大岡優一郎著、「東京裁判 フランス人判事の無罪論」を読む:
東日本大震災が起きた直後に、当時のフランス大統領のサルコジは、原発大国であるフランスの国益を代表するかのように、何処の他国にも先立って、来日を果たしたことは、つとに、有名である。とりわけ、国営企業の汚染水処理のアレヴァによる原発事故への支援は、今でも、記憶に新しい。もっとも、それは、米国による日米軍事同盟の進化と政治的な思惑を伴って、震災と原発事故の発生と同時に、即時的に、実施されたオペレーション、「トモダチ」とも、何処かで、共通する胡散くさい臭いがしないわけではないが、、、、。
しかしながら、フランスという国は、明治維新の時も、したたかに、幕府側に、軍事顧問団を派遣しながらも、維新後も、様々な分野で、法曹分野などで、その存在感を、示し続けることに成功したし、最近では、イラク戦争開始時点でも、その大量破壊兵器の存在への疑義から、多国籍軍によるフセイン政権への武力行使に、ギリギリまで、反対し続けたことも忘れてはならないであろう。(本稿を書いていたら、マリヘ、武力介入したらしいと)
フランスという国は、自国の存続のためには、何者にも依存すべきではなく、どのような外圧にも服するべきではないという独立自尊のスタンスの表れに他ならない。同調すれども同盟せずという言葉に代表される如く、常に国益を守る一方で、ここぞと謂うときには必ず、大義や理念を前面に掲げ、外に向けて発信しないと気が済まない国なのかも知れない。別の意味で、孤高のドゴール主義者なのであろうか?
第二次大戦中、及び、戦後の歴史に関しては、どうも、我々の子供時代にも、或いは、今日でも、未だ、その歴史観が、充分と検証されている訳ではないだろう、とりわけ、歴史教育の中では、やや、タブー視されてきた嫌いが無きにしも非ずの観が禁じ得ない。ある人々によれば、それは、占領軍と日教組により影響を受けた「自虐史観」以外の無いものでもないと、とりわけ、我々のような戦後間もなく教育をうけたところの「団塊の世代」は、その影響下に、著しくあると、謂われてきているが、、、、、、。とりわけ、今日、日韓、日中間での歴史認識に関しては、「天皇の戦争責任」、「慰安婦・朝鮮人強制連行」問題、「侵略戦争」という戦争責任・戦争犯罪、米国による原爆投下や東京大空襲によるによる無垢の「民間人の大量殺戮」、南京事件などの「戦争犯罪」、或いは、戦時捕虜兵への虐待、ソ連による「シベリヤ抑留問題」、「満州国」の法的位置、「仏印への進駐」と武装解除、等々、暗黒の「東京裁判」での「平和への犯罪行為」や、「共同謀議」といった内容を、今日的に、この著作は、改めて、フランス人判事の主張を通じて、考え直すものである。
もっとも、従前の歴史観を覆すために、或いは、その自虐史観からの修正を期待するものであれば、間違いなく、読中・読後、ガッカリさせられることは、間違いないであろう。むしろ、刻々と変化し続ける状況に即応できるように、自律的に正しく、考察し、判断を下そうとする精神活動を重視しようとする思いこそが、このフランス人判事ベルナールからのメッセージを学ぼうとする著者の向かわんとするところであるかも知れないだろう。決して、インドの判事パルのような論理からの日本側被告達への弁護や援護ではなさそうである。そのことを、事前に、確認してから、本著作を読まなければ、間違いなく、ガッカリさせられることになろう。
まずは、その人となりから、読み解いてゆくことにしよう。
奇しくも、私は、1948年12月の生まれであるが、まさに、その月には、東条英機等の処刑が行われるも、その3日前に、ベルナール判事は、3年近くに及ぶ日本滞在を終えて、離日し、フランスへ帰国し、終生、二度と、日本の土を踏むことがなかったことになる訳である。司祭になるべく通っていた神学校を辞め、第一次大戦の戦火に身を置き、その後、母国の司法官となり、終生カトリックへの盲目的な信仰の中にしか生きられなかった一方で、共産主義者で離婚歴のある女性を娶った男、過激なプルードン主義、無政府主義の思想にも感化された男、一官吏として、フランス海外植民地帝国主義を支えながらも、容赦なく母国の入植者をも断罪し、獄へと送った男、自由フランスに与し、ナチの傀儡、ヴィシー政権から死刑判決を宣告された男、アングロ・サクソンの多数派をなす判事達に最期まで楯を突き、全ての日本人被告達の死刑判決に反対し、その反対判決書で、異論を残し東京を離れた男、天皇の戦争責任問題について、真っ向から刃向かった男、等、人となりとしては、要約すると、こんなところであろうか。生涯に亘り、カトリックの刷り込みから抜け出すことが出来ずにその教義の桎梏の下で、東京裁判の判断を行ったと断じるには、著者の主張の如く、少々、短絡過ぎるのかも知れない。
もっとも、アフリカやアジアでの本格的な植民地経営に乗り出す中での伝道は勿論、文化的な指導に当たったのも「カトリック宣教師達」に他ならなったし、野蛮で無知な先住・原住民達にその言語や文明・習慣を捨てさせ、欧州文明を施して、同化させてやることこそが、フランス人の恩恵に満ち足りた仕事であり、責務であると合理化したことは否定できないであろう。パリ万国博の歴史も、当時のメディアは、盛んに、そのように宣伝流布されていたのであろう。日本の植民地統治(創氏・改名など)も又、然りであるし、アメリカ先住民族から、フロンティア精神で、結果的に、土地を収奪していったのも、又、歴史的に、然りであろう。緯度が三度ほども変われば、こちら側とあちら側では、法というものは、全く、異なるものであること、又、人類に妥当するはずの国際法と言えども、制定した側に力さえあればその支配から免れ得ることは、重々、彼自身も熟知していたはずである。彼にとっては、東京裁判での被告を裁くことができる制定法は、何処を探しても、この世には見当たらないと感じていたはずである。
フランスという国は、今日の米国に勝とも劣らぬ位、言語も文化も、世界標準であるという確信、普遍主義が大きく働いているが、このフランス人判事については驚くほど、その実像が知られていないのが実情であろう。「日本無罪論」で人口に広く膾炙しているインド代表判事のパルだけが、脚光を浴びているのが、実体であろうか?しかしながら、ベルナールによれば、そのパルは、「二つの過ち」を犯していると、ひとつは、侵略戦争を犯罪とする法を持っていないとする見方は不正確であると言う点、もう一つは、戦争責任を個人にも問うことが出来るという視点が欠落していると言う点で、、、、、、、。インドのパルが、非植民地化された国の反西洋帝国主義の観点から、多くを語り、平和に対する罪は事後法だとする実質的な実定法主義のスタンスをとり、オランダの判事、レーリンクのものと同様、自然法の観点から議論し、判断を下そうとするベルナールの姿勢とは、根本から、相容れないものがあったのであろう。
ドイツの「ニュールンベルグ戦犯裁判」とは異なり、「東京裁判」では、無罪と認められた者は一人もいなかったし、ベルナール等の少数意見書は、最期まで、法廷で読み上げられることも無かったのである。当初から、少数意見が生じても公表はしないという取り決めが、事前に、交わされていたようである。確かに、英米法のコモン・ローを適用する国々とは異なり、フランスのような大陸法系の国々には、少数意見を残す習慣はなかったことは事実であろう。それにも関わらず、このフラン人判事は、日本人被告に対して「公正」を期すために、自らの判決意見書を残そうとしたことは特筆に値しよう。「正義」を明確に留め置きたいとの意思の表れであって、他のパルなどの少数派の判事の論拠とは異なるのも事実であろう。連合国と謂うよりもむしろ、戦勝国側による「文明の裁き論」に基づく「東京裁判史観」、確かに、インドのパルは、反西洋帝国主義者であり、フィリピンのハラニーニャは、「バターン死の行進」の生存者の一人であるし、オーストラリアのウェッブは、ニューギニアの日本軍による残虐行為に関する調査の報告書をあげた経歴があるのも事実である。
東京裁判を拘束するニュールンベルグ裁判の成立のプロセス、実際、処罰する為に設けられた様々な規定が、後に、東京裁判にも適用されることになる。「通例の戦争犯罪」に加えて、新たに二つの罪:「平和に対する罪」、「人道に対する罪」、これらは、半ば、既成事実化していた訳である。軍事裁判憲章が、ニュールンベルグでは、長期の議論の中で、制定されたのに対して、東京では、マッカーサーによる行政命令として短期間で、決められていたのも事実であろう。ベルナールは、その点、「裁判所憲章」を実体法そのものと完全には見なしていない。
それでは、一体、どこに、「正義」を置こうとしたのか?
「忌避申し立て」と「管轄権動議」、そして、「侵略戦争」は、不法なモノではなく、「パリ不戦条約は、戦争そのものを犯罪としていない」と同時に、「戦争は国家の行為である」から「国家の一員として行動した個人には国際法上の何らの責任は生じ得ない」という論陣、個人の責任を追及出来るのかどうか、
アングロ・サクソン系の侵略戦争を国際法上の犯罪、有罪性とする解釈に対する法概念上の対立、ベルナールによる「普遍の法」としての「自然法」の中にこそ、「正義」が置かれるべきであるとする根本的な理念に対する考え方、これが、カトリック的な神の掟の普遍性と結合して中世神学的自然法理論が構築されたのであろうか。
「法実証主義、実定主義」の悪法もまた法という主張と真っ向から対立する純粋法学。
明文化されていない「自然法」が、実体法として優位を持ち、これに従って、判断を下すべきとしたのだろうか。そして、国家を超越する、「より大きな枠組みの中に存在する法」に侵略戦争を裁く根拠を求めた。侵略戦争の有罪性は、成文法があろうがなかろうが、普遍的な良心の結果である不文法、「自然法」の中にこそ、置かれるべきであるとした。
プロテスタント系の判事達は、実定法主義の立場から、「東京裁判憲章」は、軍法としての拘束力を有し、今次の侵略戦争は犯罪性を有すると結論づけられたのである。
彼の見解では、「正義は、連合国にあるのではない」としながらも、史上二度目の戦犯裁判、それ自身が開かれること自体までをも、否定するモノではなかった。
フランス(ベルナール)でも、オーストラリア(ウェッブ)、インド(パル)でも、判事の選考それ自身が、二転三転したことは、紛れもなく、事実であったと、本来、彼は、サイゴンでのBC級戦犯裁判のインドシナ法廷を、実際、予定されていたそうである。
「不正で犯罪である戦争もあれば、正義で合法の戦争もある」と云う、所謂、「正戦論論争」は、当時の「聖戦論」や、今日的なやや宗教性を帯びながらも政治的な意味合いを持つ、「ジハード」にも、連なるモノではないだろうか。原爆投下に代表される不法行為を一切不問にしつつ、「大きな悪を倒すためには、小さな悪も容認する」というような建前論、「不正な戦争を止めるために、正しい戦争が必要不可欠である」と云う「連合国側から観た正戦論」の依って建つところの論旨、これは、湾岸戦争の時も、「悪の枢軸同盟」という言葉、同様、何処かで、未だに、耳の片隅に残っているような気がしてならない。
「通例の戦争犯罪」を、「不作為の責任」のもとで、犯してしまったのかどうか、「死刑判決」がそれにより、下すことが可能かどうかの決め手となってしまったという皮肉。(東京裁判での量刑が、どのように決められたのか?詳しい経緯は、今日でも、未だ、良く解明・公開されていないのが実情である。) 但し、彼は、作意か不作為かに関わらず、その当然起こるべき結果以外のことについては、誰も広範囲の責任を負わされ得ないとする見解を示している。フランス本国でのヴィシー政権の誕生とは真逆な手つかずであった海外植民地でのドゴール自由フランスによるレジスタンス活動、戦勝国の一員としての複雑な事情、戦時中のインドシナにおけるフランスの日本軍に対する当時のヴィシー政権下での協力とその後の捕虜虐殺問題、等々、ベルナールは、自らの海外植民地での体験から、本国での閣僚や指揮官という立場にいる者と戦場の最前線で任務を遂行する者との間に常に横たわる隔たり、即ち、必ずしも本国の思い通りには働くとは限らない「植民地の指揮命令系統」といったものをよりよく、認識していた嫌いがあろうことは否定できないであろう。戦争自体の不可避性を否定しない姿勢の背景には、カトリックの信仰や自然法だけではなく、こういう自身の植民地帝国での一法官吏としての実体験やプルードンの戦争論の影響もあったのかも知れないと。
とりわけ、多数派の判事達が主張した満州事変を基点とする所謂、「日中戦争15年戦争論」に対して、満州事変から盧溝橋事件までの少なくとも4年間は、中国側も停戦協定が合法的に結ばれていたと主張するに及んだ。日本も中国も、互いに、戦争状態という体裁を好まなかったと、従って、同じグループによる所謂、「共同謀議」なるものも、持たれ続けられた筈もないと主張した。更には、日本の満州に於ける数々の利権は、明らかに正式な条約によって与えられたもので、改めて、そのことを多数派判事達にも主張した。
これに沿って、日本が満州の地を「生命線」と見なしたことは、何らの不法性も無く、その防衛のためにしばしば起こされた紛争・騒動は当然の権利として起訴されるに値しないと述べると共に、擁護もしたのである。
今日、こうした議論は、「アジア諸国との歴史認識」の新たな議論の展開と相俟って、必ずしも、妥当なものであるとは、云えなくはないが、我々は、常に、今日の尺度だけから、物事を推し量ってはいけないのかも知れない。歴史的に観ても、幕末列強からの不平等条約の締結・改定から、日韓併合までも、当時の時代背景と帝国主義のバランス・オブ・パワーの観点から、それが妥当かどうかは、別にしても、現実的な史実を直視し、考察し直さなければならないのであろうことを教えてくれているのではないだろうか。直裁的な額面通りの解釈は、若干、無理あるのかも知れない。それらを差し引いても、興味深い論拠であること、また、そうした主張・弁護が展開されたという事実こそが、この東京裁判の公判の中にあったことを初めて知ったことは、意義深いものである。
「張作霖殺害事件」の「リットン調査団」の証拠集めにも、或いは、後の「満州事変」に収斂される前年の「中村大尉殺害事件」にも言及しながら、確たる証拠のないことを理由に、日本軍による計画的な謀略であると断定することに抵抗したのである。従って、「共同謀議」という考え方の適用にも批判し認めなかったのも、注目に値するであろう。
彼は、著者が云うように、何処かで、心の底に、満州国の新国家建設という壮大な実験を、自身の海外植民地体験と重ね合わせていたのかも知れないし、実際、日本にとっての満州との関係性が、自身の母国・本国と一法務官吏として任官した植民地の関係と、「某かの同じような共通の関連性」を、心の片隅に、見出していたのかも知れない。
東京裁判での「予審の欠如」の問題について、これは、一度も、開廷されることもなく、被告に不利益を被らせてしまったという後悔とそれ故の裁判の不当性と関係するであろうか。被告の弁護に役立てられる資料を事前に収集出来なかったこと、或いは、証拠の入手を辞めさせようとした圧力の事実をも批判した。もっとも、英米法の下で、マッカーサーからの一行政命令で、英米法に準拠して裁判が開廷された以上、そもそも、初めから、「大陸法の下での予審制度」なるものが、導入されるはずもなかったのであろうが、、、、、、。又、法律家であれば、重々、その意味も理解していたであろうことは、推量するに難くはない。
「天皇の戦争責任」についても、異彩を放っていた。必ずしも、それは、フランスという国家が、国家としての公式な見解を述べたものとは、言いがたいが、、、、、、、。緊迫し始めた当時の「米ソ冷戦」、朝鮮半島の抜き差しならぬ情勢という戦後間もない国際政治環境の微妙な変化を前にして、連合国側でも、とりわけ、東京裁判での「天皇の戦争責任問題」は、極めて、センシティブな課題であったことであろう。もっとも、戦争責任は明らかに追求されるべきものであり、訴追されるべきであったと言及したものの、最終的には、その非訴追は、連合国側の最善の利益のためであったとも結んでいる。
この裁判自体が、対象とする事件から関係する被告人が選ばれるのではなくて、「初めから、被告人の名前ありきであった」として、天皇一人が裁かれなかったことは、ひとえに、「法の不平等」であり、遺憾であったとしたものである。又、被告達は、「主犯格の共犯者」に過ぎず、「主犯者が、訴追を免れている」とまで終始主張し、裁判の根源的姿勢を批判した。更には、真珠湾攻撃は、紛れもなく、天皇の勅許の下で、進められたもの以外の何ものでないともした。総勢11人の判事達の中で、唯一、天皇訴追を最後まで、峻厳な姿勢で示し続けたベルナールは、パルのそれのようには、日本人にとっては、溜飲の下がるものとは必ずしも認識されていなかったのであるかも知れない。この点こそが、恐らく、歴史的評価が、当時の日本人には、到底、受け容れがたいものがあったのやも知れない。
「原爆投下への批判」、自然法に準拠する人間にとっては、普遍的な人間に対する原爆の投下は、他に類をみないほどの犯罪であり、日本の戦争が侵略戦争にみえても、その責任を追及することは、理不尽なことであると考えるに至った。
既に、時代は、「法実証主義の時代」であり、自然法的な倫理的、宗教的要素は複雑化して、法と道徳・規範、法と宗教などが理論的に峻別されるようになってからも、未だ、充分な時間が経過していないのは、事実であろう。むしろ、「生命倫理」の問題や、「領土問題」や「歴史認識」、「海洋覇権」、「大陸棚の解釈と主張」の問題など、今日的な問題が、容赦なく、惹起されて来つつあるのが、今日の状況であるが、皮肉にも、法実証主義だけでは解決できない様々な厄介な難題が萌芽し始めているのが、現状であることは、間違いなさそうである。
「温故知新」ではないが、「戦後史の暗黒部分」は、まだまだ、資料が充分解明されていないところが多く、この著作でも、主張されている如く、確かに、これまでは、インド判事、パルによる東京裁判の日本人被告達への弁護論が、反西洋帝国主義の観点から、植民地帝国主義の楔からの解放に寄与したとする論拠にも、利用されているとは謂わないまでも、理論的な根拠を与えてしまったことは、確かに、否めないかも知れない。その点、この著作の中で、様々な観点から、今日的喫緊の課題を再提起されていることは、おおいに、評価されてよいと考えます。とりわけ、60余年前に遡って、当時の緊迫する国際情勢、とりわけ、占領軍による政治的な圧力の下、純粋自然法理論学的な立場から、正々堂々と、少数意見を陳述したことは、刮目に値するものであろう。とりわけ、「天皇の戦争責任」、「共同謀議」、「(侵略)戦争の発端時期」、「戦争そのものの有する合法性と非合法性」、或いは、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」、「原爆投下への批判」、「予審の欠如」、「通例の戦争犯罪」、「不作為の責任」、等々、考えてみれば、旧ユーゴスラビア紛争での民族浄化に対する戦争裁判とか、イラク戦争裁判とか、今日に至るも、戦争裁判の報道には、枚挙の暇もないのは事実である。本書を読み進める上での教訓とは、(決して、歴史認識の再解釈とか、改竄とは謂わぬまでも)、事実に即した正当な解釈とは、如何にして行われなければならないのか、中国での「南方週末」の「報道・言論の自由」問題ではないが、改めて、個々人が、どのように、事実・史実と正面から向き合い、歴史と対峙していったら良いのか、そして、その一歩一歩の歩みが、結局、現代史を形創っていくことになることに、改めて、目を向けなければならないと、読後、感じる次第であります。その意味で、「無罪論」に、余りに、重点をおいて期待しながら読んでいると、やや、ガッカリさせられることは、初めから、保証しておきましょう。
東日本大震災が起きた直後に、当時のフランス大統領のサルコジは、原発大国であるフランスの国益を代表するかのように、何処の他国にも先立って、来日を果たしたことは、つとに、有名である。とりわけ、国営企業の汚染水処理のアレヴァによる原発事故への支援は、今でも、記憶に新しい。もっとも、それは、米国による日米軍事同盟の進化と政治的な思惑を伴って、震災と原発事故の発生と同時に、即時的に、実施されたオペレーション、「トモダチ」とも、何処かで、共通する胡散くさい臭いがしないわけではないが、、、、。
しかしながら、フランスという国は、明治維新の時も、したたかに、幕府側に、軍事顧問団を派遣しながらも、維新後も、様々な分野で、法曹分野などで、その存在感を、示し続けることに成功したし、最近では、イラク戦争開始時点でも、その大量破壊兵器の存在への疑義から、多国籍軍によるフセイン政権への武力行使に、ギリギリまで、反対し続けたことも忘れてはならないであろう。(本稿を書いていたら、マリヘ、武力介入したらしいと)
フランスという国は、自国の存続のためには、何者にも依存すべきではなく、どのような外圧にも服するべきではないという独立自尊のスタンスの表れに他ならない。同調すれども同盟せずという言葉に代表される如く、常に国益を守る一方で、ここぞと謂うときには必ず、大義や理念を前面に掲げ、外に向けて発信しないと気が済まない国なのかも知れない。別の意味で、孤高のドゴール主義者なのであろうか?
第二次大戦中、及び、戦後の歴史に関しては、どうも、我々の子供時代にも、或いは、今日でも、未だ、その歴史観が、充分と検証されている訳ではないだろう、とりわけ、歴史教育の中では、やや、タブー視されてきた嫌いが無きにしも非ずの観が禁じ得ない。ある人々によれば、それは、占領軍と日教組により影響を受けた「自虐史観」以外の無いものでもないと、とりわけ、我々のような戦後間もなく教育をうけたところの「団塊の世代」は、その影響下に、著しくあると、謂われてきているが、、、、、、。とりわけ、今日、日韓、日中間での歴史認識に関しては、「天皇の戦争責任」、「慰安婦・朝鮮人強制連行」問題、「侵略戦争」という戦争責任・戦争犯罪、米国による原爆投下や東京大空襲によるによる無垢の「民間人の大量殺戮」、南京事件などの「戦争犯罪」、或いは、戦時捕虜兵への虐待、ソ連による「シベリヤ抑留問題」、「満州国」の法的位置、「仏印への進駐」と武装解除、等々、暗黒の「東京裁判」での「平和への犯罪行為」や、「共同謀議」といった内容を、今日的に、この著作は、改めて、フランス人判事の主張を通じて、考え直すものである。
もっとも、従前の歴史観を覆すために、或いは、その自虐史観からの修正を期待するものであれば、間違いなく、読中・読後、ガッカリさせられることは、間違いないであろう。むしろ、刻々と変化し続ける状況に即応できるように、自律的に正しく、考察し、判断を下そうとする精神活動を重視しようとする思いこそが、このフランス人判事ベルナールからのメッセージを学ぼうとする著者の向かわんとするところであるかも知れないだろう。決して、インドの判事パルのような論理からの日本側被告達への弁護や援護ではなさそうである。そのことを、事前に、確認してから、本著作を読まなければ、間違いなく、ガッカリさせられることになろう。
まずは、その人となりから、読み解いてゆくことにしよう。
奇しくも、私は、1948年12月の生まれであるが、まさに、その月には、東条英機等の処刑が行われるも、その3日前に、ベルナール判事は、3年近くに及ぶ日本滞在を終えて、離日し、フランスへ帰国し、終生、二度と、日本の土を踏むことがなかったことになる訳である。司祭になるべく通っていた神学校を辞め、第一次大戦の戦火に身を置き、その後、母国の司法官となり、終生カトリックへの盲目的な信仰の中にしか生きられなかった一方で、共産主義者で離婚歴のある女性を娶った男、過激なプルードン主義、無政府主義の思想にも感化された男、一官吏として、フランス海外植民地帝国主義を支えながらも、容赦なく母国の入植者をも断罪し、獄へと送った男、自由フランスに与し、ナチの傀儡、ヴィシー政権から死刑判決を宣告された男、アングロ・サクソンの多数派をなす判事達に最期まで楯を突き、全ての日本人被告達の死刑判決に反対し、その反対判決書で、異論を残し東京を離れた男、天皇の戦争責任問題について、真っ向から刃向かった男、等、人となりとしては、要約すると、こんなところであろうか。生涯に亘り、カトリックの刷り込みから抜け出すことが出来ずにその教義の桎梏の下で、東京裁判の判断を行ったと断じるには、著者の主張の如く、少々、短絡過ぎるのかも知れない。
もっとも、アフリカやアジアでの本格的な植民地経営に乗り出す中での伝道は勿論、文化的な指導に当たったのも「カトリック宣教師達」に他ならなったし、野蛮で無知な先住・原住民達にその言語や文明・習慣を捨てさせ、欧州文明を施して、同化させてやることこそが、フランス人の恩恵に満ち足りた仕事であり、責務であると合理化したことは否定できないであろう。パリ万国博の歴史も、当時のメディアは、盛んに、そのように宣伝流布されていたのであろう。日本の植民地統治(創氏・改名など)も又、然りであるし、アメリカ先住民族から、フロンティア精神で、結果的に、土地を収奪していったのも、又、歴史的に、然りであろう。緯度が三度ほども変われば、こちら側とあちら側では、法というものは、全く、異なるものであること、又、人類に妥当するはずの国際法と言えども、制定した側に力さえあればその支配から免れ得ることは、重々、彼自身も熟知していたはずである。彼にとっては、東京裁判での被告を裁くことができる制定法は、何処を探しても、この世には見当たらないと感じていたはずである。
フランスという国は、今日の米国に勝とも劣らぬ位、言語も文化も、世界標準であるという確信、普遍主義が大きく働いているが、このフランス人判事については驚くほど、その実像が知られていないのが実情であろう。「日本無罪論」で人口に広く膾炙しているインド代表判事のパルだけが、脚光を浴びているのが、実体であろうか?しかしながら、ベルナールによれば、そのパルは、「二つの過ち」を犯していると、ひとつは、侵略戦争を犯罪とする法を持っていないとする見方は不正確であると言う点、もう一つは、戦争責任を個人にも問うことが出来るという視点が欠落していると言う点で、、、、、、、。インドのパルが、非植民地化された国の反西洋帝国主義の観点から、多くを語り、平和に対する罪は事後法だとする実質的な実定法主義のスタンスをとり、オランダの判事、レーリンクのものと同様、自然法の観点から議論し、判断を下そうとするベルナールの姿勢とは、根本から、相容れないものがあったのであろう。
ドイツの「ニュールンベルグ戦犯裁判」とは異なり、「東京裁判」では、無罪と認められた者は一人もいなかったし、ベルナール等の少数意見書は、最期まで、法廷で読み上げられることも無かったのである。当初から、少数意見が生じても公表はしないという取り決めが、事前に、交わされていたようである。確かに、英米法のコモン・ローを適用する国々とは異なり、フランスのような大陸法系の国々には、少数意見を残す習慣はなかったことは事実であろう。それにも関わらず、このフラン人判事は、日本人被告に対して「公正」を期すために、自らの判決意見書を残そうとしたことは特筆に値しよう。「正義」を明確に留め置きたいとの意思の表れであって、他のパルなどの少数派の判事の論拠とは異なるのも事実であろう。連合国と謂うよりもむしろ、戦勝国側による「文明の裁き論」に基づく「東京裁判史観」、確かに、インドのパルは、反西洋帝国主義者であり、フィリピンのハラニーニャは、「バターン死の行進」の生存者の一人であるし、オーストラリアのウェッブは、ニューギニアの日本軍による残虐行為に関する調査の報告書をあげた経歴があるのも事実である。
東京裁判を拘束するニュールンベルグ裁判の成立のプロセス、実際、処罰する為に設けられた様々な規定が、後に、東京裁判にも適用されることになる。「通例の戦争犯罪」に加えて、新たに二つの罪:「平和に対する罪」、「人道に対する罪」、これらは、半ば、既成事実化していた訳である。軍事裁判憲章が、ニュールンベルグでは、長期の議論の中で、制定されたのに対して、東京では、マッカーサーによる行政命令として短期間で、決められていたのも事実であろう。ベルナールは、その点、「裁判所憲章」を実体法そのものと完全には見なしていない。
それでは、一体、どこに、「正義」を置こうとしたのか?
「忌避申し立て」と「管轄権動議」、そして、「侵略戦争」は、不法なモノではなく、「パリ不戦条約は、戦争そのものを犯罪としていない」と同時に、「戦争は国家の行為である」から「国家の一員として行動した個人には国際法上の何らの責任は生じ得ない」という論陣、個人の責任を追及出来るのかどうか、
アングロ・サクソン系の侵略戦争を国際法上の犯罪、有罪性とする解釈に対する法概念上の対立、ベルナールによる「普遍の法」としての「自然法」の中にこそ、「正義」が置かれるべきであるとする根本的な理念に対する考え方、これが、カトリック的な神の掟の普遍性と結合して中世神学的自然法理論が構築されたのであろうか。
「法実証主義、実定主義」の悪法もまた法という主張と真っ向から対立する純粋法学。
明文化されていない「自然法」が、実体法として優位を持ち、これに従って、判断を下すべきとしたのだろうか。そして、国家を超越する、「より大きな枠組みの中に存在する法」に侵略戦争を裁く根拠を求めた。侵略戦争の有罪性は、成文法があろうがなかろうが、普遍的な良心の結果である不文法、「自然法」の中にこそ、置かれるべきであるとした。
プロテスタント系の判事達は、実定法主義の立場から、「東京裁判憲章」は、軍法としての拘束力を有し、今次の侵略戦争は犯罪性を有すると結論づけられたのである。
彼の見解では、「正義は、連合国にあるのではない」としながらも、史上二度目の戦犯裁判、それ自身が開かれること自体までをも、否定するモノではなかった。
フランス(ベルナール)でも、オーストラリア(ウェッブ)、インド(パル)でも、判事の選考それ自身が、二転三転したことは、紛れもなく、事実であったと、本来、彼は、サイゴンでのBC級戦犯裁判のインドシナ法廷を、実際、予定されていたそうである。
「不正で犯罪である戦争もあれば、正義で合法の戦争もある」と云う、所謂、「正戦論論争」は、当時の「聖戦論」や、今日的なやや宗教性を帯びながらも政治的な意味合いを持つ、「ジハード」にも、連なるモノではないだろうか。原爆投下に代表される不法行為を一切不問にしつつ、「大きな悪を倒すためには、小さな悪も容認する」というような建前論、「不正な戦争を止めるために、正しい戦争が必要不可欠である」と云う「連合国側から観た正戦論」の依って建つところの論旨、これは、湾岸戦争の時も、「悪の枢軸同盟」という言葉、同様、何処かで、未だに、耳の片隅に残っているような気がしてならない。
「通例の戦争犯罪」を、「不作為の責任」のもとで、犯してしまったのかどうか、「死刑判決」がそれにより、下すことが可能かどうかの決め手となってしまったという皮肉。(東京裁判での量刑が、どのように決められたのか?詳しい経緯は、今日でも、未だ、良く解明・公開されていないのが実情である。) 但し、彼は、作意か不作為かに関わらず、その当然起こるべき結果以外のことについては、誰も広範囲の責任を負わされ得ないとする見解を示している。フランス本国でのヴィシー政権の誕生とは真逆な手つかずであった海外植民地でのドゴール自由フランスによるレジスタンス活動、戦勝国の一員としての複雑な事情、戦時中のインドシナにおけるフランスの日本軍に対する当時のヴィシー政権下での協力とその後の捕虜虐殺問題、等々、ベルナールは、自らの海外植民地での体験から、本国での閣僚や指揮官という立場にいる者と戦場の最前線で任務を遂行する者との間に常に横たわる隔たり、即ち、必ずしも本国の思い通りには働くとは限らない「植民地の指揮命令系統」といったものをよりよく、認識していた嫌いがあろうことは否定できないであろう。戦争自体の不可避性を否定しない姿勢の背景には、カトリックの信仰や自然法だけではなく、こういう自身の植民地帝国での一法官吏としての実体験やプルードンの戦争論の影響もあったのかも知れないと。
とりわけ、多数派の判事達が主張した満州事変を基点とする所謂、「日中戦争15年戦争論」に対して、満州事変から盧溝橋事件までの少なくとも4年間は、中国側も停戦協定が合法的に結ばれていたと主張するに及んだ。日本も中国も、互いに、戦争状態という体裁を好まなかったと、従って、同じグループによる所謂、「共同謀議」なるものも、持たれ続けられた筈もないと主張した。更には、日本の満州に於ける数々の利権は、明らかに正式な条約によって与えられたもので、改めて、そのことを多数派判事達にも主張した。
これに沿って、日本が満州の地を「生命線」と見なしたことは、何らの不法性も無く、その防衛のためにしばしば起こされた紛争・騒動は当然の権利として起訴されるに値しないと述べると共に、擁護もしたのである。
今日、こうした議論は、「アジア諸国との歴史認識」の新たな議論の展開と相俟って、必ずしも、妥当なものであるとは、云えなくはないが、我々は、常に、今日の尺度だけから、物事を推し量ってはいけないのかも知れない。歴史的に観ても、幕末列強からの不平等条約の締結・改定から、日韓併合までも、当時の時代背景と帝国主義のバランス・オブ・パワーの観点から、それが妥当かどうかは、別にしても、現実的な史実を直視し、考察し直さなければならないのであろうことを教えてくれているのではないだろうか。直裁的な額面通りの解釈は、若干、無理あるのかも知れない。それらを差し引いても、興味深い論拠であること、また、そうした主張・弁護が展開されたという事実こそが、この東京裁判の公判の中にあったことを初めて知ったことは、意義深いものである。
「張作霖殺害事件」の「リットン調査団」の証拠集めにも、或いは、後の「満州事変」に収斂される前年の「中村大尉殺害事件」にも言及しながら、確たる証拠のないことを理由に、日本軍による計画的な謀略であると断定することに抵抗したのである。従って、「共同謀議」という考え方の適用にも批判し認めなかったのも、注目に値するであろう。
彼は、著者が云うように、何処かで、心の底に、満州国の新国家建設という壮大な実験を、自身の海外植民地体験と重ね合わせていたのかも知れないし、実際、日本にとっての満州との関係性が、自身の母国・本国と一法務官吏として任官した植民地の関係と、「某かの同じような共通の関連性」を、心の片隅に、見出していたのかも知れない。
東京裁判での「予審の欠如」の問題について、これは、一度も、開廷されることもなく、被告に不利益を被らせてしまったという後悔とそれ故の裁判の不当性と関係するであろうか。被告の弁護に役立てられる資料を事前に収集出来なかったこと、或いは、証拠の入手を辞めさせようとした圧力の事実をも批判した。もっとも、英米法の下で、マッカーサーからの一行政命令で、英米法に準拠して裁判が開廷された以上、そもそも、初めから、「大陸法の下での予審制度」なるものが、導入されるはずもなかったのであろうが、、、、、、。又、法律家であれば、重々、その意味も理解していたであろうことは、推量するに難くはない。
「天皇の戦争責任」についても、異彩を放っていた。必ずしも、それは、フランスという国家が、国家としての公式な見解を述べたものとは、言いがたいが、、、、、、、。緊迫し始めた当時の「米ソ冷戦」、朝鮮半島の抜き差しならぬ情勢という戦後間もない国際政治環境の微妙な変化を前にして、連合国側でも、とりわけ、東京裁判での「天皇の戦争責任問題」は、極めて、センシティブな課題であったことであろう。もっとも、戦争責任は明らかに追求されるべきものであり、訴追されるべきであったと言及したものの、最終的には、その非訴追は、連合国側の最善の利益のためであったとも結んでいる。
この裁判自体が、対象とする事件から関係する被告人が選ばれるのではなくて、「初めから、被告人の名前ありきであった」として、天皇一人が裁かれなかったことは、ひとえに、「法の不平等」であり、遺憾であったとしたものである。又、被告達は、「主犯格の共犯者」に過ぎず、「主犯者が、訴追を免れている」とまで終始主張し、裁判の根源的姿勢を批判した。更には、真珠湾攻撃は、紛れもなく、天皇の勅許の下で、進められたもの以外の何ものでないともした。総勢11人の判事達の中で、唯一、天皇訴追を最後まで、峻厳な姿勢で示し続けたベルナールは、パルのそれのようには、日本人にとっては、溜飲の下がるものとは必ずしも認識されていなかったのであるかも知れない。この点こそが、恐らく、歴史的評価が、当時の日本人には、到底、受け容れがたいものがあったのやも知れない。
「原爆投下への批判」、自然法に準拠する人間にとっては、普遍的な人間に対する原爆の投下は、他に類をみないほどの犯罪であり、日本の戦争が侵略戦争にみえても、その責任を追及することは、理不尽なことであると考えるに至った。
既に、時代は、「法実証主義の時代」であり、自然法的な倫理的、宗教的要素は複雑化して、法と道徳・規範、法と宗教などが理論的に峻別されるようになってからも、未だ、充分な時間が経過していないのは、事実であろう。むしろ、「生命倫理」の問題や、「領土問題」や「歴史認識」、「海洋覇権」、「大陸棚の解釈と主張」の問題など、今日的な問題が、容赦なく、惹起されて来つつあるのが、今日の状況であるが、皮肉にも、法実証主義だけでは解決できない様々な厄介な難題が萌芽し始めているのが、現状であることは、間違いなさそうである。
「温故知新」ではないが、「戦後史の暗黒部分」は、まだまだ、資料が充分解明されていないところが多く、この著作でも、主張されている如く、確かに、これまでは、インド判事、パルによる東京裁判の日本人被告達への弁護論が、反西洋帝国主義の観点から、植民地帝国主義の楔からの解放に寄与したとする論拠にも、利用されているとは謂わないまでも、理論的な根拠を与えてしまったことは、確かに、否めないかも知れない。その点、この著作の中で、様々な観点から、今日的喫緊の課題を再提起されていることは、おおいに、評価されてよいと考えます。とりわけ、60余年前に遡って、当時の緊迫する国際情勢、とりわけ、占領軍による政治的な圧力の下、純粋自然法理論学的な立場から、正々堂々と、少数意見を陳述したことは、刮目に値するものであろう。とりわけ、「天皇の戦争責任」、「共同謀議」、「(侵略)戦争の発端時期」、「戦争そのものの有する合法性と非合法性」、或いは、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」、「原爆投下への批判」、「予審の欠如」、「通例の戦争犯罪」、「不作為の責任」、等々、考えてみれば、旧ユーゴスラビア紛争での民族浄化に対する戦争裁判とか、イラク戦争裁判とか、今日に至るも、戦争裁判の報道には、枚挙の暇もないのは事実である。本書を読み進める上での教訓とは、(決して、歴史認識の再解釈とか、改竄とは謂わぬまでも)、事実に即した正当な解釈とは、如何にして行われなければならないのか、中国での「南方週末」の「報道・言論の自由」問題ではないが、改めて、個々人が、どのように、事実・史実と正面から向き合い、歴史と対峙していったら良いのか、そして、その一歩一歩の歩みが、結局、現代史を形創っていくことになることに、改めて、目を向けなければならないと、読後、感じる次第であります。その意味で、「無罪論」に、余りに、重点をおいて期待しながら読んでいると、やや、ガッカリさせられることは、初めから、保証しておきましょう。