かしのみの ひとつのわれの まことをぞ つるとはりつつ かひのことひく
*「かしのみの(樫の実の)」は「ひとり」とか「ひとつ」にかかる枕詞ですね。あまり古い作例は知りませんが、この時代のテーマである、「自分」というものを詠むとき、その唯一性を表現するのにちょうどよいので、わたしたちはよく使います。
このたったひとつの自分というものの、まことを弦として張りながら、貝の琴を弾いたのだ。
前から言っているように、貝の琴というのは、パソコンの隠喩です。今もわたしが使っているこの小さなパソコンの形が、二枚貝に似ているのと、それから音楽のようなたくさんの詩文を発信することから来ています。実にかのじょらしい美しい表現だ。
まあ、パソコンにもいろいろなものがありますがね。使い手によってはとてもいやなものになることがある。ですが、かのじょが使っていたパソコンは、まさに、貝の琴といってぴったりだ。この小さな貝から、玉のような詩文がいくらでもうまれてきた。
せつないほど美しいのに、馬鹿はそれがいやで殺し続けた。みっともないことを言い募った。あなたがたは影からいろんなことを言っていましたね、本人は気付いていないと思っていたでしょうが、それはあまい。人間の考えていることはつねに見ているものに染みつくのだ。
かのじょがかわいい物語など発表しようものなら、目の色を変えて馬鹿にしたがる人間が集まって来て、どんなことをしているか、全部、パソコンの画面に映る画像の中に書き込まれているのです。
今ならあなたがたにもわかる。その当時の馬鹿がどんなことをしていたかが、パソコンの画面に明らかに読めるのです。
かのじょは気付いていたが、あからさまに読むときついので目をそらしていた。どうせだれも認めてはくれないだろうと思いながら、夢のような歌を歌うことをやめられなかった。
馬鹿な人間はかのじょの歌を馬鹿にしながらも、いつも最後まで聞いていた。
馬鹿にしつくしておきながら、思いを重ねるのは、もうその歌が聞けなくなってからだ。
あれらの歌がどんなにいいものだったか、わかるのは何もかもが消えてからだ。
あの人がどんなに馬鹿にされようとも歌っていたのは、ただそのたったひとつの自分のこころが、まことだったからだ。そんなことも、すべてが終わってからわかったのではどうしようもない。
後悔することさえできず、馬鹿は愚昧の闇に落ちていく。また、永遠に同じことを繰り返していく。
ほんとうの自分から逃げるための言い訳を、何にもない闇に繰り返し吐き続けるのです。