かくすれば かくかへりこむ さざなみの あやしきゆめを 見つつたたずむ
*「さざなみの」は「寄る」や「夜」「あや」「あやし」などにかかる枕詞ですね。ふつう枕詞は訳しませんが、ここでは意味が生きています。
こうすれば、こう返ってくるだろう、さざ波のように。そのあやしい繰り返しの夢を、見つつ人は立ち尽くしている。
法則というものは、因果応報の法です。人間、自分のやったことは、みんな自分に返ってくるのです。それを知らない人は、法則の反響の中で、いったいなんで自分がこんな目に会わねばならないのかと、わけもわからず呆然とするばかりなのだ。
人間は法則というものを確かに学んでいないので、バランスも考えずにひどいことをしすぎて、自分で法則の罠にはまり、自分の不幸を招いてしまうということが多いのです。それでどうすることもできず、法則の波に倒されてしまう。
そしてまた、苦しいことをしてしまい、また反動を浴びる。自分のすることが自分に返ってくるということが永遠にわからないのか、永遠に馬鹿を繰り返すのか。しかしもうそろそろ、理解しましょう。
やったことは全部自分に返ってくるとわかったら、後先のバランスを考えて物事をやりましょう。自分がつらいからと言って、人を馬鹿にしてばかりいると、痛いことになって返ってきます。
なぜ人は人を攻撃するのか。その根元にあるものは、たいてい嫉妬です。人が、自分ではないからというだけで、自分よりよく見え、人は嫉妬するのです。そして互いに傷つけあい、法則の文様が跳ね返り合って、永遠に続くかと思われる苦悩の連鎖が始まる。
ここから救われるためには、人は自分というものを立て、自分というものを正しく見て、嫉妬して攻撃することの愚を悟らねばなりません。そして法則の反動を何とかするべく、いいことをしていかねばなりません。
いやなことにはいやなことが返ってくるように、いいことにはいいことが返ってくるからです。それで法則の反動をなんとかすることができる。
この世界は、因果の法則が永遠に反響していく世界。そろそろ人間も、その波を上手に乗っていく勉強をはじめなくてはなりません。