どういう愛が調和のとれた永続的な愛で
安住の価値があるとするのであろうか。
偶然な愛、時間的に短い愛には強い刺激を欲する力が起こる。
人間は他を喜んで育てたり助けたりしたいものに価値を置く。
内と外を絶縁して自分頼みだけで生きて
他と衝突するのを避けておれても
無味乾燥とした世界を味わい、
救われているとも感じなくなり
生き甲斐を持つことも幸せも得られない。
愛し得る者を持ち生きている喜びは万人を感動させ、
愛し得る者の為に責任を担って死ねることも救いとなる。
人間を含んだ哺乳類は、愛の尊重が知恵と自由の育みになる。
愛に支配されることなしには死に至ることもある。
「愛は美乳と美酒」という訳である。
既に滋養豊富で潤った世界に住む魚には
愛を尊重する社会がそもそも不要で
「愛する故に憎む」とか「愛の真逆は無関心」とか
どうでもいいのである。
魚に取って価値あるものとは確率と合理性の瞬発的な「判断力」のみ。
醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば魚(猿)にかも似る(大伴家持)
客観的に自由気ままに酔っている方が魚っぽい(愛を知らない)が、
努力だ、忍耐だ、より良く生きるだの、
嘘だの誠だのと利口ぶってる不自由な奴は醜いと魚は申すとな?
魚人を愛する者、真理を愛する者は淡泊である。
ゴールデンボンバー「おさかな地獄」
ピエール・ジャネの二重人格論では
「意識の下位に魂は置かれた」として、
魂とは存在するものではなく一つの働きであるというもので、
「唯一の主体(私)に依らずして思考はない」
「意識自体が意識を作り出す活動であり、
意識がなくても照らし出される光景は実体ではない」とした。
意識を持ちえることは英雄的で
意識は思索であり完全であるか、存在しないかである。
自分を導こうとする分でしか人間になれなく、
光ではなく活動と見なすのは
眠りに身を委ね浸っている夢での光景は
中心の光に応じて薄暗がりがあるように
それら自体の活力で生きている精神的存在ではないからだ。
そしてその良心は自分を知る場合と同じく世界を知る場合にも使われ
あるべきものと今あるものを対比させるからである。(続く)
世界が絶えず五感に与える印象の解釈を、眠っている人間は間違える。
自分の思い出、自分の感情に応じて解釈するので
愛情の秩序―――ということは無秩序(意志に関わりなく)
に従って作られた理想の世界を自分の中に思い描く。
フロイト的な魂を明らめるのを否定するのは
興奮した人が行う「発言の騒音」を
「夢想を解く鍵」ではなく「不幸への鍵」だとして気の毒がる。
人間が虚栄や羨望、恐怖、激昂のままであるなら、
健全な人間ではなく動物である。
しかし彼の関心は人間の救済である。(続く)