信じる信じないは我を立てるが如き処には無い
信不信も縁起であり信がある処は自他を忘じる
信じよう信じまいとする処は我の作為に等しい
自我の信仰は相対に過ぎず信は不信の影を宿す
既に信じている処では自己を忘じ相手もいない
疑念を縁に対象が隔たり同時に認める我を起す
我を立て信じる様な処は信じるフリに過ぎない
指導者が自らへの信仰を強いる処に道理はない
敢えて信仰を強要するのはカルトに他ならない
悟った儂が言う事だから素直に聞けとは不合理
弟子の疑問に釘を刺して封じるのは偽りの説法
法には悟る対象も悟りを得る主体も存在しない
指導者が己の悟りを自ら公称する処に法はない
弟子が決着をつけ導師の悟りを証するのである
特定の観念を植え付けるが如き処に道理はない
禅は自己の問と向き合い自ら問を消滅させる道
自己の疑問こそ肝心要であり答えの方ではない
己が問の滅する処に自己を忘じ答えの残滓なし
資格試験の如き問と答えの蓄積は自己修養の道
約束事は人の習俗にあり法に決まり行事はない
禅は学芸の如く技術や理屈を習得する処に非ず
「 廓然無聖 」
武帝: 「私は、長く寺を作り経を写させ
僧を育てたが、どんな功徳があるか?」
達磨: 「無功徳」 何の功徳もありません。
武帝: 「では仏教の最高の真理とは何か?」
達磨: 「廓然無聖」・・当たり前の事です。
武帝: 「私の前に居るそなたは、何者か?」
達磨: 「不識」 ・・・ ぞんじません。