私は周囲から、こう見られたい。そう要求する権利は何処まで認められるのか。スリムであるとか服のセンスが良いとか、身の程知らずの希望は持ち合わせていないが、賢いとか思慮深いとか見られたいと云う気持ちは、確かにある。日常生活でほぼ必要としない単語を並べ立て、如何にも高尚な意見を述べているかの様な眩惑を試みている所からも、それが透けて見える。ただその実際は、どうでもいい些事に偏執的に拘り、空論を論理的に破綻しながら展開した挙句、私ですら予想出来ない斜め上の方向に結論を導き出すが現実問題の解決には全く役に立たないと云う、残念な早期高齢者の愚痴に過ぎない様に思える。客観的に一番厄介なタイプであろう。しかし本人が「賢いと見てもらいたい」と望んでいる以上、その意思を尊重しないのは差別であり偏見ではないだろうか。そんな権利意識を振り回す前にまず日頃の行いを正すのが、本当に賢い人間なのは分かっているのである。