先月、キンカメムシ飼育家Sさんからいただいた、ミヤコキンカメムシが
産卵しました!!!
これがミヤコキンカメムシ。
キンカメムシのなかではサイズが小さいほうで、10ミリくらい。
で、これが生まれた卵。
もう、うっすらと赤い部分が透けて見えてきました。
虫の卵があると、どうしてこう気持ちが浮き立つのか―
自分でも不思議ですが、自然にうきうきしてしまうんです。
虫の卵を見ると。
しかし、「卵」は、今の私にとって悩みのひとつでもあります。
本をつくるにあたり、現在は全ページをプリントしたもの(校正紙)に、
「赤」(訂正)をいれているところなのですが……なかなか決め難い問題が続出。
1冊の書籍のなかでは、ひとつの言葉をどう表記するか、は統一するというルールがあり、
これに従って校正者や校閲者は、「赤」をいれていきます。
たとえば、「たまご」という語を、ある場所では「卵」、
次のページでは「タマゴ」と、
漢字かカタカナかで、表記がばらばらだったら、
読んでいる人は「あら・・・?」と思いますよね。
(まったく気が付かない人も多いとは思いますが 笑)
また場合によっては、伝えたい内容が不明確になるといったことも出てくるので
表記は統一しなければならないのです。
しかし。
著者としては、校正のルールだけから判断してしまうと、自分の本当の意図とか、
または文章のつながりのなかでのバランスとかが、損なわれると感じる場所も出てくるわけで。
きょう、悩んでいる「たまご問題」も、そのひとつ。
卵といっても、食べる卵ではなく、この本に出てくるのは、ぜ~んぶ、虫の卵なわけですが、
「卵」「たまご」「タマゴ」のどれに統一するか。
他の虫本や図鑑などを参考に見てみると、どうもばらばらのようです。
文一総合出版の「虫の卵ハンドブック」は、漢字。
ポプラ社の「いろいろ たまご図鑑」は、ひらがな。
図鑑のなかには、カタカナを使っているものもある。
何を言いたいかというと、私としては、一冊の本のなかで、
「意図的に」、違う表記を使いたい、と思っているわけです。
どうしても、「たまごぉぉぉー」と、虫の卵を見つけたときの喜びをひらがなで表したい箇所もあるし、
他の箇所では、ひらがなが続くので、「卵」と漢字を使ったほうが読みやすい場合もある。
どうしようかなあ……。
すべての語の表記について、こういった悩みが出てくるわけではなく、
ごく一部の語についてなのですが、私は文章を書くことを仕事としてきて、
またあるときは校正者として仕事をしてきて、
日本語は、ひらがな、漢字、カタカナ、英字、記号などなど表記が多彩なので、その点を機械的に統一してしまうと、書き手の意図を曲げなければならない場合が出てくる、ということを感じてきました。
なので、もしかすると、今度の本では、他の場所では「卵」なのに、一か所だけ「たまご」という表記が出てくるかもしれません。
そして、もっと基本的な文体,および文末の処理、という大問題もあります。
日本語の文章には、大きく分けて「敬体」(です、ます)と「、常体」(だ、である)の二つのスタイルがあるとされてきました。
その文章にふさわしい文体を選んで書くわけですが、
ずっと私が感じてきたのは、一冊の本、あるいは雑誌の記事などで、すべてを敬体、常体に統一することは、
時代によって変化してもいいのではないか、ということでした。
文芸の分野でも、わずかではあるものの(ほとんどが女流作家)、常体のなかに、敬体が混じるという文章を書く作家も出てきています。
特に、エッセイのように、書き手の気持ちの動きが、小説などと比べ、ストレートに出る、あるいは出したい場合は、「敬体」「常体」は混在してもいいのでは、というのが私の考えです。
これは、ただ両方を適当に使う、ということではありません。
ここは、どうしても敬体(あるいは常体)のほうが、より気持ちを正確に、活き活きと伝えることができる、という場合には、「フォトエッセイ」というカテゴリーの本である『虫目のススメ』では、
常体の文章の次に敬体で終わる文章が出てくることもあります。
これはすべて意図があってどちらかを選んでいるので、「あれ?」と思うかたがいらっしゃるかもしれませんが、ご理解いただけたらと思います。
さて、当面の「たまご」問題、どうしようかなぁ……。