てふの子の ごとくおのれを 脱ぎ捨てて まことのわれの 楽しさを知る
*相変わらず感性の妨害は続いていて、歌が詠みにくいのですが、今週は2首ほど詠めました。あまりいいできではありませんが、そのうちのひとつを取り上げましょう。
「てふの子」とは芋虫のことですね。古語には芋虫にあたる良い言葉が見当たらないので、「てふの子」としてみました。そうするとなんだか詩的でこころよい。
蝶々の子である芋虫のように、古い自分を脱ぎ捨てれば、本当の自分というものの、楽しさを知ることができる。
古い自分とは、無知無明の闇に迷うて、自分に嘘をついて生きている自分のことです。そういう自分を、芋虫が自分の皮を脱ぎ捨てるように脱ぎ捨てれば、本当の自分が出てきて、それを生きることがどんなに楽しく、幸せであるかがわかる。
本当の自分とは、まことによいものなのです。すばらしいことができる、すばらしいものなのだ。その自分の真実に気づくとき、人間は自分が自分であることの、永遠の幸福を知ることができる。
まさしく、芋虫が蝶々に変わるように、魂に自由の翼が生えて、神の大空を自在に飛ぶことができるようになるのです。それがあまりにも楽しい。自分を生きることが、すばらしい幸福なのだ。
それにしても、蝶とは不思議な生き物だ。なぜこんな風に、劇的に変わる生き物を、神はお創りになったでしょう。まるで魂の進化の道筋を直喩しているかのような、すばらしい生き物。人間は蝶を観察し、その生き方を知ることで、人間自身の魂の未来をも知ることができる。要するに蝶とは、神がすべての魂にその進化の道筋を教えるための、美しいメッセージなのではないか。
神は、お創りになったすべての霊魂に、魂の進化の道筋を教えるために、蝶の生き方をお考えになったのではないか。
そう思うと、神がどんなにわたしたちを深く愛してくださったかがわかる。
すべては愛なのだと。すべての霊魂を愛に導くために、愛はすべてをやっているのだと。
蝶々という生き物は、あまりにも美しい、神の御心の手紙なのです。