「私の考えではなく、私は考えさせられてしまう」
「認識」は何らかの視座に基づく変形が含まれていて
思考のプロセスそのものを作る「直接性」を揺さぶる隠喩的な理解は
「認識」は何らかの視座に基づく変形が含まれていて
思考のプロセスそのものを作る「直接性」を揺さぶる隠喩的な理解は
動する理解の失効をさせられる。
隠喩的世界像を否定する事実隠喩を衝突させ
この攻撃によって「視座の転換」を実感させ
発言が行動と等価であるという時
装飾的な修辞以上の体験で楽観視させている。
意味把握が不可能である時、
描写の欠陥となった「身体の欠陥が存在する」ようなものにする。
その時重要なのは言語的な次元ではなく「条件の方程式」。
なぜならほぼ人生は場面の分析=人物の定義と変数の探求
の言語に現実を並行的に置き換える。
状況を動かす要因となる人物そのものではなく、
人物の向こう側にある構図を読み解こうとする者にとって
一線を超えた対立や意味反転や相互関心や思考停止や開放は
ゲームを高め合う気高さを証す。
気高いお笑いで締めくくれて良かった。
プロ意識は表象されるあらゆる軽蔑から距離を持たせ、
独白する身体に傾注し、阻害されず促進されて一線を超える。
最終的には誰もの身体も笑う。
よいお年を!
菜々緒の変なおじさん
2021-12-30 23:29:05の追記