ゆきくれて 意地に固めし 闇路ゆく 人は知らずか おのれの光
*今週は2首ほど詠めました。相変わらずスランプは続いていて、あまりうまく決まりませんが、ふたつのうちでできがいいほうをとりあげましょう。
「ゆきくる(行き暮る)」は、行く間に日が暮れるという意味の古語ですね。
行く間に日が暮れて、意地に凝り固まって闇路をゆく人は、知らないのだろうか、おのれの中にある光を。
間違った道を行く人は、自分が間違っているということを認めたくないばかりに、意地やプライドにこだわって、迷いの闇の中からなかなかでてこないものです。小さな自分のプライドを捨てて、自分というものをよく見てみれば、自分の中に闇を抜けられる光があることに気づくのだが。
簡単なことだ。自分を抑えて人に頭を下げていけば、明日につながる道が見つかるものなのだ。
でも、自分は間違っていないのだと意地を張る人は、なかなかそれができない。小さなプライドにひっかかって、ありとあらゆる馬鹿をやりながら、深い闇を迷っていく。その中で、どんどん自分が腐ってゆく。
そんな自分がつらいのなら、馬鹿をやめて、一切の過ちを認め、自分を折ってみなに謝り、すべてをやり直していった方が、ずっといいのだが。
自分というものに目覚めれば、自分の光が発動し、良いことをなんでもやってゆける、すばらしい自分になるのだが。
どうすればその道に入っていけるかも、わかっているはずなのだが。
馬鹿は意地に固まって、なかなか振り返ろうとしない。いつまでもいつまでも迷っている。苦しみの鎖で自分を縛りながら、なんでこんなにつらいのかと、呪詛の声をあげてばかりいる。
いい加減にやめましょう。救いの道はすぐそこにあるのに、いつまでもそれに背を向けているのは馬鹿ですよ。意地を張るのをやめて、本当の自分を振り返りましょう。
そうすれば、闇は一瞬のうちに吹き払われ、美しい自分の光が、本当の世界を照らしだすのです。