爪を切り 己ではなき ものと見る 夢詩香
*今日は俳句です。何ということもない句ですが、けっこうおもしろいでしょう。季語など気にせずにやれば、こういうのも詠める。季節感は大事だが、人間の情感を呼び覚ますのは季節だけではありませんから、季語には規制を弱めてもらった方がいいように思いますね。歳時記はけっこうおもしろいのだが、あまり縛られたくはない。
爪を切って、その爪を見た時になど、こういう感慨を持ちませんか。さっきまで自分の一部だったものが、もう全然自分ではないものになっている。そういうことに、少し不思議なことを感じることはないですか。
それで切った爪など、しばらく見つめてしまう人も結構いるでしょう。爪というのは指先にある時は、結構美しいし、指先を守ってくれたりもするのだが。切ってしまうとただのゴミになる。切った爪にも愛おしさを感じるが、持っていてもせんないのですぐにゴミ箱に捨ててしまう。
人間がこだわっている馬鹿な自分というものも、実はこの、伸びた爪のようなものですよ。本当は、実に下らないのだ。切ってしまえば邪魔にならなくて楽なのに、いつまでも惜しんで伸ばしておくから邪魔になって、生きることの差しさわりになる。とうに乗り越えていなければならない段階を乗り越えられずに、子供じみた失敗をやって、人生をだいなしにしてしまうのも、実はこういう、切ったほうがいい爪のようなものを、大事にしているからなのです。
金持ちになりたいだとか、芸能人みたいな美人を嫁さんに欲しいだとか、ばかばかしい名誉が欲しいだとか、そういうものです。そういう幻惑的な価値観は、本当は、ルネサンスの時代に捨てていなければならないのですよ。あの時代は、人間が人間の心をつかんだという時代ですから。あの時に、人間の本義に目覚めて、馬鹿みたいな価値観を捨てた人間は多かったのです。
魂の本当の幸福は、そういうものではないということに気付くことができた。そういう人間は、伸びた爪のように、表面的な幻惑される幼い段階の自分というものを、切り捨てたのです。
そういう馬鹿な自分を切り捨てることができた人というのは、不思議な目で過去の自分を見ている。過去の自分は、あんな馬鹿みたいなものをいいものだと信じて、馬鹿みたいなことばかりやっていたが、もうあの自分が自分だとは思えない。まったく別の存在のように思える。
人間は進化していくたびに、こんな経験をしていくのです。古びた自分が、脱ぎ捨てた殻のように思える。それは確かに自分だったのだが、もう自分ではないのだ。
浅はかなことを、浅はかだとわかっていながらもやるのは、何もない自分を実行することに等しい。もうそんなことは馬鹿なことだとわかっていながら、まだ過去の自分の世界にこだわってやっている人は多いのだが、もうとっくに、本当の自分はそこを卒業しているのです。だから、馬鹿をやっている人間は、切った爪のために生きているようなものだ。
何もなりはしない。
本当の自分は、切った爪ではない。その爪をかつて持っていた本体なのだ。
そういうことに気付くことができれば、人間は進歩していくことができるでしょう。