小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

統計数字という厄介なもの:

2015年05月06日 | 社会戯評
統計数字という厄介なもの:
昔はというよりも、今もそうかも知れないが、本を読むときは、眼光紙背に徹すとか、数字を読むときは、その数字の背後に潜むモノを読み解けとか、良く言われたものである。最近の統計数字では、どうも、攻める方も守る方も、一方的な自分の都合の良い数字ばかりをあげつらって、議論するものであるから、一向に、議論が噛み合わない。官製春闘で、一部に、賃上げが浸透しても、一部の大企業だけで、なかなか、地方都市やら、中小企業へと拡がりをみせない。まだまだ、時間が掛かるのであろうか?ましてや、期待されるほどには、個人消費に力強い勢いが見られないのは、どうしたことであろうか?統計上の数字というモノも、一体、いつの頃からの実態経済の数字を補足しているのであろうか?私は、どうも、昔の較べてみて、産業構造の変革が激しく、行われている割には、労働統計上の数字というモノは、本当に、実態を反映している数字なのかと、かねがね、疑問に感じている。ましてや、労働組合に至っては、一部の大企業の組合、しかも、正社員ばかりを追いかけていて、非正規やパート労働者の実態を反映したような動きは、極めて、そのスローガンの割には、極めて、鈍い。上場株式会社の変遷に較べて、労働統計上の実態というモノは、どうも、労働者に即したような数字が、反映されていないような気がしてならない。人手不足ならば、単純に、賃上げでもしない限り、人手を補うことは出来ないのであろうが、実際には、高齢者や女性のパートやらの短時間労働者の活用で、若年層の雇用が必ずしも、ミスマッチから、解放されることがない。常に、弱者が、更なる弱者という二重構造の中で、或いは、多層的な構造の中で、犠牲を強いられてしまうのが、現実なのであろうか?日本の経済学者は、ピケティーのように、膨大な統計資料の中から、もっと、新しい理論を生み出すような人財が出てこないのは、何故なのであろうか?このままの現状でよいのであろうか?