何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

無限に抱かれた虚無

2020-05-03 05:54:19 | 詩はあいまいな哲学
蛇が自分のしっぽを飲み込む接続。
孤独や悲しみや怒りに近づこうとし
そして同時に癒しもする。
その喜びの音楽を聞きながら自分でも歌っている。

この上なく美しい歌には友情が感じられる。
期待をはぐらかし新しい道へ迷い込むと見せて
情念と真っ向から対立し、懐かしい休息へと連れ戻すのである。

ハーバード大学でも出された「トロッコ問題」は2択であった。
一対多の命では、多数を救うのが「正義」という。
しかしその一人の方が身内であったり大切な人だと、多数の命より尊重され見解が逆転する。

善悪2元論ではないなら別の方法を考え付く、本質もある。
*自分がトロッコを止めるべき身を投げる。
*敢えて一人の身内を犠牲にし自分も自殺する。
*トロッコに乗ってぶつかりそうな人に「危ないよ=どいてぇー」と言ったり払おうとする。
*石や固いものを置いたり、切り替えレバーを中間ぐらいで止め脱線させる。
・・・という質問者の提案に素直でない発想があってもいいものだからだ。

ほとんどの人が自分のいない世界、或いは自分の愛する人のいない世界を想像したことだろう。 
命の価値は命に理由、意味あるからというものだから
幸運で幸福に生きるのが存在理由ではなく、名誉に価値を置く人もいるからだ。
個人としても、社会性とか常識という全体利益が保てるならば名誉が贈られ、
幸福になるための意義、価値ある命になるのである。

過去からの・今の・未来へのは人間存在たるもの。
サルトルは「存在は本質に先立つ」というが、常識は本質より先立つ権力の存在である。

損得とか正義とかの共同倫理を超えた違った価値感で
貢献したり啓発を与えてくれる人には驚かされながらも納得することがある。
「リアクション」「ユーモア」の才も本質が常識でなく、運命にも懐疑的である。
自分を観察する自分が居て、自分の存在を認めている(気づいている)自分が
理性である演技をさせ効果を狙っているのだが、
さらにそれを観察する超客観の共利共生の試算があるとどうなるか。

ヴィトゲンシュタインは哲学者の間では「ゆっくりしていってくれと挨拶するのが流儀だ」といい
パスカルは「理性を排除すること、そして理性しか認めないこと」といい、
理性が放任されたならば、その時デカルトの合理性に坑し
モンテーニュの異教的な悪徳が実は徳なのではないかという懐疑も現れる。
理性に相応しいものは因果関係を無力にするか、かなり控え目なものになり、
そうして疑いもなく今が過去より幸運に恵まれるならいいけれど、
過去の幸運が今を辛く孤独を感じさせるものとなるのでは幸せと言えない。

今が最高であるとは偉大な勘違いかもしれないが、不合理を笑えれば充満。

2020-04-05 19:51:33の上書き再編


岡崎体育 「トロッコにのって」Promotion Video
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする