小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

マツコ・デラックスの「五時に夢中」(言葉のチカラ)を視る:

2013年01月18日 | 社会戯評
マツコ・デラックスの「五時に夢中」(言葉のチカラ)を視る:
去年の2月20日の「五時に夢中」という番組のYou Tubeを、何人かの友人達が、最近、FBに引用していたので、偶然、視ることになった。何と、コラムニストであるそうであり、「小泉進次郎の言葉のチカラ」と題する夕刊フジの記事を、痛烈に、批判していたものである。「血反吐が出るほど、大嫌いである」そうである。なかなか、その「言葉のチカラ」に関するその論拠が、実に、面白いし、宜しいではないか。こちらの方が、フジからの圧力は大丈夫かとも心配するくらいの毒舌と謂うよりも正論、快哉と叫びたる代物である。まれに、夜遅くなったときに、「有吉・マツコの怒り新党」を視ることがあるが、なかなか、その毒舌の視点に面白いものがある。必ずしも、毒舌であるとは、思えないものもあるが、今や、テレビは、権力者と真っ向から、対峙する論客がいなくなってしまったようである。むしろ、タケシやマツコのように、毒舌というオブラートでしか、或いは、茶化すことでしか、反権力の狼煙を上げるしか出来なくなってしまったのだろうか?言霊の意味も分からぬような芸能人紛いのハーフや帰国子女上がりの局アナや、インタビューでも、逆キレされて、謝ったり、反論もせずにいるようなアナウンサーやアイドル出身のキャスターであったり、今や、中立・公正という無味無臭の報道の名の下に、どんどん、組織防衛中心主義の事勿れ主義やジャーナリズム・報道の質の劣化が、始まってはいないだろうか?緩やかなソフト・ファシズムは、まるで、「茹で蛙」の譬えと同じように、我々の意識の中に、「耳心地の良い言葉」と「切れの良い、分かりやすい言辞」で、知らぬ間に、しみ込んできて、何となく漫然と視ている内に、自由を失うような危機的な状況に、陥ってしまうかも知れない。オレオレ詐欺ばかりでなく、こうした心理的なメカニズムに対抗する為には、どのように、騙されない、より強い意思と鋭い鷹のような目と耳を持って、視ていけばよいのであろうか?それにしても、ネットで、視れなかったテレビの番組を、巻き戻しのように、視れるようになるとは、なかなか、テレビにとっては、手強い存在であろう。野坂昭如や若松孝二や大島渚だったら、どのように、コメントするであろうか?