千尋の 底に落ちたる 馬鹿どもの 面に浴びせる ゆばりの煮え湯
*これは厳しいですね。獅子は千尋の谷底に我が子を落とすという言葉がありますから、どんな人が詠んだかはわかるでしょう。
「尋」は長さの単位で、古代中国では一尋は八尺ですが、日本では六尺に当たります。六尺は約1.8mですから、千尋がどれくらいかはわかりますね。まあ、千丈と同じで、とても長いという意味です。
「ゆばり」とは、「小便」のことだから、「ゆばりの煮え湯」がどういうものかはわかるでしょう。相変わらず、獅子は細かい文法など気にせず、頭から槌で殴ってくるような歌を詠みます。
こういうことをする人を、わたしは知っていますよ。獅子の星でも熱い人だ。人間の馬鹿のために、厳しいなどというものではないことをしてくれる。ひん曲がった根性を叩き直すために、あらゆることをしてくれます。
それはもう、千尋の谷底に落とされて呻きあえいでいる馬鹿の顔に、煮えた小便のようなものをひっかけるなんてことは、すぐにやってくれます。むごいですね。
人間は、イエスのような甘くてやさしい愛ばかりが、神の愛だと思っているようだが、それは、甘い甘い。非情ということを、愛でやってくれる、厳しい存在もたくさんいるのです。それくらいやらないと、馬鹿者の根性というのは直らない。
いつまでも、馬鹿なことをやって人をだましていれば、自分が得できると思い込んでいるような馬鹿を、愛の道に目覚めさせるには、苦労とか苦悩とかいうものではない試練を食わさねばならないのだ。
阿呆は心底震えるでしょう。
愛を甘いものだと思い込んで、そういう甘い愛をことごとく攻撃して滅ぼしてしまえば、こういう激しく厳しい獅子がやって来るのです。
鞭とか獅子とかいう言葉を、愛の一つの姿を現す言葉として、覚えておきなさい。自分のために、涙も流さずあざけるように吠えながら、人間の馬鹿を鞭で翻弄してくれる愛があるのです。そういう目に自分が合うときは、獅子が来たと言えばよい。
これから、そういうことはたぶん、たくさんあることでしょう。