昨夜、パソコンやスマートフォンの
デジタル断捨離をしていて、
保存していた過去のブログ記事のなかに、
祖父に関する記述を見つけた。
ずいぶん前に
他のブログサイトに寄稿したものだけれど、
このところ血縁が次々に亡くなるなか、
読んでいて胸にこみ上げるものがあり、
再掲載することにした。
(長いのですが)
・・・・・・・・・
「髪結いの亭主」
祖父は、いわゆる「髪結いの亭主」だった。今でいう「主夫」のハシリのようなものだ。美容院を経営していた祖母を裏方として支え続け、76歳で亡くなった。
彼は望んで主夫になったわけではない。最初は会社勤めをしていて、発明が何よりの趣味だった。しかし金属のプレス器を操作していて指をはさみ、左手の指を三本矢って退職せざるをえなくなった。以来、美容院を経営する祖母が家計を担いつづけた。
祖父は手先の器用さと独特のデザインセンスを生かして、美容院のインテリアや調度品の設計・製作を担当して祖母にお小遣いをもらい、生涯を趣味の人として生きた。かつての美容院には住み込みのお弟子さんたちがいたため、さすがに祖父が普段の食事の仕度をすることはなかったが、お正月のおせち料理づくりは祖父の仕事だった。そのため、おせち料理に関しては 「おふくろの味」ならぬ 「おやじの味」を、私の母は受けついでいる。
思い起こすと祖父は、とてもお酒落な人だった。たっぷりの白髪に口髭をたくわえ、出かける時にはいつもべレ一帽をかぶっていた。ツイードのジヤケットがよく似合い、訪れた画廊などで画家に間違われたといって無邪気に喜んでいた。時間がたっぷりある祖父の毎日は、ほぼ同じルーティンで繰りかえされていた。朝食をすませると、ふらりとスクーターに乗ってどこかに出かけ、タ暮れになると帰宅して銭湯に。そしてタ食のおかずを肴にビールを一本、本当においしそうに飲んでいた。
しかし祖父のいた、どんな場面を思い出しても、生きるということに執着のない人だった。「いつお迎えが来てもいい」が彼の口癖だった。特に投げやりになっていたわけではない。祖母を支え、娘を愛し、孫を可愛がり、しかし淡々と生きていた。私の父が亡くなった時も、義父という、いわば他人であるにも拘わらず 「私が代わってやりたかった」と無念そうに眩き、肩を落とした。
彼が最後の入院をしたのは、23年前。末期ガンだったが、痛いとも苦しいとも強く訴えることなく家族の看病を受け入れ、まるで襖を開けて隣の部屋にでも行くように、するりとこの世から消えていってしまった。
祖父は明治の男だ。女に養われることを潔しとしていたはずはない。指を矢ったことで戦地に赴かずにすんだとはいえ、髪結いの亭主という立場は、彼にとって屈辱的なものだったはず。夫婦げんかをして、部屋に飾ってあった日本刀で祖母を追いかけ回した事もあったようだ。しかし私は、瓢々とした表情で祖母の仕事をサポートしている祖父の姿しか知らない。
祖父は、どういう形で自分の気持ちと人生の折り合いをつけたのだろうか。祖父にとって、家族を守り養うという男の義務(と思われていたもの)を果たせない人生は、長く生きるに値しないものだったのか。あるいは生きることに執着しないという形で、明治の男が自分のプライドを守ったのか。祖父の胸の内は、もはや知るよしもない。少女時代の私を笑顔で膝に抱く祖父の、古ぼけた写真がアルバムに残るのみである。
Copyright © 2020 .日々逍遥. All rights reserved.