凡庸の きぬをよろひて 守る身の 朝にくづれて 去りし夜を知る
*「よろふ」は「鎧ふ」だが、こういう言葉は古語にはありません。最近できたものらしい。意味はもちろん鎧のようにして自分を守るということなのだが、じつはまだ大きな辞書にも載っていません。だから今まで使うのは控えていたのだが、どうしても便利なので使ってしまったという例です。
まあひとつくらい作例があってもいいでしょう。新しい言葉とはこうして使いこなしていくうちにできてくるものだ。
凡庸のきぬを鎧のようにして守っていた自分が朝に崩れて、もう夜が終わってしまったことを知る。
まあ意味はわかるでしょう。凡庸といい、要するに何も勉強してこなかったから未だに高いことが何もわからず、暗愚の傲慢の中にいる人たちのことなのだが。そういう人たちは凡庸故の弱者の鎧を着こんでいるものだ。自分たちは弱いものだから守られて当然だと、権利を叫んだりしている。
国はそういう弱者をこそ守らねばならないのだと。
だがそういう凡庸の弱者ほど、国に守られて安穏と暮らしている中で、国を乱すようなことを影でしているものだ。
平穏な暮らしの中でできる余暇を、他人を馬鹿にするために使っていたりする。自分が凡庸で何もできないことがつらいからです。高い勉強をしているものはそれなりに高くなって、いいことができるようになったりしているのだが、凡庸の民はまだそんなことはできないのです。
民主主義の平等の悪弊がこんなところにもあるのだ。全員平等なんだから、あんたも馬鹿になればいいと、馬鹿な人々はよい人材を馬鹿にして引きずり落そうとする。
それで自分は、良い人から盗んだものを利用して、自分を立派にしたりするのだが。
そういう凡庸の民の弊害が、恐ろしいことになってきた。
女性に近づいてもいけない愚かな男たちが、大勢で集団になって、美しい女性ひとりを影からいじめたおし、すべて殺してしまった。
こういうことをしてしまったので、もはや凡庸の民はだめだと、人間世界が思うようになったのです。
勉強をしてこなかった馬鹿は、もう人類ではないと言って、すべての人類に嫌われ、人類社会を追い出されることになった。
全部は言わなくてもわかっているでしょう。
人間としての権利というものは、最初からあるものではありません。それなりのことをして自分で作っていかねばならないものだ。基本的人権というものを憲法は保証しているが、それは事実上、誤りです。
近い未来に書き直さねばならないでしょう。
人は学んでいく。高くなっていく。常に常に変化していく。変われないものはもう、この世界にはいられないのです。人間はもう新たな存在として次の空に伸びていくのですから。