美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

ジャンボ干支の製作始まる(11/23)

2011-11-23 17:30:50 | 津のこと


津市美里町の冬の風物詩、辰水神社のジャンボ干支の製作が
始まりました。
デザインの検討や、実物大図面の作成などを経て、
今日(11/23)から、作業場で組み立ての作業に入りました。

最初の作業は「辰(竜)」の骨組みの組み立てです。
まず、骨組みにする鉄骨を、指定の長さに切断します(上の画像)。



実物大の図面が書かれた段ボールの上で、
切断された鉄骨を、竜の形に合わせて溶接しています。



持ち上げてみて、溶接が不完全な箇所(ぐらつく箇所)がないか点検しています。
この状態でも、竜に見えますよね。

この骨組みに発泡スチロールのブロックを貼り合わせ、
削っていくという方法でジャンボ干支は作られます。

これから12月下旬まで、毎晩作業が続けられます。
竜の形が見えてくるのは12月中旬ごろでしょうか。

今年も例年通り
12月29日の午前10時ごろから辰水神社にジャンボ干支の奉納が行われます。

昨年のジャンボ干支「ウサギの親子」
 ↓
2010年12月29日 ジャンボ干支が奉納されました
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辰水神社の紅葉(美里町家所)

2011-11-23 14:00:57 | 津のこと


津市美里町家所、正月のジャンボ干支で有名な辰水神社へ
紅葉を見に行ってきました。今日(11/23)の午前中の撮影です。

上の画像が「二の鳥居(下から2番目の鳥居)」です。
例年「一の鳥居」から「二の鳥居」までの間はモミジが色付くのが遅く、
神社の前を通っても紅葉に気付かないのですが、
「二の鳥居」から山頂の境内にかけては、11月下旬から紅葉しています。


(二の鳥居から上の参道)






(三の鳥居と拝殿の屋根)



辰水神社へは、津市内より国道163号経由、
県道家所阿漕停車場線で、市立辰水小学校の信号から北へ100m。



美里町桂畑・瀬戸渓谷の紅葉(その2)
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滋賀県高島市の観光パンフレット(道の駅と日帰り温泉)

2011-11-23 11:20:15 | 日記




滋賀県高島市の観光パンフレットで、
日帰り温泉の紹介と道の駅の紹介が、A4版の表裏に印刷されています。

琵琶湖東岸の北のほうのこの地域は、なかなか行く機会がないのですが、
これを見ていますと、魅力的なところだと思いました。
10数年以上前に、ここの「函館山スキー場」に行って以来、
行ったことがないので、機会があれば行ってみたいですね。

縮小してしまったので見にくいかもしれませんが、
右上の地図の下部に、近江高島駅という駅があり
そのすぐ近くに「大溝城跡」があります。

大溝城跡は、津市河芸町の「伊勢上野城」を築いた分部氏の子孫が、
戦功によって新たにこの地を与えられ、ここに築いた城です。

>分部氏について
細野藤敦の弟で分部氏を継いだ細野光嘉(分部光嘉)は、
兄の藤敦と違って和睦を主張し、織田氏に従属する立場を貫き、
元亀元年(1570年)、織田信包の指示により、津城の仮城として伊勢上野城を築城、
その後豊臣秀吉から1万石を受けて、光嘉は独立した伊勢上野城主となった。
「江姫(ごうひめ)」ら3姉妹が一時期預けられていたというのがこの伊勢上野城である。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、安濃津城を西軍の伊勢侵攻から守り、
その功により2万石に加増されたが、翌年(1601年)、戦いで受けた傷がもとで50歳で死去。
光嘉の娘の子・光信が伊勢上野藩の第2代藩主となり、
大阪夏の陣・冬の陣で功を挙げ、近江大溝に移封されて初代藩主となっています。
 ↓
分部光嘉は、津市河芸町の偉人のように伝えられていますが、
元は長野一族の細野氏の出身であり、
津市美里町で生まれた可能性が高いのです。
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