ジャーナリスト 金光 奎氏が雑誌「月刊学習」4月号に、「加藤周一さんが表した「しんぶん赤旗」と題した取材体験記を掲載しています。
私が、逢えるなら逢いたいと思う人にピカソと加藤周一さんがいます。この方々の芸術や知識をとても理解しているとは言えないのですが、逢いたいと思う人です。
加藤周一さんの著作を読むと、マルクス主義については、距離を置いていることが分かります。日本共産党については、宮本顕治さんのすばらしい評価や海外での動きが分かると書かれている文章がわずかありますが、日本共産党そのものや「赤旗」についての評価というのは、あまり見たことがありませんでした。
今回、ジャーナリストの金光 奎氏の取材体験記は、私にとっては、大変貴重なそして、やはり、加藤周一氏は思ったとおりの方だったという感想を持ちました。
月刊学習2013年4月号(日本共産党出版 370円)より
加藤周一さんが評した「しんぶん赤旗」
ジャーナリスト 金光 奎
加藤周一さん(*)は「知の巨人」といわれていました。私は、「赤旗」記者として長く活動してきましたが、いきなり取材の懇談を申し入れても許されないのではと考えていました。しかし、氏が「朝日」に連載していた「夕陽妄語」を愛読し、代表作の『日本文学史序説』や『羊の歌』などを読み返しているうちに、何としても短時間であれ加藤さんと懇談する機会を持ちたいと願うようになったのです。一九九〇年代初めのことです。
(*評論家・作家。一九一九年東京生まれ二〇〇八年没。東京大学医学部卒。戦後フランスに留学し、五五年帰国。 医師をしながら「日本文化の雑種性」などを発表。六八年 医業をやめドイツ、アメリカ、スイスなどで教鞭をとる。「九条の会」呼びかけ人の一人。)
ところが私の願望するその機会が急に訪れたのです。九三年四月、東京で「ジャーナリズムは何を伝えたか」をテーマとする「ルーモンドーディプロマティークノ世界 日仏共同シンポジウム」が開かれ、加藤さんはその講師の中心として出席しました。私は『世界』の広報関係者から取材記者として招待されたのです。この会合の後の簡単な懇親会で私が加藤さんにあいさつに行き、「ぜひ『赤旗』について感想を聞かせてほしい」とお願いすると、「いいですよ。あさってはどうですか」と即座に応じていただきました。これが、私と加藤さんとの出会いのときでした。
出会いの話が少し長くなりましたが、それは国際的にも知られた知識人と、一介のジャーナリストが取材の名目ながら長期にわたって頻繁に会い、懇談するようになったきっかけといきさつに疑問もあろうかと思ったからです。
●理性のあるジャーナリズムは「赤旗」だけその日から加藤さんが逝去(二〇〇八年十二月五日)される約半年前まで月に一回、場合によっては二回、加藤さんの居住地だった東京・世田谷や、渋谷、新宿などでお会いしてきました(加藤さんが外国に行かれることも多く、そのときは別にして)。やはり話題の中心は「赤旗」の問題でした。
最初の懇談のさい、加藤さんの希望もあって、当時の赤旗編集局長だった河邑重光氏に同席してもらい、その後、関口孝夫、奥原紀晴両編集局長にもしばしば同席をお願いしました。こうした編集局の責任者の同席が、加藤さんとの懇談を活気とともに深みのあるものにしたといえるでしょう。そのつど、私は細かくメモをしてきましたので、それをもとに加藤さんの言葉を紹介します。
「政治面一つとっても、商業紙の記者は記者クラブに居座って、読者のことなど念頭にない。結局、日本の政治を知るうえで意味のあることを書いているのは『赤旗』だけだ。『赤旗』は、事の本質、問題の本質をついている」
これは、最初の懇談の席で、加藤さんが指摘した「赤旗」についての評価でした。そして次のようにいわれたのです。
「結局、日本で理性のあるジャーナリズムは『赤旗』だけである」加藤さんは、世界各地の有力紙を取り寄せ、日本の大手紙を読み、かつ早くから「赤旗」の熱心な読者でした。この並外れた知識人から上記のような言葉を聞いて、「赤旗」の編集作業にかかわる者として、強い自信がわいてくるのは当然でしょう。河邑さんと私は思わず顔を見合わせていました。
●質の高い大衆的なクオリティーペーパーに
しかし、数力月後にお会いしたとき、加藤さんは「きょうは少し『赤旗』に注文をつけたいと思う」と前置きして、「真に『質の高い』、しかも『大衆的な』『クオリティーペーパー』の基礎をまず早いうちに固めていく。それができれば『赤旗』は、国民の中に絶大な影響力を持つ新聞として揺るぎない存在となる」と強調されたのです。
そこで具体的にはどういう注文があるのかをお聞きすると、加藤さんは次のように指摘されました。
「第一は情報量が多いこと。それはカバーレイジ(報道の到達範囲)の問題で、たくさんの情報に目が届き、限られた紙面のなかでいかに広くカバーしている新聞であるかということだ。第二は、報道の選択がいかに大所高所から行われているかという点。日本の人民にとって大事なことを重視するという定見がある新聞であること。第三は、報道の客観性、信頼性の問題で、真実を報道し、信頼性が高い新聞であること。第四は、記事は立派な日本語で書かれた新聞であることーーこの四つの点で『赤旗』を充実してほしい」
加藤さんはつづけて「『赤旗』はこのうちの第二の部分はすでに達成していると思うので、こうしたよい点はさらに伸ばしながら、全体に広げていくことが重要だ」と指摘されました。
振り返ってみると、加藤さんはこの四つの問題を、「赤旗」の紙面を評価していくうえで重要な基準として位置づけ、いつもそれらの基準を土台にしながら、「赤旗」について考え、私たちにも対応してこられたように私は思います。
だから、加藤さんは、「赤旗」について「理性のある唯一のジャーナリズム」と高く評価しながら、さらに「真に『質の高い』、しかも『大衆的な』『クオリティーペーパー』」となるよう期待しながら、多面的な注文、提言を行ったのでしょう。
●小選挙区制反対キャンペーンは立派だった
おりから政府、財界は、小選挙区制導入のための第八次選挙制度審議会(一九八九年六月発足~九一年六月答申)にマスメディア関係者を大量に取り込み、全国紙を中心にした日本のマスメディアは、小選挙区制キャンペーンに血道をあげていました。小選挙区比例代表制法案がいったん参院で否決されたあと、細川首相と河野自民党総裁が「談合」のうえ、「合意」し、強行されたのは九四年一月二十九日でした。加藤さんはこれら一連の小選挙区制導入をめぐる動きについて強い憤りを持って見ていたようです。その直後お会いした加藤さんは開口一番次のようにいいました。
「日本社会の一番うまくない点は、なによりも少数意見が生きにくいことだ。このうえ小選挙区制が入ると、日本の政治と社会はひどいことになる。どうしても許せない」
そのあと「それにしても小選挙区制に真正面から反対してたたかった『赤旗』のキャンペーンは立派だった。『赤旗』の力で国民とともにたたかい、小選挙区制を崩壊に追いやることは必ずやれると信じている。攻撃にくじけないでほしい」と激励されたのです。
●「赤旗」がなかつたら「この世は闇」
二一世紀は、○三年三月二十日のブッシュ米政権による不法なイラク攻撃へ向けた動きをめぐって緊迫するなかで迎えました。当時の小泉内閣は、直ちに米政権のイラク侵攻を支持し支援を約束しました。そして小泉内閣はついに○四年一月、イラク侵攻を支持して陸上自衛隊をサマワに派兵したのです。
加藤さんからは、米政権によるイラク侵攻を中心にした「赤旗」の一連の報道、論評について次のように極めて高い評価をしていただき、非常に感動しました。
「私は、永年『しんぶん赤旗』を愛し、この新聞がなかったら、世界と日本の真実、本当の動きがまるで分からず、この世は闇だと思ってきたが、今ほどその感を深くしているときはない。イラク問題をめぐるあらゆる情勢が手に取るように分かるのはまさに『赤旗』のみである。とりわけ地球を覆う反戦の世論、デモを、そのなかで孤立するブッシュと米国、それにますます追随する日本政府の姿をこれほど見事に包括的、持続的に浮き彫りにする報道をしているのは『赤旗』だけである。私は毎日の『赤旗』を待ち兼ね、手にするや食い入るようにむさぼり読んでいる。恐らく日本中の『赤旗』読者のほとんどがそうであろう。『赤旗』はすばらしい新聞だ」
●「赤旗」は日本社会に不可欠な存在
加藤さんは、「九条の会」(○四年六月十日発足会見)の呼びかけ人の一人として、その活動をこのうえなく重視されていました。「赤旗」は当然ながら、「九条の会」発足を一面トップで大きく報道しました。発足会見をうけて加藤さんにお会いし、感想を伺ったので、それを紹介します。
「『赤旗』でこれ以上にないほど大きく報道していただき、『会』を代表して心からお礼を申し上げたい。それにしても驚いたのは、一般紙の報道である。もちろん私は、それほど大きく扱うとは期待していなかったが、場合によっては『朝日』や『毎日』は、二段くらいで一面に出すかと思っていた。しかし、掲載した『朝日』『毎日』にしてもこれでは報道したとはいえず、本当はだれも見ないように、見つからないように書いて、まったく黙殺したという批判を受けないように載せたというに過ぎない。まともな記事にすれば、改憲をいっている勢力から批判されることを恐れたものだ。日本の新聞、マスコミが陥っている深刻な状況がいっそうはっきりした。本当に大事なこと、肝心なことを書き、それを正当に扱い、日本国民が知らねばならないことをまともに載せる新聞は『赤旗』以外にないことがはっきりした」 そのうえで加藤さんは「もう日本社会にとって『赤旗』は不可欠な存在であることがいよいよ明確になった。このとき『赤旗』を大きくふやしていくことはこれまで以上に重要な意味をもっている」と結んでくださったのです。
●「赤旗」紙上での加藤・都留対談を自ら発案
加藤さんはかねてから、「赤旗」に談話を寄せる人や座談会出席者、執筆者について、いつも顔を出すメンバーだけではなく、できるだけ新しい顔触れを紙面に登場させるよう提案していました。それを自ら実践するように、○一年六月に「赤旗」日刊紙で経済学者の都留重人氏と対談、同年六月九日から六回にわたってその内容を掲載し大きな反響を呼びました。
もともとこの対談は加藤さんがいいだしたもので、そのタイトルになった「転換期ーー世界のなかの日本」も加藤さんのアイデアによるものでした。しかし主催はあくまで赤旗編集局であるため、私か東京都港区の麻布十番にあった都留さんの事務所を訪れ、交渉したところ、都留さんも即座にOKとなりました。
当時、都留さんは八十八歳、加藤さんは八十二歳でした。都留さんは、一橋大学学長、朝日新聞論説顧問をつとめましたが、戦後、最初の『経済白書』を執筆・編集した人としてあまりにも有名でした。加藤さん、都留さんという、日本の最高の知性による対談でした。0一年六月九日付一面に掲載された同対談の紹介記事の抜粋を紹介するとーー「二人の対談は『しんぶん赤旗』初登場です。テーマは『転換期-世界のなかの日本』。小泉政権の評価から、国際関係、日本資本主義のあり方、最近の思想状況まで広範囲に。随所に時代を読み解く鋭い指摘が展開されます。……国内問題でも国際問題でも深い知識を持ち、縦横に語り尽くす二人の対談は、とどまるところがありません。小泉内閣が持ち出した集団的自衛権の行使や経済の構造改革にも舌ぽう鋭く切り込みます」
●著名、新鮮な人材の登場を
この対談のあと、加藤さんはある日の懇談で「しんぶん赤旗」に登場する知識人・文化人の問題について次のような提言を行っています。
「率直にいわせてもらうと、『しんぶん赤旗』での知識人・文化人の登場人物は、まだ狭い感じがする。あまり広げすぎると、党の主張と違うことをいい、それを紙面に載せるのは難しいということはあるだろう。しかし、『赤旗』に出ることを承知するような人物なら、そう党の立場と大きく違ったことをいうはずがない。とにかく政治問題でも経済問題でも、文化、文学の問題でも、決まり切った人が多く登場し過ぎる感じがする。それを各担当部門にまかせるのでなく、紙面全体を通じて検討し、こんな人まで出てきているというように著名な人で思い切って新鮮な人材を発掘して登場させる必要がある」
加藤さん自らの体験をもとにした適切な見解であると思うのです。ここには、加藤さんにとって「赤旗」がどんなに重要な存在であったかが如実に示されています。
●全体の構造と流れがわかる
加藤さんは、自分からとくに話したいと思うとき、自らFAXをしてきて「あすはこちらに来れませんか。『赤旗』について話したい」という連絡をしてくれることがしばしばありました。そういうときは、やはり、かなりきちんとまとめた話をしていただいたことが忘れられません。次は0七年九月にそういう形でお会いしたさいの「赤旗」論です。
「国民とともに新しい政治の流れをつくりだすために、『「赤旗」の役割がこれまで以上に重要になっているし、これからますますその役割は大きくなっていくことは間違いない』ということを声を大にして申し上げたい。いま国内的にも情勢が激動し、とりわけ新しい政治への道をどう切り開くかが問われている。そのもとで複雑で判断の難しいあらゆる情報が飛び交い、国民に正確な情報と事実をいかに伝えるかがかつてなく重要になっている。しかし、いまそれが果たせる新聞は『赤旗』だけになっている。それはなぜか。『赤旗』は日々生起する事実、ニュースをただ個々ばらばらに報道するのではなく、その事実と事実のあいだにある関連がわかるように整理・分析し、全体の流れ、構造がどうなっているか、が読者に理解できるよう意識し、工夫した紙面がつくられている。つまり単なる記事の羅列ではなく、それらの記事、事実の相互の関連をきちんと整理し、全体の構造、動き、そういうなかでの変化と今後の見通しなどが読者につかめるように作られているのである」-わざわざ「会いたい」と連絡してきただけあって、このように、その言葉は、きちんと整理され、「知の巨人」加藤流の緻密さと深い論理が横たわる内容となっているといえます。
この席で加藤さんは、「赤旗」について上記のようにいったうえで、一般紙について次のように厳しく批判します。
「『朝日』『読売』などの一般新聞は、ジャーナリズム本来の役割を忘れ、『日米同盟強化』路線、『構造改革』路線にかしずき、『二大政党重視作戦』、憲法改定、九条改悪に同調している。こうした一般紙のやり方では全体の情勢と事実を正確に国民の立場で伝えることはできない。しかもあらゆるところに記者クラブが根を張り、そこから流される情報を基調にした編集方針に依拠している」
●「ぜひ『赤旗』を百万部に」
加藤さんから「できたら会いたい」という連絡が多くなったのは、とくに加藤さんが、「九条の会」の呼びかけ人として、全国各地の講演会に出掛けるなど同会の活動が忙しくなってからです。このようなある日、加藤さんの奥様で評論家・翻訳家の矢島翠さんから手紙をいただきました。その内容は、「どうして加藤は『九条の会』に懸命に取り組むようになったのか」という質問でした。
私は、「改憲策動が強まるもとで先生はそれを許さない国民とともに、政治を変えようと必死なのです。奥様もどうぞ理解し協がしてあげてください」という返事の手紙を書きました。これに対して「理解します」という返書を奥様からいただきました。
このようなとき、ある日の懇談で加藤さんから聞いた次の言葉を思い出しました。
「『赤旗』は一政党の機関紙であるが、単に一党一派の利益や党略から編集しているのではなく、あくまで国民の利益を守り、日本の新しい政治に目を向けた新聞であることに誇りを持ってほしい。そのために紙面の内容もさらに改善していく必要がある」 私は加藤さんが「九条の会」の活動を通じ、「赤旗」の重要性についての思いをいっそう強めており、そのために「赤旗」について語りたいという思いも深まっているということに気がついたのです。
加藤さんが亡くなるおよそ三ヵ月前、入院中の東大病院から一時退院され、「ぜひ会いたい」という連絡を受けました。私は直ちに加藤家に向かいました。そ
のとき加藤さんは、「すぐには難しいとは思うが、ぜひとも『赤旗』を百万部にふやしてほしい」といいました。私はうなずきながら握手をしました。
(かなみつ けい)
(金光奎氏略歴 一九三三年生まれ、岡山県出身。山陽新聞で十三年の記者生活のあと、一九六八年、赤旗編集局に入局。論説委員などをつとめ、現在、嘱託)