無為と空
2016-09-24 | 日記
目に触れても、そのままにしなさい。
業識はそのまんまで、知と意で扱いさえしなければ、
いつでもゼロのはずである。そのこと、それを教えておる。
http://awarenessism.jp/?page_id=13717
業識に因り見聞する処は、我を立てる以前の事。
見よう聞こうと作為せずとも、見え聞こえてる。
己が観念で作ったものでなく、因縁による事実。
事実を事実のままに見聞する処に、我は立たず。
右を得る処は左を滅し、左を得る処に右を滅す。
右の景色と左の景色が重なる事は、決して無い。
右左の景色が重なるなら、色即是空とならない。
色即是空・空即是色は、観念の思想信条に非ず。
法の一切は事実の上の、内外一如の働きを示す。
事実が去った後にも残るのは、想念に過ぎない。
古今東西、釈迦の時代も今も事実に違いはない。
人の頭の数だけ異なるのは、個人的解釈である。
哲学的思惟も思想信条も、自我の解釈を離れず。
絶対と言う言葉はあるが言葉の上に絶対は無い。
言葉の概念は、一言を発すより相対を離れない。
右は左の左は右の概念を、既に前提としている。
故に概念上にある思想信条も、相対を免れない。
事実は対を絶ち、右は右の唯一、左は左の唯一。
法の一切は一得一失の前後際断、後先を知らず。
本来は当たり前、右や左と名付ける以前の面目。
想念の内にのみ、二見相対の比較と選択がある。
念を摑み離さず、揀択するのが我に他ならない。
我も因縁の働きで、実体として有る訳ではない。
計らいと執着の因縁で、我が起き生滅している。
想念も、その時々の事実として生じ滅してゆく。
事実と理想の狭間の、虚構の時間が人の迷い道。
修正された過去を未来に映す処に、標準が立つ。
事実を知と意で扱わない処は、我の建前が無い。
先覚が、"何もしなくとも良い"と示す処である。
我を投げ入れる仏の家とは日々の事実に等しい。
時々の事実に応じる事と法に従う事に別は無い。
ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、
仏の方より行われて、これに随いもてゆくとき、
力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。
<生死> 正法眼蔵
今日の縁: 観念でつくったものでは無い
https://www.youtube.com/watch?v=sF1Sq4xPTE0