小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

耳、濯ぐ:ギャラリーれがろ、10周年記念チャリティー・コンサート

2015年05月18日 | イベント 祭 催し
耳、濯ぐ:ギャラリーれがろ、10周年記念チャリティー・コンサート
文化的な事業で、メシを喰うと云うことは、さぞかし大変なことであろう。しかも、画廊となれば、尚更のことであろう。長期間に亘る不況とデフレの波の中で、よく、開業以来、10年もの長きに亘って、経営してきたものである。しかも、別に、親の代からの家業を継いだモノでもなければ、それ専業の世界に、身を置いて、修行してきたわけではないのに、大変な苦労をしてきたことであろう。小諸懐古園でのさくらさくライブと生憎、重なってしまったが、幼なじみのこちらが、先約だったから、こちらを優先せざるを得なかった。それにしても、入場料のうち、ワンコイン分を、ワールド・ビジョン・ジャパンに寄附するというチャリティー・コンサートとはいうものの、その音楽性の内容としては、充分、観客を満足させるに足りうる内容である。とりわけ、これまで、CDなどでも、あまり、聴いたことのない所謂、オペラを、事前の丁寧なプロによる説明・解説を聴きながら、生で、味わうということは、なかなか、楽しいことである。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バスによる男女混合や単独で歌いあげる様には、耳の鼓膜の奧底まで、その振動で、振るわされ、まるで、耳垢がその震えで、落ちてしまうかの如くである。「耳濯ぐ」ということは、きっと、こういうことを指しているのではないだろうかとも、実感してしまう。分かりやすい説明と解説が事前にあったせいだろうか、とんと理解出来ないイタリア語も、何とはなしに、あらすじが、理解出来たような気がして、おおいに、愉しめました。それにしても、各歌手のプロフィールをみてみると、成る程、芸術には、お金がかかるものであることが、改めて、理解出来る。ことほど左様に、芸術・文化というモノは、演じる側も、それを観る側も、どうやら、そうしたことをしっかりと、理解しうる共通項が、互いにないと、どこかで、デフレの安かろう悪かろうというスパイラルに、陥ってしまうのかも知れない。たまには、しっかりと、良いモノを観たり、聴いたりしないと、眼も耳も肥えないのかもしれないし、芸術を理解・支援するパトロンには、なり得ないのかも知れない。少しは、耳の垢も、一時、落ちたような気がするのは、大いなる錯覚であろうか?