ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

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五年ごとに新しい夢を

2010-03-08 18:38:26 | 晩年学
不惑(人生の元気力)

佐江衆一 講談社

五年ごとに新しい夢を描く

その気になったら三年では短く、五年はやりつづけねば、見えるものも見えてこないだろう。
そして、一事に精通し、その道のベテランになるには、少なくとも十年はかかると腹を据えるべきだ。

・・・・日本人なら武道の一つも出来ないと恥ずかしいなと思っていた。
たまたま出会った友人が古武道の杖術をやっていて、彼に連れられて道場を見学し、樫の棒と木剣でハッシと打ち合う杖術が気に入って即座に入門したのが四十五歳のときである。

幾つになっても新しいことをはじめるというのは、新鮮な感動と緊張、未知の世界に挑む喜びが大きい。
恥をかくことさえ恐れなければ、身も心も若返る。

私は移り気なところがあるが、熱中する質のDNAを持っているらしいことに、中年を過ぎてから気づいた。

週二回の稽古に熱心に通い、白帯から緑帯、茶帯びに昇級し、一年後には初段になって黒帯が締められた。
うれしさに四十六歳のオジンが黒帯を締めて家中を飛び跳ね、女房と息子たちに「とっつぁん、いい歳をして」と笑われたものである。

杖術だけでなく、武士がやった体術や小具足術、農民の鎌術、そして刀を買って居合術もはじめる熱中ぶりだった。
武術は奥が深い。五年やってそれに気づき、続けることにした。

しかし、杖術師範の免状をとり、各地の古武道演武会に出演するようになった頃から、高慢という虫が私の腹中にわきはじめたのだ。
どうやら私だけではない。
古武道は戦国時代から伝わる各流派があり、宗家がいて格式が高いのだが、形稽古がもっぱらで剣道や柔道のように試合がないので、各流派の高段者には我こそはと高慢の鼻がのびる人がいることに私は気づいた。

武道家としてあるまじきことだが、一つのことをやり続けていると、溜まり水に悪い虫がわくのである。嫌だなと思い始めていたとき、稽古場にしていた市の武道場が建て替えで使えず、縁あって剣道場を借りたのだが、私は剣道の稽古を見て、これまた即座に入門してしまった。
あれこれ熟考せずに体が先に動いて飛び込んでしまうオッチョコチョイな質が私にはあるが、頭で考えているよりも「まず飛び込んで行動に身を任せて考える」のが私の主義だ。

おかげで五十五歳で剣道をはじめることになった。

もっとも、小学生のときに体育の時間に木刀をちょっと振っただけで、中学時代はやりたくても敗戦直後だったから武道は禁止で出来なかったから、その頃の夢が四十余年ぶりにかなったのである。

人生って不思議なものだなと思う。

夢を持ち続けていると、偶然や幸運があって、いつかは叶うものなのだ。

だがその時、ひょいと飛び込まなかったら、幸運は逃げて行く。

しかし、五十五歳ではじめる剣道。
竹刀の握り方も知らなければ、振り方も知らず、胴着や防具のつけ方も知らない。まわりは若者ばかりで、先生も年下、私が最年長者である。
古武道を十年やっていたから気合ばかりは馬鹿でかいが、体は固く、なにしろぎこちない。恥のかきとおしである。

あとでわかったことだが、五十五歳で剣道をはじめて高段者になった人はいないらしい。

私は古武道をやめ、「お面」「お胴」「お小手」と気合を張り上げて、老骨をぎしぎし軋ませながら汗だくで剣道に熱中した。
一級、初段、二段の審査に一度で合格し五年が過ぎ、還暦の歳に三段になれた。
これまた奥が深い。

二年前に四段になり、「六十五歳の高齢者」になって十年以上続いている。来年は五段の審査に挑戦するつもりだ。


これから枯れるが、まだまだ未熟。剣道はやればやるほどむずかしい。
幾つになっても自分は未熟だと思うから、高齢になっても誰しも続けられる剣道と同じに、人生、死ぬまで修業が続くのである。