小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、「Life of Pi」虎と漂流した227日を観る:

2013年01月30日 | 映画・テレビ批評
映画、「Life of Pi」虎と漂流した227日を観る:
「東京物語」と、「東ベルリンから来た女」のどれを観るかを迷った末に、結局、この映画を3Dで、観たが、観る前に、もう少し、下調べをした上で観た方が、もっと、愉しめたかも知れない。というのも、後から、色々と各シーンを想い起こすと、様々な制作者の意図が、伏線として、隠されていて、見終わった後から、成る程、そうだったのかという思いを抱いたからである。主人公が、インド人ということから、我々の世代は、小さな頃から、マハトマ・ガンジーの非暴力主義的抵抗とか、ネルーの「父から娘への手紙」に、幼い頃から、友好の証しに、贈呈された象のインディラ(愛嬢から由来した命名)にも、喝采したものである。この映画の制作者達とは、別に、インドに対して、何とはなしに、その哲学的な、或いは、思索的な、更に云えば、宗教的な世界観、宇宙観というものを、やや神秘性も含めて、感じられて仕方ない。マリアナ海溝から、太平洋を、メキシコまで、虎と一緒に、漂流した物語などと、侮って観ると、多少ガッカリしてしまいそうな内容である。そもそも、227日というこの数字自体からして、主人公の少年が、自ら命名したニックネームを表しているそうである。(22を7で割れば、3.14……πである。)旧フランス領東インドの首都だった南仏を彷彿とさせるような美しいポンディシェリという街で、動物園を経営する父と植物学者の母の間に、次男として生まれるが、その父は、フランスの美しい水泳プールの名前から、Piscinと命名したにも関わらず、それは、Piss(小便)と誤解され、「穢れ」を意味することに混同、揶揄されて、学校でイジメの恰好の標的になってしまう。しかしながら、天性の知恵で、この少年は、これを、円周率のπ(インド人は、数学が好きである)に、変えることにより、克服してゆく。やがて、成長するにつれて、ヒンドゥー教、キリスト教、そして、イスラム教、更には、ユダヤ教と、様々な宗教を学んでゆく。キリスト教の洗礼を受ける決心をするが、それでも、自然の創造主という神々(ここでは、複数形とする)を自身の中で、共存させてゆく。ヒンデゥー教の神々、とりわけ、動物に形を変えた神の概念、猿の神など、これらは、後に、様々な伏線ともなる。
この主人公の少年は、1954年のインドへの返還に伴い、カナダへ、家族全員で、移民しようと、その動物たちと一緒に、日本船籍の貨物船で、太平洋を横断する途中で、嵐の中で、遭難し、怪我をしたシマウマ、ハイエナ、オランウータン、そして、リチャード・パーカーと書類の手違いで、命名されたというベンガル・タイガー、そして、パイ少年、、、、、、。
航海中の船内でのベジタリアン料理を巡るコックと母との「肉食」に対する言い争いや、仏教徒との議論、それは、その登場人物が、そっくりそのまま、ボートに乗り移ってきた動物達を、暗示していることが、「後から、初めて分かる」のである。成る程、そこには、「肉食」という一種、「穢れ」に似たような概念と、ベジタリアン(非肉食)という「Sacred」な概念の対比を、観ることが出来なくもない。又、それが、何気なく隠されているとも思われる、主人公が淡い恋を感じる美少女の踊り子がとるヒンドゥー教の踊りに出てくる「蓮の花」のポーズ、確かに、これも、仏教的な観点からすれば、汚泥の中にこそ咲くという蓮の花、即ち、穢れた世界の中に、清らかな花を咲かせる蓮の花、そういう「宇宙観」が、何処かに、現されているのかも知れない。踊りの先生が言う「大地の息吹を脚で、しっかりと感じ取って、神々に感謝して踊りなさい」と、これも、宇宙観であろう。少年が、モスリム寺院で学んだメッカに向いて、頭を大地に擦りつける仕草にも、同様に、大地を通じて、神のの偉大さを感じる物であるとも、言わしめているのは、興味深い、又、この動物たちの移送というのも、考え方によっては、「ノアの箱船」の譬えかも知れない。一つには、貨物船の名前、TMIMYZUMは、ユダヤ教秘法典のバカラから来るであろう所の「ノアの箱船」とも謂われている。そういう「無限の生命観」、「宇宙観」、「食物に関する哲学」、「様々な宗教観」が、どうも、画面の背景には、各層、各レイヤー毎に、その深層には、潜んでいるような気がしてならない。それは、とりわけ、美しい満天の星の下で、虎と一緒に、見上げた空や、夕陽や、朝日の美しさや、巨大な鯨が、勇躍する姿や、鮪に追われて飛ぶように逃げ惑うトビウオの群れに遭遇するシーンや夜行性クラゲの群れの中を進む中で、海中から、ボートを見上げたり、水面を下から、見上げたり、或いは、空(宇宙)から、逆に、大海に漂うボートを映しだしたりと、まるで、「宇宙と海と(ヒトとトラ)」とが、一体化しているような美しい3D映像である。更には、嵐の中での雷や、神の啓示を暗示するような天の光とか、たとえ、それらが、デジタルSFXや、高度なCG と実写合成技術を駆使して創られた映像であったとしても、決して、それでもって、作品自体の「美しい自然」の映像美の評価は、貶められることはないであろう。況んや、それが、画面に登場してくるベンガル・タイガーをやである。それにしても、どのように、こんな迫真の美しい映像を撮れるのであろうか?
元々、この原作は、1837年に発表されたエドガー・ア・ランポーによる「ゴードン・ピムの物語」という小説をベースに、その後に実際に起こった様々な漂流事件の生存事例を、反映させたものであると、回想形式で、物語が語られ、進められるので、当然、主人公が助かることは、初めから分かっているが、ベンガル虎は、一体どうなるのであろうか?それは、映画を観て貰わないといけませんネ。夜になると、昼間の天国のような光景とは、一変して、肉食植物が棲むという南?の孤島で、見つけた植物の実の中にあった「歯」も、まるで、前述した蓮の花を連想させるようなもので、或いは、仏舎利に納められた仏の骨か、歯のような感じですらある。そして、その後、嵐から生還し、メキシコの海岸に、たどり着いたときに、痩せこけた虎の腰骨は、何とも、痛々しかったが、何故、後ろから、撮影し、決して、その顔を映すことを敢えてしなかったのであろうか?生還したというhappy endingと「永遠の別離」という二律背反的な映画の終わり方は、観るものにとって、評価が、別れるところであるかも知れない。それを差し引いても、この映画が有する「宇宙観」と「世界観」は、印度という「神秘性」の中で、その主人公と虎という神聖な動物 (ライオンではなくて、虎なのである。) を通じて、動物愛や家族愛だけでなくて、充分、訴えるだけのモノがあるように、感じられよう。小学生や中学生になる子供達と一緒に、観賞してみたら、とても、面白いと思われよう。
最後に、一言、この映画に出てくる日本からやってきた保険会社の事故調査報告書を作成する日本人とのインタビューは、相変わらず、皮肉的に、扱われていて、どうも、日本人としては、何やら、憤懣やるかたなく、消化不良である。世界から、日本人が、こんな風に描かれたら、どう思われるかと、考えると、少々、寒気がしてくる。同じように、仏教徒の描き方も、どうやら、印度から観た大乗仏教からの見方なのであろうか?それは、考えすぎだろうか?本場仕込みのベジタリアン・印度カレーを食べてみたくなったのは、どうした訳であろうか?