塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

クラブ名の変更は必然でしょうか

2020-12-11 21:12:06 | 日記
 今季、アメリカンリーグを制覇しLAドジャースに敗れるも見事な勝ちっぷりを見せ、ワールドリーズ決勝までたどり着いたタンパベイ・レイズ。

 御存じの方も多いと思いますが、実はチーム創立時はタンパベイ・「デビル」レイズと言いまして、本拠地のトロピカーナ・フィールドでも振興球団ということもあり、勝ちに恵まれませんでした。

 トロピカーナ・フィールドは、大リーグでもい珍しい人工芝にドーム球場という、古い形でして資金に恵まれないために選手獲得も難しかったと聞きます。

 しかし、チーム名から「デビル」を取り除くと、資金難であるのは変わらないのですが、各段に勝利を得られるようになり、アナリストたちを唸らせます。

 プレミア・リーグでもハル・シティがオーナーの目論見で

 「ハル・タイガース」

 に名称変更寸前までいったことがあります。

 当然ファンの反発はすさまじく、現在は当然ハル・シティとして活動しています。

 日本でも東京ヴェルディがヴェルディ川崎、東京ヴェルディ1969から現在の名称に変化しましたが、これはホーム移転を決断したためです。

 また、あってはならない事例として、横浜F・マリノスの「F」にはフリューゲルスの形見が刻まれており、この名称変更も当時は大きな議論を巻き起こしました。

 長野パルセイロもかつては長野「エルザ」と言いましたが、以前にもお伝えしたように「エルザ」はすでに商標権が他に得られており、名称変更は必然だったんです。

 この事例のように、スポンサーもファンも納得のいく理由でクラブ名が変わるのならまだしも、オーナーの勝手な決断で振り回されては、さすがに困惑してしまいますよね。

 ハル・シティは外国資本ですが、ここに買収の良しあしが問われている気がします。
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日本リーグ時代の語り部が必要ではないでしょうか

2020-12-11 20:52:19 | 日記
 かつて阪神タイガースに鎌田実という名2塁手がいました。

 彼は大リーグ仕込みのバックトスを、日本球界で初めて会得したことで知られていますが、本拠地の阪神甲子園球場で初めてお披露目した際、観客は初めて目撃することなので

 「鎌田は今、何をしたんだ」
 「今の動きがよくわからない」

 と、喝采よりも戸惑いの方が大きかったと言います。

 セ・リーグは当然読売巨人軍を軸に回り、阪神タイガースは

 村山実が長嶋茂雄
 江夏豊が王貞治

 に向けてがむしゃらに投げていた時期です。

 大洋ホエールズですと平松政次、中日ドラゴンズですと星野仙一が巨人軍に向けて、物凄い形相で登板していました。

 ここまで昭和のセ・リーグの話を綴ったのは理由がありまして、日本野球は国内で最長のプロとしての歴史がありますから、資料も充実していますし、語り部もたくさんいます。

 一方でメキシコ五輪以後にはじまるサッカーの日本リーグは、アマチュアですから釜本邦茂や横山謙三など、選手としての活躍は何とくなくわかりますが

 当時の名勝負
 当時の戦術、指揮官の采配や選手の技術

 が今ひとつ伝わらない、資料も探しにくいなあと思ったのです。

 80年代になりますと、日産と読売のカードが注目を浴び、三菱や古川電工、東洋工業など、JSLのチーム(クラブではないですよね)の戦いに注目は集まったようですが、観客の入りはさほどではなかったはずです。

 ラモス瑠偉が対戦相手を追いかけまわして、1年間の活動休止に追い込まれる、その読売クラブは戸塚哲也が代表よりも読売を選ぶなど、確かに重要なエピソードもあります。

 それらを改めて資料に残し、僕たちが記憶、伝えてゆくことも大切な形なのではなかろうか、と考えています。
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日本でもイタリアでも相次ぐ訃報

2020-12-11 20:42:34 | 日記
 小松政夫さんが他界されました。

 3月に急逝された志村けんさんもそうですが、役者としても芸人としても深い味わいを持つ方が他界されると、本当に寂しいですね。

 イタリアでもパオロ・ロッシが亡くなったと報道があったばかりです。

 国籍はアルゼンチンですが、イタリアともカルチョとも深い関係にあったディエゴ・マラドーナに続く訃報を、イタリアはどう捉えて向き合っているのでしょうか。

 ロッシの経歴と言えば

 1・1982年のワールドカップ得点王と優勝
 2・ユヴェントスでプラティニやガエタノ・シレア、アントニオ・カブリーニなどの名手と戦う
 3・ペルージャ時代の八百長疑惑で世間を騒がせる

 というように、必ずしも良い時ばかりではありませんでした。

 特に代表の指揮官、エンゾ・ベアルゾットがワールドカップ82に向け、ロッシを招集対象とすると当然ですが大きな喧噪が巻き起こります。

 このときの主将は2000年欧州選手権のイタリアを率いたディノ・ゾフでしたが、彼はマスメディアの前で会見を開くことを好まず、期待されないまま開催国スペインへ向かいます。

 しかし、セレソンとの一戦でクラウディオ・ジェンティーレがジーコに仕事をさせず、罵声の対象だったロッシがハットトリックのおまけつきで勝利を収めると、一瞬にして

 「風向きが変化」

 する形になります。

 結局、見事優勝を勝ち取ったイタリアは帰国の際は、大統領専用機で帰国し喝采を浴びますが、ベアルゾット政権は86年大会は思うような結果は得られませんでした。

 ただ、このときのパオロ・ロッシは「黄金の子供」と讃えられるほど輝いており、指揮官の慧眼が確かだったことを裏付けました。

 彼の死はまだまだ受け入れられてはいないのではないでしょうか。
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