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2018年12月22日 | 社会・経済

戦争と平和のリアル  第29回 米川正子「声をあげる」

 

  Imidas 連載コラム 2018/12/21

 

残虐を極めるコンゴの性暴力被害

米川正子 (立教大学特定課題研究員)

   (構成・文/朴順梨)

   2018年の「新語・流行語大賞」こそ逃したものの、#MeToo(私も)ムーブメントは今年、世界中で大きなうねりとなった。

 セクハラや性暴力被害を「#Me Too」と言えるようになったことは、行為の非道さを可視化するだけではなく、同じ辛さを抱える女性たちを、孤独から解放するきっかけにもなった。

   その空気も後押ししたのか、18年のノーベル平和賞は性暴力サバイバーでヤジディ教徒のナディア・ムラドさんと、コンゴ民主共和国(以下コンゴ)で性暴力被害者の治療にあたってきた、婦人科医師のデニ・ムクウェゲさんが受賞した。

ムクウェゲ医師が日本で広く知られるきっかけになったのは、16年に立教大学特定課題研究員の米川正子さんがムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画の『女を修理する男』を日本で上映するために、任意団体「コンゴの性暴力と紛争を考える会」を立ち上げ、日本語字幕を付けたからである。同年6月、立教大学で日本初公開し、その後、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が主催する『難民映画祭』でも公開された。同年10月、「コンゴの性暴力と紛争を考える会」がムクウェゲ医師の初来日を実現した。米川さんに、ムクウェゲ医師の活動を伝える意義とコンゴという国についてうかがった。

女性と少女にとって世界最悪の場所・コンゴ

 コンゴと言えば最近、「サプール」が大いに話題になった。サプールとはカラフルなスーツを身にまとって街に繰り出す男たちのことだが、彼らが闊歩しているのは首都のキンシャサや、隣のコンゴ共和国の都市部だ。一方、ムクウェゲ医師はコンゴ東部を活動の拠点にしている。

  「コンゴでは、紛争や性暴力殺戮は96年から続いていますが、それは全土ではなくてルワンダと接しているコンゴ東部に限った話です。もちろん他の地域でも性暴力や略奪は起きていますが、コンゴ人の中でも『東部には出張でも行きたくない』と言う人がいます」

 コンゴの国土の広さは日本の約6.2倍で、アフリカ大陸の中でアルジェリアに次ぐ2位となっている。それだけ広い国だから、地域によって情勢が異なるのは理解できる。しかしコンゴ東部では96年以降累計で約600万人もの死者を出し、「女性と少女にとって世界最悪の場所」と言われるほど性暴力が蔓延している。何が背景にあるのだろうか?

   「コンゴには鉱物資源が豊富にあるということに尽きます。なかでもコンゴ東部で採掘されるコルタンというレアメタルは、パソコンやスマホ、ゲーム機やカメラなどに欠かせない素材です。1996年以降は、こうした天然資源の不法採掘が続いています。またコンゴ東部は土壌が肥沃で、農業や牧畜に適しています。たとえば北キブ州は『コンゴのパンかご』と呼ばれるほど作物がおいしく、1年に4毛作までできる地域もあります。この天然資源や土地を目当てにコンゴ国内だけでなく、ルワンダやウガンダなど近隣諸国の政府軍と武装勢力がやってきて、殺戮や性暴力を繰り返しているのです」

 コンゴにおいて政府軍と武装勢力が性暴力を行うのは、決して性的な欲望を満たすためだけではない。その証拠にレイプで終わらず、性器に木の枝や棒、びんといった異物を押し込んだり、膣を銃で撃ち抜くこともある。女性であれば赤ちゃんから老人まで見境なく襲い、時には男性が被害に遭うこともある。それはひとえに、人間を資源としか見ていないからだ。誰が支配者なのかを徹底的に見せつけるために残虐を尽くし、性器を傷つけて子供を産めなくすれば、「資源」である人もいつしか絶えていく。そうすることでコンゴ東部住民から抵抗する気力を奪い、土地ごと自分たちのものにするのが目的なのだ。
 現在63歳のムクウェゲ医師はコンゴ東部のブカヴで生まれている。彼がブカヴに性暴力被害者を治療するパンジ病院を設立したのは99年だが、米川さんによれば94年に隣国ルワンダで虐殺が起きた際、ムクウェゲ医師はすでに難民への医療支援にあたっていた。

「ムクウェゲさんというと性暴力被害者を助けるイメージがありますが、90年代にコンゴ東部で起きた、「虐殺」や殺戮など多くの重大な人権侵害を直接的に、また間接的に見ていらっしゃいます。私が彼と出会ったのは2016年に来日したときが初めてですが、著名な方だったので私がコンゴにいた07年には、名前を耳にしていました。でも私は医療分野に関わっていなかったので、当時は接点がありませんでした」

   コンゴ民主共和国はアフリカの中心に位置し、コンゴ共和国を含む9カ国に囲まれている

ルワンダでの虐殺が、性暴力の蔓延を生んだ

 米川さん自身は大学で学んだあと、国連ボランティアを経てUNHCRの職員となった。11年間在籍したが、07年から1年半にわたり、コンゴ東部のゴマにあるUNHCRの所長を務めている。
 米川さんはルワンダに住んでいた1995年からコンゴに関心を持ち始めた。98年5月にコンゴ東部のウヴィラという市に出向いた際、そこで現地人の同僚と知り合った。彼からコンゴの戦争について学ぶなど交流を深めていったものの、2カ月後に第二次コンゴ戦争が始まり、米川さんは国外脱出をせざるを得なくなって同僚とは連絡が途絶えてしまった。4年後にキンシャサで電話で「再会」を喜びを分かち合ったものの、3日後に彼は何者かに殺されてしまった。コンゴでは米川さんのすぐ身近にも、殺人による死が存在していたのだ。

「コンゴとルワンダでは、90年代に3回も紛争が起きています。まずは94年のルワンダでの虐殺、次が96年から97年の第一次コンゴ戦争、そして98年から2003年までの第二次コンゴ戦争です」

 1994年4月、ルワンダで当時のハビャリマナ大統領が乗っていた飛行機が撃墜され、それを機に多数派民族フツの過激派が少数派民族ツチと穏健派フツ族を虐殺し始めたと言われる。その数は100日間で50万~100万人とも言われている。軽やかなメロディにのせてツチを「お前たちゴキブリはルワンダ人ではない」と罵る『千の丘自由ラジオ』によるヘイトスピーチも、虐殺の扇動に一役買ったと言われている。米川さんによればこのルワンダ虐殺はコンゴにとって「隣国で起きた出来事」ではなく、国を大きく変えるきっかけになったそうだ。

「ルワンダは日本の四国の1.4倍ぐらいの小さな国で人口密度が高かったこともあり、18世紀頃から宗主国のベルギーは、鉱業と農業での労働に従事させるためにコンゴ東部にルワンダ人を移住させました。その後も1959年にルワンダで革命が、72年にブルンジで虐殺が起きたことから、両国から難民が大量にコンゴへ押し寄せました。コンゴは65年から32年間、モブツ大統領による独裁政権が続いていましたが、彼はルワンダ住民を優遇してコンゴの国籍も与えました(81年にはく奪)。そして94年にルワンダで虐殺が起きた際、虐殺を行ったフツは難民(主にフツ)と一緒にコンゴに逃げ込みました。つまり、ルワンダ紛争がコンゴに飛び火したのです」

 ルワンダ系住民と地元民との折り合いが悪かったところに、120万人ものの難民と虐殺首謀者たちが押し寄せてきた。第一次コンゴ紛争は、コンゴ東部の難民キャンプが虐殺首謀者によって軍事化されたため、ルワンダ政府軍が「国家の安全保障が脅かされる」という名目でコンゴ東部に侵攻、難民キャンプを破壊したことで起こった。97年にモブツ政権を倒したルワンダ政府軍とコンゴの「反政府勢力」(AFDL)などは、天然資源がある地域を支配することに躍起になった。そうした中で女性への性暴力が蔓延するようになった。

「国連人口基金の調査によると、98年以降推定20万人の女性が性暴力被害に遭ったことがわかっています。被害者の65%が少女で、75%が北キブ州で起きています。しかし加害者は野放しになっているか、逮捕されてもすぐに釈放されてしまいます。

ムクウェゲ医師はこの状況が20年以上も改善されないことについての怒りは、相当強いと思います」

コンゴの大臣から脅迫を受け、講演が中止に

 現在のルワンダはツチのポール・カガメが大統領を務め、首都のキガリはアフリカでも有数の、洗練された都市に成長した。あたかも不幸な過去から立ち直ったかのように見えるが、「残虐なフツにより虐殺された哀れなツチが、不屈の精神で立ち上がった」という単純な話ではないと米川さんは言う。

  「94年9月に『グソーニー報告書』というルワンダ難民の帰還の意向についての国連報告書が発表されたのですが、そこには被害者のはずのツチが、少なくとも2万~4万人のフツ系住民を殺戮したと書かれていました。しかしこの報告書は握りつぶされ、ルワンダの現政権関係者はこれまで「フツ虐殺」の事実を知る注目度が高いルワンダ人を、少なくとも9名も暗殺しています。そして国連のガリ元事務総長が『ルワンダの虐殺は100%アメリカの責任だ!』と言っていましたが、ルワンダとアメリカやイスラエルは強力な同盟関係にあります。またコンゴのカビラ現政権はルワンダのカガメの傀儡政権と言われていて、希少鉱物であるコルタンはアメリカをはじめとする、多くのグローバル企業が必要としています」

 つまりコンゴ現政権は意図的に、一部の国民を見殺しにしているのだ。それを裏付けるかのようにムクウェゲ医師は映画『女を修理する男』の中で、2008年に国連に招かれてコンゴの性暴力について講演した際、コンゴ代表の席には誰も座っていなかったこと、2012年に再度招かれたときは当時のコンゴ保健大臣から「スピーチを中止しろ。発言すれば身に危険が起きる」と脅迫を受け、講演を中止したことを語っている。

   さらにコンゴでは「ムクウェゲは性暴力被害者を助けるどころか加害者だ」などのデマが流されたり、自宅前で銃を持った男に襲われ、運転手が犠牲になったりしている。そのためムクウェゲ医師と家族は一時期、ヨーロッパに避難していたほどだ。

「性暴力を受けた女性たちと比較すると、被害は深刻ではないかもしれません。しかしムクウェゲさんも、現政権の被害者です。実際にお会いした彼は弱者のための英雄という感じで、行動も考えることもスケールが大きい印象を持ちました。だからどうしても『女を修理する男』を上映して、ムクウェゲ医師の活動を通してコンゴ紛争から性暴力、グローバル経済について学ぶ機会を日本でも作りたかったんです」

 映画に登場するある少女は、レイプによる身体の痛みを訴えながら「(犯人は)苦しんで死ねばいい」と怒りをあらわにし、また別の女性はレイプされたことで家から追い出され、毎日泣いて過ごしたことを明かしている。ムクウェゲ医師はそんな彼女たちの傍らに立ち、身体だけではなく心も「修理」してきた。被害者の多くが「彼が私の人生を救ってくれた」と告白しているのは、決して社交辞令ではないだろう。

 とはいえ、性暴力は最初から起きないに越したことはない。いくら「修理する男」がいたとしても、女性は本来壊れる必要などないからだ。そこでコンゴの性暴力を防ぐために日本にいてできることは、何かあるのだろうか。

「さすがに『コンゴ産のコルタンを使っている可能性があるから、スマホを持ってはいけない』とは言いません。しかし生産過程や採掘する人の労働環境などは、国際的に監視していく必要はあると思います。またこれはコンゴに限らず、日本における外国人労働者にも繋がる問題です。だから立場や境遇が違う相手であっても、自分と同じ人間だという視点を持つことが大事なのではないでしょうか。

  遠いアフリカのコンゴで起きていることに目を向けるのは、難しいかもしれません。でも日本でも今、外国人労働者が搾取されていたり、雇い主からセクハラを受けているかもしれないことは想像できますよね。程度の差はありますが、似た問題が日本でも起きる可能性があるのを無視しないことです。私もコンゴに関わりムクウェゲさんと出会わなければ、知らないままだったことはたくさんあると思います。でも実際に関わらなくても他人に対する配慮や想像力を持つことで、良い方向に変えていけることはあると思います」


  暖かい一日となりました。天気は曇り空、あまりいい天気とは言えないが暖かい。国道の雪もすっかり消えてしまった。