お稽古と練習
毎日新聞夕刊 遊歩道
クリエーティブディレクター マニグリエ真矢
わたしが鼓を習い始めたころ、よく指摘されたのが言葉遣いだった。
「今日の練習」といった私に、「お稽古よ!」と。
歳月を経て、外国人の友達を鼓のお稽古に誘った際、翻訳しづらいこの「お稽古」をどう説明するかで悩んだ。
最初に浮かんだイメージは、武芸などの「道」に通じる「お稽古」。
技能以上に精神の高みに達する意味合いが深いように思う。
では「練習」とどう違うのだろう?
何事によらず辞書で解決できない問題は、人に聞いて見ることにしている。
すぐさま能楽師の先生方に尋ねてみたら、表現は異なっていても、考え方は同じ方向を示していた。
確かに、プラクティース(実習)を通じて、エクセレンス(優秀)やアコンプリッスメント(遂行、たしなみ)を探し求めることは、重なる部分があるように思う。
お稽古の場で、師匠や先輩は「教える」のではなく「伝える」のだ。
本番ではない練習を80%の力で行うとしたら、お稽古は常に100%で行うべきものだ。
言い換えれば、普段の生活のすべてがお稽古に通じるという心構えが大切なのだろう。
それは日本古来の武道や芸道に限らず、自分が日頃から、どんなマインドでものごとに接しているか、ということだ。
そのように考えれば、翻訳しにくい「お稽古」という概念はフランス人にも十分通じる。
このような話をさまざまな分野の人に尋ね歩いたことも、もしかすると、私にとっての「お稽古」かもしれない。
・・・・・・・・
私の解釈は
集団で号令によってするトレーニングは「練習」。
一人で工夫し、あるいは師匠とマンツーマンでやるのは「稽古」
私は練習はいくらしても、ある線を越えると進歩しないと感じている。
毎日新聞夕刊 遊歩道
クリエーティブディレクター マニグリエ真矢
わたしが鼓を習い始めたころ、よく指摘されたのが言葉遣いだった。
「今日の練習」といった私に、「お稽古よ!」と。
歳月を経て、外国人の友達を鼓のお稽古に誘った際、翻訳しづらいこの「お稽古」をどう説明するかで悩んだ。
最初に浮かんだイメージは、武芸などの「道」に通じる「お稽古」。
技能以上に精神の高みに達する意味合いが深いように思う。
では「練習」とどう違うのだろう?
何事によらず辞書で解決できない問題は、人に聞いて見ることにしている。
すぐさま能楽師の先生方に尋ねてみたら、表現は異なっていても、考え方は同じ方向を示していた。
確かに、プラクティース(実習)を通じて、エクセレンス(優秀)やアコンプリッスメント(遂行、たしなみ)を探し求めることは、重なる部分があるように思う。
お稽古の場で、師匠や先輩は「教える」のではなく「伝える」のだ。
本番ではない練習を80%の力で行うとしたら、お稽古は常に100%で行うべきものだ。
言い換えれば、普段の生活のすべてがお稽古に通じるという心構えが大切なのだろう。
それは日本古来の武道や芸道に限らず、自分が日頃から、どんなマインドでものごとに接しているか、ということだ。
そのように考えれば、翻訳しにくい「お稽古」という概念はフランス人にも十分通じる。
このような話をさまざまな分野の人に尋ね歩いたことも、もしかすると、私にとっての「お稽古」かもしれない。
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私の解釈は
集団で号令によってするトレーニングは「練習」。
一人で工夫し、あるいは師匠とマンツーマンでやるのは「稽古」
私は練習はいくらしても、ある線を越えると進歩しないと感じている。