「詩人は自分の感情を、個性を表現するのである」
という常識に対して異論を提出したのがT・S・エリオットである。
「芸術の発達は脱個性化の過程に他ならない。
不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅で、
自己より価値あるものの創造に追従させるものだ」という。
欧米ではこの考え方は斬新であったけれども
日本の文芸ではさして珍しいものではない。
主観がぎらぎら表面に出た作品は小さな個性しか生まず格を下げる。
抽象的に、比喩的に真理を表出する方法を洗練させた
その端的な例が俳句である。
俳人の主観は花鳥風月に仮託されて間接にしか現さない。
様々な素材が自然に結び合い、新たに生ませ許す場を提供し、
優れた句の主観は受動的に働く時である。
発想が扱うものは周知、陳腐なものであっても、
それらを結びつける妙策、知識、事象が生まれ
結合の効果として面白くなり、
酵素法もカクテル法も
頭の中で自由な化合が起こる状態を準備することに他ならない。
小さな自己を抑制して来た結果、大きな驚きを見せてくれる。
私も世界も、あらゆる物質は空っぽの空虚なもので出来ている。
物質の構成元素、原子はとても小さく、
質量の大部分を占める核はさらにその10万分の1の大きさに過ぎず、
典型的な原子は外側に電子(-)の雲を持っていて
それに等しい核の中の陽子(+)の数と状態によって
科学的な性質を決めている。
電子は電子を跳ね返す、陽子は陽子を排斥する。
となるとどうして核は一体であり得るのか。
それは電力でも、引力でもない
距離が近い時にだけ働くもう一つの力
電気的な反発力を持たず引き付ける中性子の力=核力である。
同じ徴の電気は互いに強く反発する。
自分たちと同じものを嫌い合う現象で
あたかもこの世は隠者と人間嫌いとで満ち満ちているかのようである。
中性子は隠者で、孤独を求めながらも
不愛想な連中と鎖で繋がれ皆に差別なく声をかけ
反発力も引き合う力をも克服し優しさ(限界はあるが)を振りまいている。
炎は化学元素ではできていない。存在ではない?
高温の為に核の周りの電子の一部がはぎとられてプラズマとなり、
それが噴出するのが火である。
温度が数千度にもなる時、粒子は極めて大きな速度で飛び回るので
原子の電気的反発力も働く暇がない。
人為的な問題でも、現実の模写でも、それらは何処から来るのか。
自然発生的な崩壊を個性、毒性を芸術として鑑賞するなら
答えを導くように問題が出されるはずで。
ยุติ-ธรรม - TaitosmitH | Official MV |