真玉散る 花の嵐は 不壊といふ 国の塵かは 我やらむとす
*人間の作品が続きます。これも、「明日への道」の歌と同じように、わたしの活動に引かれて歌を入れてくださった人の歌です。
「真玉(またま)」というは、玉の美称です。「真」の字がつく美称もたくさんありますね。「真鳥(まとり)」とか「真木(まき)」とか「真金(まかね)」とか。覚えておくとよろしいでしょう。字が足りない時になど役に立ちますよ。「かは」は詠嘆の意味を持った係助詞です。「~だろうか」という風に訳されます。反語の意味もつくときがあります。
この玉を散らすかのような花嵐は、決して壊れないはずの国が塵と崩れていくような未来を表すのだろうか。わたしはやろうと思う。国のために。
「かは」には反語の意味もつきますから、決してそうしてはならないという、詠み手の意志も感じますね。政治の志を持つ人の歌です。こういう世界に飛び込んでいこうとする人は、汚泥の中に足を踏み入れることも覚悟しなくてはならない。痛い馬鹿に噛みつかれる痛みも覚悟せねばならない。時にそれは激しくつらい。だのにいかずにいられない。それが使命というものだ。
自分なら、あの汚海を泳いでいくことができる。そのための知恵も骨も筋肉も備わっている。それなのにやらないのは、こういう自分を作ってくださった神を裏切ることだ。やらねばならない。
できることがあるのにやらないものは、男ではない。
美しいですね。真玉という言葉に、その男の真価を信じる男の信念をも感じます。真の玉と書く。真実の男という意味にもとれる。
あのような激しい世界を泳いでいくのは、並大抵の根性ではできない。実質、かのじょのような愛らしいくらいの正直な人には無理です。でかい芝居ができる肝がなければ、政治家はできない。時には馬鹿もできる巧みさがなければならない。難しいことではない。できるやつなら、そんなことができるのは当たり前なのです。馬鹿にはこれがわからない。いやらしいことでも何でも、国のためにやれる人間が、どのような高い世界を知っているかを、知らない。
たとえ馬鹿の反動をかぶり、奈落に落ちても、復活しそこから飛んでゆくことのできる翼をも、男という者は自分につくることができるのだ。
やりさえすれば。
だから飛び込んでいく。
麗しいですね。ぜひに応援したい。わたしは顧問という職業をするのが主ですから、表には出ないが、そういう明るいところに出て行く人は積極的に応援します。
そういう人を生かすことができてこそ、国は生きてくる。そして国が生きれば、民が豊かに育ってくる。
幻ではない。真の愛をもってやれば、すべては永遠に繁栄していくのです。