インド哲学に向かってます。
原初の有は熱(赤)で、唯一にして第二はなかった。
有は欲した「我、多とならん」
そして水(白)を持つに至った。
水は欲した「我、多とならん」
そして食物(黒)を持つに至った。
「インド哲学7つの難問/宮元啓一」より一部抜粋勝手に編集
普遍と特殊に関する知覚に先行する原因としての知識はない。
ただ原因としては接触があるのみである。
白色という性質に内属している白色性という普遍から、
白色に関する「待つ対象としての特殊知識」が生ずる。
ここから実体が二つあるという知識が生じる。
その知識が記憶へと転化する。
原因は必ず結果に先行する。
もちろん、限定されたものの知識にも先行する。
複合的な知識が記憶の原因であるから、二つの知識が両立することはない。
共存する瞬間を持たないというわけではなく、
一瞬間に限り共存しつつ新しい知識が古い知識を滅ぼす。
つまり二つの知識は「殺すものと殺されるもの」の関係にある。
特殊知識が記憶を生じるならば、「実体が二つある複合的な知識」である。
しかし、複合的な知識とは「ただ眺めることとしての知識」である。
ただ眺めることとしての知識とは限定するものを「待つ」接触である。
普遍と特殊に関する知識の原因に知識、すなわち想定するものの知識を想定することは出来ない。
知識の原因であり、しかも知識でないものは何か?
それは自己、感官、意、対象、の四者の接触意外にはあり得ない。
つまりここにいうただ眺めることは、四者の接触に他ならない。
自己が苦悩から逃げると苦悩は苦悩のまま。
苦しいことから逃げない感官は後ろを振り返ったり寧ろ立ち向かう。
積極的に無心に、夢中になって対象に没頭すると
火に囲まれていても水の心は涼しくし、
時間を悠久に感じさせ無限に意を遊ばせる。
旅は納得いく何か得たいがためであったり、
諸々の反省や憶測、柵から身軽になりたい願望があったり。
栄養過多も高すぎる意識も健康を害する。
貪欲に食べ続ける火を飼い慣らして
棄てる目的を浮かび上がらせて一緒に楽しもう。
共に尊ぶ呼応が奇跡を呼ぶ。
禅とインド哲学は似てると気付いた。
ただ、セクシー(ある意味名誉)に関して
骨格的に大陸人に劣ってはいても
技巧、工夫を凝らし締め付けているようで
要所要所に隙を拵えた着物が似合って。
日本は内実や情熱を隠して、和を尊び自分を後回しにする気質や
勿体ないって言葉は活用、管理されていない力や良いもの。
見返りを得るにも時間を要することでもあるし、
突風のごとくほんの一瞬で終わることもある。
(愚)純な人は純なままで良いし、
知的好奇心を持った途端に他者の自発的な意として
隠蔽も喪失もただ貪欲であるより強烈な力を持てる。
南国の大らかさや欧米の堂々とした威厳の示し方とはちと違う。
日本も移り変わり世代交代、故郷を離れ活躍する人も多い訳だが
普段の何も変わってない部分は常に露出させるより
想像力に働いてもらって煙るぐらいが丁度いい。
晒すのは大切な安全な、尊んでいる人の前でだけに!
このPVのタイトルのหนานะ (Mera Pyar)はパキスタンで作られた
カシミール地方で起きたヒンドゥー教とイスラム教の紛争、今も秘境?
ドラマのなのでした。
https://www.y-history.net/appendix/wh1703-065_1.html
หนานะ (Mera Pyar) : กระแต Rsiam [Official MV]
2019-07-22 17:58:27の再編