何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

壁の無い人(人魚と魚人)

2021-07-31 06:08:09 | 詩はあいまいな哲学
どういう愛が調和のとれた永続的な愛で
安住の価値があるとするのであろうか。

偶然な愛、時間的に短い愛には強い刺激を欲する力が起こる。
人間は他を喜んで育てたり助けたりしたいものに価値を置く。
内と外を絶縁して自分頼みだけで生きて
他と衝突するのを避けておれても
無味乾燥とした世界を味わい、
救われているとも感じなくなり
生き甲斐を持つことも幸せも得られない。

愛し得る者を持ち生きている喜びは万人を感動させ、
愛し得る者の為に責任を担って死ねることも救いとなる。

人間を含んだ哺乳類は、愛の尊重が知恵と自由の育みになる。
愛に支配されることなしには死に至ることもある。
「愛は美乳と美酒」という訳である。

既に滋養豊富で潤った世界に住む魚には
愛を尊重する社会がそもそも不要で
「愛する故に憎む」とか「愛の真逆は無関心」とか
どうでもいいのである。
魚に取って価値あるものとは確率と合理性の瞬発的な「判断力」のみ。

醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば魚(猿)にかも似る(大伴家持)

客観的に自由気ままに酔っている方が魚っぽい(愛を知らない)が、
努力だ、忍耐だ、より良く生きるだの、
嘘だの誠だのと利口ぶってる不自由な奴は醜いと魚は申すとな?

魚人を愛する者、真理を愛する者は淡泊である。

ゴールデンボンバー「おさかな地獄」

ピエール・ジャネの二重人格論では
「意識の下位に魂は置かれた」として、
魂とは存在するものではなく一つの働きであるというもので、
「唯一の主体(私)に依らずして思考はない」
「意識自体が意識を作り出す活動であり、
意識がなくても照らし出される光景は実体ではない」とした。

意識を持ちえることは英雄的で
意識は思索であり完全であるか、存在しないかである。
自分を導こうとする分でしか人間になれなく、
光ではなく活動と見なすのは
眠りに身を委ね浸っている夢での光景は
中心の光に応じて薄暗がりがあるように
それら自体の活力で生きている精神的存在ではないからだ。

そしてその良心は自分を知る場合と同じく世界を知る場合にも使われ
あるべきものと今あるものを対比させるからである。(続く)

世界が絶えず五感に与える印象の解釈を、眠っている人間は間違える。
自分の思い出、自分の感情に応じて解釈するので
愛情の秩序―――ということは無秩序(意志に関わりなく)
に従って作られた理想の世界を自分の中に思い描く。
フロイト的な魂を明らめるのを否定するのは
興奮した人が行う「発言の騒音」を
「夢想を解く鍵」ではなく「不幸への鍵」だとして気の毒がる。
人間が虚栄や羨望、恐怖、激昂のままであるなら、
健全な人間ではなく動物である。
しかし彼の関心は人間の救済である。(続く)
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氷とダイアモンド

2021-07-31 05:20:21 | 詩はあいまいな哲学
奪われたのは凍り付いた過去だ。

未来が未来であり続け、現前するのを心待ちにし
我々の意識を未来から逸らせる、絶望の効用

想像の中で過去と未来は
自我を底上げする余地を無尽に与える。
過去も未来もないことは存在しないに等しく
願望の先端を現在に突きつけるなら
先端は現在を突き破って洞窟に達する。

論理的に排除し合う思考に対峙させる。

過去と未来の放棄を優先するなら
不幸が有益と思い込ませる効能もある。

SiM - DiAMOND (OFFICIAL VIDEO)
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天窟にいらんと思う心こそ

2021-07-26 14:30:19 | 詩はあいまいな哲学
我が身ながらの師匠なりけり
「その道に入らんと思う心こそ我が身ながらの師匠なりけり」
戦国時代を生きた茶人、千利休の言葉からの引用。
"その道"を天窟(空の穴、空が落ちる)に
"入らん"をいらんに変えた根拠はダイエットの教訓から。

日常~道に入る茶道は
どんな偉い立派な人でも自分から頭を下げ、
屈んで入る小さな間口を抜けることは人を動物的条件に引き戻す。
静かに正座し作法の模範は模倣を遵守することで
人間の在処に隠れて安心する。

ロックの爆音と叫びは善と悪の混在に同意している獣ではなく、
望んだだけ示される魅力とか自分の在りかを探し求めてる段階で
「行き突くつくまで行き就いたら」野暮ったくはない。
そういう力(重荷に仕えている、重圧に耐えている)
人間であることの主張。

魂の隅々にまで表象される純粋さ(喜び、不安、苦渋、共感)や、
非日常な空間に虚構ではない場の共有、把握されずとも同意と持続。

一期一会など善以外のものを生み出しはしないし余剰もない。
人間性を隠させることで個性を引き立てさせる日本的茶の思想と
洋楽ロック魂を交差させてしまっても多分天才(私は下足人)には関係ない。

世の中全てに似ていても、誰も天才に似ておらず、
皆と僅かに一歩隔てた物事があるのが天才(芥川龍之介)

可能性は必然性を、変分は不変量を見極める試金石となるうる。
天才が見つけるものは独創性よりも基準性というものかもしれない。

完璧主義なほど複雑さからの解放を切望し続けていて、
単純さや唯一性へ昇って限界を知れるかどうか。
ヒカルちゃん的には「根性なし」でもそれはそれで美しさはあるそうだ。

ONE OK ROCK -Sky fall- (AMBITIONS JAPAN DOME TOUR" 2018 MIX ver.)
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笑いは涙を支えてる

2021-07-25 19:30:51 | 詩はあいまいな哲学
「私たちは瓜二つの双子であった」
涙は治療の徴であるが故に病気の徴である。

一人が浴槽で溺れたが、それがあいつなのか、私なのか
私は知らない。
「私は知らない」という文言は常に戻り、常に克服される。

情動の動きはじわじわと命を縛り、締め上げ、停止させるが
そこからの解放の涙の中には
重大なものが現れたが為の崇高なものがあり衝撃がある。

「私は私だ」と私が理解する仕組みを真面目さで押し通すことは出来ない。
喜劇は悲劇の反省であり倫理であって、矛盾と軽蔑がなければ
ギリギリの感情を克服されたと明るみに出す時間と高みが必要だ。

矛盾と軽蔑が有る時、無い時、そこで生まれる率直さは笑い。
喜劇の持つ偉大な平等、凄まじい威光が示される。

その美味しい笑顔頂きました♪ ご馳走様です♪

ゴールデンボンバー「夜明けの待人」
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バーチャルライブ

2021-07-25 18:39:12 | 詩はあいまいな哲学
今や旅行や娯楽の為に移動をしなくても
家の中で疑似体験が可能となった。
人間的共有の喜びに理想の住処を求めることや
移動すること自体と社交と群れる喜びもある。

が、下らない礼儀や衣服の心配を無視できる。
出逢いがなければ主客対立が起こらない。
時間と空間とお金を大いに節約できるという利点がある。

GMM Virtual Concert: COCKTAIL
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御穂満の宝

2021-07-22 10:39:49 | 詩はあいまいな哲学
建築を主体とする最古の芸術「象徴的芸術」は
素材に縛られることのない「浪漫的芸術」として音楽や絵画に続き、
無限の主体性、若しくは個人的な魂の陰影として価値が表現される。

歴史の流れの中で建築は人体の権力一要素であり、
何かを建てることは何かを着ることだ。
目に見えることのない人体の感覚器官や神経や
筋肉の構造と仕組みを出発点にして
芸術が始まり、絶えず枝分かれして、対立しさえする。

正体が定まらず、欺瞞的で、掴みにくい想像力とは
不在の対象を現前させる力で、実際には曖昧な概念が、
最終的には人の動きの内に位置しそこで丸ごと確保される。

逃げ出したり目を塞ぐ人は、常に口達者で、
精神が形を発明し知識がその形をなぞるように
怖いものを見たと言っても
想像力が見かけ上の奇妙な変化を作り出したかというと
物の形を歪めるところまではいかない。
例えば私が私に語り掛ける時、
聴覚の幻影を対象にして
静寂の一息が無数の力の働きで音や声になって
私自身に触れてくる。
体の動きが権威を見て現にデッサンし続け、彫刻は持続させ
対象を提供し、縛り付けて触れてることもできる。

告五人 Accusefive [ 新世界 kacauan ] feat.阿爆 ABAO Official Music Video

本能や欲望は元来盲目である。
対象が古過ぎようが得体が知れないものとしても
実行あるのみで、結果として哲学は玄人さえ解ってない。
権威と権力と御穂満の宝…続けられる気がする。
2021-04-06 15:12:09の追記
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君は海、僕は雨

2021-07-21 18:38:01 | 詩はあいまいな哲学
人は自分を弱く誤らせるものを信じるものだ。
目を覆われるからではなく
心を動かされるから。

シェイクスピアの「冬物語」では、時間が言葉を話し
怖れても遅らすことが出来ず、苛々しても早められない
そして取り返しのつかぬ時間なるものが
全ての悲劇の主役だという。

救いに来るかどうかわからない悲劇に向き合うのとは違い
人間の登場によって目の前を通過する悲劇の行列は
信集すべき観念への信用を得て、
又、証人の怠慢によって信じることをやめるのも容易だ。

幻想が絶えず裁かれ、征服され、計量され、
戦い一掃され再発見される。
信の種にも、不信の種にもなるのは同時性を感じ取る観客達だ。

詩は時間の共鳴によって私達に位置を与え私達に戻ってくる。
別次元の海に降る雨は時間の連続の果実であり
時間の移り変わりを見つめ
そこから去って、忘れられ、消されてゆく感情の未来が告知される。
それに立ち会う君(調整機能)は愛。
緩やかに主張してくる世界は一つになり、波のように呼び覚まし
最後に応えるのは自然だ。

MAYDAY五月天 [ 愛情的模樣 This is Love ] Official Live Video
2021-04-06 15:35:24の追記
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創造主と観客と桃色

2021-07-16 19:38:46 | 詩はあいまいな哲学
カントに依れば「美しさ」は二つの本性(心と体)の調和を感じさせ
私たちが融和した存在であることを気付かせてくれるものだという。
綺麗とは表現の土台として力強い記号。

心の中で言う言葉は未だ空虚な形式であった。
人に言われたことについては、それは自然全体を変化させ
収穫としての誓言(せいげん)は劇を初めさせ観客然として拘束し、
呪詛(じゅそ)は本能に取り返しつかぬの如き出現し帰結を阻む。

価値感は一番目に付きやすい顔のように、
どんな文明、人種に属する人でも
同部位を例外なく持っていながら
価値の傾向、過不足の評価も千差万別であり、
違う形容詞で修飾されたりする。

悪意、すなわち独立の意志が私たちを苛立たせるが
そうでなかったものが私たちを傷つけ孤独と自問させる。

美を称賛し、創造するには
不幸の動きを捉え
不幸が何らかの極限に至るのではないかと模型を描く。

現実の切り取り方に集約された特徴の表現に
生命力、意志力、決断力の有無、
などの基準で「存在」すると思わせる。

神々と人間の結びつきは自然からやってくるイメージであり、
私たちの不幸な日々と、物の流れとの間を
何度かの拒否と奇跡とで表現、経験する時間と、
全ての時間との間をイメージが橋渡しする。

内面に吹き荒れるの観客の、更に第三の観測者として
才能の徴は、欲求ではないという芸術ならではの秘密がある。

一体、私のものと断言し私を慰められるものとは
生まれついた地も身も心も、血の繋がりも夫婦の絆も
どんな心も合目的性は何れ自然に帰ってしまい(LCL?)所有もできない。
私があなたの部屋までに何個も落とした涙は
私が此処に存在している他にあり得ないという意味の記号。

私の表情を展示したり衣装と触れさせる意味は
称賛者が状況に従属すべき場で観客の滋養ともなり
誰もが全体に対して同類であることが承認されうること。
その存在を確かめ合い、人体の形の力強さ感じ取ろうとする。
自発性に起因する自然さと
称賛者に支えられて守られる沈黙の共鳴
称賛者の威光であることしか意味をしない威光が生まれ
調子外れの要素を減らすように、手を引かれるように
初心からの膨らみは統一へ単純化へと導かれ
喜びを共有して自分を逃さず感じることを学ぶ。
人間的規範は教える前に膨らむことが欠かせない。

ピンクブロッド(桃色血)は暖かい気持ちの要素?
作品の効果は社交の効果で、知と礼と触れ合い。

もしかして!?ネタバレになってる??(思い込み中)
そうなら栄誉なことでんがなまんがな。

宇多田ヒカル『PINK BLOOD』
2021-06-08 14:13:16の再編
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平和のイマージュ

2021-07-09 15:07:45 | 詩はあいまいな哲学
形成された社会は、彼らが恣意的に生き続けるならば
自分の気に入らないものだけを悪と呼び続けるならば
それぞれ自分に善いと思われる方法によって準備され構成される。

Mr.Children「himawari」Music Video

デヴィッド・ヒュームにまで遡ろう。
彼はカントの「独断の夢を覚ました」という栄誉を得ている。

ある球が他の球と衝突すると、他の球が動くだろうと期待するが、
それはただ、そういう結果を見てきたからに過ぎない。
純粋力学は、経験する前に完全に知られた時間形式を想定している。
我々の信頼は、この経験という迷信から出てきている。

しかし、この経験の総和はその球には何のかかわりもない。
迷信は球の中にはなく、転がり繰り返される力も受けることなく、
我々の信頼はそれがどんなに強くても
可能性や不可能性についてまだ何も告げてはいなく、
未来を保証しないということだ。

左目の見ている映像を重ねる形式は概念として同一だが、
関係性に関わる必然の方法は決して見つからない。
ロゴスでは定義できない二点の空間の関係がなんであるか。

右目の空間は関係の中にしかないと理解するならば、空間は存在せず、
内容は空間と区別されるとしたら、継起或いは継続の展開に於いて
正義や平和にどう役立つのであろうか。

何より先頭を行くのは自然である。
内容の目的より前に、理性の統合、意味の調和が存在していて、
生身の誕生と成長の計画を持たないというのではない。

主題としているのは自分の知らない生身の観念の出現、
それは美であり実行行為そのものであって、
ダンスせずにダンスを考案することは出来ないし、
歌わずに歌を追求することも出来ないし、
話す前に話すことも出来ない。

体の形に寄り添いつつ、
常に証明なしに正しいという意味を持つこと。
それが理性以上の理性であると期待される自然の事実である。

この探索に於いて観念を掴み
克服不可能な困難が後に残されても
本当の話し方も身ぶりも、もはや思考に協力しなくなって、
平和や正義の目的を知る事は目的を実現してからのことだ。

2020-08-30 19:42:25に加筆
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胎動と統一感覚

2021-07-08 12:20:40 | 詩はあいまいな哲学
感覚による認識の中にある予想
風景は眼前に姿を現し、それは僕らの手ではどう変えようもない。
風景の印象が心に押され、無いものが見えるような人は基地外だけだ。
けれども芸術家は物に勝手な想像を知覚に織り込む。
錯覚には理性が働いていることもあれば、
血肉としていることもある。

あの水平線を僕は遠いとは思わない。
あの水平線が遠いと判断している証拠だが、
この距離という額縁がなかったら、
薄明りのようなものが目に映るだけだろう。
水平線の遠さというのは物ではなく、僕との判断された関係だ。

子宮の中で胎動する小さな命の息吹を感じた時、
出産ではまず、子供の鼓動(心音)が早まって、
後に私の心音が高まっていった。

若い命は栄養を沢山摂ることと同じくらい
よく噛んで消化することが大事。そして読書も同じ
命を削ってでも、感覚が優位であるうちに人間味を持てるように。

人間味は結局若い頃の読書や経験や出会いで血肉にしてきたもの

向上心は萎え、人への興味も失い、分別がつく大人になってから
本を読んでも映画を観ても
体重が増減しても期待値の血肉になることは決してない。
言葉や知識が増すだけ。
期待とは他の困難な運動を麻痺させ、
意外なものと同様魂の根源まで震わせる。

三浦大知 (Daichi Miura) / Cry & Fight -Dance Edit Video-

万人に共通する内省によって見世物の中に入り込まぬようにと
観客然としての恐怖心と哀れみの調節が舞台から遠ざける。
彼にとって彼自身が観客の観客であって、理知の動きは
やがて一種のうねりとなって彼を意識の浜辺へと連れ戻す。
対立関係と相関関係には近しい規則がある。
外へ向かう喜びは、やがで親しい内面の喜びへと押し寄せる。
2021-02-22 11:33:09の再編

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