人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

無為と空

2016-09-24 | 日記

目に触れても、そのままにしなさい。
業識はそのまんまで、知と意で扱いさえしなければ、
いつでもゼロのはずである。そのこと、それを教えておる。
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業識に因り見聞する処は、我を立てる以前の事。

見よう聞こうと作為せずとも、見え聞こえてる。

己が観念で作ったものでなく、因縁による事実。

事実を事実のままに見聞する処に、我は立たず。

右を得る処は左を滅し、左を得る処に右を滅す。

右の景色と左の景色が重なる事は、決して無い。

右左の景色が重なるなら、色即是空とならない。

色即是空・空即是色は、観念の思想信条に非ず。

法の一切は事実の上の、内外一如の働きを示す。

事実が去った後にも残るのは、想念に過ぎない。

古今東西、釈迦の時代も今も事実に違いはない。

人の頭の数だけ異なるのは、個人的解釈である。

哲学的思惟も思想信条も、自我の解釈を離れず。

絶対と言う言葉はあるが言葉の上に絶対は無い。

言葉の概念は、一言を発すより相対を離れない。

右は左の左は右の概念を、既に前提としている。

故に概念上にある思想信条も、相対を免れない。

事実は対を絶ち、右は右の唯一、左は左の唯一。

法の一切は一得一失の前後際断、後先を知らず。

本来は当たり前、右や左と名付ける以前の面目。

想念の内にのみ、二見相対の比較と選択がある。

念を摑み離さず、揀択するのが我に他ならない。

我も因縁の働きで、実体として有る訳ではない。

計らいと執着の因縁で、我が起き生滅している。

想念も、その時々の事実として生じ滅してゆく。

事実と理想の狭間の、虚構の時間が人の迷い道。

修正された過去を未来に映す処に、標準が立つ。

事実を知と意で扱わない処は、我の建前が無い。

先覚が、"何もしなくとも良い"と示す処である。

我を投げ入れる仏の家とは日々の事実に等しい。

時々の事実に応じる事と法に従う事に別は無い。

ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、
 仏の方より行われて、これに随いもてゆくとき、
力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。
                 <生死> 正法眼蔵

今日の縁: 観念でつくったものでは無い
https://www.youtube.com/watch?v=sF1Sq4xPTE0