出量に関してはお世辞にも先進国とは呼べない状態ですね。フランスに至っては、NOxの排出量さえもひどい水準です。それにひきかえ日本は、すごく高いレベルです。SOxやNOxの排出量を押さえる技術に関して、日本は超先進国で、世界をリードする立場にあることが一目瞭然です。

確かに、石炭が燃焼するとSOx・NOx・ばいじん(すすや燃えカス)が大量に発生します。日本では、高度経済成長時代、深刻な大気汚染が大きな問題になりました。しかし、過去四〇年にわたり環境対策技術や効率的な燃焼方法を開発して、環境負荷を低減する努力を積み重ねてきた結果、日本は、世界の石炭火力を牽引する存在にまで成長しました。

今日、石炭火力の煙はきちんとした浄化処理を行ったうえで大気中に放出しています。「煙突から煙モクモク」は過去のものとなりました。どこかの国で問題になっているPM2.5とは無縁の、ほとんど何が出ているか見えない状態なのです。

磯子火力発電所の取り組みを具体的に述べておきましょう。同発電所は、従来より低NOxバーナや二段燃焼といった技術によって、NOxの排出量を抑制してきました。それに加えて、新1・2号機では乾式排煙脱硫装置(全景写真の煙突の手前にある構築物)を設置して、排ガス中の窒素酸化物の87.5%以上の除去を実現しています。

ばいじんについては、電気式集じん装置(全景写真の、ふたつのボイラー建屋の後ろに隠れている)で対応し、その99.9%以上を除去しています。

SOxについては、上で述べた乾式排煙脱硫装置が、その除去に当たり、除去率95%以上を達成しています。

磯子発電所は、横浜市と日本ではじめて公害防止協定を締結し、環境対策を徹底しているのですね。

「しかし」と新たな疑問が湧いて来た方がいらっしゃることでしょう。「石炭は二酸化炭素を大量に排出するではないか。それは、いま環境問題のなかでとりわけ大問題になっている地球温暖化の大きな原因である。だから、石炭火力発電所の設置を推進することは、時流に合わないのではないか」

この疑問に答えることが、当論考の主たる目的です。かなり長くなりましたので、それについては、稿を改めようと思います。



排煙脱硫装置。その後ろから伸びているのは、200mの煙突である。

*****

前回、磯子発電所をはじめとする日本の石炭火力発電所は、大気汚染の原因となるNOx(ノックス・窒素酸化物)・SOx(ソックス・硫黄酸化物)・ばいじんを除去する世界最高水準の技術を有することを述べました。しかし、それだけでは、地球温暖化の主な原因とされている二酸化炭素を大量に排出するという、火力発電の最大の弱点が克服されたとは言えない」という問題提起をしたところで終わりました。

まずは、次の帯グラフを見ていただきたい。



http://www.isep.or.jp/library/4409 環境エネルギー政策研究所HPより

確かに、化石燃料(LNG・石油・石炭)はほかの燃料と比べて、二酸化炭素の排出量が突出しています。また化石燃料のなかでも、とりわけ石炭は排出量が多いですね。このグラフを見る限り、なんとも分が悪いと申し上げるよりほかはありません。

ここからは、「ところが」というお話になります。次の折れ線グラフを見てください




温室効果ガスのCO2を削減するためには発生する比率を低くすることと、発生量全体を抑えることの両方が必要です。燃焼によって発生するCO2は同じ電気を作る場合、石炭は石油と比べると通常2倍近くになりますが、日本の石炭火力は蒸気タービンの圧力や温度を超々臨界圧(USC:Ultra-Super Critical)という極限にまで上昇させる方法で、欧米やアジア諸国に比べて高い発電効率を実現しています。発電効率が向上すればするほど、石炭火力発電所で使われる石炭の量が減少し、CO2の排出量の減少に貢献します。言いかえれば、発電効率の向上によって、単位発電量あたりのCO2排出量は確実に低下するのです。

ここで、超々臨界圧(USC)という耳慣れない言葉に戸惑われた方が、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。「臨界」といえば、原子力発電特有の言葉と私たちは思い込んでいるからです(私もそうでした)。それについて、いささか説明を加えておきましょう(いささか無味乾燥な技術の言葉が並びますが、ご容赦くださいね)。

水は、摂氏100℃で沸騰し100℃以上にはなりません。沸点に達した水は水蒸気になります。ここで、臨界圧力以下の気相を蒸気と呼びます。ところが、温度と圧力を共に臨界点(臨界圧力約22.1MPa〈メガパスカル・218気圧〉および臨界温度約374℃)以上にすると、物質は液体とも気体とも異なる特殊な状態をとります。この状態にある物質を超臨界流体と呼びます。この物理・化学の原理を利用して、「亜臨界圧」や臨界圧を超えた「超臨界圧」が、さらには、臨界温度を超えた「超々臨界圧」という技術が次々と生み出され、発電効率を高めることになります。次のグラフを見てください。



http://highsociety.at.webry.info/200912/article_51.htmlより

1965年から80年までの「亜臨界圧」時代を経て、80年代初頭に「超臨界圧」の「松島」が建設され、さらに、1990年代後半に「超々臨界圧」の「松浦2号」が建設され、「磯子新1号」に至っています。こうやって、日本は石炭火力発電効率において、すなわちCO2削減技術において、世界のトップ・ランナーとして走り続けてきたのです。そのなかでも、グラフを見る限り、J‐POWERが世界最高水準の技術を牽引してきたことが分かります。

このことが、世界のCO2削減にとってどれほどの大きな意味を、可能性として持っているのかは、次の図を見ていただければ一目瞭然なのではないでしょうか。




仮に日本の石炭火力発電の最高水準性能をCO2排出量の多い米国、中国、インドに適用した場合には、現在の日本の年間CO2排出量より多い約13.5億トン‐CO2の削減効果があると試算されています。石炭火力発電、というCO2排出に関して難題とされてきた分野で、日本の最高水準の技術が国際貢献のできる可能性は小さくないというべきでしょう。それと、冒頭のオバマ演説の記事で、オバマは、まるでアメリカがこれから火力発電のCO2削減の分野で世界をリードしていくかのような口ぶりですが、これまで述べてきたことから、オバマは、三顧の礼で日本の技術者たちを顧問として迎える慎ましさを示すべきであることがお分かりいただけるのではないかと思います。日本から教えを請うことで、アメリカのCO2削減の技術は飛躍的に伸びるはずです。そのことが、石炭をはじめとする「限りある化石燃料」を有効活用することに直結するのですから、日本もその申し出があれば、(損はしないようにしながら)大いに協力すればいいと思います。こういうところでこそ、日本は「毅然と」してほしいものです(余計なところでは、べつに「毅然と」しなくていいから)。

さて、石炭火力発電のさらなる高効率化の試みは、そのことにとどまりません。

J‐POWERは(ということは、ほかの石炭火力発電関連企業も)、世界に先駆けて「石炭ガス化複合発電」(IGCC:Integrated coal Gasification Combined Cycle)や「石炭ガス化燃料電池複合発電」(IGFC:Integrated coal Gasification Fuel cell Combined cycle)といった次世代の最先端技術に取り組んでいます。ここでそれらの技術的な詳細について触れるのは、煩雑に過ぎますし、にわか勉強の私の役柄でもないとも思いますので、以下に、それらの概念図を掲げておきますので、ざっとごらん下さい。いずれにしても、発電効率が良くなればなるほど、CO2の削減に資することは明らかです。




上の図のいちばん下に、「CO2分離回収技術」とあり、枠の外に「CO2輸送・貯留へ」とあるのが、これも開発中の「二酸化炭素回収・貯留技術(CCS:Carbon Capture & Storage)です。これまでご紹介した発電効率を高めるための諸技術は、CO2の排出量を減少させはしますが、それが外部に排出されることそれ自体をなくすものではありません。このCCSは、下の図にあるとおり、発電時に発生したCO2を回収して地中へ閉じ込める方法で、国内外の機関が研究を進めています。将来、世界のCO2排出量の約100年分に相当する2兆トン‐CO2を世界全体で貯留できる可能性があるとされているそうです。まあ、これはけっこう先の話でしょうね。これも下に概念図を掲げておきましょう。


www.jpower.co.jp/bs/karyoku/sekitan/sekitan_q03.html

ずいぶん話が広がってしまいました。話を磯子火力発電所に戻しましょう。

環境保護のために、同発電所は、次のような細かい配慮もしています。

水質・温排水対策として、同発電所で発生するプラント排水は、総合排水処理装置により浄化し排水しています。また、復水器で蒸気の冷却用に使われる海水の取放水温度差は7℃以下、取放水流速は船舶の航行に影響を及ぼさない速さになっています。

騒音・振動対策。発電機などの機器類を建屋内に収納することや、低騒音型機器を採用することによって、騒音や振動が周辺環境に与える影響を低減しています。

石炭灰の有効利用。石炭を効率的に燃焼させるだけでなく、副産物である石炭灰の再資源化にも力を入れています。具体的には、セメント原料として、石炭灰をほぼ全量有効利用しています。

さらに、景観にも細やかに配慮しています。横浜港を挟んだ対岸の小高い丘にある根岸森林公園から海をながめた場合、200mの煙突がなるべく目立たないようにするために、円筒形ではなくて平べったい作りにして、同公園からは、いちばん細長い面が見えるようにしています。これには、感心することしきりでした。

説明がいささか細部に渡りすぎた報告だったかもしれません。しかしながら、思わずそういう書き方になってしまったのは、日本の技術者たちの地道で粘り強い、そうして誇りに満ちた努力の積み重ねによって、日本の電力事情が、一歩また一歩と改善されてきた歩みの一端でも、これを読んでいただいた皆さんに、感じ取っていただきたかったからです。同発電所内を案内してくれた工藤さんという方の、技術者としての熱心な明るい語りを聞いているうちに、私は、日本の発電所の関係者一般の、物静かな深い思いが伝わってくるのを感じました。彼らには、日本人のいちばん良いところ―モノ作りに没頭する無私のこころ―が保たれているのではないかと思った次第です。

それを思うにつけ、私の脳裏に浮かぶのは、あの「ゲンパツ反対、どん・どん・どん」の反原発連中の痴呆的な有様や、それに阿ねる脱原発知識人の醜悪さや、それを票に結びつけようとする不健全弱小野党の救いがたさです。別に自民党が素晴らしいとは言いませんが、自民党の現実的な原発推進に対抗しようとする勢力は、あまりにも幼稚であり、非現実的であり、無責任でもあります。彼らは、いったい何を考えているのでしょうか。健全野党が育ってくれないことには、国民の政治的な選択肢がいちじるしく狭められてしまうではありませんか。いくら何でも、愚かなことを言い募る政党に票を投じるほどに愚かな国民は、いてもごく少数でしょう。この、自民党一人勝ち情況は、日本の政治の新たな危機です。

この世に、一気に解決できることなんてひとつもありません。現場の関係者たちの寡黙で地道な努力の積み重ねによって、諸問題はひとつずつ具体的に解決されていくものなのです。そのことに例外はありません。空騒ぎをして彼らの邪魔をしたりしないで、彼らを暗黙のうちに信頼し、プロとしての彼らに「託す」という振る舞いこそが、彼らを心底から奮い立たせ、事態の改善に着実に一歩近づく道なのです。それくらいのこと、大人であるはずの彼らが、なぜ分からないのでしょうか。分かろうとしないのでしょうか。顔を洗って出直せと言いたい。

今の日本社会の豊かさの維持を望むのならば(そんなもの要らないなどと言う人は、その恩恵に浴している自分の姿がまったく見えない人です)、エネルギーの安定供給がその土台になることを認めるほかないでしょう。そうして、残念ながら、それができる電源は、現状の技術水準を前提とする限り、火力発電と原子力発電しかありません。それ以外は、ないのです。脱原発派はすぐに「地球に優しい風力や太陽光などの再生可能エネルギーがあるではないか」と言いたがります。しかしながら、日本は、一部地域を除いて風が常時吹いているわけではありませんし、日光がさんさんと照り続けるわけではありませんから、それらの電源に頼るわけにはいかないのです。それらの電源に、電力の安定供給を託すのは、あまりにも愚かしい振る舞いです。これは、ちょっと考えてみれば当たり前のことでしょう。だから、中国の太陽パネル企業をむざむざと儲けさせ、国民に意味のない負担をかけるだけの、メガ・ソーラーの固定額買取制度など即刻やめてしまうべきです(その詳細についてはいずれ)。もっとも安定的な電力の供給が可能な原子力発電の再稼働の見通しをはっきりとさせたうえで、それと火力発電をどう組み合わせていくかを、政府はエネルギー政策の土台にすることのほかに選択肢は現状ではないのです。そのうえで、それぞれの技術水準を上げていくことが差し当たりのエネルギー政策の今後の柱になるほかないでしょう。その延長線上に、次世代型の発電が存在することは、この報告を読んでいただいた方になら、少なくとも石炭火力発電に関しては納得していただけるのではないでしょうか。

エネルギー政策に関しては、ありのままの現実に立脚し、技術者の心意気を信じた方策が望ましいと私は考えます。そういうことを、この報告を作成しながら考えました。

最後になりますが、同発電所の発電出力は、新1号機60万KW、新2号機60万KW、計120万KWで、太陽光パネルなら山手線の内側分の面積を要するそうです。

(文中、専門知識を要する叙述が少なからずありました。にわか勉強の付け焼刃ですから、誤りがあるものと思われます。お気づきの点、ございましたら遠慮なくご指摘ください)


〈付記〉
これ、なんだと思われますか?



ずいぶん錆びた煙突でしょう。それもそのはず、2011年の相次ぐ原発稼働停止を受けて、急遽、四〇年間使い続けて廃炉にされるのを待つばかりだった火力発電を稼働させて今日に至っているそうです。磯子発電所のとなりの東電のものです。これって、ぎりぎりで動いている感じで、まずいですよね。新たな基準に合格した原発の再稼働を粛粛と進める必要をあらためて感じた次第です。

*****

〈コメント〉

Commented by tiger777 さん
美津島さんの最新石炭火力発電所についての論考、大いに参考になり大賛成です。
が、ちょっとだけ意見を述べさせてください。

>今の日本社会の豊かさの維持を望むのならば、エネルギーの安定供給がその土台になることを認めるほかないでしょう。そうして、残念ながら、それができる電源は、現状の技術水準を前提とする限り、火力発電と原子力発電しかありません。それ以外は、ないのです。

 高能率最新石炭火力発電所がもっと日本で設置されるのなら、原発を代替できるのでは、と思いました。
原発は核燃料リサイクルや事故の可能性などリスクが皆無にはならない。代替エネルギーとして火力を認めれば、やっかいな原発に頼らずとも、火力のミックスでエネルギー問題は解決すると思います。

>確かに、化石燃料はほかの燃料と比べて、CO2の排出量が突出しています。

 原発の排出量が少なく描かれていますが、これは詐欺です。発電時CO2を排出しないという言い方は、商品購入時、クレジットカードなら現金不要というようなもの。原発装置を作る際、莫大な資源を使っており、そのとき大量のCO2が排出されています。原発はクリーンでもなんでもない。CO2の排出が問題なのは何も火力だけではないのです。
 でもCO2のどこがいけないの、と問うべきなんです。

(もう少し意見があるので次のコメント欄に続けさせてください。)

Commented by tiger777 さん

>発電効率が向上すればするほど、石炭火力発電所で使われる石炭の量が減少し、CO2の排出量の減少に貢献します。言いかえれば、発電効率の向上によって、単位発電量あたりのCO2排出量は確実に低下するのです。

 これは確かに結構なことですが、むしろそもそもCO2排出など問題ではない、つまり地球温暖化CO2説を否定する形で火力発電の推進の論陣を張っていただけたらと思います。
 クライメートゲート事件やいい加減なIPCC及び現実に寒冷化しつつあるなど地球温暖化CO2説そのものが今揺らいでいます。社会主義・共産主義の教義が世界に悲惨をもたらしましたが、科学的に真実でない地球温暖化CO2説も同じ害を世界に撒き散らしています。ドイツのエネルギーにおける混乱は、地球温暖化CO2説の信奉が根本にあると思います。

>このCCSは、発電時に発生したCO2を回収して地中へ閉じ込める方法で、国内外の機関が研究を進めています。将来、世界のCO2排出量の約100年分に相当する2兆トンCO2を世界全体で貯留できる可能性があるとされているそうです。

 地球温暖化CO2説を否定するなら、こんなことは全く意味ない行為なのですが、先日小浜さんの特別寄稿へのコメントで紹介した地震爆発論の石田氏によれば、このCCSは地震を誘発する可能性があり非常に危険とのことです。
 アメリカ・デンバーで汚染水を地下深く高圧で埋めたところ地震が頻発、中断したら地震が収まり、地下注水を再開したら再度地震が頻発したようです。
 日本では、長岡市といわき市でCCSを実験していますが、新潟中越地震と東日本大震災が起きています。偶然とばかりはいえません。これが本当なら、地球温暖化CO2説は地震災害まで引き起こすものといえるでしょう。そしてこのCCSは今、CO2を大いに発生させる大規模発電所の近く、つまり東名阪の工業地帯に設置しようという動きがあります。CCSによる地震が誘発されても、首都直下型、南海トラフ地震と片づけられてしまうでしょうが。


Commented by 美津島明 さん
tiger777さん。いつもながらの貴重なコメント・情報をどうもありがとうございます。

地球温暖化CO2説が極めて疑わしい仮説であることは、管見の限りですが、武田邦彦さんや池田清彦さんの著書に触れることで理解しているつもりです。私は、一昨年の埼玉県主催の、中学生対象の「チャレンジ・テスト」の理科の分野で、たまたま作問委員になり、その仮説の否定を前提とした問題を作成し、顧問役の大学教授から承認をいただいて、出題したことがあります。

この仮説って、「国の借金1000兆円」や「痛みを伴う構造改革」などとともに、マスコミを通じて、国民の思考経路にセットされてしまっているフレーズですよね。これらの言葉が出てくると、なぜか思考のブレーカーが落ちてしまって、そこから先へ話が進まない。困ったことです。

それで、私なりの言語戦略なのですが、地球温暖化CO2仮説が、石炭火力発電の技術進歩と共存しうる限りは、あえてその仮説の否定にまでは踏み込まない、ただし、tiger777さんが指摘なさるようなCCSのような危険な(妄想的な?)技術については、その危険を具体的に指摘して、その推進を阻止する言説を展開する、ととりあえずは考えています。おそらく、そんな妥協的なやり方では、tiger777さんはご不満がおありなのでしょうが、とりあえずは、そういう功利主義で行こうと思っています。

ただし、この仮説とガチンコ勝負をしないことにはどうしようもない、という事態に立ち至ったら、その場合はしょうがないから、非力をかえりみずやるしかないでしょうね。

原発の推進については、この場で断言できるほどの定見があるわけではありません。もう少し、考えてみます。ただし、「放射能、コワい、コワい」という情緒的な衆愚の反応に立脚しての脱原発に対しては、否定的であらざるをえない、それは変わらないだろう、とだけとりあえず言っておきます。私は、技術の改善・進歩という具体的な形で表現された人類の英知に最大限の敬意を表したいし、その意味の大きさを謙虚に受けとめようとしないタイプの言説はあまりにも馬鹿げていて嫌なのですよ、要するに。

また、ご意見、お待ちしています。


Commented by tiger777 さん

美津島様ありがとうございます。

私は、地球温暖化CO2仮説の一連の状況を、政治・経済・科学・思想等の点で、中世のキリスト教あるいは近代の社会主義・共産主義に匹敵するほどの巨大な罪悪を人々にもたらしていると考えています。大げさかもしれませんが。
これを打ち破るには今後100年かかるかもしれません。

今後100年は寒冷化に進むと思いますが、彼らからすれば、いくら寒冷化しても温暖化が原因だというでしょうね。最近の日本の寒冷現象を気象学者は、温暖化により偏西風が蛇行したためと強弁していますから。

>私なりの言語戦略なのですが、地球温暖化CO2仮説が、石炭火力発電の技術進歩と共存しうる限りは、あえてその仮説の否定にまでは踏み込まない…。

ちょっと不満ですね。ぜひ地球温暖化CO2説そのものを問題にしてほしいと思います。すみません、勝手なことをいって。

>「放射能、コワい、コワい」という情緒的な衆愚の反応に立脚しての脱原発に対しては、否定的であらざるをえない、それは変わらないだろう…。

全く同感です。
ただ、「「放射能、コワい、コワい」という情緒的な衆愚の反応」というのはある面やむを得ないものがあります。一般人は「素朴(!)」ですから。それを増幅し、別の目的に利用するいわゆる「知識人」、活動家が一番の問題なのだと思います。ドイツの「緑の党」やシーシェパードなど環境テロリストたち。

左翼の最後の砦が(過激な)「環境主義」なのだと思っています。
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宮里立士氏・天皇の理想をこれからどう考えていくか (イザ!ブログ 2013・6・27 掲載)

2013年12月17日 05時18分57秒 | 宮里立士
はじめに

美津島明さんのブログに、拙稿「私の日本国憲法試論」を掲げて頂きました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/403fef28be232a2d7805d0973651033b
拙稿のなかで国民主権の問題と関連して、「歴史の古い国は、一時的な『民意』では動かされない根本の精神がある」と書きました。また、美津島明さんの「先崎彰容『ナショナリズムの復権』(ちくま書房)について」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/3678e53e48702eb1853a95afdac166ceを拝見し、国家・国民の価値体系の意味を改めて考えたくもなりました。

これらとも関連し、かつて書いたものですが、自分の天皇論も明らかにしたいと思いました。文藝同人誌『昧爽』第十三号「特集 天皇・皇室」(平成十八年十月一日)に寄せた小論です。これは小泉政権の終わりごろに、にわかに起こった皇室典範改正論議への批評の意味もこめて起筆しました。同誌編集部のご許可を得て、今回、若干の補筆をしてお送りします。(なお、引用文の漢字は現行の字体、いわゆる「新字」に統一しました。)

                  *

昨年十一月、いわゆる「女系」の皇位継承を盛り込んだ「皇室典範に関する有識者会議」の報告書が出て、年末年始、皇室典範の改正がにわかに現実味を帯び、一時は政局にまで発展する様相を呈した。しかしこの二月に秋篠宮妃御懐妊が発表されると、論議は急速に鎮まり、改正案の国会提出は見送られ、それ以降は宮妃の御出産を見守る状況に変わった。

皇室典範の改正とは、日本近代を省みれば憲法改正に並ぶ大事である。しかし小泉首相がどれだけそのことを認識していたのか、伝えられる言動から推して、まったく不明である。が、戦後形成された社会システムを、やや乱暴に「破壊」することを目指した内閣が、「象徴天皇」のあり方にまで手をつけようとしたことは、首相個人の資質を超えて、やはり象徴的事件にも見えた。それは戦後六十年、経済活動にのみ意を注ぎ、その他の国家として本来取り組むべき課題を疎かにしてきたこの国が、戦後的価値の偏差をもって、「天皇」をも新たに位置づけ直そうとした試みにも見えたからである。

「天皇」を、どう考えるかとは、この国にとって、やはり今なお最重要事の問題のはずである。古代以来、幾変遷してきた日本に、時代によってそのあり方は異なれど、常に天皇が「至尊」として存在したのは事実だからである。しかしでは「天皇とは?」と、大上段から問い質されると、ただただ舌たらずにしか答えられないのも、また事実である。とは言え、将来の日本の「かたち」に思い及ぶとき、「天皇」について考えるのはやはり必要なことのように思われる。これから試論として述べてみたい。

敗戦の翌年十一月に公布された日本国憲法は、第一条に天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定する。これはその年元旦の、いわゆる天皇の「人間宣言」と併せて、「神権天皇」を否定し、主権が天皇ではなく国民にあることを明確にするための規定であった。それは神話に由来し、国学、幕末の水戸学、尊攘思想を背景に、明治国家が創出した「天皇制」を、弱体化する意図から占領軍主導のもとで「押し付け」られたものである。しかし日本側が占領軍の意向に沿って、ただ唯々諾々とまったくすべてを受け入れたかと言えば、内実は必ずしもそうではない。

「人間宣言」は『五箇条の御誓文』を冒頭に置く。

「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」
「一、上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」
「一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」
「一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」
「一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

この明治維新の国是は、占領軍から「人間宣言」の素案が示された際、日本側の要望として掲げたものであった。それを掲げた理由を後に、昭和天皇は、「民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要」からと説明される。すなわち「民主主義」とは、明治以来の国是のなかにも存在し、「人間宣言」はこれを前提にして、日本近代に昂進した天皇を、「現御神(あきつみかみ)」とする観念を否定する目的だったというのである。

敗戦という未曾有の事態に直面し、占領軍の指令に基づく「改革」を強要された日本であったが、これを受け入れる際、日本側にも、もちろんかなり制約された形ではあるが、「改革」を自らの「論理」で咀嚼し実行する余地は残されていた。このことは日本国憲法第一条の解釈にも当てはまる。

「象徴」という、法律用語としては曖昧な言葉はしかし、それが指し示す内容が、天皇の伝統に合致し、何ら齟齬をきたさないという解釈が、これが公表された当初から存在し、「天皇親政」を建前にした時代がむしろ例外で、日本国憲法によって、「政体」は変化したが、「国体」は変わっていないという指摘が和辻哲郎から出され、それに対して、「国体」は変革されたと解釈した佐々木惣一との論争を招きながら、戦後、「象徴天皇」は徐々に浸透していった。

「戦後改革」における天皇の位置づけは、確かに占領軍の「日本弱体化」の一環としてなされたものであった。しかしこれは開国以来、列強包囲のもとで強国となるため、過度に装飾された天皇の「神聖」を解除する役割を果たした一面があったことも否めない。実際、戦後の改憲論においても第一条の「象徴天皇」規定は、その表現方法に差はあっても、おおむね踏襲されている。

現在八割前後の国民が「象徴天皇制」を支持していると各種の輿論調査は伝える。間接民主制の下で政治権力者を選び、その上に国政に直接、携わらない長い伝統に根ざした君主を戴く体制は、政治の安定に大きく寄与している。その意味で「象徴天皇制」が国民の大多数に支持されるのも納得がいく。しかしこれはひとつの大きな無理を抱えた体制でもある。それは当事者である天皇に、過度な禁欲と「公正さ」を求める体制でもあるからだ。

「天皇制」批判の大きな柱に、天皇・皇族の特権的身分を強調し、人間平等に悖る理不尽なものとして廃止を唱えるものがある。しかし「貧困」が見える形で存在せず、少しばかりの才覚で巨富を手にすることもできる現在の日本で、常に自己抑制が求められ、プライバシーも無く、何よりも公事が「一分の隙も無く」、優先されるその日常とは、嫉妬するには程遠い生活である。まさに常人には堪えられない自己犠牲の毎日である。それを知ると、むしろ逆に天皇・皇族の方々を、「おかわいそうに」という文脈から、「天皇制」の廃止が醸成される可能性の方が、リアリティを帯びる。

皇太子妃の「心の病い」の健やかな回復が待たれて久しいが、これも皇室の、緊張に囲まれた生活に一般から入ると、それがいかに重く圧し掛かるかを示している。しかも世襲を前提とする天皇の制度は、当然のことながら皇位継承者を産むことを皇太子妃に期待する。出産は、現在では一般の国民にとっては、個々人の判断に委ねられていると観念される。が、皇太子妃にとっては、「義務」のように観念される。これほど私人性が制限される生活は無い。

福田恆存は、″「象徴」という曖昧な言葉で、天皇を規定してはならない。「全国民が一体になる同胞感の『象徴』」を天皇に求めるとは、「身動きの出來ぬ非人間的な存在」に天皇を追い込んでしまう″と警告する。特に″天皇と交際が出来る人びと、昔で言えば貴族階級、が無い今日の日本で、「象徴」に祭り上げられるのは、「天皇の地位を二階に追ひあげて梯子をはづしてしまふ」「孤立」を強いる結果となる″(「象徴を論ず」『福田恆存全集』第五巻所収)。

具体的にイメージできない「象徴」という言葉は、状況次第でさまざまな意味を含ませられる。戦後、「天皇制」に否定的な人びとは、憲法第一条は天皇から、権力を剥奪した、「象徴に過ぎないもの」にしたと、その意味を極めて否定的に捉える。これに対し「象徴」とは、二十世紀型君主制の実質をよく表現したもので、過度に消極的に評価する必要はないと説く人びともいる。あるいは先に見たように占領軍ですら全面否定できなかった「神格」を、この言葉は保存し、あらゆる政治闘争から超越し、宗教的次元の尊厳を持つ天皇の権威を、ここから引き出し、「象徴」に積極的意味を見いだそうとする人びともあり、年を経るにつれ、後二者が多数派を形成していった。

「絶対者」を持たなかった日本近代に、その代用者として天皇が持ち出されたとは、いまや言い尽くされた通説だろう。それは世俗を超越する「絶対的唯一神」を持たなかったため、人間の背丈を越える構想力を持ち得なかった日本人に、千年以上の歴史感覚と社会性、公共性をも備える長期的視点でものを見る力を与える基いともなった。日本では神とは、具体的で感情移入もできる、「神のごときもの」である。人間が神になることとも何ら矛盾しない。これが消極的な形であれ、「象徴」という言葉に、天皇の「神格」を保存する役割を与えた。しかしこれが大衆社会の進行のなかで、天皇に過度な役割を負わせ、孤立する「身動きの出來ぬ非人間的な存在」にしてしまっているとなると、この「かたち」の存続がほんとうに望ましいのか、問い直す必要が生じないか。

三島由紀夫は、福田恆存との対談で、自分の言う「天皇制というのは、幻の南朝」で、天皇とは「国家のエゴイズム、国民のエゴイズムの」「一番反極のところにあるべき」、日本人が近代化に疲れ果てたとき「フラストレイションの最後の救済主」の位置に立つという。「天皇がなすべきことは、お祭りお祭りお祭りお祭り―それだけだ」と、自己犠牲的生活のなかで、ただ祭祀にのみ専念するのが天皇の勤めと、極言している。これは福田が「天皇制」の、世界性を持ち得ない限界を踏まえて、これとは別に普遍性を持つ原理を立てる必要、日本人は「もう少し二重に生きる道を考えなくちゃいけない」、という指摘を受けての発言である(「文武両道と死の哲学」『対談集 源泉の感情』所収)。

三島はつまり、天皇それ自体のなかにある理想を、生身の天皇とは別に、二重化して抽き出そうとしたのである。

「文化防衛論」で、「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」を提起し、「文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴェルト・アン・ジッヒ)」であり、それが否定されるか、「あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機」であると結論した三島にとって、日本文化とは、伊勢神宮の式年遷宮に代表されるオリジナルとコピーを分別しない文化である。そこでの天皇の意義とは、独創性の対極にある古典の典型で、そのことによって、「独創的な新生の文化を生む母胎」となる、月並みでみやびな文化の「没我の王制」である。

この概念を先の対談の文脈に入れてみて考え合わせると、天皇は、没我の極みでひたすらに「お祭り(祭祀)」に専念すべき存在となる。しかし福田恆存が述べる通り、生身の人間である天皇に、実際にそれがどれだけ求められるか、三島もその理想はもはや「幻」であると認め、ある種のフィクションとして語っているふしが、対談のなかから汲み取れる。「もう少し二重に生きる道」を模索できないか。

近代主義の行き着くニヒリズムを超える概念として、三島の天皇論は魅力的である。が、「聖なるもの」を感知できなくなり、近代主義の一大分枝である個人主義イデオロギーが蔓延する現代社会に、それがそのままにどれだけ有効性を持つのか疑問でもある。

今上天皇は、古希を超えた今でも特別の事情がない限り、自ら宮中の祭祀を熱心に執り行われ、その御姿勢は同じく祭祀を重んじられた昭和天皇に優るとも劣らないという。神事に臨む前の準備とその最中の身体的精神的緊張は非常なものであり、極めて負担の重い勤めという。これを知る皇太子は自分がその勤めを引き継ぐことができるか自信が無く、それが囁かれる皇室内での皇太子御夫妻の「孤立」の背景にあるのではないかとも推測されている(原武史「対談『宮中祭祀』から見た皇室」『Voice』平成十七年八月号)。

この「重荷」を、世俗的近代社会を享受している大多数の国民が、「高貴な御身分」の宿命と、ひとり次代の天皇に背負わせて済ましていられるであろうか。もし天皇が日本という国家に重要な存在であるのなら、そのことを前提に、これまで通りの「象徴天皇」で良いのか、考え直す時期にそろそろ来ているのではないか。

三島は「幻の南朝に忠勤を励む」と激語を吐いたが、天皇の制度とは、生身の人間が「神」の役割を果たすフィクショナルな制度であり、その現実と虚構の伸縮のなかで「日本」は生成されてきたともいえる。天皇位とそれに即く天皇個々人は必ずしも同一の価値を持つのでは無く、「理想としての天皇」と、現実の天皇の落差を埋める「情熱」が、実は『神皇正統紀』以来、くりかえし歴史のなかで現れてきた。ここから「勤王」「恋闕の情」が、悲劇的末路をたどったのも日本の歴史の一方の真実である。しかし、そのくりかえしが「日本」の生命力を形づくったこともまた確かである。

天皇とは、いったい何であろうか。敗戦後、占領軍の神道指令が発せられた直後、日蘭交渉史と日本文化史の泰斗である板澤武雄は、この指令を「顕語をもつて幽事を取扱はんとするもの、例へば鋏をもつて煙を切るもの」と昭和天皇に感想を申し上げている。

「アメリカ流合理主義をもつて、日本のながい歴史によつて培はれた神秘主義(幽事)が切れるであらうか」、桶谷秀昭氏はこう説明する(『昭和精神史』)。

葦津珍彦は、永い日本の歴史のなかで空位時代が通算すると百年近くあるが、しかし天皇を戴いているという意識が歴史を貫いて存在した重さを語っている(『日本の君主制』)。

神話時代から今日まで幾変遷してきた日本は、そのなかに解き難い矛盾を内包してきた。「人間宣言」の冒頭に『五箇条の御誓文』を置いたことの趣旨は、先に述べたが、唐木順三は「御誓文中の『皇基』と天皇神話の否定とは、なかなか調和しがたい。皇基と主権在民ともまた同様であらう」と評している。しかしそれでもまだ「幾変遷はしたが、日本は日本として存続してゐる」とも吐露する(『歴史の言ひ残したこと』)。

天皇とは、日本人が歴史のなかで夢見たものが、いつのまにかほんとうのように動き出したものだったのかもしれない。

戦後が還暦を迎えた今、日本人がしばらく真剣に向き合うことを避けてきた、天皇を、改めて考え直す必要に迫られつつあるように思われる。

〔付記〕 
小論の末尾に「平成十八年九月一日擱筆」と記しました。そしてこの五日後の九月六日に悠仁親王が御誕生となり、このときの皇室典範改正論議は終息しました。しかし、その後も皇位継承に絡む問題はくすぶり続け、今では公然と週刊誌までがこの問題を取り上げ、これに関連する皇族のゴシップ記事まで掲載する始末です。

小論のなかで述べましたが、私は、「天皇の制度とは、生身の人間が『神』の役割を果たすフィクショナルな制度」と考えています。そして、そのなかに「日本」の理想も託されてきたと考えています。しかし、その理想をせっかちに天皇個人や個々の皇族に投影しようとすると、ややもすれば、「幻滅」したり、「失望」したりすることもあります。とはいっても、この落差を埋める「情熱」が、「日本」の生命力を形づくってきた側面もあるとも考えています。

このことを三島由紀夫に学びつつ、二重化した「天皇」という観点から、自分なりに考えてみようと思い、小論を書きました。
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