小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

絵本、「虔十公園林」を読む:

2015年08月31日 | 書評・絵本
絵本、「虔十公園林」を読む:
作、宮沢賢治、絵、末吉陽子、(株) budori企画・発行による絵本である。年に、数冊は、絵本を読むことがある。それは、歯医者の待合室であったり、書店での立ち読みであったり、話題になっている絵本だったり、難しい哲学書を読んでいる間の骨休めだったり、実に、様々である。今回は、小諸の茶房、読書の森で、末吉陽子氏の原画展をやっているときに、既に、見知ってはいた絵本を求められたものである。子供向けと言うよりも、むしろ、賢治の世界観が、大人にも、独特の絵のタッチと共に、じわりじわりと、読中、読後に、心に迫ってくるものがあろう、そういった類の絵本というよりも、軽い哲学書でもあろうか?
日本人は、昨今、余りにも、時代の変遷が早くて、何でもかんでも、短いスパンでしか、物事を考えられなくなり、個人的にも、40有余年も携わってきたビジネスの世界では、もはや、4半期毎でしか、物事の結果を判断すらできない有様であるが、中国人は、昔は、30年先の単位で事をなすと言われている。もっとも、最近の中国では、そうとも言えない位、拝金主義と刹那主義とが、隆盛であろう事は、誰しもが認めることであろうが、それ程までに、30年や50年、況んや、100年単位で物事を考えるということをやであろうか?そう考えていれば、東京の明治神宮の杜も、昔は、全くの野っ原で、これを50年・100年・200年単位で、計画的に、植林をして、下草、野草、花々、広葉樹林、針葉樹林などの生態系更新を自然のサイクルの中で、おこなったことが何かのテレビのドキュメンタリーで報じられていたが、まさに、世代を超えた生きる生態系の継承なのかも知れない。主人公である「虔十」少年は、少々、知恵遅れで、おまけに、年若くして、植林した自分の杉の林が、大きな林に生長するのを見届けることなく、病死してしまう。まるで、そこには、生前から意図して、杜を育てようとする強い意思が、はかなく、敗れ去ってゆくのに対して、仏の御心は、まるで、「十力」と言う言葉に具現化されたような仏性としての主人公の人間性の優しさが、滲み出てくる結果、大きな杉林に育ってゆくことに導いていったのかも知れない。子供達、否、私達は、今日、先人を思う心、「井戸を掘った人」を忘れることなく、想い起こす必要があろう!?それは、まるで、下草を刈らなければ、樹は育たない、又、下枝を適度に払うことで、生長を促し、そして、それが、また、人々の生活へ、薪としての恵みを施し、治水にも役立ち、今日的に言えば、CO2を削減し、環境に優しく、エコ・リサイクルにも寄与するという、杉花粉病などという厄介なモノではなくて、樹木を育てると言うことは、「人間の心」をも、そして、人そのものをも、世代を超えて、育てることになるのかも知れないということが、改めて、認識されよう。その意味で、知恵遅れというこの主人公は、改めて、この絵本の中でも、又、賢治の心の中でも、同時に、重要な位置づけになっているのかもしれない。社長の有村正一が、後記で、語るように、賢治の理想とする人物像にまで、到達するのかも知れない。確かに、「雨ニモマケズ」にも、結びには、「ミンナニ、デクノボーと呼ばれ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、ソウイウモノニ、私はなりたい」と、、、、、、、。
絵本というものは、ストーリーも、重要であることは言を俟たないが、とりわけ、言葉と共に、絵やその平面の絵に表現される空間というか、そこから、「想像される立体的な空間」こそが、そして、そのマッチングこそが、「絵」を、「絵本」たらしめる所以なのかも知れない。そして、この絵には、どうやら、絵の空の部分や、土の部分に、何と、自然な樹の木目というか、年輪のようなものが、透けて見えてくるのである。説明によれば、これは、電熱ペンで、樹の版を焦がしながら絵を描くというウッド・バーニングと呼ばれる技法であるそうで、これにより、天然の木目が絵に、深みを与えることになり、この虔十公園林そのものも、まるで、本物のように、平面の絵から、浮き立ってくるように思われる。本書は又、日本語・英語・エスペラント語の対訳版付き絵本でもあり、言語を異なる人にも、理解出来るようなコスモポリタンの対応がなされていて、これも、何か、賢治の目指す童話の世界観と配慮をさりげなく、著しているような気がしてならない。子供だけでなくして、充分、大人にも愉しめる一冊であることは間違いなかろう。小諸のこの松林も、もう何年経つのであろうか?緑の林に囲まれたベランダで、絵本を一時、読み、その絵を愉しむということは、何とはなしに、この上ない至福の時のような気がしてならない。今後とも、絵と本とを繋ぐ酔い作品を世に出版して貰いたいものである。