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行き悩む 道を帰りて かぞいろの 面影を見る 道の辺の花
*彼とかのじょの作品が続いたので、今日は別のものの作品をとりましょう。これはわかりやすいですね。
生きているうちに、これ以上はどうしても進めないという壁にぶつかり、とうとう道を引き返す。そして道端の花に、故郷の父母の面影を見る。かぞいろは父母という意味の古いことばです。
よくある情景だ。人間は間違いやすい生き物ですから、幻の価値に惑わされて妙な道に入り込み、迷い悩むことなどよくある。強情を張って突き進んでいくと、何もかもが壊れて、人生を賭してやってきたことがすべて馬鹿になる。そういうことがある。
どこにも行くところなどない。羽振りがよかったころに付き合いがあった友達はみな離れていく。愛情があったと思い込んでいた恋人も、いつの間にかいなくなっている。すべては、自分が間違っていたからだ。馬鹿なことをして、痛いことで自分を偉いものにしようとするからそうなる。何もかもを失ってから気付いたのでは遅いのだが、馬鹿な人間は、たいていそうなる。
だが、まだ道を引き返す気になるものは幸福です。人に謝らねばならないという考えさえ、かけらも頭をよぎらない者は、そのまま突き進み、永遠に帰って来れないところに落ちねばならない。かろうじて、故郷の父母のことを思いだし、謝る自分の姿を想像できるものは、まだ期待できる。
あほなことになったな、馬鹿なことばかりやったなと、親に叱られることはわかっている。だが、聖書に出てくる放蕩息子のように、尾羽打ち枯らした負け犬のような面を下げて帰れるものはまだ幸せなのだ。
期待していたような愛の言葉はもらえないかもしれないが、新しい仕事が見つかるまでは、屋根裏で寝ろということくらいは言ってくれるだろう。
馬鹿な子供でも、親が愛してくれる間はまだいい。
親でさえも嫌になるような子になってしまえばもう終わりなのです。
放蕩息子も父がいるから帰って来れるのに、その父を壊してしまうようなことをしたら終わりなのだ。もうどこにも帰るところはなくなる。こんなことになった阿呆はこれまでいなかったが、とうとうこの時代、そういう馬鹿が出た。
嫌になるほど情熱的になって、徹底的に壊してしまったのは、母親のように自分を助けてくれようとしていた天使だった。それを焦って消してしまったら、もう神でさえもあきれ果てる馬鹿になってしまう。
道の辺の花を見て、親の顔が思い浮かぶような間はまだいい。もう乱暴をしすぎて人間を超えるようなことをしてしまったら、親との霊魂の縁も切れてしまう。阿呆はそんなことになるようなことがあるとは、思わなかったろう。
親の愛と神の愛は、永遠にあるものと思っていたろう。