「東京新聞」2022年5月28日
国立大学や公的研究機関に勤める任期付き研究者の大量雇い止めが問題化している。法定の雇用期間の上限規定(10年)が、来年3月末に迫っているからだ。対象の研究者は約3000人。無期雇用への転換も可能なルールだが、経営状況が厳しい大学などが雇い止めを選択する恐れが出ている。科学力低下や海外への頭脳流出も懸念されるのに、文部科学省の動きは鈍い。研究者の大量雇い止め危機の2023年問題。うまく対処する方法はないのか。(特別報道部・宮畑譲、北川成史)
◆頭脳流出の危機「中国からオファーがあれば考える」
フラスコや顕微鏡、無菌状態にする装置などがところ狭しと並ぶ東京大のバイオ系の研究室。中には1億円以上する機器もある。この研究室は、人件費を含め企業からの寄付金で運営されている。
しかし、来年3月にこの研究室を引き払う可能性がある。研究を仕切る特任教授の任期が切れるからだ。
「この機材を持って別の大学に移れるのならいいが、簡単にポストは見つからない。昨年から10件以上、大学教員の公募に書類を出しているが、全く通らない。同じような境遇の人が殺到しているのだろう」
この研究室の特任教授の男性が切迫した状況をそう訴える。今のポストに就く前は別の大学で無期雇用の教員として勤めていたが、声をかけられ、「よりよい環境で研究したい」と2012年10月に移ってきた。
その半年後に、問題の改正労働契約法が施行された。当時から不安はあったが、「企業から研究費がもらえれば定年まで継続できるだろう、もしくは別の無期雇用のポストに移れるだろう、と高をくくっていた面はある」と振り返る。「こんなことになるなら、前の大学を辞めなかった」と悔やむ。
男性は、自身と日本の研究環境の将来を悲観する。「もちろん今の研究室で続けたいが、背に腹は代えられない。中国からオファーがあれば考える」と吐露。「将来の仕事がないなら、学生も博士課程に進まず就職してしまう。腰を据えた基礎研究はやはり大学が中心。しっかりした基礎研究の土壌がなければ、企業もよい研究・開発はできない」
◆研究機会を与えないのは社会的損失
文科省によると、来年3月末で契約期間が10年に達するのは国立大86校などで3099人。うち契約期間の上限が就業規則などで明示されている1672人は、雇い止めに遭う可能性がさらに高い。中でも東大は346人と最も多い。
しかも、有期雇用の研究者が期限を迎えるのは来年3月だけのことではない。以降も続々と発生する。
男性は「本来は期限が来たら無期雇用に移行できるよいルールのはずだが、現実にみんなを無期雇用にするのは無理だ。それなら、このルールを撤廃して、有期雇用を続けてもらったほうがいい」と強調する。
東大広報課は「こちら特報部」の取材に「他のプロジェクトに採用されるなどで、10年を超えて在職することも可能。『一律に雇止め』といった議論とは状況が異なっていると認識している」と回答した。
しかし、有期雇用の教員を支援している東大の無期雇用の教授はこう考えている。「大学は企業などからの研究費が定年の65歳まで出る場合を想定している。プロジェクトが終わってしまえば、人件費が発生することになるから、無期雇用しようということにならない。結局、多くの人が雇い止めに遭うだろう」
その上で、「素晴らしい成果を上げている有期雇用の先生はいる。彼らに研究する環境を与えないのは、大学だけでなく社会的な損失も大きい」と嘆く。
◆文部科学省、雇用判断を大学に丸投げ
有期雇用の研究者の雇い止めの恐れがあるのは他の国立大も同じだ。文科省によると、10年で契約終了が明示されている1672人の内訳は大学別で東京大に続き、東北大(236人)、名古屋大(206人)が多い。
文科省所管の5つの研究機関でも、657人が来年3月末に契約期間が10年に達する。うち契約期限が10年以内と示されているのは317人で、理化学研究所が296人と大半を占める。
そもそも、13年4月施行の改正労働契約法では、同じ勤務先での有期雇用契約の期間が通算5年を超えた場合、労働者が求めれば無期雇用に転換できるルールが定められた。研究者については任期法などで、通算10年という特例が設けられた。文科省人材政策課の担当者は「7、8年という期間の研究事業もあり、5年での業績評価は難しいとの研究者や研究機関の要望を踏まえ、10年に延長された」と説明する。
「10年」を前に広がる雇い止めの不安に文科省の動きは鈍い。法に関するリーフレットを作ったり、大学に説明したりしているというが、対策について大学振興課の担当者は「特別にはない」と素っ気ない。無期雇用への転換促進には「業務の内容がさまざまなので一律に言えない」と話す。
結局、雇用の判断は大学や研究機関に丸投げだ。経済産業省所管の産業技術総合研究所は、対象の研究者ら422人について希望があれば雇用を継続する方針を示している。それを考えれば、何らかの対応ができるようにも見える。
◆有期雇用は人件費の「調整弁」、ハラスメントの温床にも
研究者のキャリア問題に詳しい「科学・政策と社会研究室」代表の榎木英介さんは「文科省はやる気のない問題には『学問の自由』を理由に逃げる。今回がまさにそうだ。研究者の雇用の安定のために導入された制度のはずなのに、雇い止めの口実になっている」と厳しい目を向ける。
榎木さんによると、国から国立大学などへの運営費交付金が減少し財源が減った反動で、研究者の有期雇用が増えた。研究者が人件費の「調整弁」になっている構図が、問題の背景にある。「文科省は問題に踏み込むと、交付金の在り方を追及される。財務省との板挟みになるのが嫌なのではないか」と推し量る。
文科省は、有期雇用は研究者の流動性を高め、切磋琢磨せっさたくまにつながる意義があるとするが、北海道大の光本滋准教授(教育学)は「メリットが現れていない。40代でも落ち着かない研究者がかなりいる。契約を切られたくないため(無期雇用の)教授に物を言えず、ハラスメントの温床になっている」と疑問視する。
◆全般的な国力低下につながりかねない
近年、研究分野で日本の国際的地位が後退しているとされるが、不安定な雇用環境では人材が集まらない。「中国などによる研究者の引き抜きを助長し、全般的な国力の低下につながりかねない」と危惧する。
労働問題に詳しい指宿昭一弁護士は「他の労働者は5年を超えれば、無期雇用への転換を求められるのに、研究者はできない。逆に、長期間、無期への転換を求められないことで安定した雇用の立場を得るハードルを高くしている。この例外自体が変な理屈だった」と指摘する。
指宿さんによると、大学でも事務職員らには「5年」のルールが適用される。そうした職員の雇用をいったん5年で終了し、数カ月後に再び有期で雇い直す大学があった。研究者についても、こうした抜け道を探る動きがあるという。
これについては「いつでも切れる状態にする悪辣あくらつなやり方」と強調。「明日の雇用も知れない状況でいい仕事はできない。文科省は対策を考えるべきだ」
◆デスクメモ
昨年3月に閣議決定された科学技術・イノベーション基本計画は研究現場の現状を厳しい環境が継続し、論文の質と量で国際的地位が低下傾向だと分析する。認識は正しいが、政府に改善する気迫が全く見えない。まずは、研究者が能力を存分に発揮できる環境づくりをできないものか。(六)
今朝ハウスの温度計の最低気温は6℃だった。明日は少しマシなようだがそれでも10℃以下だ。草が伸びるのが早い。