細蟹の 糸を頼みて 盗人の 罪の鎖を 消せとのたまふ 夢詩香
*「細蟹(ささがに)」とは、古語で蜘蛛のことです。その形が小さい蟹に似ていることから言うらしい。
「のたまふ」は「いふ」の尊敬語ですね。おっしゃる、という風に訳して、主語で表す人を高めることに使われますが、逆にあざけることに使われる場合もあります。
蜘蛛の糸で、お釈迦様が盗人を助けようとしたという話があるだろう。あれにならって、盗人の罪の鎖を消して欲しいという人がいる。そんなことをおっしゃるのはどこのどなただろう。きっと格の高い、すごい人に違いない。
まあ、言いたいことはわかりますね。
ひどい罪を犯したものほど、その罪の償いをすることを恐れて、どうにかして逃げたいと思うものだ。馬鹿な理屈を積み上げて自分を少しでも正しくしようとし、哀れを装って同情を買おうとし、果ては自分を助けない世の中の方が悪いのだとののしり始める。
とにかく、自分の罪の償いをしたくないのだ。なぜなら、自分が一体何をしてきたのかを、自分は一番知っているからです。
馬鹿なことをするために、馬鹿はとても複雑なことをします。たとえば女性を罠に落とそうとすると、その罠を作るのにとても高等な技術を使う。その技術を使うためには、金がいる。その金を捻出するために、馬鹿な盗みをする。またその罠には人がいる。人を利用するためには、また金がいる。そしてその金を捻出するために、また馬鹿な盗みをやる。盗人というのは、ただものを盗むだけではない。欲しいものを盗むために、様々な段階を踏んで、そのたびに、非常に汚いことをしているのです。
そういうものが積み重なって、盗人は大変なことになっているのです。
だから盗人というものは、とうとう捕まって、年貢の納め時ということになっても、まだ逆らう。神の法則をてっぺんからひっくり返しても、自分のやったことを支払うのは嫌だというのです。とんでもないというのです。あまりにひどいことをしてきたからです。
だが、盗人が知っている、どんなすばらしい技術を弄しても、法則を捻じ曲げることはできません。そんなことは、神すらもできないのです。だから法則を曲げようとするものは、神を超えたものということです。みっともないわがままを言って、法則を曲げてでも、自分の罪を消してくれなどということは、自分を神よりも偉くしてくれと言うのに等しい。
これはまた立派な人だ。そんなことができるのなら、自分でやればいい。
お縄についたら、素直に神に従うほうがいいのですよ。たとえどんな深い罪を犯していても、人間が一念発起すれば、それを返していくことができます。
まじめに働いて、罪を償っていくほうが、よほど楽な道なのです。馬鹿なことをして人に押し付けて罪から逃げようなどとすれば、人に迷惑をかけて一層罪がふくらみます。