関西弁と思うが、目の前で人が転んだりすると「いける?」ときく。
「大丈夫ですか?」という意味だけでない気がする。
哲学的な意義がある気がする。
時間が進むというより、時間は動いていなくて、時計の針や
私たちが旅する存在だ。
懐かしいという感覚を過去に流れた時間を想起したものと思いがち。
未来にも僕たちを待つ懐かしい時間がある。
個人の存在だけを心配していては人間はまだ半分だ。
自分と自分(他者)との関係だけでは苦しい。
旅をする全体として伺います。
公任を帯びせる気持ち、人類全体として原初から共に進もう。
とまでは言い過ぎか。
哲学にはエポケーがある。
判断の停止や放置せよということらしいが
幸せは探すものではなくて笑えたら成功するもの?
「行ける行ける」といってもう一回こけて見せるとか。
立つ時グリコポーズで「シャキーン」
弱々しく「痛ないちゅーねん」と言って涙や鼻血サービス?とか。
リアクションが思いつかなくても「なんでやねん!」で取り換えず解決。
懐疑は芸に通ずる。
大阪人として関西弁は浅はかなようで実は深いというところに持っていきたい!
ウルフルズ - どうでもよすぎ
喰うこと、出すこと、纏うこと、産むこと等々はなるほど真に人間的な諸機能ではある。
しかし、それらを人間活動のそのほかの領域から引き離し、
最後の、唯一の究極目的にしてしまうような抽象がされるところでは
それらは動物的である。カール・ルクス(経済学者)
本来は文化や伝統といった人間的な文脈でなされ、
家族や仲間との関係の中でかかわり生きている実感に直結している。
人間が自然に生きるということは、即ち、人間が死なないためには
それとの不断の交流の中に留まられねばないところの人間の身体ということなのである。
(マルクス)
人間が病んでいるということは自然も病んでいるということになり、
伝統的な食文化にはその中で暮らす人々がいかに世界を感じ、
どんな風に触っているかが表現されている。
民族衣装に比べると高級ブランドもずっと抽象的である。
今後は生殖医療がゲノム編集技術などと結びついて
人間も文脈から切り離されて抽象化していくだろう。
経済成を至上の価値とし、AIがいくら優秀になったところで
人間は人間を生きそこなって知と力に対する思い上がりで
後始末も出来ない施設を作ったりしている。
僕たちはこんなことしかできないのだろうか。
僕たちは新しい世界の感じ方、触り方を発明しなければならない。(片山恭一)
「大丈夫ですか?」という意味だけでない気がする。
哲学的な意義がある気がする。
時間が進むというより、時間は動いていなくて、時計の針や
私たちが旅する存在だ。
懐かしいという感覚を過去に流れた時間を想起したものと思いがち。
未来にも僕たちを待つ懐かしい時間がある。
個人の存在だけを心配していては人間はまだ半分だ。
自分と自分(他者)との関係だけでは苦しい。
旅をする全体として伺います。
公任を帯びせる気持ち、人類全体として原初から共に進もう。
とまでは言い過ぎか。
哲学にはエポケーがある。
判断の停止や放置せよということらしいが
幸せは探すものではなくて笑えたら成功するもの?
「行ける行ける」といってもう一回こけて見せるとか。
立つ時グリコポーズで「シャキーン」
弱々しく「痛ないちゅーねん」と言って涙や鼻血サービス?とか。
リアクションが思いつかなくても「なんでやねん!」で取り換えず解決。
懐疑は芸に通ずる。
大阪人として関西弁は浅はかなようで実は深いというところに持っていきたい!
ウルフルズ - どうでもよすぎ
喰うこと、出すこと、纏うこと、産むこと等々はなるほど真に人間的な諸機能ではある。
しかし、それらを人間活動のそのほかの領域から引き離し、
最後の、唯一の究極目的にしてしまうような抽象がされるところでは
それらは動物的である。カール・ルクス(経済学者)
本来は文化や伝統といった人間的な文脈でなされ、
家族や仲間との関係の中でかかわり生きている実感に直結している。
人間が自然に生きるということは、即ち、人間が死なないためには
それとの不断の交流の中に留まられねばないところの人間の身体ということなのである。
(マルクス)
人間が病んでいるということは自然も病んでいるということになり、
伝統的な食文化にはその中で暮らす人々がいかに世界を感じ、
どんな風に触っているかが表現されている。
民族衣装に比べると高級ブランドもずっと抽象的である。
今後は生殖医療がゲノム編集技術などと結びついて
人間も文脈から切り離されて抽象化していくだろう。
経済成を至上の価値とし、AIがいくら優秀になったところで
人間は人間を生きそこなって知と力に対する思い上がりで
後始末も出来ない施設を作ったりしている。
僕たちはこんなことしかできないのだろうか。
僕たちは新しい世界の感じ方、触り方を発明しなければならない。(片山恭一)