英国教会系の支配を逃れた最初の高等教育の場の設立精神を
1828年に設立されたユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの
本館サウスジャンクションにある古風な木製の飾り棚で
ベンサムは自らの形のまま保存され座っている。
反宗教的な冗談のような「オートアイコン(自己標本)」の意図とは
キリスト教徒にとって生命は神に与えられたものであり、
つまり神の所与であり
私達は生命を使用する権利を持っているが、
それを支配する権利は神の特権であって、
真のキリスト教徒は死ぬまで受難と闘わねばならないとする。
これに対してポップスの物体としての存在と運動という自然観と、
神と自然を同一視するスピノザの無神論的解釈は攻撃する。
「今まで生きている間に、
人類に対して少なからず貢献する機会があったが
人類は私の死(
相方)によっても小さな利益を受け取るかもしれない」
保存されることを望み
宗教的禁忌に対する死後の申し立てをし
生涯最後の10年間はガラス製の眼を常に持ち歩き、
その眼でミイラ化した頭を装飾するつもりであった。
オートアイコンは大学の評議委員会の会議にも出席し
議事録には「ジェレミー・ベンサム出席するも投票せず」
という言葉と共に存在が記録されている。
頑なに不信仰であったヒュームにショックを受けたボズウェルは
サミュエル・ジョンソンに助言を求めた
「彼は無神論者であるので、無神論者の言うことなど信じることはない」
といった。
しかしヒュームはひとつ信じていたことがあった。
「生きていることに価値がある間に
命を打ち捨てた者がいないことを信じている」
「哲学者の死にかた」より
私心を去った後の乗せられるままの無防備なひ弱な存在、
客観的に眺める人間の快さの諸相の一部は軽蔑や非難を浴びる。
崇高な胸のトキメキ(死への憧れ)は彼の敵で、
とめどない頽落(たいらく)法に反する最大の罪は闇の通い路。
西洋の生の果てで観る風景(暗雲立ち込める夕焼け雲?)とは違って
日本人の死生観では死の犠牲価値(最大多数の最小不幸?)に
雲一つない澄んだ青い空に鮮明な地平線、お花畑真っ只中かもしれない。
宇多田ヒカル『BADモード』
ヒカルちゃんの歌で出る人称代名詞は中動態に近く
病院の待合室でパジャマ風のレインーコートのようでもあるし、
ハイヒール履いて踊る、水が落ち続けフロアー全体足元まで溢れる
ヒールを脱いで水加減(?)を診るように揺らす。
君と僕を功利主義と快楽主義で考えてみた。
燃え尽きた炭は熱しても燃えなくなり、僕の水は周囲を補うよう溢れだす。
乾く程に調節入ります?
形が定らぬ水も一種の理解ではあるが変化のスピードは増すばかりだ。
変化の渦中でひたすら祈り、受け身の姿勢で適応するのを諦め
水の重要な機能として溶解する余地のない人生に意味があるだろうか。
ゲーテにとって思考する存在はそれ自身が非存在であって、
死の不可解さから生者が推断したことは
個人の不死であった。
ゲーテ最期の言葉「もっと光を」を「もう結構」と
事あるごとに主張したクスブルク出身の謎の男は
カントの最期の言葉と混同してるよね?
難しいことを考えすぎると「
頭おかしい」になりやすい。
簡単にしょうと考え過ぎると全てを「感謝と信頼」にし
誰より低い人になる。
つまり生きる必要がない人になる。
関係や感情のバランスは生きたければ大事ですね。
2022-03-01 19:22:11に追記
2022-08-21 06:43:21に追記と追リンク