美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

美津島明  アベノミクスは、国民に「覚悟」を求める経済政策である (イザ!ブログ 2012・12・30 掲載)

2013年12月05日 23時02分14秒 | 経済
いわゆるアベノミクスへの期待で、株高と円安・ドル高が一段と進んでいます。日経平均株価は28日、前日比72円高の1万0395円と4日続伸し、連日の年初来高値更新で2012年の取引を終えました。同日の東京外国為替市場では円相場は1ドル=86円台後半に下落し、2年5カ月ぶりの円安・ドル高水準を付けました。

来年の夏の参議院選挙までは、経済再生に集中し選挙での勝利を確実なものにしようとしている安倍内閣としては、まことに喜ばしいニュースでしょう。また、長らくのデフレ不況にあえぐ日本経済にとっても吉報と言っていいでしょう。

しかしながら、ここに気になることがひとつあります。喉にひっかかった魚の小骨がなかなか取れなくて、その存在感が大きくなってきたような感じがあるのです。

その「魚の小骨」は、来月に予定されている、安倍首相の訪米に関わることです。安倍首相は、民主党政権がガタガタにした日米同盟関係を再構築し強化するために訪米します。それが対外政策の最重要課題であると判断したからこそ、安倍首相は、首相就任後のはじめての外遊先としてアメリカを選んだのです。それ自体は妥当な選択と言っていいでしょう。では、なにが問題なのか。

安倍首相との話し合いの席で、オバマ大統領は必ずや、日米同盟の強化と引きかえに日本のTPP交渉への参加を求めてくることでしょう。その場合、安倍首相は何と答えるのでしょうか。あいまいな答えは事柄の性質上許されません。YESかNOのどちらかをはっきりと意思表示しなければならないのです。

私の不安は、安倍首相がNOとはっきり言えないのではないか、ということにまつわるもの、というにとどまりません。正直なところそれもなくはないのですが、むしろリーダーとしての安倍晋三を支える国民の意識にまつわるもの、と言った方がより正確です。

それは、ざっくりと言ってしまえば、デフレ脱却のアベノミクスが実はいまのアメリカの国益に反するものである、という厳然たる事実に根ざしたものです。

その不安がくっきりとあぶりだされるきっかけになった文章を、ご紹介します。それは、「東田剛」氏の「日米同盟という経済政策」です(「三橋経済新聞」の26日配信分)。それほど長い文章ではないので、全文を掲げます。

「日米同盟という経済政策」 (東田剛)

安倍総理は、日米同盟の強化を掲げています。中国や北朝鮮との問題が深刻化している以上、当然の方針と思います。

ところで、日米同盟の強化とは、具体的には何をやるのでしょう。

まず間違いないのは、第一次安倍内閣が取り組んでいた集団的自衛権の行使容認でしょう。これは正しい方針と思います。日米同盟の強化は、あくまで日本の防衛力を強化する形で行われなければなりません。

しかし、ここで、やっぱり心配になるのは、TPPの件です。TPP推進論者は、日米同盟強化のためにTPP参加が必要だと言っていたからです。

でも、日米同盟の強化のためには、何でもかんでもアメリカの意向に従い、経済的利益を差し出さなければならないというのならば、「アベノミクス」なんかも、やめといた方がいいですね。

第一に、アベノミクスによる円安は、輸出拡大と製造業の復活による雇用創出を掲げるアメリカの戦略に真っ向から反するからです。

第一次安倍内閣当時のブッシュ政権は、円安・ドル高を容認していたので、円安による輸出拡大が可能でした。しかし、リーマン・ショックで状況は大きく変化し、現在のオバマ政権は、ドル安を志向しています。第一次安倍内閣と第二次安倍内閣とでは、アメリカの戦略はまったく違うのです。

第二に、アベノミクスによる財政出動は、滞留するマネーを内需拡大に振り向け、貯蓄過剰を是正します。しかし、これまで、デフレによる日本の過剰貯蓄こそが、超過債務国アメリカをファイナンスしてきたのです(藤井聡先生の『維新・改革の正体』に出てきた「日本財布論」ですな)。ですから、もし、日本がデフレを脱却したら、米国債の買い手が減り、米国債の金利が上昇し、アメリカの財政が悪化する恐れがあります。

このように、アベノミクスは、本質的に、アメリカのご機嫌を損ねる政策なのです。

そこでアメリカのご機嫌を直そうとして、TPPに参加したとしたら、どうなるでしょうか。

アベノミクスで創出した需要や雇用は、TPPによる制度変更や外国企業の参入によってアメリカに漏出します。あるいは、競争激化のデフレ圧力で、賃金が上がらなくなります。そうしたら、せっかくアベノミクスを講じても、その目的であるデフレ脱却は、難しくなるでしょう。

要するに、アメリカの経済面での意向に反しないで、日本のデフレ脱却を成し遂げることなど、できないのです。年次改革要望書などのアメリカの要求と、日本のデフレ不況がほぼ時期を一にしているのは、偶然ではありません。

例えば、親米派が大好きなジョセフ・ナイ先生は、日本にTPPへの参加を促しています。そのナイ先生は、九○年代前半、アメリカ政府内の外交政策に関する会議の席で、こう唱えたそうです。

「日本を今後も自主防衛能力を持てない状態に留めておくために、アメリカは日米同盟を維持する必要がある。日本がアメリカに依存し続ける仕組みを作れば、我々はそのことを利用して、日本を脅しつけてアメリカにとって有利な軍事的・経済的要求を呑ませることができる」(伊藤貫『自滅するアメリカ帝国:日本よ、独立せよ』pp63-4)。

日米同盟は、日本に自主防衛能力を持たせず、アメリカに有利な経済的要求を呑ませるためのものなんですって。

もし、そんな日米同盟の強化のために、TPPごときも拒否できないというなら、デフレ脱却も、国防軍の創設も、憲法改正も、最初からあきらめた方がいいですね。


なかなか辛辣な文章です。そうして、物事の真相を射抜いている文章でもあります。「東田」氏は、具眼の士なのです。

アベノミクスは、本質的に、アメリカのご機嫌を損ねる政策なのです。

これを別言すれば、日本はオバマ・アメリカの意向に逆らうことなしに、デフレ・円高からの脱却を成し遂げることができない、ということです。この厳然たる真実から、私たち日本人は、目をそらすべきではありません。

その第一関門が、来月の安倍・オバマ会談なのです。当会談で、安倍総理がオバマにTPP参加に関してはっきりとNOの意思表示ができなければ、デフレ・円高脱却のアベノミクスは、根のところで画餅に帰してしまいます。戦後レジームからの脱却は、一丁目一番地で挫折を余儀なくされることになってしまうのです。

なぜでしょうか。以下、それを説明します。

TPPへの参加は、日本にデフレ圧力をもたらします。なぜなら、「聖域なき関税撤廃」によって、日本にTPP加盟諸国の安価な商品・サービス・労働力がどっと押し寄せるからです。それらと、日本の商品・サービス・労働力が熾烈な安値競争を演じ、物価・賃金にさらなる下方圧力がかかることが危惧されるのです。それは、日本の構造改革論者からすれば、グローバリズム・規制緩和の総仕上げを意味するでしょう。いいかえれば、構造改革の本質は、デフレ促進なのです。

TPPの本質はいわゆる自由貿易の推進などではまったくありません。TPPは、アメリカにとって日本の非関税障壁の破壊をもたらもの以外のなにものでもない。日本をアメリカのグローバル企業とグローバル資本の草刈り場に改造することが、TPPをめぐるアメリカの目論見なのです。いいかえれば、日本の経済システムをアメリカン・スタンダードに基づいて改変し、アメリカの日本とのかかわりにおける、さらにはもっと端的に日本における経済活動を円滑に進めるのが、彼らの目論見なのです。一九八五年のプラザ合意以来の日米交渉史を俯瞰すれば、それは明らかなのではありませんか。貿易の相手先として、GDPが低いほかのTPP加盟国などアメリカにとってものの数ではありません。日本が輸出増のターゲットなのです。アメリカにとって、TPPの眼目は日本なのです。

デフレ・円高からの脱却を通じて強い日本の実現を目論むアベノミクスとTPPが相容れないことは自明と言っていいでしょう。いいかえれば、国民経済の充実を目標とするアベノミクスと原理主義的なグローバリズムを追求するTPPとは、不倶戴天の敵どうしなのです。グルーバル原理主義にとって、国民経済はやっかいで「効率」の悪い障害物にほかなりません。農協・日本医師会・公共事業の談合。これらは、グローバル原理主義にとって打破すべき守旧勢力・既得権益集団であってそれ以外のなにものでもないのです。「それは当然のことではないか」という声がどこからか聞こえてくるように感じます。私たち日本人は、経済に関する自分たちのやり方に対して過剰に否定的に受けとめる傾向が強いですね。それは、国民経済を敵視する新自由主義的な価値観に、私たちがすっかり毒されてしまったから、というよりほかはありません。いつのまにか、私たちは、資本主義=新自由主義=市場原理主義というすり替えに自分たちの頭をすっかり馴らしてしまったのです。

このように考えてみると、国民経済の再構築を目論む安倍首相は、オバマとの話し合いで、TPP参加に関してきっぱりとNOの意思表示するほかありません。交渉によって農業等で多少の譲歩があったからといって、アメリカン・スタンダードによるトータルな日本改造というTPPの本質が変わるわけではないので、それはやむを得ないでしょう。

そうすると、日米同盟の再構築が不可能になるにちがいないって?そんなことはありません。安倍首相はオバマを次のように説得すればいいのです。

『昨今の極東情勢の不安定化の核心には、日本の国力の衰退(端的にはGDP成長率の停滞・低下)がある。それが極東の安全保障体制の流動化・液状化の核を成している。で、日本の国力の衰退の根本原因は、デフレ・円高である。だから、日本がデフレ・円高からの脱却を実現することは、極東情勢の不安定化の主たる要因を解決することを意味する。それは、覇権国家としてのアメリカの国益に十二分にかなうことでもあろう。

しかるに、アメリカがここで短兵急に日本に対してTPP参加を求め、日本がそれに同意したならば、日本のデフレ・円高からの脱却を著しく困難にしかねない。それは、アメリカが極東情勢のさらなる不安定化に加担することを事実上意味するだろう。と同時に、アメリカの国益を損なう振る舞いでもあろう。円安を拒否し、日本のTPP参加を強要することで得られる輸出増という目先の利益の獲得とひきかえに、アメリカは、極東情勢の制御不能化、という覇権国家としての国益の深甚な損失を招来しかねないのである。

ここは、長期的な展望に立って、日本の国力再生・充実を見守るべきである。その過程で、日本は、国民経済を充実させ内需の拡大を実現する。それは、アメリカからの輸入を懐深く受け入れることができる経済体制を確立することを意味する(つまり、「あなたの在任中に、必ずアメリカをたんまりと儲けさせて、あなたの大統領としての顔も立ててあげます。だからアベノミクスへのご支援を」ということです)。それこそが、世界平和に資する道なのではないか。それとも、オバマさん、あなたは弱体化した国を同盟相手国としてお望みなのか?そういう国が強力なパートナーになりうるとお考えか?』

安倍首相が、これだけのことを堂々と余裕を持って説くには、国民の一定の理解が必要です。すなわち国民は、アベノミクスがアメリカの目先の利益に抵触する経済政策であること、および、それを乗り越えて当経済政策を推進するには、長期的な展望に立ったうえでのアメリカに対する理にかなった説得が必要であることを理解する必要があるのです。

「ほら、安倍さんがいい気になっているから、親分のアメリカが機嫌を損ねてしまっただろ?」的な属国ヤジウマ根性は、厳に慎むべきです。それは、安倍首相の背後から彼に矢を放つような所業です。私は、バカで不勉強で猿知恵だけはしっかりとある既存のマスコミ連中が寄ってたかって、そういう属国ヤジウマ根性を発揮し、少なからぬ一般国民がそれについ同調することになってしまうのではないか、と不安がっているのです。心底不安がっているのです。そういう動きは、国民経済を守りぬこうとする安倍首相の孤立化を招くほかないでしょう。それで、安倍内閣はまたもや万事休す、悪夢の再来です。私たちには、「失われた三十年」、中共による野放図な侵略の座視、という暗い未来が待ち受けているばかりになります。それで、いいのですか?

以上から、次のように言えるのではないでしょうか。すなわち、アベノミクスは、日本国民に属国根性から脱却し「一身独立して一国独立す」(福沢諭吉『學問のすすめ』)という建国の気概に立ち帰る「覚悟」を決めることを求めている、と。それを抜きにして、その目論見の実現は到底おぼつかないのです。これまでのように「安倍さんのお手並み拝見」などと観客を決め込んでいる場合ではない、ということです。

〔付記〕

私は、安倍政権を支持する者であります。しかしながら、当政権の納得のいかない意思決定に対して、いつまでも唯々諾々と従う者ではありません。国難脱却のための原理原則に関して、私が安倍政権に妥協する幅はそれほど広くありません。それは、日本の全体状況の危機に鑑みて、安倍自民党が掲げた諸政策を支持している、という私なりの事情があるからです。

いささか話が飛ぶようですが、連立政権を組んだ公明党の支持母体である創価学会は、オウム真理教に勝るとも劣らぬカルト宗教であるといまでも思っています。そういう支持母体を持つ政党といつまでもうだうだぐちゃぐちゃやっているとすれば、いずれ私は自民党を見放すことになるでしょう。一支持者の、そういうスタンスを、自民党はあまり軽く見ないほうがいいと思います。そのかわり、自民党がどうすれば創価学会と手を切ることができるようになるか、私なりに真剣に考えてみようと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮里立士 「毒を喰らって三年有余後――第二次安倍晋三内閣発足に向けて」 (イザ! ’12・12・28掲載)

2013年12月05日 22時57分13秒 | 宮里立士
前回の総選挙の直後に、私は以下の文章を「毒を喰らわば……」と題し、自分のミクシィ日記(現在は開店休業状況)に書きました(平成21年8月31日)。

読み返してみて、我ながら案外、民主党政権とその後の日本政治の展開の「読み」として、間違いがなかったことに少し自信を持ちました。

そこで読みにくい箇所に少し手を加え、美津島明さんのブログに改めて投稿します。

*******

               「毒を喰らわば……」

総選挙は下馬評どおり、民主党の大勝、自民党の歴史的惨敗に終わった。事前予測で民主党の議席三百越えがマスコミで大騒ぎされていたので、別に驚きもしなかったけれど、一度も政権を担当したことのない党に、フリーハンドを渡すことに不安を覚える保守層の揺り返しも若干あろうかとも思った。が、前回の「小泉選挙」同様、勝ち馬に嬉々として乗るのが当世風なのだろう。

まぁー、麻生さんに同情する立場から見ても、選挙のタイミングを逸して土壇場になって解散に踏み切って大失敗だったという観は拭えない。民主党は単独で衆議院の安定多数を取ったのだから、当分は総選挙はないのだろう。そうなると保守派の一部で危惧されている外国人参政権問題や、現代の「治安維持法」人権擁護法の制定、国会図書館に「先の大戦」での日本の戦争犯罪を暴き立てるという「恒久平和調査局」を設置する案などは、どうなるのだろうか? 

靖国神社と別個の無宗教国立戦没者墓苑の設立は選挙期間中にすでに次期(鳩山)首相が表明していたが、民主党内の保守派はこれに協力するのだろうか? 今はとりあえずその動向を見守るしかない。

安全保障面の不安も保守派から提出されている。連立を組む予定の社民党が非核三原則の法制化を、「悲願」だかなんだか知らないが提唱している。日本を「敵」と勝手に見なしている北朝鮮が核ミサイルを実戦配備しようというご時世にこんな浮世離れした提案をどうあしらうか? その辺で民主党の実力が問われそうだ。核政策で今の日本政府ができる、一杯一杯の政策は、核を「持たず、作らず、持ち込ませず」の、「持ち込ませず」を本当のような、そうでないような、やっぱり核となんらかの形でつきあっているというニュアンスを示すぐらいだろう。それともかつてアメリカが戦慄した「キューバ危機」のような状態に、本気で「空想的平和主義」のみで対峙するだけの気力があるのだろうか?

「緊密で対等な日米関係を築く」という民主党のマニフェストに不安を覚える向きもある。しかし、これは考えたら主権国家として当たり前の主張で、ではそれをどういう文脈で主張しているかという点に眼を向けるべきだ。たとえば現在、アメリカが日本からグアムへの膨大な米軍移転費用の負担を、日本に押しつけようとしている。こんなものは精査して、日本側が負担せざる得ないものと、そうでないものを、ちゃんとアメリカ側に説明すべきである。

別にアメリカは慈善事業で日本に軍事拠点を置いてきたわけではない。アメリカの世界戦略の必要から米軍基地を置いてきたまでだ。もちろんそれが日本の国益になるならそれはそれで仕方がないが、そのために日本の自主防衛体制が疎かになるのなら、なんの国益か解らなくなる。

自民党の安全保障政策には確かにそのきらいがあった。昨今、中国が毎年異常な軍事費増強を続けている。これに対し、近年日本の防衛費の削減が続き、この調子では数年後にはもはや中国の量を日本の質で守ることすらできない危機的状況にあるという。

これらのことはすべて自民党政権下で進んだことだ。そして更によく考えてみれば先に危惧された外国人参政権問題云々のことも、すでに自民党内で議論されてきたものだ。はっきりいって今の自民党と民主党に程度の差はあれ、どこに本質的違いがあるのだろう? 

もっと言えば、所詮、政治屋(政治家にあらず)は、国民のレベルに合わせないと国会議員に成り上がれない。ということは、国民の「民度」の問題となってくる。

勝手な放言のようだけれど、実際ここまで来れば、「行き着く先まで歩いてみるしかないなぁー」、と考える。これからは、かつては日本的美質でもあった「日本的あいまいさ」ではすまない新たな世界へと、我が国も乗り出すしかないのだろう。

〔付記〕
私は、安倍晋三総裁に率いられた自民党が大勝したことを喜ぶ人間です。

経済には疎い者ですが、美津島さんのブログから教えられるように、今のデフレ不況を脱却するために安倍総裁がインフレターゲット政策を積極的に掲げていることに共感を持ちます。そして何よりも、安倍総裁の外交安保政策の多くの部分は、自分の考えと重なっています。

しかし、上記の「毒を喰らわば……」のなかで、民主党が社民党と連立を組んだおかげで、最初に安全保障政策で躓き、これがケチの付き初めとなって、やることなすことすべて裏目に出たように、「自公政権」という枠組みで、安倍総裁の政策のどれだけが実行できるか、不安も覚えています。

今回、先の文章を再び人の眼に晒そうと思ったのも、「自己満足」をしたかったからではまったく無く、安倍政権が、前民主党政権の轍を踏むことのないように願い、投稿しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美津島明  江藤淳『作家は行動する』についての覚書  (イザ!ブログ 2012・12・25 掲載)

2013年12月05日 22時52分39秒 | 文学
本作品は、書き下ろし長編評論として、講談社より一九五九年一月に刊行されました。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』(一九六五年)の先駆的な作品と位置づけることも可能でしょう。吉本は『言語美』において、言語の本質としての自己表出性と指示表出性を導きの糸にすることによって文学作品の本質にアプローチするという当時としては斬新な批評スタイルを採っています。その五年ほど前に、江藤は本作品においてすでに、文体の特徴から文学作品の本質にアプローチするという、日本の文芸批評史において画期的な批評スタイルを採っています。何が書かれているかにではなく、どのように書かれているかに江藤は着目したのでした。そこから、吉本が、言語それ自体に着目して作品を論じるところまでは、あと一歩のへだたりであったといまからなら振り返ることができるでしょう。二人ともに、文学の自立的価値とは何かについての深い洞察と鋭い直観があります。彼らの斬新な営為は、それに基づいたものなのです。

当時としては、いずれも随分見栄えの良い、つまりカッコイイ批評スタイルだったものと思われます。鋭敏な若い人たちは、そんな彼らにぐっと惹きつけられたのではないでしょうか。日本の良質な知性がそのエネルギーを惜しみなく傾注した文芸批評の黄金時代ならではの精神風景と言っていいでしょう。ほかに小林秀雄や福田恆存や竹内好なんかもいたわけですからね。思えば、いまではみんな死んでしまってこの世にはいないのです。私の心の少なからぬ部分は、いまだにその時代を彷徨っていることを白状しておきましょう。私がこの世に生を受けてまだほんの二・三年経ったくらいのときのことなんですけどね。これは、おそらく一生続くのでしょう。一種の病気です。

年譜をながめてみると、本作品の誕生をめぐって、当時の江藤は少なからず屈託があったものと思われます。講談社文芸文庫から引用します。



・一九五七年(昭和三二年・二五歳) 三月、慶応義塾大学文学部英文科を卒業。四月、同大学院に進学。指導教授は西脇順三郎。五月、三浦慶子と結婚。仲人は奥野信太郎。武蔵野市吉祥寺に住む。

・一九五八年(昭和三三年・二六歳) 一月ごろ(?)、「ものを書いているなら大学院を辞めるように」という勧告を受け、以後、大学に行かなくなる。春、講談社から書き下ろしを依頼され、夏から秋にかけて執筆(『作家は行動する』として翌年刊)。十一月、『奴隷の思想を排す』(文芸春秋新社)刊。

・一九五九年(昭和三十四年・二十七歳)一月、『作家は行動する』(講談社)刊。三月、大学院を中退。八月、『海賊の唄』(みすず書房)刊。秋、目黒区下目黒に転居。

・一九六〇年(昭和三五年・二八歳)五月、安保騒動があり、石原慎太郎・大江健三郎・谷川俊太郎・開高健・羽仁進らとともに「若い日本の会」に参加。抗議集会を開いたり、声明を出したりした。

屈託の最たるものは、「ものを書いているなら大学院を辞めるように」という勧告の件(くだり)でしょう。これは、西脇順三郎によってなされたものなのでしょうか。それはとりあえず措くとして、自分の筆力に深い自信を持っていたにちがいない江藤からすれば、この勧告にはひたすら反発を覚えたに違いありません(五六年に江藤は『夏目漱石』を上梓しています)。愛する女がそばにいることも、心を強くする材料になったことでしょう。怖いものなんかありません。これまでずっと優等生だった江藤は、このとき生まれてはじめて本格的に「グレ」たのだと言えるでしょう。

「グレ」の本質は、既成の秩序の担い手としての「父なるもの」への抗いです。当時の江藤にとって抗いの対象としての「父なるもの」とは、大学院の指導教授としての西脇順三郎であり(要論証)、安保改定をゴリ押ししようとする岸信介首相であったのでしょう。彼が、安保をめぐって大江健三郎と肩を並べていたなんて、時代を感じさせますね。そのせいでもないのでしょうが、本作品において、江藤は大江をほとんど絶賛せんばかりの筆致を危うく示そうとするほどの評価ぶりです。例えば、こんなふうに。

この作品(『飼育』のことー引用者)の中心的なイメージは、「黒人兵」と、「夏」と、「戦争」である。しかも黒人兵は「光り輝く逞しい筋肉をあらわにした夏、僕らを黒い重油でまみれさせる」汎神論的な子供達の夏であり、「僕ら」と「黒人兵」とは「暑さ」という「共通な快楽」で結ばれている。これらの有機的に一体化したイメージと「遠い国の洪水のような戦争」とは対比され、いわば一種のフーガを奏しているであろう。そして黒人兵がにわかに兇暴な敵になり、「僕の指と掌をぐしゃぐしゃに叩きつぶし」はじめるとき、いままで弱奏されていた「戦争」の主題が急に接近し、「子供達」の主題は急に消えて行く。「もう僕は子供ではない」という「啓示」と、現に自分が「戦争」に接触したという経験――その二つの主題の交錯をこのように明瞭に描き出していくものは、いうまでもなく作者の「文体」以外のものではない。この豊富なイメージの世界は、かりに繊細であるにせよきわめて論理的な、明確な行動によって支えられている。

大江の『飼育』は、『文学界』一九五八年1月号 に発表され、その年の芥川賞受賞作品となっています。当時においていまだ評価の定まらない話題作についての、いまにおいても通用する評価軸 を早々と確立してしまった江藤の批評的辣腕ぶりには、舌を巻かざるをえません。江藤は、『飼育』の秀逸性を当時においてすでに的確に捉えていたのです。

的確な評価軸の確立という観点からすれば、本作品における江藤の、第一次戦後派の文体上の達成への着眼を取り上げないわけにはいきません。

(野間宏『暗い絵』の主人公―引用者注)は絵を見ている。(中略)彼はすでにブリューゲルの絵のイメージが反映している荒涼とした「自然」のなかを、重い足どりで進みはじめている。そしてその「自然」は、一九三〇年代の京都帝大の学生にとってのリアリティーであると同時に、現に作者の周囲にひろがっている混沌とした「現実」でもある。要するにこれは完全に主体化された風景のイメージであって、鋭敏な読者はこの文体に参加するとき、弱音器をつけて奏せられるコントラバスの低い、重い、あえぐような繋留音の持続にふれるであろう。それはほかならぬ作者自身のあえぎであり、大地も、太陽も、地平線も、一様にアニメイトされ、いま彼の「存在」と切りはなすことのできないものとしてある。このような持続感は、過去のどのような表現、語彙、文脈によってもあらわされない。野間氏はあえぎ、「悩みと痛みと疼き」によって歩みつづけながらきわめて大胆に形骸を切り開き、まったく新しい行動の軌跡――「文体」をのこしていく。

この『暗い絵』に対する評価が、吉本の『言語美』における『暗い絵』に対するそれに濃い影を落としていることは、私見によれば、言を俟ちません。第一次戦後派に対する評価のテンプレートは、江藤・吉本の両氏によって形作られたと言っても過言ではないでしょう。

ところで、先ほど私は、当時の江藤は「グレ」ていたと申し上げました。その明らかな痕跡が本作品にも見られます。それは、小林秀雄に対する意外なくらいの低い評価です。というか、乗り超えるべき、日本文学の最大の強敵として小林がイメージされていというべきでしょう。

志賀直哉、小林秀雄氏らは、現実に負の行動の論理――負の文体を確立しえた人である。文学史家は、彼らにおいて最高の批評があり、最高の小説があるというであろう。しかし、そのような評価は、価値を完全に逆立ちさせている。われわれはむしろ、彼らにおいて文学が完全に圧殺された、ということを証明しなければならない。近代の日本文学においては「最高の批評」が批評を殺りくし、「最高の小説」が小説を絞殺している。その事実を知らないかぎり、散文はわれわれにとって永遠に無縁のものとならざるをえない。

ここで小林秀雄は志賀直哉と並べられ、徹底糾弾をされています。一〇年後のゲバルト学生も顔負けなくらいの激しさです。当時の江藤にとって、小林秀雄は、抗うべき文学上の「父なるもの」としてイメージされていたのではないでしょうか。

ところが、安保闘争で大江と共闘を組んだ一九六〇年の翌年に、江藤は『小林秀雄』を上梓し、小林秀雄賛歌を朗々と歌い上げました。この「転向」は周囲を驚かせ、「変節」として批判され、安保で敗れたとはいうもののまだまだ意気盛んだった当時の進歩派言論界において、江藤はほとんど四面楚歌のような孤立を余儀なくされました。しかし、そのことによって江藤の文学的な確信が揺らぐことはついにありませんでした。ここから、江藤と戦後的なものとの間に決定的な隔たりが生じはじめ、江藤の保守思想家としての個性的な足跡が印されていくことになります。

『小林秀雄』において、江藤は小林をいわば文学的な意味での「永遠の青年」として描き出しています。そのことで、かつての自分が小林に投影していた、抗うべき対象としての「父なるもの」という観念からの自己脱却を図り、それを実現しえたという確かな手応えを感じたからこそ、江藤は揺らがなかったのではないでしょうか。

では、「父なるもの」は、江藤においてその後どうなったのか。それについての突っ込んだお話は、私などより、当ブログの寄稿者である先崎さんに、いずれ存分に語っていただいた方が良いように思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小浜逸郎氏 『臆病学者からは金融緩和が「極論」に見える――猪木武徳氏批判』

2013年12月05日 22時46分21秒 | 小浜逸郎
今回の衆議院議員選挙で、国民の多くが民主党の大失政に愛想を尽かし、さりとて混乱に乗じて生じた「第三極」なるいかがわしい風向きにもそれほど煽られなかったこと、私個人はここに、日本国民の健全な良識が生きている一つの証拠を見る思いがいたしました。

ところで、元国際日本文化研究センター所長で現在、青山学院大学特任教授を務める経済学者・猪木武徳氏(そう、先ごろ亡くなったあの有名な猪木正道の息子さんですね)が、産経新聞12月20日付「正論」欄に「極論避け『より悪くない』選択を」という一文を寄せています。

私はまことに不勉強で、猪木氏のお仕事に触れたことがなく、彼がどういう経済思想の持ち主なのか、とんと知りません。そういうわけで、残念ながら今回もまた、わずか数枚の論考に口出しをすることになります。

なお、前回と今回と引き続き、産経新聞「正論」欄に掲載されたものを取り上げますが、読者のみなさんの中には、産経新聞は保守系メディアで、小浜は保守系論客なのに、同じ保守系論客を批判するその姿勢は何なのだと、いぶかしく思われる方もいるかもしれません。たしかに私は、日頃より、朝日新聞の「社説」のような論調は論外だと思っていますし、無知で感情的なだけの「サヨク」言論を叩きのめすことは必要だと考えています(もぐら叩きのようなものなので、いささかうんざりしておりますが)。それらのイデオロギー的立場の側から見れば産経紙上に載っているこれらの論文も「右寄り」ということになり、それを批判する小浜はヌエではないか、という見方も可能でしょう。

しかし私は自分をいわゆる「保守系論客」であると標榜したことは一度もありません。何派であれ、これはおかしいのではないかと感じたことは、正直に表明することを心がけているつもりです。そうして、今回取り上げる猪木氏の論考にも、私から見ると、重大な疑問点が感じられるのです。およそ、右か左か、保守かリベラルかといった、わかりやすいけれど粗雑な標識によって思想的な論考をカテゴリーで括り、それだけで整理できたつもりになるのは、思想の努力、言葉への信頼というものを愚弄するふるまいです。

さて問題の猪木論文の要旨は、表題どおり、威勢のいい理想論に感情的に同化するよりは、現実的な政治というものの難しさをよく認識し、バランスある選択をすることを勧めたもので、そのこと自体は問題なく首肯できます。特に地方分権の大合唱や、一票の格差を人口の上での平等論理だけから批判する傾向に対して警鐘を鳴らしている点には、私も大賛成です。

しかし、当の論文のうち、どうも変だと感じた点が二か所あります。

まず一か所目。

しかし投票率の低さ以外にも、いくつかの不思議な現象を今回の選挙結果は示した。まず選挙の一大争点のひとつといわれた、「原子力発電」の将来的な位置付けについて、国民の意向は、内閣府が今夏に行った原子力発電をめぐる国民の意見に関する調査結果とは必ずしも両立するものではなかったことだ。「脱原発」「卒原発」「原発ゼロ」というスローガンを明示的に掲げた政党よりも、そうした路線に慎重な姿勢を示した政党に票が集まった。

この「矛盾」とも映る現象の解釈はそれほど困難ではない。一つは、国民の多くにとって、原子力発電の是非の問題は最優先課題ではなかったということ、さらに、国民は、結局、問題別に選択を迫られれば、「理想的」と思える方を必ず選ぶ、そしてその問題群の間の首尾一貫性については深く考えないということだ。これはしばしば「二重思考(doublethink)と呼ばれる人間の思考の非合理性を示唆する。


少し解説を加えます。

「今夏に行った原子力発電をめぐる国民の意見に関する調査結果」では、脱原発や原発ゼロの意見が多数を占めたのに、選挙結果では慎重派に票が集まった。これは論理的には矛盾しているではないかというのですね。一見そのとおりに思えます。

もう一つ、「国民は、結局、問題別に選択を迫られれば、『理想的』と思える方を必ず選ぶ」というのは、原発について今夏に行われた調査結果のことを意味していると考えられます。つまり、脱原発に賛成か反対か、と問われれば危険なものはなるべくない方がいいと答えるのは当然だというわけですね。これもそのとおりに思えます。

「今夏に行われた原発をめぐる意見の調査結果」とは、8月22日に内閣府が発表した討論型世論調査のことを指しています(sankei.jp.msn.com/life/news/120822/trd12082211470008-n1.htm)。この調査で注目されたのは、調査開始時と討論前後の三回のアンケートで、原発比率「0%」への支持が33%から47%に増加したという点です。猪木氏もこの注目点にしたがって右の判断をしたものと思われます。

しかし、猪木氏のこの判断は、次の三つの点を見落しています。

第一に、この調査は、わずか285人を対象とした調査です。こんな少数の対象から得た結果を、国民の最大公約数的意見とみなすことには無理があります。私は統計学に詳しくありませんが、常識的に考えて、少なくとも1,500人くらいは必要ではないでしょうか。

第二に、右については百歩譲るとしても、調査の仕方について、三上直之北海道大学準教授が、すでに7月7日の時点で次のような疑問を呈しています(sankei.jp.msn.com/life/news/120707/trd12070702110009-n1.htm)。

今回の(DP=討論型世論調査の)運用では中立性が確保されず、政府による政策誘導につながる恐れがある。討論参加者の人選や資料が偏らないための方策がとられていない。(DPで先行する)海外では中立的な委員会が資料をチェックし、人選も(電話ではなく)訪問して決められるなど丁寧に進められ、準備期間として数カ月かけている。 今回は開催まで1カ月と日程にも限界がある。

つまり、三上氏は、調査のやり方が拙速・ずさんであるために、結果を鵜呑みにするのは危険だという警告を前もって出しているわけです。傾聴すべきでしょう。

第三に、三上氏の意見からつながるのですが、討論前後で原発比率「0%」への支持が33%から47%に増加したならば、討論参加者の構成しだいでは、その逆もあり得るわけです。国民感情は揺れ動くのが常ですから、たまたま原発容認派の人々が多く参加していれば、逆転現象は大いに考えられます。

しかも、調査時と投票時との間には、四カ月の開きがあります。この期間に国民の意識が変化した可能性を無視できません。まして、投票の直前には、世論調査時にはなかった選挙運動の盛り上がりがありました。猪木氏の言うとおり、原発問題は国民にとって最優先課題ではなかったかもしれませんが、大きな争点のひとつであったことはたしかです。その中で、国民自身がエネルギー維持・確保の未来について、ただの恐怖心の表明を超えて、これまでよりも幅広くかつ緻密に考えた結果が、脱原発に対する慎重派の票獲得として現われた、と考えてもけっして不当ではないと思います。「第三極」の乱立状況、政策の定まらなさ、即時原発ゼロなどを訴える空想性に対して、こんなのは信用できない、ということを一般国民の大部分が直感的に見抜いたのではないでしょうか。

ちなみに私は地域の一般庶民とときおり話す機会があるのですが、彼らから原発はすぐ廃止すべきだなどという乱暴な意見を聞いたことがありません。みな、そんな簡単に廃止できるわけがないよ、と言っていました。

次に、二か所目。こちらのほうが猪木氏の専門知を披歴しているように読めるので、はるかに重要です。

その意味では、今回の選挙戦で「極論」が飛び交ったことは、これからの日本の政治への不安感を抱かせるものがあった。特に、安倍晋三総裁が、ほとんど無制限の金融緩和を打ち上げたときにはわが耳を疑った。

日銀の金融緩和によって供給される大量の紙幣が、日本経済全体に行きわたりデフレ対策の特効薬になる、というようなイメージがまことしやかに語られる。本当だろうか。落ち着いて考えれば、日銀券発行は限界にきているので、日銀が民間銀行から長期国債を買い入れたとしても、その国債は民間銀行から日銀に移動し、民間銀行の準備預金に振り替えられるだけである。それでも無理やり紙幣をばらまこうというのであろうか。

こうした過激な政策論は幸いにも経済界からたしなめられ、選挙戦中は「超」金融緩和策はトーンダウンした。しかし権力を握るため、あるいは奪回するためには、「極論」も辞さないという手口は決して国のためにはならない。


何やら穏健に教え諭すような調子ですが、経済学に暗い私などには、言っていることがさっぱり呑み込めません。

まず、「日銀券発行は限界にきている」とはどういうことでしょうか。紙幣発行高の上限について財務省・日銀が現段階での目安などを設定しているのかもしれませんが、それはそのつどのデフレ・インフレ状況などに鑑みて、いくらでも動かすことができるのではありませんか。超低金利が続いていても景気が回復しないならば(現にそうですね)、マイナス金利にまで踏み込んで企業がお金を借りやすくする、それと並行して紙幣を増刷するという手もありなのではないですか。間違っていたらどなたかご教示ください。

次に、「日銀の国債買いオペによる国債が日銀の準備預金に振り替えられるだけ」というロジックも全然納得できません。大規模な買いオペをすれば民間銀行にわんさか有り余っている国債が日銀に買い取られ、支払われた紙幣が市場に出回るというのは、ごく当たり前の常識ではありませんか。コール市場でのお金の供給(貸したい銀行)が需要(借りたい銀行)を上回るわけですから、貸す側の競争が起こって当然実質金利も下がりますね。デフレ対策の王道ではありませんか。

仮に準備預金高が増すだけなのだとすれば、それこそはデフレ現象を示しているのであって、だれも動こうとしないためにストックだけが積み重なることになる。つまり猪木氏は、デフレだから何をやってもデフレにしかならないのだ、という虚無主義的な同語反復を言っているだけのように思われます。違いますか?

次に、安倍総裁は、何もただ金融緩和だけを大胆にやれと言っているのではなく、市場に供給された資金が潤沢に回転するように、震災復興策やインフラ劣化対策のために政府が進んで公共投資を行って市場に刺激を与える政策(国土強靭化)を同時に提言しています。これを行えば、民間の他分野への波及効果(全体としての内需拡大)も見込めることは疑いありません。また、円安が進んで輸出関連企業も息を吹き返します。そうなれば、アジア圏の需要の取り込みが可能になります。

もちろん、マネタリーベースだけが増えても、人が動かなければ経済が活況を呈するはずがない。人の気持ちをやる気にさせるような政策を打つのが政府の責任というものでしょう。安倍総裁はそれもきちんと視野に入れた上で、金融緩和策を唱えています。

どうも猪木氏のような、金融政策にだけ詳しそうな(?)学者は、金融政策と財政政策とがタイアップしてこそ景気回復への道が開けるのだという当たり前のことがわかっていないらしい。ちょっと信じられないことですが。

さらに、経済とは離れますが、猪木氏は、安倍総裁の「金融緩和」提言が、このたびの選挙戦の中で、「極論」の最たるものだと決めつけています。これはとんでもない誤りですね。見通しも示さずに「卒原発」を唱えていた「未来」、「首相公選」だの「消費税の地方税化」だの「衆議院議員数半減」だのを主張していた「維新」など、彼らこそは無責任な「極論」を振りまいていた張本人ではありませんか。

最後に、猪木氏は、安倍総裁の「過激な政策論は幸いにも経済界からたしなめられ、選挙戦中は『超』金融緩和策はトーンダウンした」と、まるでトーンダウンが経済界の功績であるかのような言葉を弄していますが、これも大ウソですね。安倍総裁の政治力を貶めて見せることによって、猪木氏自身が拠って立っている世界(経済界・経済学界)の権威性を高めておこうという意図が丸見えです。そんなに経済学者って賢いんですか。

選挙運動が開始される前に、旗幟を明らかにするために多少とも簡明で強い理念を表明することは、どこの政党もやっていることです。しかし実際に権力をとらなくてはならない局面では、いくら理想論ばかり言っていても何の意味もありません。トーンダウンはそのための政治的テクニックであって、より現実的な政策を提示することで多数の同意を勝ち取ろうとする意識的な方策です。これは見事に功を奏しましたね。そしてすでに白川日銀総裁との会合によって、適切にトーンダウンされた政策は実現に向かって歩み始めています。

猪木氏の言う「権力を握るため、あるいは奪回するためには、『極論』も辞さないという手口」というのは、事実とまったく逆で、安倍自民党は、権力を奪回するためにこそ、強い政策理念をやや現実的・妥協的なものに和らげたのです。猪木氏は、単純な政治力学もわかっていないようです。

それにしても、他をさしおいて安倍自民党の政権公約を「極論」と決めつける猪木氏の議論には、前回の榊原英資氏と同じような、反安倍キャンペーンの歪んだ意図がありありと感じられます。代議制民主主義政治に対する冒涜ではありませんか。何に突き動かされてこの「インテリ」たちはこういう、民意に反する怯懦そのもののようなことを言い続けるのでしょう。破綻した政権に国民の審判が下り、せっかく日本の政治が国民生活にとって少しでも良い方向に動き始めたばかりというこの時に、どうしてこの人たちは、わざわざその足を引っ張るようなことをするのでしょうか。

持論と異なった主張が通ることに我慢がならない学者のプライドの固守、一部の専門家特有の視野の狭さからくる判断の誤謬、何かの筋からの圧力、それに従うことによって得られる利得など、いろいろと想像がはたらくのですが、まあ、私などが下司の勘ぐりをしたとて、実相が明らかになるわけではありませんので、それは控えておきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一氏  「主権者意識と人権と」  (イザ!ブログ 2012・12・20 掲載)

2013年12月05日 22時30分34秒 | 由紀草一
対話を継続したいと考えますが、2カ月に一度の応答では、よほど奇特な人でない限りトレースしてくださらないでしょうね。(前回の美津島の投稿 http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/0c1a4820280064ac07dcb9365ee3dd30

例えば、拙文を読んで、美津島さんの、私への応答に限らず種々の発言を思い出していただき、いろいろな角度から、戦後民主主義の問題など、考えるよすがにしていただけたら幸甚です。ただ私としては、あくまで美津島さんと議論するつもりで文を綴りますので、結果として、他の人の役にも立てばいいなあ、と願うばかりです。

「教育問題については、私には由紀さんに対する異論はありません」とのことです。そんなことはないんじゃないかな、と思うんですが。いやいや、絡むような言い方はやめましょう。異論が出ていないのだから、これに関しては今回云々するのはやめます。

たった一つの話題だけは振っておきます。今度の選挙で、大方の予想通り、自民党単独で294議席、公明党と合わせると325議席の安定多数を得て、安倍晋三さんが総理として復活することが確定しました。美津島さんや小浜逸郎さんなど、私が信頼している人々が安倍支持を表明しているのだから、私も、こと経済政策については、安倍さんに期待することにします。

しかし、選挙前のTVCFを見ていたら、安倍さんが出てきて、「日本を取り戻す」なるキャッチコピーを言っていました。その三本の柱のうちの一つが、「教育を取り戻す」だそうで。そう言われると私としては、かつての安倍内閣時の「教育再生会議」を思い出して、いやな気分にならざるを得ません。

これは直接は中曽根内閣時にできた臨時教育審議会以来の「教育改革」路線を引き継ぎ、その集大成といった構えで、いろいろ学校に、つまりは教員に、余計な仕事を押しつけたものです。例えば教員免許更新制。私は、これが廃止されそうだ、というだけで、民主党政権を支持したのですが、民主党にはこの一事すら裏切られました。

その他再生会議、というよりここに集成された一連の教育改革についての批判を、私は夏木智との討議の形でまとめ、できれば出版したかったのですが、どこも引き受けてくれるところはなく、我々の同人誌『ひつじ通信』に載せただけで終わりました。それは我々の力不足というだけで、誰かを恨んだりする筋合のものではありません。

今は一番言いたかったことだけを言います。学校教育に関する基本理念が現状のままである限り、どのような改革も必ず改悪になる、そうならざるを得ないのです。安倍さんが具眼の士であるなら、これをわかっていただきたいのですが、無理かなあ。教育に関する「誤った思想」(佐伯啓思『経済学の犯罪』より)は、ある意味経済のよりタチが悪いようです。

上記は、私の生涯の目標の一つになりそうな事案なので、これからも、誰にも頼まれなくても、折にふれて申し上げていくことになるでしょう。

で、今回は、美津島さんのお題にあった「主権者意識」と、「戦後民主主義」理念のうちでも特に「人権」について述べましょう。

まず、「主権」sovereign powerという言葉の意味ですが。これには二つあることは御存知ですよね? 国家主権、というのは、ある国家が、他国の干渉を受けずに、独自に法律を決めて、統治してよい権利のことです。近代国家とは、この権利を備えた国のことです。そしてこの主権の及ぶ地理上の範囲を、その国家の「国土」と呼ぶのです。

一方、「主権者」というと、「至高の力の持ち主」ということです。絶対権力者です。なんせ、主権者は間違えることはない。というか、彼が間違っている、と判定するだけの権威が国内に存在しない。普通は、王権神授説などに基づく、絶対王制の王様が主権者であって、ただし文字通りそうであった王様は、世界史上、そんなに多くはいません。

では、「国民主権」とはどういう意味なのか。国民の「一般意思」を至上とする、ということでしょうか。そんなものがあるのかどうか。ルソーが「社会契約論」で述べているところは難解で、私などの理解力では及ばないので、どうぞ教えてください。今のところ、悪い頭で考えたところでは、これは純粋な理念なのであって、現実に存在している、としてはならないものなのではないでしょうか。すると現実的な意味としては、「至高の力の持ち主、つまり絶対権力者なんてものは、個人としてはもういないんだよ」ということにしかならないような。

因みに、日本国憲法の「国民主権」は、よく知られているように、前文以外では第一条にのみ登場します。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。まるで、国民は、天皇制存続のための「主権」だけを認められているかのようですね。

それと、「主権の存する日本国民の総意」は、「一般意思」と同じなのでしょうか、違うのでしょうか? 同じだとすると、この場合の国民の総意=一般意思はいったいどういうふうに確認されたのか。日本国憲法は、大日本帝国憲法の「改正案」として、昭和21年の第90回帝国議会で可決されたのですから、反対者はいても、議会の多数決によって定められた、それが「国民の総意」だ、でいいんでしょうか。でも、たとえ直接民主制によって、国民の大多数が賛成したことでも、それは「全体意思」であって、「一般意思」ではないのですよね?……もしかしたら私は、基本的なところで大間違いをしているかも知れず、やっぱり詳しい人に御教示願うしかないようです。

こんなていたらくなので、他人に対してエラソーに御教説を垂れるなんてこと、できるはずがないんですが、それでも、「対外的独立性・統治権という意味での主権を守ることについて、主権の存する国民が当事者としてあまり真剣に考えてこなかったということです」というお言葉には、二つの「主権」があまりに無造作に並置されていて、無用な混乱を招くんじゃないかなあ、という危惧はどうしても拭えません。

以下、念のために。「国民主権」をどういう意味にとったとしても、「対外的独立性・統治権という意味での主権を」具体的に「守る」義務なんて出てきません。つまり、例えば、これから尖閣列島に中国軍が押しよせてきたとしても、日本国民である美津島さんや私が、個人として、すぐに、それと戦うためにかの地へ出かけていく、なんてこと、やる義務はない、どころか、やってはいけないことです。たとえ徴兵制が施行されたところで、対外戦争は国権の発動なのであって、国家の決定を俟って初めてできるのですから。

もちろん美津島さんはそんなことをしろと言っているのではない。戦後の日本人は、ただ権威に逆らって、好き勝手だけを主張するようなことのみを「民主主義」の名のもとにやってきた。結果として、内側では、自分たちの好き勝手を民主的な正義のように偽装した左派勢力が政権中枢にまで入りこむことを阻止できず、外側では、他国の日本に対する好き勝手が、まるで正当な権利であるかのように国際社会で主張されるのを許してしまった。今こそ我々は、政治家や官僚任せにするのではなく、自ら主体的に、この国の運営を真剣に考えるべき時だ。大雑把には、これが美津島さんの主張なのでしょう。

大筋では異論はありません。以下に述べることはいわば老婆心です。いわゆる保守派の言論に対して私が常々感じている違和感を、かすかに、美津島さんのにも感じますので。それ以上に、保守化したと言われる日本人が見落としがちなんじゃないかと思えることを、この際言っておきたいと思います。

好き勝手、と上で申しました。それが激しくなって、他人の好き勝手を踏みにじるところまでいったら、エゴイズム、と言い換えていいでしょう。それを主張すること自体が悪なのでしょうか? 答えは、「否」です。故吉本隆明が、戦後によいところがあるとすれば、国民が好き勝手=私利私欲を大っぴらに追求できるようになったことだ、と言っていたと思います。私はそれを、個々人にとってよい、というよりは、社会にとってよいことだ、と感じているのです。

なぜか。まず忘れてはならないのは、人間には必ず欲望があり、その実現を目指して行動すること自体は自然なことだ、ということです。何時代であっても、それは変わらないでしょう。欲望はこれだけ普遍的なので、よく目につきます。そしてもちろん、自分のよりは他人のそれのほうが、よりよく目につきがちなものです。結果として、放っておいたのでは人間の集団、大は国家・社会から小は家族まで、まとまりがなくなって、成り立たなくなる、とおそらくは必要以上に思えてくるので、欲望追及を抑えるためのモラルや制度ができたのだ、と考えて大筋で、いや、一面では間違いないでしょう。

それもまた、人間が社会的な動物であり、必ず社会の中で生きなくてはならない以上、当然なことです。ただ、ここで難しいのは、他人の欲望追及を抑えようとすること自体が欲望の追求になってしまう、ということです。自分が得をするために、他人の得は最小限にしたい。これもとてもありがちな欲望の形です。ただ、それをむきつけの形で押し出したのでは、あからさまなエゴイズムになってしまうので、偽装が始まるわけです。このように要求するのは我私(われわたくし)のためならず、社会全体のためである、という具合に。だから当然この偽装はその時の社会に広く認められている正義に添って行われます。

戦前だと「大日本帝国の臣民」としてのモラル、代表的なのは「愛国心」でしょうね、これをやたらにふりかざした人がそうです。ただ自分が大きな顔をしたい、威張りたいだけなのに(これも私利私欲に含まれる)、当時は誰も公には批判できなかった皇民意識が看板として使われた。こういうのが偽装です。戦後は「民主主義の理想」としての「主権者意識」とか「人権」とかに、民主主義とは関係のない「平和主義」まで加えられて、主に左翼によってずいぶん勝手に使い回されました。

マンガから例を取りましょう。青木雄二プロダクション(鬼才青木雄二が他界した後も、スタッフによって創作活動を継続している)「新ナニワ金融道」に、その名も左浴田佐助(さよくだ さすけ)なる悪党が登場し、NPO活動を隠れ蓑にして、数々の悪行を働きます。例えば、コンビニに、自分の息のかかった若者を就職させる。彼らはわざとレジを打ち間違えたり、客とトラブルを起こしたりして、頸になるようにし向ける。その後、このコンビニは人権無視で弱者を虐げる経営をしていると抗議デモをかけて、営業を妨害し、廃店に追い込む。別にコンビニ経営者に金を請求したわけではないので、彼の行いは私利私欲を離れた純粋な「弱者救済」に見え、批判しづらい。が、実は裏で地上げ屋(ではなくて債権回収専門のサービサーなんですが、細かいところは元の作品に当たってください)と結託していて、経営者をこの土地から追い出すために、もちろん金をもらって、やっていたのだった。

NPO活動をしている人の全部が、さらには純正な左翼、つまり共産主義者のすべてが、こんな悪党だと言うわけではありません。中には立派な人ももちろんいるでしょう。てな言い訳が必要と感じられるだけでも、この正義の看板は有効なんですよねえ。もちろん私は、人の問題ではなく、世の中で公認されているので、反論しづらくなっている、看板の危険性を申し上げたいのです。

そもそも、人権なんて言葉自体が曲者です。主権と同様、よくわからない。それでまたしてもよくわからないままに言っちゃって、大間違いだったら諸賢の御叱正を願っておきますが、これはどうやら、発生からして、対権力関係で問題になることだと考えるのがいいようです。権力とは、「強制的に人に何かをさせる力」のことですから。ただ、なんでもやらせることができるわけではない。そこには限界があってしかるべきだ。権力を行使される側から見たら、自分を守るために、これとこれは権力側の命令があっても従わなくてもよい、そういう領域をあらかじめ決めておく。ただし逆に、こちらが無条件・無限定の権利であって、絶対だ、なんてことはありません。どちらの側にであれ、「絶対」を認めたら、人間の世の中はもたないんです。

こう考えたほうがいい、という根拠は、私たちの日常生活で、他人とつき合う上で、「人権」なんて言葉をつかわなくちゃいけない場面なんてあるのか、と思えることです。例えば、私が美津島さんの「人権を守る」なんて言ったとしたら、具体的にはいったいどういうことになるんでしょうか? およそイメージがつかめないんじゃないですか?

もちろん言葉はいろいろ転用されたり拡張されたりして使われますから、私人間でも、例えば、いじめている側はいじめられている側の人権(「幸福に生きる権利」かな?)を阻害しているのだ、と言ってもいいのでしょう。それでいじめ問題が解決しやすくなるなら。なぜ解決しやすくなるのかと言えば、警察など、公的な機関が介入しやすいからです。もっとも、そこまでいかなければどうにもならないと考えられる「いじめ」は、もう立派な犯罪ですので、ことさら「人権問題」と言う必要が実際上あるのかどうかの疑問は残ります。例えば、も三度目ですが、私が美津島さんの金を盗んだとして、「由紀草一は美津島明の人権を侵害した」なんて言う必要がありますか? 由紀はドロボーだ、堅い法律用語がほしければ窃盗罪だ、で十分ではないですか。

企業の場合だと、会社法人として公的な性格もありますし、雇用者側は被雇用者に対して業務上の権力も揮えますから、「人権問題」なる言葉のリアリティーも増してきます。不当な人事・給与の減額・馘首、など、被雇用者の社会的な信用や、まして生存権を直接脅かすものは、「人権侵害」と呼んでもそんなに違和感はないでしょう。そこに左浴田のような悪党がつけいる隙もまた、生じたわけです。

そこで、まず必要なのは、法律上あるいは社会通念からしてそれがどの程度に「不当な」行いであったかどうかの吟味です。最初から「人権侵害」なんてデカ過ぎる言葉を押し立てるのは、とにかく相手を黙らせてこっちの言い分を通そうというエゴイスティックな動機から出ている、とみてまず間違いないでしょう。

そう思えば、人権擁護法案のいかがわしさも簡単に理解されるのではないでしょうか。詳細は、美津島さんがおっしゃる通りでしょうが、単純に、「人権」を表に立てていること、しかも適用範囲が曖昧で、つまり限定がないこと、だけでも、もうダメだ、とみなしていい。

これがヒネた見方だと感じられるとすれば、それこそ戦後の左翼的な風潮がしからしめるものであって、私はこういうのこそが健全な庶民感覚だと思うのです。今の日本に一番必要なのは、少なくとも私には意味がよくわからない「主権者意識」より、平凡な日常生活を送る庶民の感覚のうち使えるものを拾い上げて、政治・経済上にも生かしていく智恵ではないかと思うのですが、いかがですか?

繰り返します。エゴイズムがエゴイズムとして主張されるなら、別に問題はないのです。過剰なまでに要求が通るなんてこと、ありませんから。険呑なのは、何やら美しい理想めいたものの蔭に隠されたエゴイズムです。

でも、他人を騙すよりもっと危ないことがあって、それは自分自身を騙すことです。つまり、理想に酔っぱらって、自分で自分のエゴイズムが見えなくなってしまうときです。

大正末から昭和初頭の日本陸軍には、「皇国のため」という名目で自分たちの勢力拡大を図った軍幹部がたくさんいました。「国のため」に仕事をしていると言いながら、財閥と結託して私腹を肥やすことしか頭にない政治家もいました。一部の青年将校たちがそれはインチキだ、と見抜いたまではいいのですが、そこから進んで、自分たちこそ国を救わねばならない、そのためには自ら「愛国心」の化身にならねばならぬ、とまで信じた。そして、現にそうなった、と信じたら、日本をダメにしている腐った奴らは一掃してしまうこともできる。否、是非そうすべきだ、ということになった。

彼らは純粋だったのかも知れませんけど、だからこそ危ない。私利私欲はないようなので、他人からも自分自身からも批判されず、どこまでも突っ走る。国家全体を恐慌に陥れるような残虐行為は、多くはこのような純粋な人々によって遂行されるのです。

だからここで安倍さんに、改めてお願いしたい。教育に関する我々の意見は受け入れてもらえなくてもしかたないですが、愛国心教育、なんてものだけはよしてください。戦後の日本では、愛国心は広く公認された価値観とは言えず、その分危険性は少ないとはいえ。だいたい、公権力の一部である公教育が、国民の価値観にまで具体的に立ち入ろうとするのは控えるべきなのです。憲法学者のうちの改憲論者として著名な慶大の小林節氏が、「政治家が愛国心を国民に説くなんて僭越だ。そんなことより、国民が自然に愛せるようなよい国にしていくようにするのが政治家の務めだ」とおっしゃっているのが、この場合至当だと思います。

しかし、これだけではすまないのが人の世のやっかいなところですね。対外問題は? 中国はどうするんだ? と言われると。

「正義は危ない」と言った舌の根も乾かぬうちに申しますが、こんな私でも「いくらなんでも」はある。2010(平成22)年の尖閣沖での中国漁船衝突事故のときには。日本の巡視船にぶつかってきた中国の「漁船」の船長が起訴されそうになったら、中国にいたフジタの社員四名が、許可なく軍事施設を撮影したとかなんとかの理由で、身柄が拘束されましたね。人質だ、とはさすがに中国政府は言わなかったですが、そうに違いない、と日本人が思うのを止めもしなかった。

いやはやなんとも、ヤクザでもめったにやらない(日本の。チャイニーズ・マフィアや蛇頭などはどうか知らない)やり口ですな。もしも、大東亜戦争中に日本がしたことがすべて彼らの言う通りだったとしても、例えば南京陥落のとき中国の非戦闘員を三十万人だか四十万人殺したのだとしても(そんなこと、あるわけないですが)、また尖閣諸島が、これまたあちらの言う通り、あちらの領土だというのが正当だったとしても、それらとなんの関係もない日本人を捕まえる口実になんてなりっこない。北朝鮮の拉致問題と同様、この不正ぶりは、正義の味方なんてまっぴら御免と常日頃思っているこの私をも正義の怒りで焼かれそうになるすごいものです。

こんな国との領土問題が、「実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならない」なんて、閑人の寝言にしかならない。いや、一般論なら、実務的に解決することは不可能ではないと言えます。尖閣は両国の共同統治として、付近の漁業権などはまた別に協定を作ればよい。といって、中華民国も絡んでいるので、簡単にはいかないが、その方向なら、話し合いは進められるから、暴走漁船やら、尖閣の上空に飛行機を飛ばす、なんて、大国にはあるまじきみっとみないイヤガラセはやらなくても済むはずだ(でも、やったりして……、との懸念も拭えませんが、まあやる必要はなくなるはずです)。

それができないのは中国のお家事情からです。日本にほんのちょっとでも妥協することは、敗北であり、許されないことになっているようですからね。国際司法裁判所に提訴することさえ、妥協になるんです。日本に無条件に尖閣諸島を譲渡させるのでなければ、あとはすべて敗北。するとできるのは、忘れたような顔をするか(即ち、棚上げ)、戦争しかない。

なんとも困った国です。私利私欲なら、上に述べたような妥協のしようもあるのです。情念が、少なくとも自分では正義だと信じているものへの情念が絡んでいるのが厄介なのです。「愛国有理」というやつが。中国政府は、領土拡張と、国内の自分たちへの不満を日本へ向けることでかわそうとする私利私欲は、きっとあるのでしょう。しかし国民の間に一度燃え広がった情念を、いつも自分たちの都合のいいように利用できるかどうか、はなはだ危うい。実現可能な妥協策をとれなくしているという意味では、明らかに損な道を選ばざるを得なくなっているのかも知れない。この危険は、中国政府にはどれくらい自覚されているのですかね。

もう一つ、これは美津島さんがおっしゃっていることでもありますが、この問題から見えてきたことがあります。先程私は、「エゴイズムがエゴイズムとして主張されるなら、別に問題はないのです。過剰なまでに要求が通るなんてこと、ありませんから」と申しました。しかし、衆を恃み暴力を使って、自分の好き勝手を通そうとするヤクザ者も世の中にはいます。それをどうするかって、もう警察による有形力の行使しかないでしょう。仙谷由人が、「国家は暴力装置だ」と言ったんですけど、なんのつもりだったんですかね。暴力装置を含まない国家なんて、なんの役にも立ちはしない。

戦後の日本は、国内的にはともかく、対外的には、暴力なしですまそうとしてきました。でも、国際社会には警察がありません。日本に対して無茶なことをする奴がいたらどうする? そんな国はないんだ、と思わせることに、左翼的な言論人たちは多大なエネルギーを費やしてきました。でもやっぱり心配、ということなら、万が一のときには国連があるさ、アメリカも助けてくれるさ、だからよけいな気苦労はしないでね、とも言った。しかしこれではよその国の軍事力に頼っているからこそ成り立つ「平和主義」だ、結局軍事力は否定できていないんだ、という簡単な論理も意識の外に追い出せるぐらいまで一般の日本人を洗脳できたのですから、左翼的な言論及び言論人侮るべからず、ではありますね。

以上は拙著『軟弱者の戦争論』で縷々申しましたので、これ以上は申しません。つけ加えるべきこととしては、尖閣問題がこれ以上悪化して、いよいよ戦争、ということになった場合、アメリカは頼りになりますか、ということなんですが、これはけっこう怪しい。

かの国は最近、「尖閣諸島は日米安保条約の範囲内」だが、「領有権の問題については、特にどちらの味方もしないので、どうぞ両国で話し合ってくれ」というメッセージを発していますでしょう。これを中国向けとすると、こんな意味になるんじゃないかと思います。

「中国はんとは最近商いでふこうお付き合いするようになりまったさかい、あんなこまいシマのことで、それも、わてらんとこのでもないのに、揉めとうはありまへん。けど、あんまり手荒なことされたら、わてらにもメンツがありまっさかい、黙ってるわけにもいかんようになるかも知れまへんで。そこんとこ、あんじょうよろしく頼んまっさ」。これがいわゆる米軍の抑止力で、これもなかったら、中国はさっさと軍隊を送ってきていたんじゃないですか。

でも、結局のところ、有事の際、アメリカがどれくらい日本を助けてくれるのか、わかったものではありません。安保条約はあっても、理屈なんて後からいくらでもつけられますもの。まあ仕方ない、アメリカは所詮他国なんですから。必ずこっちの都合のいいように動いてくれる、なんて期待するほうが、こっちの得て勝手なんです。

すると、最終的には、自分の国は自分たちで守るしかない。そういうのが主権者意識なんだ、と言われるなら、反対する理由はありません。いざ戦争となったら、ホットな愛国心よりクールな戦略のほうが大事になると思いますが、前者が全然なしではすまない。

ただ、美津島さんがこの言葉で徴兵、つまり国民皆兵まで考えていらっしゃるとしたら、それには賛成しません。よきにつけ悪しきにつけ、専門分化の時代で、ちょっとやそっとの訓練で近代兵器を扱えるようになんてなりませんから。その部分は自衛隊、安倍さんの構想がうまくいけば国防軍になるかな、に任せるに如くはないと思います。

何も恥ずかしいことではないでしょう。家の近所でヤクザ同士のドンパチが始まったとしたら、私は体を張って家族を守ろうとするよりは(そんなことしたって屁の突っ張りにもなりません)、警察の保護を求めます。それが当然でしょう? ただ、これも美津島さんがおっしゃったように、国民の代表として、国民と国土を守るために身命を賭して働く人々への敬意を忘れなければ、それでよいのだと思います。

長々と書きました。ご返事をお待ちします。


*これに対して、私は、まだ返事を書いていません。実はご本人に対して、どうにも返事が書きにくい旨をお伝えしています。というのは、これ以上踏み込むと、論争のポイント・オブ・ノー・リターンを踏み越えるのではないかという感触が生じたのです。私は、由紀草一氏を打倒すべき論敵とはまったく思っていません。それどころか、傾聴に値する教育言説家と思っています。ほかに打倒したい論客は山ほどいるのです。で、「共食い状態は避けたい」と、由紀氏に申し出た次第です。そうなることは、私に少なからず苦痛と空虚感とをもたらすことが目に見えています。どんな場合でも議論の徹底を図るべきであるという「議論原理主義」の観点からすれば、私は情けない奴ということになりそうです。今回に関して、私は、その批判を甘受いたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする